第四十二話 「朽ちた鞘」

「まずな」

 部屋に通されたユージンとヘイジが口を開く前に、ハヤタはプリントアウトされた写真を一枚、分厚く広い座卓の上に置いた。

 土肥の大親分が客と面会する部屋は、いずれも窓が無く盗聴や盗撮の心配もない密閉空間である。だが今回はそれに加え、今

日一度も面会で使用していない部屋。

 先客が盗聴器などを設置していく可能性を完全に排した密室は、畳敷きで飾りや調度品も無く、大きな座卓の上に茶と菓子が

乗っているだけ。案内してきた黒猫も同席せず、室内に居るのは大猪と金熊と狸の三名のみである。

「何だ親父殿?藪から棒に…」

 時間を改めての再訪問を希望したのは、何か特別な用事があるからだろうと察していたユージンだが、出し抜けに提示された

写真を手に取り、眉根を寄せながら見つめ…。

「………親父殿」

 声を低く抑えて囁いた。

「こいつは…、何処だ…?」

 金熊が摘んだ写真を横から覗いたヘイジは、軽く眉を上げてからユージンの横顔を窺う。

 あらゆる表情を消している金熊は、しかし写真を摘む指が小刻みに震えていた。声を抑えているのは誰かに聞かれないように

ではない。爆発寸前の感情を抑え込むためである。

 ヘイジは写真をもう一度覗き込む。

 そこに映っているのは、おそらく大穴の中の何処か…地下と思しき赤黒い景色。自然光ではない赤が僅かに照らす苔むした洞

穴の地面…とヘイジは見て取る。似たような景色をジオフロントに繋がる地下で幾度も目にしていた。

 注意を引くのは、その青黒い苔が赤光で照らされ、赤黒く見える地面の一角。苔の一部が棒状に盛り上がっており、その半ば

ほどが靴跡で抉れ、苔が剥がれて下にあった何かが顔を覗かせている。

(何やろ?鞘…に見えるけど…)

 苔に隠れている部分の盛り上がりなどから、全体像としては緩く湾曲した棒状の物と窺える。苔の下から露出した部分は土埃

やカビ、苔の残りで汚れて、だいぶ朽ちかけてはいるが、それでも靴跡から覗いている潰れた部位の破片、擦れた箇所には、ま

だ少し漆の艶が残っている事が覗えた。それはどうも黒色の物のようで…。

「タケミはんの鞘みたいな色でんな?」

 ユージンの口内で、ギシッと歯が鳴った。思った事を率直に口にしたヘイジの言葉に反応するように。

「こいつぁ、黒夜叉の鞘だ…。そうだな親父殿?」

 無言で頷くハヤタと、疑問顔のヘイジ。

「ミカゲが行方知れずになった後、ワシは黒夜叉を回収した。その時、鞘は持ち帰っとらん」

「はいっ!?」

 ヘイジの声が高くなった。

「鞘は無かった。ワシは抜き身の黒夜叉を持ち帰り、鞘はここ…土肥の鞘師に拵えて貰った。タケミに渡した時点で、鞘だけは

新造されたモンになっとる」

「つ、つまり…!その画像のトコには…」

 ヘイジの言葉を引き取るように、「ああ、ミカゲが居るかもしれねぇ」と、ユージンは顎を引いた。

 相棒が居る。誰に見つけて貰う事もできず、ずっとそこに居たのかもしれない。

(タケミはんがダイブする理由は、お父はんの遺骨を見つけるためやった。大将にとっても、相棒の亡骸は長年の心残りやろな)

 その写真が悲願の手掛かりだと知ったヘイジは、しかし気付く。喜ばしい新情報のはずなのに、大猪は浮かない顔であった。

「…親父殿?」

 黙り込んだまま、この写真が何処の物なのか教えてくれないハヤタの歯切れの悪さに気付き、ユージンは大猪の顔を見遣る。

「ちっと、面倒なごどんなってでな…」

 唸るように声を絞り出したハヤタは、腕を組んで目を閉じ、伝える順番について考えながら語り始めた。

「ひとり、潜霧士ばかぐまってんだ。大っぴらにでぎねぇ重要な情報握ってっから、命狙わいるっつってでな…」

 ハヤタは一家で匿っているその男が持っていたデータが、見せた写真の出所だと語った。

「菅山録(すがやまろく)って、潜霧士でな…」

 

