第三十五話 「データ照合」

 キュンッと弧を描き、ハイキックの動作で跳ね上がった長い脚が、その先端を3メートル以上の高度から振り下ろす。

 ガィンッと音を立てて脛が火花を散らし、分厚い黒剣を盾にして受け止めたシロクマが、勢いに押しやられ、踏ん張った足を

ザリリリリッと後退させる。

「イージーイージー!」

 シロクマが鼓舞するように声を上げた。正直機械人形への苦手意識はまだ残っているが、しかし単なる強がりだけではない。

相楽工房長お手製のガントレットは、盾代わりにした剣を押さえる左手を、激突で生じた痺れるような衝撃から保護している。

 アルのために造られたという意味では、愛用の得物「鬼包丁」と同様。

(堪えられるのか!?それに、何だあのオバケ刀…!?)

 一つ目小僧と向き合い、牽制の反撃を入れながらパグが目を剥く。

 シロクマは足長が間断なく繰り出す蹴りの連携を、すぐには崩れる様子も押し込まれる様子も無く、ある程度の安定性をもっ

て捌き切っている。余裕があるとは言えず、ギリギリ凌いでいる状態だが、それが可能な時点で四等潜霧士とはとても思えない

技量である。

 さらには、その得物である黒い大刀の強度も異常。刀身の腹で受けても折れないどころか、真っ向から斬り払う格好で弾いて

も刃が欠けない。

 相楽工房長入魂の一振り、養母ダリアがアルに贈ったそれは、足長の猛攻を受け止め続けてなお破損の兆しを全く見せない。

 腕利きの潜霧士でも可能な限り交戦を避けたがる足長の、猛撃を受け止め続けるアル。その後ろから、巨体を目隠しにした少

年がステップアウト、鋭角にステップインし、一瞬の隙を突いて黒刀を一閃したが、足長の後退の方が早い。切っ先が引っ込ん

でゆく踵を浅く捕らえただけで、装甲表面に深さ1ミリにも満たない傷を残すに留まる。

(足長も手長も、手足がそのまま武器って…。所長もそうだけど…!)

(蹴りが危険生物のハサミとかと一緒なんスよね!チメイテキ!)

