第四十九話 「思い思いの後夜祭」
祭りが終わった土肥の夜は、前日までと比べてひどく静かに感じられる。
自動ドアや気密扉を採用してなお、正面入り口一枚目は大正時代の洋館のような重々しい両開き扉を設えてある大きな館…俵
一家の本部は、窓から灯りを投げる他、入り口左右に赤い行燈を灯しているが、詰める守衛の数は減っている。
厄介者を「放出」して厳戒態勢が解かれた俵一家は、この夜から警戒レベルを平常時の物に戻していた。
そんな状況にも拘わらず、カメラ映像を映し出すモニターが並んだ監視室の一角で、当直に混じっていつ潜霧士が一人。
黒豚は頬杖をついてデスクにつき、眼前のモニターや、壁に並ぶモニターを半眼で代わる代わる睨んでいた。
潜霧を行なう他の事務所などもそうだが、俵一家は潜霧士だけで成り立っている訳ではない。事務担当も置かずに所長が併任
する神代潜霧捜索所は、むしろ珍しい部類である。
実際にダイブする実務部隊の他に、一事務所として内務や外部交渉、収穫品の売買を担当する者達など、専門の係が存在して
いる。
代表的なのは、一家の内務や潜霧計画などの提出書類、依頼の受諾担当窓口でもある事務方。相場の調査や仕入れ、資産運用
や収穫品の売買を取り仕切る会計方。そして情報収集や他所との交渉、各機関の内情調査を担当する諜報方。その他にも警備担
当や清掃雑務を担う者など、編成される潜霧士達以外にも多くの部署と人員が存在する。
本部の警備担当も専門が居る。しかし、何かあった場合の戦力として有用なのは獣人と潜霧士。ムラマツはその事をよく理解
している。
眠気覚ましのアイスコーヒーをチビリと舐め、数時間座りっぱなしで絶え間なく監視している黒豚が居るせいで、当直の面子
は緊張を強いられていた。黒豚が気を抜かないのに緊張を緩めて仕事に当たる事などできないのである。
そこへ…。
「おつかれー!」
陽気な声と共に入室したのはビントロング。
ナガオを一瞥したムラマツは、「おう」と喉の奥を鳴らすような短い返事をしただけで視線をモニターに戻したが、
「ほれ、差し入れ」
デスクに冷えたミルクコーヒーを置かれ、もう一度ナガオを見遣る。
「どうも」
「あいよ」
短いやり取りを交わしてムラマツの脇の椅子を引いたナガオは、「死体になって着いたらしい」と小声で囁いた。それだけで、
菅山録の事だと察した黒豚は「そうじゃろな」と特に感情も覗かせずに応じた。
移送船に乗せられた菅山録が他殺体で発見されたのは、福岡に着いてからの事。引き渡し後の出来事なので俵一家側としては
困らないし、ナガオもムラマツもこの結末については別段感慨もない。
そもそも大親分が本気で護るつもりならば他所には預けないし、護送のために身内を身辺警護に充てる。それをしなかった時
点でハヤタがどんな「決断」を下したのかは察している。明確な言葉にされなくとも。
「マッツァン明日休みだっけ?」
「午後の新人訓練まで何も入ってねぇ」
「じゃあ適当なとこで切り上げなよ」
「寝不足程度で新米に遅れは取らねぇ」
「逆だよ逆。アンタの場合は寝不足で加減を誤るのが心配なんだっての」
「ふん」
鼻を鳴らしたムラマツはまだ冷えているミルクコーヒーをグビッと飲み、冷たさが胃の腑へ落ちてゆく感触を楽しむ。
「トラマルがさー、言ってたよ」
急に話題が変わって眉根を寄せた黒豚は「シロクマ少年の事」と言われると、ミルクコーヒーを口元まで持ち上げていた手を
止めた。
「忙しい時に来ちゃったな。しっかり挨拶できなかったな。…って気にしてたんだってさ。次があったらちょっと付き合ってや
んなよ」
「案内にゃ向いてねぇ」
「判ってて言ってんの」
ナガオはパキッと音を鳴らして栄養ドリンクの小瓶を開けた。それを一口に飲み干すと、「子供っぽいのにしっかりした子だ
よ」と優しく目を細めて続ける。
「何処がじゃ」
「判ってねーの?アンタあの子に刃物贈ったろう?土肥で当たり前のしきたりでも、シロクマ君にとってはそうじゃねぇって事。
改めて礼とか言いたかったし、話もしたかったってトコだよ」
「…考え過ぎじゃ」
黒豚のぶっきらぼうな言葉は、しかし自分の意見への否定ではないと、ビントロングは察している。不貞腐れたような横顔か
らは、「しまった」「それは気付かなかった」という、失敗した感が読み取れた。この黒豚は基本的に態度こそ厳しいが、少年
少女に優しい。自分の弟たちほどの世代には親近感を持ってしまうせいで。
「…が、一応次は考えとく…」
「そうしてやりなよ。「次の世代」には大きく育つルーキーだ。潜霧士同士、なるべく繋がりは育んどくのがベターよ」
「ところで」
居心地が悪くなったムラマツが意図的に話題を変えにかかった事に気付いたナガオだったが、「殺し屋の正体は噂の「配達人」
