第五話 「雷電」

 朝霧が薄まり切るのも待たずに大穴に降りて、前進と小休止を1時間サイクルで繰り返し、六時間が経過した。

 時間は惜しいが食事は削れない。特にスーツを着用しての潜霧作業は水分を失い易く、脱水症状や熱中症による不調から、危

険生物に後れを取ったり、注意力の減衰で事故に遭うケースもある。腕利きほど休憩と補給をおろそかにしないのは、どこの業

界も一緒である。

 テントを張って空間除染し、一同が霧を避けた食事を手早く終えさせる間、霧の影響を受けないユージンは一人、瓦礫の大地

を睥睨している。

 その手には現地で摘んだ紫色のプチトマト。霧の中で育ったソレは、因子汚染の結果として恐ろしく糖度が高くて甘く、栄養

価が高い実をつけるようになった。伊豆ではこういった「霧トマト」や「霧ブドウ」などの新品種で、ジャムやジュース、果実

酒を製造しているのだが、忌避感が強いせいか売れ行きは悪く、地産地消に留まっている。

 因子汚染は伝染しない。因子汚染された物を口にしても、霧がそのまま残留している事は無い。因子に変容をもたらした時点

で霧はその効果を失っている。そう科学的に証明されてもなお、人々のイメージは書き換えられない。

 40年経って大隆起の記憶が薄れても、慣習のように受け継がれる忌避感は、記録以上に鮮明に社会に残っている。

 霧トマトを口に放り込み、ゆっくり咀嚼しているユージンが腰を据えているのは、かつては駅の屋根だった部分。倒壊してペ

シャンコに潰れた駅入り口は、シンボルだった時計台が半ばから折れているが、付け根から半分までは四角い柱のようになって

残っていた。

 そこに腰掛けて、休憩中の一同に迫る危険が無いか見張り、周辺の気配を探るユージンは…。

(妙だな。「そういう所」を避けてるとはいえ、ナマコ一匹居やしねぇ…)

 まとまった雨が降った後だったので、元気になったナマコが数多く地表に這い出ていても不思議ではないのだが…。

(ナマコだけじゃねぇ。土蜘蛛にも居心地良さそうな気温と湿度の高さだ、普段居ねぇ所にも一匹や二匹這い出して来ていてお

かしくねぇんだが…)