 長物や刀剣とは違う、関節の可動域を活かして軌道を自在に変えて来る足長の攻撃は、非常に厄介だった。パピヨンが援護射

撃で足長の行動を妨害しなければ、体勢を立て直す間も無く攻め続けられて、防戦一方になる所である。

 その一方で…。

「まず一機!」

 アサルトライフルの下部がそのまま曲刀になっているような、文字通りの銃剣を、一つ目小僧の懐に飛び込んだピットブルが

胴の継ぎ目に突き刺し、上体を大きく振る勢いを付けて切り裂く。

 突き刺しからの薙ぎ払いで胴の半分を断たれた一つ目小僧は、既に割られていたバイザーの中で、センサーの発光を消した。

 三人一組で速攻殲滅。月乞いのメンバーは手練れ揃いな上に、戦闘連携が卓越している。一つ目小僧であれば一対一で倒せる

者も中には居るが、彼らの優れている点は、「決してその一点に無理をさせない」事。

 有効戦力を活かし、負担を軽減し、何より速やかに鎮圧する事で被害も消耗も抑えられる…。この小規模班による狩猟メソッ

ドは、先代字伏当主が広めた物。南エリアにおいて何よりも貴重な戦力は「ひとの命」その物。命と言う損耗は補填できない事

を、ジョウヤとテンドウの父はよく理解していた。

「二機目!頼む!」

「任せろ!」

 ボルトアクション式のライフルで徹甲弾を撃ち込み、一つ目小僧の首を正確に射貫いて頭部を吹き飛ばしたラブラドールが叫

ぶと、先程まで一身に一つ目小僧達を引きつけていたパグが、息を切らせながらも鬱憤を晴らすように駆け込んで跳躍。全身を

弓なりに反らし、渾身の力でメイスを叩き込む。

 頭部を失った首の損傷個所に、メイスの強固な突起がめり込んで、内部機器を衝撃と圧迫で破砕し、機能停止させる。

「修正な。そっち、三機目だから」

 着地したパグに、ホワイトシェパードが告げる。パグより僅かに早く一つ目小僧を仕留めた男は、片手に手斧、片手にピッケ

ル、とどめ担当要員である。そこへ…、

「気を抜くな!」

 パグが叫び、ホワイトシェパードは視界の隅に、自分が見ている光景とは違う物を見た。

 ホワイトシェパードをやや離れた位置から捉えた視界。その左端から、ホワイトシェパードの後頭部に伸びる一条の…。

 ハッと振り向くホワイトシェパード。目前に迫っていたのは、遠近法を過剰に利かせたように本体から離れて迫った、機械仕

掛けの手。

 間一髪でホワイトシェパードが首を捩じったのと同時に、甲高い金属音が響き渡る。

 それまで静観していたかに見えた手長の、唐突な奇襲。しかしその攻撃はホワイトシェパードの頭部を破砕するには至らず、

頬毛を一房吹き飛ばすに留まった。

「助かった!」

「なんの。今度ラーメン一杯」

 青褪めたホワイトシェパードに、横合いから飛び込んで手長の腕をアッパーカットで殴り上げ、軌道を逸らしたシベリアンハ

スキーが、地面を転がってスムーズに立ち上がりながら、何でも無かったように応じる。ちゃっかり飯の奢りを催促しながら。

 その両腕はゴツい金属板が重ねられたガントレットに覆われ、ブーツも金属板で何重にも補強されている。機械人形との格闘

戦を前提にした、正気を疑うような武装のハスキーは、「しかし凄いモンだよ、ホント」と感心して呟いた。

「ああ、全くだ…!」

 構え直して手長を睨んだホワイトシェパードも唸る。

「「視覚情報のマルチサポート」…。俵一家の精鋭に数え上げられたのも納得だ…!」

 チラリと目を向けた先には、大型の作業機に乗った狸の姿。

 タケミとアルだけでなく、月乞いのメンバー全員がヘイジにマーキングされており、その視座からの戦闘状況を異能によって

共有されている。

 「下らへん異能や」と本人は言うが、スタンダード・チープは集団戦においての有用性が非常に高い。特に混戦状態にあって

全員の死角をカバーできる点は、攻勢守勢どちらにもプラスに働く。

 自分の視野情報のみならず、戦場を俯瞰する視座からのサポート映像を送られる事で、月乞いのメンバーは持ち前の連携レベ

ルを一段上げ、誰が狙われて誰が好機なのかが把握できるようになっていた。勿論、映像を受信する側にも割り込み情報を即座

に分析、判断する事が求められるが、月乞いの一流ダイバー達は見事に順応している。

 もっとも…。

(久々やから、十人強同時のインタラプトはキッツいわ…!)

 偏頭痛を覚えながら、狸は視野処理による援護を行なっていた。スタンダード・チープの発動条件…3メートル以内に入った

任意対象をマーキングするという点には、上限が存在しない。半径3メートル範囲にギュウギュウになるまでひとを押し込んで

も、その全員を異能の対象にできる。

 が、あくまでもその後の異能使用についてはヘイジの脳が行なう事。全員に自分の視覚情報をそのまま見せるだけ、あるいは

視野を奪うなど、単純な物であればそれほどでもないのだが、受信する側の邪魔にならないよう送信映像に加工や制限を施した

り、必要ない者の視野には表示させないようにオーダーメイドで編集したりする事については、ヘイジ自身の負担になる。

 言わばそれは、複数のモニターを監視しながらリアルタイムで動画加工をしつつ、必要な所にだけ適した加工を施した映像を

ライブで送信するような物。単純にマルチタスクと表現できない並列処理能力が必要になる。加えて…。

「ほな、ワイらも混ざるで!」

 鋼の重作業機が唸りを上げる。

 足長にマークされているタケミとアルの元へ、ヘイジが駆るボイジャー2が乱入。

 アルが弾いた蹴りが不規則な軌道で曲がって戻るそこを、爪を閉じたハサミが強襲。反応した足長が脚を折るようにして引き

戻したのと入れ替わりに、巨大な破城槌のようにボイジャー2のメインアームが地面に突き刺さり、土塊を飛ばして抉り穿つ。

 流石に無視できなかったのか、足長の脚部が標的を変え、ボイジャー2のアーム関節を狙って唸ったが、

「おかわりや!」

 狸がレバーをガシンと力一杯引き、その勢いが伝わったかのようにボイジャー2の左アームが、先の一撃よりも速く突き出さ

れた。分厚く頑強で重々しいクロー部分は、狙われた右アームの関節をカバーしつつ、足長の蹴りを音高く弾いてそのバランス

を崩させる。

 そしてそのタイミングが判っていたように、黒と白が粉塵を裂いて左右から足長に肉薄した。

 タケミとアルにはヘイジの視野…ボイジャー2のセンサーが拾う画像まで表示されたゴーグル内のビジョンが送信されている。

土砂が目隠しになった状況から、仕掛けるタイミングも自分達の位置関係も判った上で、普通ならば好機にもならない僅かな隙

を捉えて挟み撃ちに動いた。

 右のクローの影から少年が迫る。その逆サイドから土煙を押し退けてシロクマが突進する。タイミングは完璧。コンマ一秒の

のずれも無い理想の同時挟撃。蹴り足を弾かれて体勢を崩していた足長は、初めて二人に得意距離内側への侵入を許した。

 一閃。豪風纏う大刀が、大上段から振り下ろされる。察知した足長は、しかし完全な回避は間に合わない。

 避け損ねた足長の背中側から、ひとでいう右肩甲骨の辺りを、装甲を削ぎ落すように鬼包丁が破壊した。

 その装甲版が一枚吹っ飛んだ瞬間には、正面側から斬り込んだ少年が低い姿勢から繰り出す、両手持ちの逆袈裟斬り上げが続

いている。

(「何も難しい理屈ではない」…)

 河馬の刀利きから教わった言葉を胸の内で反芻し、

(「斬るべき物を斬るように」…っ!)

