第三十六話 「救難頻発」
「テンドウ。もう良いんだよ」
巨大な蟹のような危険生物…土蜘蛛の、背甲を叩き割った背中へ二本の手槍で突き刺し、掻きまわすように抉って徹底的に破
壊する少年マラミュートは、ポンと肩を叩かれて手を止め、首を巡らす。
グレートピレニーズの深い赤紫の瞳が、土蜘蛛の体液で汚れた弟の顔を穏やかに見つめる。
右手には全長3メートル近い、両端に刃を備えた異形の薙刀を握っているが、その両端は危険生物を駆除してなお汚れていな
い。神速であるが故に返り血すらつかない、それほどの使い手と名品である。
「もう死んでいるよ」
ジョウヤの声を受け、マラミュートは無言で足元を見下ろし、ピクピクと痙攣しているソレを確認した。
この頃のテンドウには、まだ「死」という物が判らなかった。生き物も機械も区別なく、完全に止まる事で機能停止と判断し
ていた。
「ご苦労様」
「いえ。これしき何でもありません。次の駆除対象の指示を下さい」
機械的に返答する少年に向けられるグレートピレニーズの瞳が、悲哀に曇る。だがテンドウには兄の感情の動きが判らない。
ひとの心が判らない。かつては懐っこく無邪気で素直だったマラミュートは、見る影もなく人間性を失っていた。
当主から幼い次男を預かった字伏郎党は、才覚溢れる逸材と見た少年を、霧を穿ち底に届く矢として鍛え上げた。
遊びたいという欲求を削ぎ落した。
父母や兄を慕う幼心を削ぎ落した。
恋しがり寂しがる子供心を削ぎ落した。
怖れを抱く臆病な心を削ぎ落した。
槍先を鈍らせる惑う心を削ぎ落した。
削いで削いで削いで削いで削いで、落として落として落として落として落として、そうして残った「芯材」に字伏の技が仕込
まれた。
結果として出来上がったのは、己の命を顧みる事すら無くなった「武具」…。命じられれば己を使い潰して使命を遂げる、個
体としての自己への執着を持たない「武器」…。
それは、現当主…ジョウヤとテンドウの父から見ても、「欠陥品」でしかなかった。
「少し先行し過ぎたから、ここで待とうかテンドウ。喉は乾いていないかい?」
「現在、水分補給の必要はありません」
気遣う兄に応じる機械的な弟。実家から無理矢理連れて出て、もう一ヶ月になるというのに、テンドウには変化が見られない。
態度だけでなく、思考形態や価値観にも。
「待たせた」
程なく、低く落ち着いたバリトンボイスに続いて、霧の向こうからゆったりとした足取りで黒い影が歩み寄った。
それは、赤黒い被毛に覆われた、長身で筋肉質な中年の狼。特殊部隊が装備するような、体にフィットし、膝や肘、脛などが
プロテクターで覆われているコンバットスーツを身につけ、右手には1メートル半の十字槍を、左手には1メートルほどの手槍
を、それぞれ無造作にぶら下げている。
精悍な顔立ちに、アメジストのような美しい紫色の瞳が印象的な狼の名は、字伏明良(あざふせあきら)。字伏の現当主であ
る一等潜霧士。
「………」
アキラは無表情な次男を見遣り、それから過剰な攻撃で殺傷した土蜘蛛を見下ろす。
拙い。過剰にして余剰。目に余る傷が獲物に刻まれている。長男であれば無用な破壊を避け、効率よく絶命に至らしめる物も、
次男にかかればこの通り。正直な感想を言えば「使えない」。
狼はつかつかと歩み寄ると、マラミュートの顔を見下ろし、手を上げて…。
ポフンと、頭に乗った軽い感触を、テンドウは目だけ上に向けて追った。
「よくやったテンドウ。それワシワシワシ…」
笑顔の狼に頭を撫でられても、テンドウの表情は変わらない。それを横で見ているジョウヤの方が笑いを堪えている。
「では休憩だ。まだ疲れていないか?だが休憩だ。休める余裕がある時に休むのが理想的休憩だ。これは父親命令であると同時
に団長からのお願いだ。ジョウヤ、シート広げて」
「はい父さん」
「今日の弁当は玉子焼きが入っているそうだ。出汁巻き卵だぞ?母さん奮発したな。テンドウが一緒に潜る日は弁当を作って貰
えるしおかずが豪勢だし、父さんもジョウヤも得してしまうな」
その鮮烈としか言いようがない実績と、眼差し鋭く精悍な美丈夫という見た目にそぐわず、アキラは飄々とした性格で振る舞
いはフランクである。
敷かれたシートにテンドウと並んで座り、仕留めた獲物の解体も後回しにして早めの昼食を楽しむ狼は、素っ気ないほど反応
が薄い次男にあれこれ話しかける。
テンドウは欠陥品である。
己を顧みない者の強さというものを、履き違えて仕込まれた結果がこれだと、笑みを浮かべながらもアキラは考える。