 静か過ぎると、熊は感じていた。

 ユージンはその丸耳のみならず、全身で気配を探知する。彼が潜霧に際してジャケットを羽織りながらも、前をはだけ、胸と

腹を晒す、物理的な防護機能を度外視した格好をしているのは、外気に接触する体表面積を広く取るため。その金色の被毛は微

細な空気振動も捉え、肌感覚として異常を知らせるソナーとしての役割も果たしていた。

 この天候と状況、立地で何も感じず、嫌に静か…。ベテラン潜霧士はその事に違和感を覚えている。

 一方、ユージンの視界の端でテントを張って休む、大休止中の一団では…。

「しょ、食事が終わりましたら…、ゴミはこの袋に…」

 女性のテントに入ったタケミは、回収用の丈夫な袋の口を広げて差し出した。その目線は下向きで、目を合わせようとしない。

「ありがとう。…フワ君…、だったわよね?」

「は、はい…」

 女性が苦手…より正確には、女性と接した経験がろくに無いのに常々祖父から女性を労わり大切にするよう言われてきて、ど

う接して良いか判らないまま苦手意識を醸成し続けているのがタケミ。嫌いとか苦手とかではなく、接し方が判らないので向き

合うと緊張及び困惑する。

「お礼、言いそびれていたわ…」

 少し笑いを含んだミキの声で、タケミはソロッと目線を上げた。

「所長さんが仕事を引き受けてくれたの、あなたが行くって言ってくれたから…なのよね…?ありがとうございます…」

 会釈されたタケミは、言葉を返せなかった。

 心労のせいか青ざめた顔、悲嘆が焼き付いた哀しげな目、それでもなお、決着を求める者の覚悟がその顔に宿っている。

「…あの…。ボク…」

 気持ちは判る、などと放言するのは驕り。そいつの気持ちはそいつだけの物だから。

 そう常々ユージンが言うのを聞いているので、タケミは「あなたの気持ちは判ります」とは言わなかった。その代わりに口に

したのは…。

「父が…、まだ、大穴の中の、どこかに居るそうで…」

 ミキは毎晩泣いて充血している目を大きくし、少年の言葉に聞き入る。

 タケミが霧に潜る理由は、父を見つけるためである。

 自分が生まれた日、大穴の中で消息を断ち、以降今日まで見つかっていない父を探すため、タケミは潜霧士を志した。

 祖父に言われたのではない。祖父は遺言の中でタケミに対し、好きに生き、望む夢を追いかけろ。幸せになれ。…そう説いて

おり、何をしろとも、しなければならないとも言っていなかった。

 ユージンに勧められたのでもない。祖父の遺言で身元引受人になった巨漢は、当初は自分の所で暮らさせて、普通に高校を卒

業させ、大学にでも行かせてやり、就職して生活が軌道に乗るまでは面倒を見るつもりでいた。それこそ甥っ子のようなものと

して、である。

 むしろ、高校進学を中止して潜霧士になるとタケミが言った時は難色を示した。他にいくらでも生き方はあるし、自分に気を

遣って仕事を手伝う必要もないのだと。

 だが、タケミの祖父の遺言に、彼の望む生き方をさせてやってくれともあったので、少年に再三頼み込まれて、結局は折れて

承諾した。

 墓に入っている母と、見つからない父を、一緒にしてやりたい。それは、少年が誰でもない自分の意志で選んだ夢。霧に潜る

タケミだけの理由である。

 クレーター状の表層ではない。崩落点を過ぎた地下…ジオフロント内で消息を絶った父を探すのは、困難極まる難行である。

タケミはそれを知ってなお、道のりの険しさを実感してなお、夢を諦めていない。

「えっと…。その、だから…。ボクもお手伝い、頑張ります…」

 モゴモゴと、少年は自分の事を何とか話し終えた。

「そう、だったの…?あなたも…」

 自分が霧に潜る動機も、おそらくはもう生きていない、遺体も散逸してしまっているかもしれない、会った事もない父を探す

ため…。そうタケミから聞いたミキは、共感の色を瞳に浮かべた。

 気持ちが判るとのたまうのは驕りだ。だが、その気持ちを汲もうとする心情はひとの美点だとユージンは語る。

 判るはずがない。完全には理解できない。だが、だからこそ、ひとが誰かに寄り添い、気持ちを汲もうとする行為は美しく、

尊いのだと…。

「あの…。見つかると、いいですね…。ボクも、頑張って探しますから…、あの…」

 元気出して下さいは、何か違うかな?と言葉に詰まったタケミに…、

「…うん。ありがとう…」

 ミキは目尻の涙をそっと指で拭いながら、笑顔を見せた。

 