 若い男がベッドに腰掛け、曲げた膝に肘をついて前屈みになっている。

 床の一点を見つめているようで、しかし瞳は落ち着きなく小刻みに、震えるように揺れている。

 眠れていないのか、疲弊による物か、目の下には隈が濃く浮いており、頬はこけ気味で、肌はカサカサに乾いていた。

 元々細く引き締まった無駄肉の無い体型だったが、今は萎れて縮んだように見える。二十代後半にも関わらず、短く刈り込ん

だ髪には白い物がふつふつと混じり、実年齢よりも老け込んでいる印象があった。

 バストイレ付、壁面にテレビや景色の映像を映すイミテーションウィンドウ、革張りのソファーセットのテーブルにはホログ

ラムタッチ式のPC、中身が充実した冷蔵庫なども設えられた十四畳の部屋は快適だが、内側からドアが開けられない。

 四等潜霧士、菅山録。

 俵一家に匿われている彼は、同時に軟禁状態にも置かれていた。

 ロクは数週間前まで、命を賭けて綱渡りを続けるような潜霧生活に音を上げ、引退を考えていた。

 しかし潜霧士として特段腕が立つわけでもないので、危険生物の素材で大儲けする事もできず、表層で手に入るそこそこの品

や、他の潜霧士の遺体から装備などを漁り、売り捌いて生計を立てている状況。返済半ばの装備類のローンもあるため、引退後

の楽な生活が保証されるような貯蓄は簡単にはできなかった。何とか四等に上がれたものの、稼ぎは五等時代と変わらない。

 そこでロクが考えたのは、地下に潜り、ジオフロント由来の希少品などで一山当てる事だった。

 潜霧士は認定された等級に応じて活動エリアが制限されており、制限があるエリアへ故意に立ち入る事は許されない。四等で

活動できる範囲内では、ローンを帳消しにしてその後の人生を薔薇色に彩る程の物を得るのは難しい。だからロクは、等級制限

を無視して地下へのダイブを試みた。ナビシステムの警告を無視し、事故による滑落を装って、大崩落痕から降りたのである。

 だが、目論見は甘かった。

「………」

 瞬きが異様に多い、落ち着かないロクの目が、脛から下をギプスで固定された右足を見遣る。

 事故を装う滑落潜入で、元々腕が良いとは言えなかったロクは足を捻挫した。それでも手ぶらでは帰れないと、正規等級でダ

イブしている他の潜霧士の目を盗み、下へ下へと降って行った。

 結論から言えば、ロクは降りるべきではなかった。

 潜霧士の等級は飾りではない。大穴の下に広がる地下は、三等試験を突破できない者が何かを成せるような世界ではない。

 他のダイバーに見咎められないよう潜って行ったロクは、機械人形や危険生物と遭遇、ニアミスし、辛くも逃げ続けて、その

人生における運を全て動員したかのような幸運で生き延び、大空洞の傍まで潜霧する事に成功した。

 だが、適切な手当てもしないまま無理をしたせいで右足首の捻挫は徐々に悪化し、炎症を起こして腫れ上がった。食料も底を

つき、一歩も歩けないほど疲弊し、転んだ拍子に利き腕である右肘まで捻挫した。

 もはや地下で何を得るかの話ではなくなっており、自力で動けなくなり地上へ戻る余力も残っていなかった。そうして危険生

物に捕食されるか、機械人形に駆除されるのを待つばかりとなっていたロクの前に、偶然、三人組のダイバーが現れた。

(あそこまでは良かったんだ…。ツキはこっちにあった…)

 ロクが発見された場所は、ダイブする者がルートに選ばない行き止まりばかりの洞穴が連なるエリア。地下空洞行きではなく

地質調査が目的だったダイバー達でなければ、ロクが潜んでいた場所まで入り込む事は無かっただろう。

 彼らは言わなかったが、一見普通の潜霧士を装った一団は「マッパーズギルド」の地図士だった。地殻変動の前兆を調査する

ために潜っていた腕利き達である。ロクは彼らの行動などから薄々そうではないかと察したが、問い質したりはしなかった。

 取り扱う情報が最重要機密であるため、地図士は素性を明かさず、潜霧士として活動する。誰がマッパーズギルド所属のダイ

バーであるのかという事すらも公表されていない。

 長年コンビを組んで来た相方が実は地図士だった…というダイバーの体験談がジョークとして語られているほど知られている

常識でありながら、一般の潜霧士は地図士を一人も知らない。ユージンやジョウヤ、ハヤタなどの限られた例外を除いて。

 地図士は腕利き揃いである。そうでなくては大魔境である地下の調査も、危険な存在が徘徊する霧の中での捜索も務まらない

のだから当然だが、最低でも二等潜霧士相当の実力と技術、知識はもっている。

 そんな三名に救助されたロクは、地上への生還も絶望的ではなくなった。

 なのに…。

(どこでツキを無くしたんだ…。「あんな連中」と遭遇するなんて…!)