欲求を知らねば生きる事に執着できない。執着が無ければ何も大事にできない。そして大事な物を持ち合わせない者は、生き
る為に足掻く者に及ばない。
己の命を顧みない、「命知らずの強さ」をアキラは知る。子の為に命を張る親、伴侶の為に体を張る雄、そういった者が持ち
得る強さを、この狼は知っている。
だがその強さは、己の命の価値を知る者のみが持つ、覚悟に支えられた物。ハナから死を恐れない者の振る舞いは、この覚悟
とは別の物であるが故に、そこには至れない。
恐怖を知らない者は勇者足りえず、怖れを乗り越える者こそが勇者なのである。
テンドウは勇者足り得ないと、アキラは思う。
「自分が大事に思われている」事も知らないまま…。本家と分家を信じて任せた結果、次男を「このように」されてしまったの
は自分の判断の甘さが原因だと、アキラは悔いている。
テンドウを「取り戻せる」かどうかは判らない。だが父としてどう接するべきかは判っているつもりだった。
目いっぱい可愛がり、目いっぱい大事にし、目いっぱい共に過ごす。それでテンドウが変わらなかったとしても、やるべき事
はこうだと決めた。
アキラは多くのものを愛した。
勘当した長女を愛した。
出来の良い長男を愛した。
欠陥品に作り変えられた次男を愛した。
妻を愛し、仲間を愛し、南エリアを愛し、潜霧士という「ともがら」を愛した。
家の悲願たる霧の解消は、アキラにとっては同時に、愛するものを、大事なものを、損なわないための目標でもあった。
「テンドウ、お父さんの玉子焼き一つあげよう。…ジョウヤにはナイショだ。ジョウヤはちょっとお腹周りの肉が目立ってきた。
ヨナガ叔父さん覚えてるか?お父さんの弟の。うん、このままだとあんな感じの肥った中年になりそうだから…」
「聞こえてるよ、父さん」
「ジョウヤ。お父さん盗み聞きは感心しないぞ」
「同じシートで御飯を食べながら盗み聞きとか言われても困るなぁ…。それはそうと、今度ヨナガ叔父さんが帰国した時に伝え
ますね」
「やめてあげろ。ヨナガはそういうの結構気にするから。体型じゃなくコソコソ噂されているのを気にするから」
そんな調子で父と兄が、賑やかに和やかに食事する間で、テンドウはモソモソと静かに栄養を補給していた。
何も感じない。何も思わない。無駄を削ぎに削がれた少年はそういうモノになっていた。
…のだが…。
(…御父様と御兄様は、何故いつも、このように会話を挟みながら栄養補給をするのだろうか?)
栄養を補給するなら補給するで、それに集中して手早く済ませた方が効率的。にも拘わらず、喫緊の状況に対応するための打
ち合わせでもない会話を、栄養補給と並行して行う。そこに何か深い意味が、理由が、あるのだろうか?
…そんなちょっとした疑問…、自分が削がれた「無駄」や「非効率」への疑問が、少しずつ、少しずつ、何年もかけてテンド
ウを僅かに変えた。
父の想いは、無駄ではなかった。
兄がその後を、引き継いだ。
このしばらく後。アキラは妻と共に、ジオフロントから遺体となって引き上げられた。
死因は、端的に言えば判断の誤りだと言われている。
息子達が仕上がるのを待ち、共に潜霧すればそんな事にならなかった。それが、多くの潜霧士が抱いた彼の死への感想だった。
だがアキラとその妻は、そうするのが効率的だと重々理解していながら、息子達を待たなかった。テンドウの成長を待たず、
自分達に何かあった時の為にジョウヤを残し、行なった潜霧が彼らの最期。霧の底には届かず果てた。
テンドウが自分自身を使い潰してしまう前に、自分達の代で霧の因縁に終止符を打つ。
…そんな、親心からの焦りと責任感が、彼らの死期を早めてしまった。
白く輝く金属が舞う。
砕け、裂け、断たれ、割れて、真珠銀の装甲が。
「一方的じゃないか…」
肉が抉れて出血が続く二の腕の裂傷を押さえ、ラッコが瞠目していた。手長相手に一対一で立ち回るマラミュートの姿を。
音速に迫る速度で突き出される手長の右腕。直突きという拳打に近いが、腕の長さ故に槍のようなリーチを誇るそれを、テン
ドウは残像を貫かせて回避する。あまりの速さに踏み締めた足元で土塊が飛び散り、追い払われるように霧が吹き散らされる。
半歩分の回避からドンと地を踏み締め、腰を入れて掬い上げるように振るわれたハルバードの斧刃が、手長の右腕を腋の下か
ら入って断ち切る。
容易く間合いの内に入り込み、一閃して片腕を奪ったマラミュートの猛攻は続く。長柄物が一振りされるごとに何処かの装甲
が弾け散り、白が基調だった手長の体は、徐々にフレームが露出して黒ずんだ金属色が目立ってきた。
