第四十六話 「配達人」

 殆どの者にとっては賑やかで穏やかな、そして一部の者にとっては慌ただしい夜が明ける。

 少年達が豪勢でありながら健康的な朝食を振舞われ、念のために夜通し起きていたヘイジが生あくびをかみ殺して濃い茶を啜

り、結局シェットランドシープドッグに手を出さなかったユージンが彼とビュッフェを共にした午前七時半…。

「ふがぁ~あ…。おはよ、ステラ…」

 大きな口をガバッと開けて迫力満点の大欠伸をし、ベッドを軋ませて身を起こしたクロコダイル系獣人の巨漢は、ベッドサイ

ドの懐中時計に指先で触れた。

「さぁ、最終日だ!」

 窓に歩み寄ってカーテンを開け、入れ替わりに一晩中点けっぱなしになっていた室内灯を消す。裸の上半身に日差しを浴びた

イズミは、目を細めて伸びをする。思い切り体を反らしたおかげで、柔らかな下腹部が窓の縁に当たってしまい、金属のヒンヤ

リした感触に「おっふ」と声を漏らして腰を引いた。

 祭りは最終日。本命の夜市も終わって客も減る最終日。そして、イズミの今回の仕事も今日で片が付く。

(さっさとチェックアウトして、仕上げに備えなくちゃな)

 寝汗で湿った肌着を脱ぎ散らかし、ホテル備え付けの歯ブラシを咥え、口の周りを白い泡だらけにしながらシャワールームに

入り、いろんな作業をごちゃまぜにして済ませ、咥えた歯ブラシもそのままにバスタオルで雑に体を拭いながら部屋に戻る。

 少ない荷物を纏め、ズボンを穿き、ゴミ箱に捨てた歯ブラシに代わって朝食バイキングのチケットを咥え、アロハシャツに袖

を通す。忘れ物のチェックをして部屋を出たイリエワニは、食べ放題の朝食をたらふく胃袋に詰め込む。

 仕事の後は食欲が失せるので、仕事の前には嫌でも栄養を補給する。無理矢理にでも。

 そうして支度を済ませたイリエワニは、前日よりも人通りが減った土肥の街に繰り出した。

(最後のターゲットだ。昨日までとは難度が違うから、集中してかかるぜ)

 そうして人ごみに出てゆく巨漢の姿を、ホテルの一室から見下ろす者があった。

 レースのカーテン越しに明るい屋外を覗いているのは、恰幅の良いアライグマ。

「…ああ、それで頼む。追跡調査の引継ぎは任意で。不法搬入の尻尾が掴め次第また連絡をくれ。それから立ち退き要求の件だ

が…、そう、伊東の道路拡幅に土地が掛かっているラーメン屋の。あそこはユージン君が気に入っている店だ。荒っぽい専門職

が出てくる前に、こちらで好条件を提示して物件を買い上げてくれ。移転先の準備もこちらで手配する約束をしていい。熱海に

いくつか土地を確保できる。…赤字?気にするな」

 マミヤは仕事の指示を事務所の所員達に出しつつ、イズミの姿が視界から消えるまで、その場から見送っていた。

 

 買い物目当ての客にとっては夜市が最大のイベントだが、残り物を売り捌く居残り露店商を目当てに、翌朝から市場を再訪す

る者もある。

 夜市見物に出なかったタケミは、シロクマの強い要望で、歯抜けのようになった露店並びの在庫処分市に赴いた。

「掘り出し物やお宝の類は昨夜の競りがメインですが、一般流通するような品物は最終日にも残っています。むしろ普通の買い

物なら、安くなる分だけお得ですね」

 案内のトラマルは普段通りの態度で、一睡もせず呼び出しに備えていた事を少年達に窺わせない。むしろ、警戒精神はそのま

まに、土肥の祭りを十分に楽しめなかった少年達に少しでも良い思い出を作って貰おうと心を砕いていた。もはや本業が何なの

か判らなくなりそうなおもてなしのプロ意識である。

「実はプラモとかフィギュアとか狙ってるんスけど、あるっスかね?」

「基本的に大人相手の商売なので…」

 伊豆には子供が殆ど居ない。若者向けの娯楽も少ない。その辺りはアルも理解している。だからあまり期待はしていなかった

のだが…。

「成人している趣味人向けの、絶版品や中古品など、少し値が張るようなプレミア品が取り扱いの主流になります」

「いえスっ!ネガッタリカナッタリがち!」

 背を丸めて力むポーズを取るアルと、突然のハイテンションに思わず笑みを零すタケミとトラマル。

「昨夜は騒ぎのせいで早めに店じまいした所もありましたから、運が良ければ目玉商品も残っているかもしれませんね。…ああ、

あの露店商は玩具を商っているようです」

「南無八幡っス!オタカラよ、在れ!」

 ドスドスと駆けてゆくアル。その後を追いかけるタケミ。トラマルもそれに従い…。

「あ」

 端末の振動に反応し、懐に手を入れる。

「済みません。ちょっと電話が…」

「あ、はい。あのお店の所に居ますから…」

 申し訳なさそうなトラマルに頷いて、一度立ち止まったタケミはシロクマを足早に追う。

「…ハガネです」

『トラマルさん。こちらの動きに変更がありましたので、情報共有まで』

 自分に代わってハヤタの傍に仕えている黒猫からの電話で、トラマルは俵一家の今後の行動について情報を共有する。とはい

えトラマル側からの報告事項は無いので、話に相槌を打つだけ。屋外なので余計な情報は音声にせず、口も殆ど動かさない。

 その間にアルは、ブリスターケース入りのフィギュアや中古品の未組み立てプラモデルなどがビッシリと並んだ露店を、かぶ

りつきで物色し始めている。

(意外!品揃えニジュウマル!)

