第三十七話 「ハイパーヴェロシティ」

「字伏団長…!」

 肩で息をするラッコが、濃い霧と粉塵が立ち込める中心を見つめる。

 周囲には深手を負った仲間達。誰もが立ち上がるのも困難な疲労と負傷。周辺には真珠銀に覆われた残骸が散乱している。

 センサーの発光を止めた一つ目小僧の頭部が転がり、腰から下だけ…文字通りの下半身が横たわり、肩口から吹き飛んだ右腕

がピサの斜塔のような角度で地面に浅く刺さっている。一際長い脚部は足長の物と察せられた。

 一体として原型を留めていない機械人形の残骸の中心で、モヤが少しずつ晴れてゆく。

 その中に、大きくずんぐりとした人影が見えた。

 それは、まるで身分が高い者と拝謁するように、片膝を立てて跪き、深く首を垂れる格好のグレートピレニーズ。地につける

ように伸ばした右手はトンファーを握り締め、その短い方の先端が、組み敷く格好にされた手長の胸部を陥没させている。

 もがくように伸びていた手長の両腕は、やがてジョウヤの左右でガシャンと、地面に落ちた。

「ふ~…」

 少し長く息を吐き、身を起こしたジョウヤの足元で、よく見れば手長は腰の右側から爆ぜるように脚部を失い、頭部も何処か

へ吹き飛んでいる。

 胸部装甲はまるで大型砲弾を撃ち込まれたようにへこんで、厚みが半分ほどになっていた。動力源も含めた内部構造ごと圧壊

させられての致命的損傷である。その上で、まるで何らかの質量兵器で押し潰されたかのように、胴体部が地面に半ば以上埋没

している。

 凄絶。ただその一言に尽き戦いぶりに、救われた側まで呆気に取られている。

 機械人形はグレートピレニーズに手傷を負わせるどころか、被毛一本すら切れなかった。触れる事もできず、白い巨犬単身で

制圧された。

 トンファーという、素手の延長線上にあるようなリーチの短い得物で武装したジョウヤは、一発も貰わないどころか、大きな

動作での回避すら行なっていない。まるで目が見えているかのよう…どころか、あらかじめ判っているかのように、最小限の動

きで避け、あるいは繰り出された攻撃をトンファーで弾き、反撃で沈めている。

 その攻撃は、レリックの機能を解放した超常の攻撃でも、火薬に物を言わせた炸裂攻撃でもない。常時発動状態にある異能も、

攻撃の威力そのものには作用していない。ただただ頑丈なトンファーで殴るという単純な物理攻撃で、真珠銀の装甲で覆われた

機械人形…上位機種すら含む一団を、ジョウヤは単騎で残らず、会敵から二十秒もかけずに破壊し尽くしてのけた。

 南エリア最強のダイバーという評価に誤りはない。一等潜霧士は怪物揃いだが、ジョウヤの格闘戦技能はその中でもユージン

と並んで頭一つ抜けている。テンドウをしてまだまだ及ばないと言わしめる、絶技の極みの体現者…、それが字伏当主たるジョ

ウヤである。

「…全員生きているね」

 目が見えていないグレートピレニーズは、まるで一行の無事を確認するように首を巡らせたが、発したのは問いかけではなく

確認。負傷の度合いこそ正確にはかれないものの、生きている事は判っている。

「はい…!済みません、助かりました…!」

 九死に一生を得た潜霧団からの感謝に軽く頷く事で応じると、周囲に脅威が無い事を確認してから、ジョウヤは首元に手を伸

ばす。
目が見えないのでアームコンソールやバイザー式の表示機器は使えないため、ジョウヤが用いる潜霧用機器は独特なオプ

ションつきになっていた。首元の豊かな被毛に埋もれて殆ど見えないが、専用装備としてチョーカー型の拡張機器を装着してお

り、位置情報などは骨導式の音声読み上げで把握する。

(本隊からだいぶ離れたな…。ここが分散している潜霧団の北端で間違いない。救難信号の受信も無くなった)

 当初の予定にあった品物の発掘と運搬に際し、協力して周辺警戒を含めたダイブを行なっていた潜霧団は全て確認した。ジョ

ウヤが今救援したチームと、一つ前のチームは、それとは無関係な捜索ダイブを行なっていた潜霧団である。出発前には提出済

みの潜霧計画を全て確認し、記憶していたので、その後に潜ったり突発的に計画を変えたりした潜霧団が居なければ、ここが今

日ダイブしているチームの最北端という事になる。

「原因は不明だけれど、十年前と同規模で機械人形が探査に出ているようだ。同行するから一緒に戻ろう」

 両腰のホルスターにトンファーを収めたグレートピレニーズは、両足を負傷して立てなくなっているワモンアザラシを、両腕

で胸の前に抱き上げる。

「良く生き延びたね。誰も欠けなかった…素晴らしい事だ。頑張ったよ、本当に」

 不手際を攻められるどころか、救援に来た相手に穏やかな声で称賛され、ワモンアザラシは涙ぐむ。

 ジョウヤはこういう男だった。思慮深く、慈悲深く、慎み深く、南エリアに籍を置く全てのダイバーを同胞と見なし、かけが

えのない戦力であり労力、財産と考える。潜霧団の垣根を超えた価値観は、その包容力と精神性から出る物。故に、ジョウヤは、

そして先代の団長であった彼の父は、南の潜霧士達から絶対の信頼を寄せられていた。

(さて、ここからは折り返しで帰路だが…)