 頭を抱えたロクの、丸めた背中が嗚咽で震えた。

「俺のせいじゃない…!俺のせいじゃない…!俺は間違ってない、悪くない…!あいつらとさえ出くわさなければ…!」

 

「…それが何で、一家に匿われてますのん?」

 ヘイジが湯飲みに茶を淹れ、大猪と金熊に出しながら疑問を口にした。

 大猪はそのロクという潜霧士について、潜霧中の傘下組織が助けを求められ、一家に相談してきたという下りまで話したが、

ヘイジには話の全貌がまだ見えて来ない。

 この土肥ゲートは、係員の一部が俵一家と裏で繋がっている。潜霧の成果物を届け出無しに持ち出す事もできるし、ひと一人

程度なら記録を残さず通り抜けさせる事も可能。

 かつてハヤタがユージンに、もしもタケミの素性がバレて逃がさなければならなくなったら協力すると申し出たのは、このツ

テを活用できるからである。タケミが大穴の中で姿を消した事にし、内密で土肥ゲートから出してやれば、死亡を装って海外へ

逃亡させ、別人としての平穏な人生を送らせる事もできる、と…。

 そんな抜け道を持っているハヤタが、傘下の要請に応じてロクを匿うのは「可能」ではあるが、「必然性」は無いのではない

かと狸は感じている。

「マッパーズに保護されたんやったら、そのまんま帰ってええトコでしょ?大っぴらにできへん情報て、地図士にも言えへん何

かやったんです?…あ」

 疑問点を口にした瞬間、ヘイジは自分の言葉で気が付いた。

「その写真…、地図士が撮ったモンです…?地図士の機材が捉えた画像って事で?」

「んだ」

 頷いたハヤタは…、

「で、地図士は全員死んどる。そうだな親父殿」

 それまで黙っていたユージンの確認で、傷がある目を大きくした。

「何らかの事情で地図士は全滅。生き残ったそのスガヤマって潜霧士が、やっこさん達の成果…データやら何やらを抱えとったって訳か」

「んだ。当だってっけども、なしてそう思った?」

「繋がったんでな…」

 ユージンは先日、自分を指名して入った特別な依頼の事を思い出していた。事が事なので単独で向かった、帰還しない地図士

の捜索依頼について。

 ユージンが探し当てた三名分の遺体は、崩落痕近くの風穴で見つけた。位置的には土肥と熱海の中間付近である。

 遺体は三体とも危険生物に食い荒らされて損傷が激しかった。致命傷も危険生物に襲われたと思える損傷…と見えたが、それ

は偽装だとユージンは看破し、マッパーズギルドにも組合にも個人的な意見として「何者かによって殺害された可能性が高い」

と報告している。

 遺体からは地図などを含む大穴地下構造のデータが持ち去られていた。

 大穴の地図は値打ちがある。最新情報は特に。それ故にユージンは、何者かが地図士であると確信した上で襲い、腕利きばか

りのマッパー三名を纏めて始末し、データを奪ったのではないかと考えていたのだが、ハヤタから聞いた話と繋がると事情は変

わって来る。

「実は、未帰還の地図士についての捜索依頼を片付けてきたところでな…」

 普通ならば誰にも伝えないところだが、ハヤタとヘイジにならば伝えても問題ないと判断し、ユージンは両者に先日の依頼の

顛末を伝えた上で、ロクという潜霧士と出会った三人組の地図師が、遺体で発見した三名で間違いないと断言した。

「…んだな。こいづはその件ど繋がった話だべ」

「大っぴらにできない、命を狙われるかもしれん情報ってのは、そいつが手に入れたマッパーのデータ…だけじゃ無いって訳か。

データならマッパーズギルドに渡して謝礼を受け取りゃ終わる。意図的な禁止区間への侵入は罰則規定に引っかかっちまうが、

それは別に誰かから命を狙われるような事じゃあねぇな。だったら…」

 ユージンは写真を見る。何処で撮られたかが気になる、相棒の鞘が映った写真を。

「そいつは何を見聞きした?大穴の中で起こった何に遭遇した?」

 金熊は、大っぴらに出来ない事とはその潜霧士が遭遇した出来事…経験した事そのものについてではないかと察しをつけた。

これにハヤタも頷き、「身の安全が保障さいだら話すって言ってる」と告げた。

「そいつの望みは海外逃亡か?」

「生活資金もだ」

「一家の見返りは何でっしゃろ?」

「自分が知ってるそのネタについで、洗いざらい話すってよ。データはその後で、大穴の中で回収したごどにして地図組合に渡

しとぐ」

「まぁ、少なくとも…」

 ユージンはまた写真を見て、高鳴る胸と昂る感情を抑えながら呟いた。

「ここが何処だかは調べてぇ所だ。データから察しはついたのか?」

「いや、そいづがなぁ…」

 大猪は頬を指で掻きながら眉を八の字にした。

「メモリー抜ぐどぎに大部分が意図的に破損させらいだって話だ。そういう仕組みになってんだがらしゃあねぇ話だげっとも…。

その写真に前後すっとごは、何とが修復でぎねぇが試して貰ったんだがな…」

 マッパーズに返却する前にデータを抜いて確認しておきたかったが、上手く行っていないのだとハヤタは語る。

 地図士専用の記録装置は、奪取防止用のセキュリティによって、データチップを抜いた際にデータが自壊する仕組みになって

いる。本来はチップを本体から外さず、マッパーズギルドの専用機器に接続してデータを読み取る仕組みで、チップを外すのは

緊急時の移送など限られた状況のみ。

 ロクが語った所によれば、危機的状況に陥って地図士から託されたとの事で、チップには確かに大急ぎでほじくって摘出した

ような痕跡があった。

 なお、セキュリティによって自壊させたデータは、マッパーズギルドの技術者でなければ完全復元ができなくなっている。俵

一家側もダメで元々のつもりで復元作業に当たり、中身を確認したのだが、その結果として鞘と思しき物が苔に埋もれている画

像が見つかったのである。

「可能な限り綺麗にしたげっとも、これ以上の記録は期待でぎねぇらしい。マッパーズギルドに返却して、向ごうで直さいでが

ら確認すんのが最良だべ」

「ああ。とりあえずコイツが見られただけで、感謝してる」

 写真を卓に置いたユージンは、気を鎮めるように目を閉じ、長く、静かに、息を吐く。

 鼓動が早い。首の周りが暑い。体が火照って心が騒ぐ。正直な気持ちを言えば、今すぐにでも霧に潜り、この場所を探し出し

たい。

 黒夜叉を回収してからこれまで17年以上、一切見つからなかった相棒にして兄弟…ミカゲの痕跡がこうして現れたのだから、

平静で居るのにも苦労する。

 血気に逸りそうになる自分を落ち着かせながら、目を細めてユージンは思う。

(タケ坊…。見つかるかもしれんぜ、ヌシの親父…)

