第四十五話 「未遂のテロ」

「ええ。…ええ、判りました。念の為にすぐ出られるようにはしておきます」

 高級宿らしい、廊下まで畳が敷かれた通路で、端末を片手にキジトラ猫は潜めた声で通話する。

 電話の相手は俵一家の事務方。今夜は自分の代理で大親分の秘書役についている黒猫である。

「はい?ふふ、大丈夫ですよ!万が一の事態に備えて待機部屋に戦装束一式を運び込んでいます。大親分に命じられれば真っ直

ぐジオフロントへ向かう事もできますよ」

 トラマルが目を遣ったのは、神代専務捜索所用に割り振られた部屋からすぐ近くにあるスタッフルーム。様々な清掃用具など

を収納している簡素な休憩室で、宿泊用途に適した間取りではないのだが、トラマルはここに戦闘用の物を含めて自分の装備一

式を運び込んでいる。

 トラマルはハヤタの懐刀である。命じられれば単独で大穴にダイブし、場合によってはジオフロントまで単独で降りる。実際

の所、ハヤタがすぐに動けない状況で友誼を結んだ組織などから救援要請が出た場合、真っ先に先行するのがこの若者。

 二等潜霧士の1チームを送るより、トラマル単独の方が潜行速度が早く、戦力にも不安が無い。むしろ実力でトラマルを下回

る同行者が居ない方が動き易い。戦闘にしろ捜索にしろ危機対処にしろ、トラマル一人であれば自分の事はどうとでもなる。

 それほどの腕利きは今回の接待で少年達の護衛も兼ねるので、身近な所に装備を揃えて不測の事態に備えている。

(まったく、こんなタイミングで事件など起こらなくていいのに…)

 通話を終えたトラマルは、少年達がくつろいでいる客間のドアを見遣る。それぞれ現状維持との通達だが、自分達の庭で事件

を起こされている状況は気分的に落ち着かない。

(大親分の命が出ない限りはお客様の安全確保最優先。現状のまま待機しよう)

