第四十七話 「ステージ9」

 昼が近付き、少年達はトラマルに伴われて俵一家の本部を訪れた。

 先に来ているユージンとヘイジに合流し、一緒にハヤタ達に挨拶を済ませたら、熱海への帰路につく事になっている。

 畳の香りが心地良い和室で、甘い練り菓子と抹茶を振舞われる一同は、大猪とキジトラ猫に滞在中の配慮について感謝の言葉

を述べた。

「慌ただしぐって、あんまゆっくりでぎねがったべ」

 好々爺の顔で眉尻を下げる大猪に、タケミは恐縮して「い、いえ!」と首を振る。祭り期間で忙しい中、トラマルを案内につ

けて貰った事を申し訳なく感じていたので、詫びられると困ってしまった。

「次は初日からフルで楽しみたいっスね!花火とか見たいがち!」

 最終日に良い事があったアルはすこぶる上機嫌。そしてヘイジも、

「せやなぁ、次はワイが案内しよか?元地元民やさかい、花火見物の穴場から良い店まで連れてってあげまっせ~」

 後輩達に奢らされてぶつくさ言っていた割に、どことなく満足げな顔である。

「ヌシらが無事に昇格したら、次を考えてやっても良いぜ。ええ?」

 夜の欲求を発散し損なって若干消化不良気味なユージンも、美味い酒と飯と、肴になる若手の潜霧話と温泉で英気を養い、毛

艶が良くなっている。

「祭りに厄介事が重なって忙しい時分に悪かったな親父殿」

「気にしねって良いど。準備は若ぇ衆が中心になって進めでけだ。オラぁあんま苦労してねぇ」

 何やら大人達の間では仕事などの話も進んでいるらしいと、詳細は知らないまま雰囲気で察していたタケミは、

「テスト運航はウォールEて聞きましたけど、人員の練度上げから始めるにはスパルタなルートやないです?」

(ウォールE…?)

 ヘイジが大猪に投げかけた、新事業に関わる話に含まれた単語…、記憶に刻んでおいたキーワードに反応した。

「後々、南エリア含めだ全域配送サービスにすんだがら、のっけのハードルはなるったげ高ぐねげ」

「さいですか。…ところで、新型作業機が配備されたて、後輩共から聞いとりますけど…」

 眼鏡の奥で、ヘイジの目は好奇心に染まっている。

「ちょこ~っとでええから、拝見させて貰えまへん?」

 ハヤタが目を向けると、意図を察したトラマルは端末を取って、見物できる状況になっているか確認するため連絡を入れる。

「あ、あのヘイジさん…。新型の作業機って…?」

 ウォールEの話が出るなり内容が気になり、声を潜めて尋ねたタケミに、狸は「俵一家の新事業に関係する話で…」と、トラ

マルの通話の邪魔にならないようヒソヒソ囁き返した。

「大穴内を突っ切って南エリアに配送ルートを開く構想があるんや。俵一家と関係がある潜霧士と、一線を退いたベテランを編

成して。一般貨物で取り扱えへん潜霧関係の物品やレリックも、潜霧資格があるモンが直接運ぶなら問題あらへんから、南エリ

アも武装や専門用具の補充がし易くなるて話。商売上手やでホンマ」

(南エリアに!)

 タケミの脳裏を巨漢のグレートピレニーズが浮かべた穏やかな微笑みがよぎる。そして…。

(ウォールE…。「ヤマギシ」さんが居る所…!)

 故郷の友人に頼まれた探し人。南エリアへの再訪を希望していたタケミの胸がチリチリと疼いた。

「整備ドックの作業は問題ないそうです。今日はいつでも入れると、ニノミヤさんが歓迎しています」

「担当キンジロウはんやのぉ~?」

 トラマルの報告を受けてちょっと嫌そうな顔をするヘイジ。

「ただ、ニノミヤさんは上客のお見送りがあるそうで、今日は顔を見せに行けない、と…」

「…ああ、御曹司の…」

 キジトラ猫の追加情報を聞くなり、訳知り顔でニンマリ笑ったヘイジが「そら最重要任務や」と首を縮め、金熊と大猪は揃っ

て笑いを噛み殺す。

 隻腕のゴールデンレトリーバーが良い所の御曹司から好意を寄せられている事は、関係者内では周知の事実。ハヤタも湯屋の

支配人も、その気になったらいつ抜けても良いのだと言い含めているのだが、キンジロウ本人は土肥が好きだからと言って留ま

り続けている。

 とはいえ、未成年者達の前でする話ではないので、その辺りは掘り下げない配慮をする大人達。

「大将。出発前にちょこっと寄って来てもええです?」

「構わねぇ。せっかくだから皆で見物さして貰うか」

 ユージンも同意し、一行は土肥を発つ前に作業機が置かれているという格納庫へ向かう。その道中タケミは口数が少なくなり、

ずっと何事か考え込んでいた。

 