って事で間違いねぇのか?」と問われると、からかう気分も失せて素直に首肯する。
「大親分から「万が一遭遇しても手出し無用」って通達が出たから、察してると思うけど…」
黒豚はゆっくり顎を引き、不快そうに口の端を下げた。ムスッと、への字の形に。
「勝てねぇって事か」
「たぶんイタヅ先生でも無理。大親分ならいざ知らず、他に遣り合えるのはたぶんトラマルぐらいなモンだって判断らしい」
「そこまでか」
「そこまでよ」
潜霧士ふたりの言葉が聞こえている警備担当達が、微かに身を強張らせている。
これは正体不明ながらも把握できている事実から割り出した、「配達人」あるいは「殺し屋インビジブル」と称される存在の
戦力見積りに鑑みた方針。
侵入経路、移動経路、ともに不明の暗殺者。それが技術による物せよ異能の効果にせよ、まず不意を突かれるという点は動か
ない。
そして銃器で武装したテロリストを、自らは銃器も使わず恐らく素手で皆殺しにする殺傷技能と戦闘能力は、接近された時点
で極めて危険。
俵一家に槍の名手や剣の達人は居るが、潜霧中でない以上は常に武装している訳ではない。その状況で交戦した場合、リスク
は非常に大きい。
戦闘能力や生命力の観点から言って、それでも後れを取る事は無いハヤタは別として、これに対処できるのは特異な異能を有
するトラマルくらいしか居ないというのが、一家の結論である。
「潜霧士だと思うか?」
「可能性はそれなりかもな。けど、正規に潜霧できるなら殺しで稼ぐよりダイブした方がよっぽど実入りが良い。そこがわかん
ねーのよ…。金が欲しいんじゃなく、それ以外の報酬で動いてるのか、それとも潜霧士になれねー理由があって仕方なくやって
るのか…」
「ダイバーになれねぇ…つまり日本国籍が取得できねぇ、訳アリ外国人って可能性もあるって事か?それにしたって誤魔化す手
段は無くもねぇはずじゃ。実際にそうやって…」
連れて来た労働力を使い捨ての潜霧士に仕立て上げ、使い潰す連中も居る。
そんな言葉をあえて飲み込んだ黒豚の胸中を、ビントロングは察していた。
ムラマツは漁師の家で生まれた。霧に関わる事故で親を失い、自らも因子汚染されて獣化したムラマツは、獣人になった身で
年若い兄弟達を養うために伊豆に来て潜霧士となった。
だが最初から俵一家だったわけではない。世間知らずの田舎者だったムラマツは、そうと知らないまま悪質な斡旋業者に引っ
掛かってしまい、散々利用された挙句に使い捨てられそうになった苦い経験がある。
そういった業者は外国人の出稼ぎ労働者なども、上手いこと身元を偽って日本人潜霧士に仕立て上げ、そして利益を吸い上げ
るだけ吸い上げて使い潰した。ムラマツ自身も、もし俵一家の若頭に拾われなければ、とうにこの世には居なかっただろう。
「ま、考えてもわっかねーんだよコレが」
雰囲気を変えるように、ナガオは降参のポーズで両手を上げた。
「憶測ならいくらでもできるけどさ。一つはっきり判ってんのは、トラマルレベルじゃねーと太刀打ちできねーバケモンが、殺
し屋なんて物騒な事してるって現実だけ」
「ゾッとしねぇ話じゃ」
「そう言う割に顔色変わって無いんですけどー?さて、そろそろ行くよ。テキトーに切り上げときなさいよー?マッツァン居る
と当直の人達も伸び伸び仕事できねーんだから」
「そんな事…」
反論しかけたムラマツは、肩越しに手をひらひら振るビントロングから警備担当達に目を移し、
(…ある…っぽいか…)
初めて自覚して顔を顰めた。
同時刻、本部内の一室。
「少し驚きました」
「タケミが同行してぇって言ったごどが?」
浴衣を諸肌脱いで逞しい半身を晒している壮年猪は、言葉を先取りされて驚いているキジトラ猫にニヤリと笑いかけた。
「性格がら言うど、んだべな」
素直に「ええ」と頷いたトラマルは、普段の装いとは違う、薄手のハーフパンツにティーシャツ…いずれも少しサイズが大き
くてダボっと余り気味な衣類を身に着けている。ようするにパジャマなのだが、こんな格好をすると年相応の青年に見える。見
る者によってはもっと幼くも感じられるが。
ここはハヤタの寝室。立場を考えれば質素と言える畳敷きの八畳間で、巨体の猪が居るだけで狭く見えてしまう。
押し入れと床の間つきで、曇りガラスがはめ込まれた窓が一つだけ。畳一枚ほどの大きさの樫の座卓には、ガラスの水差しと
空になった徳利、そしてお猪口と、つまみが入っていた皿が二つ。高価な調度品などは置かれておらず、部屋の壁際に大型テレ
ビが直置きされ、下着や肌着が入った小さな箪笥が置かれている程度。
ただし、天井から下がる電灯のフードには透かし彫りが施されており、土壁と柱は柔和なクリーム色に寄せて統一してあるな
