第四十三話 「インビジブル」

「ただいま」

 ドアが閉まる音に重なった帰宅の挨拶に反応し、ドスドスと重々しい足音が響き、次いでリビングのドアが開く。

 中から出て来たのは、秋物のトレーナーに特大ジーンズ姿の大柄な若い猪である。キッチンで作業中だったようで私服の上に

はクリーム色のエプロンを羽織り、両手には耐熱ミトンを嵌めていた。

「おかえりナミ!今日は早かったね?」

 一方で外から戻ったレッサーパンダは、薄手のコートを羽織っている。白神山地は夏も秋も短い。…というより、標高が高い

せいで秋の気温がよそよりもだいぶ低く、春の訪れは遠い。自然と冬の装いで過ごす期間が長くなる。

「結果待ち。装置にかけたから明日の朝までする事ないし」

 研究所外なので主語や名詞をあえて避けたレッサーパンダは、靴を脱いで玄関に上がりながら、小さく鼻を鳴らした。開け放

たれたリビングのドアから、キッチンに籠っていたらしい何かが焼ける香りが流れて来る。

「残業しないなら連絡くれよナミィ…」

 大柄な体躯を揺するように歩み寄った猪が不満げに鼻息を吹くも、レッサーパンダは「忘れてた」と涼しい顔。

「追加で焼くから、焼き上がった分から食べてこう。何と、今日はピザがたっぷりあるんだよ!」

「ピザ?」

「うん。イナバさんトコのピザが在庫処分で安かったから、ついついLL九枚も買っちゃってさ。何日かはピザ続くぞぉ!」

「もって二日じゃない?タイキのお腹なら四、五枚は一晩で消えるでしょ」

 レッサーパンダが羽織っていた薄手の秋物ジャンバーを甲斐甲斐しく脱がせていた猪は、突き出た腹をポンと軽く平手で叩か

れると、「栄養偏るから一晩じゃ食べないって!」と鼻をブフーッと鳴らして反論する。体も大きく牙も立派な若人だが、不満

顔にすら人の好さが滲み出ていて怖くない。

「一枚は明日タツロウ君にあげるよ。食べ盛りだし、きっと喜ぶ」

「それは良い。随分と体格も体型も変わって来たから、栄養は必要だし」

 ナミの背中を押して促し、リビングへ戻ったタイキは、「ところでタツロウ君、異常とか無いんだよね…?」と小声で訊ねる。

「異常って言うなら、血清を投与したからには全員が漏れなく大なり小なり異常だけど」

「そういう意味じゃなくて…」

「彼個人についてなら、タイキが心配するような異常は目下何も無いよ。獣化前後であそこまで体格が変わるのは珍しいけれど、

あれはおそらく病床での生活が長過ぎて運動が不足、結果として筋肉も骨格も成長していなかったせいだ。健全な生活を送れて

いたら、人間のままでも今のような体格に成長していた可能性が高いね」

「あの…体の模様はどうなの?毛色とか…」

「それも問題無いよ。どうやら彼は秋田犬型で、黒虎毛の個体に該当するらしい。ああいう毛色と模様で正常なんだ」

「そうなんだ?良かった…。てっきり発育不全か何かで毛色が一定しないのかと…」

「まだ生えたてだから色合いが淡いけれど、その内に色もくっきりして来るよ」

 会話しながらナミのジャンバーを広げ、リビングのコートハンガーにかけたタイキは、洗面所へ手を洗いに行った彼へ「あ、

そうそう」と思い出したように呼び掛けた。

「おじさんからメッセージ来た。土肥の秋祭りに行ってるんだって。ちゃんと反応してあげた?」

「キモかったからサイレントにしてたし」

「ナミィ…。もうちょっとこう、さぁ…」

 ため息をつく猪。父子仲は悪い方ではない…というか父は子供達を溺愛しているのだが、それが長男相手には一方通行だった

りする。何事にもドライなナミはマミヤが構って来るのをうざったく感じているようで、対応にはだいぶ塩が利いている。

「美味しそうな焼き鳥の画像で晩御飯前に飯テロされたよ。焼く前のピザ画像で反撃したけどな!ははは!」

「それでこそタイキだよ」

 息子達の幼馴染であり次男の恩人でもあるタイキは、長男のパートナーとしてマミヤが公認している。こちらも仲が良く、特

にマミヤからすると、研究に没頭してやり取りをシャットアウトしがちな上に生活の質を重視しなくなる長男の監視役兼情報中

継役として、タイキは大変重宝されている。

「流石にこっちの祭りとは規模が違うよなぁ」

「そうだね」

 テーブルについて昔ながらの紙面型新聞を広げたレッサーパンダを、ピザを取りに向かう猪がちらりと一瞥する。

「ねぇナミ」

「なに」

「今なんか黙んなかった?」

 自分の事に関しては異様に鋭い幼馴染に「なんかって?」と応じながら、ナミは心の中で舌を巻く。今のやり取りの何処で違

和感を掴んだのか、と。

「いや、何もないなら別に…」

 タイキがキッチンに姿を消し、残ったナミは新聞の記事を目でなぞる。記事の内容とは全く別の事を考えながら。

(父さんは、ただの物見遊山で祭りを楽しみに行くような人じゃない。相手か、あるいは仕事が、必ずある)

 祭り見物が目的ではないだろうと考えたナミは、「まぁどうでも良いし」と呟いた。

 自分達にはヘラヘラ接する父親が、その実どれほど恐ろしい男なのか、息子のナミは良く知っている。「自分の同類」だから

こそ。

 