「特注品やな。こら立派なモンやで~…!」

 倉庫に並ぶ新品の三輪作業機…リバーストライクを眺めたヘイジは、眼を輝かせて感嘆の声を漏らした。

 一行は俵一家の本部から、土肥のゲート付近…そのまま地下のキャリーで直接ゲートまで移送できる倉庫まで、トラマルの付

き添いで移動してきた。ハヤタは来客があるので同席していないが、事業の詳細についても公表して構わないと担当者達に告げ

ている。

「「メッセンジャー」。雑賀重工製の長距離移動用軽作業機キタルファをベースに、ツヅミヤインダストリーが細部をカスタム

した品です」

 そう説明するのは、前園柄持(まえぞのつかもち)と名乗った俵一家傘下の若手潜霧士で、二十歳前後に見えるシェットラン

ドシープドッグの青年。倉庫に案内されて来て以降だんまりを決め込んでいるユージンと彼は目を合わせない。

 双方とも口には出さないし、初対面を装っている。が、本番までしていないものの、一応それ前提で一晩を共にした上に、同

じ布団で添い寝まではしたので、こんな状況で顔を合わせて気まずくないはずがない。

「大手メーカーの夢の競演やないか?ワクワクするで…!」

「スゴいトコとスゴいトコのコラボって事っスね!」

 ヘイジは勿論、ボイジャー2の整備手伝いを通して作業機周りの知識がついてきたアルも興味津々。大手二社の技術が組み合

わされた機体を前に、大きな体を曲げたり伸ばしたりしながらフォルムを隅々まで見て回る。

 真新しいピカピカのリバーストライクは、ハンドルから前方へ延びるアームが二本あり、それぞれゴツゴツした太いタイヤと、

平時は格納されているクローが備わっている。左右それぞれが高さも角度も個別に変えられる構造になっており、階段状の坂道

すら、クローを地面に食い込ませて固定し、腕のように使ってよじ登る事が可能。

 後部の一輪は前輪の物よりも太く、バギーカーのタイヤのよう。こちらも含めてすべてのタイヤが独立駆動するので、生き物

のような柔軟な走破性が確保されている。

 一見すると操作が煩雑そうだが、マニュアル操作とオートマチック操作の切り替えは任意で即時に可能で、オートモードでは

機体がセンサーで障害物と地面を認識し、適した駆動を自動で行う。乗り手はただ速度と角度をコントロールするだけで済むた

め、操作性はそこまで悪くない。一方で腕がある乗り手ならば、自分に適した完全手動操縦で思い通りに乗り回せる。

 悪路走行を前提に座り心地にも気を遣ったタンデムタイプのシートの後ろには固定式コンテナがあり、後部席の左右にはコン

テナや「他の物」を増設可能な展開式アームが収納されている。

 そしてボディを覆う特殊装甲は、だいぶ白に近いブルーグレーを基調にしてあり、追走者から識別しやすいよう、後部タイヤ

カバーやシート後ろにオレンジのラインが入ってアクセントになっていた。

 俵一家が企画した新事業…大穴内を突っ切ってゲート間の物品および人員輸送を行うサービスは、試験運転を目前に控えてい

る。先行してロールアウトしたこの新型作業機「メッセンジャー」四機は、既に霧中耐久テストも終え、選定したルートの実走

を待っている。ゆくゆくは機数を増やしたり、より積載量の大きい機種を用意したりもする予定だが、それもサービスの需要と

利益次第だった。

「乗ってみたいっスねこれ!所長、こういうの買わないんス?」

「高級品だぜ、ええ?興味で買うには高くつく。ウチは走破性も運搬もボイジャーで間に合っとるだろう。そもそも乗り手が居

ねぇから宝の持ち腐れだ」

 不愛想に応じるユージンだが、

(…しかしまぁ、アル坊はこういったのに乗ると様になるかもな)

 シロクマの養母でありかつての同僚、マダム・グラハルトの現役時代を思い出す。彼女は大穴内の移動に大型バイクのような

オリジナルカスタムの高機動作業機を用いて、複数班編成での潜霧作業時には偵察や情報伝達でも活躍した。その愛機は彼女の

引退以降、潜霧資料館に展示されている。

(まぁ、あの頃はマゴイチが整備手伝っとったし、ダリアも壊すような乗り方をしねぇ腕前だったから成り立った訳だが…。現

状のウチじゃあ購入しても持て余すだけ、アル坊も作業機に興味がある様子だが…、与えるにはまだちょいと早いな)

 そんな事を考えながら、ユージンは懐かしさから笑みの形に目を細めた。

(白いトライクか…。懐かしいじゃねぇか。ええ?)

 ずっと昔の記憶。潜霧用の作業機もまだ開発されていない頃、巨漢の北極熊に駆られて大穴の中を走り回っていた、ハンドメ

イドの三輪駆動車両を思い出す。武骨で頑強で洒落っ気が無い、それだけに頼もしかった白いマシン…。

(血は争えねぇな…)

 ピカピカの作業機をしげしげと見つめているシロクマを、赤金の熊は優しい眼差しで眺めていた。そこへ…。

「あ、あの…。所長…」

 小さな声でタケミが囁く。

「おう。何だ?」

 まさかタケミまで欲しいとは言い出さないだろうと思いつつも、視線も向けずに応じたユージンは、

「その…、俵一家の運用テスト…。ボクも…、参加とか、勉強で同行とかは…、させて貰えないでしょうか…?」

「?」

 意外そうに眉を上げて少年を見下ろす金熊。引っ込み思案なタケミが、積極的に他所の潜霧に関わろうとする姿勢を見せるの

は珍しかった。

「何でだ?」

 ユージンに他意はないのだが、理由を問う太い声は少年を叱られたように委縮させる。

「え、と…。それは…」

 タケミは口ごもる。友人と交わした人探しの約束を果たせるかもしれないから、と言ったらユージンに怒られてしまうかもし

れないと感じた。潜霧に余計な物や思いは持ち込むな、と。

 少年が臆病に考え過ぎるのは昔からなので、ユージンは問いの答えを無理に聞く事を辞めた。本人達に自覚は無く、それでも

昔からそれなりに問題なくやれてきた悪習通りに、意思疎通を棚上げして。

(昇格試験の勉強は…タケミは心配ねぇ。実績は十分だから遠出させる必要もあまりねぇ訳だが、率先してやりたい意思表示を

するのは珍しいしな…)