ど、派手さは無いがセンスは良い。落ち着いて休息を取る事を主眼に据えた寝室である。
この部屋に入るのは主であるハヤタと、彼が連れてくるトラマルだけ。使用人や清掃係を入れる事も無く、掃除も手入れもト
ラマルが直接行う。
それ故に、ここでは盗撮も毒殺も待ち伏せも不可能。慎ましくも堅固なふたりだけの城である。
部屋の真ん中に二つ並べて敷いた布団の上で、向き合って座るトラマルは分厚いハヤタの手を取り、親指の付け根を指圧して
いた。簡単なマッサージだが、誰に揉み解しをされるよりも、ハヤタはトラマルに身を任せる事を好む。
「だども、昇格試験前に無理しねぇ方が良いごどはタケミも判ってるはずだ。なじょしたってやりてぇごど、行きてぇ理由があ
んだべな。めんけぇだげでねぐ賢い子だがら。んだがらジュウゾウもトラマルも気に入ってんだべ」
「え?ええ、まぁ…。聡明だとは感じています。頭が回って色々と考え過ぎるから心配性なのかもしれないと感じていますが」
「んだな。もうちっと能天気だったら気楽だったべな。ただし、あの慎重さがねがったら、人と獣の姿を行き来でぎるって特長
が知れ渡っちまってだろうよ」
「そうですね。難儀な物です…」
トラマルは小さくため息をつく。ハヤタがユージンからタケミに関する様々な情報を伝えられた後に、キジトラ猫もいざとい
う時にタケミをカバーできるよう情報共有されている。
一等潜霧士の両親を持つサラブレット…そんな単純な話では済まされない少年の個人情報は、扱い一つ間違えればタケミの命
も脅かす。
どうしてあんな素直で良い子が…と、トラマルは憐憫さえ覚えていた。
「どういう存在なのでしょうね、タケミ君は…。人間ではない。獣人ではない。ステージ9でもない。まるで…、たった一人の
新種のような…」
「んだがら、大事にしてやんねげね。誰だって独りぼっちは寂しいモンだ。あの子がどいなモンだったどしても、ミツヨシの孫っ
てごどに違いはねぇ」
手のひらを指圧される心地良さに目を細めながら、ハヤタは穏やかに呟く。
「「たった一人の新種」ってのは、案外そうなのがもなぁ…。大隆起がら四十年…、ひとの物差しでなげくても、歴史で言った
ら「たたの四十年」だ。霧でひとがらどいなモンが生まれで来んのが、まだまだ判んねぇ」
「そう…ですね。我々には長い時間でも、生物史の基準で見ればほんの一瞬で…」
「ただまぁ、あの子の場合は何となぐだげっとも原因は判んだよな」
「と、おっしゃいますと?」
「不破家ど字伏家だ」
トラマルが「不破家…?」と首を傾げると、「ん?言ってねがったが?」とハヤタが目をパチクリさせた。
「不破家の男児に限っての話だげっとも、霧に耐性がある珍しい体質なんだどよ。ちょっとやそっとで因子汚染発生しねぇし、
汚染さいでも因子が短期間で自然に修復するって仕組みらしい。過剰に吸引すっと流石に急性中毒ど激変が起ぎで死んぢまうら
しいげっともな。まるで遺伝子自体が獣人化を拒んでるみでぇだって、ハンニバルが言ってだど」
「研究所も把握済みなんですね…。それで、字伏家の方はどうして…、あ!」
問おうとした瞬間に自力で気付いたトラマルが眉を上げた。
霧に「耐性」がある不破家とは逆に、字伏家は霧への「順応性」が高い。血縁に連なるほぼ全ての者が獣化適正を持つ。そし
て、確認されている限りで分家を含む全員、獣化後の姿は…。
「んだ。「犬科」…狼も犬科の仲間だべ」
トラマルがその事を口にすると、ハヤタは大きく頷いた。
イレギュラーと言える血統二つの掛け合わせであるタケミは、人狼化する。人虎化でも人熊化でもない、「狼」である。
「狼なのは字伏一族郎党共通の特色、因子汚染の影響が普通ど違うのは不破の血統、タケミの体質はこの二つが複雑に絡み合っ
て偶然生まれだモンらしい。だが、再現性はねぇっても言ってだな」
「再現性が無い?つまり、同じ血統の交配で生まれても、タケミ君のようにはならない、と?」
「そうらしいど。要因に二つが絡んでんのは確かだげっとも、そんだげではあの体質になんねぇ。偶発的なモンだって結論が出
だそうだ」
「つまり、不破家ど字伏家、双方の血を受け継いだうえでの突然変異、と…」
「んだ」
頷いたハヤタの分厚い手を放し、逆の手を取って揉みながら、トラマルは呟いた。
「例えば、ですが…。その条件を最低限満たすために、タケミ君の親類などが…」
「ああ、そごは心配要らねぇ」
職業柄リスク管理に意識が向きがちなキジトラ猫は険しい顔になったが、猪が気楽な調子で心配を打ち消す。
「ミツヨシの弟家族も、タケミの従妹なんかも含めで、不破家の親類関係全員、本人の同意ねぐ研究すんのは厳禁って方針が政
府がら出でっからな」