 タケミはスーツの筋力サポートまで活用し、屈んだ状態に近い低い姿勢から、地を蹴る力、伸び上がる力、振り抜く力を一点

に集約。ジュウゾウからアドバイスされた、日本刀である利を活かす一振りを心掛け、左下からスイングした黒夜叉の刃を切っ

先三寸で足長の胸部装甲に当て、全力で振り切った。

 弧を描いて振り抜かれた黒刀が、まるで空ぶったかのように抜けて…。

(まるで昇り龍や…!)

 勢い余り、跳ね上がりつつ螺旋を描いたタケミの斬撃を眺めながら、ヘイジは兄貴分の背を飾っていた龍の入れ墨を思い出す。

 宙を舞う真珠の光。筋肉質な男性の胸板のように凹凸がある足長の胸部装甲は、その右脇腹から左鎖骨付近までを、削ぎ取っ

たように断ち斬られていた。まるで剃刀が半紙を切るが如く、「さらり」と抵抗なく。

 が、機能停止には至らない。

 外装を胸部と背部で剥がされ、急所である胸部ユニットが露出してはいるが、足長のダメージは行動不能になる程ではない。

しかもタケミ渾身にして入魂の一撃は大振りで、斬りながら跳んだせいで足が地についていない。

(ま、まずい!フォローモーションが…!)

 地を蹴るという、しっかりした足場をフルに活かした斬撃は、人狼化していない状態での真珠銀切断という偉業を成し遂げさ

せたが、一刀で決められなかった事が転じて危機となる。焦るタケミ。損傷を確認したらしき足長のメインセンサーが、一瞬遅

れてタケミに向く。

 目が合った、と少年が感じたその瞬間、彼我の間にバガンと、大きなハサミが割り込んだ。

 ヘイジがクローを開く格好で操作し、ボイジャー2の地面に突き刺さっていた右アームが爪を跳ね上げ、少年に繰り出された

足長の膝蹴りをガゴンと音高く弾く。大人が影にすっぽり隠れられるほどの大鋏が、間一髪で少年の盾となった。

 その間にも、一刀を浅い一発に留められたシロクマは、振り下ろして地面に先端がめり込んだ愛剣を、蹴り上げて浮かせた。

「こっち向いてホイ!」

 こっちを向けと言いたかったところだが、若干ずれた言い回し。両手持ちした腰溜めから、やや上に向けたスイングで腹部の

上を狙う。
そこでアルは気付く。足長のツルンとした後頭部…真珠銀に覆われたそこに、点在するいくつかの光点に。

「もう向いてたっス!」

 思わず声が出た。腰から上を人体とは違う可動域で180度回転させた足長は、両腕を交差させて大刀を防御。こっち向けな

ど言わなければよかったと、ちょっと反省するアル。

 頭部正面のメインセンサーでシロクマを捉えた足長は、上半身を追いかける形で腰を振り、地面から離れた脚が高速旋回して

襲い掛かる。

 何とか一発をいなしたら、今度は続いた蹴りが襲う連携。それも低い跳躍から連続して繰り出される、素早く重い連撃がアル

を逆襲した。が…。

(この動き…、カポエラっスか!?)

 立て続けの二発を大刀を盾にしていなしたシロクマは、ここまでも度々感じていた、足長の動きに対する違和感を強めた。

 アルは世界を飛び回る猟師生活の最中に、現場を共にした同業者から体術や格闘技、戦闘技術について話を聞く機会が多かっ

た。足技で戦う格闘技という事で、漫画やゲームで印象深かったカポエラについても、たまたま習得者と一緒になった事がある。

 アル自身は習得しておらず、真似事もできないが…。

(このコンビネーションは確か…、繋がりがあるって聞いたヤツっス?もしかして…)