 タケミの目標は父の亡骸を回収し、祖父母や母と同じ墓に埋葬する事。少年自身の意思を尊重して潜霧士になる事を後押しし

たが、目的を果たしたら他の生き方をするのが良いと思っている。

 自分でも甘いと思うし身内贔屓とも感じるのだが、本音を言えば、潜霧士としての資質や腕前どうこうを別にして、タケミに

は目的を果たしたら霧から離れて生きて欲しい。危険な目に遭って欲しくない。安全に生きて欲しい。幸せに生きて欲しい。長

生きして欲しい。

 不破家はもう充分なほど霧に挑んだ。

 大穴を攻略し、霧の底で全てを終わらせるためには、戦力はいくらあっても足りないが、タケミはそんな義務を負う必要はな

いと感じている。祖父に両親、過剰な程に貢献してきたのだから、せめてこの少年は…。

 相棒の置き土産にして恩人と仲間の宝物。ユージン自身にとっても唯一無二の存在である少年には、大穴から離れ、昔のよう

に白神山地で静かに暮らして欲しい。例え自分が居なくなっても、あそこで暮らすなら皆が護ってくれるし、危険な事も無い。

 タケミが望むならアルも一緒に暮らしてくれるだろう。友人は少ないようだが、研究所にはそれなりに親しい者もそこそこ居

る。あそこでなら、何不自由なく…。

「オラの話はこの件だったが、そっちの要件ってのは…」

 ハヤタの声で我に返ったユージンは、「その件だが」と気を取り直した。

「急な話だが、先に伝えた通りマミさんも加わる事になってな。到着を待ってる。そろそろだと思うが…」

「話に聞いでだ法律屋が」

 ハヤタはマミヤと直接の面識はないが、その手腕については耳にしている。ユージンが信頼できる業務提携者と評するので、

面会に加わる事も二つ返事で承諾した。臨時で秘書役をこなしている黒猫が表へ迎えに出ており、到着したら真っ直ぐ案内する

手筈になっているのだが…。

「お。噂をすれば、だべ」

 部屋の入り口にある壁面パネルが点灯し、入室許可を求める黒猫と、連れられてきた恰幅のいいアライグマの姿が、俯瞰映像

で映し出された。

「突然の来訪をまずはお詫びします。改めて、快く承諾して頂けた事に感謝を」

 部屋に通されたスーツ姿のアライグマは、黒猫が退室するなり深々と頭を下げた。が、恭しく首を垂れながらも、マミヤは直

に見た大猪を値踏みしている。

「噂には聞いでる。よろしぐ、バンダイさん」

 ハヤタは目を細めて微笑を作っているが、その目は客人を見定めている。

 お互いの事を多少なりとも知っている二人ではあるが、ユージンが間に入ってそれぞれを紹介する格好で取り持ち、マミヤは

ハヤタの真正面…卓を挟んで対面する位置に座った。

「ワシから話すつもりだったが、マミさんが来たなら丁度良い、話はそっちで纏めてして貰っても良いか?」

「そのつもりだ。急ぎの要件も関係する事だ、こちらで纏めて伝えよう」

 アライグマはそう言って、ヘイジがあえてぬるめに淹れてくれた茶を一息に飲み干すと、

「単刀直入に行きましょう大親分。俵一家が計画している「大穴を突っ切る輸送隊」の設立について、こちらも一枚噛ませて頂

きたい」

『は?』

 金熊と狸が素っ頓狂な声を上げ、大猪を見つめる。

「………」

 マミヤを見つめ返し、鋭く目を細めていたハヤタは、

「何でバレぢまったんだいが?」

 一転して、悪戯がバレた子供のような半笑いになり、ポリポリと頬を掻いた。

「内密に進めでだんだげっともなぁ…」

「半分はカマかけでした。が、根拠としては俵一家に関係する引退した潜霧士の装備品一式の用意や、機動性が高い軽作業機の

大口購入、そして土肥から南南東及び南東方面への小規模潜霧の反復などです」

 アライグマは淡々と、俵一家が進めていた計画に気付いた根拠を列挙してゆく。

 引退した潜霧士達の武装調達については、先の機械人形大発生事件で危機感を覚え、予備戦力も武装を整える必要性に駆られ

たから…と見えるが、マミヤは発注の迅速さと準備の速さから、他の可能性に目をつけた。そもそも前々から武装を揃える計画

があったのではないか?と。