 本隊の状況が気にはなるが、この状況で見捨てては行けない。ここまでのルート上は危険を排除したが、機械人形が受けてい

る指令が探査であったならば、移動して来る可能性は高い。半壊した機体からの誘導信号を受信して集まる事が無いように、遭

遇した機械人形は徹底的に破壊して完全に沈黙させてはいるが、それも予防措置に過ぎない。

 気を抜く事が許されない状況下、本隊周辺は気になるが…。

(テンドウはもう皆と合流できただろうか?…あの子は、大丈夫だろうか…)

 弟を先に向かわせた事である程度安心できるとはいえ、タケミの事は気掛かりだった。

(怖い目にあっていないと良いけれど…)

 そのようにジョウヤが案じていた頃、少年は…。

 

(…ふぇ…)

 ヘルメットの下で、困惑顔を汗まみれにしていた。

 少し腰を折り、目を覗き込むように見つめて来る、相撲取りのような巨漢のセイウチは、少年の両手を包み込むようにギュッ

と握っている。

 言葉の意味がジンワリと脳に沁み込んできて、セイウチが何と言ったのかを、少年は次第に理解し初める。

(ふええ…!?)

 結婚しよう。

 そうのたまったセイウチの顔は、真剣そのものだった。

「あ、あの…」

 やっと少年が声を絞り出すと、

(若い声…!)

 セイウチはその肥満体を僅かに震わせた。

「ボ、ボク、結婚とか…まだ…」

 戸惑い震えるタケミの声に、

(初心な少年…!)

 繰り返し小刻みに震えたセイウチは、コホンと小さく咳払いして気を静める。

「いや唐突過ぎたかな?失礼した」

 そしてタケミの手をしっかり握ったまま…。

「まずはお互いを知る所から…。ワタシは豊平丸(ほうへいまる)潜霧団二代目団長、「豊平潮満(とよひらしおみち)」。三

十九歳独身。8月23日生まれ乙女座。好きな食べ物は魚介鍋とホットドッグ。趣味は潜霧用具の手入れ。気軽に「トヨッペ」

と呼んでくれ、若いキミ」

 自己紹介がてら綽名で呼ぶように促す。

「キミは、熱海から遠征していると聞く、大将の所の若手潜霧士だな?名前は確か…」

「あ、あの…。タケミと言います。不破武美…」

(初々しい…!)

 また打ち震えるセイウチ。

「そうか。タケミ君、結婚しよう」

Just a moment!(ちょっと待ったぁーっス!)」

 大声を上げたのは、それまであまりの事に固まっていたシロクマだった。

「タケミはまだ十七歳っス!結婚できないっス!」

「なんと…!」

 シロクマを見遣ったセイウチ…シオミチは、相変わらず少年の手を放そうとしないまま身震いした。

(未成年…!剣豪…!ぽっちゃり…!二十二歳差…!)

 このセイウチ、様々な要素に細かく萌えを見出し身を震わせる習性がある。特に若くて腕が立つ者に激しく萌える。まるっと

した体つきの若い人間の子が目を見張るほどの剣の腕を披露した事で、ほぼ一目惚れの状態である。

「団長求婚してるよ」

「久々じゃん。何年ぶり?」

 セイウチの同僚であるゴマフアザラシとオットセイは、顔を見合わせて軽く肩を竦めている。

「あんまり本気にしなくて良いぞ。いやトヨッペは本気だけど、こっちまでいちいち本気で取り上げたら大変だから」

 そしてパグが呆れ顔半分、困り顔半分でタケミに告げる。

「腕利きの若い男…それも人間が好みで、相手の事をよく知らないままでも求婚するんだよ。ただし「超がつく腕利き」限定だ

けどな…」

 言いながら、パグは内心で感心してもいる。

(このひとのお眼鏡に適う腕前って事だ。…いや、実際に今のには心底ビックリさせられたが…)