 金熊はトラマルに目を向けて口を開く。

「トラちゃん、そのテストのメンツはどんな感じだ?腕利き主導にはなるんだろうが」

「はい。二宮金次郎さんをリーダーに、板津甚吉先生を顧問に据え、運用と整備に長けたメンバーを揃えて試験運用を行なう予

定になっています」

 経験豊富な引退潜霧士…傷者達から腕利きを数名、そしていざという時のエンジニア技能も持つ作業機担当者を合わせた構成

になると、キジトラ猫が説明し…。

「そこにタケミを加えられるか?」

「大親分の判断になりますが、二人乗りが四機でメンバーが七名ですから、シートには一つ余裕があります」

 少年と金熊の話が聞こえていたトラマルは、ハヤタの許可次第だが不可能ではないと、欲しがられている答えを返す。

「え?じゃあ、所長…!」

「ヌシが出かけたがるのは珍しいが、良い経験になるだろうぜ。それに…、すぐ隣のゲートだ、ついでに字伏兄弟にも挨拶して

来い」

 戸惑うタケミだったが、ユージンは彼の叔父であるジョウヤ達にも気を利かせてあっさり許可を出す。

「え!?タケミ一緒に行くんスか!?じゃあオレも」

「ヌシは駄目だ」

 挙手したアルの言葉が言い終えられる前に、ユージンがピシャリと遮る。

「ナンデ!?」

「ヌシはみっちり試験勉強だ。ワシの講義にも参加しろ。実績はともかくペーパーテストがやべぇ。今後地下にダイブする時、

ヌシだけ留守番してぇか?ええ?」

 言い返せないアルの肩を、ユージンに全面賛成のヘイジがポンと叩いた。「次があるで」と。

「トラちゃん、親父殿に話だけ伝えといてくれ。熱海に着く頃には客の用も済んどるだろうし、ワシからは改めて連絡する」

 言い出しっぺのタケミは、思っていたのと違いすんなり話が通ってきょとんとしていた。が…。

(…あれ?これってその…、あまり知らない人と一緒に、大穴縦走するって、事…?)

 具体的に思い浮かべて、色白のたわわな肌が小刻みに震え始めた。

 