「政府から?」
トラマルが眉根を寄せ、ハヤタが面白がっているように目を細める。
「ユージンがな、もし強引に研究するような真似したら、今後一切政府に協力しねぇ。勝手にやらして貰う。…って言ってんだ。
政府にとってもユージンは切り札の一づだし、総理もそうするように厳命してんだ。んだがら不破家は安泰だ」
「…ジークフリートも、家族を守るために経歴も本名も捨てたんでしたね…」
「んだな。オラなんかは気楽なモンだ。血で類縁に危害が及ぶごどはねぇがらな。護んねげねぇのは…」
少し身を乗り出したハヤタが、トラマルの額に軽く口付けする。
「今の家族だげだ。手が届ぐどごさみんな居っから、遣り易くて良い」
トラマルが目を細めて耳を倒す。自分達の大親分は、こうして嬉しい事を言ってくれる。霧に潜る仲間を家族とみなす猪の遣
り方は、大手の同業者ほど人材の替えが利かない一方で、潜霧の強みを有する。
それは信頼である。
仕事上の仲間意識以上の信頼関係があるからこそ、命も背中も預け合える。そのトップに立つ猪が誰よりも家族を大切にする
からこそ、その下に集う者はそれに倣える。
ハヤタのために、俵一家のために、自分の命を投げ打つ事も厭わないトラマルの精神性は、ここでは普通の事。一家に集った
誰もが、家族とハヤタのために死ねる。
ただ一つ、トラマルが他の面子と異なるのは…。
(皆を護ってくれる貴方を、私が護ります…)
真っ先に命を投げ打つべきは自分だという、明確な意思を持つ事。
それは大親分の懐刀となった自分にトラマル自身が課した責務であり、至らなかった過去の自分の罪滅ぼしであり、そして…。
(この世で一番大切な、愛しい愛しい貴方を…)
愛のため。
トラマルはハヤタを愛している。親愛、敬愛、そして恋愛、深い愛情をもって接している。
そしてハヤタもまたトラマルを愛している。親子ほども年の離れたキジトラ猫が愛しくて仕方ない。その真っすぐで飾らない、
しかし押しつけがましくはない、「心地良い愛」をしっかり感じているからこそ、自分に愛を向けてくれる猪を命に代えても護
りたい。
奇しくも二人は同じ事を考えている。
無事に引退するか、霧が晴れるその日まで、絶対に相手を死なせない、と…。
いつしかハヤタの両腕はトラマルの背に回り、胡坐をかいた脚に乗せる格好で抱き寄せていた。
分厚い胸に手を添え、頬を寄せ、抱きしめられながらキジトラ猫は目を閉じる。
「ん~…、言うがどうが迷ったげっとな…」
「そこまで言ったら途中で止めないで最後までおっしゃってくださいね?気になって眠れなくなりますから」
「んで言うど?…ちっと寂しがった」
耳元に寄せられた口から少しだけ不服そうな声を聞き、トラマルがクスリと笑う。
「数日でしたが、ええ。私も結構寂しかったです」
「ん…。オラ今ちっとだげ嘘ついだ」
「どこです?」
「「ちっと」でねくて、オラも「結構」寂しがった」
「嘘って、そこ…」
正直に言った照れ隠しか、ハヤタの手がトラマルの背中をやや速いペースでシャカシャカと往復して撫でる。海千山千の古強
者が時に見せるウブな一面、トラマルはそこが可愛らしく感じられて仕方がない。
キジトラ猫が太い首に腕を回し、猪の唇に自らの唇を押し付ける。不意打ち気味にキスされたハヤタの鼻息が一瞬荒くなり、
真正面から浴びる格好になったトラマルの顔の被毛を突風のように撫でつける。
「今夜からはまた、朝までご一緒できます」
「んだな…!」
口を離して笑いあうと、ハヤタはそのまま後ろにゴロンと倒れ込む。仰向けになった猪の太鼓腹で、キジトラ猫の軽い体がバ
インと弾む。
「朝食はいつも通りの時間で構いませんか?」
「んだな」
夜明けまで8時間。翌日からも仕事はあるが、体を休める時間は充分にある。二人はそのまま再び唇と影を重ね、舌を絡め合っ
て互いの息と唾液を味わう。
「護衛であんま休んでねがったべ?」
「そんな事は………あります」
否定しようとしたトラマルだったが、下から至近距離で見つめるハヤタの目に負けて認めた。
「今夜はたっぷり休んどげ。何も心配要らねぇ。何も警戒しねくて良い。オラがこごさ居っからな」
太い両腕がキジトラ猫の頭を抱え、胸にモフリと抱きしめた。肉も被毛も厚いハヤタの首筋に鼻先を埋め、トラマルは「ふぁ
い…」とくぐもった声で返事をする。
注意を払う事、警戒する事、備える事が常態化しているキジトラ猫は、こうしてハヤタに抱きしめられている時だけ、本能レ
ベルでの緊張が解ける。大親分の懐刀にして側役、側近にして秘書、ハヤタを護る事こそがトラマル本来の役目だが、実際には
ハヤタの方が遥かに強く、遥かに死に難い。自分よりも強い生き物に庇護されているこの時だけ、トラマルは心の底からリラッ