 これまでにこのセイウチが求婚した潜霧士は二等資格を得たような者ばかり。「腕利き」の水準が恐ろしく高いのである。無

論、人間で二等潜霧士に、しかも若い内になれる者など限られている。その行く末も様々で、結果としてセイウチの求婚が実を

結んだ事は無い。

「未成年だったとは、失礼した。驚かせてしまって済まない…」

 そう言って詫びるセイウチは、一向に少年の手を離さないままこう続けた。

「結婚を前提としたお付き合いをしよう」

No no Not that one!(違うそうじゃないっス!)」

 頭を抱えて仰け反ったアルが叫ぶ。

 タケミ大好きシロクマにとってこれは由々しき事態。平日の間は神代潜霧捜索所で同居するようになって以降、毎日がヘルと

隣り合わせのヘブン。ラブラブ兄的存在との底抜けハッピーデイズに、突然何処の誰かも判らないオッサンからの求婚という横

槍を入れられるのはノーサンキュー過ぎるというのがアルの意見。

「キミは…」

 セイウチは再びアルに目を向けた。白い熊は珍しい。特に北極熊の獣人はこれまで二例しか居ない。アルが噂に聞く「ジオフ

ロントの生還者」アルビレオ・アド・アストラだという事は察しているが、セイウチが確認する事は身元ではなく、

「お兄さんかな?」

 タケミとの関係性だった。未来の義理の兄(年下)になる相手だろうかと、少年とは似ても似つかないシロクマに訊ねるセイ

ウチ。なお、義理の兄(年下)という概念にときめいている。

「弟っス!タケミはオレのオンリーワンっス!」

 断言するアルだが厳密に言うと全然弟ではない。

「では、未来の義理の弟…!」

 ポッと頬を赤らめるセイウチ。義理の弟(普通に年下)も悪くない。

「ニホンゴォッ!難しいっスねニホンゴォッ!」

 悶えるシロクマ。日本語であるかないか以前の問題なのだが、意図した所がセイウチに全く伝わらない。

「はいはい、緊急事態なんだからそこまで」

 パグがパンパンと手を打ち、少し強い口調で止める。

「トヨッペ、怪我人全員集まってますか?はぐれた潜霧士とかは居ないですね?」

「うむ。…どうかな?全員揃っているようだが…」

 セイウチはやっとタケミの手を放すと、負傷者達に目をやって訊ねた。セイウチと、ゴマフアザラシとオットセイ…豊平丸潜

霧団の一部は救難要請を受信して駆け付け、交戦に入っただけ。護り切るには手が足りないので救援ビーコンを出していただけで

ある。

 彼らに助けられた、実際に被害を受けていた方の潜霧団は、全員が満足な戦闘ができないほど負傷していた。

「幸い、撤退中にも逸れずに済んだ…。奇襲で手酷い目に遭わされたが全員居る…」

 額が割れて半面が流血で染まっている豹が、口惜しそうに歯噛みするが、セイウチは二ッと、目尻に皺を寄せて笑顔を見せる。

真面目な顔をしている時は立派な牙もあって勇壮な面持ちだが、笑うと表情が崩れて人懐っこそうな顔になっていた。

「不意打ちは食らえども、一人として欠ける事なし。佳く生き延びる者こそ佳く潜れる潜霧士だ。全滅を回避して救援到着まで

持ち堪えられただけで、立派な戦果と言えるだろう」

(ほんと、褒め上手なんだよなぁこのひと…)