 足長の攻撃は長い脚部を効率的に扱うため、様々な格闘技の蹴り技が参考データとして活用されている。よってその攻撃動作

は、人体から逸脱したバランスの蹴りにも関わらず、ひとが積み重ねた創意工夫が応用された物となっている。
アルが部分的に

似ていると感じた分だけでも、空手、テコンドー、システマ、カポエラと多岐に渡っていた。

 そして、ひとの積み重ねた物は、ここでひとに味方した。

 軽く跳ねたような姿勢での二連蹴りから、蹴った反動を活かした滞空。そこから踵で踏みつけるように蹴りが繰り出され…、

「ヤマカン、バンザイ!」

 狙いすましたアルの左手…軋むほどきつく拳を握った真珠銀のガントレットが、ボディアッパーの軌道で真っ向から足長の蹴

りとかち合う。

 弾かれて後退し、たたらを踏むアル。

 空中で反発をもろに食らい、体勢が崩れる足長。

「捕らえたで!」

 そこに、横合いからかっさらうように大型クローが伸びた。

 ボイジャーの左アームのハサミが足長の胴体を挟み、突起がある内側でガッチリ固定。ギリギリと圧をかける大鋏の内側で、

メキッ、パキッ、と足長のボディが悲鳴を上げた。ユージンに注文されたスペックを満たすべく、ヘイジが組み上げて調整した

ボイジャー2のメインアームは、機械人形のボディを挟み込めさえすれば、圧迫破砕が可能なだけの出力を持つ。流石に一瞬で

とは行かないが、数秒単位の時間さえあれば真っ二つに破断する事は充分に可能。

 腕を振り上げ、肘打ちでクローを繰り返し叩き、脱出しようともがく足長だったが、その顔面にトスッと、カバーを割って何

かが突き刺さる。

「大人しゅう果てときぃ。諦めが肝心やで」

 ボイジャーのコックピットから、狸が醒めた顔で告げる。その右手は何かを投擲した格好で軽く上がっているが、それがまる

で別れを告げる挙手にも見えた。

 足長の顔面に突き刺さっていたのは、朱塗りの柄を持つ長ドス…土肥の大親分から返された、名工の手による逸品である。

 全員に視覚インタラプトのサポートを続行しつつ、多脚式作業機を手足のように動かして見せる離れ業。四本の四肢で六本の

足と二本のハサミと一本の尻尾を操るだけでも高難度の操作性だが、その上で異能も継続使用してのける、驚異的な集中力。加

えて、ヘイジ本人も隙あらば直接攻撃に出る。

 神代潜霧捜索所の専属キャリアーは、下らへんという自嘲に反し、実に多彩で器用な人材。単に戦闘に参加するだけでなく、

戦況の流れを有利な方へ導く技能に長けている。

「タケミはん!待ってやる義理もあらへん、とどめと行きましょか!」

「はいっ!」

 ヘイジの声に応じ、ボイジャー2が踏み易い位置と角度にした右のクローを足掛かりにして、タケミが二段飛び。動けない上

に知覚センサーを破壊された足長に肉薄し、アルが落とした背部装甲と、自身が切った胸装甲の間…剥き出しになった部位の主

要ユニットを、黒刀でズッと貫いた。

(装甲はともかく、フレームやら内部構造やったら豆腐みたいに突き通してまうんやなぁ…)

 強靭な合金製の内部構造を、抵抗すら感じさせずにあっさり貫いて破壊したタケミの手並みに、ヘイジもアルも感嘆した。

「残るは手長や!ふたりとも、油断したらアカンで!」

「ラジャー!」

「は、はいっ!」

 戦果に浮かれる事も無く、ヘイジは手長を睨んだ。終始注意を向けていた狸だが、手長は月乞いメンバーの統制が取れた連携

によって抑えられている。

 反撃は行われているが、安全策を取って慎重に立ち回るメンバー達を、手長といえども単体で圧倒する事は流石に難しい。

 気は抜けないが、月乞いならば時間をかけて完封可能。そんな状況なので少年達をわざわざ参加させず、自分だけ加わってふ

たりは下げておこうかと分析しながら、ヘイジは違和感を覚える。

(…今度はアルはんの事、注視してへんか?)

 月乞いの包囲戦に晒されながら、手長の頭部…メインセンサーを備えた顔が、アルを窺っているように思えた。もしかしたら

先程の、足長と交戦している最中もそうだったのかもしれないが、確信は持てない。

 弾丸を弾く。打ち込みをいなす。リーチとスピード、当たればそこの部分が丸ごと吹き飛ぶ両腕の威力をもって、月乞いに深

入りさせないまま、手長はアルを観察し、直前の戦闘データを共有記録内の物と照合し、精査していた。

 照合先のデータは三十八年前の映像。地下での戦闘記録。

 

 

 