 掘り出し物がチラホラ見られる軒先で、青い瞳はパッケージを見比べて吟味する。潜霧士としての稼ぎは良くとも、趣味に使っ

て良い金額…つまり小遣いについては、まだ保護者による制限が課せられている身である。欲しい物を片っ端から買うという訳

には行かないので、軍資金と入念に相談するシロクマ。

 邪魔にならないように少し後ろに立っているタケミは、待っている間にユージンへ予定通り待ち合わせ場所に向かう事を連絡

しようとして携帯端末を操作し、届いていたメッセージに気付く。

(ジュウタロウさんからだ。帰りは気を付けて、だって…)

 文体も堅苦しい生真面目な、しかし思いやりのある人柄が透けて見える河馬のメールを喜んで、二度読んでから返信を打ち込

むタケミ。

 そして、ひとり熱心に品定めをしていたシロクマは、一つのプラモデルに目を止めた。

 一度行き過ぎようとした視線が戻ってピタリと固定されたそれは、日焼けでカラーイラストがやや色褪せ、白い部分も黄ばん

でくすんだ、四隅が少し潰れて傷んでいる箱。

 それは、獣や恐竜などの生物をモチーフにしたメカ物シリーズの組み立てキットで、知名度はメジャー所に劣るが根強いファ

ンが多い。

(あれって、もしかするともしかするっス…)

 それは大手メーカーが生産しているプラモデル。既存の販売モデルとはカラーリングや細かな仕様が異なったバリエーション

キットで、一般流通ルートには乗っていないメーカー直販の特別モデルだが、定期的に再生産されてオンラインショップや直営

店で売られるので、入手困難という程ではない。

 だが、アルはその箱の一点を注視し、確信した。

(金型がアップデートされる前の初期モデルっス!)

 実はそのモデル、通常品とは色が異なるバリエーションキットのため、カラーリングを再現するために色違いのランナーが数

枚追加されている。現在生産されているモデルでは、不要なパーツが少なくなるように金型が改良され、マーキング用の水転写

デカールの量も増えているが、旧金型で生産された初期生産品だけは大量の余剰パーツが出る。しかも、それがそのまま外装と

してほぼ完成させられ、改造してオリジナル外装を作る事もできるし、別キットの同型機に取り付ける事もできる。つまり、余

る部品がそのまま美味しい素材になるという隠れた名品であった。

Get a chance!(勝機っス!))

 喜び勇んで足を向け、踏み出し、手を伸ばそうとした1メートル先で、

「あ」

 バナナの房のような分厚くて指も太い手が、その日焼けした箱をスッと持ち上げた。

「すいませーん。これ下さい」

Oh, my Gosh!

 伸ばしかけていた手をそのまま頭に乗せ、天を仰いで仰け反るシロクマ。一方、箱を手に取った巨漢は大きな声に驚いた様子

で目を丸くし、アルの方を見遣る。

 品物を吟味することに集中していたアルは気付かなかったが、途中からもう一人、店の品揃えを確認していた客が居た。

 それは畑の土のような赤茶を基調にした体色で、顎下や胸、腹側や手足の内側などはクリーム色、瞳は藍色の巨大なクロコダ

イル系獣人で…。

「あ、お兄さん…」

 アルの大きな声で顔を上げたタケミがイズミに気付き、イズミも「おや、こんちはタケミさん!」と目を向け、最後にアルが

「ワッツ?知り合いっス?」と二人を交互に見る。

「あれ?アル君まだ会ってなかったっけ?新しくうちの事務所の辺りの配達担当になった人で…」

「入江出海です!よろしくー!」

 プラモの箱を持ち替え、にこやかに手を差し出すイズミと、「よろしくーっス!とうほぐ民?」と握手して挨拶するアル。

「えー?やっぱ訛り出てますかね?はっずー!」

「オールライツッ!親近感あるっス!」

 この間、イズミに会計を求められてからずっと蚊帳の外になっている店主は居心地がとても悪そうである。

「プラモが趣味なんですか?」

「小遣いが許す範囲でっス」

「おっと見習わなきゃ!うはははは!」

「オニーサンも祭り見物っス?」

「そうです。それとイズミって呼んでください。えーと…」

「アルビレオっス!」

「よろしくアルビレオさん。良い名前ですね!」

 イズミとアルは、コホンと控えめな咳払いを聞いて続く挨拶を飲み込み、早く会計を済ませて欲しそうにしている店主に視線

を向ける。

「あ~………。アルビレオさん、どうぞ」

 二秒ほど悩むような声を漏らしたイズミは、手にした箱をアルに差し出した。

「え?」

 胸の手前に突き出された箱とイズミの顔を、交互に見るシロクマの表情が、困惑から戸惑い、そして笑顔へと変化する。

「マジでっス!?こんな貴重品譲って貰って良いんス?マジでOKガチでOK!?」

「うはははは!OKOKマジガチOK!最近は買ったきり積んでんのが溜まってましたんで、今回は見合わせます!」

 興奮気味のアルに、イズミはノリよく笑いながら返して、受け取りを催促するように箱を軽く揺すった。

Handsome guy! Please sign!

Whaha! yap!

 感極まって母国語が出たシロクマは、

「…what?

 たったいま返事を発した、笑っている鰐の開いている口を見つめる。まん丸にした目で。

 傍に佇むタケミも、驚いているような意外そうな、何とも言えない呆けた顔。

「…Big guy? are you American?

 戸惑いつつも母国語で確認を取るアルに、

Nope. I was born and raised in Aizuwakamatsu

 イズミは肩を竦めて応じる。が、生まれも育ちも会津若松と答えたクロコダイルが口にする英語は、実に流暢だった。

「親が外資系の仕事でしてね。連れられて海外にも行ったんで、そこそこなら喋れますよ」

Wow! ネイティブかと思ったっス!」

Whahaha! thanks bro

 ニカニカ笑うイズミが口にする母国語で、アルはだいぶ気分が盛り上がった。

(優しい南部訛りっス!おまけに日本語は会津訛り!I like these!(こういうの好きっス!)