 ヘイジと飲みに行けたムラマツ達も災難だったなと、ドアを開けて少年達の部屋に戻ったトラマルに、

「トラマルさんトラマルさん!いま去年の花火のVTR流してたっスよ!ちょびっとだったっスけど!後で何年分か纏めて編集

版流すって言ってたっス!」

 何度目かの湯あみをしたばかりのシロクマが、点けっぱなしのテレビを指差して楽し気に声をかけて来る。着方が下手糞な上

に気にしていないのだろうアルは、浴衣が派手に着崩れて、胸元が開くどころか首元から広がり、帯を締めている腹の下側まで

オープン。両胸もデベソも丸出しになっていた。

「中止になったせいで、番組の枠に穴があいてしまったんでしょうね。ローカル放送は本来生中継予定でしたから…。花火はお

好きですか?」

「好きーっス!見てグッド!感じてグッド!」

「感じて?」

「ビッグ花火が爆発するとっスね、この辺りにズンッ、ピリピリッ、って来るんス」

 トラマルの疑問に、アルはデベソのすぐ下辺りを手でさすって説明する。

「ああ、お腹に響きますよね」

「アレちょっと気持ち良いんスよね。ひゅふっ…!」

 妙な笑いを漏らすシロクマ。キジトラ猫は部屋を見回し、姿が無いタケミは湯上りで髪を乾かしている事を、聞こえて来る微

かなドライヤーの音で察する。

「ところで、っス。タケミが居ない内にナイショバナシ…」

 シロクマはキジトラ猫に歩み寄ると、斜め後ろから生乾きの巨体を押し付け、耳打ちをする格好になる。距離が近い子だなぁ

と微笑ましく感じたトラマルは、

「何かあったんスよね?テリブル?」

 途端に表情を引き締める。

「何か報道されていましたか?」

 確信しているらしいアルをはぐらかす事はせず、何故気付いたのか問うトラマル。

「ニュースとかは無いっス。でも昼間の事もあるし、トラマルさんに電話来てるし、いま戻って来た時も「仕事の歩き方」だっ

たっスよね?」

 困ったものだなと、トラマルは眉を八の字にした。気持ちだけで構えて平静に振舞っておくつもりが、うっかり気配を消す所

作が出てしまっていた。

「少し問題が。しかし御心配には及びません。私も現状では動きませんので」

 少年達は年下だが、いっぱしの潜霧士でもある。下に見る事はしていないトラマルはアルにも正直に告げたものの、タケミは

心配してしまうだろうから訊かれない限りは黙っておくように促した。

「ラジャー。気にしちゃうっスからね。タケミは」

「ええ。…どうして笑うんです?」

「え?いや~…!」

 アルは自分が微笑んでいる事を指摘されて知ると、「嬉しかったんス、たぶん」と頭を掻いた。

「トラマルさんはタケミの性格判ってくれてるんスね~、って!」

 あの少年の事が本当に大事なのだなと、また微笑ましい気持ちになったトラマルは、

「それにしても流石ですね。自覚していなかった私の変化を嗅ぎ取るなんて…」

 と、身を離したシロクマを感心して褒めた。

「それはまぁ、猟師やってきたっスから」

 朗らかな笑顔で応じるアルを前に、そうだった、とトラマルは少し暗い気分になる。

 猟師は、世界各地で危険生物…ひいては霧に関する事件や事故に対応する。仕事は単に危険生物を狩猟する事だけに留まらず、

多くの場合はその手引きをした人物もターゲットとなる。

「オレ、チベットに三ヶ月居た事もあるっス。ヤバがちなアクシデントには慣れてるっスから、何かあったら気にしないで言っ

てくれてオッケーっスよ!」

 アルは何でもない事のように言ったが、トラマルはシロクマの経歴データからその件についても知っている。

 昨年チベットで起きた、霧の濃縮成分が詰め込まれたボンベによる超広域汚染。引き起こした者達の目的としては政治的な主

張を多分に孕んだアピール…つまり暴力という名の力を背景に自分達の話を聞かせようという物だったのだが、結果的には目論

んだようにはならなかった。

 管理失敗。単純にこれに尽きる、愚かな話である。

 生態系を書き換えるボンベを背景に演説をぶち上げ、霧が本物である事を示すために動物に浴びせるというパフォーマンスに

留まる予定だったネット放送は、世界中に事故の様子をリアルタイムで放映する、壮絶な集団自殺の生放送となった。

 まずボンベを扱う者が手順を誤った。漏れた霧で関係者に被害が出た。慌てて対処しようとした際に、また誤って解放バルブ

を破損させた。

 その結果ボンベ4本中2本…2トン分の濃縮液が気化し、周辺に散布された。

 それが、たった2トン分でも平均的な国家の領土が駄目にするという事を、人類は身をもって知った。

 霧は塩素で中和できるが、場所が悪かった。高度がある場所から盆地に流れ込んだ霧は、運悪く無風の曇天が続いた事もあっ

て、二週間滞留した。

 地域内には村があり、街があり、放牧民が居て、野生動物も居た。農民が居て耕作地も広かった。そして成分はそれらを冒し

尽くし、インダス川にも流入した。

 猟師達は死の霧が蔓延するそこから、生存者を救助し、生き延びて危険生物と化した現地の生き物を駆除し、残るボンベを回

収するという大掛かりな作戦に駆り出された。

 端的に言えば「この世の地獄」。後に纏められた記録資料を読んだだけで、修羅場にも流血にも慣れているトラマルが吐き気

を催したほどの地獄が、そこに広がっていた。

 結局のところ、該当地区は人間が暮らすには適さない環境になってしまい、現在も立ち入りが禁止されている。

 復旧の目途は立っていない。細菌や微生物、ウィルスといった極小レベルから生態系自体が変わってしまったせいで、元の環

境に戻るかどうか、戻せる手段があるのかどうかすら解っていない。

(似たような事は真鶴半島でも…。私達は、同じ過ちを何度も繰り返す…)

 国内での事故を思い、暗鬱な気分になったトラマルには、明るく笑うアルの笑顔が心に痛い。

 キジトラ猫は気付いている。このシロクマが、おそらくは重大なトラウマを抱えて、なお笑えている事を。

「そんな訳で、何かあったらオレ達の事は気にしないで良いっス。勝手したらトラマルさんが困るし、仕事になったら邪魔した

くないがち。オレとタケミはここで大人しくしてるっスから、出かけなきゃなくなったら行ってオーケーっスから」

「はい。お言葉に甘えます。…とはいえそうならない事を望みますが」

「そうっスね。お祭りなんスから」

 脱衣所のドアが開き、浴衣を着直した少年がタオルで頭を擦りながら出て来ると、ふたりは話を切り上げて冷たい飲み物の支

度にかかり…。

 