 一方その頃、夕食時を過ぎた土肥では…。

「菓子をお持ちしました」

 少年達の部屋を訪れたキジトラ猫は、テレビのニュースに見入っているふたりに声をかけ、デザートのお盆をテーブルに置いた。

「トラマルさん!ニュースでやってるっスよ祭り!オレ映ってなかったっスけど!すげーっス!地元のお祭りテレビで流れた事

ないっスよ!オレ映ってなかったっスけど!ザンネン、オレ映ってなかったっス!」

 振り返ったアルに微笑んで、「花火があるとなお良かったのですが…」とトラマルが応じる。

「昨日は手漕ぎボートのレースがあったんですね?」

 タケミの言葉に「はい」と顎を引いたトラマルは、非合法で賭博も行なわれている事は伏せておく。

「水上行事では他にも、水上バイクでアトラクションチームが演技したり、灯篭を流したり…」

「ここのお祭りイベント、日替わりメニュー多くないっスか?コンプ難度高いがちっス」

「それはまぁ、できれば全日滞在してお金を落として行って頂きたいですからね」

 微苦笑するトラマルに、「あ、なるほど…」「リカイ!」と口々に反応する少年達。

「夜のお菓子は、大親分お薦めの一品…冷し葛餅です。きな粉と黒蜜をたっぷりかけてどうぞ」

 キジトラ猫が並べた皿の上には、薄い長方形に切り分けられた半透明の葛餅が、刺身蒟蒻のように綺麗に並べられている。そ

こへ小皿からきなこを、容器から黒蜜を、好みの分だけかけて食べる方式。

「大親分って甘い物が好きなんスか?」

「だいたいの物は好みます。気持ちと頭の栄養と、よくおっしゃっていますね。まぁ、お腹が出てしまうと言って少し気にして

らっしゃる素振りも見られますが…」

 くすりと笑って、トラマルは口元に軽く握った拳を添える。

「恰幅が良い方が大親分らしいです」

「言えてるっス!タケミも今の方が良いっス」

「ええ…」

 自分を棚に上げて話を振るアルに、困惑顔のタケミ」

「大親分は、気分を切り替えたい時や、頭脳労働をする時にはよく甘味を口にされています。特に羊羹がお好みですね」

「そう言えば、母ちゃんも所長もよく羊羹食べるっスね…」

 思い出すアルに、「思い出の品ともおっしゃいますね」とトラマルが答える。

「熱海の大将もイタヅ先生もですが、昔から潜霧しているベテランの方には、羊羹を好まれるひとがだいぶ多いかと…」

「爺ちゃんもたまに羊羹買ってたっスよね?」

 雌虎やタケミの祖父が、丸い一口サイズの羊羹をつまんでいた姿を思い出したアルが確認すると、少年も「うん」と頷いた。

「お爺さんは、老舗のお菓子屋さんの羊羹を定期的に取り寄せていたと思う。所長もたまに同じ物を…」

「母ちゃんが食ってるのも同じところっぽいがちっス」

「ああ、そこはもしかして、福島のお店ではないでしょうか?」

「あ、そうでした!」

 タケミが思い出し、アルも耳を立てると、トラマルは「思い出の品な上に、大きな借りがある…、というお話です」とふたり

に語る。

「かつて伊豆半島が、大隆起直後で長城も風車も無く、霧から身を護る安全地帯が少なくて、環境も不衛生だった頃…。危険生

物や旧式機械人形を、塹壕や簡素なバリケードに身を寄せて迎え撃ち、本土上陸を阻むために日夜休みなく戦っていた頃…。そ

して、今ほど潜霧用の道具や物資が充実していなかった潜霧黎明期の頃…。羊羹はその間長らく、日持ちもする甘味として重宝

されたそうです。特に一つ一つ小分けになっている羊羹を、乾パンや氷砂糖等と一緒に慰問袋に詰めて送ってくれたお菓子メー

カーがあったそうで…。大変お世話になった物だと、大親分やイタヅ先生が当時の事を教えて下さいました」

「そこが、福島のお菓子屋さんなんですか…」

「ええ。お年を召した潜霧士の方々は、今も折につけそこの羊羹を買っています。…実はあの羊羹は現在でも特例品扱いのまま

で、伊豆への持ち込みが紙面審査だけでパスされているんです。メーカーから伊豆専用梱包をされる時点で国家認証済みになっ

ていまして…」

「ウォウ!雑賀重工とかの大手メーカー品と同じ扱いっス!」

「おや!よくご存じで!博識ですね」

 褒められたアルが「ウヒュッ…!」とこそばゆそうに妙な声を発して笑う。この辺りはボイジャー2の整備がてら、ヘイジか

ら教えられて詳しくなった。

「とはいえ、そういった品はごくごく一部ですから、ここの夜市のように様々な品が一同に会した市場は機会的な意味でも貴重

です。以前はよからぬ輩が入り込む事も多かったのですが、出店審査を厳正に行なう事で、今や健全、安全、万全のイベントス

ポット!…いや、お店を審査する担当は毎回の祭り開幕直前まで過労で倒れる寸前に追い込まれる多忙さですが…」

「担当って、もしかしてイタヅ先生とかっス?」

「はい。イタヅ先生や瑕者組の皆さんが。特にイタヅ先生は…」

 