 もうすぐ身長が2メートルに達する自分から見ても頭半分は背が高いクロコダイル系獣人を、シロクマは好感度最大値で眺め

る。低い声音で発する会津訛りの日本語と南部訛りの英語は、のんびりと優しく耳に届いた。

 コホンと再び咳払い。会計を待たせた店主にペコペコ頭を下げる大男達。そして無事にアルが掘り出し物を手に入れると…。

Do you like ZoaPanzer?

Yes! I Love Ligertype model!

「Oh Me too

 このシリーズモデルが好きなのか尋ねたイズミに、アルが食いつき気味に推し機体を即答。会ったばかりですぐに意気投合し

た二人は、握った拳を軽く突き合わせて笑いあう。

「いやー、気が合いますね!メジャーなのと比べるとちょーっと知名度低めでファン少なめだから、モデラー友達にも同好の士

が少ないんですよねー!」

「オレ話せる友達居なかったんスよ!モチロン人型も良いしスタイリッシュなのも好きっスけど、あんまり無いっスからね人外

型ジャンル!」

 脇で静かにしているタケミは、そういえばアルはテレビや映画で見られる各種人型メカばかりではなく、時々テレビも漫画も

やっていないモデルを作っているなと思い出す。

(「ゾア・パンツァー」…だっけ?ちょっとマニアックな印象のプラモデル…)

「投稿サイトでもユーザー数あんまり多くないですからねー」

「身近に作例無いっスから実物見られないオレにはサイトの投稿画像がオアシっス。けど競争率低いから新作の予約は大安定!」

「売り切れないのが嬉しいような悲しいような、ですよねー!来年の90周年記念モデル、余裕で三種とも予約行けました」

「軍資金の都合でオレは一つだけっス…」

「ヴァイス?」

Oh! 何で分かったんス!?」

「あの中から一つ選ぶならLigertypeかなって」

「好きなんスよね!イズミさんも画像投稿してるんスか?」

「まぁボチボチですよ。最近アップしたのは…」

 なかなか同族と会えないタイプのマニアに特有の、やけに熱が籠った前のめり会話に、置いて行かれたタケミは電話中のトラ

マルを振り返る。まだ終わらないようで、少年の視線に気づいた猫の青年は、申し訳なさそうに耳を倒しながら軽く会釈する。

「もしかして「組み立てワニ」さんっスか!?」

 ひと際大きくなったアルの声に、タケミがピクンとびっくりして踵を浮かせた。が、聞いた事ある名前だな、と視線をシロク

マに戻し…。

(あ。アル君がいつも見てる立体作品の投稿サイトで、その人の作品が凄いって何回か…)

 イズミが端末に表示した最新の投稿ページを見て、即座に気付いたアルが、尿意でも催したのかと勘違いするレベルで体を小

刻みに揺すった。

「ファンなんスよ!オレずっと作品見てたっス!」

「え?マジで?うはははは…!いっやー、はっずー…!」

 鼻先を少し上げて、困ったように視線を逸らしながら頬を赤らめるクロコダイル。

「オレのHN、「白星」っス!」

「え!?マジですかー!?いっつもコメ有り難うございます!あと久しぶりにアップされた新作!グレーのロービジ仕上げにし

たL・アサシネイション、都市迷彩が
coolでしたよ!外装のチップ塗装も手が込んでて…って、コメントで言いましたねこれ」

「世界狭いっス!まさかリアルに会えるなんて思ってもみなかったっス!」

 同じ投稿サイトで数年来やり取りがあるネット上の知り合いと、意外な形で顔を合わせ、盛り上がる二人だったが…。

「このあと暇なんスか!?祭り見物っス!?」

 誘いたい様子のアルに、イズミは「あ~、ちょっと人と会う用事がありまして…」と申し訳なさそうに苦笑い。

「じゃあ今度配達に来る時にで良いんスけど…、あの、あのっ…!」

 アドレス交換を切り出したいが、初対面でいきなりは図々しいだろうかと、珍しく常識的な苦悩を覗かせたアルは、

「サイトの鍵付きコメでアドレス送りますんで、良かったら交換してください」

Woot!

 先回りして気を利かせてニカッと笑うイズミの言葉で、文字通り飛び上がった。

 

(まさか「白星」さんが獣人な上に、あんな可愛い子だったなんてなー!丸々しててフッカフカで、どこも手触り良さそうな毛

並み!ハグしたら抱き心地縫い包みみたいで最高だろうなー!おまけに明るくて礼儀正しくて気持ちがいい子だったし、リアル

で会えて良かったぜ!仲良くなれるといいな!うはははは!…しかしマズった…。うっかり「母国語」が出たぜ…)

 結局二番目に目についた中古のプラモデルを購入し、一行に別れを告げてしばらく歩いた所で、イズミは先の行動を顧みる。

(ネイティブの発音だったもんで、気付いたら反射で返してたなー…)

 まずかったかな?という思いはあるものの、そうおかしな事にはならないだろうとも考える。何せイズミの経歴を正確に追う

事はほぼ不可能。戸籍上も住民票上も、会津若松生まれの日本人という疑いようのない公的な記録がある。

 かつて、そのように整えてくれた者が居たから。

(さあ気を取り直して仕事だ。情報によれば俵一家…土肥の大親分は塒を出て移動してる。籠られているよりも仕事し易くなっ

たぜ)

 表面上はウキウキしている観光客のまま、巷で「連続殺人鬼インビジブル」と呼ばれ、「業界」では「配達人」と呼ばれるイ

リエワニは、不自然でない程度の歩調で海岸方面へ向かった。

 

