第三十八話 「撤収」

 仰向けに横たわる機械人形。両腕が異様に長いソレを見下ろして、

(こいつが最後、か?)

 金色の熊は眉根を寄せて腕組みする。

 既に本隊からだいぶ離れた地点で、ユージンは破壊された機械人形を見下ろしていた。

(こいつらは誰がやった?)

 ユージンが仕留めた訳ではない。機械人形の小隊…手長と足長を含む一団は、点々と、距離を置いて倒れていた。それを辿っ

た金熊は、五機目の手長を見下ろして思案する。

 救難信号を頼りに辿り着いた訳ではない。引き返す途中でたまたま破壊された一つ目小僧を見つけ、そこから痕跡を頼りに探

したところ、壊れた機械人形が次々と見つかった。

(急所を一撃…、銃撃だな。撃ち抜かれて機能停止…、威力も相当なモンだが、何より狙いが正確だぜ)

 かつて、タケミの祖父の元で一緒に仕事をしていた、後輩で同僚だった巨漢の犀の顔を思い浮かべるユージン。高速で動き反

応も速い機械相手の急所破壊は手練でも難しい仕事である。

(マゴイチの壊し方にも似てやがる。扱う銃器の威力うんぬん以前に、相当な腕前だが…)

 破壊方法がピンと来ない。ユージンですら損壊具合を見て、どう壊されたのか?と首を捻る始末。

 手長の胸には穴があいていた。直径5センチほどの穴で、周囲は真珠銀が融解している。ヘイジが使う改造トーチのプラズマ

刃のような、それこそ1万℃を超える熱量でもなければ真珠銀をこうまで熱融解はさせられない。時間をかけて炙るなら話は別

だが、そんな事を許す人形は居ない。

 気になる点はそこだけではない。手長は熱融解そのもので機能停止したのではなく、融解しているのは装甲のみである。溶か

されたそこに銃弾を撃ち込まれ、中枢ユニットを破壊されたのが致命傷となっていた。

(装甲を熔かして狙撃…そんな真似がどうやったらできる?機械人形が大人しくトーチで炙られて、溶けた所で銃撃でもすりゃ

あ良いのか、ええ?どんな異能ならこれができる?)

 判らな過ぎて投げやりにそんな事を考えたユージンは、

(…見られとるな。何処だ?)

 素早く首を巡らせ、視線の主を感覚で捉える。

 そこに、人影があった。

 倒壊した、元は港湾事務所だった建物の、辛うじて残った一部の屋上。その上にレインコートのようなヒラヒラと薄い外套を

羽織った、ずんぐりと丸いシルエットが佇んでいる。

(やったのはアイツ、か…?)

 80メートル以上も距離があり、霧も濃いが、ユージンはそれがまん丸く肥えた狐の獣人だと察する。フードの下に見えた狐

の目は、明らかに金熊を見つめていた。

 視線が交錯していたのは数秒だけ。狐は身を翻して廃墟から飛び降り、姿を消す。

(誰だ?見た所だいぶ若ぇようだが…)

 見覚えが無い潜霧士だが、立ち去る間際に見えた、右手に握るH字型の特異な得物がユージンの印象に残った。

(銃器、か?おそらく南の潜霧士なんだろうが、あの特徴が一致するような潜霧士の話は聞いた覚えがねぇ…。字伏兄弟にでも

訊いてみるか)

 一帯で機械人形と遭遇している潜霧団は無くなったのか、ようやくあらゆるビーコンが消えていた。

 狐が居た位置から視線を剥がし、ユージンも踵を返す。その歩調はだいぶ早く、そして大股であった。

(タケミもアルも大丈夫だろうな?…ヘイジも居て月乞いも一緒なら、滅多な事にはならねぇがろうが…)

 ヘイジも居るし、少年達は月乞いと一緒に行動していれば問題ないと考えてはいたが、内心ではやはり心配で、状況を確認し

ないと落ち着かない。とはいえ、本人の前では心配している素振りなど見せないのがこの中年だが。

「!」

 ピタリと、その歩みが止まる。直後、ズンッと腹の底に来る振動が、足元から駆け上がった。

(地震!でけぇ!)

 振動を通り越し、膝や足首に衝撃を感じるほどの縦揺れ。踵を下から何度も叩かれるような、頭の先まで抜ける揺れで視界が

縦に揺られ、周辺の草が怯えたようにパリパリカサカサ音を立てる。

 ゴゴゴゴゴ…、と周囲一帯から地鳴りが響き、あちこちで廃墟や残骸、地面が割れたり裂けたりする音がパキパキ、ビシビシ

と連続する。鳴き交わすような騒がしい獣の声は、近場に潜んでいた危険生物の物だろう。

 腰を低くして踏ん張ったユージンは、四十年前、そして二十年前、さらに十年前の事を思い出すと同時に、タケミの顔を思い

浮かべて焦りを覚えた。

 が、激しかった直下型の揺れは七秒ほどでおさまり、金熊はホッとする。

(止まったか…?いや、前震って可能性もある。こうしちゃいられねぇ。すぐタケ坊の所に戻らねぇと…!)