クスできる。
親のように優しく、恋人のように甘く、トラマルに接するハヤタ。単純な上司と部下でもなく、純粋な主従関係でもない。
なお、公表もしないし吹聴もしない上、苗字もそのままなので、身内や親しい者達しか知らない事だが、トラマルとハヤタは
同性婚しており、法的な婚姻関係にある。つまりお互いに正式な「夫」…親子ほども歳が離れた夫々関係。世間で思われている
ような小姓兼愛人などではなく、もっと深い。もう籍を入れて八年になる。
分厚い手に後頭部を撫でられ、猪の首に押し付けた鼻で体臭を胸いっぱいに吸い込むトラマルの尻尾は、嬉しさから宙に伸び、
フルフルと小刻みに震えている。ハヤタの反対側の手が背中をさすると、尻尾はより激しくくねって揺れた。
弾力と重量感がある猪の巨体を布団に、しかし寝入ってしまうのが勿体なくて、うつらうつらと睡魔に抵抗するキジトラ猫の
手が、白い物が目立ってきた猪の頬毛をサワサワと撫でた。幸せそうに目を細めるハヤタの顔を細指が這って、傷跡をくすぐる
ようになぞる。
ハヤタは声をかけない。微睡む夫の細い体を乗せ、その頼り甲斐のある華奢な重みを噛み締めて、安心させるように撫でて寝
かしつける。
三十分ほどもすると、トラマルはついに睡魔に負けて眠りに落ちた。あどけない顔で眠るキジトラ猫の、他者には見せない無
防備な姿。少し空いた口から子供のようにヨダレが漏れて、ハヤタの鎖骨の上を濡らす。
起こさないように、しかし愛情をこめて、愛しい伴侶の体を抱いて撫でながら、ハヤタは幸せを噛み締めながら思う。
(今年の結婚記念日、なじょすっかなぁ…)
喜ぶトラマルの顔を想像するだけで、何週間でも何ヶ月でも休まず闘える気がした。
伊豆半島に朝が来る。
いつもの頭数にマミヤも加えた分量で朝食を用意し始めたタケミは、フライパンを巧みに揺すって野菜炒めを作りながら、背
中側のティーシャツの張りをちょっと気にした。
汗でくっついているのかと思ったが違う、肌への密着具合が強まって、引っ張られている感触があった。
(ま、まさか…、また太っちゃった…!?)
次の検診、あるいはゲンジ工房長の所でスーツの調整をして貰う日はいつだろうかと、壁のモニターに表示されている時計と
カレンダーを一瞥する。そこへ…。
「グッ!モーニンッ!」
「ひゃ!」
後ろから抱き着いたシロクマの手でたわわな胸を掴まれ、タケミが危うくフライパンを落としかける。
あまり寝ていないのでナチュラルハイ、アルビレオ・アド・アストラ、参上。
今日はビビッドな赤地に白抜きハート柄トランクス。寝起きなので他には何も着ていない。
「お、おはようアル君…。フライパン落としちゃうからドッキリはダメだよ?」
「ラジャー!野菜炒めと、シジミ汁っす?」
「う、うん。所長もヘイジさんも、お酒たくさん飲んだみたいだから…」
分別ボックスに入っている空き瓶空き缶の量から察して気を利かせているタケミの献立は、二日酔いでも食べられる物。二日
酔いに効くシジミ汁に、塩は控えめだが湖沼がきいているキャベツたっぷり野菜炒め、そして冷凍していた米で作った粥が朝食
のメインである。食欲があるなら追加で食べられるよう、薄切りのジャガイモもバター焼きにしてある。
「肉ないっスか?肉。ミート」
「魚類の練りウインナーならあるけど、バター焼きする?」
「するーっス!」
巨体のシロクマに後ろから抱き着かれて頭の上に顎を乗せられていながら、慣れている少年はそのまま調理を続行する。突き
出た腹が後ろから押し付けられている上に、胸に回った腕がハグし続けているので、自然とタケミの背筋は伸ばされる格好。実
はちょっと作業しにくい。
「配達って次はいつ来るんス?」
アルは壁面パネルに目を向ける。普段カレンダーや時刻が表示されているそれはスケジュール表やメーリングシステムとも連
動しており、荷物の配達通知などもここでチェックできるようになっていた。
神代邸兼事務所は陸から近いとはいえ離れ小島なので、郵便も荷物もエリア担当業者が纏めて運んでくる。潜霧などで不在に
する場合はその業者倉庫での一時預かりを頼み、一括で配達して貰う。今回も土肥へ行っている間の配達は先送りにしていたの
だが…。
「あ、配達停止は昨日までの設定にしてあったから、今日来るはず…」
アルにくっつかれたままのタケミは、壁のパネルに「デリバリーカレンダー、今日の予定」とキーワードで指示を出した。
時計と日付から切り替わったのは、今日到着予定の荷物の概要、送り主、そして現在の状況。定期購入している牛乳や調味料、
米やパンなどの届け物類、そして郵便物は、配達のため持ち出し中と表記されていた。
「もう配達中になってるみたい」
「途中っスか!配達は組み立てワニさんっスよね?」