片腕となったらもはや抑え切れない。鋭く突き込まれた穂先を捌こうとした左腕が、手の平から手首まで貫かれると、テンド
ウはカッと目を見開いた。
その意思に呼応して、ハルバードの穂先…槍の部分が分離し、本体との間をワイヤーで繋がれた状態に変化。大きく後ろにハ
ルバードをスイングし、穂先で貫いた手長を引っ張り倒すように横方向へ放る。とんでもない筋力で機械人形を地面へ放り倒す
と、テンドウは得物の長柄を、尾の部分の下で分割。鋭い針のような先端を露出させてグッと振りかぶり、体にパリパリと帯電
する。
マラミュートの前方で、大気がリング状に帯電し、電界が形成された。そこへ渾身の力で投げ込まれた手槍が、手元から離れ
たと思えば消失。間髪おかずに手長の胸を貫き、土砂を柱のように高々と巻き上げ、衝撃波と地震のような振動を周囲に散らす。
視界が晴れた時、そこにはすり鉢状に抉れた地面と、四散した手長の残骸だけが残っていた。
テンドウの異能「デアデビル」は、自身の周囲に電界を作り、様々な用途に使用するという物。今回は得物を投擲する際にリ
ングを誘導コイルとして形成し、投擲する武器を磁場で覆い、レールガンの理屈で電磁加速を与えた。また、先に兄と別行動を
取る際には、この異能で自らを砲弾にして撃ち出すという初速稼ぎを行なっていた。
いわばデアデビルとは、任意対象を砲弾にする、自由度の高いハイパーヴェロシティ能力と言える。
だが、射出対象を覆う磁場は風圧や衝撃波から身を護る程度の働きをするものの、それ以上の防御性能は持たない。先に投擲
した武器は手長の胴体を木っ端微塵に吹き飛ばして、手足や首しか残っていない残骸に変えたが、手槍側もまた影も形も無く吹
き飛んでしまっている。
テンドウが自分自身を射出した場合、減速などは逆向きのコイルを発生させて行なうが、それも音速移動の最中にしなければ
ならない。加減や見極めを見誤れば、音速で障害物に突っ込み、自分が木っ端微塵になってしまう。
この異能で自分を撃ち出す使用方法は、普通の思考で言えば自殺行為。にも拘わらずテンドウは移動手段として恐れもせずに
用いている。
故に、その名を「デアデビル(命知らず)」という。
マラミュートは周囲を見回し、先に不意打ちで仕留めた足長…胸部を電磁加速飛び蹴りで潰した残骸や、バラバラになった一
つ目小僧達が完全に停止している事を見て取り、戦闘行為の終了を確認すると、それから救援要請を出した潜霧団に目を向ける。
意識があるのは若手のラッコと、団長のビーバー。他の四名は息をしているが重傷である。二等潜霧士が率いる六人編成でも、
手長足長が加わった機械人形群を相手取るのは分が悪い。
「兄者は非常事態と考えている。十年前に似た状況だと…。即座に撤収準備を。移動経路は切り拓く」
月乞いがキャンプを張っている座標を教え、淡々と撤退を勧めるテンドウは、見た目こそ感情の波が見えないが、その胸の内
は静かにチリチリしている。
十年前。南エリアもまた大規模流出事故によって多大な被害を受けた。
ジョウヤはその時の負傷で視力を失った。この事をテンドウは重大視している。
胸のチリつきは、ひとらしさが削り取られてしまったテンドウが、それでも感じる「憤懣やるかたない」という思い。
両親に大事にされた。兄に大切にされた。その時間がテンドウの中に、一度は削ぎ落された物を再び芽吹かせた。
普通と比べれば情は薄いだろう。欠落は埋まり切っておらず、常識に疎いままである。それでも、限定的な仲間意識に近い物
が、特定の者への執着が、今のテンドウにはある。
戦力が減るからという戦略上の理由だけでなく、個人的な「認められない」という気持ちで、テンドウは仲間を守り、可能で
あれば他チームを救援する。
優先順位は勿論あり、兄が一番大切で、月乞いのメンバーがその次、それらに次いで他の潜霧団。彼の中には興味と重要度に
よって覚えておくべきかどうかが判定されるため、重要視していない潜霧団の所属者や人数についてはだいぶあやふやな事もあ
るが…。それでも、今のテンドウは仲間意識の範疇にある物を胸に忍ばせている。
大切な物を知り、命は戻らない事を知り、己も例外でない事を知り、それでなお男は己自身を鉾とする事に躊躇いを持たない。
命の価値を知らないのではなく、知った上でなお戦える、真の意味で「デアデビル」となったマラミュートは、
(信号…。道すがらだ、時間はかけない)
分解したハルバード…手斧と穂先だけとなった武器を回収し、霧の中へと駆けてゆく。