 パトカーのサイレンが響く。

 駆け付けた何台分ものサイレンが重なって、夜市は騒然となった。

 長い大通りの丁度中間付近、ビルの屋上で爆発したような音が鳴ったかと思えば、水が溢れて周辺が水浸し。露店を出してい

た者も市を楽しんでいた者も、一時大通りから離れて規制線の向こうに人垣を作り、遠巻きに眺めている。

「先輩、検死来るまであと五分くらいだそうです」

「そうか」

 水浸しの屋上に佇むドーベルマンは、後輩の太ったソマリから報告を受けても反応が悪い。

 何人も死んでいる現場だから…という訳では無い。新人ならともかく、このドーベルマンに限ってそれはない。

 殺人事件も殺害現場も変死体も、伊豆「圏」警に居れば日常的に担当する。特にこのドーベルマンは優秀であり、ベテランで

もある。有能な者こそ凄惨な現場を多く体験するのがこの半島の常だった。

「何か気になる所を見つけたんですか?」

「逆に、殺人事件現場で気にならない所があるのか?」

「いやそれはそうですけど…。ほら例えば、首折り殺人なのに現金とか持ち去られてないのが「インビジブル」っぽくない、と

か悩んでたりします?」

「いいや、「インビジブル」だろう。何らかの事情で取る余裕が無かったとも考えられる。現金の有無より、この殺しの手口は

そうそう真似できない。ガイシャの顔見たか?」

 言われてソマリは思い浮かべる。驚いた顔や、きょとんとした顔のまま事切れている死体は、いずれも苦痛と無縁の逝き方を

したのだろうと想像させた。

「…「インビジブル」ですよね、やっぱ…」

「そうだな。あんな「素敵な殺し方」はヤツにしかできない」

 後輩の視線に気付き、「不謹慎だったな」とドーベルマンは顔を顰める。

 しかしソマリは責めるつもりでベテラン刑事を見た訳では無い。ドーベルマンは前にも何度か言っていたが、「素敵な殺し方」

という表現は言い得て妙だとソマリも思っている。

「このガイシャ達、何者なんでしょうね…」

「テロ未遂犯、という所か。素性を調べて怪しい点がヒットするかどうかは、これまでのガイシャと同じく調査待ちだな」

「しばらく休めませんね」

「そうだな。気が滅入る」

 ソマリはドーベルマンの返答で、さっき反応が悪かったのは多忙になるこれからを思ってか、と納得した。が…。

(あれは、間違いない…)

 ドーベルマンは十数分前の事を思い出す。

 貯水槽の爆発からほんの少し後。大通りに到着した覆面パトカー内から、群衆の中にチラリと見えた、恰幅の良い中年の姿…。

(磐梯真実也…。土肥に来ていたのか…)

 マミヤの事務所は沼津。大隆起前から変わっていないどころか、伊豆の西部出入り口として高度に都市化した、地価も高い一

等地に聳えている。土肥までのアクセスも良いので、祭りに来る事自体は別に不自然ではない。

 しかし、悪徳法律屋に何度も苦渋を舐めさせられたドーベルマンは、「たまたま」かどうかハナから疑っていた。理由など無

い。刑事の勘という物である。

 そして、理屈を飛び越えて答えに辿り着きかねない「本物の」刑事の勘は、マミヤも軽視していない。今回も法律屋は、警察

が聞き込んでも自分を事件と結び付けられないように様々な手を打っている。

 

「あの騒ぎだと、競りは中止かな」

 大通り近くのバーで、カウンターに腰掛けているマミヤはバーテンダーに話しかけた。

「被害、大きいんですかね」

「判らないが、パトカーがだいぶ来ているようだ。続行はさせないだろうな。残念だ」

 カランと、ウイスキーがだいぶ減ったグラスで氷が鳴り、アライグマはお代わりを注文する。

 競りが始まるまで時間を潰すと「一時間前から」入店していたアライグマに、バーテンダーは「ついてませんね」と同情した。

 バーテンダーは気付かない。騒ぎを聞きつけて店の外へ客達と共に出た際に、カウンターに座っていたアライグマが、別人と

すり替わって戻って来た事には。

 マミヤは自分とそっくりな容姿のアライグマを影武者として雇っている。背格好は勿論、声までそっくりな影武者を。流石に

瓜二つとは言えず、知り合いが見れば一目で判るが、後ろ姿が防犯カメラに映った程度ではマミヤ本人にしか見えないほど似て

いる。顔立ちも初対面の相手であれば判別が難しいレベルで似ていた。

 マミヤ本人は異能による可視光線などの屈折を利用し、カメラに映像を残さず店に来た。そして影武者は店のカメラに一時間

以上前から後姿を記録されている。

 事態に介入する事を決めた際に影武者を呼んでおいたマミヤのアリバイ工作によって、圏警は、ドーベルマンは、今回も悪徳

法律屋の干渉を掴む事はできなかった。

「仕方ない。美味い酒だけで良しとするか」

 お代わりのウイスキーを口の中で転がし、鼻に抜けてゆくスモーキーな香りを楽しみながら、マミヤは引き上げの時間を計算

していた。

 片付けるべき物はもう無い。狙いが一致している何者かが既に始末している。

(俵一家に売れる恩は少なくなったが、目的は果たした。これで良しとするか)

 

