第四十八話 「昏いしじまにたゆたう漣」
「またのお越しを」
目を細めて微笑む隻腕のゴールデンレトリーバーに、ぽってり太った若い狸がコクリと頷く。
土肥の高級宿から外に出ず直通できる、個室のように隔離された最上級客用の地下駐車場で、ボディガードが四方を固める黒
塗りのリムジンは、狸が乗り込むのをアイドリングして待ち構えていた。
浴衣姿のレトリーバーに対し、狸の方は小ざっぱりしたブレザー姿。プライベートな旅程から立て続けに入っているのは十役
会議。大財閥の役員としての仕事が分刻みで待っている。
「作業機におかしな点があったら、すぐに連絡を下さい」
「大丈夫ですよ。ツヅミヤ製のシステム周りに不具合が出たってケースはゼロです」
心配する狸に柔らかく笑みを返すキンジロウ。安心感と、ちょっとした罪悪感がその胸にある。
狸の御曹司が自分に寄せる好意を、キンジロウは自覚している。それ故に卸して貰った作業機もまた特別丁寧に仕上げられて、
要求以上のスペックと精度を有している。
個人的な繋がりとはいえ、大財閥の御曹司とのパイプはそれだけで「力」である。寄せられる好意を有意義に利用するのは、
対価は当たり前に支払っていても多少後ろめたかった。
(そんな若くもないってのに、今更おセンチになるなって…)
狸が後部座席に乗り込む。ボディガードがドアを閉める。生きる世界が違うのだという事を、理解してくれない狸が窓の向こ
うで軽く会釈する。
「じゃ」
目を細めて軽く手を上げるキンジロウを残し、リムジンがゆっくりスタートする。
重々しい鋼鉄のゲートが開き、出車したリムジンが姿を消すと、キンジロウは残響に耳を澄ませるように目を閉じた。
恋愛感情に近い物は持っている。が、それは他の常連客よりも少し上のお得意様という特別感や、世間知らず故に放っておけ
ないという保護者感が混じった物。そして素直な恋愛に発展するには、お互いの価値観や立場が違い過ぎた。
キンジロウは、自分はここでしか生きられないと思っている。
生まれ育った土肥から離れられない。一線を退いた今でもこの街から離れられない。そこには大穴への未練や、決着を見ずに
降りてしまう事への忌避観もあるのだが、他所に稼ぎ口が見つからない瑕物仲間達の中、自分だけが身の丈に合わない幸せに身
を委ねるのは筋が通らないという、苦楽を共にしてきた仲間達への配慮もある。
やがて、レトリーバーは目を開けてため息をつき、浴衣の袖から携帯端末を取り出した。見送りが済むまでと一度は無視した
着信の履歴が、小さなランプを点滅させている。
「…キンジロウです。済みません、取り込み中でした」
『おう、悪がった』
声の主は年配の月ノ輪熊、板津甚吉。
『大親分がら連絡行ったが?』
「ええ、熱海の大将の所の若手を、運搬試験運用に加えるって話ですね」
先にメッセージを読んでいたキンジロウは、土肥遠征してきた神代潜霧捜索所の面々を思い出す。
話に聞いていた「ジオフロントの生還者」…シロクマの方は、基本的にお目が高い黒豚が珍しく賞賛する腕前と、分かり易く
ダメ出しされていた潜霧知識の無さで印象に残っている。
一方、同行する事になる少年については、キンジロウ自身がユージンに託され、重傷のヘイジと共に護送したので面識がある。
それほど会話した訳ではないが、気が弱そうに見える一方で…。
(おかしい実績なんだよなー…)
ヘイジと共闘する形ではあったが、初遭遇で機械人形を撃退してのけた。それも異能持ちでも、獣人でもなく、「人間」が。
懇意にしている河馬の刀利きからも評価を聞いたが、剣術に関しては天賦の才以上の何かがあると、太鼓判を押していた。
訓練を兼ねての土肥ダイブでは、大親分とツーマンセルを組まされていた。接待などではない。ついて行けない水準ならばそ
もそもハヤタとは組めないので、この点からも地力の高さが覗える。
何より、四等昇格試験で起きた事件…大量の土蜘蛛が湧いた時には、トラマルの助力があったとはいえ応戦し、切り抜けた。
「…滅茶苦茶期待株。預かるこっちの責任重大じゃんか…」
『ボヤぐなって。熱海の大将が寄越すんだがら、お墨付きの潜霧士って考えでいい』
「そりゃ判りますけどねぇ」
『乗り分げの編成練り直すがら、時間つくってけろ。…んあっ!』
「どうしました!?」
突然ジンキチが高い声を発したので驚いたキンジロウだったが、
『ん…だ、だいじょぶだ…!今マッサージして貰ってでな?足の指が、あっ!』
事情を聞いて、無理もないなと苦笑いする。祭りの下準備などでも働いて、今度は新型作業機を用いた運送路テストのダイブ
となれば、引退した古株はコンディションを整える必要があるのだろうと察しはついた。
「湯屋に戻って空き時間確認したらメールしますよ。では、ごゆっくり」
通話を切り上げたキンジロウは、ニヤニヤしながら呟いた。
「先生もそろそろ良い人でも見つけりゃ良いだろうに。いつでも一緒の専属マッサージだ。安くない金払って頻繁に予約入れる
より、よほど手間もかからないってもんだろうにさ。ついでにアッチもマッサージして貰えりゃ万々歳でしょ」
もしジンキチに聞かれていたら熨斗をつけて返されるようなセリフである。
(さて、気持ち切り替えてこうか)
地下駐車場から湯屋へ戻る階段と地下通路へ向かいながら、ゴールデンレトリーバーは少し名残惜しそうな顔をした。
祭りの終わりはいつもこんな気分。楽しい記憶とうら寂しい感覚、切っても切れない表裏の一枚板。
そして、祭り気分など毛ほども味わえなかったドーベルマンの刑事は…、
(手がかりらしい手掛かりはない…。そもそもこれはどういう状況なんだ…?)