「裂傷の患者は止血が終わった順に連れて来い!ゴルァッ!搬送に際しては固定具鉄則!鉄則だ!必ず使え!揺れで出血ぶり返
すだろう!研修で習ったろうが!何等潜霧士だお前らぁっ!」
怪我人の雑な圧迫止血を解いて包帯を巻きなおしてやりながら、マヌルネコが怒鳴る。
道中は息が上がっていたが、現場につけば疲れただの辛いだの弱音は吐かず、背筋も伸びて疲労の欠片すら拝ませない。
治療する者は傷を負った者にとって精神的支柱。指揮官以上に動揺も疲労も見せてはならない。その事を、ドクは自衛官時代
に前任者から叩き込まれた。
「看護資格持ち!誰でもいいふたり来い!指示に従って静脈注射だ!」
貴重品の掘り出し現場になるはずだった大型倉庫脇は、簡易テントが張られて野戦病院の体をなしていた。
月乞いが持参していた仕分け用の作業テントも怪我人収容用にされ、ボイジャー2に積載されていた神代潜霧捜索所の宵越し
用宿泊テントや、避難して来た潜霧団の自前テントなども残らず設置し、それらが並んだ様は小さなキャラバンの野営地のよう。
テント脇には大型作業機…ボイジャー2が鎮座し、大出力の水素エンジンをフル活用して電力供給、さらに大気中から水分を
集めて浄化水を作り。動力源と水源として野戦病院を支えている。
伊豆半島で最も過酷な南エリアでは、負傷者が出るのは日常茶飯事。しかし一時にこれほどの怪我人が出る事は稀である。そ
もそも、地表に居るほとんどの危険生物に後れを取る事がまず無い腕利き揃いなのだから。
全員が獣人なので、テントの密封及び除染の必要はない。入り口を解放したまま向き合わせて建てられているテントの間を、
白衣を羽織ったマヌルネコが忙しく行ったり来たりしながら手当に励む。流石の手際というべきか、重傷者多数にも関わらず、
逼迫した状況に瀕する怪我人は皆無。出血量が際どいラインだった者や、急ぎ傷の縫合をしなければならなかった者も、緊急の
域は抜けている。
ドクから見ればこんなものはまだ地獄ではない。決して気を抜けない状況ではあるが、ここはまだ「戦場」であって「地獄」
ではない。数多の地獄を見つめ続けてきたマヌルネコは、この程度では揺らがないし、命の一つも取りこぼさない。
「生理食塩水にB溶液9:1で混ぜろ!点滴できる奴はベッドの傍から離れるんじゃあないぞ!他の奴が溶液準備だ!3番テン
ト!縫合の施術中は出入口開けたらいかんからな!いいな!私が出るまで外からは開けるな!」
避難して来た潜霧団の中でも、無傷の者やかすり傷程度の者は手当や応急処置の手伝いをしているものの、本格的な治療行為
は技術的な問題でドク一人で担当するしかない。手が足りない中で怒号染みた、しかし的確な指示が引っ切り無しに飛んでいる。
「ドク、見張りに立たせられる者を何人か出してくれ」
月乞いのホワイトシェパードがテントの間を抜けて顔を出し、手当てが終わった者を歩哨に立てたいと述べ…。
「………」
ずいっと、マヌルネコから押し付けるように手渡された物…煮沸が必要な医療器具が入った金属製の洗面器を見下ろす。
「何だこれは?」
ドクは何も言わずに踵を返し、傷口の縫合処置用に手袋を替えながらテントに向かい、
「ドク、これは…」
「手伝えってのが判んねぇのか!?見張りなんぞ最低限で良い!消毒しろ消毒!」
怒鳴られたホワイトシェパードがビクッと耳を倒し、次いでスゴスゴと言われた通りに手伝いに加わり…。
「タケミはん」
テントから少し離れた位置で、ビクビクと、しかし集中力を持続させながら周辺警戒していたタケミは、歩み寄ったヘイジを
振り向く。
「ほい、飴ちゃんやろな。皆から見えへんトコで口に入れとき。長丁場になりかねへんから、ちゃんと水分補給もするんやで?
ああ、アルはんはオッケーや。さっきクッキー齧って水飲んでったわ」
「あ、有り難うございます…」
普段なら休憩のタイミングでヘイジが欠かさずくれる飴を、手に二つ握らされたタケミはテントの方をちらりと窺う。
「あの…、重傷のひとは…」
「ああ、心配いらへんで?深手のモンもドクの見立てやと命に別状あらへんて。手足もげとるような怪我人もおらへんし、不幸
中の幸いや。てか、流石は南のダイバーて言うべきやなぁ…。負傷はしても、致命傷や再起不能になる傷は避けとる。そういう
反射的な動きが染み付いとるんやな」
ホッとした様子で少し肩から力を抜いたタケミを窺い、ヘイジはアルの話を思い出す。
人死にに関してタケミは神経質になっていると、シロクマから何度か聞いていた。一緒に潜霧した護衛対象である女性が死に、