 唸る風の音。霧が吹き散らされる前に通過する大質量。

 洞穴を駆け抜け接近する巨躯が、20メートル先に観測された直後、五指を広げた大きく分厚い手がカメラを覆った。前触れ

なく、映像をスキップしたように、接近の手順が飛ばされたかの如く。

 カメラ…頭部を鷲掴みにした手が力任せに機械人形の首を捩じ切り、乱暴に放り捨てた。

 地面に転がった人形の頭部…以下の映像は、破壊されて動力が落ちるまでの短時間に、偶然ソレが捉えた一部始終である。

 霧の中で急制動をかけたのは、北極熊の獣人。

 大きな男である。

 2メートル半はある巨体で、恰幅が良い肥り肉。

 四肢は電柱の下部のように太く、いったいどれほど長時間着の身着のままなのか、素肌に直接羽織るサバイバルベストも、あ

ちこち破れたカーゴパンツも、元の青を基調にしたタイガーパターン迷彩が確認できないほど土と煤で汚れている。だが、スカ

イブルーの瞳に疲労は見えず、全身に生気が漲り、くたびれた様子は微塵も無い。

 追い越した霧が風で寄せられ、急停止した巨漢に後ろから吹き付ける。自分が起こした強風に白い被毛を激しくあおられなが

ら、巨漢は右手を肩越しに背中へ送り、背負った巨大な剣の柄を握る。

 全長2メートル30センチ超、輝く銀の巨大な剣…ではあるのだが、奇妙を通り越して異形の大剣である。

 刀身だけで180センチ、柄は50センチ、身幅は40センチ、刀身の厚みは5センチを超えている。鍔や柄頭などの必要最

小限な物を除いて装飾の類は無く、柄すらも滑り止めのバンドが巻き付けられただけの簡素な物。柄頭などすっぽ抜け防止にさ

えなれば良いと言わんばかりに武骨で、まるでネジ頭のよう。

 だが、異形と言わざるを得ない理由は、武骨で飾り気がないからという点には無い。刀身その物の形状が異様なのである。

 先端は長方形の短辺のように角張って、切っ先が無い。分厚い鉄板をそのまま加工して、長方形の各辺を研いで刃にし、握り

を付けたような形状。切れ味は良くない。斧のように重量と勢いで叩き割るように切るための物である。

 無骨極まるその大剣は、ジオフロントから回収した加工も困難な特殊合金でできている。

 スカイブルーの瞳が見据えるのは、真珠色の外装に覆われた機械人形四体。大隆起前にジオフロント各所で見られた案内や労

働など、多様な職務をこなしていた人形と多少の共通点が見られるものの、それらは既に戦闘用…主にひとを殺すための用途に

特化して改良されていた。

 鞘すらない大剣は、背中に渡したベルトの簡素な固定具から解き放たれ、ブンッと唸りを上げて振られ、まるで重量が無いか

のように正面でビタリと止められる。

 顔の中心が火山の火口のように盛り上がり、その中に赤々と輝く光学センサーが埋め込まれている機械人形達は、片手で大剣

を構えた北極熊へ襲い掛かる。

 ほぼ同時、タイムラグが少ない四体の攻撃に対し、北極熊は慌てる様子も無く対処する。

 僅かな時間差がある一体目には、右手で剣を後ろ斜め上へ振り上げつつ、左拳を引き、無造作に打ち込む。

 その左腕は、グローブを着用している右手とは異なり、肘から先が装甲版で保護されていた。革製の長手袋の上に、地下の機

械から剥ぎ取ったのだろう、素材が異なる複数の金属板を重ねて装着してあるそれは、色もまちまちで、接着や紐での固定と、

統一感が無いパッチワーク。不出来なスケイルメイルのような手作りの防具である。

 だが、重ね合わせた無数の装甲版は複合装甲のガントレットとなっており、腕を保護するだけでなく…。

「1」

 グシャリと潰れた機械人形の頭部が、首からもげて飛んでゆき、ビリヤードの玉のように壁に当たって跳ねまわる。

「2」

 大きく引かれた大剣が、ほとんど時間差が無い二体目の攻撃に合わせ、掴みかかるように伸びた両腕の丁度中間を抜けて、頭

頂部から股間まで一刀両断にする。

「3」

 地面を抉って深々と大剣がめり込んだ所から、北極熊は得物を手放して反時計回りに身を捻る。そして唸りを上げるのは左の

裏拳。三体目の頭部が通過する空間を、待ち構えていたようなタイミングで通過し、バガンと殴り飛ばして原型を留めないほど

に破砕する。