 一方、宿に戻ったイリエワニは、仕事着入りのバッグとコンビニの袋を揺らしながら客室に入る。

 比較的安価なシングルルームだが、祭りの期間中は値段が跳ね上がる。とはいえ宿泊費用は報酬に上乗せして還元されるので

懐は痛まない。

 間近になっても予約を入れられる程度のグレードであっても、そこは土肥中心街に近いホテル。壁際に押し付けられたシング

ルベッドは巨漢のイズミが横になっても狭苦しくない幅があり、どっしりと安定している。周辺スペースも窮屈ではなく、窓際

のチェアセットも重々しい造りの転倒しない物が選ばれていた。

 空調と防音もしっかりしており、テレビは大きく各種動画サイトにも接続されている。シャワーブースはトイレと別になって、

水撥ねを心配せずに使える。バスタブだけはイズミの体からすると狭いのだが、ここまでは贅沢を言えない。

 床にバッグを下ろし、テーブルランプ付きのボードにコンビニで買った大盛りバンバンジー、野菜スティックを置き、ミネラ

ルウォーターだけが入っていた冷蔵庫にコーラとアイスココアとバナナオレとチョコドリンクと、カップのチョコ、バニラ、ス

トロベリーアイスを入れたイズミは、懐中時計を取り出して蓋に彫られたコリーの横顔に話しかける。

「ステラ、電話するから盗聴とかチェックしててくれ」

 返事も確認せず端末を取り出してた番号を打ち込み、中継局経由でコールする。三秒と待たずに音声通話は繋がった。

『お疲れ様。完了報告かな?』

「おお、「今日の分は」片付いたぜ。けどオレが行く前に片付いてたトコが一ヵ所あった。俵一家じゃねぇと思う。後でデータ

送るからそっちで考えてくれ」

『有り難う、有効活用するよ』

「…やっぱ、そっちで雇った別口って訳じゃねぇんだな」

 依頼主の反応をそれとなく窺ったイズミが呟くと、相手は『私が今回依頼した相手は君だけだよ「配達人」』と応じた。

『ただ、「向こう」は切り捨てる前提で方々から人数を揃えた。把握するのも一苦労だったがね』

「そっちの事情に首突っ込む気はねぇけど、「同僚が雇ったプロを殺してくれ」なんて依頼は初めてだぜ。仲悪ぃのかい」

『協力し合って行きたい所だが、難しい物だと痛感しているよ。今回の計画も、もし見過ごせば俵一家が本腰を入れて犯人探し

をする。まさかとは思うが、依頼主の情報を掴んでいる者が中に居て、俵一家に捕まって情報を吐いてしまったら困る。だから、

彼らが計画したテロを未遂にさせつつ、確実に始末して欲しかったんだ』

「アンタ達も俵一家とは事を構えたくねぇんだな?」

『私個人は、ね。武闘派の幹部は敵対も辞さない気持ちでいるようだが…』

 イズミは「まぁ、その話は良いか」と話題を打ち切った。「組織」の内部事情を知った所で何か得する訳でもない。ビジネス

ライクな関係なのだから。

「報告は終わりだ。今日はもう休むぜ」

『有り難う。引き続き頼むよ』

「ああ…」

 通話を終えたイズミはシャツの胸元を摘まんで軽く引っ張った。通話中ずっと無表情だった顔は、いつもの物に戻っている。

(今夜は湿度相当高めだったから汗かいたぜ…。お夜食する前にシャワーだな!いや、また一階の温泉行って来るか?)