 引退したとはいえ、生きて霧から上がれた潜霧士ならば大半はかなりの腕利きなので、蓄えはある。とはいえ潜霧装備は高額

な物ばかり、すぐさま資金をどうこうできる者ばかりではないはずだが、発注も配備も相当早いペースで進んでいる。これは表

に見えていないカネの流れがあるだろうと、アライグマは嗅ぎ付けた。

「表向きはそれぞれの購入…。しかしいくら自己防衛の意識が高いとはいえ、土肥の侠客達も高額な潜霧装備の新調などには慎

重になるはず。それが一斉にとなれば、秘密裏に資金提供されたという線を勘繰りたくなる物です。いや、お返事は結構。実際

には調べてもいない、ただの個人的な憶測です」

 何を考えているか判らない微笑を浮かべたまま、じっと自分を見つめて話を聞いている大猪に、アライグマは軽く両手を上げ

ながら告げた。

 調べていないし数字も出ていない、証拠がない以上何も暴かれてはいないというスタンスを維持して、敵対していない事を示

すマミヤ。逆に言えば、カネの流れについて確認した時点で俵一家の違法行為は確定するため、あえて裏を取ってはいない。

 大なり小なり相手の弱みを握る事が、必ずしも自分にとって有利に働くとは限らない事を、海千山千の法律屋は熟知している。

「そして、土肥ゲートから短期のダイブが、俵一家のみならず傘下組織によって繰り返されている。これも多少気になりました」

 装備の確保に合わせて、この事もマミヤの違和感を補強した。それぞれ別に見れば何という事も無いのだが、繋がっていると

考えるとだいぶ興味深い推測ができる。

 俵一家や傘下組織によるそれらの潜霧は、潜霧計画書によれば「機械人形の目撃証言があったので念のために捜索し排除する」

という理由による物。この話に危険を感じたフリーの潜霧士などは、一帯からダイブの足が遠ざかっていた。

 しかしその「機械人形の目撃証言」が何処の誰から出た話なのかという事を、アライグマはいくら調べても特定できなかった。

「機械人形が居たというのはでっち上げでしょう。俵一家が中心になって流したデマで、目撃者は存在しない。では何故そんな

噂を流したか?他の勢力を近寄らせない事による該当エリアでの富の独占…これは無い」

 ハヤタの反応を窺いながら、マミヤは断言した。

「ジオフロントから巨万の富を得られる俵一家にとって、表層で得られる富など小銭のような物でしょう。表層での活動は危険

生物の駆除による安全確保など、目的としては対処的な物に過ぎない訳です。人払いをする理由として考えられるのは、何をし

ているか知られたくない…という物も候補に上がりますが…」

 言葉を切り、一拍おいて、アライグマは大猪に問う。

「土肥から南エリアまで突っ切る、大穴内での輸送ルートの策定作業…。これを極秘で進める為に、他の目が邪魔だった。そう

いう事だったのではないですか?」

 ハヤタは無言のままマミヤを見つめているが、その沈黙こそが肯定だった。

「どいなぐして調べだ?」

 大猪の声音は穏やかだった。

「企業秘密です。使い古された言い回しですが、蛇の道は蛇という物でして」

 対してアライグマの声は平坦だった。

 誤報はともかく、意図的な虚偽申告や噂の流布は法に抵触する。存在しない機械人形の目撃証言を噂として流布したりする行

為は、軽いとはいえ違法行為。その結果として他の潜霧士のダイブ計画が変更されたり中止されたりするのは、潜霧計画妨害と

いう立派な犯罪。瑕者などに自発的な行動を装わせて武器を揃えさせ、裏帳簿で俵一家が資金を全支出する事もまた、前述の行

為同様に罪となる。

 マミヤが推測混じりに語った内容は、俵一家の違法行為を列挙する物でもあった。

 腕組みしたまま黙って成り行きを見守るユージンの横で、ヘイジだけが滝のような汗を流している。

 乳の下や腋の下、背中前面まで薄手のティーシャツにくっきり汗染みができている狸は、大猪とアライグマのやり取りを間近

で眺め、気が気でない。どちらの男の恐ろしさも理解しているので、ボタン一つ掛け違えればとんでもない事になるというのが

判っている。

(先生、もうちょいとやわっこい話し方はできへんかったんです!?)