「祭りが終わるまでぜってぇ働がねぇど…!」

 畳の上に敷かれた布団の上、老いてなお逞しい裸体でうつ伏せになっているツキノワグマは、タオルを敷いた肉付きの良い尻

に跨る若いボストンテリアに腰を揉んで貰いながら、酒臭い息と文句を延々と吐き出している。

「断ればいいじゃないですか先生?」

 酔っぱらいのグチを聞き飽きたボストンテリアが、体重をかけてマッサージしながら応じると、「しんぺぇだがら口出しちま

うんだでば…!」と、ジンキチはブスッとした顔で零した。

 毎回祭り準備に関わって、その都度もう沢山だと思うのに、若い者に任せきりにするのは不安になってしまう。面倒見が良い

と同時に損な性分のツキノワグマ。

 準備で働いたから祭り期間中は働かないと宣言し、自宅でダラダラ過ごしているジンキチは、湯屋から出張マッサージを呼ん

でいるが、これは今日に限っての事ではない。時間さえあれば揉み解しサービスを依頼する。

「こんなに頻繁に頼むなら、肩とか揉んでくれる良い人でも見つければ良いじゃないですか?」

 そんなセリフも、ジンキチには耳にタコ。「もう歳だ。今更恋人だのなんだの…」と鼻で笑って流す。

 貯蓄は充分…どころか、一線を退いたとはいえ俵一家の大幹部だったツキノワグマは、富豪の部類に入る。

 小ぢんまりした平屋の一戸建てをマイホームとしているが、これも見た目以上に設備とセキュリティが充実している。端的に

言えば、例え土肥がミサイル攻撃を受けてもそっくり地下シェルターにスライド降下して難を逃れるなど、過剰な程の機能を有

する小要塞である。一家の資金運用に関してはまっとうな金銭感覚を持ち合わせているのに、個人としての金の使い道が思いつ

かないクチなので、金の使い方も下手糞だった。

 俵一家の重鎮として、後進の指導に当たったり、新幹部の教育をしたり、他所との交渉では最高責任者であるハヤタの代理で

折衝役を務めたりと精力的に働くジンキチだが、働かなくとも遊んで暮らせるほどの蓄えがある。勿論、伴侶を取っても養って

いけるだけの余力はあるのだが、本人にはその気が無いらしい。

「おー、そごそご…!キツぐ揉んでけろ!」

 肩甲骨の間から首筋まで、背骨沿いに揉まれて声を漏らすジンキチ。

「祭り終わったらもう一仕事控えでっからな、鞭打って気張んねげ…!」

 などと言うツキノワグマの言葉を、

(先生が仕事って…。また傘下の組織がまとめて新人採用したのかな?)

 教導の依頼が入っているのだろうと解釈し、ボストンテリアは詳細を訊かなかった。

 

 そしてこの頃、ウキウキしながら出かけたユージンは…。

「こ、こ、こ今夜は急遽代役となりましたのでよよよよろしくお願い致しまズ!」

 湯屋の一室…宿泊できる客室で、晩飯の御膳セットと一緒に部屋へ投入された青年を見て、アングリと口を開けた。

 胡坐をかいて絶句している巨漢の前で正座し、鼻が畳に付くほど深く頭を下げ、背中を震わせているのはシェットランドシー

プドッグの青年である。緊張のせいで発音がおかしく、所々で噛みそうになっていた。

 浴衣に着られているとでも言うべき初々しさは、しかし初々し過ぎて不安になるレベル。極度に緊張している様子で体の震え

がひどく、フワフワの長毛が小刻みに揺れ続けている。

 折り悪く、予約していたユージンを担当するはずだった者は、祭り客から風邪を貰ったらしく熱を出してダウン。祭り中はほ

ぼ予約で埋まる事もあり、ピンチヒッターを指名できない事は支配人からも詫びと一緒に聞かされていたが…。

(いくつだ、ええ!?)

 元気で若い方が良い…とはいえ限度がある。ひょっとして未成年なのではないかと勘繰る金熊に、シェットランドシープドッ

グ…シェルティーは土下座に近い姿勢のまま「ま、ま、前園柄持(まえぞのつかもち)デすっ!」と自己紹介して、喘ぐように

二度呼吸してから「は、はダヂですッ」と年齢を明かした。

 過呼吸の深海魚のような喘ぎっぷりのシェルティーの緊張を目の当たりにし、

(…外れだ…)

 ユージンは内心がっかりした。外見などが好みかどうか以前に、ここまで緊張している相手と床を共にしても、金熊個人とし

ては昂れない。むしろ可哀そうになってそれどころではない。

 客を取る商売にまだ慣れていないのだろうシェルティーは、不慣れに加えて一等潜霧士…熱海の大将のお相手をするというこ

の状況で、血圧も心拍数もおかしくなるほどのプレッシャーに晒されていた。

(しかもチェンジできねぇ…)

 人手が足りていない中で用意された相手に、替えが利くとは思えない。加えて言うなら、自分がこのまま帰したら、熱海の大

将に突っ返されたと、この青年の評判を落としてしまう。

 胸中でため息をついたユージンは、「顔上げろ」と固まっているシェルティーを促した。

 あどけなさが残る顔立ちに、豊かな被毛は清潔に整えられてフワフワ。中背よりやや下と思える背丈に、均整が取れたボディ

ライン。その容姿を確認したユージンは、「何等だ?ええ?」と訊ねた。ツカモチは少し驚いた顔をしたが…。

「潜霧士と掛け持ちだろう。違うか?」

 稼ぎの少ない若手潜霧士は、副業としてこういった所で働く事もある。

 特に才に恵まれてでもいない限り、駆け出しから順調に稼げていても、装備品などの分割払いに何年もかかるのが普通である。

ローンを支払いながら装備品を充実させてゆき、かつ生活するために、潜霧経験を積んで軌道に乗るまでは資金繰りに苦悩する

者は多い。

「よ、四等です…!」

「潜霧歴は?」

「四年半と少しで…」

「ほう。ポジションは?」

「キャリアーです…。あ、でも運転専属で…、運営とか指揮とかは全然…」

(キャリアーか…。作業機は金がかかる。もし自前の所有だったら借金も相当だろうぜ)

 オドオドと話す若者は俵一家ではない。とはいえこの店に入っている以上は信頼が置ける潜霧団の所属。自分が知らない相手

なので、おそらくは傘下組織の若手潜霧士だろうとユージンは察しを付ける。

 とはいえ、「こういった場」で身元や身の上をあまり詮索するのも無粋だろうと、金熊は話を打ち切った。

(二十歳か…)