 少し迷ったが、部屋のシャワーを使う事にした。

 出かける前にも大浴場に行っている。もしかしたら短い間に二度入浴する事で誰かに印象深く覚えられたり、不審がられたり

する可能性も考えての判断である。

 鰐系の獣人があまり多くないらしい事をイズミは知っている。クロコダイル系、そしてイリエワニとなればもっと絞られて来

る。自分の容姿は特徴的で覚え易いのだと、イズミは常に意識して行動している。

 アロハシャツを脱ぎ、肌着を脱ぎ、短パンを脱いでベッドに放り出したイズミは、首にかけている懐中時計を外す。そしてそ

れを大事そうに枕元へ置いてから、「お風呂して来るぜ」と声をかけ、のしのしとシャワールームに向かった。

 好みのやや熱めの湯加減にして、立ったままシャワーを浴びる。

 熱い湯と水音が好き。吐息で喉が震え、声が混じってしまうほど。風呂に浸かったおっさんのような反応と言われた事もある

が、直す気も別にない。

 体中どこもムチムチと丸みを帯びているイズミの巨躯を、シャワーの湯が撫でるように駆け降りる。出っ張った腹も肉がたっ

ぷりついた胸も目立つ肥満体だが、ただの脂肪太りではない。骨太な体に搭載された筋肉は量がある上に、獣化の恩恵で高性能

化し、強靭である。軽く触れた感触は分厚い脂肪層のせいでプヨプヨしているが、掴んだり押したりすればその下の筋肉層の弾

力に驚かされる。

 イズミは知る由も無いが、厚い皮下脂肪を通してなお判る筋肉の盛り上がりなどは、ユージンやハヤタの物にも何処か似てい

る。一流のベテラン潜霧士、生きている伝説に匹敵するレベルまで、その肉体は鍛え上げられていた。

 ひとしきり体を流した後で、備え付けのボディーソープをタオルに塗りつけ、泡立てて擦り洗いする。肌が人間よりも遥かに

丈夫なので、洗う手付きはだいぶ雑な上に力任せ。脂肪がたっぷり乗った体が揉まれて擦られて餅のように形を変える。腋の下

や股の間は勿論、モノが収まっている股間のスリットの中まで、指を突っ込みほじくるように洗う。

 「仕事」をした後、イズミは入念に体を洗う。出血が無い殺し方をしているにも関わらず、神経質なほど念を入れて洗うのは、

本人も意識していないが清めの儀式のような物だった。

「は~…、サッパリしたぜ!」

 十数分後、シャワーを終えて戻ったイズミは腰にバスタオルを巻いただけの格好でテレビをつけ、ニュースを眺めながらバン

バンジーを食べ、野菜スティックを齧り、それらをコーラで胃に流し込む。そして続けざまに、大量に買って来た甘い飲料をが

ぶ飲みし、飲み込むようにアイスを食べ、ゴロリとベッドに横たわる。

 横臥したイズミの腹はシーツの上へ大福のように乗って揺れ、細かく噛み砕いた野菜類と流動体とアイスが胃の中でタポタポ

鳴った。

 仕事の後はいつもこうだった。飢えと渇きを覚えるのに、しっかりした飯は食いたくない。腹を埋めないと落ち着かないし、

異能の使用で消費したカロリーも補わなければいけないので、毎回こういった形で腹を膨れさせる。

 膨れて水音がする腹を弄ぶように片手でさすって揺らしながら、リモコンを弄ってチャンネルを切り替える。変わる画面を映

す目は暗く濁って茫洋としており、眺めるだけで内容を見てはいない。

「…あと「一件」だ」

 ボソリと呟き、枕元の懐中時計を握り絞めると、イズミは灯りも消さずに目を閉じ、そのまま眠りに落ちた。

 

 二時間後の、午後十一時近く。巨漢の猪はどっしりしたテーブルに肘をつき、背中を丸めて資料を読み耽り、溜息をついた。

「情報が多過ぎて、何が何やら…ですね」

 同席している黒猫が困惑顔。若干疲労が見える表情なのは、相次ぐ報告と入って来た情報の内容に翻弄されたせいである。

 俵一家が夜市での全容を知る事ができたのは、貯水槽爆発「事故」の報告があった少し後、マミヤからの連絡を受けて調査員

を派遣できたおかげだった。

 夜市が最も盛況になる競りの時間を狙ったテロ。結局未遂に終わったが、いずれも実行されれば相当な被害になった事は疑い

ようもない。

 俵一家と傘下の若い衆で、マミヤから報告があった現場と、恐らく片付いていると言われた現場をそれぞれ捜索してから、ま

だ貯水槽の件しか押さえていない警察へ匿名で通報し、後始末を委ねる格好にしたが…。

「借り、作っちまったなぁ…」

 ハヤタはガシガシと頭を掻く。マミヤは勿論、何者なのか判らない「もう一人の介入者」にも助けられた格好である。

 日中から対象者を殺して回っていた者の正体について、マミヤは「知らない」と言っていた。俵一家側も正体に迫れる手掛か

りは皆無である。

「これだけの真似をしでかす必要が、連中には…あるいはその依頼主にはあったという事ですね?」

 黒猫が呟く。他に気になるのは、「土肥で事件を起こそうとした」という点である。

 土肥の大親分のお膝元。何処の反社会勢力も視線を伏せて通り過ぎ、警察ですら我が物顔では振舞えない、一種の城下町にし

て治外法権。俵一家は君臨も統治もしないが、誰もがその顔色を無視できない。俵一家とその傘下相手に何かしでかし、事を構

える羽目になる事を、誰もが忌避する。

 …にもかかわらず、今回は「これ」である。相手側の目的が何であったとしても、相応のリスクを覚悟してでも優先したい目

的があったのだろうと感じている。

「…んだべな」

 黒猫がその懸念を告げると、同じ事を考えていたハヤタはあっさり頷いた。

 連中の狙いが俵一家で保護している男だったとして、これだけの事をしでかすとなれば、彼が握る秘密がどれほど重要なのか

は想像に難くない。

「菅山録は、地下で何見だんだべな?」

 

 そのロクは、厳重な警護で固められた密室で、膝を抱えてベッドに座っていた。

 親指の爪をキツく噛む。もうすり減って、深爪するように爪を噛んでいるせいで血が滲んでいた。

(殺しに来たんだ…。やっぱり…!)

