第五十話 「遠征準備と試験準備と」
下界よりだいぶ空気が澄んでいる白神山地。
他所よりも早く秋が深まるので既に風が澄み渡り、気温も肌に心地良く、空は抜けるように透き通って、薄い雲が棚引きなが
ら漂っている。
高地の冷え込む朝霧が日差しに追われ、溶けるように消えてゆく様を、家の前に佇むずんぐりした男が半眼で眺めていた。
不満げにも見えるし考え込んでいるようにも見える、思う所がありそうな顰めっ面は、牙も立派で厳めしい顔なので、本人が
さほど深刻な考え事をしていなくともだいぶ近寄り難い表情になってしまう。
大柄で太っている相撲取りのような巨体の猪は、消えてゆく霧を眺めながら思う。
(大穴の霧もこんな風に簡単に消えれば良いのに。山霧の儚さを見習って欲しいよな。…いや谷間とかに居座ると儚いどころか
結構しぶといけど)
自身も霧にまかれた経験がある被害者なので、朝夕に出る霧を眺めるたびに思い出してしまうタイキは、太い手首に装着した
腕時計を見遣る。端末と同期しているデジタルウォッチは出勤時刻が近付いている現在時刻を表示していた。
普段はナミと一緒に研究所へ入るのだが、同居しているレッサーパンダが昨日から研究所に泊まり込んでいるため、今日は一
人で出勤する。
良い天気になりそうだと思いながら、しかし地下施設での仕事だから天気は関係ないかと、益体も無い事を考えながら、重た
い弁当箱が入った肩掛け鞄を揺らして歩くタイキは、
「あ!おはよう!」
奇麗にコスモスが咲いている、民家の植え込み前で足を止めた。
少年が一人、植え込みのコスモスの葉や茎を丁寧に確認している。
「おはようございます。タイキさん」
植え込み脇で立ち上がったのは、肩幅もあり胸板も厚い、ガッシリした秋田犬の獣人少年。穏やかに目を細める少年の脇に並
んで、猪も植え込みを見下ろした。
「治ったんだな、葉っぱの病気」
「はい。何とか上手く行きました」
ホルスタインの婦人が世話している秋田犬は、来年度から学校へ通うまでは通信による独学を行なっている。そんな状況で当
面は通学も無いので、平日の日中は婦人への恩返しとして庭木や花の手入れをしていた。
(変わるモンだよなぁ。いや、獣化する時点でそりゃあ変わるんだけどさ)
タイキは秋田犬の少年を横目で見遣る。この町に来た頃の面影は、もう殆ど残っていない。
かつてこの少年は、歩く事も立ち上がる事もできなかった。
移動には車いすが必要で、それも自力では動かせなかった。
体は細く、弱々しく、一日の大半をベッドの上で過ごした。
それが今は、身長がみるみる伸びて180センチ近くになり、タイキに追いつきそうなほど。肩幅も広くなって体にも厚みが
でき、ラグビー選手のように逞しく力強い、筋肉質で骨太な体格に成長している。
「園芸とか農業の才能あるんじゃない?」
素直に感心している猪の言葉に、少年ははにかんだ笑みを見せる。
「ウジミネさんがお薬を教えてくれたからです。そうでなかったら、何が合うか判らなかったし…」
「けどな、地道な世話で治したのは君だよ。こまめな手入れや世話が続くのも才能だと思うな」
「…有り難うございます…!」
照れて笑う少年。素直で感じが良い子だと、タイキは改めて思う。
白神山地で天治療法を受けている少年は因子汚染ステージ6。「半獣人」というよりは「ほぼ獣人」、腹部正面側以外はすっ
かり被毛で覆われるほど獣化が進んでいる。薄い赤茶と暖かな白に彩られた体には、迫る死期を布団の中で待っていた頃の面影
はない。
健康状態は極めて良好。因子汚染は今も「安定して進行中」で、そう時間をおかずに完全獣化すると予想されている。当初は
治療施設から出られなかったが、今では健常な人間よりも力が強く、タフで、頑丈になっている。
(ここまで安定したらもう変調の心配も無いだろうけど、問題は…)
タイキは祈る。
この少年の異能が、本人にとって有意義な物となりますようにと。
そして、決して親友や、その父や、自分のような、明るみに出たら危険視されかねない異能が発現しませんようにと。
「そういえば、お兄さん土肥のお祭り行ってたんだろ?何か連絡あった?」
「クール便で土産を送るからって、電話がありました」
少年は嬉しそうに笑う。死の影が完全に払拭された明るい笑顔を、タイキもまた嬉しそうに口角を上げて見つめる。
そして思う。
「故郷の品です。届いたらおすそ分けしますね!」
この溌溂と笑う、床に伏していた頃とはあまりにも違う、ゴツく逞しい大男になりつつある少年と再会したら、養育者はどん
な顔をするだろうか、と…。
一方その頃、猪に注意されても宥められても聞く耳持たずに調べ物をしていたレッサーパンダは…。
(キモッ。この不自然なデータの抜け、何なんだし…)
すっかりぬるくなったアイスコーヒーを啜りながら、薄暗い部屋でモニターを睨んでいた。
研究所…地下にあるそこの、なお下。主任研究員などしか入れない、立ち入りと使用が厳しく制限された区画で、ナミは父か
ら得た情報を元に「インビジブル」…未確認のステージ9が発生し得る出来事を洗い出していた。
広い部屋にはデスクとモニターのセットが四つだけ。ここの機材は使用権限が極めて限定されるので、席数自体が少ない。白
神山地の研究所関係者では主任の馬と、施設全体の責任者であるホルスタイン、そしてナミの他3名のラボメンにしかアクセス
権が与えられていないので、席を多く用意する必要自体が無かった。