斜めに崩した姿勢が悪い座り方でデスクにつき、薄型モニターを睨んでいる。
そこは伊豆圏警土肥署の資料閲覧室。極秘資料を来庁者や事件担当者以外に見られないよう、四つ固まったデスクごと、ある
いは単独のデスクごとにパーテーションで区切られており、構造だけならネットカフェのようにも見える。圏警は各地区専属で
仕事に当たるとは限らないため、自分のデスクがないエリアでは、この共用ブースを仕事場代わりにする。
ドーベルマンはその中のデスク四つが纏まったブースに詰めて、調査資料を再チェックしていた。
土肥の各所で起きた連続殺人事件は、その被害者全員がテロリストかそれに類する者である事が、状況的に明らかになった。
偶発的とは思えないので被害者であると同時に加害未遂者達は同じ一味という仮定で調査しているものの、いずれも身元不明
でそれぞれを結び付ける物が無い。
(「インビンジブル」はガイシャ連中を標的にした…?非合法組織の小競り合いって事なのか?それとも誰かがテロを防ぐため
に「インビジブル」を雇ったのか?)
そこまで考えたドーベルマンの頭に、大猪の顔が思い浮かぶ。
(…いや、違うか…。テロを事前に察して「インビジブル」を雇ったなら、俵一家自体がもっと効率的な対処や配置をしていた
はず。テロ計画についてはあの猪も知らなかったって事だろう)
俵一家が菅山録を匿っていたという情報を得られていない以上、圏警が真相にたどり着く事はできない。最重要情報が抜けて
いるが故に推理し切れないドーベルマンは、資料としばしにらめっこしていたが、ふとモニターの時刻表示に目を止めた。
(遅いなアイツ…)
夜食と飲み物を買ってくると言って席を外した後輩は、出て行ってから20分も経つのに戻って来ていなかった。
「今回の情報提供料です」
厚みのある封筒が差し出されると、ぽってりした手でそれを受け取った太ったソマリは、舌なめずりしながら中を覗いた。
「まいど…!また役立ちそうな情報があったら渡すよ」
人の好さそうな顔に隠しきれない欲の色を浮かべたソマリに、「是非、お願いします」と社交用の笑顔で応じたのは、ビント
ロングの半獣人。
ソマリは土肥の旅行客に一般的な薄手のティーシャツとハーフパンツに着替えており、ナガオも俵一家の服装や浴衣ではなく、
半袖ポロシャツにクリーム色の綿パンというラフな格好。コンビニの駐車場前だがカメラに映らない死角のポイントで、違法取
引とは思えない軽さで、その辺りに居る一般人の装いで、情報料の受け渡しは行われていた。
「アナタから提供される情報の質には、上の者も満足しています。今後もお互いに良い関係を続けていけるよう、こっちも望ん
でますよ」
ナガオはこのソマリから警察関係者筋の情報を得ている。また、ちょっとした内部工作や撹乱、時間稼ぎなどを頼む事もある。
「そりゃ勿論…!」
少しの後ろめたさと大金が手に入った嬉しさが入り混じった笑みを、ソマリは浮かべていた。
悪党とは言い切れず、正義感もそれなりに持ち合わせ、しかし金遣いが荒くていつも金欠で、誰の迷惑にもならない違反なら
問題ないだろうと考える、模範的とはちょっと言えない警官…。そんなソマリは、ナガオにとって求める条件に合致した情報提
供者であった。
「じゃ、戻るんで今日はこれで…」
「お疲れ様です。何か追加で判ったら、その情報も買い取りますんでよろしく」
夜のしじまをヴェールに纏い、にこやかに見送るナガオと、軽く手を上げて去るソマリ。離れたところから見れば、ふたりは
挨拶を交わして別れる親しい知り合いにしか見えない。
(さて、帰って休むかね…。流石に今夜はもう何もないだろうし…)
ナガオはちらりとコンビニを見遣り、
(生真面目過ぎなブタさんに、ミルクたっぷりのコーヒーゼリーと特濃牛乳でも買ってってやろうか!)