 パグは軽く苦笑い。苦境から生き延びた者達を、慰めるのではなく褒める。他意も無く、世辞を言うでもなく、こういった事

が普通にできるのがこの巨漢の長所だと感じる。ジョウヤにもそういう所があるので、潜霧団のトップには有用な資質なのかも

しれない、とも。

「退却戦で手長を片付けた手並みも見事の一言!足長と揃っていなかっただけで、脅威はだいぶ削がれていた」

 セイウチがザッと周囲を見回し、破壊された機械人形の中に、足長とペアになる機体が混じっていない事を確認して…。

「いや、仕留めていない。邂逅時は居たはずだが…!」

 指摘されて初めて気付いた豹が、顔色をサッと青くすると…。

「…そう遠くない位置に、一一丸潜霧団が居る…」

 シオミチは呟くなり、柄を上にして地面に下ろしていた錨型の斧を引っ掴んだ。

「乙(おっ)ちゃん!五味(ごまい)!ハグラも!こごは任す!ウヂの他のど合流待ってけろ!」

 同僚に指示してセイウチが駆け出す。相撲取りのような体型なので、駆けると地面が振動するほどだが、速度自体はバイクの

加速性能に匹敵し、長距離走行平均速度ですら陸上選手並になる。

 これはシオミチの力…干渉型の異能「筋力操作」による物。獲得する者が少なくないポピュラーな異能で、字面からイメージ

できる通り筋肉を操作する物である。が、その性能は使用者の習熟度合いによって大きく差が出る。

 この異能は単純に筋肉の出力を上げるにとどまらず、操作に精通する事で様々な付加性能が獲得できる。例えば、乳酸を抑え

て筋疲労に耐える持久性、万力のような力強い方向性への筋力増強や、反対に瞬発力を高める増強も可能。部分的な操作も可能

で、脚力のみ、腕力のみ、肺活力のみ、などと細かく使い分ける事もできる。

 特にシオミチは高度で、この異能にかけては第一人者と言える男。地を蹴る瞬間にのみ増強、フォローモーションで筋疲労の

緩和など、さして意識を割かずに呼吸するレベルで扱える。先に見せた機械人形の攻撃速度を正面から打ち返す芸当も、全身の

筋肉を同調、及び連動加速させる事で実現させていた。

「速っ!何スかあのランニング!」

 驚くシロクマは、

「あー!タケミ!ダメっスよ!」

 追うように駆け出した少年の背中に叫んだ。

「待てAAA!こっちの手が足りなくなる!」

 後を追おうとしたアルをパグが止める。怪我人が大勢いる状況。万が一手長が潜んで機会を窺っていたならば、セイウチが残

していった同僚二名だけでは防衛は難しい。だからパグ達に対しても留まるように頼んでいた。手長足長クラスになると、一つ

目小僧を二人や三人で相手取るのとは訳が違う。パグは先に足長と競りおおせたアルまで加えてギリギリの戦力と見越していた。

「グギギギギ!」

 シロクマは歯ぎしりしながら考える。手長が周囲でこちらを観察している可能性…。セイウチを追って行ったタケミが遭遇す

る可能性…。あのセイウチと一緒の場合におけるタケミの安全性…。

 私情を優先し、他はどうでもいいからタケミを追うという回答を出したい所だが、重傷者が多数居るここへ手長が襲撃をかけ

た場合、三名だけでは死者が出るのは間違いないと確信できる。

「増援が来たら追うっス!」

 大刀をドスッと地面に突き刺し、フゥフゥと荒く鼻息を漏らしながら何とか自制したアルに、

「済まない。だが「すぐに来る」から少しだけ待ってくれ!」

 パグは応じた。同じチームのメンバーが一人、こちらへ移動している事をビーコンへの応答で察知しながら。

 

「て、て、手伝います!」

 すぐ脇に、後ろから追いつきながら少年がかけた声で、セイウチはハッとした。そしてポッとした。

(足が早い…!)

 どうやらこれも萌えポイントらしい。

 相楽工房長特製のスーツによる運動サポートによって、タケミは人間の姿のままでも常人のソレを超えた運動性能を発揮でき

る。異能による筋力操作で疾走するセイウチにも何とか追いついた少年は、先程救援された潜霧団の撤退戦の痕跡だろう、薙ぎ

倒されたり踏み乱された草や低木、立木に残る傷跡、折れて倒れた枯れ木などを確認する。

「キミまで来る事は無いから、早く戻りなさい」

 捜索に付き合いに来てくれた少年の行動を内心では喜びつつも、やんわり諭すセイウチ。しかし…。

「あの…、思ったんです。全員揃っていたチームを、追い込んでいたのに、手長が外れる理由って、何なのかなって…」

 少年は駆けながら、「もしもこうだったら怖いな」と、いつもの悲観的な思考を巡らせていた。

 タケミは怖がりである。

 人間が怖い。獣人が怖い。他人が怖い。自分が異物だと知られる事が怖いから。

 危険生物が怖い。機械人形が怖い。自分が本性をさらけ出すまで追いつめられる可能性があるから。

 痛いのが嫌だから怪我が怖い。苦しいのが嫌だから病気が怖い。そして今は人死にが怖い。

 怖がりで臆病。その「臆病さ」という性質を、潜霧士としての師匠であるユージンはあえて消させなかった。

 臆病であるが故にタケミは想像する。「こうなったら怖い」と想像する。そのマイナス方向の想像力が、時に自他の危機を正

確に予測する事を、ユージンは理解した上で矯正しなかった。

「あの、ボク今日初めて、手長と足長に遭遇したし、まだ三等になっていないから、機械人形の事にも詳しくないんですけど…」

(四等潜霧士…!それであの腕…!しかも若い四等…!キュート四等…!守りたいこの笑顔…!笑顔まだ見でねぇげども!)

 何やら萌え過ぎて体がカッカとしてくるセイウチは、

「その…、機械人形が、達成寸前だった目標を後回しにするか、仲間に任せたりして、他の何かを優先するとしたら、どういう

時…でしょう?」

 タケミの問いで思考を現実に向かわせる。

「それは、「そもそもの命令」の達成か、優先駆除すべき人類が他に居…なるほど!」

 セイウチは駆けながら額にピシャリと手を当てた。

「チーム行動は現地の探査のためと思えるが、それは長期的目標。目の前に人類などの駆除対象か優先的に対応すべき障害があ

れば、まずそちらに対処する。もしも、「逃げる負傷者達よりも容易に始末できる対象が居た」としたら、二手に分かれるか単

騎で追う可能性はある!」

「じゃ、じゃあ…!」

 タケミの声が震えた。姿が見えない手長は他のチームを襲っている…そんな悪い予想が当たってしまうかもしれないと慄いて。

(この子は、まだそう慣れてもいないだろう)

 駆けながら、セイウチは考えた。

 年若い未成年。十七歳という年齢を考えれば、潜霧士になってからの経験はそれほど長くない。人死にに慣れて精神が摩耗す

るほどは、霧に潜ってはいないはずだと。

(あまり酷い有様だったら、見せん方が良いな…)