 

「ワタシが二人担いで行く。タケミちゃんは足を痛めたひとりに肩を貸してやってくれるか」

 負傷した潜霧士達を連れ帰るため、撤収の算段をつけるセイウチに、少年が頷く。

「了承した。戦闘行為の発生に備え、両手を空けておく」

 指示を受けなかったマラミュートが、シオミチから提案される前に自分の果たすべき事を把握して頷いたその時…。

「ひっ!」

 激しい縦揺れが起こり、少年が悲鳴を上げた。

 シオミチとテンドウは立っているのも覚束ない激しい揺れの中、反射的に少年に目を遣ったが、タケミは怯えつつも片膝をつ

く格好で屈み、頭上に注意しつつ腰の刀に手をかけ抜刀に備えている。この辺りは地震が多い伊豆半島で暮らすにあたり、ユー

ジンから癖になるほど教え込まれており、驚き怯えても反射的に対処する姿勢になっている。

 タケミを庇う必要は無いと判断した二名が、倒れて来る木などが無いか、怪我人は安全か、周囲を警戒していたが、程なく揺

れは収まり、地鳴りと周囲の木々の軋みが余韻として残された。

(ますます、十年前に似て来たな…)

 セイウチは無駄な不安をあおらないように、声に出さず胸中で呟く。機械人形が多数調査に出ていたのも、最近の地震の周期

が妙だからなのかもしれないと考えてはいたが、ここまで数多く派遣されている実態を目の当たりにすると、流石に妙だと疑問

を覚える。

(こっちで確認している以上に、大規模な地殻変動が起こっている…だとか、そういう事なのかもしれん。予兆ではなく、確信

できるような変化を機械人形達は地下で見つけているのか?)

 確実な事は判らない。だが一層注意が必要だと、セイウチは眉間に皺を寄せた。

(とにかく、今は怪我人を安全に退避させなければ。今日だけでどれだけ負傷者が出たのか、確認しなければ今後の方針も決め

られん。落ち着いた後か、あるいは手が空きそうな合間にでも、ジョウヤさんと話をしておくべきだな)

 有力な潜霧団の頭を集めて打ち合わせをしたい。被害状況は軽視できないレベルになっていると想定できているセイウチは、

ゲート防衛線力の抽出を主眼において思考した。

 機械人形が打ち止めとも限らない。ならば最終防衛戦となる長城を、戦える潜霧士で固めるのが最優先。何せ南エリアには自

衛隊もすぐには来られないし、初動を誤れば援助や助勢などを求めている間にゲートが落ちる。喫緊の脅威には潜霧士や組合、

地元の関係者で凌ぐしか無いのである。

「揺れ戻しに注意しつつ撤収を急ぐぞ!テンドウ、先導頼む!タケミちゃんはその後に続いて貰う。殿は任された!」

「了解した」

「は、はい!」

 セイウチが歩けない者を担ぎ上げ、足元が怪しい者にタケミが肩を貸し、テンドウが先頭に立って一同の撤収が始まった。

 地面は、まだ不気味な振動音を断続的に足へ伝えていた。

 

「伏せて!」

 グレートピレニーズの声が鋭く響いた次の瞬間、負傷者だらけで退却中の一団は、激しい縦揺れに見舞われた。

 ジョウヤの言葉尻に被さるように始まった揺れは数秒で落ち着き、地鳴りだけが残ったが…。

「撤収を急ごう。今のが最後とは限らない」

 一行を促すジョウヤは警戒を解かない。偵察目的で送り込まれたと思しき多くの機械人形に加え、地震が多い南エリアでも特

に強く感じられる揺れ。十年前の事故を思い起こさせるそれらは、地殻変動の前触れとして警戒しておくに越した事は無い。

(皆は無事だろうか?もう倉庫内では作業していないと思うけれど…)

 揺れに警戒しつつ移動を再開したジョウヤは、ふと、何かを察知したように首を巡らせる。

 霧が立ち込める中、聞こえるのは揺れに驚いたのだろう危険生物達の声。顔を向けた方向には、例え目が見えていたとしても

視線を引くような物も無く…。

「字伏団長?どうかしたのか?」

「…いや、何でもなかったようだね」

 同行する潜霧士に問われたジョウヤは、軽く首を振って応じた。

 違和感はあるが危機感は無い。彼の異能は「危険を告げていない」。だからひとまず無視する事にして…。

 

