第三十九話 「字伏」

「だからね、ジョウヤ君。別に悪い事でも、哀しい事でもないんだよ」

 見上げた視界の中で、広がる松の枝を背に、姉はそう言った。サラサラと風に揺れる黒髪が、夕陽に映えて美しかった。

「父さんも母さんも、ボクが普通の家にお嫁さんに行って、普通の暮らしをして、普通に幸せになる事を望んでるんだ」

 庭に生えた古い松の木の、一番下にある一番太い枝がお気に入りだった姉は、その日もそこに座り、屋敷を囲う高い塀の、瓦

の向こうに沈む夕日を目で追っていた。

「そのために必要だって言う、うん、それだけの事」

 ショートカットが良く似合うから、十八歳という年齢よりも少し幼く、少年的に見えた。美人…というか、可愛らしい顔立ち

だと感じていた。整ってはいるが愛嬌もある、笑った顔が素敵なひとだと。

「ただ、ボクだけそうなるのは違うなって、思うけどね」

 姉弟仲は良かった。ボーイッシュで体を動かすのが好きなひとだったからよく一緒に遊んでくれたし、姉と兄の中間のような

付き合い方だったかもしれない。

「みんな必死だよ。必死になって大穴を何とかしようとしてる。ボクだってそのために技を磨いてきたんだ」

 自分には良くしてくれる一方で、他所のひとにはそれほど懐っこくなかった。人見知りという訳はないが、他人と話すのは緊

張する。特に一般人相手にはそれが顕著で、「普通でない家の子」という目で見られないかと、固くなりがちだった。

「だから、ボクだけ「普通になるなんていう特別な幸せ」は、ちょっと受け取れないなって」

 優しくて面倒見のいい姉だった。少し歳は離れていたが、物心つく前から一緒に遊んでくれた。忙しい両親や祖父母に代わっ

て世話を焼いてくれた。慕っていたし、憧れてもいたように思う。誰よりも理解し合っていたと、あの頃は思っていた。

「大きくなったらジョウヤ君にも判るよ。…あ、体はもうボクより大きいけど、中身の方ね?」

 だから、家を出る事が決まっていたと知り、どうしてなのかと問い詰めに行った自分に、姉が向けた表情は衝撃的だった。

「いい男になるんだよ?ジョウヤ君」

 困ったような顔で泣き笑い。後にも先にも、姉の涙を見たのはあの時だけ。

 お気に入りの枝にさよならして地に降り立った姉は、少し背伸びして、昔からそうしてきたように頭の上にポンと手を置いた。

 その夜、姉は屋敷から姿を消した。

 両親から勘当されたと、次の日に聞かされた。

 あの頃は何も知らなかった。

 使命に拘泥する字伏郎党が、次第に歪みつつあった事も。

 掲げた大儀の為に犯し、抱える、罪すら是とする業の深さも。

 資質に恵まれた姉を母体にし、様々な優れた男性と掛け合わせ、霧に挑む子供らを量産する計画が持ち上がっていた事も。

 両親が姉を勘当したのは、縁を切るという形で字伏から遠ざけるためだった事も。

 あの頃は、何も知らなかった。

 

 

 

「ああ…」

 我知らず声を漏らしたグレートピレニーズの口元が、微かにわなないた。

 あの夕暮れの風を感じた。長らく記憶の底に押し込めていた、生家の空気を肌で感じた。

 目の前に少年が座っている。心配そうな、そして緊張しているような顔で、こちらを窺っている。

 色白な肌だから目立つ、頬にほんのりさした朱。

 サラサラとした黒絹のような髪は、短めを好んだあの人と印象が似る。

 ふっくらした丸顔や体型は似ていないが、困惑しているようなその目元には…。

(面影がある…)

 光を失った目が潤んだ。涙が溢れてなお、与えられた視界は滲まなかった。

 スタンダード・チープ(それは普通に下らない)と本人が自嘲するヘイジの異能がジョウヤに見せた物は、叶う事は無いと諦

めていた、望む事すら忘れていた物…。

「…!」

 向き合って座るタケミの顔が、驚きと戸惑いの表情を浮かべる。その瞳に映るのは、光を失ったグレートピレニーズの双眸が、

とうとうと涙を流す光景。

(団長さん…)