この研究所は、因子汚染と獣人に関してならば世界で最も研究が進んでいる場所と言える。大穴内の生態系などについてはグ
レートウォールの専門機関に及ばないが、霧の流出事故…因子汚染の被害者が発生した事故や事件については同じだけ把握でき
ている。
そして、秘匿情報へのアクセス権にかけても群を抜いている。データを洗い出すのにここ以上適切なところもあまり無い。
ナミはここで国内全ての事件全てを、タイキから苦言を貰いながら不眠不休で見直したが、流石にピックアップするのがせい
ぜいで、絞り込めるところまでは漕ぎつけていない。
そこでアプローチを変え、詳細が公表されているいくつかの事故について、公表内容と「政府内で押さえている事実」に差異
がある箇所はないかと五時間ほど前から確認作業を始めたのだが…。
「おはよう。もしかして徹夜しなかったか?」
視界の隅で気密ドアが開き、ツカツカと入室した長身の研究者をチラリと見遣ったナミは、「時々居眠りしたので睡眠は充分
です」と応じる。
この研究所の責任者である馬獣人、ハンニバル主任は、若手の返答で逞しい肩をすくめる。
「知ってるかいナミ君?そういうの世間一般では充分って言わない事」
「へー。そうなんですか」
「あー。知ってて誤魔化そうとしてるな?」
「さすがは主任。バレたし」
かなり偉い立場に居る割にやたらとフランクなハンニバルは、ナミがついているデスクの横に回り、キャスターつきの椅子を
引いて座ると、モニターを覗いた。
「未確認のステージ9か…。OMGP検知機が誤計測を行うとは思えないし、マミヤ氏も言うなら存在する事は疑いようもない」
報告を受けた段階で懐疑心の欠片も抱かずに受け入れた馬は、マミヤがニアミスしたステージ9は存在するという前提で物を
考えている。とはいえグレートウォールのラボに問い合わせはかけていない。同じく霧を研究する場所ではあるが、潜霧管理室
直轄のこことは違い、あちらは様々な政府機関と繋がりがあるので、下手に情報を流すと何処まで知られるか判らない。現段階
では内輪だけで調査、推測するのがベストだと考えた。
そうでなくとも、グレートウォールのラボメンや主任はナミと相性がすこぶる悪い。共同で物事に当たろうとしても上手く行
かないのは目に見えている。それに…。
「真鶴はあそこが管理していたからな。調べようったって鬱陶しがられるだろうし、素直な話は聞けないだろう」
ハンニバルの呟きに反応して、ホログラムパネルを操作していたナミの手が止まった。
「主任。真鶴が何て?」
「何って、ナミ君も気になったのソコだろ?それ、真鶴にあった施設のデータじゃないか」
ハンニバルはそう言うが、モニターに出ているのは数字とアルファベットのコードのみ。ナミが真鶴について調べていたと一
見して判る物ではないのだが…。
「ああ。数値類をいくらか覚えてたから判ったんだよ。私も事後調査委員会の一人だったからさ」
「20年前の事故の数値を?キモッ。どんだけだし」
「言い方ヒドいぞ?それに、漏霧に晒されたのが原因と考えて調べるなら、その辺りも外せないだろうなって、私も思っていた」
「黄金アケビの人工栽培に失敗して向こう数十年規模の負の遺産を打ち立てた施設の事故から調べ直すべき、…その根拠は何で
すか?」
「決まっているだろう?「施設内部で働いてた職員が現在は一人も生きていないから」さ」
「………」
ナミは無言になる。その点については気になっていた。
事故当時の死亡者はゼロ。ただし、職員名簿に載っている研究者は、その後全員が他界している。時期も死因もマチマチだが。
「まるで「殺して回ったヤツでも居るのか?」って死に具合だよ。今から当事者の証言を再確認するのは不可能になっている」
「潜霧管理室も関わってましたよね?そっち側に当時を知るひとは居ませんか?」
「それならまぁ居るけど、管理室が主導してた訳じゃないし、報告を受ける側っていう受動的な関係性だったからな。加えて言
うと、20年も前の話だ。今も現職のメンバーは大半が当時中堅から若手で、深く関わる事ができる立場に無い」
「その時の主任はそれなりの立場だったんですよね?事後調査委員会に加わっていたって事は…」
「うんにゃ真逆」
ポケットからキツいミント味のガムを取り出して口に放り込んだ馬に、レッサーパンダは横目を向ける事で問う。どういう意
味だ?と。
「その頃はまだ政府に召し抱えられる前でね。丁度いい外部研究者だったから、第三者の立場の専門家って事で調査委員に指名
されたって訳。ま、隠神の頭領の後押しもあった訳だが…。いつまでも転々としてないで実績を活かして根を下ろせ、ってね」
「イヌガミ?」
眉根を寄せたレッサーパンダに、「ん?言ってなかったっけ?」と馬は不思議そうな顔をした。
「私は隠神の頭領に拾われた大隆起被災孤児の一人だよ。異人の孤児、さらには因子汚染の兆候まであったからなぁ。拾ってく
れる所なんてそうなかった時代の話さ。まあ、まともに育った奴なんて皆無で、頭領に育てられたガキは私含めてだいたい全員
が霧に関わる人生を歩み始めちゃった訳だが…。それでも私はアイツよりだいぶマシかな」
「ぷぇっしょん!」
薄暗い洞穴にくしゃみが響き、驚いた白色のコウモリ達がバタバタと逃げ散る。
大穴の地下深く、崩落点の縦穴が近い風穴の行き止まりで火を焚き、飯の支度をしていた男は、
(あっちゃー…!貴重な胡椒が吹っ飛んじゃったよ!)