 最後の小休止を終えた頃には、日が傾いて、霧が薄赤く染まり始めていた。

 目標地点目前で、タケミは辛そうに歩くミキの傍に寄り、マスク越しの通信で話しかける。

「あの…、あと30分くらいで到着だと思います…。所長からもルートに異常は無いって…、だから…」

 昼の休憩で少し打ち解けられたので、女性が苦手なはずのタケミは、それなりにミキへ気遣いの言葉をかけて励ましてやれる

ようになっていた。むしろ、先輩潜霧士に抱くのとは少し違う敬意…、彼女の気丈さに対しての尊敬の念を抱いており、苦手ど

ころか話しかけ易いとも感じている。

「うん。ありがとう、頑張るわね…!」

 励ましが力になるか重荷になるか判らなくて、言葉選びが下手糞なほど臆病な少年に、ミキは努めて元気な声で応じた。

 覚悟はしてきたつもりだが、どうなるかは判らない。婚約者の亡骸を前に泣き崩れるのか、それとも呆然と立ち尽くすのか、

少なくとも、五体満足で元気に再会できるという事だけは考えていない。

「ミキさん、少し宜しいですか?」

 その時だった。チームのひとりが思い出したように足を止め、引き返してミキに話しかけたのは。

「今思い出しました。あの、ドーム状の屋根が見えますか?」

 男が指さしたのは、霧の中に聳える建物の影。ミキには良く見えないが…。

「あの…、あそこの、鳥籠みたいな…?」

 タケミが控え目に問うと、ミキは「え?はっきり見えるの?」と驚いた。

 少年の目に見えているのは、鳥籠のように見える格子状のドーム…建物の端から塔のように伸びた部分だった。よく見ると、

採光のためなのか透明なアクリル張りになっており、欠損も見えるがまだ全ては落ちていない。

「確か…、植物園だった所じゃないかな、って…」

 タケミが勉強させられた地理を脳みそから引っ張り出し、左腕のアームコンソールに地図と付属情報を表示させた。

 かつては伊豆生命進化研究所で品種改良された花々を展示していた植物園。内部は崩落が激しい上に日が差さず、霧が溜まり

易いのでビバークにも緊急避難場所にも向かないが、裏面にある搬入口は人力での開閉が可能で、一応中に入る事は可能とある。

 情報の最終情報更新は五ヶ月前の日付。漁り尽くされている事もあって、各潜霧士も頻繁には中を確認しないようである。

「あそこが、何か…?」

 地図と情報を確認したミキが問うと、男は言った。「あの日、「あそこなら何かあった時に逃げ込めそうだ」と、皆で話して

いたんです」と。

「離脱する時、気付いたら井岡だけはぐれていましたが、もしかしたら我々が気付かなかっただけで、アイツはあそこに避難し

ようとしたのかも…」

「行きます!」

 ミキの反応は当たり前と言える物だった。男達も揃って頷いている。しかし…。

「ま、待ってください!あの、あそこはルートに入れていなくて、所長の安全確認が入っていない所で、その…、危ないかもで

すから…!」

 慌ててタケミが制止しようとしたが、

「いや、それは判るが、今日は全然危険生物が出ていないじゃないか?大丈夫だろう」

 男のひとりがそう言って、他のメンバーも同意する。

「で、でも…。皆さんの安全が…優先で…」

「それも判る。だが、お嬢さんの気持ちも判るだろう?我々だってそうだ、同僚の安否が気にならないはずが無いだろう。君に

もこの気持ちは判るだろう?」

 同意を迫られ、タケミは困惑した。

 ミキの気持ちを思えば従うべきなのか。それともユージンに連絡して判断を仰ぐべきなのか。

 その逡巡の間に、ミキは小走りに駆け出した。

「あ!」

 タケミが声を上げるかどうかの内に、男達も彼女を囲むようにして走り出す。

「ま、待ってください!安全確認してな…危ないですからっ!」

 止まるように呼び掛けながら、タケミはユージンへの緊急コールを発信する。音声での事情説明抜きに、緊急事態だと判るよ

うに。

「所長!皆さんがルートから外れて走り出して…!」

 返答も待たず、会話も望まず、端的に状況を伝えるべくタケミは早口で助けを求め…。

 

「…ここに…居るかも、しれないの…?」

 元は駐車場だったのだろう、植え込みから四方八方に草木が伸びた、罅割れだらけのアスファルトの上で、ミキは大部分が潰

れて瓦礫の山になり、当時の面影を大雑把にしか残していない植物園を見上げた。

 敷地は広く、植物園本館は四階建ての立派な構造だった。ただし、屋外展示に利用されていた広場は、もはや低木樹と蔓草が

支配権を争う緑の沼と化し、そこかしこから伸びた蔓が建物全体に絡みつき、あちこちから雑草が生えている。

 霧の中に聳えるそれは、不気味な廃墟といった外観だが…。

「あそこ。あの大穴から中に入れると、あの日話をしました…。車でも突っ込んだのか、大きく空いているので」

 男が指さしたのは壁に空いた、二階の半ばまで達する大穴。

 追いかけて来たタケミは、あの穴の事は付属情報に入っていないが、あそこから中に入れるのだろうかと、斜陽のせいで一際

暗く見えるそこを凝視した。

(ん?あれ?何か変な感じ…)

 困惑するタケミ。肌がザワつく。中は暗くてよく見えないが…。

 黒々としているその穴は、確かに男が言うように、外からダンプか何かが突っ込んで崩れたようなサイズである。

(おかしい)