 一方その頃、俵一家の賓客用応接間では…。

「ご相談頂いて助かりました。貴重な記録、公的に保管できる事を嬉しく思います」

 きっちりしたスーツ姿が板についている人間の中年が、畳に平伏した姿勢から上体を起こすと、向き合って胡坐をかく大猪は

ニッと口元と目元を緩めた。

「助かんのはこっちだ。地図士のデータ、それも壊れだチップなんぞ強奪の疑いまで出で来てあだりめぇだが、管理室の口添え

があんなら疑いも持だれねぇべ」

「闇に葬るという手もあったでしょう?」

「役に立づモンだがら、そいなもってぇねぇ真似はしてぐねぇ。そっちの仕事の役にも立づんだろうしな。それに、アンダには

親父さんの代がら世話んなってっからな」

 髪をキチッとオールバックに整えた中年…潜霧探索管理室の室長、種島和真は、なつっこく笑うハヤタに親しみを込めた笑み

を返した。

 人払いは済んでおり、ハヤタもカズマも一人だけ。護衛も無しの密談である。

 俵一家がパイプを持っているのは非合法な組織や集団ばかりではない。ハヤタ自身が潜霧の最前線に立つ現役の一等潜霧士で

ある上に、最古の潜霧士の一人でもある。管理室とは公的にも裏でも良好な関係を持っていた。

 カズマはお役人の身分ではあるが、奇麗事ばかりで霧に抗せるとは思っていない。時には法に背く行為を選択する必要性も認

めている。ハヤタが時に非合法な行いをしている事も承知の上で昔から一家と接触している。時には表立って、そして時には今

回のように秘密裏に。

 そしてハヤタとカズマは個人的にも古い付き合いである。カズマの父が伊豆長期災害対策部門で活躍していた現役時代から、

カズマ自身がこの道に入って現在に至るまで、ハヤタはユージン同様に協力して世話を焼いている。

「菅山録四等潜霧士に関しては、こちらでは大穴内で蒸発したという所見で進めます。マッパーズのチップに関してはこちらが

依頼した調査ダイブの折に偶然発見したという流れで話を通しましょう」

「そごは良いようにしてけらい。んで…」

 ハヤタは口調を変え、マミヤから伝えられた気になる情報について口にする。

「そっちが把握してねぇ「ステージ9」が居る可能性って、あんのが?」

「は?」

 カズマの口から素っ頓狂な声が漏れた。

「ああ、「法律屋磐梯」がら聞いでな。公的に記録さいでねぇのが居る事は何となぐ判ってんだ。ただそっちはアンダが把握し

てんだべ?本人も言ってだが」

「先生と面識がおありでしたか?」

「あったってが、できた。うん」

 マミヤからは、詳細を偽っている自分の異能の真実についてカズマやユージンなどは知っていると伝えられており、情報共有

しても構わないとも言われていたので、ハヤタは遠慮なく切り込む。

 カズマはカズマで、あのマミヤが自分の異能の秘密を明かした事に少々驚いたが、すぐに表情を戻した。

「居ない…と言いたいところですが、可能性はゼロではありません。その、つまり…、予期していない経緯でステージ9に至る

可能性は排除できないので」

「霧を浴び続げだ潜霧士の「突然変異」でも「血清」の副作用でもねぇ、別の要因でステージ9に至る可能性もあるってごどが?」

「はい。条件は絞られて来ていますが、字伏夜長(あざふせよなが)氏のように、常に霧に晒されている訳でもない海外で活動

しながら、ステージ9に到達していたケースもあります。ヨナガ氏の場合は幾度か霧を使ったテロの対策に当たっておられまし

たので、やはり高濃度の霧によって変異が誘発された可能性もありますが…」

 カズマが言う高濃度の霧とは、ジオフロント内に充満するレベル…大気に拡散して立ちどころに薄まってしまう表層の十倍以

上にもなるレベルを指している。その霧を長年吸い続けてなお、変異が起こる者はごく僅か。単純に環境の条件だけで変異が生

じるとは言い切れないというのがカズマの見解だった。

「普通の環境だったら、そごまで濃い霧に晒されるごどはまずねぇべなぁ…」

 大猪は軽く顔を顰めながら、浴衣越しに丸く張った腹を掻く。威厳を取り繕う必要が無い相手との面談なので、考え事に没頭

するあまり普段の親父臭い仕草が表出していた。

「ええ。ですので可能性は低いと思います。ただ、霧に関しては何においても確実視や断定は危険ですから…」

「可能性はゼロでねぇ、ってしか言えねぇわげだ」

「はい…」

 ハヤタは太い腕を組む。簡単に答えが出ると期待していた訳ではないが、これは面倒な事になりそうだと眉間に皺を寄せた。

「対策室は、「配達人」って呼ばれでる始末屋の話は知ってっかい?」

「はい?正体不明な殺し屋の配達人…でしたら存じていますが、その件でしょうか?」

「んだ。法律屋の先生が、どうもニアミスしたみでぇでな。ステージ9だって断言した」

 これにはカズマが眉間に皺を寄せる。

「待ってください…。情報が多すぎて…。「配達人」…殺し屋がステージ9?「人の枠外」と?それは…!」

 しばし唸ったカズマは、「由々しき事態です」と呟いた。

「一等潜霧士にも公開していないステージ9…つまりマミヤさんのような「一般市民枠」は、一応こちらで全て所在を掴んで連

絡も取りあえるようにしてあります。ですが、その中の誰かが「配達人」とは思えない…というのが個人の意見です。ですから、

もし真実だとしたら…」

「「野良」のステージ9ってごどが…。ゾッとしねぇどなぁ…」

 ハヤタは難しい顔のまま天井を仰いだ。

「…例えばだげっとも、アンダ達さ知られねぇで、ステージ9の条件ば整えられる連中って居っぺが?血清をちょろまがしたり

どが…」

「血清に関しては難しいかと。あれは厳重に管理されていますし、製造できる物でもありませんから。高濃度の霧となると、場

合によっては可能かもしれませんが…」

「やっぱ、流出なんかの時に自然発生したんだべが…」

「可能性は否定できませんが…。瀬戸内海無人島実験施設の霧流出事故に、真鶴半島が人の生息域ではなくなった事故など、政

府の各部署が各々主導して起こした事故に加え、十年前の大規模流出などの幾度かの事故も含めて、因子汚染された一般人被災

者の中に、ステージ9到達者は見つかっていません。…あくまでこちらで押さえている限りは、ですが…。とはいえ、霧が海外

に持ち出されて使用されたケースも数件あるので、国内に絞って考えるのが正解かどうかも判らないわけで…」

 この場でいくら考えても結論は出ず、二人はひとまず注意する事で情報を共有するに留まった。

(マミヤ先生を飲みにでも誘って、ユーさんを交えて話し合うべきだな…)

 今後の事を考えたカズマは、ふとハヤタの視線に気付く。

 大猪は中年の頭…前髪の中央から右のこめかみにかけて白髪化している部位を、痛ましそうに見つめていた。

「…まだ、ちっと広がったな…」

「誤差の範囲です」

 何でもないように応じるカズマだが、ハヤタは知っている。

 カズマには獣化に対する適正がない。因子汚染が進行した場合、カズマに待っているのは獣人への変化ではなく、逃れられな

い死である。

「なぁに、まだまだ大丈夫ですよ。少なくとも、父に代わってユーさんのゴールを見届けるまで、退場する気はありません」

「だったら、体大事にしねげわがんねど?」

「ええ…、気を付けます」

 