「「組み立てワニ」さんデカいひとだったっスねー!しかも獣人でスベスベ!ガタイムッチムチ!抱きついたらずっしりひんや

りしてそうっス!太っ腹で気前良くてステキな
Big guy!伊豆に住んでたんスか!さらにウチの配達担当っスか!縁とか!感じる

がち!」

 ホクホクかつウキウキなアルと並んで歩きながら、「今度配達に来て貰った時は声をかけるね」とタケミが提案。

「よろしくっス!」

「…あと、あの、トラマルさん?」

「はい」

 二人の案内を続けるキジトラ猫は、

「あの…、お仕事とかで、行った方が良いなら…、二人でも大丈夫ですから…」

「いいえ、大丈夫です。でもそのお心遣いには感謝を」

 にこやかに微笑んで応じるトラマルは、少年の臆病なほどの気遣いを有り難く思うと同時に、申し訳なくも思う。こんな騒ぎ

が起きなければ、たまには年頃の少年らしい楽しみと気分転換ができたはずなのに、と。

(次の祭りにおいで頂いた時には、御満足頂けるおもてなしを必ず。それにしても…)

 トラマルは連絡を受けた内容について吟味する。

(即断果断は大親分の常ですが、今回はまた随分と手早い。まるで、そう…)

 キジトラ猫は多くの時間を共有してきた主の性格と行動に照らし合わせ、方針転換についての報告内容を振り返った。ハヤタ

がどういう考えでいる、というような報告は無かったが、心境を察する事はできる。

(一刻も早く手切りしたい…。そうお考えになっているかのようです)

 

 一方その頃…。

「船は午前十時出航。福岡でクルーズ船に乗り換え、海外へ渡ります」

 黒猫が手順を説明し、新たに創出された架空の人物の身分証明書を差し出すと、マスクとサングラスで面相を隠した男が頷い

て受け取る。

 その様子を、男と向き合って立つ巨躯の猪が見つめている。

 俵一家が押さえている、港近くの地下駐車場。大勢の護衛が各出入り口を見張る厳重警戒の中、菅山録の海外脱出は実行に移

された。ハヤタも匿った当初はじっくりと機会を吟味して行動に移すつもりだったが、状況の変化を見て対応を変えている。こ

の辺りは百戦錬磨の現場主義者なので決断が早い。

 ロクのために偽造されたパスポートは海外国籍。既に俵一家が手を回し、ロクが第二の人生を送るための身分は海外で作られ

ていた。偽造された物とはいえ、バレる心配がなければ本物と変わらない。海を渡って中国に入れば、新たな国籍で新たな人生

を送れる。

 かつてハヤタはユージンに、もしもタケミを逃がさなければいけなくなったら自分を頼れと言ったが、それは何も逃亡経路を

用立ててやるというだけに留まらない。国籍などの身分を含めて別人としての人生を用意してやれるという意味も含んでいる。

「…ブツは、約束通り自由にして下さい。知っている事も全部話しましたし…、もう…」

 ハヤタと目を合わせないロクの言葉は、暗に「自分はもう話すべきことは話したし、そちらにとっても無価値だろうから、今

後は一切接触しないでくれ」という含みを持たせてある。別人としての身分と生活に困らない大金を受け取ったので、関係性を

絶っておきたい。

「あい判った。こっちも異存はねぇ」

 言葉短く応じたハヤタは、黒猫に目配せする。トラマルの代理で秘書を務める黒猫は目線で頷くと、ロクを促して自動車に乗

せた。船まで送るこの車は、一見普通の乗用車だが、要人移送用の特別仕様。至近距離で爆弾が炸裂しても乗員を守る頑強さを

備えている。

 港まで少人数で護衛されるロクは、充実した警備…本部で匿われている間のような護衛を期待していたので不安がり、不満も

あったが、俵一家の関与が疑われると出国後の足取りを辿られる可能性があるという黒猫の説明を受けて、しぶしぶこれを受け

入れた。

 かくして、ロクは港に停泊していた運搬船に乗り込んだ。

 潮の香りを嗅ぐ間も殆どない、人目を忍んで乗船したその船は、普通の貨物運搬用を装いながら人も運ぶ船。俵一家の急な依

頼に手を上げた、少々素行が悪い…というのもやや大人しい表現になる、非合法の運び屋組織が運営する「足」である。

 黒猫は当初、この業者に任せる事に異を唱えた。俵一家の依頼であれば滅多な真似はしないだろうが、運ぶ相手の身寄りがな

いと知れば身ぐるみ剥いで海に沈めてしまうような質の悪い連中が選ばれていたのである。重要な運びを大親分がそこへ頼むと

決めた事に驚いたし、思い直せないかと意見もしたが、結局黒猫は、急過ぎて他の業者には頼めないという大親分の言葉に頷か

ざるを得なかった。

 そんな黒猫の胸中を知る由もなく、ロクは護衛を引き継いだ船員達に船内を案内されて、狭苦しく、しかし窓がない事で安心

もできる船室に閉じこもった。

(これで、ようやく…)

 俵一家が提示した金額は、一生苦労しないで暮らせるほどの額になっていた。海を渡って、誰も自分を知らない土地で、一か

ら人生を楽しみ直す…。幾度も思い描いた理想の人生が、目前に広がっていた。

(それはともかく、追及されなかったのは幸運だった…)

 

(さぁてど…。船が出だらさっさど引き上げで、タネジマ室長ど今後の段取りの相談しねげな。トラマルの声も聞いどっか)

 見送った車が、ロクを無事に船へ届けたとの知らせを受けたハヤタは、待機していた地下駐車場で端末を取り出す。しばらく

連絡も任せきりにしていたトラマルへ、直接声をかけてやろうと。

 ロクを送り出すまでこの場で待機していた者達も、各所の見張りから到着と乗船の連絡を受けている。

 しかし携帯端末をダイヤルする大猪は気付かない。周囲の者も誰一人気付かない。

 全ての出入り口が見張られた地下駐車場の一角、ハヤタのすぐ後方の車の脇に、気配もなく、スッと現れた存在に。

「さて、頃合いと見ましたので」

「!」

 大気が唸りを上げる。武器を振るうでも、拳を振り抜くでもなく、巨躯の猪が軸足を残して半身に構えつつ振り返るだけの動

作で。

 瞬間的な亜音速までの加速により、振り向くハヤタの周囲で大気が圧縮、拡散されて景色が歪む。風すら巻き起こして身構え

た猪の視線の先では、たった5メートルも離れていない位置に立つ男が、衣服と被毛を突風になぶられていた。

「失礼。驚かせるつもりはありませんでしたが、周辺を鼻が利く刑事がうろついていた物で」

 そこに居たのは恰幅の良いアライグマ。相手を確認した大猪の目が、意外さと驚きで丸くなった。気配を断つのが巧みな危険

生物でも、ハヤタに察知されないままここまで接近し、背後を取る事など不可能。潜霧士でもトラマルなどの数名にしかできな

い芸当である。

「ジオフロントの爬虫類でも、もうちっと気配あっと?」

「褒められたと解釈しておきます」

 片眉を上げておどけて見せたマミヤは、「件の、菅山録という潜霧士を無事に送り出した所で、今回の件について所見を少し」

と人差し指を立てた。

 