「気付かれた訳やない。が、これ以上近付くのは得策やないな、マジラさん」

 500メートルほど離れた位置で双眼鏡を覗きながら、犬型のメットを被った狼が呟く。壁の一部が残った、天井も崩落して

原型を留めないビルの中から、一団は撤収する潜霧士達を観察していた。

「たまたま近くなったから見に来たが、噂以上。何とも凄まじい物だなあのダイバーは。機械人形が発泡スチロールかダンボー

ルでできているように、ああも容易く壊されるなんてね。ビルの建築現場が近いのかと錯覚するような戦闘音だったよ。ユージ

ンと殴り合いができそうだ」

 龍を象ったヘルメットを被る男が、どこか楽し気に言う。

「こいつは勘やけどな、こっちが「その気」になったら気付かれる。「ドレッドノート」は無害なモンには無効らしいが、攻撃

の意思を持ったモンは正確に捉える異能やて聞いた事があるわ。仕掛けようと思わん事が肝心や。…それでなお、潜んどる気配

は違和感レベルで察してまう。目が見えとる以上に遣り辛いわ」

「その忠告には素直に従おうチャウンドゥラ。交戦は予定していないし、必要もないからね」

 龍のメットが顎を引き、「あれならば、うん…」と呟く。

「「霧の底」に届く可能性もある…。「ユージン」、「土肥の大親分」、「流人」、そして「字伏の当主」…。その弟、狛犬の

片割れも相当な物と聞いている。五人か…。不破潜霧捜索所が最盛期に抱えていた一等潜霧士の数と同じ…。総戦力で言えばあ

の頃には及ばないが…、さて、どうかな」

 そこへ、「マジラ様…。ここでのんびりしてるの、危なくないすかね?」と、猿のメットを被った男が不安げに口を挟んだ。

「今の揺れって、「予兆」じゃないんですか?」

「うん、マクラが案じる通りだ。その可能性はだいぶ高いな」

 龍のメットを被る男は何でもない事のように頷くが、猿は気が気でない。そして、いつもマジラの傍に仕えている鼠のメット

を被る男も、「揺れの被害が出難い所へ移動しましょう」と提案する。

「そうしよう。しかしこれで一つ、かねてからの疑問が解決した。喜ばしいとは言い難いが」

「疑問?」

 狼が胡乱げな声を発し、次いで腰の鞘に左手を据える。

 瞬き一つの間に右手が柄を握り、その視線は衝立のように残った壁を越えて飛び込んで来た影に据えられた。

 それは、真っ赤な目を持つハクビシンのような生物。コブラのような鋭い毒牙と、手足の間には宙で自在に体勢を変える被膜、

燕のような尾を持つ異形。

 鋭い鉤爪を唸らせて踊りかかった野襖は、先の揺れで気が立っている。猿が取り乱し、狼が迎撃姿勢を取り、鼠が腰から電磁

ロッドを抜いてジギンッと伸ばす。が…。

 パチン…。

 指を鳴らす音が、籠ったように霧に響いた。

 その瞬間、野襖は突然宙で仰け反り、白い気体を発しながら落下。一同を飛び越える格好で地面に激突し、石膏像のように砕

け散る。

「な、な、な…?」

 猿が混乱しながら、バラバラに崩れた野襖の残骸を見下ろす。

 それは湯気のような白い気体を上げているが、熱的には真逆。ドライアイスと同じように冷気を溢れかえらせている。

 野襖は一瞬の内に全身を凍結させられていた。それを成したのは…。

「マジラ様、この程度はお任せ頂かなければ…!軽々にお力を見せられてはなりません…!」

 鼠のメットが咎めるように、珍しく少し強い口調で囁く。

「ああ済まなかった。突然の事に驚いて、つい、ね。自分では落ち着いているつもりでも、現場慣れしている皆のような平常心

は難しい物だな」

 指を鳴らした右手を下ろし、小さく自嘲する龍メットを、狼は無言で見つめていた。

(異能…やと…!?)