「たぶんそうだと思うけど…」
「サシイレ!サシイレ!何かないっスおしゃれなサシイレ!?」
何がおしゃれかは判らないが、飲み物なら水分補給もできて携帯しやすくて喜ばれるかもしれないと考えたタケミは、「お茶
とかコーヒーとか栄養ドリンクとかなら差し入れむきかも?」と提案。
「それっス!冷えてるのあるっスかね?」
「冷蔵庫の四段目にあるよ」
「チェック!」
サッと離れたシロクマが大型冷蔵庫意を漁り初め、ハグという名の拘束から解放されたタケミは料理に集中できるようになる。
「あ。クソデカミンあるっスね!これ貰っていいっス?」
「いいよ」
ユージンが焼酎割りに使ったりするので、タケミが見繕って用意している様々な清涼飲料。その中からアルが一本選ぶと、
『おはよう』
声をハモらせ、寝ぼけ眼の巨漢熊と、スーツを着込んで身支度を整えたアライグマがリビングに姿を見せた。かつては客室と
して使っていた部屋も所員の増加で埋まってしまったため、マミヤはユージンの部屋の床に布団を敷いて宿泊した。マミヤ当人
はその寝床でも問題なかったが、金熊は増築も考えるべきかと検討し始めている。
「グッモーニンっス!」
「お、おはようございます…!あの、朝ごはんすぐできますから…」
「おう。貝の汁物か?」
甚平の胸元に手を入れて腹をボリボリ掻き、あくびしながらキッチンに入ったユージンは、匂いに反応して大きな鼻をクンク
ン鳴らす。
「はい、あの…、昨夜はお酒をたくさん飲んだと思って…、シジミ汁を…」
「相変わらず気が利くなヌシは…!」
ユージンが喜んで頭をワシワシ撫でると、タケミは嬉しそうに、そして恥ずかしそうに顔を紅潮させる。
「済まないね、一食多く用意させてしまって」
マミヤがキッチンブース内までは踏み込まずに声をかける。こちらは昼前に仕事で戻るため深酒を避けており、酔いも残さず
シャッキリ起きていた。
「せ、先生のお口に、合うと良いんですけど…!」
緊張するタケミに対し、アライグマ中年は「ははは」と肩を揺らして笑った。
「君が出してくれた物が不味かった事など、これまで一度だって無い。少し威張ってくれたまえ」
基本的に大半の他人がどうでもいいマミヤだが、タケミの事は身内寄りに位置付けているので、対応は柔らかい。流石に息子
達や亡き妻や長男の伴侶ほどではないが、丁重に扱う対象である。
「ヘイジはまだ起きてねぇか。…ま、昨夜は酔い潰れとったしな。起きるまで放っておくか」
ユージンが起き出してこない狸についてそう言うと、耳を倒して窓を見遣る。
「水上バイク…、配達が来たか」
外の音はリビング内に殆ど聞こえていないにも関わらず、察知した金熊に少し遅れて、窓に張り付いたアルが「来たっス!」
と軽く膝を屈伸させて尻を揺する。
「オレ受け取り行くっスから!」
「あ、うん。お願い」
キッチンを出ようとしたタケミを制し、アルは玄関に向かう。その背中へ少年が、「あ、伝言」と思い出して呼びかけた。
「たい焼き、有り難うございましたって、イズミさんに」
「ワッツ?タイヤキ?ナンデ?」
「えぇと…説明難しいけど、とにかくお礼を言いたくて…」
「ラジャー!」
「あとアル君、トランクスだけで出て行かないでね…」
「ラジャ…」
アルがしぶしぶスパッツをドスドスケンケンしながら穿き、玄関へ向かうと、少年は傍らの金熊を見上げた。
「あの…、野菜炒め少し薄味ですから…、足りなかったら塩胡椒で…」
「おうおう、ワシらの胃袋の事まで考えてくれたか。相変らず細けぇなぁヌシは。ん~…」
酔いが残っているためだいぶ素が出ているユージンに、チュッとおでこへ軽く口付けされたタケミが硬直する。
その背後のリビングには誰も居なくなっている。
玄関に出たアルは当然として、もう一人も。
「配達ワニ~♪配達ワニ~♪」
オリジナルソングを口ずさみながら、あまり寝ていないので普段以上に陽気な入江出海、参上。
水上バイクから降り、カーゴから大形の箱三つを下ろして重ね、逞しい両腕で抱え上げて坂を軽快に登ると、玄関ドアが迎え
るように開く。
「お!」
重ねた箱の脇から前を覗いていたイリエワニが笑みを深める。
玄関先に出たシロクマも満面の人懐っこい笑顔で迎える。
「Howdy!お届け物でーす!」
「Howdy!ご苦労様っスー!」
イズミが荷物を箱から出し易いようにドアを開けて迎え入れたアルは、クロコダイルが荷物の伝票をスキャンして受取書を発
行する間、ウズウズとその場で小刻みに足踏みして待つ。水上配達の制服でもあるウェットスーツにライフジャケット姿も絵に
なるなぁなどと感じながら。
(スーツ姿だと体のライン分かり易いっスね!肉付きグッド!ヘビィでボリューミー!揉み心地良さそうっス!)