 少年は気付いた。

 大隆起以降、大穴の中で人は暮らしていない。男が言うように、車が突っ込んで新たな穴が空く事はない。少なくとも、情報

更新が無いという事は、五ヶ月前までは特に変化がなかった…壁の穴は存在していなかったという事になる。

「待っ…」

 制止の声は、しかし間に合わなかった。

 ミキは男達に囲まれて壁の穴に近付き、中を覗き込もうとして…。

 暗がりの奥から霧を裂いて何かが伸びたのと、タケミが飛びかかってミキを押し倒したのは、ほぼ同時だった。一瞬遅れてい

たら手遅れになっていただろう、ミキに後ろから覆い被さったタケミの背を掠め、スーツを裂いて槍のように伸びてきたソレは、

甲殻類の一部の脚にも似た、爪のように尖った円錐形。

「大百足だ!」

 男達が叫んだ。タケミは「大百足!?」と声を裏返らせながらも、動揺とは裏腹にミキを助け起こし、引き摺って壁の穴から

離れる。

 男達が穴の中に発砲する。アサルトライフルの一斉射撃は、しかしここに住み着いていた主に通用しない。強固な甲殻が弾丸

の大半を弾き散らし、運良く突き刺さった弾も、その巨躯からすれば棘が刺さったような物…。

 地面が震動する。暗がりからムカデの顔がぬぅっと現れ、そこから長い胴体が繋がって出現する。

 それは全身を乳白色の甲殻で覆われた、体長25メートル、胴の直径2メートルにもなる、巨大なムカデの怪物だった。

 顔はムカデのそれだが、胴体はダンゴムシのような丸みを帯びた背甲を背負い、殆ど柱状で平べったくない。

 全身に生えている脚はタラバガニの物に似ており、しかし関節部は蛇腹状。この多脚は蛇腹関節の部分で伸縮可能で、いずれ

も通常時で4メートルほどの長さ、最大伸長時は二倍にもなり、その鋭い突き刺しは放たれた矢のような速度で襲って来る。

 甲殻は先ほどのアサルトライフルの斉射が無駄だったように、対戦車ライフル級の火力でなければ破壊が難しいほどの強度。

 そして、恐ろしく強いアルカリ性の液を吐く。生身で浴びれば人間の体がたちどころに骨を露出させるほどの、凶悪な唾液を。

「こ、こんな所に…?崩落点もシャフトも遠い、こんな所に大百足が居るなんて…!」

 タケミも実物を目にするのは初めてである。危険度で言えば、装甲車両に匹敵すると言われる土蜘蛛でも比較にならない。通

常はジオフロントや、陽の光が入らない地下深くに居る怪物。表層で目撃される危険生物では三本指に入る、ヒエラルキーの上

位存在…それが大百足だった。

 殺すつもりなら大隊規模の火力が必要になり、駆除が必要な場合は熟練の潜霧士がアライアンスを結成し、数十人がかりで罠

と重火器類を駆使するような相手である。人類史上、単騎でこれを仕留められた者は、これまでに8人しか居ない。タケミがミ

キを庇いながら立ち向かえる相手ではなかった。

「退避だ!退避ー!」

 男達が発砲しながら距離を取る。

 タケミは腰を抜かしてしまったミキを引っ張って後退するが、誰も手を貸してくれない。

「所長!所長っ!大百足です!ムカデの、あの、大きな、危ないヤツ!ほ、本物です!居ました何でか!」

 必死になってユージンに呼び掛けるタケミ。

 しかし応答はない。ユージンが構築したルートとスケジュールは、霧の濃さに左右されても通信自体は可能なラインで計算さ

れていた。

 が、今タケミ達はユージンが立てた潜霧計画から外れ、通信が通らなくなる距離に踏み出してしまっている。

「しまった…!」

 その事に気付いたタケミは、脂汗をかきながら大百足を見上げ…、

「ひっ!」

 悲鳴を上げてミキを引っ張りながら横転する。刹那、ミキの腰があった位置でアスファルトを易々と穿ち、大百足の脚が深々

と突き刺さった。

「わぁっ!」

 続く悲鳴。今度はタケミが反対側に、ミキをひっくり返すように転がしつつ身を投げ出す。

 またしても大百足の脚が伸びて地面を抉る。一歩遅ければミキの頭部とタケミの腹部が纏めて貫通されていた。

 大百足は眼下のふたりを優先してか、見下ろして多数の脚をうごめかせる。

 男達は霧の中に消え、銃声は止んだ。

 だから誰も気付けない。

 女性一人を引き摺っての回避…、タケミのそれは大百足の一突きを避けられるような機敏な動きではない。なのに立て続けの

攻撃を何とか避けられているのは、攻撃の前兆の段階で、タケミが先読みで適切な対処を行なっているおかげ。

 ユージンはタケミに、危険生物との戦闘で重要な事を徹底的に叩き込んだ。

 危険生物の生態、癖、動きの予兆、予備動作、そういった知識を、タケミは一等潜霧士レベルに至るよう学ばされている。

 勿論それは、学んで覚えただけでは完璧ではない。驚異的な反射神経と、動きを見逃さない観察眼、瞬時に適切な姿勢と動作