 手長が死体の前に佇んでいる光景も考えられる。なるべくならばそんな光景は見せたくないと、巨漢は考える。

 自分達がそうだった。潜霧士になる前に、周囲で霧を吸った人々が次々と死んでゆく凄絶な光景を、少年時代に目の当たりに

した。

 二十年以上前、奇しくもタケミと同じ年頃で、セイウチはある事故によって獣人化した。周囲でバタバタとひとが死んでゆく

地獄を、何日もかけてじっくりと見せつけられた。

 あの光景が自分達の中から、本来持ち得ていたはずの物を削り取って行った事を自覚している。決して慣れてはいけないはず

の光景に、潜霧士の資格を取った頃にはもう、動揺する事はなくなってしまっていた。

「…!血…血臭反応が…!」

 タケミの黒狼マスクがセンサーで血の匂いを拾う。一拍遅れてシオミチも嗅ぎ取る。

 僅かな物だが間違いないと、ふたりが確信したその時、タァンと、銃声が響いた。

「こ、交戦中です!?」

 返事も無くセイウチが加速する。霧に中てられて変質した、かつてのツツジ…今や自衛の為に棘を生やしている低木の茂みを、

構わず突っ込んで駆け抜けながら、左右から伸びて視界を妨げる枝を腕と斧で叩き折ってシオミチは戦場に飛び込む。そして…。

「来んな!」

 続いて駆けこもうとした少年に叫ぶ。

 そこに、潜霧団の姿があった。破壊された一つ目小僧が三体転がり、瀕死のダイバーを足長が踏みつけ、手長が二体、それぞ

れ息も絶え絶えの潜霧士を吊るし上げている。

 上位機種三体。姿を消した手長は、激しい抵抗にあっていた別のチームに合流していた。

「さ…、三た…い…?」

 呆気にとられるタケミ。アルとヘイジ、そしてボイジャー2で一体を何とか仕留めた、それが…。

「退却しらい!はえぐ!」

 怒鳴ったセイウチは少年が感知されないよう、距離を引き離すように加速して突進する。上手く隠れて逃げれば生き延びられ

るだろう、と。

 一対一、全力が振るえて、集中できる状況下であれば、シオミチは上位機種でも単身で屠れる。だが、統制が取れた三体を同

時に相手取って勝つのは、レリックのエネルギーが尽きた状況では万に一つも不可能。

 手長二体と足長が、単騎突進するセイウチに知覚を傾ける。データベースにある要注意脅威の一体だと認識して。

(三体なんて…無理だ…)

 少年は震えた。震えながら刀を抜いていた。勝ち目は無いと判っている。

 足長は斬れた。条件が合えば斬れる。だが、そのためには間合いに入らねばならず、単身ではそれが困難。ここには息が合う

シロクマも、サポートしてくれる狸も、押さえつけてくれるボイジャー2も居ない。例え一体でも勝ち筋が見えない。

 「人間のままならば」。

 人狼化すれば可能性は高まる。身体性能が跳ね上がり、反応速度も向上し、ユージンをして「神速」と言わしめる動作が可能

となる人狼ならば、あるいは…。

 だが、マスクをしたままとはいえ、傍で見られていれば人狼化はバレる恐れがある。体つきが変化し、尻尾も生えるので、肌

と顔がスーツとマスクに覆われていてもなお、セイウチが注意深く見れば変化に気付く可能性が高い。

 保身と人命。この二つを天秤にかけたのは刹那の事。傾いたのは、人命の方にだった。

(やります、所長…!ごめんなさい!)

 心の中で保護者に詫び、自らの意思で人狼化を行なおうとしたタケミは、

「え」

 足長が前触れも無く跳躍した様を見て、呆気にとられた。

 セイウチを飛び越える軌道。狙いは少年。

 三体の内、身長が高い足長だけが少年の姿を木々の間に捉えていたが、そのセンサーが照合し、同定した。少年の手にある、

父…不破御影の遺品、「黒夜叉」を。

 シオミチの反応は速かった。ズドンと足音を響かせて踏み込んだ足で急制動、地面を抉り返しながら反転し、少年目掛けて飛

び込む。

 ラグビーのタックルを思わせる格好で飛び込みつつ両腕で少年をキャッチし、そのまま抱え込んで地面を転げる。間にスケイ

ルメイルや防護スーツがあってなお、タケミはボミュンと分厚い肉に埋まり、動き自体は高速であっても衝撃はさほど無かった。

 しかし、タケミを庇って転身したセイウチは、その背部を機械人形達にさらけ出してしまっている。無防備なその体勢に、上

から襲いかかった足長が蹴りを繰り出した。側面から刈り取り、掬い上げるような蹴りを。

 だが、ガインッと音が響いたその刹那、襲いかかった足長の蹴り足が、セイウチの膨らんだ脇腹に命中する寸前で弾かれる。

(反撃!?この状況で!?)