 ユージンは視線だけ動かして横目で座卓を見た。夕食の御膳は二人分。一晩の相手としてあてがわれたシェルティー青年の分

も含まれている。

「飯にするか。冷てぇモンは冷てぇ内に、熱いモンは熱い内に、だ」

「は、はい!ふつつつつか者ですがッ!お酌させて頂きマす!」

「そう堅くなるな。今日は床を共にする気はねぇぜ」

 腰を上げた金熊は顎をしゃくって促しながら青年に笑いかける。

「今夜欲しいのは飲み相手と話し相手だ。ウチにも四等が二人居るから丁度良い。飯を食いながら、ヌシの潜霧話を色々聞かせ

てくれ。若手を抱える経営者として、同世代の話は参考になる」

「え?」

 体を売るために来たはずが、話し相手になる事を求められたシェルティーはポカンとした。抱くためでなく、話し相手などと

して男娼を求める客も稀にある…と聞いてはいたが、自身がそういった客に当たったのは初めてである。

「ほれ。そっちに座れ」

 どしっと腰を下ろした巨漢に手招きされ、我に返ったシェルティーは慌てて酌をしに傍へ向かうが、

「ヌシの席はそっちだ、そっち。脇について酌なんぞしなくていい、ヌシも腰を据えて食え」

 ユージンに手振りで促され、ツカモチは向かい側の座椅子へ遠慮がちに腰を下ろす。

「それじゃあ、ヌシの苦労話に、若手にありがちな話、あとはそうだな…、頻繁に感じる不満なんかも聞かせて貰おうじゃねぇ

か。ええ?」

 ビール瓶を掴んで口を向けながら、金熊は若い潜霧士に太い笑みを向ける。

 若い男は好きだが、タケミ達より少し上程度となるとユージンとしては相当に微妙なライン。性欲の対象になるどころか親心

のような物まで芽生えてしまうので、今回の「発散」は泣く泣く諦めた。

 

 同時刻、ある高級湯屋の最上階客室。

 一際広く、しかし豪華というほど派手さも無い、品が良く纏められた特別室の窓から、隻腕のゴールデンレトリーバーが笛や

太鼓の音も聞こえなくなった外の通りを見下ろし、風も入らなくなった網戸の上にガラス戸を引いて締め、カーテンを下ろす。

 大きな樫の机が置かれた畳敷きの和室と、テーブルチェアのセットが置かれた洋室、そして布団が敷かれた和室仕様の寝室、

専用の広い半露天風呂などが備えられたその客室は、湯屋に一室しかない、いわゆるロイヤルスイートである。

 隻腕のゴールデンレトリーバー…キンジロウは、締めた窓から室内に視線を戻した。

「食事が口に合いませんでしたか坊ちゃん?それとも、酒が今一つでしたか」

 この部屋とキンジロウを借りている客は、樫のどっしりした机について、座椅子の背もたれに丸めた背を軽く触れさせて俯い

ていた。

 若い獣人である。全体的に丸っこい体型で、逞しいというよりはポッテリ太った肥満型。身長はあまり高くはなく、平均より

やや背が高いキンジロウと並んで立てば、頭半分以上は低いだろう。

 座椅子から分かれている肘置きと、座り心地の好い座面の間からは、太くて丸みを帯びている尻尾が、畳の上にクタンと投げ

出されていた。

 若い客は狸である。しかし浮かない顔で伏し目がち、声をかけられてもキンジロウの方を見ようともしない。

「…明日で、お祭りも終わっちゃいますね…」

「ええ。長い長い、いつもの祭りが終わります」

 歩み寄ったキンジロウは若い狸の傍らで膝をつくと、漆塗りの雅な銚子を取り、空になっていた揃いの盃に清酒を注ぐ。

「夜市は今夜で最後ですが、本当に行かなくて良いんですか?」

 盃を手にしたキンジロウは訊ねながら顔の前に差し出してやり、頷いた狸はそれをそっと受け取り、水面に揺れる反射光を見

つめた。

「七日六晩…。一緒に居られる時間なんて、あっという間です…」

「そう言って頂けるのは光栄ですがね、できれば最後まで上機嫌で過ごして頂きたい物です」

 浮かない顔の狸は気分が悪い訳ではない。寂しさが瞳に陰を落としていた。

 祭り中の七日間、特別室とキンジロウを借り切って過ごしたこの狸は、大財閥の末っ子である。祭りの度にこうして土肥を訪

れては、キンジロウを指名して一週間共に過ごす。そんなサイクルがもう十年ほども続いていた。

 指名されるキンジロウ個人にとって上客であるだけではない。この若狸本人だけでなく、社員などの出張でも大口で予約を入

れて貰えるので、湯屋にとっても上客である。

 加えて言うなら、その財閥のいくつかの部門は、土肥はおろか伊豆半島全体に影響力を持つ。総帥の息子である上に一部門の

責任者である若い狸をもてなすのは、湯屋にとっては最重要業務と言って差し支えないほど大切な事だった。

「もう少し食休みして、お腹が落ち着いたら湯あみにしましょう。今日はラベンダーのアロマポットを浴室に置いてあります。

リラックスして頂きながら、隅々まで洗いますよ。勿論、他にもご要望があれば何でもお引き受け致します。「一つ」を除いて」

「…あの…」

 狸は顔を上げ、盃を卓に置くと、キンジロウの目を見つめた。

「抱き締めて貰って、良いですか…?」

「ええ、御安い御用です」

 レトリーバーは右腕を狸の肩に回し、座った状態で胸を合わせ、互いの肩に顎を乗せる格好で抱擁した。

 おずおずと後ろに回った狸の手が遠慮がちに背中を撫でて、懐かれたものだとキンジロウは内心苦笑する。

(遊びで男娼を求めるなら、他にいくらでも居るってのにね…。こんな程度の悪い、しかも瑕者の男に入れ込むなんて、坊ちゃ

んも困った性分だ…)