を行なえる肉体の反応も併せて鍛えこんで、初めて有効となる。

 彼らを殺すための、彼らに殺されないための、長年のノウハウを余さず伝授されつつあるタケミは、大百足の動きにも先読み

で何とか食らいつけていた。

「はぁ…、はぁ…」

 息を切らせ、ずりずりと後退するタケミに、

「お、置いて…」

 ミキは震え声で訴えた。

「置いて、逃げて…!私、た、立てないから…!」

 恐怖に上ずりながらも気丈な言葉だった。立派なのは家柄だけではない、その精神性も高尚だった。言語化してはっきりと認

識するまでは行かないものの、タケミはミキの精神性を、ユージン曰く「ひとの美点」だと思う。

 だから…。

「ふ~…。ふ~っ…!」

 息を強引に整え、心を鎮め、ミキを放してその前に立つ。

 腰の刀に手をかける。

 それは父の遺品。父と共に大穴に挑み続けた得物。本人が見つからないままユージンに回収された太刀は、今はタケミと共に

ある。再び大穴に挑むために。

 太刀に誓いを立て、願をかける。

 己は此度、恥じる事無く勇敢に闘うと…。

 そして、日本刀を模したレリックが、その鯉口を切ろうとした刹那…。

「ヌシはやらんでいいぜ、タケミ」

 野太い声が後方から響いた。

 大百足が静止する。タケミが弾かれたように振り返る。

 霧の中、本来のルート側からのっそりと姿を見せたのは、赤みを帯びた金色の被毛を纏う、巨躯の熊獣人。

 非常事態を知らせるタケミの通信は通らなかったが、予定をキッチリ守る少年の追走が確認できなくなった時点で、ユージン

は先行を中断して引き返していた。

 そこには絶対の信頼がある。タケミが異常を知らせない事は、軽微なミスやちょっとしたポカではない。連絡が無いという事

が、既に非常事態であるという証だと。

「お嬢ちゃんを連れて離脱しろ。安全が確保出来たらワシの方で探して合流する、身を隠して待機だ」

「所長。ボクも…」

 刀の柄に手をかけたまま、タケミは申し出たが…。

「やらんでいい。退避急げ。お嬢ちゃんはヌシに任せるぜ」

 ユージンは繰り返し、少年は硬い表情で狼マスクの顎を引き、了解の意志を伝える。

 タケミがミキを引き摺って離れる間も、肩を貸して立ち上がらせ、霧の中に姿を消す間も、大百足は動かなかった。

 否、動けなかった。

 その複眼が注視しているのは、巨躯の熊獣人。

 2メートル52センチ、341キログラム。巨漢ではあるが、質量では当然、体長25メートルの大百足に及ぶべくもない。

 にも関わらず、大百足は自分の十分の一にも満たない熊以外の物に、注意を払えない。

 理解していた。「ソレ」が自分達の天敵であると。

「やれやれ、表層で大百足とはな…。それほどデカくねぇ個体だが、骨が折れる相手だぜ…」

 パチッと、弾けるような小さな音。巨漢の体表と衣類の上を、青白い電気が不規則に走る。異能名称の由来にもなっている放

電現象を纏いながら、ユージンは腰の後ろからソードオフショットガンを抜く。

 オンッ…と空気が唸ったのは次の瞬間だった。霧が押し退けられ、大百足が身を翻し、植物園の廃墟から引き抜いた胴体後部

を、まるで鞭を打ち付けるようにユージンへ振り下ろす。

 ズドンと地面が震え、アスファルトが割れて飛び散り、土砂が舞い上がる。時速180キロでトン単位の質量を叩きつけられ

た駐車場は、一瞬で粉塵に覆われた。

 大百足の胴体後部が打ち付けられた、まさにその真下に居たユージンは…。

「…ふん…!」

 両腕を頭上で交差させ、脚を広げて膝を深く曲げ、あろう事か、その巨体を受け止めて踏ん張り、歯を食い縛っている。大百

足の長い胴は、ユージンが下に居るそこだけ地面に接触できず、トンネルを作るように浮いていた。

 生身の人間なら確実に潰れてミンチになる一発を受け止めたユージンだったが、足がアスファルトにめり込んでいる。大百足

は振り下ろした胴体後部を浮かせるなり、地を這うようにスイングして、すぐには動けなかった巨漢を弾き飛ばした。

 ドォンと激しい音を立て、植物園の壁に穴をあけ、ユージンの姿が消える。

 大百足はその壁の穴に向き直り、口腔を開き、ジョバッと液体を吐き出した。生物の体を溶解させる強アルカリ性の唾液であ

る。だ
が、穴の中にそれが吐き込まれるか否かの内に、植物園の天井が内側から砕かれ、突き破る格好で屋上に現れたユージン

は、大百足の頭上を取って手にした二連装ショットガンを二連続で発砲。轟音と共に閃光が広がる。

 河童の頭部を跡形もなく吹き飛ばす銃撃だが、しかし大百足には効果が薄かった。頭部含めて背部全てを覆う甲殻は、銃撃を

受けて表面からジュウジュウと煙を上げたが、破壊されてはいない。

 そして、移動したユージンの姿を捉えた大百足は、頭部に近い位置から伸縮する脚を伸ばす。