「念のため」と称して俵一家本部の詰め所に待機しているムラマツの事を思い出すと、差し入れを買うために立ち寄った。
「戻りました!」
「遅かったな。居眠りでもしていたなら、ミスする前に仮眠を取れよ」
ブースに戻ったソマリは、モニターから目も離さずに応じたドーベルマンの隣のデスクに幅広い尻を落ち着けつつ、ガサガサ
と袋を鳴らして冷たいコーヒーを取り出す。
「大丈夫ですよ。はい先輩の分」
「頼んでいないぞ?」
チラリと横目を向けたドーベルマンに、ソマリは「自分の分だけって、結構強メンタルじゃないと無理ですよ?」と苦笑い。
「じゃあ遠慮なく貰う。ありがとな」
自分の好みではない、だいぶ糖分が入った甘い缶コーヒーを、文句も言わず一口啜るドーベルマンは、隣で開封されたタラコ
マヨネーズスパゲッティの濃い香りと、それを啜る盛大な音に軽く顔を顰めた。
「やはり、警部が言う「俵一家が「イビジブル」に依頼した」という線は無いだろうな」
ドーベルマンが口にした単語で心臓が軽く跳ねたが、ソマリは平静を装ってパスタをゾルゾル啜りながら「でふよへ~」と応
じ、ビントロングの半獣人の言葉を思い出す。
「有能な方だと上も評価してますよ。我々も別に治安の悪化を望んでる訳ではないんで、優秀な刑事サンには元気に頑張って頂
きたい。お互い邪魔にならないように気を付けながら…、ね」
(先輩は大丈夫…。大丈夫だ…)
ソマリは自分に言い聞かせる。そんなに悪い事はしていない、自分がしている事で先輩に危害が及ぶ事はない、と。
「万里川(まりかわ)」
「ふぁい!?」
突然呼ばれたソマリは、噛むのも忘れていたパスタが口いっぱいに詰まったまま、自分に注がれる視線に気付いて返事をする。
ドーベルマンがじっと、横から怪訝そうに顔を覗いていた。
「フォークが止まってるぞ?疲れてるなら休め。「食わない奴、休まない奴は役に立たない」ってな。…ま、お前はちゃんと食
うが。って言うか少し痩せろ。いくら肥満や高血圧や生活習慣病一式がほぼ無視できる獣人だからって、持て余すほどの体重は
疲れの元だ」
ぶっきらぼうに気遣うドーベルマン。先輩が自分に向ける裏の無い気遣いで、ソマリの胸がチクリと痛む。
「平気ですってば!さ、頑張りましょう!…あと太ってんのも得なんですよ?婦警にモテます」
「それは男としてじゃなくマスコットかユルキャラの一種としてだ。図に乗るな」
「へ~い…」
一方、熱海では…。
「急にお邪魔したのに、こんな豪勢に持て成して貰って済まないね。相変わらずプロと張り合えるレベルだ」
「い、いえ…!」
神代潜霧捜索所…つまり神代家邸宅。ソファーについて目を細めるアライグマの称賛に、少年は手にしたお盆で顔の下半分を
隠しながら赤面した。怖がって隠れたがっているのではなく、今回は恥ずかしがっているだけである。
マミヤとユージンの付き合いは長い。マミヤは神代潜霧捜索所が会計周りを委託している相手で、潜霧士となってからのタケ
ミにとっては、ちょくちょく訪れる会計方の先生という印象の相手。加えて言うなら親子揃って知り合いである。
マミヤの息子であるナミは、タケミの生体データ解析を受け持った政府直轄の極秘研究チームの一員で、タケミもアルも小学
生の頃から体を診て貰っており、もう7年来の関係である。
基本的に幼馴染の猪と未だに昏睡中の弟以外にはあまり友好的ではないレッサーパンダだが、少年達には一定の配慮を見せて
おり、同僚に対するよりもよほど親切な対応をしている。端的に言うと父親やユージンとやり取りする数倍は丁寧に。アルは当
たり前に懐いているし、タケミも慣れているのでナミに診療される事を嫌がらない。
だからというのもあるが、人見知りが酷いタケミも、マミヤとナミを過剰に恐れる事は無い。自分の真実を知っている相手で
あり、それで態度が変わる事もなかったので、一定の安心感がある。「自分達のような道徳観に欠ける危険極まりない存在こそ
怖がるべきだろうに、タケミ君は大物だな」とはマミヤの言だが。
料理の続きにキッチンへ戻るタケミの、薄手のシャツとハーフパンツ越しにも判る肉付きを確認したマミヤは、「…タケミ君、
また少し太ったかね?」と向かいに座っているユージンへ小声で囁く。
「言ってやるなよ先生?本人は気にしとる」
「男の子は丸いぐらいで丁度いい」
「それは個人の見解だろう?」
「少なくはない数が賛同する見解だと思うがね」
マミヤの目はテーブルに並んだ夕食を見つめる。出汁を取れる伊勢海老の焼いた殻、干し鮑、山葵などの土肥の土産物を使っ
た料理は、本格的に調理の勉強をしたことが無い少年が作ったとは思えない出来栄え。
絶妙なタイミングで粗熱を取った、フワフワトロトロの出汁巻き卵。スライスした鶏のササミとモッツァレラチーズのバジル
ソースがけ。そして酒の肴にとユージンが奮発して買った干し鮑を使った炊き込みご飯。
帰りに熱海の市場直営店で買った御造りは新鮮で、土肥の山葵が良く合う。鯛と鮑と雲丹のせいで他の鮮魚の切り身が霞んで
しまう豪華さ。そして…。
「味噌汁っス~!」