 この若い狸は、左腕が前腕半ばから欠損している自分を贔屓にしてくれる。財閥の三男坊という肩書だけで男にも女にも不自

由しない身分だろうに、わざわざ遥々土肥までやって来ては、一途に自分を求める。

 悪い気はしないが、時折どうしようもなく哀しくもなる。住む世界が違い過ぎる事を、この坊ちゃんはなかなか判ってくれな

い物だ、と…。

「もう少し飲んでからお風呂にしましょうか?夜はまだまだこれからです。のんびりしたって簡単には朝は来ませんよ」

 キンジロウは右手で優しく狸の後頭部を撫で、その頷きを肩で感じた。

 

 その頃、土肥の祭りで中心付近となる大通りは、昼間にも負けない人通りの多さで賑わっていた。

 色とりどりな灯りの下に様々な看板が並び、掘り出し物や売り出し物を並べた露店が軒を連ねた市場。午後八時からは競りも

催されるので、刻限になれば一層威勢の良い声が響き出す夜市は、最後の夜とあって六晩の中で最も盛況。

 商品を求める客ばかりではない。集まった出店を楽しみにして立ち寄る客も多く、雰囲気その物を身軽に味わう者もある。

 軽食や酒などを振舞う屋台も並んでいる、長い歩行者天国の西口から少し入った所では、香ばしい煙を漂わせる焼き鳥屋の屋

台前に、一際大きな影があった。

「ハフッ!ハフハッホ!ほ~、あっつ…!」

 焼き立てでまだ熱いネギマをハフハフ頬張り、大きな口を開いたり閉じたりしながら味わっているのは、クロコダイル系の鰐

獣人。アロハシャツに短パン姿でサンダル履き。太い鼻梁…マズルの上に乗せる形で、サングラス部分を跳ね上げた2ウェイ丸

眼鏡をかけており、大きなバッグを左脇に抱える格好で肩から吊るしている。

「十本入りでこの値段とかマジですかー!ネギも合成物じゃない、本物使ってんでしょこれー?儲かってんですこれでも?」

「儲けが無かったらやってないよお兄さん」

 気さくに話しかける鰐は、店主の人間男性に苦笑いされて「うはははは!ごもっとも!」と厚みがある肩を揺すって笑う。

「今夜はすげー客ですね。オレなんてこ~んな太ってっから、こんなに混み合ってると、ぶつかんないように歩くだけで大変で

すよ!うはは!」

 ユーモラスに太鼓腹を叩いて朗らかに笑う鰐に、「その目方が、通りを抜けるまでに増え過ぎないように気を付けなよ」と、

店主も笑って応じる。

 その場で完食したイズミは、店頭のゴミ箱に串と空を捨てると、「ごっつぉさんっした~!」と店主に手を振って、人ごみの

中を歩きだす。

(帰りにも食いたいけど、流石に無理だよなぁ…。残念だが、まあ仕方ねぇやな)

 そして鰐は丸眼鏡に手を遣り、サングラスをパチンと下ろした。

(そろそろ時間だ)

 イリエワニがサングラスで隠した視線を向けたのは、屋台が軒を連ねる向こう…ストリートを挟んで立ち並ぶビルなどの高い

建物群だった。

 

 一方で、通りの反対側にあたる東口付近。ラフな私服や浴衣姿の客でごった返す夜市の雑踏の中に、場違いに仕立ての良いダ

ブルのスーツを着込んだアライグマの姿があった。

 人の流れに乗ってゆったりと、店の品々を眺めている様子で歩むマミヤ。だが、実際には品物に興味はない。その目が探って

いるのは、

(もしも私がやるとすれば、屋台のガスボンベに、バッテリー…、ああいった物も活用するな)

 自分がここで誰かを殺害するならどうするか、という点である。

(道具があらかじめ用意できているなら、そしてそれを使いこなす腕があるなら、あっちを利用するか)

 見上げたのは、並ぶ屋台の屋根の向こう。大通りを利用した夜市は、左右から高いビルなどに見下ろされている。狙撃スポッ

トはいくらでもあった。

(大量殺人を狙うならば、ビルそのものを爆破して、質量で潰す事も考える。時限爆弾を利用すればゆうゆうと立ち去れるし、

足もつかない)

 マミヤはそんな事をしない。ただしそれはやる意味が無いからで、必要であれば実行するし、その算段を立てる事にも抵抗は

ない。アライグマの脳内では、絶叫渦巻く虐殺の場と化した夜市がリアルに想像されている。

(「花火会場が不発に終わった」以上、次の狙い目はここなのだが…)

 