 タケミは、ジョウヤの涙の意味を知らない。十年ぶりに目が見えたのなら、感涙に両目が濡れるのも無理はないと思い、口か

ら出掛かった「どうしたんですか?」という問いを飲み下した。

 涙を流してなお曇らない視界でタケミの顔を注視し、感無量のグレートピレニーズは軽く鼻をすする。

 タケミの母、不破陽子の本当の旧姓は、一般に知られている物とは異なる。

 本来の旧姓は字伏。「字伏陽子(あざふせようこ)」というのが真の旧姓。勘当という体裁を取って字伏家から放逐された、

ジョウヤの姉に当たる女性であった。

 つまりタケミは、ジョウヤから見れば姉の子…甥。字伏から離れて「他人」という関係になった姉が、この世に遺した一粒種

であった。

 タケミの祖父やユージン、潜霧管理室の手回しがあり、「獣化適性がさほど高くない」という事になっているタケミの存在に

は、ヨウコの子であると知っている字伏郎党の一部も興味を抱かなかった。

 だがミツヨシとユージンは、ジョウヤにだけは秘密裏に、公的には「病院で出産後に亡くなった」事になっているヨウコの本

当の最期と、「出生直後から判明していたタケミの真実」を告げていた。万が一自分達に何かあった時に、少年を庇護して貰え

るように。そしてどうか、字伏本家がタケミを捕らえて作り変えたりしないように。

 そうして秘密を知らされながら、ジョウヤはタケミに会いたい気持ちを、姉が遺した大切な子を見たいという気持ちを、十数

年も堪え続けた。字伏本家に、字伏郎党に、少年が目を付けられないよう無関心を装い続けた。

 霧に挑む同胞となった事を知り、宿命のような物を感じながら、いつか共に潜る日もあるだろうかと、仄かな期待だけを胸に。

「ありがとう…」

 ジョウヤの呟きの意味を、微笑の理由を、タケミが真に理解する事はできなかった。

 生まれてきてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。会いに来てくれてありがとう。

 その真意を告げる事はタケミの安全の為に避けて、グレートピレニーズはただ一言に万感の想いを込めた。

 

 同時刻。

「ウォールC、ウォールEの被害はほぼ無し?」

「は。細い亀裂が内壁に認められた程度で、機能的に問題はなく、補修作業もすぐに済むと聞きました」

「そいつは良い。不幸中の幸いだぜ」

「は。救援などを求められても、満足な対応ができない状況ですので」

「全くだ。あっちでライフラインが切れたとしても、こっちはこっちで手一杯だからな」

 背筋を伸ばして述べるテンドウに、椅子に腰かけてボトルの水を飲んでいるユージンが肩を竦めた。

「負傷者も無しと見て良いか?まぁ、あちらはここよりいくらか医療従事者が多い。何とかなるだろうが」

「人的被害も報告はありません。問題無いと見て良いかと。そして…」

 激務と疲労を物語る、被毛がボサボサに乱れたマヌルネコの顔を見ながら、テンドウが応じる。「ドクも休息が必要と進言し

ます」と。

「戦力には替えと補充がまだありますが、医務に関してはドクをはじめとする専門家に代わりがありません。急を要しない怪我

人の措置よりも、より長く状況に対応すべく適宜休息を取って貰う事が望ましいでしょう」

 この正論にはドクも「判っている…」と、ブスッとした顔で応じるしかない。

 長城内、ゲート近くの医務室からほど近い休憩室。怪我人の手当てが一段落し、ようやく一息入れられたユージンとドクの所

へ、現状の報告を纏めて持って来たのはマラミュートだった。忙しくて周囲の情報を耳に入れる事もできず、気になっていたと

ころへ最良のタイミングでやって来たテンドウは、必要とされる情報だけ簡潔に纏めてふたりへ届けている。

「熱海じゃあ微震を感じた程度か…、えらく揺れの範囲が狭かったんだな。機械人形がやたらと集中していたのは気になるが…」

 言葉を切るユージン。最後まで言わなかったが、機械人形を前もって配置したような今回の状況から、兼ねてから抱いていた

「チエイズは地震を正確に予期できるのではないか?」という疑惑が確信に変わりつつある。

(爺さんもジークも疑ってた事だが、いよいよ可能性が高くなって来たぜ…)

 のそりと腰を上げて、金熊はマヌルネコを見遣った。

「ワシはそろそろ良いだろう。一旦引き上げるが、必要になったら声かけてくれ」

「判った。恩に着る」

 マヌルネコとマラミュートに見送られ、肩をほぐすように腕を回しながら歩き出したユージンは、考えるべき事を胸中で纏め

ていた。

 熟考すべき事は、機械人形とチエイズの動向を含めて色々ある。また、どうなったのか結果が気になっている事もあり…。

 

「できましたわ!」

「でかした、飲め!」

 部屋に戻るなりすぐさま訪ねて来たヘイジに、ユージンはニヤリと太い笑みを浮かべて缶ビールを押し付けた。

「ほな遠慮なく!団長はんの様子ですけどな…」

 テーブルを挟んで腰を下ろし、ビール片手に事の顛末をユージンに伝えるヘイジ。金熊は狸が立ち合ったジョウヤとタケミの

面会について詳細を聞かされると、目を細めて耳を倒し、嬉しそうな、そして少し寂しそうな笑みを浮かべる。

(ミカゲは無理だったにしても、ヨウコはタケミを抱えてジョウヤ達に会える未来もあった。当人達はどうだか知らねぇが、未

練だぜ…)