 指摘の数々が「一家への攻撃」、あるいはマミヤの存在自体が「一家にとっての害」と判断されてしまったなら、一体ハヤタ

がどんな行動に出るか?ヘイジはその事を恐怖していた。が…。

「捕まった事が無いので公的には前科ゼロですが、こちらも叩けば埃ばかり出る身でしてね。調べながら、見習いたい手腕だと

感服しました」

 しれっとそう言って、マミヤは湯飲みを取って二杯目の茶を飲む。この状況で落ち着いていられるその肝っ玉に、ヘイジは呆

れかえってしまった。

「何の。嗅ぎ付けで見抜ぐそっちごそ見事。是非とも、裏帳簿の管理に意見貰いてぇどごだ。内密の顧問どしてな」

 大猪は目尻に皺を寄せ、感心している様子で、そして面白がっている様子で顎の下を撫でる。

「勿論、そいづば受げで貰えんだったら、手がげる予定の運送業にも関わって貰うごどんなっけども、どうだべな?」

『あ』

 ユージンとヘイジの声がまた重なった。

 つまりハヤタはこう言っている。一家の裏金管理の片棒を担げ、そうしたら新規事業にも噛ませてやる、と。

(抜け目ねぇな親父殿…)

 さらりと商談を纏めつつ、断れない形で交換条件を突き付ける大猪。人が好さそうに見えてもハヤタは身一つで伊豆の西側を

纏め上げた大親分。その果断と辣腕を侮っては、大局的に物事を進める俵一家の采配を見切る事はできない。

「顧問料を弾んで頂けるなら、喜んで」

 アライグマが即答し、金熊と狸が思わずその横顔を見る。熟考しなくて良いのか?と。

「元より、裏であれこれ手を回すのも、規模が大きくなるにつれて難しくなってきた所。裏事情に精通している同じ穴のムジナ

と手を組みたいと前々から思っていました。業務提携先として俵一家と手を組めるなら、願ったり叶ったりです」

「こっちどしても、ユージンが頼みにする噂の法律屋に相談でぎんのは嬉しいごった。んで…」

「はい。契約は後ほど正式に」

 ヘイジはポカンと口を開けていた。危うい綱渡り…どころか爆弾の導火線にギリギリまでマッチを近付けるような交渉が、終

わってみれば正式な協力契約の締結に落ち着いている。

(巷は妖怪だらけやでホンマ…)

 何はともあれ物騒な事態にならずに済んで、ホッとしたヘイジを他所に、

「では本題に入りますが…。現在こちらで噛んでいる、伊豆東西ルートでの物流改善と、新たな業者の選定についてお話ししま

しょう。初耳かもしれませんので先にお知らせしておきますが、伊豆東岸では自動車道の整備に加えて、海上ルートを用いた水

上バイクでの運送サービスを行なう業者が発足しまして…」

 自分が手回しして起業させた海上運送業者の事を他人事のように伝えるマミヤの脇で、ユージンとヘイジは小首を傾げた。

(ん?鰐のデカい男がウチの新しい配達担当になったって、タケミが話しとったが…)

(確か、前の水上宅配の兄ちゃんは他所にヘッドハントされたて…。って、この海上運送業者の事やない!?)

 そんな二人の疑問を他所に、南エリアへの物流線強化について、各ルートで協力するのは勿論の事、裏で一元化させて統制、

これによって既存の悪徳運送業者を締め出す算段である事を、マミヤはハヤタに説明し…。

 

「久々に冷や汗をかいた。特に手汗が酷かった」

「涼しい顔しとりましたけど!?」

 アライグマが両手を胸の前でグーパーさせながら呟き、堪らず狸が突っ込んだ。

 面会終了後、改めて話を詰める事を約束して退室したマミヤは、黒猫の案内でユージンとヘイジと共に外へ向かっている。

「ワイの方が嫌な汗で隅々までベチョベチョんなりましたわ!」

「そうかね?何なら責任を取って私が全身洗ってあげようか。その隅々まで余さずに。洗い甲斐も揉み甲斐もありそうだ」

「遠慮さして貰いますわ!それと何で揉むんですのん!?」

「洗うのはアライグマのレゾンデートルだ」

「揉む方の答えになってまへんて!」

 手をワキワキさせるアライグマはいつもの気難しそうな無表情。

 こう見えてマミヤ、権力欲も金銭欲も知識欲も旺盛なだけでなく、あっちの欲も旺盛である。大規模流出事故で妻を失うまで

はハニー一筋でベタベタに溺愛する愛妻家だったのだが、獣化後は立派な両刀かつリバになり、性関係はだいぶフリーな心構え。

「ちなみに私の好みは二十代後半から四十代辺りまでで、こう、マルッとした体型の獣人が特に良い」

「聞いてまへんて!」

 一方、会話に加わらないユージンは、今夜湯屋で相手をして貰う若い男の事で頭が一杯である。ミカゲの消息に関わる手掛か

りが掴めるかもしれないとあって、顔には出ていないがやたらと機嫌が良い。

「では、私はホテルへ送って貰うからここで」

 外に出るなり、ハヤタが手配した車に案内されたマミヤは、同行者達に軽く手を上げた。

「おう。ご苦労さんだったなマミさん」

「お気をつけて先生」

 ふたりに見送られた黒塗りの車が走り出すと、マミヤは日が暮れて目立つようになった、街中に連なる赤提灯が流れてゆく様

を窓越しに眺める。

(さて、第一印象は大切だ。もう一つくらいは働いて成果を見せ、信頼を勝ち取っておきたいところだが…)