 龍メットの下には人間の顔がある。マジラはステージ8どころか、獣化が進行している様子が全く見られない人間のはず。そ

れが…。

「今のは、ナイショで」

 マジラが人差し指を口元で立てる。悪戯っぽく冗談めかした仕草だが、狼も猿も他言する気はない。

 大穴との付き合いは長いが、「こんな異常」…人間が異能を使う様を目にするのは初めての事だった。

「ああ、先程の話の続き…、「疑問の解決」についてだがね」

 マジラは軽く肩を竦めた。凍結破壊された野襖の残骸が上げる、冷気の煙の中で。

「チエイズは機械人形を多数のチームで派遣し、探査をさせている。これは状況から言って間違いない事だ。そこに…」

 声に微かな笑いを含ませてマジラが続ける。何の笑いなのか、何が可笑しいのか、狼には判らない。

「恐らくは前震に過ぎないだろう今の揺れが起こった。近々地殻変動が起こるのはほぼ間違いないと見て良いだろう。さて、そ

れで機械人形達はタイミング良く前震の前から地表に来ていた訳だが、「かもしれない」という不確かさでこれほどの戦力を送

り込むほど、チエイズは無駄に寛容ではない。であれば、今回のこれは事前に地震が起こる事が判っていなければおかしい規模

の派遣だと確信できる。本当に大きな地殻変動があるかどうか疑わしいというレベルなら、もっと小規模になるはず。時期を含

めて確実視していたからこその、この大規模派遣だ」

「…?」

 猿が眉根を寄せる。確かに、自分達は「地殻変動が起こる可能性がある」という前提と、「その予兆を掴む事ができるかもし

れない」という展望に沿って南エリアを訪れたが、確実ではないのでこの少人数対応。所属組織の主だった作戦ではなく、マジ

ラ個人の思惑による内密の視察なので規模も小さい。

 だが、機械人形の投入数は、彼が言う通り異常とも言える規模で…。

「十年前は混乱のせいで正確な記録が取れていなかった。予兆のような物も無かったので事前に調べもできなかったし、全域で

流出事故が発生したせいで事後調査もだいぶ遅れた。だから確信は得られなかったが、今回はまぁ随分と判り易い」

 龍を象ったメットのこめかみ付近を指先でコツコツ叩いて鳴らし、マジラは含み笑いを抑えながら言った。

「ああやはり、やはりか…。君は「四十年前の大隆起も予測していた」んだろう?」

 ゾワリと、狼が、猿が、被毛を逆立てる。

「あの日、君は大隆起が起こると知っていながら、あえて私達を…。そうだったんだな?チエイズ…」

 マジラの小さく抑えた、囁くような声と含み笑いを聞きながら、チャウンドゥラは犬型メットの下で素顔を冷や汗まみれにし

ていた。

 チエイズを直接知っているような口ぶり。

 人間にしか見えない身で行使される異能。

 何から何まで判らなくて、「何なのか」全く見当がつかない。

(何や、この男…!一体何者や…!?)

 

「タケミ!何ともないっスか!」

 負傷者の応急処置を済ませ、引き上げ準備をしながら待っていたパグとシロクマは、甚大な被害を受けた潜霧団を連れて戻っ

て来た三名を見て、ひとまずはホッとした。

 タケミが肩を貸していた潜霧士を引き受けたアルは、「凄い揺れだったっス」と顔を顰める。

「うん…。止まってよかった。この状況であのまま続いたら…」

 ベースキャンプは大丈夫だろうかと、タケミは不安がる。

「今のとこ新しい救難は出てないです。撤収時と見ますが、トヨッペのとこも一緒に引き上げますよね?」

 パグの問いに、こちらへ合流していた残りの仲間達が全員無事である事を確認したシオミチが「うむ」と頷く。豊平丸潜霧団

のメンバーは皆が皆海洋哺乳類系。月乞いよりも人数は少なく総勢七名だが、救援をはしごして一人として負傷していない辺り

に、腕利き揃いの風格が感じられる。

「こっちだけでこれ、怪我人が多過ぎる。治療もそうだが、ゲートの外に運び出すのも急がねばだぞ。五体満足な者の方が少な

そうな状況だ。忙しくなる」

「じゃあ、急いで戻りますか。露払いはこっちが…。テンドウ、縦列で掃討進行だ」

 パグがテンドウを見遣る。マラミュートは顎を引くと、「無人の野を悠々ついて来るがいい」とハルバードを肩に担いだ。

 足が早く、負傷していない者達が先行してルートの安全を確保、そのまま経路上を見張って誘導する安全策で、一行はベース

キャンプを目指す。

「トドのオッチャンに変な事されなかったっスか?」

 意識が無い潜霧士を一人おぶり、負傷者に肩を貸して歩きながら、アルはタケミに訊ねた。二人担いで前方を歩くセイウチの

背中に、チラリと疑惑の目が向いている。

「トヨヒラ団長はトドじゃなくて、セイウチの獣人だよ?」

「ミステイク。海獣って見分け難しいっスね…。で、何も無かったんス?戦闘とか救助とか潜霧仕事だけっス?」

「うん、それだけ…」

 少年もセイウチの背を、そっと窺うように見遣る。肥えた低重心ボディは大人二人を軽々と担いで安定し、歴戦のダイバーの

風格が漂う広い背中は、近くにあるだけで頼もしかった。

 結婚しようと言われた。

 シオミチの態度は、冗談にしては熱が入り過ぎていたようにも感じられて…。

(ボクまだ結婚できる年じゃないけど…)

 タケミは保護者の顔を思い浮かべる。

 ユージンは白神山地の実家に帰っている時、酔っぱらうとたまにタケミに言っていた。早いところ夫でも妻でも見つけて、墓

前に報告して安心させてやれよ、と。

 その後で、「まぁまだ結婚は早ぇか!」と笑いだすのだが…。

(…ううん、よそう。今はそんな事考えてる場合じゃないし…)

 自分達が置かれている状況に集中しようと、思考を切り替えるタケミ。それを察したのか、シロクマは何か言いたそうな顔で

はあったものの、口に出すのはやめた。

 

 

 