 タケミの両親とは親しい間柄だった。だがユージンは彼らの気持ちが判るとは言わない。納得できる部分もあれど、理解でき

ない所もある。彼らの選択は彼らだけの物で、結局自分が完全に理解し、納得に至る事はできないのだ、と…。

「何にせよ、これで少しはジョウヤの気が晴れたろう。ヌシが居て助かったぜ。改めて礼を言う」

「出費も労働も実質無しの仕事やさかい、必要経費もタカれまへんし~。改まられても困りますわ。で…」

 グビッと温くなった紅茶をあおったユージンは、

「何で大将はお二人から距離を取ってはるんです?」

 唐突に、不意打ち気味に投げかけられた狸の問いで鼻白んだ。

 ヘイジは気付いていた。タケミとジョウヤの間に、ユージンが過剰なほど立ち入ろうとしない事に。理由を問う形でその点を

指摘された金熊は、少しの間動きを止めて沈黙していたが、やがてフンと鼻を鳴らす。

「深い理由はねぇ。単に、ワシが保護者面して嘴を挟むような事じゃねぇって考えてるだけだ。確かにワシはタケミが赤ん坊の

頃から知っとるし、後見人でもある。だが血縁者じゃねぇ。叔父と甥の、やっとの逢瀬に水をさすのは野暮ってモンだ」

「はぁ…。納得はしますけど、大概な堅物ですなぁ」

「ほっとけ」

「…これは、大将もまだ答えが決まってへん事かもしれまへんが、一つ質問ですわ」

「何だ?」

 明確な答えはないかもしれないと、わざわざ前置きした狸の顔を、ユージンは胡乱な表情で見遣る。ヘイジは頭が切れるし他

者の心理をよく理解する。その上で、答えが決まっていないかもという前提でも問いたいなら、よほどの事だろうと思えた。

「タケミはんと字伏家の関係、大将はどうお考えです?あるいは、どないなるのがええて、思うてます?」

「その事か…」

 ユージンは難しい顔で口元を曲げる。

 その点については確かに、ユージンも答えを決め兼ねている。

 「今の」字伏郎党に少年の身柄を預けるのだけは有り得ない。テンドウがどうされたのかを見れば、その事だけは確かである。

今のところはタケミの特異性に気付かれていないので、即座にどうこうという事は無い。が、もしも興味を抱いたら、稀有な資

質と実力に価値を見出したら、どう動くかは判らない。

 最悪の場合、拉致などの強引な手段に出る可能性もある。大義のためなら何でもやる…もとい、行なう事が悪だという認識す

ら欠落してしまっているような節もある連中なのだから。

 ただし考え無しの輩ではない。少年がユージンの庇護下にある限り、例え気付いたとしても、リスクを考慮しておいそれとは

手を出さないはず。

「ワシが健在な限り、タケミを攫うような真似はしねぇだろうよ。…やるとすれば親権絡みで法律を盾に取ってワシから取り上

げるという手段だが…、そいつは実力行使と同じ程度に不可能だな」

「何でです?」

「ウチの顧問はマミさんだぜ?」

「あ、納得」

 法を利用してタケミの身元を正当に預かるという手段は、あのアライグマが居る限り無理だろうなと、ヘイジは神代潜霧捜索

所の会計法律経営諸々の顧問の顔を思い浮かべた。

「先生も、タケミはんのお袋はんが字伏の出やて、ご存じなんですな?」

「タケミを護る為に手は尽くしたからな。マミさんも当然味方に抱き込んでる。勿論、カズマちゃんもみすみす渡す事はねぇ。

タケミの存在は貴重以前に、「爆弾にもなり得る情報」だからな」

「それは判りますわ。ひとの姿から獣人の姿に、そしてその逆行も、自在に短時間でできるなんて…」

 ユージンが言いたい事は、詳しく説明されるまでもなくヘイジにも判る。

 タケミは人間なのか、獣人なのか。その論争は勿論持ち上がるとして、狸が想像するのは理屈ではない、感情論からの世論の

動き。

 獣人は因子汚染を受けた「患者であり被災者」。政府がそのように認定しなければならなかったのは、被害者であるという立

場を持たせなければ、人間ではないという排除論と、あけすけな差別及び排斥運動を抑え込めなかったからである。

 初確認から四十年。今や伊豆半島では獣人が普通に居て、白神山地など数少ない受け入れ先では、珍しくもない存在として住

民の仲間入りを果たしている。

 少数ではあるが、そういった受け入れ態勢が整っているコミュニティ以外で生活する獣人も居るのだが、そちらの大半はあま

り穏やかとも言えない生活となっている。

 短くない時を経てなお獣人は多くの人間に嫌悪、忌避されがちな存在。増えたとは言っても獣人はまだ100万人もおらず、

世界的に見れば人口の
0.0001%程度。獣人が集中している日本ですら8千万人の国民に対して獣人の数はおよそ80万人。40

年経ってもまだ1%程度しか居ないのである。

(まぁ、中には獣人の方がええて言う、奇特なモンもおるけど…)

 ヘイジが金の為に体を売っていた頃、少数ではあるが人間の客も取っていた。物珍しさから単にどんな体か見たかっただけの

者も居るだろうが、「獣混じり」の容姿を忌避するどころか、好ましいと感じる者も少しは居るのである。

 だが、そんな少数派と出会えるならば別として、受け入れコミュニティ以外の土地で暮らそうとする獣人は、往々にして迫害

されがちなのが現状だった。

 そういった世間感情を前提に考え、「人間から獣人に姿を変える存在」、あるいは「人間に姿を変えられる獣人」が居ると知

られたらどうなるか?