 簡単に状況報告があり、事件を起こそうとした連中が片付けられた事を知った。

 狙いは自分だと確信している。街で騒ぎを起こし、その隙に自分を始末する計画だったのだと、はっきり判った。

(俵一家にも喧嘩を売るような連中だったんだ…!どんな組織だ?いや、もしかして国家絡みの規模なのか?)

 体が震える。恐怖で背中に汗が滲む。

(知るか!関係ない、もう関係ない、知る必要だってない…!)

 爪を噛んでいた前歯が、ずれてカチンと音を立てた。

(だが、今夜だけだ…!今夜で終わり…)

 ロクは震える右手首を左手できつく掴み、爪を齧る。

 国外脱出の手筈は整ったと通達があった。明日の日中には土肥を出て、極秘のルートで海外へ逃げられる。

 思い出すのは目の当たりにした出来事。マッパーズに連れられ、もうじき地下から脱出できるという距離まで上がった、そこ

で出くわした光景。

 

 

 

「急げ!」

 霧が漂い風が鳴る、大穴地下の洞穴で、男が低く抑えた声で後続を急かす。

 大隆起で無数に生じた地下の亀裂などを、長年の雨水が流れ込んでは削って作り出した大小の洞穴。苔むした岩と土にキノコ

や発光粘菌が付着した円筒状の道を、男は仲間とともに駆け抜けている。

 進行速度は遅い。ベテラン三人組だけならばとっくに目的も果たして帰還しているところだが、二日余計にかかってしまって

いた。

 そもそも遅くなったのは、救助した負傷者を連れているせいである。

 先行する男は振り返る。足を痛めた要救助者にガッシリしたセントバーナードが肩を貸して進み、その後ろを、各種探知器な

どを潤沢に搭載してある特注メットを装着した人間の中年が後方を警戒しながらついてくる。

「巻いたか…?」

「機器に反応は無いが、判らない」

 セントバーナードの低い声にしんがりを担う男が応じる。

 負傷者を抱えて地上を目指す三名は地図士である。表向きは調査業務を専門とする潜霧団として潜霧組合に登録されているが、

いずれもマッパーズギルドの腕利きで、潜霧資格二等のベテラン。

 今回は注意喚起があった地殻変動の兆候について調査すべく、政府とギルドの密命を帯びてダイブしていたのだが、想定外の

事態により調査を切り上げざるを得なくなった。

 その想定外の一つがこの負傷者。滑落して崩落点から地下に入ってしまった四等潜霧士のロク。

 もう一つの想定外は、折り悪く、南エリアに被害を出した地震に引き上げの最中で見舞われ、あちこちの洞穴で一部が崩落し、

押さえているルートが使えなくなっていた事。

(四等潜霧士では過酷な道程だ。疲労も溜まっている。しかし休憩を取らせる余裕は…)

 先行する男は、自分達が抜けてきた洞穴の暗がりを凝視した。

(だいぶしつこい!逃がす気はないという事か!)

 しばらく後ろを警戒し、それから前を向いた男は、

「!」

 腰に帯びていた銃をホルスターから引き抜いて構える。暗がりの向こうからのっそりと、こちらに接近してくる影を睨む。

 瞬き一つの早業で抜かれ、握られた男の銃は、異様に重厚な拳銃である。対機械人形を想定している銃身は幅と厚みが7セン

チもある四角い筒状で、衝撃と反動を抑えるために、そして打撃武器としても用いるために、センター部が重く頑丈に作られて

いる。

 使用する弾丸には、硝煙反応を辿るタイプの機械人形対策として、彼らの躯体にも使用されているオイルを加工した液体火薬

を用いる。威力そのものは対戦車ライフルにも匹敵する大口径拳銃は、しかし普通の人間が扱えば手首が「損壊」するレベルの

反動が生じるため、使いこなせる者は多くない。

 男は西部劇の早撃ちガンマンのような所作で、重く厳ついバスターガンをピタリと安定させて構えたまま…、

「怪しい者じゃないよ」

 前方の暗がりから聞こえてきた、場違いにのんびりした太い声に安堵した。

「あなたでしたか…」

 すぐさま戦闘態勢に入っていた仲間達に、問題ないと腕のジェスチャーで伝えた男は、銃を腰に戻し、歩み寄ってくる男から

一度視線を外す。

(…気配が消えた?諦めた…のか?)