 そんなやり取りが行われていた頃、神代潜霧捜索所の面々は駅から熱海への帰路に移っていた。

 列車の席はそれなりに埋まっているが、祭り最終日の夕刻までは移動しない客も多いので、満席にはまだ遠い。

「お昼なのに駅弁の車内販売とかやってないがちっス?」

 大きなプラモデルの箱をビニールで幾重にも包んだ上で土肥の土産物屋の丈夫な手提げ袋に入れ、それを後生大事に片時も放

さず膝の上に乗せっ放しのシロクマは、通路とドアを何度か見た後で口を開いた。普段からあまり落ち着きが無いアルだが、端

末をちょくちょく確認するなどソワソワしているのは、プラモデル投稿サイト経由でイズミからのメッセージが来ていないか繰

り返しチェックしているせい。

「アルはん、車内販売は本土の一部でしかやってへんで?」

「こういう列車は全部そうなのかと思ってたっス。新幹線っぽいっスよね?」

「まぁ伊豆東西連絡線は、造りは新幹線に似とるけど、これ地震の急制動に備えた座席スタイルって理由やさかい。大揺れあっ

たら緊急停止でズドーンや。横座りだと吹っ飛んでってまう」

 シロクマと狸が茶を飲みながらそんな話をしている脇で、タケミは車両のドアの方をぼんやり眺めている。先ほどユージンが

出て行ったドアだが、金熊は一人でそこから出て行った訳ではない。

(先生、何のお話なんだろう…)

 ユージンを呼びに来て一緒に出て行った男…神代潜霧捜索所の会計顧問でもあるアライグマは、タケミもよく知っている人物

である。息子達の馴染みの顔という事もあって少年には甘い顔をするが、ゴネるチンピラも黙り笑う詐欺師も泣き出す辣腕だと

いう噂は知っている。そんなアライグマが自分に笑いかけた顔から、あまり見ない緊張…あるいは警戒の雰囲気を、タケミは感

じ取っていた。

(トラマルさんも所長も気にするほどじゃないって言ってたけど…。やっぱり、お祭りの裏であった騒ぎって、大きな事件だっ

たんじゃ…)