 大パニックである。

 獣人否定派、かつ過激な思想を持つ者などは、疑心暗鬼に囚われて「人狼狩り」を始めるだろう。そしてそれに便乗し、「彼

は人狼だ」と虚偽の報告で隣人を陥れる者も間違いなく現れる。

 全世界規模での魔女狩りの再来。それを見越しているからこそ、タケミの人狼化は技術的応用も再現も不可能という結論が出

たにも関わらず、秘密を知る政府の一部は今もひた隠しにしている。

「しかし、先生なら飯の種になるて、タケミはんの情報をオモロく使いそうな気がしますけど…」

「ああ、そこは心配要らねぇ。マミさんも実利以上に優先するモンがあるからな」

「実利以上に優先するモン?」

 首を傾げたヘイジに、ユージンは片眉を上げて見せる。

「マミさんの息子と、未来の義理の息子が、タケミとは親しいんでな」

「なるほど」

 マミヤが実利よりも優先するのは息子達。その友人であるタケミが安全を脅かされるような真似はしない。ここにはヘイジも

納得である。

 その頃…。

 

「ヴァッショイ!」

 やたら気合いの入った、江戸っ子方式の声混じりくしゃみをかましたアライグマは、ホログラムで浮かぶ電子書類の灯りで照

らされている顔を、訝し気に顰めた。

「湯冷めでもしたか?いや…。ナミが父恋しさにタイキ君と話でもしているのかもしれない。…ふふ…。ぐふふふ…!」

 

「とにかくだ。法を盾にワシからもぎ取ってかれる恐れは低い。ただし、ワシから離れたら判らねぇってのが本音だ」

 ユージンは太い首を悩まし気に縮めて肩を竦めた。

「万が一って事はある。ワシに何かあった時、ダリア、マミさん、カズマちゃんには、タケミの安全を最優先で動いて貰う約束

を取り付けてある。…あとはタケミの意思次第だが、ダリアが後見人になるか…、ジョウヤ次第だが、もし関係を打ち明けるな

ら、身元をあっちに預けるって話も通してある。ここが悩みどころでな…」

 ユージンは「後者の場合、字伏郎党は強引な手に出る可能性がある」と、苦々しい顔でヘイジに告げた。

「元々あいつらは「身内であるが故の遠慮の無さ」がある輩だ。そうでなけりゃあテンドウをあんな風にはしねぇだろう。関係

性を明らかにしてジョウヤが引き取った場合、タケミを「うちのもの」として略取しかねねぇ」

 タケミの安全を考えれば字伏家とは距離を取らせるのが良い。しかしそこに、真実を知らない本人の意思は介在していない。

でき得る事ならば、全てを教えた上でタケミに判断させるのが筋だとユージンは考えているが…。

「タケミ自身が、字伏郎党でもどうにもできねぇような腕利きになれば問題ねぇ」

 金熊がそう言って、狸は「はぁ…」と曖昧に頷いた。流石にジョウヤやテンドウほどではないが、「字伏家」というのは怪物

共がひしめく伏魔殿のような物。今現在ジョウヤに代わって一族を取り仕切る老人の方針に基づき、善悪の理念に囚われない無

道を往く彼らが、もしその気になったらタケミでは抗えない。

「字伏側に、タケミはんの味方してくれそうな有力者はおらへんのです?」

「居るには居るが…」

 ユージンは軽く顔を顰めた。

「ほ?おられるんですか!何ならそっちの方にも話を通しとって…」

 パンと手を打った狸だったが、「それが難しい…」という金熊の言葉で首を傾げた。

「居ねぇんだよ、国内に。それどころか、今現在何処で何やってんだかも把握が難しい。スクネの野郎と一緒で、連絡を取るま

でが大変な手合いだぜ…」

「何でです?」

「猟師だ」

 ヘイジの問いに、ユージンは簡潔に答えた。

「ずっと海外を飛び回ってる」

「もしかして…、その人…」

 それが誰なのか、心当たりに思い至ったヘイジに、ユージンは「ああ」と広い肩を竦めながら応じた。

「世界最高の「猟師(ハンター)」字伏夜長(あざふせよなが)。ジョウヤとテンドウの叔父貴だ」

 