アルが運んできたのは、伊勢海老の殻で出汁を取った味噌汁。土肥で売られている伊勢海老の殻を高熱の鉄板で挟んで薄い板
状に焼き上げた品は、煮るだけで伊勢海老の風味が出る隠れた人気商品。香りと風味を活かす為、具材は少量のワカメと刻みネ
ギのみ。
「アル君も料理をするようになったのか?」
「最近っス。でも手伝うだけっス。てか火の番くらいしかできないっス。エヘン!ホメテ!」
「偉い」
「ィエスッ!」
褒めておくアライグマと、ガッツポーズするシロクマ。
南エリアでパスタ料理を月乞いのメンバーに振舞った時から、アルは茹でる物や煮る物の火の番をするようになっていた。ま
だ加減は判らないし自分だけでは何も作れないが、ゆくゆくはパスタなどを茹でたりスープを作ったりと、一品くらいは手伝え
たら良いなと思っている。
いつもの職員メンバーにマミヤを加えた夕食は、ユージンが取り寄せておいた本土の生酒も出て、大人達にとっても豪勢な物
になった。
酔っぱらう程ではないがアルコールも入って表情が明るい三名と、旅行の感想を反芻して話す少年達の夕餉は、ゆっくり楽し
みながら八時まで続き、やがて大人達を残して少年達が一番風呂に向かう。大人たちは晩酌が夜遅くまで続くので、少年達はそ
のまま自室へ引き上げて休む事になるが…。
「さて、大事な話もありますでしょ。ワイも外しましょか」
タケミとアルが二階へ上がって行ったのを確認すると、ヘイジは空いた皿をキッチンに下げてからそう言った。金熊とアライ
グマが、自分が触れて良いとは限らない話をする予定だと察して。しかし…。
「いやヘイジ、ヌシも居てくれ」
日本酒の瓶を持ち上げて軽く揺すり、覗き込んで中身の残りを確認しながらユージンが引き留める。マミヤもまた深く頷いて、
ヘイジが席に戻ると…。
「ユージン君に万が一の事があった時、ここの総責任者は君になる。タケミ君の事もそうだったが、ヘイジ君には、我々が大っ
ぴらにしていない事柄もなるべく共有しておいて貰った方が良い。特に…」
マミヤは右手を上げ、パチンと指を鳴らす。異能の屈折作用により、三人の周囲で音が閉ざされた。
「喫緊の話としては、まず「ステージ9」について」
「………」
座り直した狸は瞼を半分降ろし、マミヤを、そしてユージンを、順番に見た。
「今…。ステージ…「9」ておっしゃいました?」
金熊が顎を引く。
「つまりそれは…、因子汚染の最大値…、ステージ8より先があるて事です?」
「先ではないよ、ヘイジ君」
マミヤが再び指を鳴らすと、三名の周囲が真っ暗になった。
夜の闇とも違う、灯りの無い部屋とも違う、光が一切無い暗闇が部屋を満たす。天井、壁面のパネル、テレビの画面、ありと
あらゆる光源からの光が三人の所まで到達できない。
屈折されているのは光と音だけではない。熱が屈折され、電波が屈折され、大気の振動その物すら屈折され、三人の周囲であ
らゆる物が外界から遮断される。
「先ではなく「上」だ。因子汚染の終着点…「これ以上の変化はない」というステージ8は、「人間を安心させるための方便」
に過ぎない。結局はまだ人の範疇にあると、人類の内にあると、そうとでも思わせなければ…人間は到底それを受け入れられな
い。何故ならば…」
あらゆる感覚が消失するような、上下左右の方向感覚すら見失いそうな、真の闇の中でヘイジはゴクリと唾を飲み込む。自分
が信じてきた知識と常識と価値観が崩れて行きそうな、自分を囲む全てが曖昧で頼りない砂上の楼閣に変じたような、不安感と
焦りがある。
自身がその異能に精通している訳でなくとも、ヘイジほど深く異能と付き合ってくれば感覚で判る。
今マミヤが行っている「屈折」は、多種多様な波長、線などをそれぞれの方法で屈折させ、機械のような正確さと精密さで維
持し、ぶれさせない事で維持されている。それは、音の波長や光の粒子などを一つ残らず異能の支配下に置いて干渉しなければ
不可能だった。
そんな真似をしたら、「ひとの脳であれば」負荷で焼き切れる。
「ステージ9は人から逸脱した生命。人間を越えた「人域の超越者」だからだ」
突然ふっと灯りが戻り、眩しさに瞬きしたヘイジはユージンとマミヤが変わらず座ったままでいる事を確認し、軽く安堵した。
真っ暗な宇宙の彼方に放り出されたような感覚は、三秒ほどとはいえ酷く恐ろしい物だった。
「私は「異能特化型」のステージ9でね。制限を解除すれば「三秒間」限定だが、この程度の屈折処理を纏めて行なえるように
なる。それなりの質量や運動エネルギーがある物まで屈折させるなら、範囲や対象を絞らなければいけないがね。さて、憶えて
おいて貰いたい事は多岐に渡るが、そうだな。ステージ9が人の範疇に無い事をはっきり認識して貰うには、例を挙げるのが適
切だろう」
マミヤは御猪口に手を伸ばし、それを口元に運びながら言う。
「実はもう君は数名のステージ9と出会っている。私、字伏常夜、マダム・グラハルト、そして…」
アライグマは手にした杯越しに狸を見つめた。
「君が良く知る土肥の大親分。彼もまたステージ9だ」
ヘイジは、むしろその事実に驚かなかった。ああ、なるほどやで、という感想すら覚えたし、素直にステージ9なる物の異質