 その鋭い切っ先を、素早く身を捻って回避したユージンだが、掠られたジャケットの端がソックリと削られるように、滑らか

な断面を晒して持って行かれる。

 同時に、ユージンの右手の先でソードオフショットガンのバレルが金属音を立て…、

「ちっ!」

 爪に接触された衝撃で、ショットガンは中折れする可動部分から先が吹き飛んでしまった。

 大百足の脚は、タケミとミキを狙った時とは段違いの、銃弾にも匹敵する速度。食料ではなく敵と認めたユージンに対し、大

百足は本気で攻撃を加える。

 ユージンが破損したショットガンを放り捨てた直後、大百足は胴体後部を下から掬い上げるように振り上げた。太い胴体が勢

いよく叩きつけられた植物園は、二階から上を打ち崩され、大規模倒壊を起こす。直撃したユージンは瓦礫とともに吹き飛ばさ

れ、粉塵に紛れて姿が見えなくなった。が、直後にドォンと音がする。

 屋上に設置された貯水タンク、穴が空いて雨水が流れ込んでいるそれを、吹き飛ばされたはずの巨漢が固定金具ごと引っこ抜

き、中身込みで5トンを超えるそれを担ぎ上げ…。

「どぉりゃぁああああああああああっ!」

 腹の底から声を上げながら突進、加速をつけて力任せに投げつける。

 ゴォンと重たく、鐘を打ったような音を響かせて貯水タンクが頭部に命中し、大百足がよろめく。タフさもそうだが馬鹿力も

戦い方も常識外れ、一等潜霧士は怪物揃いと言われるが、ユージンなどその最たるものである。

 銃器類を装備して大穴に入るユージンだが、しかしその戦闘方法は、究極的には特定の武器に依存しない。時には鉄骨、時に

は貯水タンク、時には岩塊、目についた利用できそうな物を、何でも質量兵器として利用する型破りな戦い方が真骨頂である。

「…それにしたって、だ。こいつぁ効率云々言ってられる相手じゃねぇぜ…。そんなに時間もかけちゃいられねぇしよ…」

 呟いたユージンは、身を起こす大百足を見下ろした。もうもうと土煙が上がって霧と混じり合い、極端に視界が悪くなった中

で…

「仕方ねぇ…。雑にいくぜ」

 低い声に続き、バチチッと周囲に稲妻が走る。

 体表を走る放電の量が増したユージンは、二歩下がって距離を取ると、そこからいきなり猛ダッシュに入った。

 屋上の倒壊した縁まで、たった5歩で最大速度。巨躯の肥満体が信じられない加速を見せ、雷電を纏って宙に跳ぶ。

 そうして上空20メートルに一瞬で至ると、バチバチと帯電していたその全身は放電が唐突に収まり、淡く燐光を纏う。光を

帯びたレッドゴールドの被毛は、黄金を溶かし込んだような眩い金色に染まっていた。

 これこそが、ユージンが宿す異能。名称は「雷電」。

 名の由来になっている放電現象は、しかし異能を発動している時に見られる副次的な物に過ぎない。その真の性質は、ユージ

ン自体が加速器となって生成する特殊なエネルギーと、その放出及び制御にある。

 普段銃に込めて使う光の弾丸は、生成したエネルギーを特殊な力場で意図した形状に定着させた物。衝撃で弾けるそれを銃の

メカニズムを利用する事で収束性を高め、射撃という形での攻撃に用いている。

 しかし、「そうしなければ使えない」という訳ではない。

「ちぃと喧しいぜ」

 跳び上がり、胸を反らして腹を突き出すように思い切り振り被って、拳を握った右腕を大きく後ろに引き、ジャケットをはた

めかせて大百足を睥睨したそこから、金熊の巨体は後方に光の粒子を撒き散らした。

 ユージンの背面でドンと、花火が上がった時のような腹に響く音が鳴り、エネルギーが爆散して巨躯を撃ち出す。背後で霧が

押し退けられ、ドーナツ状の輪になって広がる。

 背中にロケットブースターでも詰んでいるような、衝撃波すら発生させる空中からの急加速。音速に迫るスピードで吹っ飛ん

でくるユージンを、大百足は避け損ねた。

 巨漢が振り被った右腕の、肘の辺りでも続いてエネルギーが弾け、大百足と接触する寸前にドンと音を連ねる。その頭部に、

一瞬で肉薄したユージンが振り下ろした拳骨…一際眩く発光する拳が命中する。

 スパークが走り、光の粒子が飛び散り、まさに雷電その物の轟音が響いた。

 大百足は頭部の大部分を抉られる形で吹き飛ばされ、そこに引っ張られる形で巨体その物も飛び、地響きを立てて倒れ込む。

 素拳一撃。

 大百足を撲殺したユージンは、その爆砕の一撃による余波で後ろに押し遣られつつ、ドシンと駐車場に着地した。

 そして巨漢は、無数の脚をワキワキさせている大百足の様を注意深く見つめる。まだ動いてはいるが、致命傷である。生存の

ための動きではなく、失われた命が遺した慣性のような動きだった。

 ユージンの異能は、特殊なエネルギーの生成と放出、そして制御。これを活用した物が、今見せたような、大百足すら圧倒す