 月が照る砂浜を、大きな影が歩いている。

 擦り切れて色褪せたショートジーンズに、アロハシャツを羽織った巨漢は、サッキュサッキュと砂浜を踏み締めて歩いてゆく。

 地面に落ちる影からも判る、腹がデンと出た固太りの肥満体。歳の頃は判然としないが、少なくとも若くないようには感じら

れる。ただ、三十代と言われても四十代と言われても五十代と言われても納得できてしまう、年齢不詳の印象なのは、その顔と

表情のせい。

 垂れた耳。左右に色を振り分けられた頭部。白く、黒く、そして茶色く、彩られた顔は人間の物ではない。

 身長2メートル30センチはあるだろう、ぼんやりとした顔のセントバーナード。その琥珀色の瞳が月光を受けて、それ自体

が発光しているかの如く明るく輝いている。覇気のないぼんやりした顔と、遠くを眺めているような眼差しのせいで、若さが感

じられないだけでなく実年齢も判り難くなっていた。

 ぶらぶらと尻尾を揺する無造作な足取りで、明確な行き先も決めずにただ歩き、月夜の散歩を楽しんでいるような面持ちの巨

漢は、不意に足を止めた。

 ササァ、ササァ、と砂を洗う波が月に煌めく。その静かな浜辺で、巨漢は素足で踏み締めた地面から何かを感じ取った。

「居たなぁ」

 スッと、その右手が前へ翳される。手の平を下に向け、脱力した五指を開いて。

 その手が唐突にグッと握り絞められると同時に、周辺の大気がブブンと、虫の羽音を思わせる振動で震えた。そして巨漢の前

方…50メートル先で、砂地にボヅッと直径1メートルほどの穴が開いたかと思えば、次の瞬間には周囲5メートル四方がドー

ム状に盛り上がり、それを突き破るようにして、地面を震わせる轟音と共に砂が天高く吹き上がる。

 まるで地雷が爆ぜたように噴き上がった土砂。その中には甲殻類のような何かの、木っ端微塵になった残骸が混じっていた。

 地下10メートルに潜んでいた土蜘蛛の存在を、遠距離から察知するなり異能で攻撃。瞬時に爆砕してのけた男は、ぼんやり

した顔のまま目の上に手でひさしを作り、噴き上がった土砂を見上げる。

 原理的には地中貫通爆弾…バンカーバスターに近い。ただし巨漢はその破壊を実行するに際し、火薬も金属も必要としない。

ただその異能をもって実体のないエネルギー…自在に制御可能な衝撃波を叩き込むだけである。

「狩猟完了だなぁ。さぁ、安全確認したら、帰って御飯にするかぁ。今日の夜食、何にするかなぁ」

 のんびりした声で呑気な事を言いながら、セントバーナードは雨のように降って溜まった砂の山と甲殻の残骸へと、確認の為

に歩いて行った。

 

「…あの…あれでっしゃろ?アメリカ軍の軍事施設…霧の成分中和する薬剤の研究しとったトコが、タンクをボンさして片田舎

一帯が汚染されてもうた事件の…」

「おう。アレ解決したのもナガさんだな」

「霧入りタンク持ち込んだ過激派が、ニューヨーク市街地で爆破して成分散布した無差別テロ事件の…」

「おう。アレもナガさんが片付けたな」

「エーゲ海の…」

「ああ、そう言やぁあそこでも密輸危険生物の集団脱走を片付けたんだったな」

「…タケミはんの母方のお爺様の弟はん…て事になるんです…?」

「そうだ。まぁ今は…、マーシャル諸島辺りをブラブラしてるらしいって話も聞いたが、どうだかな…」

「何だってそないなトコに…」

「半年ぐらい前に、危険生物を密輸してた船が沈没して、中身があちこちに流れ着いたってニュースは知らねぇか?」

「何でよりによって南海の宝石みたいなトコに流れてってまうんです!?」

「さぁなぁ…」

「で、それに対処してはってお忙しいから、連絡が取れへんと…」

「おや、それ抜きにしても、昔っから何考えてんだか何処ほっつき歩いてんだかイマイチ判らねぇ男だからな」

「猟師の実力は潜霧等級の外や言うても、字伏本家筋やし実績がバケモンやし相当なモンでしょ!?なのに行き先とか何処の誰

も追跡してへんのです!?」

「基本的に平和な生き物で、無害だからな。悪事とか考える頭はしてねぇから、野放しでも良いかってのが日本政府の見解だ。

ああ、あと…」

「あと?」

「アメリカ軍がしばらく追跡してたが、何回も振り切られたから諦めたらしい」

「聞かされる逸話がどこも平和な生き物やないんですけど!?」

「危険な思想の持ち主だったら、アメリカ軍も追跡を諦めやしねぇ。連中が降参して放置したのが、無害って何よりの証拠だろ

うが、ええ?」

「そらまぁそうですけど…」

 ヘイジはツッコミに疲れて背もたれに体重を預け、「タケミはん、つくづく難儀な立場ですわ…」と少年に同情した。

 両親のミカゲとヨウコが一等潜霧士。祖父ふたり…ミツヨシとアキラも一等潜霧士。叔父ふたり…ジョウヤとテンドウも一等

潜霧士。歴代十名しか居ない一等潜霧士の、半数以上が血縁者である。

 加えて大叔父まで、世界の危機に発展しかねない事件を何度も解決している、一等潜霧士相当の猟師。

 さらに、祖父から指名された後見人で、現在タケミの保護者であるユージンも一等潜霧士。身内が怪物揃いである。

「母方の実家がバレるだけで、親族の一等潜霧士が倍になってまいますな…」

「特異点だろ」

「本人の体質含めて特異点ですわ…」

 難儀な星の下に生まれた物だなぁと感じながら、できる限り守ってやらなくてはと、改めて思うヘイジであった。

 