 霧が緩い風で南へ連れてゆかれる中、キャンプ周辺を巡回警備していた月乞いのハスキーが、霧の中から接近して来る大きな

影に気付く。

 人間離れしたサイズに一度は警戒を強めたものの、それが人影であり、合図するように大きく片手を上げている事に気付くと、

警告信号発信に備えてコンソールに伸ばしていた手を離す。

「大将。おつっす。御無事で」

「おう。そっちもご苦労」

 会釈したハスキーに頷いたのは赤味を帯びた金の被毛を纏う熊。救援に出た者と、保護されて引き上げた者の内、最後に戻っ

たのが最も遠方まで出たユージンだった。

「状況は?…と、思った通りか」

 負傷者の到着に合わせてキャンプにはテントが次々増設され、簡易治療室がもう八つになっている。入りきらない者は、最初

こそ大型倉庫の壁に寄って休まされていたが、先の揺れを受けて離れた場所に移動し、簡素な風除けの幕を張った影に寝かされ

ている。

「ボイジャーは出たのか?ヘイジはどうしてる?」

 大型作業機が見当たらない事に気付いたユージンに、ハスキーが「「ムジナ」は積荷を全部下ろしまして」と説明した。

「処置を終えて動かせるようになった負傷者を、ゲートまで送致してます。「狛犬」が警護に入ってますから、御安心を」

「判断が早くて助かるぜ。…む」

 ユージンはハスキーの頭の向こうに、近付いて来るズングリムックリした影を認める。

「誰かと思えば…、ご無沙汰です大将!挨拶が遅くなりました!」

 のっしのっしと歩み寄りながら破顔したセイウチに、金熊も口の端を上げて笑い返した。

「おうトヨッペ。昨日ジオフロントから上がったばかりじゃなかったか?休み無しで出とったのか、ええ?」

「助力が欲しいと月乞いが言うなら、是非も無しというヤツです。普段から世話になっている間柄ですから。それはさておき…」

 再会の挨拶もそこそこに、シオミチはユージンへ手短に状況を説明する。おたくの少年について…という話題にも触れたかっ

たが、優先すべき事に話を絞った。

 被害は大。十年前以降最悪の負傷者数。主だった潜霧団が出ていたせいで負傷者が増えたと見るべきか、戦力が固まっていた

おかげで相互救援が利いたとみるべきか、死者が出なかっただけ幸運だったと言える。

 地震によるゲートと長城の被害は、字伏兄弟とヘイジが到着しない事には判らないが、要補修箇所がいくつも発生したと見て

間違いない。今日に限らず、数日は気が抜けない状況が続くし、もしどこか崩落していたら住民の危険も増す。

 留意すべきはインフラ。電力と水道は心配である。長城の機能は最低限の非常電力で賄えるが、その間は市街地の方で皺寄せ

を食らう。

「展望は暗いか」

「なんの。命が一つも減っていません」

「そうだな。その点は上々だぜ」

 応じたシオミチの分厚い胸を、ノックするような手つきでドンと叩いて口元に笑みを浮かべ、ユージンはテントに歩き出す。

「戦力は充分だろう。ワシはドクの方を手伝ってくる。こっちは任せたぜ、ええ?」

『は!』

 ハスキーとセイウチが背筋を伸ばして敬礼し、金熊を見送り…。

「ところで…」

 たったいま思い出した、あまり重要ではなかった、そんな素振りを装いながら、ユージンはふたりを振り返った。

「あ~…、ウチの若手連中は、どうだ?ちゃんと働いてたか?」

「ドクの手伝いで大活躍中です!良い指導ぶりですな!…看護…!敏腕…!手当されたい…!」

「…そうか。なら良い」

 セイウチの返答を聞いたユージンは、大股にテントへ向かい…。

「どんな具合だ、ドク?」

 テントの幕を潜った金色の熊に、意識が無い潜霧士の傷を縫合していたマヌルネコが目も向けずに「助かってる」と応じた。

「先生お湯沸きました!ボウルの煮沸もオーケーです!消毒済みの器具こっちのトレイに纏めてますから…、あ、所長!」

 ドクの助手をしながら負傷者の応急処置も並行し、アルへの簡単な作業指示を含めてテキパキと働いていたタケミが、ユージ

ンの帰還に気付く。最初こそ邪魔になるかもしれないと遠慮していた少年だが、手が不足している状況を見かね、おずおずと申

し出てドクを手伝っていた。

「おう。働けとるなタケミ?」

「は、はい。できる限りの事だけですけど…。あ、アル君空いた診察台のビニールシートかけかえてくれる?」

「ガッテンっス!あ、所長お帰りっス!」

「おう」

 タケミの指示で、分厚く重い血と薬品まみれのシートを寝台から外し、新しいシートに掛け替えたシロクマが、「次のひとど

うぞっスよー!」と順番待ちの負傷者を呼びに出て行き、肩を貸して運んでくる。

 その様を視界の隅で確認しながら、ドクは「驚いた」と漏らした。