 そして、男は準備を終えて位置についた。

 祭り期間中は休業となるオフィスビルの一室に入り込み、見下ろすのは並んだ屋台の屋根と、その間の車道を埋め尽くす人の

群れ。

 大柄な男は傍らに立てた筒状の物を見遣り、舌なめずりした。

 それは無反動砲。装填されている弾頭は20メートル四方を跡形もなく吹き飛ばし、その倍以上の距離を殺傷圏内に収め、爆

炎を撒き散らす。

 これから浮かれ気分の祭り客が、何が起こったのか判らないまま何十人も死ぬ。その終わりの光景を考えるだけで興奮し、陰

茎がいきり立つ。

 男は快楽殺人者である。

 この仕事は天職だと自認している。

 依頼が入った際も、報酬を確認する前に二つ返事で引き受けた。

 人死には良い。たくさん死ぬのはもっと良い。人生に一度しか味わえない死、それを自分がもたらすという行為に、それまで

の生命活動に幕を引くというセレモニーに、男は興奮する。

 そこには憎しみや怒りは当然として、理念も損得も無い。男は単に、自分の手で誰かが死ぬのを見たいだけ。

「さあ、死を届けてやるか…」

 砲弾の装填が終わった無反動砲を担ぎ、窓を開けようと手を伸ばした、その瞬間…。

「………を、届けに来たぜ」

 耳元で囁く低い声に次いで、羆はマズルを握り込むように掴まれた。

 直後、太い腕が首に回って、ゴキュッと脛骨を破壊する。太く逞しい羆の首を、容易くへし折って。

 呻き声すら漏らせずに絶命した羆の首から離れ、落下する無反動砲を掴んでクルリと回した手が、そのままコンッと、軽い音

を立てて窓際に立てかける。

「え?」

 骸となった羆の左手側で声が上がった。

 窓に並び、無反動砲やアサルトライフル、備え付けの機銃などの準備をしていた他の四名が見たのは、灯りもつけていないオ

フィスの暗がりに突然出現した第三者の姿。

 肥満体の巨漢鰐が、そこに立っていた。闇が濃い位置に立つソレは、暗がりに溶け込むブルーとグレーの都市迷彩の戦闘服で

デップリ肥えてなお筋肉質な身を覆い、丸いサングラスで双眸を隠している。姿は見えているのに、しかも大柄なのに、ひどく

気配が希薄な男で、相対してなお目の錯覚かと思うほど現実味が薄い。

 何より異様なのは、そちらには出入口はおろか窓も無い事。通信機を片手にオフィスのドア脇で室内と窓を見張っていた男は、

気が付けば部屋の暗がりからヌゥッと鰐が現れたように見えていた。

「誰…」

 拳銃を掴んだ男達が声を上げ終える前に、巨躯の鰐が動く。

 超重量の体躯が一瞬で距離を詰め、照準が合う前に男二人の眼前に迫りつつ腰を落とし、跳躍に備えて膝を深く曲げた姿勢で

滑り込む。そして僅かな減速と共に分厚い手で双方の顔面をパシッと鷲掴みにし…。

 ゴキキッ…。

 巨躯が跳躍しつつ、軽やかに前転宙返りした。男達の顔面を鷲掴みにしたまま。

 ヒュンッと太く長い尾が風切り音を立てたかと思えば、前転しつつ跳躍した鰐は上下逆さまの状態で天井に着地。その様を、

首を折られた男達が後ろに反って倒れ込みながら、光を失いつつある目で呆然と見上げる。

 鰐は止まらない。上下逆さまのまま芯材が通った丈夫な個所で天井を踏み切り、反射するボールのように加速して三人目に襲

い掛かる。

「あ!?え!?」

 銃の照準は追いつかない。接近から跳躍、頭上からの急襲、素早い上下動で的を絞れない。

 窓から群衆めがけて銃弾の雨を浴びせるはずだったアサルトライフルは、照準を定める前に接近してきた鰐の右手で、射手の

手ごとグリップを握られた。鰐の太い中指はこの時点で引き金の裏に入っており、トリガーが引けない状態になっている。

 男の右手ごと銃を抑えた鰐の、空いている太い左腕は、着地と同時に相手の背中から首へに回り、半ば抱え込む格好で男を捕

らえて振り回すように反転。男の体が浮き上がる程の勢いで床へ引き倒した時には、喉輪落としの格好になっていた。

 苦しむ暇も無い。流れるような動作のその中で、男の脛骨はあっさり折られている。

 ダンッ、ギュチッ、ドゴッという着地から連続した音に次いで、喉輪落としで仕留めた男を床に残し、伏せるような低い姿勢

になった鰐が滑るようにオフィスのデスク群に消える。300キロを軽く超えるその体重と、天井を蹴って降下した速度を思え

ば、衝撃の殺し方も身のこなしも異常なレベルの技量である。

「な、な、何を…!何が…!?」

 出口に陣取っていた男は混乱していた。襲撃者の正体、目的、そもそもどうやって入り込んだのか、何が起こっているのか、

自分が抱く疑問があまりに多過ぎて纏まらない。

 さらに言えば、男は仲間達が殺害された事にも気付いていない。鮮やか過ぎる鰐の奇襲と殺傷技能は、傍から見れば交差した

瞬間に突き飛ばされたり転ばされているだけにも見えかねないほど。巻き込むような回転からの喉輪落としすら、スピードが速

すぎるせいで、デスク向こうで接触して諸共に転げたようにしか見えていない。首の骨が折れる不気味な音にすら気付けなかっ

たので、どうして仲間達が起き上がって対処しないのか判らない。

 男は拳銃を構えたまでは良いが、銃口を彷徨わせる。

 一瞬で四人を無力化した巨漢は着地と同時に身を沈め、オフィスの机の影に隠れたきり、男の位置からは姿が見えない。

 何処から飛び出して来るか判らないまま、デスクの切れ目から目を離さずに「おい!早く起き上がって応戦しろ!」と、もう

返事が来ない事も知らないまま仲間に呼びかけた男は…。

「終わりを、届けに来たぜ」

 左耳にその声を聴く。

 そんなはずはなかった。そこに居るはずはなかった。そこまで死角を縫って近付く経路は無かった。なにせ男の左側は開けて

いて、身を隠せる場所は無かった。

 なのに、鰐の巨漢はそこに居た。まるで視界の隅から滲み出たように。

 銃口を向ける動作は間に合わなかった。

 分厚い両手が首を捉え、ハンギングツリーの要領で男を吊るし上げる。

 プシュンと、サウンドサプレッサーで抑えられた銃声が鳴ったが、それは捕らえられた男が狙って撃ったものではなく、はず

みで引き金を引いたただの誤射。被害は、近くの棚でプリンターの上部が割れて吹き飛んだだけ。

 コキポキッ…。

 床から浮き上がった男の脚はろくに藻掻く事もなく、だらりと下がった。

 首を捉えられて持ち上げられる苦しささえ味わう事もなく、脛骨を折られて絶命した。

 鰐は壁に寄りかからせるように男を離し、ずりずりと下がって尻もちをつく様子から視線を外しつつ、眼鏡のサングラス部分

をパチンと跳ね上げる。

(あっちゃ~!しくじっちまったぁ!)