「疲れてるはずっスから、早く寝るっスよ?」

 などと、添い寝する気満々のアルが、頼まれてもいないのに寝室のベッドを整えて戻って来ると、紅茶のカップや皿を洗って

片付けていたタケミは、

「どうしたんスか?」

「え?」

 アルに後ろから覗き込まれて、濯いだカップをもう一度流し始めていた事に気付く。

「ぼんやりしてるっスね?やっぱり疲れてるんス!休息必要気味!早寝!早寝がち!」

 カップをトレイに置くなり、後ろからアルに太い腕で抱えられ、腹に乗せる格好で持ち上げられたタケミは、強制的に寝室へ

連れてゆかれる。

 疲れてぼんやりしている訳ではないなと、少年は自分を見つめた。

 ジョウヤが見せた涙と、微笑む表情が、タケミの目に焼き付いている。それが何度も思い返されて、その都度手が止まってし

まっていた。

(嬉しかったんだろうな…)

 

「どうかしました?団長」

「うん?」

 ゲートのすぐ外で、交代での警戒配備に当たったグレートピレニーズは、ペアで配備についたパピヨンの方へ顔を向けた。見

えていないので視線を向ける必要はなくとも、聞いている事を相手に知覚されるよう、目線だけは向けるのがジョウヤの対応で

ある。

「何か妙な事があるかい?」

 装備は間違えていない。忘れ物もない。そう準備段階まで振り返るジョウヤに、

「いえ、何と言いますかこう…、お疲れの様子が見えない…いえ、むしろ普段よりも元気そうで、やる気が感じられると言いま

すか張り合いがある様子と言いますか…」

 パピヨンも少し考え込みながら言った。調子が良さそうだと感じるのだが、同時に機嫌が良さそうだとも思える。その理由に

ついては皆目見当もつかないのだが…。

「そうかな…?」

 自覚がなかったジョウヤは、しかし多少高揚している所はあるかもしれないと思い直す。

「まぁ、良い事があったから、ね」

「良い事、ですか?」

 これだけの騒ぎで死者が一人も出なかった事かなとパピヨンは考え、視線を霧の向こうに据え直したグレートピレニーズの横

顔を窺う。

(「良い事」のハードルが低いひとですからねぇ…)

 流石に、甥っ子の顔を見る事ができたから、という点にまでは、事情を知らないパピヨンが想像できるはずもなかった。

 

 キシ、キシ、と微かな音を立てて、マラミュートが分解式ハルバードのテンションを確認する。

 作業場兼倉庫の一角、得物の在庫数を確認したテンドウは、次回搬入までハイパーヴェロシティキャノンの使用は控える事に

した。

 メンテナンスしながら思うのは、機械人形の進行規模と、明日からも戦闘可能な状態にある潜霧士の数と顔触れについて。

 戦略を練るのはジョウヤに任せきりだが、分析と把握はテンドウも行なう。時にその人間味を欠いた機械的な思考が、他者の

盲点を補う結果に繋がる事もある。犠牲を顧みず最大効果を上げる作戦の立案については、テンドウこそが南で随一とも言えた。

 そうして客観的な分析とデータ整理が終わると、考えるのは兄の事。

(ああ…。兄者は今日も凛々しく男前だった…!)

 唯一と言って良い、テンドウが人並みに想い、過剰に執着する、実の兄。ジョウヤの事を考えている間だけは、マラミュート

も忘れかけていた「楽しい」「嬉しい」を思い出す。だが、今夜はほんの少しだけ、別の者についても考えた。

 熱海から来ている若人二人。熱海の大将が直々に率いるだけあって、腕は確かだった。

 特にシロクマの方は、異能どころかダイバーズハイすら解放されていないにも関わらず、単純な白兵戦技能と身体性能の面で

月乞いのメンバーと比肩するか上回るレベル。将来性に期待が持てる逸材だと客観的に評価し、兄にも報告している。

 一方で少年の方は、人間にしては非常に高い性能だと認識したものの、それまでである。

 獣人化も進んでいない身で、刀を武器に機械人形と斬り結べる戦闘能力。それは人間としては最上級ではあるが、単純に比較

すれば鍛え抜かれた獣人の潜霧士には及ばない。

 スーツが破れて顔が露出すれば、霧の中では死に至る。一撃クリーンヒットさせられれば、たちまち致命傷に至る。人間は霧

の中において、常に脆弱性を抱え続ける存在。テンドウにとっては戦力視するには安定性と信頼性に欠ける。

 勿論例外はある。一等潜霧士になった人間や、二等としてジオフロントに潜れる者達は、獣人という頑健な種族を上回る働き

を見せる。だが、少年はそこまでには至らず…。

(…これは、何だ?)