「困り事かナ?」

 男が再び前を向いた時には、前から降りてきた人影はすぐそこまで歩み寄っている。カロッ、カロッ、と先ほどまでは聞こえ

なかった下駄の音が、今は心地よく洞穴に反響していた。

「多少は。しかしお手を拝借するほどの事もなさそうです」

 男が応じた相手は、熊と見まごう巨体の狸。裾などに踊る白波が描かれた、襟が黒く青が基調となっている法被のような衣服

に、蓑を背負った独特な恰好。衣類の特徴は俵一家の戦装束にだいぶ似ており、方の横や肘などの要所には、和甲冑の意匠で装

甲板が配置されている。足には二枚歯下駄を履き、腰には刀を帯びるように筒を吊るして、そこに和傘を挿していた。

 2メートルを軽く超える長身なのだが、まん丸く突き出た腹に厚い胸、広い臀部に太い四肢など、幅も厚みも人の数倍。肉付

きよく肥えているせいで縮尺を錯覚してしまい、ずんぐり短身に見えてしまう。

「誰か負傷してたんだよ?」

「ええ。救助して地表へ向かう途中でした」

 見上げるほどの巨漢だが、丸顔とネイビーブルーの目には愛嬌があり、のんびりした口調と声音が圧迫感を与えない。むしろ、

そこに巨木が立つような、そこに巨岩が転がるような、「在って然り」の自然体が緊張を和らげる。

「上に向かうならルートを選ばなきゃいけないよ。すぐそこも先の地震のせいで何ヵ所か崩れて通れなかったりしたナ。いや」

 大狸はヘラっと笑ってポンと腹鼓を打つ。

「こんなお腹だから通り抜けられないだけの所もあったけどネ」

 冗談を飛ばした狸と笑いあい、男は腕のコンソールを軽く叩く。「地図と相談しながら行きますよ」と。

「とりあえずだよ、見つけた限りで気を付ける場所は…」

 大狸が地表へ向かう道中で、崩れたりしていた場所を簡単に説明し、男はそれを暗記して、

「機械人形達が警戒行動中だよ。気を付けてネ」

 大狸に見送られ、その場を後にする。

 肩を借りて歩くロクは、セントバーナードが会釈した相手をちらりと見て、その出で立ちを確認した。

(レリックだ…。あれも、これも…。売ったら一生かかっても使い切れない大金になるだろうに…)

 引退のための金が欲しかった。今後の生活の金が欲しかった。ジオフロントでならそれが得られると思っていた。

 だが、全部間違いだった。

 腕がなければ何もできない。拾い物すら満足に手に入らない。ジオフロントは、本物の地獄だった。

 だからロクには理解できない。売れば大金になる値打ち物で身を固め、地獄に降りてゆく者達の価値観も精神性も。

「イヌガミさんのおかげで遠回りは最小限で済む。潰れていないルートを使って地表を目指すぞ」

 先導する男が歩調を早める。

 しかしロクは腹を立てる。自分を連れて歩くこの男達は、怪我人の自分に配慮が足りない。足が痛いのに、右肘が痛いのに、

疲れたのに、ちっとも休ませてくれないと。

(もう振り切ったんだろ?そんなに急がなくたって…。ああ、休みたい…。休ませろよ…。もっと大事に扱えよ…)

 だが、そんな不満も些細な物。余裕ができて扱いに不満を感じていられたその後の約五時間が、どれほど平和だったのか。ロ

クはしばらくして思い知った。

 次第に洞穴内の空気が目に見えて流れ出した。

 地表が近付き、流れを早めた大気が霧を乱している。もうじき外の明るい…少なくとも地下よりはマシな霧まみれの景色が拝

める。同じ大穴内でも地下と地上では危険度が段違い。地表に出れば残りの道程は楽な物である。が…。

「止まれ」

 先頭の男が腕を水平に伸ばして後続を制止する。

 緊張をはらんだ声。手はホルスターから銃を抜き放っている。

「どうやって…!」

 男の後ろで仲間達も緊張を強め、ロクは身を強張らせた。

「嘘だろ…!」

 しんがりを務めている男がセントバーナードより前に出て、グレネードランチャーを下部に装着しているサブマシンガンを構

える。それもまた特殊兵装で、爆発するタイプのノーマルグレネードに代わり、先端がクレーターのようにへこんでいる成形炸

薬弾を装填してある。命中すればメタルジェットで対象を破壊するそれは、強靭な外骨格を纏う危険生物や、真珠銀装甲に守ら

れた機械人形にも有効打となる。

 だが、今それを向けている対象は、危険生物でも機械人形でもない。

 一行の行く手で地表への道に立ちふさがっているのは、ひとりの獣人である。

 上半身にフィットするノースリーブのメッシュシャツは白銀の金属繊維で編まれ、ズボンも霧に溶け込むような白に極めて近

いグレー。ブーツもかなり薄いグレーで、肩から剥き出しになっている両腕には金属製の重厚な手甲を装着している。

 ぱっと見れば動き易い軽装の獣人潜霧士。地下の陰影が濃い霧に溶け込むカラーリングの装備は、ジオフロントを目指す者達

が好んで使用する極地迷彩にも似る。腰にトーチを装着している所なども同じである。

 が、地下で活動する潜霧士にしては軽装過ぎる。獲物を解体する刃物も、障害を取り除く器具も、食料などの活動用消耗品す

らも、男は携帯していない。

(どうやって先回りを!?)