肥満体のムチムチした肉付きがよく判るウェットスーツは紺色で、ライフジャケットとゴツいブーツはオレンジ。薄着も良い
が仕事着姿も格好良いと、シロクマは好感を強める。一方…。
(スパッツだけかー!うはははは!北極熊だし暑がりなのかもなー)
タケミに忠告されたシロクマは、濃紺のスパッツを穿いただけ。確かに「トランクスだけ」ではないが、少年の忠告はそうい
う事ではない。
(フッカフカでムッチムチだなー。手触り良さそうだ!デベソなんだなアルビレオさん。キュートだぜ!)
丸々した白い大きな腹にワンポイントのデベソ。分厚く逞しいものの脂肪も乗った胸。肩も二の腕も膨れて盛り上がる筋肉の
量。少年の幼さが残る愛嬌のある丸顔とは裏腹に、その体躯は頑強で重々しい。
「生協さんの分だけ受け取りのサイン貰いますんでー!」
「オッケーっス!」
発行されたレシート型受領書に、シロクマが受け取り者名を書き込み…、
「ん?「白星」って…」
怪訝な顔をしたイズミに、アルが「あ、オレの日本名っス」と説明した。
「HN、本名なんスよ一応。日本名殆ど使わないっスけど」
「へー!いいですね、似合ってます!」
「普段は本名のアルビレオ・アド・アストラで通してるっス!友達も知り合いも日本名で呼ばないっスから!」
「うはははは!使い慣れてる名前の方が良いんでしょうね!昨夜は感想たんまりどうもでした!嬉しかったです!あんな細かい
とこまでチェックされてるなんて…、いっや~!はっず~!うはははははは!」
「こっちこそ嬉しかったっス!いっぱい感想聞けて感動っス!昨日書き忘れたんスけど、あと…。っと…Sorry」
話したい事は多かったが、仕事中だと思い直したアルが残念そうに耳を倒して会話を中断する。
「うははははは!今夜またメッセ送りますね!リアクティブアーマーの爆発痕処理の感想とかまだ伝えてなかったんで!」
陽気なワニのフォローでシロクマの顔が輝いた。
「あ!タケミから伝言っス!たい焼き有り難うございましたって」
アルから言伝を聞いたイズミは、「あ~、気付いてたかー」と苦笑い。
「どういう意味っスか?」
「いっや~!はっず~!スマートにそれとな~く気を利かせたつもりが、見抜かれてたって事です。うははははは!観察力ある
んですねー、タケミさん!」
「タケミは腕利きの潜霧士っすからね!」
兄貴分が褒められて嬉しかったアルがそう応じると、「え?」とイズミは目を丸くした。
「タケミさん、ダイバーなんですか?」
「そうっスよ?オレもタケミもここの実働所員っス」
クロコダイルはマジマジとシロクマの顔を見つめた。潜霧捜索所に居るのだから関係者だろうと思ってはいたが、まだ少年な
ので事務系や荷運びなどのアルバイトだと勘違いしていた。
イズミは潜霧業界には疎い。探し求める復讐対象が霧や獣人に関する研究に携わっているはずなので、因子汚染周りの知識は
自然についてきたが、潜霧士界隈の事はあまり知らない。流石に「熱海の大将」に「熱海の女将」、「土肥の大親分」や「岬の
狛犬」など一般人にも広く知られている著名な潜霧士の事は判るが、アルやタケミのような界隈内でのみ知られているルーキー
の話は全く聞いていなかった。
(こんな若さで…、まだ子供なのに…)
タケミはといもかく、このシロクマの少年は獣化してしまったが故に「本土」や海外で生きられなかったのだろうか?危険な
大穴に潜るしか道は無かったのだろうか?と、イズミはチクリと痛みを感じた。胸の上の痣が、古い痛みを思い出したように。
「あ!そうっスこれ!サシイレっス!」
下駄箱の上に置いていた、冷えたドリンクのボトルをアルが掴み、差し出すと、イズミは内心を伺わせないよう精一杯の笑顔
で「Thanks bro!」と受け取った。そしてその場でキャップを捻り、ラッパ飲みする。
顔を上向きにしたクロコダイルの肉付きの良い喉が、ゴッゴッゴッ…と音を立てて波打つ。その豪快な一気飲みを、シロクマ
は惚れ惚れする飲みっぷりだと嬉しそうに見つめていた。
「うははははは!生き返るー!ごっつぉさんでした!」
「あ、ボトル置いてって良いっスよ!」
空きボトルを潰して持ち帰ろうとしたイズミは、アルに言われて「済んません!じゃあ…」と微苦笑しながら預ける。
「ヒキトメごめんっス!お仕事ガンバっス!」
「うはははは!どうも、ガンバしますー!」
空になったキャリーボックスを積み上げて抱えたイズミが、軽快に坂を下りて水上バイクに跨り、片手を上げて挨拶して離岸
する。
手を上げ返しながら見送ったアルは、玄関内に戻ってドアを閉め、手に持ったままのボトルを思い出して視線を下げ、ボトル
の底に残った黄色っぽい炭酸飲料の僅かな残りに気付く。
蓋を開けて咥え、顔を上に向けて飲料の残りを飲んだシロクマは、舌なめずりしながら満足げな笑顔でボトルをクシャッと潰