 いつも通りの顔をしていたアルが、実際には密かに警戒していた事を知っている。自分に気付かれないように振舞っている事

を酌んで黙っていたが、幼少期を一緒にしてきた仲、流石に一晩も警戒が続けば判らないはずもない。タケミは薄々、ただ事で

はない事件が発生していたのではないかと察していた。だからマミヤがユージンを伴って行ったのは、その件について何か話す

必要があったのではないかと。

 そしてアライグマと金熊は、トイレや洗面台、乗降口が纏まっている隣の車両で…。

「…地図士を殺せるモンなのか?」

 車窓から見えていた長城の壁が、地下に潜って暗闇に取って代わられる。

 車内灯に赤味がかった金色の被毛を照らされながら、腕組みして出入口近辺の壁に寄りかかるユージンはポツリと呟いた。

 斜め向かいの壁に背を預けている恰幅の良いアライグマは、事の顛末を聞いた金熊の反応を当たり前のように受け止めた。

 乗降口付近に陣取る二人の周囲に人はいないが、それでもマミヤのサウンド・オブ・サイレンスによって音は屈折させられて

おり、通りかかる者が居ても聞こえないように処理されている。

「そいつが名の知れた二等潜霧士だったなら、判らねぇでもねぇんだが…」

 さして腕も良くない潜霧士が、地図士を殺害してデータを奪う事が可能なのかと疑問に思うユージンに、マミヤは告げる。

「ユージン君。おおよそどんな危険生物でも、機械人形でも、腕利きの潜霧士でも、例えステージ9の獣人でも、君を殺す事は

非常に困難で、殺害に成功する確率は極めて低いだろう。だが、タケミ君であれば話は別だ。とりあえず君が刺された程度で死

ぬかどうかはこの際置いておくとして、一般人なら致命傷になるほどの傷を、タケミ君なら君に負わせられるだろう」

「む…」

 ユージンは唸る。マミヤの言わんとしている事は理解でき、そして正しいと判る。

 タケミにそうする理由は無いが、不意打ちはできる。これは強さ弱さの問題ではなく成立する。

 例えばタケミに後ろから包丁などで刺されるような事態に対し、ユージンは全く備えていないのである。朝食の支度の最中に

顔を見に行き、背中を向けた途端に後ろから刺されれば、おそらく反応もできない。力場の防御も常時発生している物ではない

し、何よりタケミに襲われる事を想定もしていない。信用や信頼を通り越して、無条件に可能性を排除している。「そんな事は

あり得ない」と。

 そしてこれはアルにも言える。基本的に不慮の事態に対応する気構えが頭の隅に常駐しているシロクマですら、タケミに背後

から奇襲されれば成す術もない。殺される理由が思いつかない相手に対し、ユージンだろうとアルだろうと、備えるどころか可

能性を考慮できない。如何に腕が立とうが、頑丈だろうが、反応が良かろうが、思考よりも深い位置で除外している可能性につ

いては対処し切れない。

「殺された地図士も同じだっただろう。負傷した四等潜霧士が助けを求め、地上へ連れ帰る途中の事。自分一人では生還も見込

めず、地図士の保護が命綱の状況で、まさかそんな愚かしい行為に走るとは思いもしなかっただろうな」

「そこも解せねぇんだがな…。何でそんな真似を…。冷静に考えりゃあ、自分の首を絞める行為だと判るだろう?道中の危険性

は勿論、よしんば生きて帰れた所で先の見通しは最悪だ。俵一家に拾われて取引できなかったら、すぐに足がついてお縄になっ

てただろう」

「ユージン君。善悪と賢愚と有能無能は、いずれも切り離して考えるべきだぞ?人を過大評価し過ぎるのは君の悪い癖だ。個体

差はあるが人という生き物は、常に合理的に考え、適切な判断を下す者ばかりではない。それこそ追い詰められれば何をするか

判った物ではないし、客観視すれば明らかに愚かな行為でも正しいと思い込んで働き、明確な過ちに自分でも気付かずに突き進

んでしまう事もある。今回の彼は、まぁ…」

 アライグマは下らないと言いたげな様子で半眼になった。こういう「つまらない物を見た」時の表情は長男のレッサーパンダ

そっくりである。

「行き当たりばったりだ。たまたまと偶然と悪運が重なって、深く考えもせずに選択し、自滅に向かって駆け抜けた。ただそれ

だけの事さ。ああいう手合いは長生きしても周りを不幸にする。彼のせいで命を落としたマッパーズのようにだ。さっぱり片付

いて良かったと言えるな」

 その声には嘲りも無ければ冷たさも無い。雨が降って来る前にゴミ出しを済ませておいて良かったというような、何でもない

響きである。

「…もう片付いたような口ぶりだな。ええ?」

「片付いたさ。あれだけの暗殺者から逃れられるだけの悪運は、流石に残っていないだろう」

 ユージンはそれ以上問わなかった。マミヤがそうまで言うならば、「配達人」は仕事を完璧に遣り遂げるのだろう、と。

「人間に愛想を尽かしそうかね?」

「まさか」

 短く応じたユージンは無表情だった。声音からも顔色からも、何を思っているのかマミヤですら推し量れない。

「さて、この場での話はここまでにしておこう。お宅にお邪魔してから掘り下げるとして…」

 アライグマは窓を見遣る。トンネルの暗がりに彩られたドアの窓には、自分達の顔がはっきりと映り込んでいた。

「ヘイジ君にも話しておくべきだと、私は思うがね?」

「判った。アイツにも知っておいて貰う方が良いな…」

 

「一応、同僚の計画だったんやろ。邪魔して問題無かったんかマジラさん?」

 壁に背を預けて呟く狼に、デスクについている灰色の髪の中年が「問題無いように進めなければいけなかったがね」と応じる。

 沼津の海岸線沿いに建つ瀟洒な洋館。斜陽が差し込むテラスに面した、壁の色も清潔で白く明るい部屋で、男達は薫り高い紅

茶を味わっていた。

「彼らは組織内でも武闘派だが、力押しで解決する事ばかりではない。俵一家と傘下組織、そしてその周辺を丸ごと敵に回すの

は下策だ。何せ傘下にすら君のような腕利きが混じっているくらいだからね」

 部屋に入る斜光を避けるように、影になる位置で立ったまま紅茶を啜る狼は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。持ち上げられても