 その頃、岸壁と停泊する船舶を見張れる、港湾事務所の屋上で…。

「ここまで付き合う必要は無ぇんですが」

 仏頂面の黒豚が、双眼鏡を手に呟く。

「ええやろ。好きでやっとるんやし、迷惑はかけへんて」

 まん丸い狸が同じく双眼鏡で船を監視しながら応じる。

 結局朝までかつての後輩達と過ごしたヘイジは、コーヒーを飲んで眠気をシャットアウトしながら、監視任務に付き合ってい

た。仕事と金にシビアな狸にしては珍しいが、古巣に義理立てした無償奉仕である。

「しかし、何だってまたこうも急いで業者に引き渡すんじゃ…。数日後でも良さそうに思うが…」

 祭りが終わって落ち着いてからでも良いだろうにとボヤくムラマツに、

「「厄ネタ」やさかい、さっさとほっぽり出すのが一番て、大親分はお考えになったんやろな」

 黒豚が双眼鏡から離した目を狸に向けるが、ヘイジは視界を船着き場に固定したまま続けた。

「匿っとる言うた、その男な。大親分が肩入れしとる対応やあらへん。厳重に護りは固めとっても、大事には扱ってへん。そこ

ら辺には何や事情があるんやろ」

 ムラマツは無言で考える。ヘイジには今回の件についてさわりしか話しておらず、事の詳細を知らない。にも拘わらず、狸は

少ない情報を組み立てて、祭り中の騒ぎと俵一家が匿っている男を結び付けていた。

「大親分にとっちゃ、身内と土肥の街の方が、その男より大切なんや」

 袂を別ってなお、ヘイジは自分よりもよほど大親分の事を理解していると、黒豚は感じた。あの剛弓を支える観測手として傍

らに控えた年月は伊達ではない。

 もし、何もかも順調だったなら、今頃ヘイジは大親分、そして若頭を、その下で支える立場に就いていたのかもしれないと、

ムラマツは時々考える。十年前、全てが狂わなければ…。

「船が出るで。これで一安心やな」

 言われてハッとした黒豚が双眼鏡を覗く。移送を請け負った業者の船が離岸し向きを変えてゆくが、おかしな点は見られない。

「総勢10名で四方八方から監視しとったさかい、テレポーテーションでもできん限り不審者は入ってへんやろ」

「…テレポーテーションができる異能なんか、俺ぁ聞いた事もねぇです」

「せやなぁ。そないな異能があったら、ジオフロントの攻略も難度下がる…ってか、いくつもの問題点が解決するんやけど」

 軽口を叩くヘイジも、それを受け流すムラマツも、警戒を解いて双眼鏡を下ろした。「そんな異能」を持つ者が実在している

事など流石に想像できずに。

「いつ出発すんです?」

「昼過ぎには出るで」

「一杯引っかける時間も無ぇか…」

「時間あっても奢らへんで~?」

「奢る気でした」

「飲めへん時にばっかりそう言うんやからズルいわ~。って、何やコレ?」

 隣の黒豚が肘に何か押し付けて来たので、狸は双眼鏡から目を離して視線を下げた。

「…商品券?土肥の商工会議所発行のモンやな?」

「2万円分入ってんで、御宅の若い衆に。今回は騒ぎのせいで色々不便かけた。次の祭りん時にでも小遣いに渡してください」

「そういう事なら遠慮なく…。しかし何やなぁ。弟はん達を思い出すんかな?相変らず子供に優しいこっちゃ」

「それは関係ねぇです」

 茶化すヘイジに、ムラマツは普段にも増して不機嫌な顔を見せた。

 

 そして、ついに出航した船の中。

 揺れを感じる船室で、ロクは椅子に座って膝に肘をつけ、前屈みで座っていた。窓も無い密室の息苦しさは、しかしこの状況

では安心感に繋がる。

 船が無事に出航した事でホッと安堵し、ロクの頬が緩んだ。

(上手く行った…!行き当たりばったりだったが、それでも危険を冒した甲斐はあった…!もう命の心配をしなくていい、快適

で安全で裕福な生活が俺を待っている!)

 航行を始めた船の揺れを感じながら立ち上がったロクは、綱渡りだったなと、自分の行動を振り返った。

 あの日、地図士によって地上へと運ばれたロクは、その後…。

 

 

 

 逞しいセントバーナードが、ロクを肩に担ぎ上げて走る。

 仲間二人が足止めに入っている間に、謎の襲撃者から逃れ、指定されたポイントを目指して洞穴を駆け抜ける。

 霧で湿る顔に水滴が溜まり、何度か目をきつく瞑って振り払う。ロクを担いで塞がった片腕と、ハンディシックル…伐採用で

あり護身用でもある鎌、柄を伸ばして長得物にもできる武装を握る手は、顔を拭う余裕すらない。

 崩落点以外の地表に通じるルート、亀裂が繋がって登れるようになった登坂口から、霧でけぶった空を見上げる。

 大人一人を担いで約4キロの坂路疾走。息を切らせてもなお、セントバーナードは疲労困憊には至っていない。地図士とはこ

の程度のポテンシャルが最低条件で要求される、生半可な潜霧士以上の傑物揃いである。

(ふたりは…)