それ以来ずっと引き摺っているようだと…。今も少年が認識票と一緒にして首に吊るしている黒い破片は、その女性が被ってい
たマスクの一部であるという話も一緒に聞かされた。
その一方で、危機的状況などで人狼化し、正気を失っている状態のタケミは、殺す事に関して一切の躊躇が無いとユージンか
らは聞いている。生存本能で動くせいか、取り除くべき障害を無感動に排除するように命を奪う。
その在り様は、奇しくも以前のテンドウにも通じる物があって…。
(優しい子なんや。臆病なほど優しい…、そんな子や。アルはんが心配するんも無理ないわ…)
自分はもう慣れた。死んでゆく者を幾人も看取って、自ら手にかけた者も居る。綺麗な身の上ではとっくにない。
アルは呑気な口調で言っていたが、そうしなければいけないなら殺人も仕方ない、というのは本音だろう。「猟師」は危険生
物を狩る…事になっているが、それを手引きした業者などと遣り合うのは避けられない。訊くのも野暮なので確認しないが、シ
ロクマが海外で狩ってきたのは危険生物だけではないと察している。
(せめてタケミはんだけでも…。なんて、ムシの良い願いなんは判っとるけどなぁ…)
潜霧を続ければ死体などいくらでも見る。同行した者が死ぬ事も普通にある。それでも、タケミには人死にに慣れて欲しくな
いとヘイジは思うのだった。一度慣れてしまったら、もう元には戻れないから…。
「今しがた、月乞いの副団長がこっちに戻って来る途中やて連絡が入ったそうや。道中また二つ負傷した潜霧団救助して、こっ
ちに向かっとる途中らしいんやけど…、怪我人はともかく戦力が増えるんは心強いわ。なんたって一等潜霧士やさかい」
少年の不安を和らげようと、ヘイジが良い話題に触れると…。
「って、またビーコンや!」
狸のゴーグルとタケミのマスクが、同時に救難信号を拾った。視界の隅では周辺警戒に当たっていたパグが「抜けた穴頼む!」
と同僚に言い残して霧の中へ駆けて行った。
「ぼ、ボクも行って来ます!」
「ちょい待ち!」
伸ばしたヘイジの手が空を撫でる。言うが早いか少年は全力疾走に移ってパグを追い始めていた。
「アカンて!足長手長がまだおる可能性が高…」
止める声はまだ通信でも届いていたが、タケミは「ごめんなさい気を付けます!」とだけ応答し、立ち止まらずに霧に消える。
(臆病やのに、何でそんなトコは「似とる」んや!)
ヘイジは昨夜ユージンから聞かされた、内密の話を思い出しながら舌打ちした。
判っている。潜霧士は死と隣り合わせの職業。五体満足で引退できる者は二割にも満たず、生きて引退できるだけで三分の一
の幸運な組に入る。自分は勿論、タケミやアルも今日死ぬか十年後に死ぬか判らない。少年達の選択を否定して霧から上がれと
言う気はなく、その覚悟を尊重してもいるのだが…。
(今日はアカン!今日だけは絶対にアカン!でないとワイ、「何で昨夜の内に」て一生後悔してまう!)
今夜、霧から上がったら提案したい事があった。今日無事に帰れなかったら、自分の判断をきっと生涯悔やむと、ヘイジは確
信している。
(ボイジャーは…、まだダメや!今動かしたら治療に支障が出てまう!)
ヘイジ以外はボイジャー2を操作できない。給電調整が必要になった際に狸が不在では立ち行かなくなる。死者は出ていない
し全員助かるとタケミに言ったのは嘘ではないが、それは治療用の機器類や生命維持装置の類が万全に稼働している現状での話。
ドクの治療行為もこの生命線が前提になっているというのに、ヘイジとボイジャー2がここで欠ける訳には行かない。
「アルはん!タケミはんが救援に行ってもうた!」
『ワッツ!?今の信号にっスか!?ならオレもアイノリ!』
言いたい事が色々あるような声だったシロクマだが判断は早い。即座に追うと決めて位置を確認し、反対側の見張りポジショ
ンからすぐさま移動を開始する。
「悪いけど頼むわ!けど無理は無しで!無しやで!無し寄りの無し!」
『ラジャー!無理が要るようなシチュエーションになったらタケミ引き摺って逃げるっス!』
無鉄砲なようで、アルは機械人形の恐ろしさと戦力を理解している。木乃伊取りが木乃伊になる可能性も高い相手だと。救援
も命あっての物種、いざとなれば要救助者を見殺しにしてでもタケミを連れて離脱する心積もりである。
(大将は離れ過ぎとる…!細かい情報伝達ができるような通信は無理や!周りは見張りと救護要員で手一杯…!あと一手…、腕
利きひとりふたり居ったら話は違うんやけど…!)