 驚きながら地面を転がるセイウチ。タケミは抱え込まれたままの状態で、激しく揺れ動く視界の中でも足長の脚部の軌道を見

切り、一振り当てて軌道を逸らしていた。

「助かった!」

「い、いえこちらこそですっ!」

 三回転して中腰で身を起こしたセイウチが、腰に戻していた斧を取り、放されたタケミも片膝立ちの姿勢で刀を構える。

「ぜ、全部…、こっち来ちゃいましたね…!でも…、これで、怪我した人たちからは…」

 着地した足長の向こうから、手長が二体、警戒反応を見せながら接近して来る。少年の傍らで、その震える手元をちらりと見

遣ったシオミチは、

「うむ!上手く引き離せた、と言っておこうか!やる事が単純になったな!」

 殊更に声を大きくしてそう口に出し、不敵に笑う。

(この肝っ玉…!)

 ちょくちょく好みに響く少年だと感じていたが…、

(震えながらこいなごど言える子、死なせぢゃあなんねぇべさ!)

 怖がりながらも口にした今の物言いが一番気に入った。結婚したい。

「全面的にワタシを頼って欲しいのは山々だが、正直三体同時に相手取るのは厳しい。ここは…」

 ゆっくりと身を起こしてセイウチは言った。「撤退戦と行こう。引き離し過ぎてもダメという、難しい注文がつくが」と。

 距離を取り過ぎると、負傷した潜霧士達にとどめを刺しに戻ってしまう。そして少年だけ逃がそうとしても、三体をシオミチ

ひとりで防ぎ止めるのは不可能、必ず追われてしまう。であれば、少年と轡を並べて庇いながらジリジリ後退するのが三方良し

という判断である。

 他の救援に回った同僚達も、時間さえあれば合流する。そうなれば援護も望める。城壁無しの籠城戦だが、時間稼ぎは勝ちに

繋がる。

「ところでキミ…タケミちゃん」

「は、はい?」

 ちゃん付けで呼ばれた事も意識できないほどの緊張下にある少年は、

「帰ったら食いたい物は無いかな?」

「…え?」

 流石に疑問を覚えた少年は、「キミは何が好きだ?」と問われて、焼き鳥を想像した。

「思い浮かんだらその味を思い出す。どうかな?生きて帰りたくなるだろう?」

 タケミは沈黙し、それから小さく笑う。ちょっとした、実にささやかな物だが、生への執着心に繋がる欲求が芽生えた。

「では頑張ろう」

「…はい…!」

 会話の終わりを待っていた訳ではないだろうが、足長が再び跳躍した。その後方からは手長が二体、長い両腕を伸ばして疾走

して来る。

 迎撃の優先順位を瞬時に識別したセイウチは、斧を大きく引いて全身に力を漲らせ、まず飛び蹴りを迎撃し、飛び込んで来た

足長を打ち返すように体勢を崩させる。激突の反動で斧を戻し、二度目のスイングに入りつつ、肩口から突っ込んで手長にタッ

クル。両腕の間を抜け、指先で肩と背中を軽く裂かれながらの体当たりを見舞い、スイングした斧でもう一体の胴を打ち据え、

浅く陥没させる。そこへ…。

(踏み込みの加速、黒夜叉の重み、これを反動に解き放てば…)

 先に学習した逆胴を、タケミが仕掛けた。シオミチが拓いてくれたおかげで間合いに入れており、その切っ先は霧の中に黒い

線を刻み、手長の胸甲を薙ぐ。

(浅い!けど…)

 真珠銀の装甲がカッと切り開かれ、隙間から内部フレームが露出した。

 通用する。まだ応用が利かず、このモーションでしか放てないが、ジュウゾウに教わった刀の理を乗せた逆胴は、大回転によ

る加速に頼らなくとも、よりコンパクトな攻撃で真珠銀を斬れる。

(強引には攻められないものの、こちらの攻撃が双方とも通る。ならば!)

 セイウチが手長を蹴りつけて間合いを放し、振るわれた腕を仰け反って避ける。

 こちらがふたりとも有効打を持っていると理解した機械人形達は、防御を考えない強引な攻めには踏み切れなくなる。こちら

の予想通りに探査が使命ならば、行動に支障をきたすダメージは避けたがる物だと、シオミチは確信していた。

 正直な所、機械人形がなりふり構わない、相打ち上等な攻撃に出る方が遣り辛い。潜霧士側は相打ちは負けである。だが、機

械人形に慎重さや、我が身可愛さにも似た物が行動方針に現れると、生き物を相手にするような遣り易さが出て来る。

「反撃重視で深追い厳禁!粘り腰で立ち回る!できるかな!?」

「はい!」

 共に戦う相手がベテランならば、タケミの方も遣り易い。元からユージンと二人でダイブしてきたので、経験豊富な潜霧士が

傍にあるというだけでだいぶ腹が決まる。しかもシオミチはアルの戦い方とも似た所がある、正面切って殴り合いながら押して

ゆくブルファイター。タケミとしては合わせ慣れたスタイルである。

 甲高い金属音が立て続けに三つ。三対二の劣勢で、刀と斧が金属の手足を迎撃する。

 初めての共闘となるセイウチとも、並んで打ち合い、カバーするだけの動きが可能になった。包囲されないよう並んで迎撃、

回り込まれないよう立ち位置を変え、互いの隙を補い合い…。

(人間の身で何つぅ動ぎ、四等で何つぅ対処力だ!こんで二等じゃねぇっての、目の当だりにしねげ信じらんねぇべさ…!)