 藍色の目は焦っているように、誤射で破壊されたプリンターを映して小刻みに揺れていた。

(フルカラーレーザープリンターってヤツじゃねぇのかこれ!?高ぇヤツ?いや絶対高ぇ!安い訳ねぇ!確かこういうのって図

面とかを紙で扱う専門職が居るような会社以外じゃあんまり使われてねぇって、前にテレビで…。うっわ~…!まっず~…!休

み明けに出て来た会社の人、滅茶苦茶びっくりするし困るぞぉこれ!…って、ちょおっ!?リース品のシール貼ってあるぅっ!

もしかして会社の人が賠償しなきゃないヤツか~!?)

 無残にも上側三分の一が吹き飛んだ、最近は生産数自体が少なくなっているカラープリンターの前で、触れようかどうか迷う

ように半端に両手を上げ、左右にウロウロしていた鰐は、

(これで、どうか…!ゴメンなさいだぜ!)

 オフィスの棚にあった箱…昼食の出前を取る者が使うらしい集金ボックスに、ポケットから引っ張り出した一万円札を全て入

れる。

(とりあえず、あんまりボヤボヤしてられねぇしな。えーと次は、情報によれば…)

 鰐は襟元に手を伸ばし、左手で引っ張って作った隙間に右手を入れ、ゴツくて丸い金属塊を取り出す。

 鰐が手の平に乗せたそれは、艶が失せて窪み部分などに黒ずみが見られる、年代物の懐中時計。ずっしり重いそれの上蓋には、

犬…ラフコリーの横顔が彫刻してある。毛の筋まで丁寧に刻まれたコリーの横顔は可愛らしくも賢そうで、微笑むように緩んだ

目元と口元は優し気に見える。

 太い人差し指でトンと表面に触れると、分厚い蓋がゆったりと開く。中から現れたのは時を刻む三本の針と、数字が記されて

いるだけの簡素な文字盤。

「「ステラ」、次の座標確認させてくれ」

 呼びかけに応じ、針の付け根部分…回転軸に仕込まれた極小レンズが拡散しない光を放ち、鰐の網膜に標的リストと注釈付き

の地図を投射した。

 鰐の視界に表示されているのは、配置された人数や準備されている武器、その潜伏先の座標などの子細な情報。依頼主から送

られた見易く纏められている情報を確認する鰐の視界に、追加で一文がポップアップする。

―残り四か所 気を付けてイズミ―

「おうとも」

―それと カラープリンターはこの場合 契約の上では「第三者行為による盗難あるいは破損等」の条項に該当して リース会

社が保険で補填する事になるから ここの社員さん達に負担はない―

 瞬時にオフィスの端末にハッキングし契約情報を確認。フォローが入ったイズミは若干顔色を良くした。

「そうかそうか!うはははは!…はぁ~。ホッとしたぁ~…!」

 そして鰐は懐中時計型の端末を大事そうに懐に仕舞い、ドアに向かう。

 しかしその手はノブを掴まず、藍色の瞳に映るドアは景色ごと揺れて歪み…。

「急げや急げだ!異常に気付かれる前に、「次の配達先」まで連続で突き抜けてくぜ」

 波紋を走らせて揺れる水面のように、鰐の前で空間その物が揺れていた。

 楕円形の巨大な姿見のようなそこへ飛び込むと、クロコダイルの姿は掻き消えて、空間の揺らぎも一瞬後に落ち着き、消える。

 そしてイズミは、同じく空間に波紋が走った室外…廊下にひょいっと現れた。

 それが入江出海の異能。

 公的に記録されていない…より正確に言えば、イズミに異能が発現した事をある人物が秘匿した結果、まだ誰にも把握されて

いない異能。

 公的な登録ではステージ7、異能未覚醒となっているイズミが保有するその力は、端的に言えば「空間を歪曲させる」異能。

空間の連続を捻じ曲げて繋ぐ事で、一種のワープゲートと呼べる物をを拵える事ができる。イズミは最大三秒間だけ出現させら

れるこのワープゲートを利用し、最大有効圏内の40メートル以内であれば、障害物を無視して瞬間移動する事が可能。これを

活用すれば、大概のセキュリティであれば警戒エリアを丸ごとスキップして侵入できる。

(えーと、確かお隣さんのビルの間取りは、っと…。よし、この廊下の突き当りの先に「ジャンプ」するぜ!)

 そして鰐は廊下を駆け抜け、突き当りの壁にぶつかる寸前に再び空間に波紋を発生させ、飛び込んで姿を消した。

 