 今日、祭りの最中に連続して発生した殺人事件について、アライグマは既に情報を入手している。

(しかし「実行犯が多過ぎる」。なるべく手間をかけずに、大親分に恩を売れるような働きができるのが理想だが、さて)

 マミヤは既に、事件の全貌をおおよそ掴んでいた。

 

「しかし、先生には驚きましたわ」

 十数分後、滞在中のホームとしてあてがわれた部屋に入ったユージンに、ヘイジが肩をすくめて言った。

 少年達には豪勢な部屋が用意されているが、湯屋に予約を入れて色々手配もしている金熊は少なくとも翌朝まで帰らないしヘ

イジも帰りが深夜になるので、大人分は部屋が別にされている。

「大親分と交渉する手腕もですけど、異能の話…」

「おう。ワシも驚いたぜ、まさかマミさんが自分の異能をバラすなんてな」

 下着を清潔な新品の物に替えつついそいそと浴衣に着替えながら答える金熊に、汗が染みたティーシャツを着替えていたヘイ

ジは、「異能その物に驚いとるんですわ」と臍を出したまま応じる。

「聞いて、見て、なお信じ難い話やで。あないな異能があるなんて…」

 狸は軽く実演して見せられたマミヤの異能について、目で見た今でも整理がついていない。

「知っての通り、公式な記録には、音漏れをコントロールする異能って事で記録してある」

「実際は音漏れ防止なんてモンやないのに、異能名は「サウンド・オブ・サイレンス」でっか?」

「亡くなった奥さんが好きだった、曲の名前なんだと」

「意外ですけど、愛妻家やったんですな先生…」

「愛妻家な上に子煩悩だ。…それだけに、霧への憎しみは深いぜ」

「………」

 ヘイジは目を伏せる。多くの者が霧に様々な物を奪われる一方で、自分達は望むと望まざるとに関わらず霧から様々な物を与

えられた。

 霧の中に富や財、栄誉を求める者がある一方で、霧を消すために人生をかける者もある。

 ヘイジは生活の為に潜霧士になったクチだが、霧が晴れるならそれが望ましいと、今では思っている。

「さて、タケミとアルは今頃贅沢な部屋でのんびりやっとるだろう。ワシらはワシらで羽を伸ばすか」

「ワイは羽伸ばすどころか飯奢らされるんですけど…」

 そんな会話を交わして、ユージンは南エリアからの帰還直後に予約していた湯屋へ一晩のお楽しみに、ヘイジはムラマツが予

約した店へ財布の中身を確認してから、それぞれ向かい…。

 

「部屋に温泉バス!贅沢のキワミ!キワメがち!」

 檜風呂に壁からトポトポと湯が注がれる浴室で、シロクマは全裸の少年に後ろから抱きついてベタベタしていた。

「アル君、入り辛い…」

 湯船の縁に腕を乗せ、その上に顎を乗せているタケミが苦情を申し立てる。温泉の効能で血行が良くなり、白い肌が血色良く

紅潮している。

 数時間は文句も言わずに河馬に譲ったのだからと、取り返しにかかるアルは、お気に入りの縫いぐるみと戯れるが如く、少年

にベッタベタの甘えっぷり。

 胡坐をかいた脚の上に少年を座らせて後ろから抱っこ。筋肉も脂肪も分厚い胸の谷間に少年の後頭部を収め、頭の上に顎を乗

せてくっつき、腋の下から前に回した手で少年の胸や腹の豊かな曲面を撫で回すシロクマは、すっかりご満悦の表情である。そ

んな格好なので、半ば捕獲されているような状態のタケミは背中に出っ腹を押し付けられ、浴槽の壁と挟まれ、窮屈な思いをし

ている。

「何か色々事故とかあったみたいっスけど、あんまり騒ぎになんないモンなんスね?祭りはニチジョーサハンジ?オレ達の田舎

の祭りと大違いっス」

 アルにとって本当の田舎はアメリカなのだが、彼が田舎…つまり故郷と認識しているのは、タケミと一緒に育った白神山地の

事。学校の校庭を借りて開催されていた夏休みの風物詩である町内夏祭り兼盆踊りは、顔見知りばかりの小規模な物で、食べ物

が早々に売り切れるなどの小さなアクシデントを除くと、騒ぎと呼べるような騒ぎが起こるような事も無かった。

「人出も多いしね…。ここのお祭りだと他所からもたくさん来るみたいだし、騒ぎも起こり易いのかも…。喧嘩とか、事故とか、

いろいろ…」

 温泉で体の芯から温められ、ポワンとした顔で言うタケミの言葉を聞きながら、シロクマは少し目つきを鋭くする。

(お祭りとかの騒ぎを狙って、テロとかアサシネイトを狙うのは定石っス。俵ファミリーと敵対する勢力とか、良く思ってない

連中が、お祭りに乗じて何かするのは有り得る事なんスよね)