「ふたりともこっちから逐一指示しなくても動ける、痒いところに手が届く働きぶりだ。しかも片方はこの歳で免許持ちとはな。

よく仕込まれてる」

 手元を注視したまま話すマヌルネコ。口調は素っ気ないが最大限の賛辞である。むしろ、これだけ働けるにも関わらず自信が

無さそうに手伝いを申し出たタケミについては、謙遜が過ぎると感じていた。

 止血などの急ぎの措置だけ済ませ、治療を待たせている負傷者はまだまだ控えている。気は抜けないが、それでもタケミとア

ルの手伝いや、処置済みの患者の搬送が進んで、ドクは頭にも手にもだいぶ余裕が出てきている。

 一方で、タケミとアルが無事なこと、役に立っていることを確認し、ホッとすると同時に短い尾を小さく揺らしたユージンは、

俄然やる気が出て眉を吊り上げた。

「警戒人員は間に合っとる。ワシもこっちの助っ人に入るぜ」

「助かる。コード類の配置だけ気を付けてくれ。取り急ぎの応急設備だからカバーも無いし普通に躓く。おたくのキャリアーに

動線も二の次で、とにかく早くしてくれとせがんで配置して貰ったからな」

 注意を促された金熊は、足元の線を辿ってテント内の持ち運び式発電機に目を止めた。

「動力も確保できたのか?」

「あの狸にも驚かされた」

 腕まくりし、消毒した上で手袋を着用しているユージンに、ドクが縫合糸を切りながら応じる。

「撤収して来た潜霧団の宵越し用の発電機を、その場で出力調整して、医療機器に使えるように電力を安定させて見せた。それ

まではあの大型作業機が発電してくれていたが、処置が済んだ患者を作業機でゲートまで運搬してやるために、別途動力が要り

ようになってな。流石は相楽工房長の弟、腕も判断も的確だ」

「本人には言ってやるなよ?比べられると意識するからな」

 順番待ちだった患者の手当に取り掛かりながら、ユージンは頭に図面を描く。行動を推奨できない負傷度合いの者は、Dゲー

ト付きの潜霧士全体から見て三割にのぼる人数だという。動けるものの戦闘は不可能という者も含めれば半数以上だとも。

 揺れへの警戒や機械人形の襲撃に対する備えなど、残る人数で対処しなければならない。ここから先も重労働だと気を引き締

める。

「日暮れまでに全員を搬送できるペースで処置を済ませる。働いて貰うぞ」

「おし、徹底的に付き合おうじゃねぇか。…タケミ、アル」

「は、はい!」

「うっス!」

 マヌルネコと会話していたユージンが唐突に話を振り、少年達が手を止めた。

「気張ってけ。ただしバテねぇように息も抜け。日が沈むまで休めねぇぞ?ええ?」

『了解!』

 かくして、怪我人の応急処置と、ボイジャー2、あるいは人力運搬での負傷者搬送が日没まで続き…。

 

 

 

「長城に生じた亀裂は多いものの、倒壊に及ぶような被害は無いそうだ。安心するだろうから、皆に長城は心配ないと連絡を」

「お任せを」

 組合事務所から出て来たグレートピレニーズを迎え、省電力照射の黄色い照明の下でマラミュートが顎を引く。

 ゲートロビーは閑散としており、交代で警戒に当たる潜霧団の第一陣が、長城のすぐ外側で待機していた。

「電力がすぐに復旧したのは幸運だった。無事な設備はそのまま稼動できるし、風車も問題ない。それに、不安な中では、灯り

の有る無しでもだいぶ違うからね」

 ウンウン頷いているテンドウだが、不安という物を正しく認識できていないので、兄が言うならそうなのだろうと頷いている

に過ぎない。むしろ彼の内心と注意力は、働いて薄汚れてなお背筋の伸びている兄に惚れ惚れするのに忙しい。

 主だった潜霧団のトップが顔を合わせた打ち合わせで、人員を交代で出して寝ずの番に当たる事が決まり、月乞いも率先して

ローテーションに加わった。テンドウは約一時間後に交代に入り、ジョウヤも少し休憩したら夜半に正門防衛に出る。

「今のうちに少しでも休んでおいておくれ、テンドウ。僕も休憩しておくから」

「了解しました」

 そうして、一度本部に戻ろうと歩き出したふたりは、

「ちょっと済んまへん。お時間よろしいです?」

 歩み寄って呼び止めた狸に顔を向けた。

「おや、何かあったかな?修繕に必要な資材などが足りないなら、何でも言っておくれ」

 簡易修繕や機器の復旧を手伝っていたヘイジは「いえ、手伝いは一段落ですわ」と肩を竦めた。

「民間の技術屋はんが優秀なんで、ワイが手伝う事もそんなにありまへん。日常的に不具合と戦うとるひと達は違いますわ。で、

団長はんも今から少し休める時間があるんで?」

「二交代後だから、一応四時間以上は大丈夫かな」

「…ほな、あんま余裕ないサイクルに割り込んでもうて、ホンマ済んまへんですけど…」

 ヘイジはジョウヤに手を合わせた。

「少~しだけ、お時間取らして下さい」

 

 

 