 歩調を緩めて、しかし立ち止まらずに後方を窺う。

 洞穴の奥は見えない。しかし、吹き上がって来た一陣の霧に、セントバーナードは教えられた。

 彼らは来ない。

 ギリリと歯噛みして駆ける。速度を上げて霧の中を突き進む。霧に運ばれてセントバーナードの鼻孔をくすぐったのは、湿気

と外気で酸化した独特な錆臭さ…血臭だった。

(振り切れない。有利な場所に陣取って迎え撃つ)

 予定の調査を途中で打ち切ったので物資は余っていた。爆薬を使用したトラップの構築は、地質調査で培った。対人用として

は大味だが、殺傷力は有り余る。

 セントバーナードはしばし走った後、遮蔽物になる瓦礫が多い、かつての倉庫と加工場が崩れた地点へ駆け込んだ。

「おい。これを持て」

 セントバーナードはロクを物陰に下ろすと、荷物からサバイバルナイフに似た厳つく重々しい刃物を押し付けた。

 それはレリック。対象に突き刺すと範囲を絞った高圧電流を自動で流すという代物。使い手が感電する事は無く、電流が流れ

やすい物と接触している事…つまり肉などに突き刺さっている事をブレード部分自体が検知して電流を流す武装である。

「ここで迎え撃つ。万が一接近されたらそれで身を護れ」

 トラップを構築する材料を手早く荷物から取り出してゆくセントバーナードに、ロウは「む、む、むり…!」と、へたりこん

だまま首を左右に振った。

「た、戦うなんて、無理…!機械人形とかと、やりあうような…、化け物と一緒に、し、しないでくれ!」

 セントバーナードは無言。問答する間すら惜しんで作業を続け…。

「ここから動くな。ジオフロントの溶岩層を吹き飛ばすための高性能爆薬だ、巻き込まれたらただじゃ済まないぞ」

 コードと爆薬、容器で構築した簡易爆弾を小脇に抱えて立ち上がり、追手が来るだろう方向を窺った。

 霧が濃く、獣人の目で見透かしてなお、視認できる範囲には姿が無い。

(今なら仕掛けられる。三方向、2ラインと側撃爆雷で引っかけ…)

 ブヅリ。

 弾性のある特殊ラバーコーティングを貫く音と、鋭い痛みと、冷たい感触を、セントバーナードは右脇腹後方に感じた。

 直後、目の前が白く染まる衝撃。

 全身の筋肉が意図しない反応で硬直し、瞬時に全身を駆け巡った電流が体液を沸騰させる。

 眼球を白濁させたセントバーナードは、鼻や口から白く焦げ臭い蒸気を吹き上げつつ、ゆっくりと俯せに倒れた。

 その後ろで、ナイフを両手で握り、荒い息をついているのは、ロク。

 血走った眼で、自分が刺殺したセントバーナードを凝視し、ハァハァと息を吐いていたロクは…。

(やっ…た…!)

 歪んだ、そして脱力した笑いで、ヘラヘラと顔を緩ませる。

 ロクの目はセントバーナードの腕に据えられていた。アームコンソール内蔵の手甲には、地図士専用のチップ…つまり希少な

データが収められている。

 ロクはそれが欲しかった。大金になるそれが欲しかった。これを盗って逃げれば金持ちになれると考えた。

 追って来る何者かについては、都合が良いと考えた。アレに殺されたという事になれば自分の罪にはならない、と。

 それは、浅はかで、刹那的で、衝動的で、向こう見ずで、計画性も無い行き当たりばったりな犯行だった。事故を装って許可

されていない地下へダイブしようと考えた時と同じように。

 もしも自分が追い付かれたらという考えや、それに備えてセントバーナードが居た方が良いという計算などは、目先の大金に

目がくらんで吹き飛んでいた。

 そして、セントバーナードの腕のコンソールをこじ開け、チップにロックが掛かるのも構わず強引に抜き取った。誰か解除で

きるだろう程度にしか考えていなかったので、俵一家でも完全には復元できないレベルのデータの自己破壊セキュリテイが働く

事などは、完全に慮外である。

 そして、ロクは急いでそこから立ち去り…。

 

「あ~…。何だ?これ」

 ややグレー寄りの白…霧中迷彩仕様の装備に身を包んだ黒い犬が呟いた。

 大柄なチベタンマスティフの獣人である。2メートル近い体躯はどっしりと重々しい固太りで、武装らしい武装も携帯してい

ないが、太い両腕に装着した金属製の手甲…厳ついガントレットが目を引く。白に近い銀の金属繊維で編まれたノースリーブの

メッシュシャツと、鬣のように豊かな首周りの黒い毛は、霧を吸って結露している。

 チベタンマスティフが見下ろしているのは、刺殺されたセントバーナードの死体。地下深くから追って来た中の一人である。

「何でこうなった?これ…」

 眠そうな、あるいは退屈そうな、または興味が無さそうな、つまらなそうな目で死体を見下ろしながら、チベタンマスティフ

はセントバーナードの腕のアームコンソールに目を止めた。こじ開けられ、チップが抜かれているのが判る。

 そっちも回収した方が良いんだろうけどなぁ、と思う一方で、地図士を殺せという命令で、あの救助された男は地図士ではな

いようだしなぁ、とも思う。

 言われた事は既に達成されているので、これ以上働いても「そこまで義理立てしなくてもいい」「余計なサービスはしなくて

いい」と相棒が顔を顰めそうな気がした。

 戻るか追うか、しばらく考えたチベタンマスティフは、廃墟の壁に身を寄せて霧の向こうを窺う。数百メートル先から聞こえ

た微かな物音を、鋭い聴覚が拾っていた。

 霧への適合が過度に進んだ両目が、白い闇を透過させて彼方を覗く。武装した六名の集団が何か言い交しながら捜索している

が、音声までは聞き取れない。

(俵一家の傘下…だな。接触したら夜半(よはん)に怒られる)