何か打つ手は無いかと悩むヘイジの視界の隅を、大刀を背負ったシロクマが駆けて少年達の後を追う。
「頼むでホンマ!無茶はアカン!アカンから!」
念を押されたアルは『ガッテン気味っス!』と応答した。
「「気味」やのうてガチガッテンでよろしゅう!」
『ガチガッテンがち!』
「ウォルフ、君まで付き合う事は無かったのに!」
駆けるパグは、追いついて並走に入った少年へ申し訳なさそうに言った。
「異能もケチるから、自力で走るようになるぞ?」
本当は異能を使用し、追い風で走力を底上げしたい。しかし今日はもうパグは異能を随分酷使しており、精神的な消耗のせい
で微細な制御に衰えが出始めている。異能使用の必要に迫られた時の事を考えると、もう気軽に使う事はできない。
一見すると原動力を抜きに何らかの力を発生させているように見える獣人達の異能は、しかし無制限に使用できる訳ではない。
「思念波」…精神的エネルギーとでも呼ぶべき物がその力の源であり、異能の使用は体力を消耗するように精神を疲弊させる。
異能の種類によってはこの思念波の消耗に加えて肉体に負荷がかかる物もあるし、長時間利用しなければ消耗しない物も存在
するが、どの異能も決して無限に使える物ではない。長丁場では力の温存も重要になって来る。
「て、手伝える事、あるかもですから!」
「それはあるさ。大いにある。だが君はこっちにとっちゃ大手事務所から来ている客分でだなぁ…」
戦力は頼もしいが、危険に付き合わせて心苦しい。そんな心情がパグの顔を歪めさせた。
「あ、あの…。救難信号なんですけど、気になる事が…」
「ああ、発信元だろう?」
駆けながら息も乱さず、不整地に足も取られない少年の走破性能に感心しながら、パグは自分も気になっていた点について考
える。
「豊平丸(ほうへいまる)潜霧団って、さっきも…」
「ああ。俺とバタフライが向かった所だ。とはいえ…」
先に同僚のパピヨンもタケミに説明していた事を、パグは再び整理して少年に伝える。
「助けが必要だったのは救難信号の発信者じゃなかった。別の潜霧団を救援に行った所が、一体取り逃がして信号を発してたん
だよ。今回もそうであって欲しいと願うんだが…。だってトヨッペだし…」
そんなパグの呟きが気になって、「あの…、親しい人、なんですか?」と少年は尋ねる。
「俺が特別親しいって訳じゃない。気さくで誰とでも親しくする人なんだ。あそこの団長は有名なひとでな。南エリアでもトッ
プクラスのダイバーで腕も立つし、何より…」
パグが言葉を切る。後方から呼びかける「タ~ケ~ミ~!」というシロクマの肉声に気付いて。
「アル君!?」
追って来たアルは、少し歩調を緩めたふたりに追いつくと、
「ガチガッテンがちなんで付き合うっス!」
「え?どういう意味?」
意味不明な説明で少年の眉をひそめさせた。
「三人寄ればモンブランのチエっスから!」
「…それ、文珠の知恵だよ?」
「ニホンゴッ!難しいっスよニホンゴッ!そういう所っスよニホンゴォッ!」
「何で怒るの…?それに、日本語はもうだいたい母国語みたいな物じゃない?」
何はともあれ首尾よく追いついたアルが合流した、直後の事だった。三名が甲高い金属音に続いて押し寄せる、銅鑼を打った
ような轟音を耳にしたのは。
「戦闘!近いぞ!」
「ははははいぃっ!」
「オレが前に出るから援護よろしくっス!」
機動性に長けて一撃離脱を得意とするタケミと、巧みなポジショニングとカウンターで複数体の機械人形相手に時間稼ぎがで
きるパグ。この面子なら矢面に立つのは耐久性が高い自分が適任だと、抜刀したシロクマが速度を上げて先頭へ躍り出た。
音が近付く。時折混じる重い音は何だろうかと、不安を膨らませたタケミは…。
「ワッツ?…あっぶな!」
疑問の声に続き、シロクマが急制動を掛けながら大刀を盾にして防御姿勢を取る。慌てて制動をかけたタケミとパグの前で、
前方から高速で飛んできた何かが、アルが構えた鬼包丁に当たって激しい金属音を響かせ、弾かれて跳ね返り立木に激突する。
ゴロリと転げたのは機械人形の頭部。一つ目小僧の単眼が、明滅を繰り返しながら光を弱め、すぐに沈黙した。よく見ると側
頭部が、斧を深々と叩き込まれた木の幹のように陥没している。
「危ないがち!なんスかこれ機械人形の特殊機能!?頭飛ばすファイナルアタック!?頭で狙撃的な意味でヘッドショット!?
シナバモロトモ!?」
「いや普通に首を飛ばされたんだろ!って、とにかく急いで救援だ!」
気を取り直してアルが、二射目に備えて注意しつつも低木や草を踏み散らして突進。ふたりが後に続き、いよいよ轟音と金属
音の出所に辿り着くと…。
「ええい面倒!チマチマ蹴らず、思い切り深く踏み込んで来い!」
肌にビリビリ来る銅鑼を打ったような声に続き、足長の右脚が音高く弾かれて、蹴り足を迎撃された機械人形が地面を滑るよ
うに後退を強いられる。
攻め込んだ足長を、真正面から打ち合って弾き返してのけ、さらに一つ目小僧の飛び込み手刀を斧のような大型武装で受け、
叩き返したのは肥満体の大男…巨漢のセイウチ獣人。身長2メートル20センチはあるだろう、恰幅の良い相撲取りのような体
付きで、歳の頃は三十代半ばから後半あたりと見える。二本の立派な牙が目立つ顔は、いくつもの古傷に彩られていた。
先程飛んできた頭部の出所だろう、セイウチのすぐ傍には首が無い一つ目小僧が、ボディを右肩から左脇腹付近まで断ち割ら
れて転がっている。
セイウチだけではない。ゴマフアザラシにオットセイ、海獣系の獣人達が一つ目小僧を二人掛かりで追いこんでいる。だが、
残る一つ目小僧一体と足長を、セイウチひとりで牽制し、防御主体で迎撃している状況。
巨漢が仁王立ちするその後ろには、跪いたり横たわったりと、立っていられないほど疲労と負傷を重ねた潜霧団。下手に動け
ば機械人形がそちらを優先して殺しにかかるため、セイウチはベタ足で踏み止まり防戦を強いられている。
(足長と一つ目小僧一体…ううん、さっきまではたぶん二体、ひとりで食い止められるなんて…!)