 銃を構える男達のヘルメットの下で、頬を冷や汗が伝う。

 眠そうな、あるいは退屈そうな、または興味が無さそうな、つまらなそうな目をした大柄な黒い犬…チベタンマスティフの獣

人が、そこに立っていた。

 2メートル近い巨漢である。筋肉質ではあるのだが、しかしアスリートのそれとは違う体型。

 例えるならば岩塊。自然岩を積み上げたように、その肉体は分厚く厳つい。胸も厚ければ腰もどっしりと太く、四肢の太さは

電柱のよう。鈍重そうに見えるほど筋肉を搭載したゴツい体躯は、湿気のある大穴の空気にさらされてなおフサフサと茂った黒

い被毛と、首や口回り、四肢の半ばから先端を染める茶色に彩られ、白を基調にした装備と強いコントラストを成している。

「悪いけど」

 チチチ…とヤカンが熱されるような小さな音。それは筋肉の塊のような重厚で逞しいチベタンマスティフの、両腕に装着され

た手甲…厳ついガントレットから漏れている。

 まるで騎士の鎧の手甲のような、丸みを帯びて肘まで覆うそれは、指の部位に打突用のスパイクが付いていた。握り込めばそ

のままナックルダスターとして武器になる手甲は、分厚く重々しい無骨な作りながら、真珠銀の輝きが美しい。

 白銀の凶器を剛腕に嵌めたチベタンマスティフは、斜に構えて腰を落とし、両腕をボクサーのように胸の前で構えた。

「地図士全員殺して来いって命令なんだ。見られた事を、ギルドとか…あ~、あと政府とかそういう所?そういうのに報告され

たら、ちょっとまずいんだと」

 それは、全く敵意も殺意も感じられない、面倒くさくて事情を雑に説明するような声音と口調だった。つっけんどんでありな

がら、どこか素朴にも感じられる、落ち着いているを通り越して平坦な声で…。

「だから、ごめんな」

 ドッと、チベタンマスティフが駆け出した。全力のダッシュでも、素早い接近でもない。フットボーラーのような重々しく力

強い走りで、ドッドッドッと地面を踏み締めて。しかし脇を絞めた両腕と上体はブレない。その姿勢はまるで、砲塔を標的に据

えた重戦車が真っすぐ接近するような迫力がある。

「「インパルス・ドライブ」、オン…」

 黄銅色の目を光らせたチベタンマスティフの呟きに重なる、銃声二つ。グレネードと強化弾が正確な狙いでチベタンマスティ

フに迫り、そして霧に閃光が散る。

 コーン、コーン…と、澄んだ音が二度鳴った。

 男たちは目を見張る。チベタンマスティフは右ショートフックのようなモーションで眉間に迫った弾丸を弾き飛ばし、続けざ

まに僅かな時間差で飛来したグレネードを、手甲の曲面を利用して受け流すように逸らした。弾丸は壁に埋まり、捌かれたグレ

ネード弾頭はチベタンマスティフとすれ違った後でメタルジェットを噴射している。

 金属の激しい激突音とは違う、水晶などの鉱石が軽く叩かれて音を奏でるような音が、手甲と弾が接触した瞬間に響いていた。

 前回接触した時と同様に銃撃が完全に防がれると、拳銃に次いで赤熱化するククリナイフを引き抜いた男が叫ぶ。

「リザーブ!そいつを連れて引き返せ!別ルートで脱出しろ!ポイントAZ4で三時間以内に合流する!」

「了解!」

 セントバーナードはロクを肩に担ぎ上げ、来た道を疾走して戻る。地表に至る別のルートへ入るために。

 その後ろで、コーン…と、澄んだ音が響いた。

 接近したチベタンマスティフの左フックをかろうじて避けた男の手元で、バレルを掠められたグレネードつきサブマシンガン

の前半分がバラバラになり、後部も部品が飛び散っている。激しく金床に叩きつけられたか、あるいは巨大なハンマーで叩き潰

されたように。

「やはり、こいつの異能は…!」

「気をつけろ!掠っただけで終わるぞ!」

 男達の声を背に走るセントバーナードの肩の上で、ロクはガチガチと歯を鳴らして震えていた。

(何なんだよ…。何なんだよ「あいつら」は…!?マッパーが三人居ても逃げるしかない潜霧士だって!?いや、潜霧士ですら

ないのか!?)

 ロクの脳裏を過るのは、地図士達と共に見た光景。所属不明の連中が、山ほどに積んだ機械人形の上位機種から、パーツや回

路を抜き取っていた景色…。ロクが存在自体を知らなかった機種までを含めた機械人形が、原形を留める程度に加減されて壊さ

れ、素材の山に変えられていた景色…。

(あれは何をしていて、何で見ちゃダメだったんだ…!?)