「警部、ちょっと…」

 夕飯の為に駐車場に停めてある覆面パトカーの助手席で、おにぎりを胃袋に詰め込み終えた太めのソマリが、サンドイッチを

食べ終えそうな先輩のドーベルマンに携帯端末を向ける。

「何だ?…ガイシャの所持品リスト?」

「はい。全員じゃないですけど、おかしな物が…」

 刑事は鋭い目をなお鋭く輝かせて端末を受け取り、表示されているリストと添付された画像を見比べて…。

「待て」

 こめかみに指を当てて顔を顰めた。

「何だこれは?どういう事だ?」

「ね?おかしいでしょ?」

 ソマリも眉を八の字にして懐疑的な表情を見せる。

「ここまでの全部を「インビジブル」の犯行と仮定するとして、今回の一連の事件で出たガイシャの共通点って…」

「ああ。素性も住所もバラバラで、男性って事と、土肥住まいじゃない事、その程度しか共通点は無いと思っていた。手掛かり

にならない共通点しかない、と…。だが、これは…!」

 ドーベルマンは歯噛みした。

「新たな共通点だ。だが、くそっ!問題はそこじゃない!被害者達が「ただの被害者」じゃない!」

 ドーベルマンの目が凝視している被害者の所持品は、普通の祭り客が持ち歩いているはずがない代物ばかりだった。

「被害者…いいや「容疑者」の狙いは何だ!?他にも居るのか!?ああ、だが先回りしようにも手がかりが…」

「山かけ、してみますか?」

 ドーベルマンは後輩を見る。やや自信が無さそうな表情ではあったが、ソマリの目は真剣だった。

「何かアイディアがあるのか?」

「空振りになるかもですが、もしかしたらっていうレベルで「狙われるならここかな」って所が…」

 三十秒後、覆面パトカーはエンジンをかけ、立体駐車場を飛び出す。

「「夜市」!20時からは競りが始まる!確かに今夜狙うならあそこだが…、だったら何故だ!?」

 ドーベルマンがハンドルを回しながら唸る。

「「インビジブル」は何が狙いだ!?殺された連中は何者だ!?土肥に何が起きている!?」

「こう、動機とかはさっぱりですけど…」

 肥ったソマリは困惑顔で呟く。自信は無いし確証も無いが、もしかしたら、という疑惑はあって…。

「状況的に、「インビジブル」はこの連中を狙って、潰して回ってた…とか…?」

「くそっ!20時の競り開始に、間に合うか!?」

 

「大親分、失礼致します」

 黒猫が一礼して立ち入った部屋は、ハヤタの執務室でもある広い和室。

 宴会が開けそうな大広間の中央に座し、文机の上に浮いているホログラム映像の画面を、ぎこちなく太い指で操作していた大

猪は、「待ってだ!」と顔を上げた。

 足早に歩み寄った黒猫は、情報を纏めてプリントアウトしたペーパーをハヤタに広げて見せ…。

「警察の「協力者」から得た情報を整理しました。死亡者の所持品から見つかったのは、細かく分解して隠し持っていた時限式

の爆弾と、小型のガス発生機…「濃縮管」を利用したガス兵器でした」

 黒猫が説明していく間にも、ハヤタの顔がみるみる険しく、そして怒りで赤くなってゆく。

 濃縮管。大穴の霧を濃縮して液状化。成分を活性状態のまま封入した忌まわしい品。大穴内の環境を疑似的に再現するために

精製される濃縮液を、兵器として扱えるレベルまで小型化した容器に詰めた物。

 その恐ろしさは潜霧士でなくとも知っている。かつて政府の実験施設が犯した濃縮液の管理ミスによって、真鶴半島は今や人

間が生きられないエリアになってしまったのだから。

 そしてそれらは海外にも持ち出され、幾度もテロに利用された。字伏出身のセントバーナードなどが、幾度もその惨状に挑み、

沈静化させている。

(アレを、土肥で使うつもりだったのが…!)

「唯一、大親分との面会予約があった客人は、荷物内に怪しい物がありませんでしたが…」

「囮だ!」

 猪が声を大きくし、黒猫がビクリとする。

「囮…とは?」

「被害者に見えでる連中は全部繋がってんだ!オラど面会してっ時に、土肥中で騒ぎが起ごってる状況に持ち込みてがったんだ!

そうなれば手薄にもなっし、混乱に乗じで「事に及ぶ」のも容易ぐなる!」

「面会中に騒ぎを…!確かに各所で事件が起これば、こちらの意識は外に向き、人手も割かざるを得なかったでしょう!その間

に、内部に入っていた面会者がする事は…。まさか!我らが匿っているスガヤマ氏の殺害!?」

 顔色を変えた黒猫に、大猪は「んだ!」と深く頷く。

「移動はさせんな!館ん中に詰めでる連中揃えで、護衛増やせ!あのおどご、ほんとにタマ狙わいでだ!」

 狙いに気付いたハヤタには知る由も無いが、結局のところ、菅山録を殺害したい側が巡らせた大規模な作戦は、どう転んでも

上手く行くようにはなっていなかった。

 作戦の第一段階として、霧によるテロと花火会場の爆破を行ない、面会で俵一家の居城に入り込んだ実行役が、その騒ぎに乗

じて手薄になった本部内で対象を見つけ出す手筈だった。

 これが失敗した時の為の二段目が、夜市を狙うテロである。夜市会場は俵一家の本拠地からも近く、騒ぎが起これば対象を安

全の為に移送する可能性が高い。

 …はずだったのだが、ハヤタはその定石を即断で砕いた。騒ぎが起これば守るべき対象を安全な所に移したくなるのが人情と

いう物だが、この猪はそうではない。

 土肥の大親分は自らの、一個師団クラスの戦闘性能を自覚している。いざとなれば自分の目が届くところが最も安全だという

事が判っている。

「ただしトラマルは動がすな。子供らの傍に控えさせどげ。あど、非番の連中もだ。何か異常があったら急行させる。連絡だげ

して情報共有しとげ、良いな!?」

 非番の者達は街中に散っている。下手に集めるよりも現状のままの方が、最寄りの現場に急行させられる。一見すると騒ぎを

広めない守りの手に見えて、実際には事が起こり次第封殺にかかる攻めの手を、ハヤタは選択した。

 大親分の意図を汲み、黒猫は「は!」と即座に応じて手配にかかり…。

 

 薄煙と良い香りが漂う焼き鳥メインの居酒屋。その隅にあるテーブル席。同時に端末を確認し、目配せし合ったビントロング

と黒豚を、向かいの席からほろ酔いの狸が見つめる。

「何やアクシデントか」

 手にした焼き鳥の串を左右に揺するヘイジの断定に、ムラマツもナガオも返答に窮した。

 ごくごく平凡な狸…と自分を称するこの男が、生半可な誤魔化しが通用しないキレ者である事を、付き合いがそれなりに長い

ふたりは重々承知している。

「現状は待機です」

「けど、ここからはソフトドリンクにしときますよ。いいよな、まっつぁん?」

 はぐらかす事を早々に諦めた黒豚とビントロングがそう言うと、ヘイジは空いたグラスを見遣り…。

(ワイもジンジャーエールにしとこ)

 何かあったら少年達の所へ飛んで帰るつもりで、酒を切り上げる事にした。