「4」

 身を捻った裏拳の動作から、追いかけるように軽く跳ねた下半身が回る。最後の一体を、先に両断してまだ宙にある二体目の

残骸ごと、複合装甲版で覆われたブーツが薙ぎ払う。

 回し蹴り。ただしそれは機械人形を撫で切りにするように上下に断ち、遅れて衝撃波が発生する…もはや斬撃に等しい音速蹴

りである。

 霧が押しやられるように弾け散り、発生した衝撃波に叩かれた洞穴の壁がビシビシと罅割れ、反響音が彼方まで駆け抜ける。

「よし」

 横一回転して着地、大きな腹をゆさりと揺らして直立状態に戻った北極熊は、地面に刺さったままの大剣を引き抜いて背負い

直す。

 腹が突き出た肥満体と言える見た目ではあるのだが、その体は大出力の筋肉と頑強極まりない骨格から成る。その五体悉くが

隅々まで兵器。膂力も瞬発力も人間の域を遥かに超えた、生きた破壊兵器とも言える北極熊は、破壊した機械人形には目もくれ

ず、残骸を跨ぎ越して奥へ向かい…。

「…またダメだったか…」

 足を止めた北極熊は、半眼になってため息をつく。表情はさほど変わらないが、下がった耳と尻の丸い尾から、内心は少しだ

け窺えた。

 Ⅴ字型に折れた洞穴の細い通路に、四名が、壁に背を預けて足を投げ出し座っていた。

 所々に赤い十字のエンブレムがあしらわれた、オレンジ色の衣類を纏う男達は、バイク乗りが被るようなフルフェイスメット

…ただし背負っているタンクに口元からチューブが繋がった物を装着しており、顔は見えない。

 死んでいるのは一目瞭然だった。

 北極熊が踏み込んだ際に逃げ散って行った、被毛が無いピンク色の変質鼠達が食い荒らしており、あちこち破れた防護服の下

には腐敗しかけの肉と露出した骨が見えている。

 胸ポケットからゴツい無線機を取り出し、巨漢は小さなモニターの表示を確かめる。

 地上では使用が許されない、通信が阻害される霧の中で扱うために電波強度が高い専用通信装置。ただし場当たり的に用意さ

れた物に過ぎず、動作も安定しない代物である。

 バッテリーがそろそろ心許なくなっている事を見て取りながら、北極熊は無線機を顔に近付けた。

「こちらジーク。交戦痕跡を追った先に到着した。結果から言うが生存者はゼロだった」

 北極熊は一緒に潜って来た仲間達に話しかける。

『………こちらミツヨシ。了解した。残念だが仕方がない』

 少しのタイムラグと酷いノイズを伴って、チームリーダーから応答があった。

「フランスのレスキュー隊…を装った諜報部隊は全滅だ。あっちにとってもこっちにとっても、手痛い損害だな。ええ?そっち

はどうだミツヨシさん」

『国籍は不明だが、EU圏ではあろうな。外人さん達が全滅しておる』

「不明…という事は認識票の類も持たされていないという事か。失敗した際には身元が割れないようにする処置…、同時に、失

敗しても引き上げに来る準備も予定も無い」

『うむ。生きて戻らぬ限り、二度と戻らぬ放たれた矢という訳だ』

「こういう時は、あ~…、何と言うんだったかな?その、この国の言葉で。ムナモト、が、ワルイ?」

『胸糞悪い、かな?』

「それだ。まったく持ってムナクソワルイ話だな。ええ?」

『残るポイントにはハヤタが確認に行った、何かを引き摺った痕跡の先に生き残りが居なければ、今回も救助者は無しという事

になる』

「ムダボネ、と言うのだったか。せめて遺品だけでも持ち帰ってやりたいが…」

『そちらは毛髪や身元証明などを回収してくれるか。こちらは受け取り手が現れないだろうが、せめて一部だけでも地上へ連れ

て参ろう』

「今回はここまで、だな。ミツヨシさん、帰りの浄化触媒が足りなくなるだろう?ええ」

『うむ。口惜しいが…』

『ハヤタだぁあああああああああっ!』

 通信に突然加わった三人目が、興奮のあまり酷いだみ声になりながら叫んだ。

『ハヤタ、聞こえている。大声でなくとも構わな…』

『生存者だ!生存者二人めっけだど!怪我人だげっともまだ生きてる!日本人だ!自衛官どレスキュー隊員!』

「!」

 北極熊は軽く眉を上げて驚きの表情を見せると、

「場所は!?」

 ドウッと風唸りを残し、霧を巻き上げて洞穴内を駆け始めた。

 

 

 