る肉弾戦。

 衝撃や熱に反応して炸裂する、火薬のような性質を持つこのエネルギーは、ユージンの制御下では安定した物となり、暴発し

ない。反応装甲として防御に利用する事も、放射して対象を破壊する事も自在である。

 しかし制御の有効距離は極めて短く、自分から数メートル離れただけで制御が及ばなくなるため、いつもは力場によって弾丸

の形に定着させ、銃器から射出する事で有効射程を伸ばしている。これは、自身の体から直接放射すると、垂れ流し状態になっ

て遠くまで届かず、効率も悪いからなのだが、銃弾への加工を経るとエネルギーがだいぶ減衰してしまうという弊害もある。

 つまり、消耗こそ大きくなり、射程も著しく狭まるが、自身の肉体からエネルギーを直接放出する方が出力が高まる。銃弾の

状態では通用しなかった大百足を、拳での直接殴打ならば一撃で沈黙させられるように。

 この異能の特色は、ユージン自身がこのエネルギーを自在に纏い、また自在に起爆もできる事。340キロを超える巨体は、

その全身に反応装甲とロケットブースターを積載重量ゼロで搭載しているに等しく、自身が高速突撃をする事も、接触爆砕によ

り相手を仕留める事も可能。

 ただし、汎用性が高く、素の身体能力と相まって非常に高い殺傷能力を発揮するこの異能には、重大な欠点がある。

 それは、消耗の大きさである。

 自身をエネルギー加速器兼投射機にするこの異能は、尋常ではなく消耗を強いるし負荷がかかる。全身に纏うような使い方を

ほんの数秒行なっただけで、ユージンの全身は夥しい発汗で濡れそぼり、急上昇した体温によって気化した水分が体中から立ち

昇っていた。

 オーバーヒートを起こしたユージンは、呼吸を落ち着かせながら周囲を見回した。

 大百足以外の危険生物はどうやら居ないらしい。道中静か過ぎると感じたのも、この表層ではイレギュラーとも言える大百足

が住み着いていたせいだろう。

 だが、危険生物が居なくとも安心はできない。霧が濃い上に粉塵のせいで通信状況が悪化し、タケミの所在が判らなくなって

しまっている。

(急いで探してやらなけりゃいけねぇ…。不安がってるだろうしな…)

 万に一つの間違いがあってもいけないので、大百足の絶命を入念に確認し、痙攣が止まるまで見届けると、巨漢は引き摺るよ

うな重い足取りで移動を始めた。

(まぁ、タケミは不安だろうが、一緒におれば滅多な事じゃあお嬢ちゃんに危険は及ばん…)

 ふぅ、ふぅ、としんどそうに息を吐きながら、とりあえず通信が通り易くなる高い位置にでも陣取って、タケミに呼びかけて

探そうと考えたユージンは…。

「…!」

 駐車場の端から道路の跡へ出る直前に、足を止めた。

 その行く手で霧が不自然に蠢いている。風による物ではない。まるで羽虫の群れがそこで踊るように、狭い範囲でざわめき…。

「よう、「きょうだい」…」

 巨漢は口の端を吊り上げ、疲労が滲む顔に不敵な笑みを浮かべる。

「珍しいな。今日は何だ?」

 霧はまるでそこにモニターがあるように、狭い範囲で流動し、濃淡を生じさせ、文字らしき物を立体的に浮き上がらせた。

 数字とアルファベットからなるそれは…。

「方位…、座標?それに…」

 方位を示すアルファベットと、座標値、そして距離を示す数字が、立て続けに表示される。極々短時間で切り替わる表示を、

見逃さないように記憶したユージンは…。

「タケミの居場所か!?助かる!」

 霧が最後に示したのは、絵だった。

 イヌ科の動物の横顔…狼の絵。だが…。

「…何だ、それは…?」

 ユージンが表情を険しくする。

 霧が流動して描いた狼の横顔の絵。それに、並んで、追加で表示されたのは拳銃マーク。

 その図柄では、拳銃の銃口は狼に向いていた。

 チチチッ…と、接続不良を訴える電線のような音を立てて、霧の異変が収まり、描かれた絵が散って消えると…。

「タケミ!」

 ユージンは珍しく焦った声を上げ、疲労した体に鞭打って駆け出す。

 直後、霧の向こうで銃声が鳴った。

 

 その、少し前…。

「ここなら…」

 少年はミキを連れて後退し、植物園から500メートルほど離れた公園まで移動していた。

 霧が濃くなり、通信が安定しない。とはいえユージンが移動すれば、いくらか後には繋がる距離に入るだろう。

「ミキさん、休んでいてください」

「う、うん…。ごめんなさい…。ありがとう…。…所長さん…、大丈夫かしら…」

 全力疾走、それも慣れないスーツを着て、怪物から逃げるというシチュエーション。にも関わらず、足手まといになった事を

謝り、助けて貰った礼を言い、残ったユージンを心配できるミキを、タケミは尊敬した。

(ボクの何倍も怖くて不安なはず…。なのに、ミキさんはしっかりしてる…)