嬉しくない。

「まぁ、強硬手段を取りたくなる気持ちは判る。何せ彼らは字伏と密約を交わしているからね。派遣された戦力も使えるとなれ

ば勘違いで自信もつくだろう」

「…何やと?」

 狼が鋭い視線を向ける。

「組織に「字伏」が協力しとるんか?」

「正確には当主代行とその一派が、だよ。分家筋から腕利きの者を借りているそうだ。ついでに言うと協力関係というよりも利

用し合っているビジネスライクな付き合いだろうね」

「つまり当主側…月乞い達は知らへんのか?」

「字伏常夜が知っていたら、そんな勝手は許していないさ。皮肉なものだ。最前線に立って一族郎党を守る当主が、実は銃後の

護りに裏切られているのだから」

 灰色の男はティーカップで細波立つ紅茶を見つめた。南エリア特産の、絶品ではあるが「本土」では忌避される良質な茶葉で

淹れられた紅茶を。

「…で、見られてまずい情報自体は回収できへんかったて話やったな」

「痛いけれども仕方ない。彼は匿って貰う交換条件として、俵一家に情報媒体を譲り渡したはずだ。傍から見ていると最初から

そうなる事も予測できていたからね。陽動まで用いての目撃者暗殺計画は、いたずらに騒ぎを大きくするだけだった。もし今回

土肥に大きな被害が出ていたら、俵一家も本腰を入れて動いただろう。そうなるといささか困る」

 何に困るのだ?と狼が目で問うと、マジラは首を縮めた。

「先にも言ったように、彼らは字伏の手練れを派遣されている事で気が大きくなっている。自分達に力があると勘違いしてね。

だから俵一家と周辺勢力が動いた際に、勝てると踏んで表立った抗争を計画する可能性が高い。ついでに言うと、組織の潜伏し

ながらの長年の活動が水泡に帰す可能性も高い。…それでは誰も幸せにならない」

 これには狼も納得した。狼達は男の私兵に近い立場で、組織の全体図は判らないが、いかに強大であろうとも土肥の大親分と

その勢力を敵に回したらただでは済まない。まして存在を秘匿しながら立ち回るのは難しいだろう。

「一家と事を構えるよりかはマシやったて事か」

「重ね重ね痛手だが、ね。我々が機械人形を素材にして装備や器具を調達していた事は勘付かれるだろう。それにしても「収穫

現場」を見られるとは不用心過ぎだな。幹部会でも軽挙が問題視されるだろう」

 正規のルートから仕入れれば足が付くはずのレリック類を、組織が所有している理由がこれ、ジオフロント内で調達した部品

や素材からの自己生産である。しかし今後は不審な現場に注意するよう潜霧士達に通達が行われる可能性が高く、素材の確保は

以前と比べて容易ではなくなってしまうかもしれない。

「今後やり難くなるて事は判ったわ。損害やな」

「理解が早くて助かるよ」

「それで、ポカした連中の上司は左遷かい?」

「幹部だからそれは無いよ。他の幹部連中からは嫌というほど嫌味を言われるだろうが、字伏とパイプを作った実績がある。そ

こに胡坐をかいている精神は余裕だろうね」

「動き難くなるて訊いた直後で何やけどな、地殻変動の調査はどないするつもりや?」

 狼の問いでマジラは手を止める。そしてカップに残った紅茶を見つめながら静かに呟いた。

「そろそろ大規模地殻変動が予想される時期だ。大揺れが来るまでは様子を見ておこう。どれほどの規模になるかまでは判らな

いから、危険は避けたい」

「了解」

 狼は紅茶を飲み干すと、テーブルにカップを置き、男の脇を抜けてドアに向かう。

「ああ、そうやった。マジラはん、「配達人」は手駒にする気が無いんか?ワシらのように」

「それは難しいと判断したよ」

 マジラはまた肩を竦める。

「依頼は何度かしたし、どんな人物か確認したくて張り込ませもしたんだがね。一度もその姿を見せていない。報酬の振り込み

もネット上の架空口座でのやり取りで、品物の受け渡しでも姿を確認できなかった。密室に置いた現金入りのスーツケースが忽

然と消えて、領収書が置いてあったんだよ。ホラーだろう?物理的にも情報的にも正体に迫る事が全くできなかったんだ。あれ

は、手に負えないな」

「そういう異能なんか?」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。何とも言えない不可解さだ」

 異能の正体が判っていない事を確認すると、狼は部屋を出て行った。残された男はカップをテーブルに置き、視線を天井に向

ける。

(通話の音声もリアルタイムで加工され、解析しても地声が判明しなかった…。腕が立つ掃除屋であると同時に優れた技術者で

もあるのか、まったくもって正体が判らないな…。判っているのは、そう…)

 男は目つきを鋭くする。狼達も見た事が無い、苛立ちが隠し切れない不快の表情だった。

(求める情報から察するに、彼が政府関係機関の犠牲者ということ程度だ)

 席を立ち、窓辺に立つ。

 ガラス越しの景色は霧でうっすら白く、聳えるグレートウォールが彼方に見えた。

「度し難い。人間の浅ましさ、そして愚かさにはほとほと愛想が尽きる…。君はまだ違うのかな、ユージン…」


 マットブラックのドッシリしたバイクが、荒々しい大型獣の呼気を思わせる音で排気する。コンクリートの壁に反響する重低

音は、うるさくはないが腹に響いた。

 泊りがけで祭りを楽しんだ客も大半がはけて、空きスペースが目立つようになった地下駐車場。黒い重厚なマシンに跨る乗り

手もまた黒ずくめ。黒い合成皮革のライダースーツを着込み、黒いグローブとブーツで手足を覆ったライダーは、大型バイクに

負けない偉容の巨漢。ハーフメットを被り、ゴーグルを装着しクロコダイル系の獣人である。

 エンジンが発する重低音の鼓動でボディを震わせているのは、各所の流線形が美しい大型バイク…ビッグスクーター型の車両

をベースにしたカスタムバイク。乗り手の巨体に合わせてフレーム延長や補強、排気量と車載重量の増強などが施されたワンオ

フのカスタムメイドで、巨漢のイズミでも騎乗姿勢に似た体勢でゆったり座れる。幅広い尻がはみ出さずに収まる特注シートは

一応タンデム仕様なのだが、そこは二人乗りのためではなく、太くて長い尻尾を乗せるためのスペースになっていた。

 いつでも発進できるアイドリング状態で懐中時計を見つめているイズミだが、すぐに動き出す気配は無い。懐中時計から発信

された情報がゴーグルレンズの内側に投影されており、それをじっくり確かめている。

 それは、先ほど仕事の完了報告を行なった相手…依頼主から届いたばかりの、報酬に関するメッセージだった。

(…報酬は振込済み。オマケの資料も送信してある、と…。オレにはオマケの方が本命だけどな…)

 でなければ「組織」の仕事など受けなかった。

 喉から手が出るほど欲しいその情報のためなら、イズミは何処へでも配達に向かう。自分を罵る言葉が出尽くして、食欲が失

せ、吐き気がして、歩くのが億劫になるほどの倦怠感に苛まれても。

「…ステラ。カメラ大丈夫か?」

 喉の奥で唸るような低い声はエンジン音に消されて周囲に響かないが、即座に懐中時計がゴーグルレンズの内側にメッセージ

を表示させた。

―全て問題なし。上手く祭り観光を楽しむ客に成り済ませているよ―

 イズミは口の端に苦笑を乗せる。

 祭りで彩り豊かになった土肥の街並みで、イズミは様々な所のカメラに姿を映されていた。露店の食べ物を物色し、土産物の

干物類を眺め、ダメ元で射的に挑んで残念賞を貰い、ストリートパフォーマンスに拍手し、たい焼きを味わい、焼き鳥を食い、

フィギュアやホビーが並ぶ出店を覗いた。

 だが、祭り中の土肥で起こった各事件現場付近のカメラにはイズミの姿は録画されていない。あえて姿をさらした場所とは対

照的に、捜査線上に浮上する確率が上がる箇所ではカメラに一切映らないよう行動していた。

 祭りを楽しむのはカモフラージュのため。それ以上の意味は無い。

 無い、のだが…。

(できる事なら、もうちょっとぐらい楽しみたかったけどなー…。普通に…)