さを認識できた。
土肥の大親分ハヤタの「人の範疇から外れた」デタラメな身体性能や生命力については、重々理解している。「人域の超越者」
という言葉を耳にした今は、なるほど確かにあれこそは、と納得してしまう。
「ステージ8が末期やて、公的に説明されとる理由は…、「人間を安心させるための方便」ておっしゃいましたな?」
確認するヘイジに、マミヤが顎を引く。
「自分達よりも生物的に上位にある知的生命体の存在を受け入れられるほど、多くの人間は寛容ではない。自分達が劣っている
と思えば勝手に被害者面で自家中毒を起こす者は少なくない。四十年経ってなお異物と見られる獣人という存在ですら、「哀れ
な因子汚染被害者」「病に冒された成れの果て」とカテゴリーしなければ、差別から駆除まで一気に世論が動く可能性があった。
霧という恐ろしい物と結び付け、弱者という位置に据える事で排斥運動を封じた当時の政府の判断は順当な物だろう」
そんなマミヤの言葉でヘイジは唸る。優れている面を相殺するべく、弱者のカテゴリーに貶める事で排斥から守られた獣人…。
ならばステージ9…「人域の超越者」という概念は、人々に想像すらされてはいけない存在と言える。
「ああ、もう一つ。信用している証拠のついでに教えておこう」
マミヤは嫌な緊張感を味わっているヘイジに告げた。
「私の息子とその伴侶も、ステージ9だ」
狸は手元に視線を落として思う。ああ、これはもう抜けられないなと。
マミヤが何よりも大切な自分の身内について秘密を明かしたのは、弱みを晒すと同時に、ヘイジを縛りもする。信用という名
の枷が、全身と行動を雁字搦めにする。
「それで、どうも室長も我々も把握できていない、野放しのステージ9が居るらしい事が判った。問題が無ければ話す必要もな
かったが、今後どう転ぶか判らない以上、ヘイジ君にも気持ちの準備だけはしておいて欲しい。…私からはこんな所だな。ユー
ジン君から補足は無いかね?」
黙していた金熊は、マミヤから話を振られて「いや」と首を横に振った。
「儂から足して説明する事はねぇ。が、言い訳の一つや二つはさせて貰うか」
金熊がコバルトブルーの瞳を向けると、「結構ですわ」とヘイジは肩を竦めた。
「大将がワイに今まで黙っとったんは、重荷を背負わせたく無いて思ってはったからでしょ」
これにはマミヤが「その通りだ」と頷いた。
「ユージン君は他人の事を考え過ぎて合理性を失う事がある。ヘイジ君を信用していないからではなく、ヘイジ君に秘密を共有
させることでプレッシャーをかけてしまうと考えて、言い出せずにいただけだ」
「タケミはんの秘密を大親分と共有してへんかったて聞いた時も、そうなんやろなと感じましたわ。秘密主義やのうて、相手を
慮って気ぃ回してまう性分やから言えへんのやて」
この二人の言い草は多少チクチク来たようで、ユージンは居心地悪そうに耳を倒して口を引き結ぶ。一言も反論できない。
「確かにまぁ…、衝撃ですわ。正直なトコ、今も秘密の重さがだいぶキてます。けど、聞いておかへんとあかん内容やったて思
いますわ」
信頼が重い。信用が重い。おそらくは秘密を共有する事で逃げる事も裏切る事もできないようにするのがマミヤの狙いでもあ
るのだろう。だがそれ以上に、なるべくなら重圧を背負わせたくないと考えて、必要に迫られるまで黙っていたユージンの気持
ちがヘイジには堪えた。
狸は数秒目を閉じ、これまでの恩を思う。ユージンには借りがある。借りばかりがある。まだまだ何も返せておらず、借りは
大きく膨らむばかり。
(ま、抜けて縁切るつもりはハナからありまへんで。拾ってもろた、救ってもろた、でかい恩がぎょうさんあります)
パンと、肉付きのいい太腿を小気味良く叩いてヘイジは目を開けた。
「腹ぁ決まりましたわ。今聞いた話、一緒に抱えさして貰いましょ」
おや、とマミヤは軽く眉を上げた。
(これは…。評価を改めなければならないな)
受け容れられるまで少しかかると踏んでいたアライグマの予想よりも、ヘイジの覚悟はかなり早く決まった。そして腹を決め
たヘイジの眼差しからは、マミヤが評価修正の必要を感じるほどの強い意志が窺える。
それもそのはず、もともとヘイジは俵一家の若頭に見出され、大親分の傍に控えた男。肝の太さは折り紙付きである。
「そうか」
ユージンは口元に微笑を浮かべながら酒瓶を取って狸に向け、
「済まん。助かるぜ」
「何をおっしゃいますやら」
ヘイジは恐縮したように耳を倒し、苦笑いと共にお猪口を取って恭しく受ける。
それはまるで、固めの杯を交わしているようにも見えた。
が…。
「では早速で悪いが頭に情報を詰め込んで貰う。何せみだりにできる話でもないからな。まずステージ9の発生条件と種類につ
いてだ。私はさっき異能特化型と言ったが…」
雰囲気も情緒も空気も合理的行動の前には二の次。マミヤは息子同様そういう男である。
さっそく情報共有を始めようとするマミヤに、「ちょ、待って貰えまへん!?だいぶイッパイイッパイですわ!順番によろし