 テンドウは胸に手を当ててみる。

 いつの間にか、兄ではなくあの少年の事ばかり考えていたテンドウは、あまり経験した事の無い胸中の感覚に軽く戸惑った。

 おどおどしながら話しかけて来た少年の声。丁寧に礼を言った少年の言葉。意識の表層に当時の光景を引っ張り出しながら、

テンドウは自分が抱く感覚が何なのか、判らないまま黙考する。

 少し兄に似た匂いがするあの少年の身を、自分は案じているのだという事実が、人間性を削ぎに削がれたマラミュートにはま

だ判っていなかった。

 

 

 

 翌日は早朝から、被害の詳細確認で南エリア全体が慌ただしかった。

 神代潜霧捜索所の滞在予定日数は残り少ないものの、少年達の演習潜霧に時間を割ける余裕も無い。人手が足りないので、月

乞い含めて潜霧士達は巡回と長城外壁の被害調査に追われている。

 そんな中でヘイジとボイジャー2は、昨日運搬直前の状態にまで纏めていた倉庫の荷物を、パグとパピヨンを伴って搬出し終

えていた。その後は少し手が空いたので、倉庫で月乞いの古い作業機のレストアをしていると…。

「タケミの手料理恋しいっス~」

「料理したくても、材料とかないから我慢しなきゃ」

 シロクマと少年が資材…飲料水の運び出しを頼まれて降りて来た。月乞い本部も手薄になっているので、今日は出撃ローテー

ションを組んでいるメンバーを送り出す手伝いである。

「具でもあればワイがお好みでも焼いたるけどな~」

 スパナを下ろして会話に混ざったヘイジに、「パスタとか、乾燥した食べ物はあるみたいなんですけど…」とタケミが応じる。

「パスタ良いっスね!パスタ!カルボナーラとかペペロンチーノとか!」

 アルが舌なめずりするも、「でも具が…」とタケミに言われてションボリ耳を倒す。

「せやなぁ、具があらへん。こっちは主食の他は栄養補助食品が主流の食生活やさかい…。ああ、貝類は採れるらしいけど」

「あ、団長さんも言ってました。遠浅の砂浜だから、貝とかはたくさん潜ってるって…

「それ採ってきちゃダメなんス?たくさんあるなら在庫処分っス」

 シロクマの言葉に、タケミとヘイジは沈黙する。

(…手伝える事あまりないけど、お料理で喜ばせられたら…)

(遠浅の砂浜…。霧の影響があるせいで「外」に売れへんから、余っとる海産物…)

 ピンと来たふたりが顔を見合わせる。

「タケミはん。貝類メインでパスタ料理できます?」

「は、はい。ボンゴレとか、何種類か思いつきますけど…」

「アサリとトマトのスープパスタァッ!」

 アルが突然大声を上げ、タケミとヘイジがビクッとする。

「アサリとトマトのスープパスタ!アサリとトマトのスープパスタァッ!!!タァーイムリィーッ!!!」

「どど、どうしたのアル君!?お腹減って限界!?」

 困惑する少年にアルは説明した。アサリとトマトのスープパスタはたまたまダリアの部屋の料理本で見たメニューだが、月乞

いのホワイトシェパードと雑談した際に聞いた話と結びつきがあり、材料の一つであるトマトに関しては心当たりがある、と。

 二十年近く前。月乞い先代団長の頃に、自給できる野菜を育てようという動きがあった。緊急時に運送に頼らない食料がある

のは心強いから、と。

 ところが、霧が常時長城を超えて来る南エリアでは、多数の作物が根腐れを起こしたり、霧の成分を蓄積して変異…つまり急

性因子汚染による自己破壊で駄目になったりと、上手く行かなかった。

 そんな中、プチトマトは環境に適応したのだが…。

「霧で変質して自主的に品種改良してめっちゃ酸っぱくなったらしいっス。サンミ。サンミつよ。一粒でトマトスープって言っ

てたっス」

 シロクマは、すっかり自己進化した上に野生化したプチトマトが、以前農耕地として整備した所に今も勝手に茂っているのだ

という話をタケミとヘイジに伝えた。

「自主的に品種改良って…」

「それ、いけますやろか?」

「えぇと…。味見してみないと、何とも…。でも」

 少年は珍しくやる気の表情を見せる。やってみる価値はある、と。

「ほな、貝類の方は何とかしてみましょか。作業機に活躍して貰うて」

「ワッツ!?ボイジャーに、オレも知らない底引き地網魚雷発射装置とか積んであるんス!?」

 目を輝かせるシロクマだったが、

「いやいや、あらへんて。底引き地網魚雷発射装置とかワイも存在自体知らへんて。何なんそれ?」

「概念っス」

「概念か~。ならしゃ~ないわ~。真面目な話、活用するんはコイツや」

 ヘイジは整備のために解体し、九割九分まで組み上がっていた月乞いの小型作業機をポンと叩く。

「レストア後の試運転兼ねて、こいつをちょちょいと工夫して使うてみましょか」

 