 アルには政治も権力も大人の都合も判らない。だが、危険な現場に、騒ぎの最前線に、何度も居合わせた経験則で知っている。

理由は様々、人が多い状況での混乱に乗じるため、過激な大義を目に付く形で発信するため、主催の面子を潰すため、あるいは

単純により多くの犠牲を望んで、事を起こす連中が居る事を。

 政治家のパーティーに危険生物が放り込まれた事件もあった。

 活動家の決起集会で濃縮された霧のボンベを爆発させる者もあった。

 「猟師」はいつでもその最前線に投入されたから、巻き添えになった無辜の遺体をその腕に抱いた事は、一度や二度ではない。

 花火会場の死亡事故は、本当に事故だったのだろうか?

 アルはそんな事を考えながら…。

「きついよアル君…」

「ウォウ!ソーリー!」

 無意識にグッと力を込めて捕まえていた少年の体から、少し腕を浮かせて離した。

「それにしてもアル君、本当に良かったの?」

「良かったって何がっス?」

「ほら、夜の市場が開かれるっていう話…。もしかしたら、プラモデルなんかもバザーに出されるのかも…」

「良いんスよ。買い物はいつでもできるっスから!」

 しばらく生産されていなくて値が吊り上がっているキットなどがお得に見つかるかもしれない。そうアル自身も思ってはいる

のだが…。

「でも温泉と宿は今だけっスからね!ムフフフフ!」

 少年の頭に顎をこすり付けるシロクマは、本能レベルで染み付いていた。

 危険と感じた場所や状況へ、自ら身を置きに行かない事が。

 

「温泉ワニ~♪温泉ワニ~♪剥き卵肌に新生ワニ~♪」

 とあるホテルの大浴場、鼻歌混じりに股間も隠さずタオルを首にかけ、のっしのっしと脱衣場に戻った巨漢のイリエワニは、

顔も肌も赤らんで湯気に包まれている。

 そこそこ値段が良いホテルで、脱衣場には無料のヨーグルト飲料が冷やして置いてある。

 肉付きが良過ぎて腹肉の段差が横まで及んでいる腰に手を当て、喉を垂直に立てて一気飲みし、

「プハーッ!うはははは!温泉上り、サイコー!」

 満足そうに巨体を揺すって笑うイズミ。声が大きいので着替え中だった他の客の視線を集めてしまう。

 浴室内で軽く体を拭ってきたので、体表はテカるほど濡れてはいない。体操するように腕を上げて腋を拭き、身を捩じって脇

腹を拭き、ダイナミックに体を拭いて六尺褌を締め上げる鰐は、肥え太ってずんぐりした体型だが、動くたびに分厚い脂肪を筋

肉が押し上げる。単なる脂肪太りではなく、力士のような体付きだった。

 背中側の畑の土のような赤茶から、顎の下や胸、腹側や手足の内側などにかけてクリーム色に変化する体色だが、特筆すべき

は左胸…鎖骨の辺りにうっすらと赤い痣がある事。円形にも見えるそれは、傍でじっくり見れば、薔薇の花を紋章化したような、

不規則な小さな赤の集合になっている。

 ホテルの浴衣を羽織ったイズミは、脱衣場から出ようとスリッパをつっかけ、戸を引き開けた所で、丁度向こうからも戸を開

けようとしていた客とぶつかりそうになる。

「おっと!ごめんなさいよ!」

「いや、こちらこそ失礼」

 慌てて横に退き、気難しそうな顔のアライグマに道を譲ったイズミは、会釈した相手とすれ違い、廊下に出て戸を締め…、

(あんま気配感じなかったな?バッタリ鉢合わせるまで気が付かなかったぜ。腹も膨れて風呂にも入って、気が緩んでんのか?

うはははは!失敗失敗っと!)

 誰の目も無くなった所で緩んでいた顔を引き締める。

(残り三件…。そろそろ良い時間だ。続きを回るか…。次は…夜市だな)

 一方、脱衣場に入って借り物の浴衣を脱いだマミヤは、

(さっきのクロコダイル系獣人…)

 何処かで見た顔だと、一瞥しただけのイズミについて記憶を手繰り、程無く思い出した。

(確か、海上輸送の起業について人員を手配する際に見たリストに居たな)

 たぶん伊東辺りを担当していた水上配達員だと確信したマミヤは、シャツを頭上に引っ張り抜く形で脱ぎながら、今後の事に

思考を戻す。

(空振りになるかもしれないが、風呂から上がったら出向いてみるか。予想通り事が進むなら、次は…夜市だろう)

 祭りの間、午後七時から午前零時まで開かれている市場。個人出店の出店は勿論、地元商店も目玉商品を持ち寄って出品する

大規模バザー、それが夜市。

 花火大会が中止になった今日、最も客が集まる場所である。