くです!」とヘイジがストップをかける。
「そうかね?君が養育している少年もステージ9になる可能性がある事については一刻も早く聞きたい件だと思ったが…」
「……………………………………………………はい?」
ヘイジが素っ頓狂な声を漏らすと、ユージンは無言のまま、何とも言えない複雑な顔で鼻の頭を掻いた。
「あ!」
突然の大声に、昇格試験に備えて参考資料を広げていたタケミの体がビクリと震えた。
風呂上がりパンツ一丁のシロクマが脇からくっついているベット上、俯せの少年の柔肌には音だけでなく声を発した振動まで
伝わっている。なお、冷房をガンガンにきかせて湿気を抑えてあるが、アルの肥え太った巨体から湿度と熱が染み出しているの
で、くっつかれているタケミは全然涼しくない。
「組み立てワニさんからアドレス来たっス!」
「あ。配達のお兄さ…イズミさんから?」
土肥の帰りから今まで、逐一投稿サイトを開いては自分のアカウント宛てのメッセージが来ていないか小まめにチェックして
いたアルは、巨体をモソモソ揺すりながら嬉しそうにアドレスを登録し、ついでに本人にしか表示されないサイト内メッセージ
で自分のアドレスも返信した。すると…。
『Howdy!』
間を置かず、イズミからテストメッセージが届いた。
「ふひーっ!わざわざ英語でメッセージくれたっス!っていうか挨拶!挨拶っ!「ハウディ~!」って、あの声で脳内再生され
るぅっ!」
憧れのモデラーと繋がれて、子供のように体を揺するアル。その振動で自らも揺すられながら「え?もう?良かったねアル君」
と応じたタケミは、こういう社交性や懐っこさは見習わないといけないなと、人生で何百回目か考えた。それが真似できないか
ら今も昔もタケミなのだが。
「嬉しさカンブリア的大爆発すぎ!」
「意味はともかくアル君のそういう語彙どこから来るの?」
「タマシイ!」
「そう…」
詳しく訊いたところで相手がアルなので答えは期待できない事が判り切っているタケミは普通に諦め、違う疑問を口にした。
「どうしてその場で直接アドレス交換しなかったんだろう?」
「あー、それっスけどね、たぶん本人証明っス」
「本人証明?」
「うス。投稿サイトのメッセージ機能から連絡が来たら、間違いなくその投稿者っスよ。成りすましとかじゃない証明になるっ
ス。後で気付いたんスけどね?ナルホドナーって」
しっかりしたひとなのだと、アルは嬉しそうにエヘエヘ笑う。
「それにしても、南部英語良いっスねー!会津訛りも良いっス!ってかアドレスにbeef_stewとか入ってて可愛いすぎ!好きな
んスかね?I like it, too!えへーっ!」
そういえばこのシロクマもアドレスに食べ物の名前が入っていたなと、少年は思い至る。
(もしかして…、色々と気が合うかも…)
少なくとも陽気で社交的な辺りはだいぶ似た者同士だなと、タケミは改めて感じた。
「ステラ、風呂行ってくるからよろしくー。…お?」
コンクリートが剥き出しになっている部屋に、卓上に置いた懐中時計にかけられた声に続いて、着信を知らせる音が反響する。
風呂に入ろうと肌着を脱いで、逞しく肥えた裸体を晒していたクロコダイルは、シャツを大きなチェアの背もたれに放り投げ
ると、冷凍ピザの空箱が重ねてあるテーブルから端末を取り上げた。
確認すると、今しがたテスト送信したばかりのメッセージに、アルからのアドレス入り返信がついている。
『Howdy big guy!』
ハウディにハウディで返したアルのメールを見て、一時固まったイズミの目がモニターを映したまま微かに揺れた。
「…うはははは!roast_beefって、メアド可愛いなーアルビレオさん!好物かなー?うはははは!Me too!」
ハーフパンツ一枚の恰好で太鼓腹を揺すって笑うイズミ。
楽し気な声が良く響く部屋は四方の壁がコンクリート打ちっぱなしで、部屋の一辺には上階と下の階に向かう手すり付きの階
段があり、倉庫のようにも作業場のようにも見える。
カバーと呼ぶには大雑把過ぎる針金の格子から、剥き出しのファンが見えるタイプの大きな換気扇が壁の上の方で回り続けて
いる。壁には窓が一つも無く、床も大部分がコンクリートが剥き出しだった。
だが、この部屋を殺風景と呼ぶかどうかは意見が割れる所だろう。
部屋の中心には、太い尻尾を逃がせるよう背もたれの下部に大きな丸穴が開いているチェアと、脚に重りが入ったカーボン製
の広いローテーブル。
チェアの正面にあたる壁面には薄型大画面テレビがかけられ、オーディオやレコーダーなどがすぐ下の棚に収まっている。モ
ニターには、停止しているウェブ配信動画…エイリアンパニック物の名作洋画の一場面が、SFの一枚絵のように映し出されて
いた。
階段がある側とは逆の壁…テレビに向かって右手側と、テレビがある反対側にあたる壁には、ラックやショーウィンドウが多
数設置されており、緻密に仕上げられた模型類が奇麗に並ぶ。
床も大部分がコンクリート剥き出しなのだが、テーブル周りや家具が置かれている辺りなどにはレンガ模様の四角いラグが敷
かれている。