「バテ…た…」

「ミギニオナジっス…」

 宿泊している建物の、月乞い本部の会議室で、タケミとアルは机に突っ伏して呻いた。

 傍にはクッキーのような乾燥食料の包装紙と、空になった紅茶のカップ。やっと食事にありついて休めたふたりは、まだドク

に付き合ってゲート内の医療室に留まっているユージンの事を思う。

「スタミナ底抜けっスね、所長…」

「大人になると、ああなのかな…」

 そこへ、ドアを開けて狸とパピヨンが入室する。

「お邪魔するで~。おっと屍めいとる~。そんなお二人はんに差し入れや、腹に入れとき」

「トヨッペさんが備蓄のドライフルーツを放出してくれまして。全員に行き渡る量です」

 無事だった者は今夜は交代で寝ずの番。ゲート付近に詰めて機械人形の動向に注意する警戒態勢が続く。タケミとアルだけは、

未成年は夜間配備に加えないというジョウヤの方針で外されたが、例え加わっても満足に働けるかどうか怪しい疲労具合だった。

 地震による長城の破損確認に、機械人形の動向警戒、そして揺れで気が立っているだろう危険生物の活発化への注意…。街中

も損壊部分が見られ、水道管の補修などで忙しく作業車が行き交っている。怪我人による人手不足もあり、霧に煙る街は日が沈

んでも忙しない。

「若いのに、皆さんより疲れてるなんて…」

 気にしてしまうタケミに、ヘイジはカラカラ笑って言った。「そら年の功やさかいな~」と。

「スタミナ配分やら効果的な手抜きやら、年を重ねへんと掴めん事もあるんや。この辺りは経験でしか身につかへん」

 常に気を張り続け、集中したままでは、疲労の蓄積で動けなくなり、判断力も思考力も鈍る。だからベテランの潜霧士は、何

日間にも及ぶ潜霧でポテンシャルが落ちないようにペース配分をする。タケミとアルはこの辺りがまだまだで、頑張り過ぎてし

まうのである。

「バナナチップうめぇっス…。ゴゾーロップに染みわたるっス…」

 机の上に顎を乗せて突っ伏したまま、モチョモチョとドライフルーツを味わうアル。しみじみとした声に頷いたタケミの顔を、

ヘイジは何か考えている様子で見つめていた。

「お口に合うか判りませんが、バターケーキをご用意します。長期保存対応品なのでケーキ屋の物には敵いませんが、お疲れに

なった体には良い補給になるかと。冷えたレモネードもありますので、お部屋の方に運びますね」

「やったーっス!」

 身を起こすアルと、戸惑うタケミ。物資の不足状況は判って来たので、少年は貴重品だと直感した。

「ほな、二人ともたっぷり休んで貰うとして…。悪いんやけどタケミはんだけ、部屋に戻る前に付き合うてくれへん?数分で済

むんやけど…」

「あ、はい。大丈夫です」

 席を立った少年は、パピヨンに連れられてケーキと飲み物を運びにゆくアルと別れ、ヘイジについて部屋を移動する。

 狸が少年を連れて行ったのは、月乞い本部内の小さな、数人でちょっとした休憩などを取るための部屋。タケミはまだ入った

事が無かったその部屋の戸をヘイジがノックすると、「どうぞ」と中から声が応じる。

(団長さんの声?)

 気付いたタケミはヘイジに続いて部屋に入り、そこにジョウヤの姿を認めた。

 いつでも出られる戦闘服姿なのは普段通りだが、これまで付けていなかった眼鏡のような器具を、太い鼻梁に乗せる格好で装

着している。

「やあ、お疲れ様タケミ君」

「だ、団長さんも…!大変お疲れ様でした…!」

 深々と頭を下げて労うタケミ。撤収作業の最中に何度か遠目に見かけたものの、お互いに忙しかったので、落ち着いて会話は

できなかった。指示を出しながら自らも精力的に働く巨漢を、遠目に眺めて苦労を感じたりはしていたが…。

「救援戦闘に怪我人の救護、八面六臂の大活躍だったとハグラ君やドクから聞かされたよ。ありがとう」

「い、いえ…!」

 緊張と照れで固くなるタケミの肩を、ポンとヘイジが軽く叩いて、椅子に座るよう促した。

「ほな、タケミはんは団長はんと向き合って、椅子に座って貰いますわ。何するか説明するで~」

 膝が少し離れる程度の距離で、椅子に座って向き合う格好になった二人の横手から、ヘイジは少年に説明を始めた。

「ワイの異能については、タケミはんには有効射程から条件、応用範囲なんかの実用部分は勿論、しくみについても理解しても

ろうとるけど…」

 戦闘行為でのサポートやコンビネーションに不具合が生じないよう、ヘイジは少年に自身の異能…スタンダード・チープの詳

細な説明を行ない、理解度を高めている。改めて説明するまでも無く判っている事を前提に、狸はタケミにこれから試みる事を

伝える。

「ワイも初めての試みやさかい、上手く行く保証はあらへん。それを前提に聞いて欲しいんやけど…。これからワイは、団長は

んの視覚にインタラプトできるか試してみたいんや」

「え?」

 少年の目が丸くなった。

「普段と勝手も違う使い方やさかい、ダメで元々なんやけど…」

 ヘイジはジョウヤが着用している眼鏡型の装置を示し、これが簡易カメラやモニターの役目もこなす私物のウェアラブルデバ

イスである事を少年に説明した。要はこのデバイスでジョウヤの視界を撮影し、ヘイジのゴーグルに映像を転送、狸が視認した

それをグレートピレニーズの視覚に割り込ませる。上手く行けば、ジョウヤは自分の視界に近い視座から得た映像を見る事がで

きるはずだ、と…。

「まぁ、失明した者に能力を行使した事は今までなかったそうだから、どうなるかは判らないんだけれどね」

 グレートピレニーズが微笑する。「物は試しだ」と。

 これにはタケミも小さく頷く。ヘイジが視覚にアクセスしても、失明した者の場合は視覚がまだ活きている事になるのかどう

かが判らない。見えない目に物を見せる事が本当に可能かどうかは、試してみる他にないのだろう、と。

「で、タケミはんには被写体を役して貰いまっせ」

「でも、それだったらテンドウさんとかの方が…」

 ジョウヤの実の弟の方が喜ぶのではないかと考えたタケミは、

「ぬか喜びさせるのもアレやから、とりあえずナイショで試したかったんや」

「ダメだったらガッカリさせてしまうからね」

 ヘイジとジョウヤの言葉で納得する。

「ほな、早速試してみるで?」

「うん。頼むよ」

「はい…!」

 少し緊張気味の少年を窺いながら、普段用の眼鏡から潜霧で使うゴーグルにつけ変えたヘイジは、

(堪忍やで、タケミはん…)