 判断する材料ができたので、チベタンマスティフはセントバーナードの死体を担ぎ上げると、重さを感じさせない足取りで引

き返す。

(あとは、ま~、あれだ。連中の上役とかが何とかするだろう)

「益明(ますあき)」

 名を呼ばれたチベタンマスティフが歩きながら視線を動かす。そこに、まるで霧の中から滲み出るようにして、小柄な犬獣人

…純白のパピヨンが姿を現した。

 直前まで気配も姿も無かったパピヨンにも、チベタンマスティフは動じない。相棒の異能はそういう物だと熟知している。

「首尾は?」

「ひとり逃げた。地図士じゃない男。追いついた時にはコイツは死んでた」

 チベタンマスティフと並んで歩き始めたパピヨンは、同じく霧中迷彩装備に身を固めているが、こちらは背中に柄が伸縮する

薙刀を装備している。目鼻立ちも整って聡明そうな顔をしているが、その薄皮一枚下に冷たい物が潜んでいそうな、怜悧さを窺

わせる眼差しが印象的だった。

 身長は150に少し届かない程度で、体のボリュームはチベタンマスティフの三分の一もない。

「仲間割れ?何故?利があると思えないが…。まあいいさ。御屋形様に命じられたのは連中の作業の護衛と、頼みがあったら聞

いてやれという事だけ。私達が過剰に世話を焼いてやる義理もない。現場を見られたのはあちらの落ち度、必要なら必死になっ

て逃げた男の始末をつけるだろう」

 少し考え、そして即座に方針を固めたパピヨンに、チベタンマスティフは追加の情報を伝える。

「あと、俵一家関係者が近場を捜索中だったから、深追いは辞めた」

「賢明だね。連中に義理立てして土肥の大親分と事を荒立てるのは下策だ。私達分家関係者が関与している事が俵一家に知られ

ると、本家も困った事になる」

 そうして二つの影は霧に紛れ、姿をくらます。

 この数分後、ロクは巡回中だった俵一家の関係者に保護され、土肥に匿われた。

 

 

 

(バレなかった…!自由だ!もう安全だ!)

 船室の中をうろうろと落ち着きなく歩き、薄笑いを浮かべるロク。

 地図士と自分を追っていたチベタンマスティフに付け狙われる事も考え、俵一家に保護を求めたのは正解だったと、ロクは自

画自賛した。俵一家を頼る先に選んだのは、非合法な事もしているという公然の「裏」を知っていたからである。脛に傷を持つ

相手なら、自分も追及されないだろうと踏んだのである。

 ただし、ロクは知らない。

 土肥の大親分が、マッパーズギルドの幹部連中と関係を持つ潜霧組合役員…神代勇仁とは知り合いというレベルではなく親し

い事も、ハヤタ自身にもまた、酒を酌み交わしたり風呂を共にするなど懇意にしているマッパーズギルド所属のメンバーが居る

という事も。

 その場に居合わせた訳でなくとも、聞き取りの際にロクが語らなかった事、ごまかしたと感じる事などから、ハヤタは彼が何

らかの犯罪を行なったのだろうと推測していた。そしてマミヤに至っては…。

 