 そして、少年達は頼まれた運搬を終えるなり、ヘイジと共にミッションを開始した。

 炊き出しの計画について打ち明けると大変喜ばれ、留守役のピットブルとハスキーから、パスタや調味料に関しては月乞いの

備蓄を必要なだけ使って良いという許可が出た。

 シロクマは、聞いていた農地跡へ異常進化プチトマトのサンプルを採りにゆき、簡素な仕様変更を行なった作業機を自律歩行

させてヘイジが誘導し、タケミがそれに同行して浜辺へ向かう。

 その最中…。

「やや!?」

 霧の中に響く声。タケミが振り向けば、浜辺へ向かう道が合流する所へと、ゲート側から歩いてきた大きな人影が見えた。

 ドスドスドスドスドス…と巨体を揺すり、重々しい早歩きで近付いてきたのは、錨のような形状の大戦斧をかついだセイウチ。

「おはようタケミちゃん。昨夜は眠れたか?疲労は溜まっていないか?今日も狼マスクが素敵だ」

 地響きを立てて斧を足元に放り出し、両手を握って来たセイウチに、タケミは困惑と戸惑いでオドオドしながら挨拶を返し…。

「時に、昨日の話だが…」

 シオミチの言葉でハッとした。なお、セイウチの左右では潜霧団の同僚達が、顔を見合わせて肩を竦めている。

 一方ヘイジは眉根を寄せて妙な顔。いうなれば、「またこの子の周りで面倒そうな人物相関図の線が増えとるで…」というよ

うな顔である。タケミの母方の血統まで知った後では無理もないが。

「突然の事で驚かせてしまっただろう。改めて、(結婚を前提とした恋人付き合いを前提とした)友人として付き合って貰えな

いだろうか?」

「…友人…?」

「そう。(結婚前にお互いを知るためにもまず)友達付き合いをしたいと思うのだ」

 タケミは数度瞬きした後、

「そ、それなら…、はい…!よ、よろしくお願いします…!」

 マスクの下で頬を少し赤らめながら快諾した。シオミチの端折られた本意に気付けるはずもないので、凄く年上の友達ができ

ちゃった…!という純粋な喜びしかない。

「ところで何処かへお出かけかな?」

「は、はい。ちょっと砂浜まで。貝とか採れないかなって…」

「貝?」

「あの、パスタはあるって聞いたから、具があれば、お料理とかできるかなって…」

「パスタの、具。…の、貝…?」

 訝ったセイウチに、同僚のゴマフアザラシが「ほら。浜辺でアサリとか採れるっしょ」と耳打ち。

「なるほど理解した。合点承知。…料理ができる子…!」

 力強く頷いたシオミチは、ドンと胸を叩いて肥えた巨体を揺する。

「貝が採れる場所なら心当たりがある。ここは友人として案内しよう。頼られて当然の案内を!友人として!親身に!」

 かくして、警戒配備上がりでも元気な底抜け体力のセイウチが、炊き出し作戦に加わった。

 なお、彼の同僚達は「じゃ」と手を上げて普通に帰った。一昨日までジオフロントに潜り、昨日は救援で駆け回り、さっきま

で交代で警備だったので…、

「では行こう!疾く行こう!張り切って行こう!」

 帰って休むのが普通である。むしろ元気に案内するシオミチのスタミナやら精神力やらが異常と言える。

 

 一方その頃、長城内のロビーでは…。

「ジョウヤ、ちょっと良いか?」

 被害確認の探索に出る直前の金熊が、各潜霧団の巡回担当に注意事項を伝えて回っていたグレートピレニーズを捕まえた。

「何でしょう?気になる事でも?」

「おう。だが内密の話や注意喚起じゃねぇ。個人的に気になる事ができてな」

 部屋などに引っ込んで話すような内容でもないからと、ダイバーが行き交うロビーの端で、ユージンはジョウヤに問う。昨日

見かけた丸っこい狐の獣人…。機械人形を一班、おそらくは単身で殲滅したのだろう潜霧士について。

「それは、「ウォーリーセブン」ですね」

 グレートピレニーズの回答を聞いてピンと来ると同時に、金熊はジョウヤの悔やむような表情に気付く。そのダイビングコー

ドには覚えがある。数年前から聞くようになった名前だったが…。

「確か、船の墓場に陣取るフリーダイバーだったか…。ヌシと何か繋がりでもあるのか?」

 ユージンの問いで、ジョウヤは体の脇に下ろしている両拳をきつく握り締める。

「…十年前の大規模流出事故の際に、懇意にしてくれていた潜霧士達が、僕の不手際で命を落としました。…あの子は、その中

に居た潜霧士の息子です」



 

 霧が流れる。

 陸地に座礁した大型客船の屍の上で、丸い狐は外套を風になびかせている。

 赤味を帯びた銅板のような瞳が映すのは、甲板に突き立った長銃や槍などの得物。

 それは墓標。

 十年前。ここ船の墓場を防衛線として孤立無援で戦い抜き、最後のひとりまで命を散らし、ゲートを護った潜霧団の墓。

 何を思うのか、狐はしばしじっと先達の墓標を見つめていたが、やがてレインコートのような外套を翻し、甲板の縁から飛び

降りて眼下の霧に姿を消す。

 今日も、地上に上がって来た機械人形を探し出し、破壊するために。