してリビングへ戻り…。
(………)
小島の端、神代邸の壁の端に半分隠れながらワニの配達員を見送ったアライグマは、顎下の右手の親指を据え、顎先に握った
人差し指の側面を当てる格好で黙考していた。
(彼が殺害者だ。だが何故…)
マミヤはイズミの事を多少知っていた。
彼が後押ししている南エリア側への水上輸送事業。その実行役となる担い手の候補リストに、近場の配達業務従事者としてイ
ズミの資料もあった。
土肥のホテルで先日偶然出くわした時にも、彼が誰なのか気付いていた。
そして、あの夜はその後も姿を見ていた。ビルの上で。
あの夜、テログループの一団が始末されていた屋上に駆け付けた際、イズミは誰が来たのか判らないまま、異能を使用して離
脱した。屋上出入り口に立つ者からは死角になっていたので、姿は見られなかった。はずだった。
だが、あの時マミヤは見ていた。
マミヤの異能、サウンド・オブ・サイレンスの本質は「屈折」。
音や重力、伝播する波やエネルギーなどを曲げる事ができるその力は、光も屈折可能な対象としている。つまり、「自分の目
に届くよう調整して可視光線を屈折させる」事で、完全に密閉された空間でもない限りは障害物の向こうを覗く事ができる。鏡
に映して曲がり角の向こうを見るように。
そして掴んだ。巷では「連続殺人鬼インビジブル」、業界では「配達人」と呼ばれている殺し屋の正体を。
(入江出海、29歳)
マミヤは暗記していたイズミの情報を記憶野から引っ張り出し、再確認する。
(会津若松市出身で、実家の家族構成は父母と姉。大学卒業後地元を離れ、運送業者エフェクトデリバリーの社員となり、伊豆
に入る。二十年前に獣化症状が現れ、因子汚染ステージ7まで進行したものの、症状が安定して中学より通常教育課程へ復帰…。
因子汚染の原因は家族旅行中の漏洩事故に伴う霧吸入。家族のうち父と姉は難を逃れたものの、母親は息子と同時期に発症し因
子汚染ステージ7まで進行。獣化タイプはどちらもクロコダイル種)
おかしな所は何もない。住基も戸籍も経歴も。
だから解せない。プロの暴力集団を一方的に痕跡も残さず殲滅してのける戦闘能力や、ステージ9に至った経緯などが、経歴
から見えてこない。
マミヤはこの件…自分がインビジブルの素性を知っているという事を、まだユージンと情報共有していない。
あの夜にビルで目撃したのは確かで、状況的に犯人と見て間違いなく、探知したステージ9の痕跡は彼の物という点も疑いよ
うはないのだが、不可解過ぎて自分が納得できていないのである。
だから、入江出海という人物について詳しく調査し、情報を固めてからユージンに告げるつもりでいる。
だが黙っている…つまり大げさに騒ぎ立てない理由は他にもある。
マミヤはこの状況を「面白い」と感じていた。
もしも、屋上から文字通り姿を消したのが彼の異能による物だったならば、ユージンや自分達が長年求め続けてきた「霧の底
に到達し得る異能」である可能性がある。
しかし彼が連続殺人犯として捕まれば法によって裁かれる。「インビジブル」の犯行と思われている物全てが本当に彼の仕業
だったなら客観的に考えて死罪は免れない。それは少し困る。
始末すべき危険か。
利用すべき人材か。
それを見極める必要があると、マミヤは考えていた。
(表向きは安定して生活しているのも良い。定職に就いている以上、殺しは臨時の仕事と見た。そして取引に使えそうなカード
も多い。罪を盾に強請っても良いし、家族が居るのも便利で良い。「交渉が可能な相手であれば」だが)
単に殺し屋のカモフラージュだとしても、職に就いているという点から、少なくとも表向きは一般人を装いたいという方向性
は窺える。だがそこにどれほど執着するかは判らない。正体がバレたら仕方ないと、すぐさま行方をくらます可能性もある。
(情報を積み上げて見極め、どう出るべきか熟考しよう)
マミヤは善人ではない。だから手段は選ばない。大罪人であろうと悪党であろうと善人であろうと英雄であろうと、有用であ
れば価値を認め、有効に利用する。
穢れも汚れも瑕疵も罪も、泥中に咲いた華にとっては数えるに値しない物だから。
(さて、カズマ君とも「未確認のステージ9」として話し合いの場を持たなくては。現状では全ては伝えないが、グランドクロ
ス計画の下準備にかかる土地取得についても相談があるそうだしな。それから我が愛しい可愛い優秀で完璧で至高の息子にもス
テージ9が生じた可能性がある事故を調べて貰っている。いずれは答えに辿り着けるだろう。…それはそうと今日もそろそろ愛
しのナミにモーニングパパメールを…!)
思考を窺わせない無表情から一転し、デレデレに顔を笑み崩したマミヤは、返事がまず来ない長男への朝メールを送った。