 ほんの僅かだが楽しく嬉しい事はあった。

 偶然二度も顔を合わせた色白のぽっちゃりした少年には驚かされた。どこかオドオドした様子が気になって、護ってやりたく

なるような子。大人しいを通り越して控え目な所が、保護欲をくすぐってくる。

 そしてその連れのムックリしたシロクマが、ネット上で時々やり取りしていた相手だと知ってさらに驚いた。向けられる真っ

すぐな喜びが、眩しくて嬉しかった。触れてみたくなる愛らしさにクラっときた。

 帰ったら約束通り、本人である証拠に投稿サイトからメッセージでアドレスを送ろうと考え…。

(はっ…!ド底辺のド最低な殺人鬼が、人並みに趣味もって楽しんで、人並みに同好の士と知り合えて喜ぶとか、悪趣味過ぎる

笑い話だぜ)

 口の端の苦笑が自嘲に変わる。喜んでくれたシロクマが自分の正体を知ったらどれほど落胆するか、想像するだけで胸が痛ん

で罪悪感を覚え、偽る自分に怒りを感じる。

(ああ、でも…。しなくちゃな、それでも…。人として生きる、楽しむ、笑う、それが…、オレに望まれた、オレに託された、

オレがしなくちゃいけない事なんだから…。せめて目的を果たすまでは…。「あいつ」を見つけ出して殺すまでは…)

 イズミの目的は唯一つ。

 自分がこんな生き物になった原因…長年追い求める、顔も知らない者への復讐である。

 記憶にあるのは声だけ。

 幼い頃。朦朧とした意識の中、寝台の上で聞いた声。

 

                 「オリジン」を確保できれば
                 こんなにも慎重に実験する必要は無いものを

 

 激しかった頭痛は鈍痛に変わり、耳鳴りも動悸も激しいのに泣き叫ぶ気力もない。乳歯が生え変わる時のような痛みとむず痒

さが全身を苛み、何かを注射された左胸の鎖骨付近はジクジクと焼けるように沁みる。

 はっきり見えないが顔が変形している気がする。明るい天井に向かって顔の下半分が伸びている気がする。それはもう鼻とは

呼べない、上あごと下あごが変じた部位。

 尾てい骨の辺りに感じていた疼きは、激痛を通り越して腰の感覚が無くなってからは消えているが、自分の体が今どんな有様

になっているのかは分からない。

 

                                          30分経過…


              獣化進行は早いな

                               良いぞI27号
                                  多少の出血はあるがさほど自壊していない

     他よりも期待が持てそうだ

 

 熱いのに寒い。震えが止まらない。無影灯の眩しい光が痛む目の奥を焼く。

 動悸がおさまってきた。鼓動が弱まってきた。呼吸の音が静かになってきた。何かを注射された左胸だけが熱かった。

 

              ん… 


                      接種箇所から鬱血が始まった


                                         ああ 

      バイタルも低下している…


                                        「これ」も駄目だったか 

 

 自分は死ぬのか。

 隣の部屋の子が戻ってこなかったように。向かいの部屋の子が居なくなったように。自分も部屋に戻れないのかもしれない。

 自分は死ぬのか。

 何故親は自分を売ったのだろう。自分は何をされているのだろう。

 自分は、何だったのだろう。

 喪失感と切ないほどの寂しさ。視界を滲ませる涙が、痛みと苦しさによる物なのか、捨てられた哀しさのためなのか、もう自

分でも判らない。

 

           I27号も不適

                      いつものように心停止まではモニターし

 済んだら標本措置


                                  なり損ないでも科学の進歩の礎にはなれる

                    無駄など一つもない

 

 …あの声だけは覚えている。何年経っても忘れず、今もはっきりと。

 思い出すたびに腹の底でドロリと熱が揺れる。たゆたう憎悪が行き場を求めてのたうち回る。

 あの声の主を殺す。

 自分から大切な物を奪ったあの声の主を殺す。

 イズミはそれを目的に生きてきた。手がかりも無い復讐対象に辿り着くために、情報を求めて裏の業界に身を沈めた。

 黒々と濁った瞳に過去を見るイズミの眼前で、フッと、ゴーグル内に表示されているメッセージが書き換わった。まるで意識

の切り替えを促すように。

―イズミ。水分と活動のためのエネルギー補給は充分だけれど、しっかりした食事を摂っていない。今夜からは努めてでも平常

に戻す事を提案するよ―

「OK。…じゃあピザでも買って帰るかー!うははははは!」

 陽気に笑ったクロコダイルの瞳からは陰りが消えて、ゴーグル内の表示は交通情報込みの市販ナビゲーションシステムの映像

に変化する。

 そして配達人は熱海へ戻る。日常へ、塒へと、観光を終えた一般人として。