天井の照明はあえて裸電球。ただし輝度調節可能なタイプで、四方をコンクリートに囲まれる息苦しさを逆手に取って秘密基
地のような趣きにしてある。
ここがイズミの家。元は小さな水産会社の作業場跡で、七ヶ月ほど前に購入した物件である。
海際の崖地に建てられていたが、地殻変動によって隆起し部分的に崩落したせいで使われなくなった放置物件。居住性が良い
とは言えず、同業者も買い取らなかったため、捨て値で売りに出されていた廃墟。岩盤をくり貫いた地下構造になっているせい
で拡張性もなく不便なそこを、しかしイズミは気に入って住処にした。売り手側はまさか居住用に購入したとは思わなかったが。
上下垂直構造の四階建ては、言い換えれば水産作業場の崩れずに残った一部分である。
地上に出ているのは一階部分だけで、道路と面したそこはガレージルーム。作業場として使われていた頃は地上部分が広い倉
庫になっていたのだが、イズミが購入する時点では車3台入れば埋まる程度の小さなガレージだけになっていた。バイクを乗り
入れるのにも都合がいいし、作業もし易いと、本人は喜んでいる。
地下一階部分がこの部屋で、リビングでありダイニング。もっとも広い部屋でもある。
地下二階はベッドルームとウォークインクローゼットからなる寝室兼ドレスルームと、キッチンの二部屋。とはいえ、元は作
業用の耐水服に着替えるための更衣室だった寝室はともかく、階段脇にシンクとコンロが後付けされ、オーブンレンジや冷蔵庫
が並べられたそこは、単なる通路であり踊り場だったスペース。部屋と言うより調理ブースと言った方がしっくり来る解放具合。
そして地下三階は、かつて洗浄作業用に使われていた場所。水産物を洗うための埋設式作業水槽がそのまま風呂に改造され、
旅館の大きな湯船のようになっている。ここには洗濯機や乾燥機も置かれているが、最大の特徴は海に繋がっている事。
金属繊維が封入された耐衝撃ガラスの引き戸を潜れば、見渡す限りの大海原。そして数段の階段を下れば岸壁から生えた小さ
な桟橋があり、そこには宅配で使う社用機とは別の、イズミの私物である黒い水上バイクが係留されている。
各階を隔てる扉は無く、階段を介して空間が直接繋がっている。煮炊きすれば一番上から地下階の底まで食べ物の匂いが抜け
てゆくほど通気性に節操がない。
一見すれば趣味優先でレストアした不良物件エンジョイ生活だが、ここはイズミの裏稼業も考慮した構造になっていた。
万が一の時には陸路か海路で即座に逃亡できる二方向避難路。
そして「仕事」に使う品々や集めた資料などは、空間を跳べるイズミでなければ入れない、地下部分に作られた出入り口のな
い部屋…崩落で埋まったはずの加工物保管庫に纏めて収納してある。
「即返信って事は待たせちゃったんだろうし、こっちもメッセ送んなきゃ!うはははは!」
風呂行きを中断したイズミは、肥えた大柄な体を揺すって太い尻尾を通せるチェアに座り直し、端末を操作してアルに改めて
よろしくと返事を送り、ついでに投稿されているプラモデルの感想も添えておく。
前のテーブルに三つ積まれているLサイズピザの箱は、基本トッピングが合成チーズのみで、好みで具を追加できるという品。
財政的に余裕がない駆け出し潜霧士達の需要が高い、高カロリーで安価な品である。
香りは薄く味はしょっぱく、生地は粉っぽくて噛み切り辛い、「本土」では商売ができない品質なのだが、ここ伊豆半島には
ピザを商う店は極少数なので、このチェーン店が最も名前を見かける店になっている。
空になった500ミリボトル2本は、ブドウ糖と電解質などを含む安価で味気ない飲料。いずれも費用対効果でエネルギー摂
取を優先したチョイスである。
イズミは金が無い訳ではない。宅配業者の配達人…海上エリアも受け持って稼ぐ給料はそこそこの収入。それに加えて裏の仕
事…「配達人」としての稼ぎは非常に高額。しようと思えば働かずに一生暮らせる程度の稼ぎは上げている。
だが、殺し屋としての仕事で得た金はプールしており、目的のためにしか使わない。生活費は配達の給料で賄うため、節約で
きるところは庶民的に切り詰める。
そうしてイズミはある目的のために金を貯めている。どれだけあれば十分か判らない目標に備えて。
その金は、ある事を調査するための金。
「人工霧再現施設」。かつて政府主導で運営されていたこの施設について、イズミは秘密裏に調べている。
それは真鶴半島に存在した施設で、霧中でしか栽培できない物や生育できない物、霧中でなければ確認できない現象について
研究する施設であり、霧の濃度による動植物の変化について研究してもいた。大穴から持ち込んだ霧を使用して研究するだけで
なく、人為的に大穴内部に近い霧下環境を再現して研究する施設でもあった。
霧中毒への緊急治療薬の原料となる黄金アケビなど、霧の中でしか育たない希少かつ有効な物を大量生産する事を目的に作ら
れたそこは、しかし20年前に事故を起こし、今なお施設内から「人工霧」が漏洩し続けている魔窟と化した。以降は今日に至