 セイウチは驚嘆していた。防戦主体で立ち回る少年の動きは、ジオフロントにダイブするような面子と遜色ない。必死の防戦

ではあるだろうが、こちらの隙を見ていつでもフォローできるよう心掛け、大ぶりな斬り込みは避けている。

(良い潜霧士だ…。死なせらんねぇよなぁ)

 これならば、同僚達が追いかけて来るまで保たせられる。

 そうシオミチが確信した瞬間に、ソレは、来た。

 最初に感じた物は、「無かった」。

 前触れなど何一つ無かった。予兆も何も存在しなかった。ただ気付けば、タケミの前で手長が一体、首と両腕を宙に浮かせ、

腹部から下だけを残していた。

 疑問の声が漏れる前に、衝撃。追いかけて来た轟音が全身を叩く。

 刹那の間をおいて、胸部を撃ち抜かれて消失させられた手長が頭部と両腕をバラバラに飛ばされ、衝撃波の通過でバランスを

崩した少年を、シオミチが巨体を活かして踏ん張り、捕まえて支える。

 残る手長と足長も、姿勢維持の為に攻めに出られないその状況で、激突の衝撃で砕け散った何かが、着弾点から周辺に金属片

となって転げる。

 投擲する武器を電磁加速して放つハイパーヴェロシティキャノン。この芸当ができる人類は、現在たった一人しか確認されて

いない。つまり…。

「援軍!しかもとびっきりのが来たか!」

 喜色でシオミチの声が弾んだ。その背後にザシッと足音を立てて、アラスカンマラミュートが着地する。投擲して失ったハル

バードに続き、本日三本目のハルバードを背中から外しながら。

「月乞いの4、字伏天道。遅参した」

 視界を確保するため、自分を高空へ撃ち出す形で電磁加速移動。そこから戦闘を確認し、ハルバードを投擲して機械人形を粉

砕。そのまま降下して戦線に参加…。テンドウの移動経路は、ユージンとどっこいどっこいのデタラメ具合である。

「むしろ早かった。恩に着る!」

 振り向いたシオミチがニッと笑うなり、テンドウは前傾して瞬時に加速。一気にタケミの脇を抜けて、残った方の手長に挑み

かかる。

 ジョウヤの命を受けて本隊に戻ったテンドウは、パグとタケミとアルが救援に出た事を聞き、替えのハルバードを二本持って

再出撃した。

 そしてパグとアルを見つけたところ、タケミがセイウチに同行して手長を探しに行ったと聞かされた。

 そうしてここまで、一息入れて休む事すらなく急行してきたマラミュートは…。

(す…、凄い…!)