アルに続いて戦場に駆け込むタケミは、驚嘆しながらセイウチの姿を確認し、はたと気付く。
セイウチが握る武器は、意匠化された錨を思わせる独特な形状。錨で言うアーム部分が長く、外側が刃になっているその得物
は、鈍い黒鉄色に輝く斧…それも全長1.5メートル、幅も1メートルはある大仰な代物。両刃の大戦斧の柄を短くし、斧頭部
分をそのまま拡大し、肉抜きして錨の形にしたような得物であった。
袖を捲った戦闘服の前側は、サイズが合っていないのか、胴回りがあり過ぎてジッパーが閉められず、腰の位置で黒革のベル
トで締めている。どことなく祭りの法被の着こなしにも似て見えるが、その内側は大きく異なる。ヘソの上まで大きく開いた胸
元からは、錨のような斧と同じ素材の小さな金属プレートが、鱗のように重ねられた防具…スケイルメイルが覗いている。
(「ブラックドワーフ」でできた武器と、ツヅミヤ製耐爪牙防護重装衣…。じゃあ、このひとが…!?)
真珠銀以上の希少素材。理想的な硬度と展性、耐腐食性を備えながら、あまりにも比重が重いために扱える用途が限られる金
属…それがブラックドワーフ。アルの鬼包丁を形成する合金や、ボイジャー2のクロー部分にも含まれているレアメタルである。
斧は勿論、この素材でできたスケイルメイルの重量は相当な物となる。
それを愛用し、使いこなす怪力のダイバーの名を、タケミも知っていた。
(二等潜霧士、ダイビングコード「打ち潮」…。通称「南一番の力持ち」…!)
「トヨッペ!月乞いの11番羽倉と、熱海の客人ふたり!加勢に入りますよ!」
パグの声に気付いたセイウチがチラリと目を向け、「助かる!それと、二回も済まなんだ!」と応じ…。
(…人間!?)
ダイビングスーツ姿の少年を二度見した。
(そう言えば熱海の大将が来ていたと…。そういえば熱海の大将は若手を指導していると…。そういえばその若手は人間だと…)
飛び込んできた一つ目小僧に、これ幸いとフルスイングで斧を叩き込んで、頭から腰まで容易く圧断してやったセイウチは、
「いやハグラ!オメ何で人間の子供連れで来てんだ!?客だべ客!駄目だべさ!?」
一拍置いて叫んだセイウチは、普段抑えているお郷言葉が暴発するほど焦っていた。
「腕は立ちます!並の三等よりも遥かに!ウォルフ!AAA!足長を!」
パグが指示を飛ばす。シロクマと少年がセイウチと対峙する足長に標的を定める。
だがここで足長は、数が増え、その視線から集中して狙われると分析し、セイウチの後方…動けない者も多数含んだ負傷者達
に標的を定めた。動き回る複数を相手取るよりも、一人抜けば殺せる多数の方が良いという、成果と効率に基いた計算である。
「と、そう来たか!」
セイウチが口の端を上げ、両手で掴んだ戦斧を大きく後ろに引く。前後に広く開いた両足を踏み締め、太い胴体をギリギリと
捩じり上げ、上半身と下半身の向きが正反対になるほど巨体を捻転させ…。
「真っ向勝負ならば、願ったり叶ったり!」
吠えたセイウチが握る斧が、ブゥゥンッと低く、モーターの振動音にも似た物を発して唸り始める。
足長が動く。最短最速、突き穿つような前蹴りは、もはやライフルから放たれる弾丸に等しい速度。
タケミはグッと顔を顰める。身構えているセイウチの分厚い腹が、側面から命中した足長の爪先で肉も内臓も諸共に蹴り破ら
れ、反対側から肉片が吹き出す様を想像して。
だが、少年の恐怖と想像は現実の物にはならなかった。
太い体躯全てを極太のバネと化して構えたセイウチは、足長の初動よりも僅かに早く動いていた。その全身で、皮下脂肪の下
に詰め込まれた筋肉が一気に盛り上がる。
それはさながら神速の一刀。異能による筋力ブーストにより、手にした斧はその間合いの外で凄まじい初速から一文字に振り
抜かれ、軌道の延長線上を金色の軌跡が水平に薙ぎ払っている。
激突音すら無く、足長の脚部が溶断されて吹き飛び、その胴体が胸部下半分を焼き斬られて分断されていた。
大股の踏み込み一歩、得物を唯一振り、「一刀」で足長を仕留めたセイウチの手に握られているのは、もはや斧とは言えない
代物。
錨を象った斧…それを柄と鍔として、そこから伸びるのは光の帯…高密度の純エネルギー噴射が形作った4メートルにも及ぶ
巨大な刀身。セイウチが手にしている得物は、全長5.5メートルもの巨大な剣と化していた。
(所長の「雷電」と似た閃光…。エネルギー放出系のレリック!)