るまで、人工霧再現施設跡である真鶴半島先端から半島中心辺りまでが、人が立ち入る事ができないエリアとなっている。
人工霧がオリジナルほどの危険性を持っていなかった事と、住民や周辺施設への避難命令が早かった事、自衛隊の救出活動が
早かった事などが功を奏して、人的被害は1ケタに抑えられた。
…と、いう事になっている。
だが、実際には違う。少なくともイズミが知っている事柄とは乖離している。公表された事故の規模等の情報は、大半は正確
だが一部が抜け落ちていた。
20年前のその日、イズミはそこに居た。五十名強の子供らと共に。そして彼らと、まだ入江出海という名ではなかった彼は、
公的には存在していなかった事になっている。
事故という事になっているその事件と、あの施設で行なわれていた実験の関係者を、イズミは調べ続けている。公的な発表に
は含まれていないあの施設の実態を突き止め、そして復讐対象を見つけ出すために。
だが、その道のりは困難だった。
調べる対象が対象…何せ政府直轄の施設だった場所である。これまでに調査を依頼した情報屋や非合法組織も、イズミが望む
情報にはたどり着けなかった。大枚をはたいても得られる答えはいつも同じで、「そんな物は無かった」「政府による公式発表
のとおり」という報告書が届くばかり。毎回進展は殆ど無い。
そして、調査を依頼する相手も問題である。
イズミは身元を隠して依頼しているが、頼んだ先によっては足が付く事もあり得るし、自分の素性を探られる可能性もある。
自分がどうなっても良いと覚悟を決めてはいるが、会津の家族には迷惑をかけたくないので、経歴や素性、そして「正体」がバ
レるのは困る。「実験」の生き残りが居ると知られたら、復讐対象は家族も抹消しにかかるだろうと確信しているから。
匿名で顔を見せなくとも依頼を受けて貰えて、政府の内情も嗅ぎつけられるだけの調査者…。イズミが求める条件に合致する
相手はそう多くない。
「ん…」
イズミがアルに返事を送っている途中で、端末のモニター上部にメッセージの着信が案内された。
(母ちゃんからだ。土肥土産の連絡読んでくれたんだろな)
祭りで買った調味料や珍味の詰め合わせを宅配便で送ると、会津の家族に連絡していたイズミは、メッセージの中身を見る前
に把握した。
家族と言っても血の繋がりはない。父も母も、姉も、遺伝子的には赤の他人である。
だが、偽造された日本国籍や戸籍、住民票データと共に自分を引き取り、育ててくれた一家は、イズミにとって血の繋がった
親よりも家族であり、恩人だった。だからこそ、自分の個人的な復讐に巻き込むわけにはいかない。
「よぉし!ちょ~っと長くなっちゃったかもだけどー、いっか!うははははは!」
結構な長文になった感想こみの返事を送信したイズミは、育ての母からのお礼のメッセージを「礼なんて良いのに、水くせー
なー母ちゃん!」と確認してから、改めて風呂場に向かう。
「んじゃステラ、今度こそ風呂ー!留守よろしくー!」
雑に済まされた食事の跡が残るテーブル上で、ラフコリーの横顔が彫り込まれた懐中時計が、裸電球の光を反射した。
そうして階を下り、「今日はクッキーバニラにするか!」と冷蔵庫を開けてカップのラクトアイスを一つ取り、スプーンを咥
えて脱衣場に向かう。衣類を脱ぎ散らかして浴室に入ったらイズミの贅沢タイム。
広い湯船に張った湯はややぬるめ。アイス片手にそこにザップリと浸かったイズミの耳には、浴室の壁…シャワー側と反対の
専用棚にセットした端末から流れるポップスが届く。
仕事が仕事なので端末は完全防水で耐塩仕様。風呂場に持ち込んだこれで音楽などを聴きながら、アイスやソフトドリンクな
ど冷たい物を摂り、ぬるめの風呂で長湯するのがイズミのささやかな贅沢。
リズムに合わせて太い尻尾がノッており、動かされた湯が縁でチャプチャプ波を立てた。が、しばらくすると…。
「ん?何か来た?」
ザバッと盛大に波を立てて立ち上がったイズミは、肥えた巨体の滑らかな表面から湯を滴らせながら手を伸ばし、壁の棚から
端末を取る。早速折り返して来たアルの、照れと喜び混じりのメッセージがランプを点滅させていた。
「………!」
スプーンを咥えたまま嬉しそうに端末のモニターを見つめるクロコダイルは、それを手にしたまま湯船に戻り、メッセージを
じっくり読み返しながら入浴を楽しんだ。
ネット上の顔見知り、それも同じ趣味を持つ相手が、自分と同じ獣人だった。リアルに会っても気兼ねしなくていい相手との、
得難い偶然の巡り合いがイズミには嬉しかった。それはアルにしても同様で、相手が獣人である自分を忌避しないというだけで
嬉しい。
嬉しい感想メッセージと添付ファイルを繰り返し読みふけって、ついつい長湯してしまったイズミは、少しのぼせてしまった。
同好の士と知り合えた事を純粋に喜ぶふたりは、しかしまだどちらも気付いていない。
自分達に共通点が多い事も、生い立ちが似ている事も、そして、やがて互いの真実を知る事も。
昏いしじまに長らくたゆたい、遠い灯りを他人事のように眺めていた人外は、意図せずそれを目にした。
陸を離れた大海の闇夜でも変わらない、星の瞬きを。