 ジョウヤと示し合わせて少年についた、ささやかな嘘を詫びながら、少し前の事を思い出す。

 

「…視覚への割り込みは、僕にも有効なのか…」

 ヘイジが見ている風景…自分の姿を見ながら、ジョウヤは驚いたように呟く。

 グレートピレニーズの自室。二人きりで向き合いながら、ヘイジは自分の視覚情報をジョウヤに見せていた。

「昨日思い付きで大将に提案してみたら、スタンダード・チープは網膜も視神経も介さへんで視覚情報に割り込むタイプやさか

い、ひょっとしたら…て言うてましたけど、どうやら有効らしいですわ」

 失明して以降ジョウヤも何も試さなかった訳ではない。だが、これまでは目に干渉するタイプの異能を受けても効果は無かっ

た。網膜に投影するタイプや、視神経に信号を送るタイプは、組織自体が死んでいるジョウヤには無効だったのである。

「…ところで、この視覚情報は正確かい?」

「正確ですよ?加工も何もしてへん、ライブ映像ですわ」

「…そう…かい…」

 軽くグレートピレニーズの眉が下がった。

「どないしたんです?何や落ち込んでます?」

「いや…」

 ジョウヤは両手を自分の腹部に当て、胃の辺りから臍の辺りまでを撫でる。向き合っているヘイジの視界が投影されているの

で、感覚的には鏡を見ているような具合だが…。

「感慨深い、十年ぶりの光景…。感慨深いよ。うん…」

 大きな手が、衣類越しに腹肉をムギュッと掴んだ。

「僕…、こんなに太っていたのか…。コストパフォーマンス重視でカロリーバーを主食にしていたツケが、コレか…。もう少し

健康的な食事を心がけないと…。だは…!」

(見えた感動よりそっちですのん!?)

「でも、ありがとう。懐かしい気持ちだ。忘れていた感覚を、もう一度こうして味わえたのはとても嬉しい」

 頬に手を当て、自分の顔の感触も確かめながら微笑んだジョウヤは…。

「ほな、「甥っ子はんの顔」も、見てみましょ」

 ヘイジの言葉で凍り付いたように動きを止めた。

 突然過ぎて驚かせてしまったなと、狸はガシガシ頭を掻く。

「字伏家とタケミはんの事は、昨日大将から教えられまして…。タケミはんに関係を伏せたまま接してはる事情も理解しとりま

す。誰にも言いまへんからご安心を」

「そう…か…。ユーさんが教えたなら、心配は要らないという事だろうとも…」

 ジョウヤは小さく息を吐き、体の脇に下ろした手を軽く握り込んだ。

「目にできるのか…。あの子の顔を…」

 抑えた声に期待と喜びを感じ取りながら、ヘイジは「ええ、見えまっせ!」と力強く肯定した。

 ヘイジが目を負傷したのも、ジョウヤが失明したのと同じ原因だった。

 十年前、機械人形が散布した毒ガス…。獣人の皮膚や人間のスーツで防げるソレは、しかし粘膜には多大なダメージを与える

代物だった。それまでの浄化装置やフィルターを貫通するこの毒ガスは、当時伊豆半島で甚大な被害を生み、対策が確立された

今もなお、忌まわしい記録として潜霧資料に編纂されている。

 同病相憐れむという所もあるのかもしれないが、ヘイジは視力を奪われたジョウヤにタケミの顔を見せてやりたかった。

 そしてもう一つ、ヘイジが個人的に抱えている心残りもまた、その背を押していた。

 「いつか」などあてにならない。

 いつか恩を返したいと思っていた大恩ある家族には、永遠に恩返しできなくなった。忘れ形見を育てるのが精一杯で、できて

も埋め合わせがせいぜいになった。

 潜霧していれば命の危険は常にある。仮免だろうとベテランだろうと死ぬ時は死ぬ。一等潜霧士でも命を落とすし、殺しても

死なないようなダイバーも死ぬ。

 事実、今日はタケミもアルも、遭遇状況次第では上位機種に殺されていても不思議ではなかった。

 「いつか見せてやりたい」では、叶わなくなる事もある。未来の保証など何処にも無く、指切りできる明日など無い。タケミ

が死ぬ事も、ジョウヤが死ぬ事も、霧の中では有り得る。

「これから支度しましょ」

 戸惑うジョウヤに、ヘイジは強く訴えた。

「今夜がもう一回あるなんて、誰も約束してくれへん。明日には死ぬかもしれへんのがワイら潜霧士です。せやから、団長…」

 狸は異能を解除し、光を失っているジョウヤの目を真っ直ぐ見つめた。

「タケミはんの顔、是非見たって下さい…」