瞠目するタケミ。ユージンの異能にも似た純エネルギー放出機能を備えたレリックは、ジオフロント製の超希少な素材…現在
人類側には製造できない物質が必要になるため、現存数が極めて少ない希少品。威力は見ての通りだが…。
「「今日の分」は打ち止めか…」
唸りを収め、光の刃を消した斧を見遣り、セイウチが呟く。この手の機能は極めて強力な一方で開放時間が短く、通算数秒の
発動でエネルギーが尽きる。物にもよるが、再使用には8時間や10時間かかるのはザラだった。
「しかし残るは一つ目小僧一体!このまま押し切って見せ…る…?」
セイウチは言葉を切る。決着を見届けた少年はすぐさま踵を返し、ゴマフアザラシとオットセイが二人掛かりで対処していた
機械人形に向かっている。
氷の上を滑るように、風のように速く、黒い影は接近しつつ刀を右後方へ引き…。
(今の一刀…)
少年は目に焼き付いたセイウチの一刀を脳裏に再現する。
(捩じれを戻す反動…。初速は…。重みで代用…。鞘が要らない…)
断片的な言の葉が少年の頭を満たす。刀利きの河馬に意見を聞きたい。これもまた「刀の理」に通じる物なのではないか?と。
普段は、腰の鞘から抜き放つ居合いや、時計回りの斬り払いなど、左から右への動きを得意な型とするタケミは、セイウチと
同じ右後方に引いた構えで一つ目小僧に接近。その疾走に引き摺られるように後ろに留められた愛刀の重さを、普段以上の物と
確認する。
(これは、右でもできる抜刀術…。「重さが鞘」だ)
神業に見惚れ、戦闘中である事も忘れ、子供が夢中になって真似る心持ちで、タケミはその一刀を放った。
黒く、速く、鋭く、鞘から抜き放つ抜刀術とは異なる、重さから解き放つ両手持ちでの一刀。
止める間もなく突っ込んだタケミを追い、後ろから見つめるアルは、
「Beautiful…」
思わず呟いていた。
キンッ…。
そんな澄んだ音を立てて、タケミが振り抜いた黒夜叉は、一つ目小僧の胸部を通過した。
(「何も難しい理屈ではない」…)
ツツッと、その胸部がずれる。真珠銀の装甲も、フレームも、動力系も、諸共に断たれて。
(「斬るべき物を斬るように」…)
ザシッと踏み止まり、振り切った刀を止めたタケミの前で、バターでも切るように両断され、奇麗な断面からまるで出血する
ように火花を散らす機械人形が、ドザンと前のめりに地へ落ちた。
その様子を、居合わせたダイバー達は呆気に取られて見つめる。
(爺ちゃんの剛剣みたいっス…)
シロクマはタケミの一太刀を、幼い頃に育ての祖父が見せてくれた、ただの木刀で薪を両断して見せた一撃のようだと感じた。
(あんな斬り方が…、人間の身でできるのか…!?)
パグは身震いした。鳥肌が立つほど高揚していた。まるでタケミの父…不破御影が行使したと聞く絶技のようだと。
(できた…。え?今…、でき…た?)
タケミ自身が、手応えを感じながらも戸惑う。
剣道で言う「逆胴」。学びはしたが使って来なかった技。恐らく型は違うが、父と同じ事ができた。その実感がまだ湧いてこ
ない当の本人に、大股に近付く影が一つ。
「君…」
かけられた声でハッと我に返ったタケミは、振り向いてまず壁のように聳える何かに視界を塞がれた。その丸みを帯びた部分
が豊満な腹部であると、ユージン相手に学習していたのですぐさま気付いた少年が、相手の顔を見上げて…。
「やはり人間…だな…」
セイウチは目を大きくし、じっとタケミを見下ろしている。歴戦の潜霧士らしい鼻先や頬などに傷跡が目立つ顔と、太く立派
な牙、そして大柄な体躯も手伝い、迫力のある威容だが…。
「え、と…」
タケミは戸惑う。セイウチの顔は真っ赤になっており、鼻息が荒い。激戦の後だから息が切れているのだろうかと考えた少年
の手が、ガシッと、野球グローブのような手で包み込むように掴まれた。
「え…?え?」
困惑する少年。セイウチは少し腰を曲げて前傾し、狼型マスクの目の部分から覗き込んで、戸惑っている少年の瞳を見つめ…、
「結婚しよう…!」
少年の手を取って、頬を赤らめて上気しながらそう告げた。
「What!?」
顎をカパンと落として愕然とするアル。
「始まった…」
呆れ顔でこめかみを押さえるパグ。
「………へ…?」
かなり間を開けた後に、少年が発した小さな疑問の声が、霧の中に呑まれて消えた。