 少年が瞠目する。手長が繰り出した右腕を、ハルバードの穂先を当てて迎撃し、打ち負ける事なく前に出した右手を添えて巻

き、旋回させた斧頭で左腕の付け根を突き、攻撃に移る前に挫く。

 僅かに手長の体勢が崩れた所でさらに踏み込み、膝、腹部、腰の順に電光石火の三段突き。突き込む度に火花が散り、真珠銀

の装甲がへこみ、割れ、弾ける強烈な連撃で、手長が完全に重心を崩される。

 相手を崩した上で脇を締めたマラミュートは、突き込みつつ添えた右手でスイング軌道を加えた。一瞬の内に、ハルバードが

手長の首の脇に到達し、そこから鋭く横移動した斧刃が頭部を胴体から斬り落とす。大きく振りかぶっての一撃ではなく、最小

限の、無駄を削ぎに削いで鋭さを追求した、突きとも斬りともつかない槍術だった。

 参戦から四秒強。一瞬の打ち合いは瞬き一つの間に一方的な物となった。手長でさえまともに打ち合えない槍捌きは、もはや

武を競う技ではない。打ち「合う」どころか一方的に畳みかけ、蹂躙し尽くす。

 連続して加えられるテンドウの攻撃で、手長の頭部に続いて左腕が落とされる。異能の節約に入ったテンドウは、純然たる武

力だけで手長を圧倒してのけた。

 その顔に高揚も無く、緊張も無く、焦りも無く、ただ為す事を淡々と実行するマラミュートの、壮絶極まる槍術の冴え。これ

が、削ぎに削いで研ぎ上げられ、幼年期も少年期も剣戟の音色に塗り潰され、霧の底へ至るためだけの武具として仕立て上げら

れた男の、喪失を代償に付与された戦闘技能。手長が防戦すらおぼつかずに追い込まれ、手順が定められた解体作業のように滞

りなく破壊されてゆく。

 その、たった数秒の戦闘の間に、足長もまたセイウチに圧倒されていた。

 音速に迫る蹴りに、後発で動いた斧が追いついて打ち返す。異能の連続使用で全身の筋肉を膨れ上がらせたセイウチが、仁王

もかくやの形相で足長に向かってズンズンと前進する。手数…もとい足数で上回る足長が、蹴り技を繰り出しながら余さず撃ち

落され、後退してゆく。

 乗用車を蹴りで宙に舞わせて横転させる出力と、初動で音速に迫る機敏性を備える足長が、真っ向勝負でセイウチに押し負け

ている。

 一対一になればしめた物。切り札のエネルギーソードはもう打ち止めだが、武芸と膂力をもってシオミチは足長を追い詰める。

大戦斧を軽々と振り回して、目にも止まらぬ蹴りを捌きながら圧してゆくその様は、まるで掃射を弾き返しながら突き進む重戦

車。人体を易々と真っ二つにする蹴りを斧で打ち返し、腰が入っていない軽い蹴りならば、あろうことか鋼鉄の手甲で覆われた

腕で打ち払う。

 やがて、甲高く応酬をつつけていた金属音のピリオドに、ズガンッと重たい破壊音が響き、振り下ろされた斧が足長の頭部か

ら鳩尾までを断ち割った。両手持ちで思い切り振り下ろしたシオミチが、フシューッと息を吹いたその横で、

「済んだな」

 クルリと回したハルバードを脇に挟んで止めるテンドウ。その眼前で、胸部を穿ち抜かれた手長が機能停止し、尻もちをつく

ように崩れ落ちた。

(凄…い…。どっちも…)

 少年は身震いした。怖いのではなく、武者震いである。

 優れた潜霧士を知っているつもりだった。頂点と言える一等潜霧士、ユージンの手ほどきを受けてきた少年は、「強さ」とい

う物を知っているつもりだった。

 だが、自分が知っていたのは一端に過ぎないのだと痛感した。

 ダリアは別格だと思っていた。ハヤタ率いる名高い一流達は特別だと思っていた。だがそうではない。マラミュートもセイウ

チもそうだが、まだまだ自分が知らない優れた潜霧士が居る。各々が違う方向性の「強さ」を持つ。

 大穴は広く、深く、そこに犇めく脅威も、挑む者達も、自分の物差しではまだまだ測れないとタケミは知った。

「しかしまたタイミングが良かった。どうしてここに?」

「兄者と逆方向の救援を片付けに行き…」

 シオミチに問われたテンドウは、ここまでの経緯を整理し…、

「ここに来た」

(端折ったな)

(端折った?)

 セイウチと少年が何となく察する。マラミュートは口述が面倒くさかったのか、言葉が足りないどころか途中の経過が全く判

らない、回答にならない回答をした。

「ともあれ、こっち側もこれで最後だろう。救援が間に合って良かった!」

 シオミチが口の端を少し緩めた。駆け付けた際にはもう一一九潜霧団はボロボロで、戦力的には全滅判定だが、死者は出てい

ない。負傷者も大事に至らず、全員助かる。まだまだ油断はできないが、ひとまず撤収の目途はついた。

「では引き返す。負傷者の運搬は必要か?」

 ハルバードを背負い直したテンドウに、シオミチが深く頷く。

「おうとも。少し奥で潜霧団が動けなくなっとる。手はいくらあっても余らん、手伝ってくれ」

「心得た」

 首を縦に振ったテンドウは、

「あ、あの…」

 控え目な、か細い声に首を巡らせる。

 黒い狼のメットを被る少年が、目が合ったテンドウに深々と頭を下げた。

「た、助かりました…!ありがとうございます…!」

「…?」

 マラミュートは訝し気に、瞼を少し下ろした。

 ここへ来たのは兄の命令に従った結果。そうして赴いた自分は彼らが救援に入っていた所へ手助けをしたまで。基本方針に則

る相互救助に基いた行動である。

 そして救われたのは交戦不能になっていた一一九潜霧団の方で、少年は彼らから礼を言われるべき立場。自分の方は手を貸し

た事について既にシオミチからも礼を言われており、少年から改めて礼を言われる筋合いはない。

 テンドウはそう思考して…、

「礼を言われる筋合いはない」

「!」

 言葉を端折って淡々と応じられたタケミがビクリとする。

(や、やっぱり…、ちょっと怖いひと、かも…。もしかしてボク、嫌われてる…?)

 しかしシオミチは少年と違い、テンドウの僅かに揺れた尾に気付いていた。本人も自覚していないかもしれないが、兄などに

褒められた時のように、喜びを感じていた様子ではある。

(兄者の命令は守った。客の無事も確認した。任務遂行完了)

 事務的に仕事を片付けたと思考するテンドウは、愛する兄に褒めて貰えるだろうと期待しながらも、しかし既に少し満足して

いる自分に疑問を持った。

 兄に褒められるという期待とは別の、喜びや安堵に近いささやかな心地良さ。それをテンドウは今、確かに感じている。

(これは兄者が言う労働の喜びという物だろうか?今日は普段よりも働いた、その充実感という物か?自分はまた一つ、兄者の

求める「ひとらしい成長」を遂げられたかもしれない)

 テンドウはまだ知らない。判らない。気付かない。

 その気持ちが、少年の無事を確認し、礼を言われたからであるという事に。

 それはこの少年から、微かに兄と似た匂いがしているからだという事に。