 フィアンセを探しに霧へ潜るその行動力は、この勇気に裏打ちされているのだろうなと感じた。ユージン達とはまた違う、強

さと勇気を感じて、見習いたいとタケミは思う。

「…他の人達、大丈夫だと良いんですけど…」

 素人ではないし銃火器で武装もしている。大丈夫だと良いなと祈りながら、タケミはかろうじてベンチと判る、苔に覆われた

物に目を止めた。

「あ。ここに座って休んでください」

 ベンチの上を手で払い、危ない物が無いか確認した上でミキを座らせた少年は、次いで、遊具の大半が崩れたり、土や草に埋

もれている中、シルエットが判る形で残っている滑り台つきドームに気付いた。

 ドーム内は子供達が入って遊べるよう空洞になっているはず。中に危険生物が潜んでいる可能性もあるが、もし何も居ないな

ら、ミキを隠れさせておくのに都合が良い。

「あそこ、ちょっと見てきます。皆と合流するまで隠れていられるかも…」

 疲れ果てて、項垂れるように背を丸めて休むミキを待機させ、そっと足音を殺して歩み寄った少年は、トーチで中を照らしな

がら覗き…。

「!?」

 そこに、仰向けに倒れた人影を認めた。

 潜霧スーツはペシャンコで、かろうじて人の形。

 ヘルメットはバイカーが被るような、正面の視界が大きく取られたタイプ。ミキや政府の潜霧士チーム達と同じデザインのマ

スクとスーツである。

 認識票や身分証を確かめるまでもなく、その遺体が探索対象…「井岡俊信」、ミキの婚約者である事は判った。

「………」

 タケミはしばし黙って、その亡骸を見つめた。

 中身が「減って」いる。よく見ればスーツの胸と腹の位置に穴が空いており、背中側から漏れたのだろう液体で下が変色して

いる。霧の中に生息する、食欲旺盛な小型昆虫などが、既に死体の大半を処理してしまっている事が窺えた。

 そして考えた。

 ミキは、この遺体が見つからなければ、もしかしたらフィアンセがまだ生きているかもしれないという希望を、この先も抱き

続けられるのだろうか?死んでいる事を確認するよりも、その方が幸せという事もあるのだろうか?

 だが、すぐさま否定した。見なかった事にして黙っておくという選択肢を。

 それは、ここまで命がけでやってきた彼女の覚悟に対し、失礼な偽りだと感じたから。

「…あの…、ミキさん…」

 少年は意を決して振り返り…。

「落ち着いて聞い…え?」

 自分にアサルトライフルを向けている、遺体と同じ格好の男と目が合った。

 タタタタンッと音が響いた。

 少年の腹部と左胸、そしてマスクの左頬に着弾し、メットが二つに割れて浄化用の缶が飛ぶ。

「えぶっ…!」

 肺腑を弾丸で抉られ、喉から上がって来た鮮血を吐き散らしながら、タケミは目を見開いてよろめいた。

 踏ん張りがきかず体が揺れて、同じく揺れる視界の中、銃声に驚いて立ち上がったミキの姿が見えた。

 混乱しながらもタケミが銃撃された事を悟る彼女に、包囲した男達がアサルトライフルを向ける。

 ドーム滑り台の外壁にドスッとよりかかる格好になったタケミは、

「なん…べ…?あなだ…だぢ…」

 込み上げて来る血でゴボゴボと喉が鳴り、発音もおぼつかない。押さえた腹からはドクドクと血が溢れて来る。

 疑問しかない。何でこんな事をしたのか、何故自分が撃たれたのか、タケミには全く分からない。

 だが、気付くのは遅れたが兆候はあったのだと、フラッシュバックしてきた直前の記憶で気付いた。

 男達は、ユージンが離れたタイミングで、「思い出したように」植物園を示した。

 そして、自分達で確認してみるのではなく、護衛対象であるミキに、大百足が潜んでいた穴を「覗き込むよう勧めた」。

 その直後、「霧の中でも目が利くタケミが視認するより早く」、男達は大百足だと叫んだ。

 援護射撃に思えた発砲は、しかし無意味。むしろ「大百足を刺激するだけだった」。

 そして、「一目散にあの場を離れて姿を消した」。通信で誘導する事もなく、沈黙して…。

 さらに言うなら、今男のアサルトライフルに装填されている弾丸は大百足を撃った時とは違い、軟質素材への貫通力を高めた、

スーツを貫く事も容易い特殊弾頭…。そこの遺体が纏うスーツにも、容易く二ヵ所弾痕を穿てたのだろう。

 仕組まれていた。ミキを罠に嵌めるよう、全てが周到に。おそらくは、カズマの承諾を得ずに現地判断で潜ったという先のダ

イブも、この男達がミキの婚約者を霧の中でどうこうするために…。

(ボクは…、バカだ…)

 紫紺の瞳を虚ろにしながら、タケミはそのままズルズルッと傾いて横倒しになった。