「彼が都合の悪い物を見たから始末したいと考える輩が居る一方で、彼自身も地図士を殺した負い目から組合や政府には助けを

求めなかった」

 地下駐車場の停滞した空気に、マミヤが咥えた煙草の煙が漂う。ハヤタと取り巻きは、どうやって侵入したのかも判らないア

ライグマの言葉の続きを待つ。

 潜霧士のチップはロクが殺して奪った物。そう断定したマミヤの言葉には、根拠や説明を飛ばしてなお説得力があった。あの

怯え方は単純に身の危険を感じていただけでなく、匿っている俵一家に自分の犯行が露見しないかという不安も含んだ物だと考

えれば納得も行く。

「一から説明していくと少々かかるので、それはまた場所と時間を改めて。結論から言いますと、彼と潜霧士が遭遇した現場に

居たのは、ヘイジ君に「あの仕事」を持ちかけた組織でしょう」

 猪の眉がピクリと上がる。が、アライグマは「ただし完全に一緒ではないかもしれません」と付け加える。

「どいなわげだ?」

 考え込むハヤタに、マミヤはかいつまんで言う。今回の祭りに重なった事件は、俵一家へ損害を与える事を狙ったものでも、

土肥へのテロ活動でもなく、匿われている菅山録の口封じのチャンスを作るための物である、と。

「ただし、その組織…他に適当な名称も無いので仮称ですが、そこも行動方針が統一されてはいない。俵一家とその傘下という

一大勢力を敵に回しての菅山録殺しは得策ではないとして、組織内の別の勢力がスイーパーを雇い、テロを未然に防ごうとした。

…それが、警察関係者が「インビジブル」と呼ぶ連続殺人鬼であり、業界では「配達人」として知られる殺し屋です」

 マミヤの断言でハヤタの取り巻き達がザワついた。俵一家が依頼した事は無いが、界隈で噂にのぼるその存在は、この場の全

員が知っている。

 仲介人を通して依頼すれば、「ある条件に合致するターゲット」に限り始末を請け負うという、依頼達成率100%の殺し屋

…通称「配達人」。終わりを届ける者。

「ま、恐ろしい男です。おそらく組織の方から陽動テロの計画内容を伝えられていたでしょうが、それにしても、立派なテロ活

動用装備の複数名を単独で殲滅するという仕事をあっさりこなすのですから、危険な事この上ない」

 顎を引くハヤタは、恐ろしい男だと述べるこのアライグマもまた恐ろしい男だと考える。

 共有した情報は断片的だったにもかかわらず、まるで高い所から全体を見透かして一部始終を把握していたように答え合わせ

する…。敵に回したら面倒だという思いもあるが、手を組むならば有意義な同盟関係が築けるという確信は深まった。

「んで結局、そごの組織も内輪揉めであの男ば見逃す結果になんのが」

「いいえ、陽動テロまで目論んだ強硬派は簡単には諦めないでしょう。しかしケリはつきますから、今頃練っているだろう追撃

計画は無駄になります」

「ケリがつぐ?」

 訝るハヤタは即座に理解し、アライグマは紫煙を吐き出しながら肩を竦める。

「見えざる配達人の仕事は、テロ実行犯の始末だけではないでしょう。テロを…つまり俵一家との衝突を望まなかったのだろう

組織の別派閥…穏健派にとっても、「あれ」を野放しにしておくという選択肢はない。一枚岩でないとしても、邪魔である事は

組織として共通なはずです」

 これを聞いてもハヤタは慌てない。ああそうか、と突き放したような無表情である。

 既に俵一家の手を離れた。取り引きした通りに見返りもやった。ここから先は彼個人の命運が尽きているか否かの問題。

「こちらは誰も損をしません」

「んだな」

 大猪が軽く顎を引くと、アライグマは改めて、この男は手を組むに値すると評価した。

 清濁併せ呑む気質だという評判は聞いていたが、改めて土肥の大親分に「率いる者」としての合理的判断力と柔軟な思考力、

何より不必要な慈悲をかけない非情さを認めた。

「では、改めて…」

 マミヤが目を細め、手を差し出す。

「今後ともよろしく」

「こっちごそ」

 猪の分厚い手が、アライグマの手を握り返した。

「一つ申し添えておきます」

 手を握ったままマミヤが発した声は、異能による屈折制御でハヤタにだけ届く。

「「配達人」は「我々と同じ」ステージ9到達者です。正体にお心当たりは?」

 大猪の耳がピクリと震えた。

「…何だど…?」

 

(到着までは何もすることが無い。今の内に高飛び後の事を考えるか)

 狭い船室内を歩き回りながら、ロクは新天地での生活を夢想する。大金が入ったので何か事業をやってもいい。俵一家が出し

た金には、多少失敗しても問題ないだけの余裕がある。面白おかしく遊んで暮らすのも悪くはないが、せっかく大金持ちになっ

たのだから退屈はしたくない。

(安全で快適で刺激のある生活を…)

 唐突に足が止まった。

 船室をグルグルと何周もするように歩き回っていたロクの視界に、何かが入って来た。ほんの一瞬、二秒にも満たない間だけ

死角になった壁際に、大柄な影が立っている。

「…へ?」

 間の抜けた声が半開きの口から洩れた瞬間、分厚い手がその喉を掴んで締め上げる。

 片腕一本で吊るし上げられ、声も出せないまま、バタつく足が宙に浮く。

 そこに居たのは赤茶色のクロコダイル種獣人。小山のようなボリュームの巨漢は、ドアがない側の壁際に突然出現していた。

 ロクには判らなかった。この巨漢が誰なのかも、どうやって部屋に入ったのかも。

 理解できたのは、この鰐が自分を殺しに来たのだという事と、抵抗しても敵わないという事。

 獣化適正もなく、ダイバーズハイにも至っていないロクだが、それでも本能で分かった。自分を捉えたこの巨漢が、自分…一

般的な人類から見れば、生物として上位に当たる存在だという事が、自分の瞳孔から心の底まで覗き込むような眼光で解った。

それこそ、隔絶した距離にあるほど上位の…。

(誰だ…!?誰なんだ…!?この男、土肥の大親分と…同じ…!?)

「届ける前に質問だ」

 「本命の仕事対象」を捉えた巨漢は、常とは別人のように冷たくなった目と低くなった声音で訊く。

「アンタ、人を殺したか?」

 警察関係者などからは連続殺人鬼「インビジブル」の通称で呼ばれ、依頼する側などの「業界」からは「配達人」と称される

イズミは、仕事を受ける際に条件をつける。

 それは、殺害対象が「誰かを殺した者」か「これから殺す者」であるという事。

 そもそも、イズミ自身が標的として求めている相手は一人しか居ない。仕事とはいえ、決して無辜の命を殺めない、巻き添え

にしない、というのが「ド底辺のド屑」と自分を評するイズミにとって、譲れない線引きだった。

 ロクの目が揺れた。イズミの問いで、自分が騙し討ちしたセントバーナードの後姿を思い出して。

 表出した僅かなその動揺が、イズミにとっては明確な返答となり…。

「終わりを届けに来たぜ」

 ………ゴキュポキッ…。

 

 三分後。イズミは着衣のまま海中を泳いでいた。

 異能を用いて監視の目をかい潜り船に忍び込む事に比べれば、船から海に空間跳躍するだけの脱出は簡単な事である。

 さらにイズミは器具類の補助抜きで水中に八時間以上潜っていられる。肺呼吸に頼らず、皮膚呼吸で水中から酸素を取り入れ

る機能を有しているおかげだが、それを抜きにしても完全な無酸素運動が一時間は可能。既に人類の域からはみ出しているこの

イリエワニの行動を、およそ人の尺度で予想するのは困難。監視を潜り抜けて船に潜入し、出航した船内で対象を殺害してから

脱出し、三十分ほど潜水したまま岸辺まで泳いで戻るという離れ業も苦ではない。

 特製の「仕事着」は、水中に入るとグレートーンの都市迷彩から水面下の影の色に近くなり、擬態効果が高い。海面を上から

見下ろしても、潜水しているイズミの姿は波間の濃淡としか思えない。

 首をへし折られたロクの死体は、船が目的地に着くまで発見されない。殺害者もまた痕跡一つ残していない。

 トリックのタネがルール違反の密室殺人を完遂したイリエワニは、報酬の事を考える。

 振り込まれる金は高額ではあるが、それよりも重要な事がある。一度は依頼を受けないと決めた組織からの仕事を、あえて受

けた理由はその見返りのため。

(真鶴実験場に関わっていた可能性が高い政府関係者の情報…。もしかしたら、その中に…)

 水面下の暗がりで、身を沈めた鰐の双眸が冷たく光る。首にかけた懐中時計を、ギュッと握って。

(居るかも、だな…)