 ハスキーが懐に飛び込んで放った、腰を狙うブローで僅かに体勢を崩しつつ、手長はデータに照合したシロクマの顔を、ズー

ムして記録した。

 スカイブルーの瞳。純白の被毛。北極熊の獣人。大型の刀剣を扱い、左腕をガントレットで覆う…。

 そのものではないが共通点は見られる。自分達が記録する最上脅威度に数えられる存在…「龍殺しのジークフリート」に関係

する何か…後継機か簡易量産タイプと判断した手長は、

「あ?」

 銃と一体化したブレードで斬りかかったホワイトシェパードが、手長の防御姿勢と後退を確認して眉根を寄せた。珍しい動作

だが…。

「離脱する気か!?突破口を作らせるな!」

 ピットブルが警戒を促し、ヘイジも慌てて叫ぶ。

「情報を持ち帰らせたらアカン!」

 潜霧士の戦闘記録を持ち帰られてしまうと、情報を共有される上に、それに合わせたバージョンアップが施される事もある。

タケミとアルの戦闘記録を持ち帰られると、いずれ少年達には不利に働く事になる。

 が、手長はダンッと大きく跳躍して後方宙返り。突破に備えてメンバーが密集する様を確認した上で、後ろから殴りかかった

パグの頭上を越える。

「読まれた!?」

 一枚上を行かれて、パグが焦りの声を上げたその瞬間、ダァンッ、と激しい銃声が霧にこだました。

 宙でボディを強打されたように跳躍軌道を変えられ、手長が墜落する。

 その胸部装甲には穴が穿たれ、内部でバチバチとスパークが走っており、センサー部の発光がたちどころに消えてゆく。

 ガジャンッと手長が地面に落ちた音が響く。ハッと一同が振り向き、ヘイジと、人狼化の使用を覚悟して力んでいたタケミも

視線を向けた先で、全長1メートル半もある長大なライフルが、銃口とマズルポートから紫煙を上げていた。

 そこに居たのはパピヨン。そしてアンチマテリアルライフルを握る小柄な犬を後ろから抱えるシロクマ。

「アメージング!すごい反動っス!ビリッと来る…、あ、ちょ、ちょっと癖になるかもっス。デヘソに響きがち…!うひ!」

「支えて貰って助かります。一人で撃つと後ろにスッテンコロンなんですよ、これ。しかし良いお腹ですね。とても上質なクッ

ションです」

 パピヨンがライフルを下ろし、アルと笑い合った。

 ヘイジとボイジャー2が参戦したタイミングで援護を一時中断したパピヨンは、その隙に一度簡易キャンプへ駆けて行ってア

ンチマテリアルライフル…対戦車用から対機械人形用に改造された非正規品を持ち出し、手長に一撃必殺の特殊徹甲弾…「サー

キットブレイカー」をお見舞いした。パピヨンが駆け込んで射撃体勢を整える所へ、意図を察したアルがやり取りも無く支えに

入ったのは、流石の判断と言えた。

 サーキットブレイカーは対機械人形の切り札とも言える品で、撃ち込まれた弾丸が強制停止コードを発し、機能停止に陥れる。

ただし、その材料が問題で大量生産はできず、また材料によって効果の強弱が変わる。

 この弾丸には、機械人形の中枢処理ユニットが使われる。端的に言えば機械人形達の間で存在する上下関係と指令権を利用し

た物で、弾丸に部品を使われた機種よりも下位の機種に撃ち込めば、損傷度合いに関係なく機能を停止させられる。

 パピヨンが用いた弾丸は「ろくろ首」という上位機種の部品から作られており、足長手長や一つ目小僧を強制停止させられる。

その一方で、ろくろ首と同位や、それよりも上位の機種には通用しない。

「虎の子の一発なんですけど、足長手長クラスを仕留めるならまぁまぁ出費に見合うでしょう」

 ホッと息を吐いた一同は、沈黙した機械人形達が再起動しないかしっかり確認し…。

「ちょい待ち。シグナル通信や」

 ヘイジがボイジャー2のコンソールを確認する。

 発信先はジョウヤ、そしてユージン。内容は…。

「負傷者が大勢おるて…。こっちに避難して来るそうですわ!」

「処置準備を急ぎます!でも、医薬品はそれほど…」

 元より物資が不足気味な南エリアである。月乞いが持参している物は、平均基準から言っても乏しい量でしかない。

「何人程度か判るかいムジナさん?」

 ホワイトシェパードは「8足す6や」という狸の返答で「げ」と絶句した。負傷度合いにもよるが、持ち込んだ物資で対処で

きるとは思えない。

「ドクを呼んで来た方が早い!物資も持ち込まなければ…。少し頼むぞ、ゲートに戻る!」

 パグの提案に月乞いメンバーはすぐさま頷いたが、

「ドクって…、お医者さんをここに連れて来るって事っスか!?アブナイみ!アブナイみありがち!」

 アルが疑問を呈し、タケミも「えぇ…?」と不安げな顔。医師を危険だらけの大穴内に連れて来るなど聞いた事もないが…。

「ドクは良いんだ。心配ない」

 ピットブルが少年達に理由を説明する。

「何せあの人は俺達より強いからな」

「…ホワ~イ?」

「えええ…?」

 困惑顔の少年達を他所に、受信機能を上げたボイジャー2の上で、ヘイジは「…何やこれ…」と呟いていた。

「何かあったのか?」

 ホワイトシェパードが機上を見上げると、

「救難信号、また二つ受信したわ。団長はん達と大将が行った先やけど、こらマズいわ…」

 ヘイジの脳裏を過ぎるのは十年前の出来事と、自分が片棒を担いだ機械人形大量発生事件の事。

(まさか、とは思うけどな…)

 あのトランクの使用条件については、ユージンの予想を聞いている。地下と活きたライン…ケーブルなり空調の道なり、霧が

充満していない線で繋がる所から信号を流さなければならない、と。南エリアには地下直通のルートも多く、そういった条件に

合う物も探せば苦労せず見つかるだろうが…。

(ワイも大将も注意しとった。条件に合致しそうな場所は洗い出しとる。ここらは確実に違うんや…。それに、故障機の探索と

は動きが違う。信号を辿って探しに来たんやないて事は、一つ目小僧以外も混じった編成を見れば明らかや。明確な目的を持っ

て現地視察に上がって来た機械群…。それが、一隊や二隊で済まへんて事は…)

 狸は嫌な汗をかいた顎下を手の甲で拭う。

「…ここら一帯…、広域展開して調査しとるんか…?」

 呟いたヘイジの目が、モニターが表示した新たな救難信号を映した。

 

 

 

 かくして貴重物品回収作業のはずのダイブは、予想だにしなかった、救援要請入り混じる機械人形群との乱闘に発展して行く。

 Dゲートをホームとする南の潜霧士が総力を上げてかからなければならない事態だとジョウヤが判断し、弟を先に単身で戻し

たのは、この十数分後の事であった。

 

 

 

「負傷者には応急処置を施して、トリアージまで済ませておく算段をつけてます!」

 駆けるパグが声を大きくする。その周囲は霧がチューブ状に流動し、先までずっとトンネルのような道が続いているかのよう

にも見えた。

 ダリアのメガブロワーと比べれば規模も出力も大きくないが、パグの異能は彼女と同系統である。

 大気を味方につける異能は非常に利便性が高く、強力な部類に入る。何せ「材料」は周囲にいくらでもあるのだから、精神力

と集中力が続く限りガス欠にはならない。このパグも風圧による移動補助の他、圧縮空気をクッションにする簡易防壁など、多

数の応用を会得している。

 パグ本人と共にその恩恵に預かり、先導する彼の後ろを追走するのは…。

「上々だ、ふぅ!息さえ止めなければ、はぁ!あとは私の仕事だ、ふぅ!」

 加齢のせいでだいぶ体に弛みが出ている中年マヌルネコ。豊かな被毛とついてしまった贅肉を揺らし、軽快に走るパグの後を

風に押されてドスドスと駆けている。実戦から遠ざかって長いせいもあり、大股な走りに合わせて肉付きの良い胸と突き出た腹

が派手に弾んでいた。

「…少し休みますか?」

「冗談を言え、はぁ!患者が待っている、ひぃ!」

 息を乱すマヌルネコは、月乞いや南エリアの潜霧団がよく装着する、迷彩柄の戦闘服とブーツ…安価な軍の払い下げ品を身に

付け、その上に白衣を羽織っている。前も閉めずに羽織った白衣は、左腕上部…腕章などを止めるような位置に、蛇が絡みつい

た赤い十字マークが刺繍されていた。

 マヌルネコはキャンプ道具一式が入る規模のザックを、医療器具や薬品でパンパンにして背負い、持ちきれなかった分はパグ

がしょっている。

「こうなると、ふぅ!作業機の不足が、はぁ!恨めしいな、ひぃ!」

「「ムジナ」が古いのをレストアしてくれていまして、上手く行けば現役復帰できそうですが…」

「今日欲しかった、ひぃ!」

 肥えた体を揺らして苦し気に走る医師は、

「ドク!一つ目小僧です!止まって下さい!」

 パグの警告と同時に、行く手を塞ぐように単眼の機械人形が躍り出る姿を確認した。

「引き受けます。ドクは先にキャンプまで…」

 疾走する動体は標的にされ易い。リスク覚悟で行動していたパグは、命に代えても医師を行かせようと交戦体勢に入り…。

「って、あーっ!」

 自分をドスドスと追い抜いて行く医師の背中を見て悲鳴を上げた。

 霧の中を跳躍して襲い掛かる機械人形。軽やかで鋭い跳躍に対し、ドタドタとうるさい歩調のマヌルネコは、すぅ~っと深く

息を吸い込むなり、それまで乱れていた呼吸を鎮める。

 弧を描く銀光に次いで、ガッ…と、固い音が響いた。

 宙をクルクルと回りながら舞った一つ目小僧の頭部が、土埃を被って苔むしたかつての消火栓にガインッと当たり、湿った砂

地に転がって轍を残す。

 首を刎ねられた一つ目小僧の胴体は、その切断面から手持ち花火のように眩い火花を吐き散らしながら、跳躍の勢いそのまま

に胴体着陸する。

 不機嫌そうに鼻穴からフシューッと息を漏らしたマヌルネコは、その右手に湾曲した大ぶりな刃物…ククリナイフを握り、左

手には峰側に櫛状の長い鋸刃を持つ短剣…ソードブレイカーを逆手持ちしている。いつ抜いたのかも判らない早業だが、白衣の

裾が翻って一瞬見えた両太腿に、それぞれの鞘が装着されていた。

「往診の邪魔だ。バラして点滴台にしてやろうか?」

 パチパチと瞬きするパグ。マヌルネコが引退したのはずっと前なので、流石に多少は衰えただろうと思い込んでいたが…。

(いや全然…。現役で行けるんじゃないのかこのひと…?)

 一つ目小僧の首をククリナイフで容易く刎ね、ソードブレイカーを断面から突き刺し、峰側の鋸刃で主要回路をズタズタに切

断しながら動力コアを破壊する…。飛びかかって来た機械人形の腕を最小限の動きで回避して、すれ違いざまに実行された一連

の動作は、瞬き一つの間に完了しており、パグの眼でもかろうじて把握できるほどの速度。腕力も速度も技量も精密性も一級品

である。

 元二等潜霧士、毒島衛(ぶすじままもる)。通称「ドク」。

 今でこそ人間の住めない場所で医師をしているこの男は、元は特別自衛隊に所属する医官だった。

 退官後に潜霧士となって以降も、特定の所属に落ち着かず、フリーのダイバーとして救助救命に尽力し、潜霧の黎明期を支え

た立役者の一人。この男が居なければ、現在二等三等に至っているベテランダイバーの数は、一割以上少なかったとも言われて

いる。

 歳を取ってスタミナも衰え腕も鈍り、最前線に留まるのも困難になったと本人が判断したのが引退の理由だが、それでもなお、

一流処を軽く凌駕する腕前。南エリア最強の潜霧団である月乞いのメンバーですら、ジョウヤとテンドウを除けば全盛期どころ

か現在のドクに敵わない。

「っぶはぁっ!ともかくだ、はぁ!」

 抑えていた息を再び荒らげ、舌を出して喘ぎながらドクはパグを見遣る。

「風にでも背中を押して貰わんと、ふぅ!走るのがきつい、ひぃ!案内は最後までやって貰う、ふぅ!頼むぞ。本当に、切実に、

ふぅ!ぶはっ!げほっ!」

「りょ、了解です…」

 思わず敬礼で応じたパグは、異能を起動して再びドクを先導し始める。

 そして彼らが到着した時には既に、狛犬兄弟とユージンに救助された負傷者達が、三団体保護されていた。