手持ち最後の香辛料をくしゃみで飛ばしてしまい、耳を倒して落ち込んだ。
俵一家の潜霧装束に似る、白波の紋があしらわれた作務衣のような衣類を纏い、脱いだ下駄を脇に置き、敷いたムシロに座っ
ているその男は、恰幅が良い肥満体の大狸である。
縦穴を下る雨水や地下水が豊富で、水に困らない水源付近。大狸はここに数日間過ごすための拠点を作っていた。
天井まで2メートル半も無い洞穴の行き止まりは、削って尖らせた石の杭を何本か壁に打ち込んで簡易ハンガーのようにして
ある。そこに羽織っている蓑をかけたり、ロープを渡して水洗いした布などを吊るしてある。
傍の壁に大きな和傘が立てかけてあるが、その近くには一抱え程の大きさのプラスチックコンテナが置かれ、その上に整備を
終えた小刀などの小道具が並べられていた。
手ごろな石を積んで作った簡素なグリルで直火焙りにしているのは鳥の肉。もっとも、脂が滴って皮が飴色になり、いかにも
美味そうな鶏肉に見えるそれは、実は鶏の肉ではない。狸は「だいたい鶏。あるいはその親戚筋で少なくとも他人じゃないナ」
と言っているし、味もまあまあ似ているのだが、正確には霧の影響で鱗を纏うようになった爬虫類と鳥類の中間のような、地下
洞穴内で暮らす生き物の肉である。
(味噌も醤油もじきに切らすし、一旦上に上がろうかナ)
この巨漢狸は長期潜霧で飢えたり痩せたりするどころか、数ヶ月にわたって大穴内で生活した挙句に体重を増やして帰って来
るほど環境に順応している。そんな狸でも、胡椒や醤油や味噌は掘って出てくる物でもないのでどうしようもない。一度潜れば
数ヶ月大穴から出て来ない生活でも、肉も茸も野菜も塩も大穴内で手に入れられるので食うに困らないのだが、調味料に困るし
霧の中にはラーメン屋もアイスショップも無い。
(よし。調査が一段落したところで買い出しに行こうかナ)
長城の外に出る事を買い出しと認識している辺り、もはや壁の外に住んでいるのか大穴の中で暮らしているのか判らない生き
物である。
「しかし何より臭いのは、だ」
再び白神山地の研究所。難しい顔で呟いたハンニバルが椅子の背もたれに体重をかける。研究員とは思えないほど逞しい筋肉
質な背に押されて、椅子が派手に軋んだ。
「奇妙な「抜け」だよな…。何かその施設、表記されている以外にも部屋とか設備があったんじゃないかって疑いたくなるよう
な、データと数値の不自然さがある。基礎部分に研究棟が丸々埋設されていたって不思議じゃない…と個人的には思う訳だが」
やはりか、とレッサーパンダは目を鋭く細めた。ナミが閲覧して引っ掛かりを覚えたのは、正にハンニバルが言及した点につ
いてである。
「タネジマ室長辺りに訊いたら、何か教えてくれませんか?」
「タネジマさんも我々が目にしている資料くらいしか引き継いでいないだろうし、望みは薄いな。もしかしたらこっちの方が詳
しいかもよ」
「頼れない、か…。仕方ないですが」
これが「インビジブル」…未確認のステージ9に関係する事かどうかはまだ判らない。が、ナミは常人の理屈や理論を三段跳
びで抜かし、確信している。
「ここ」に答えが埋まっている、と。
「ところで、お父さんが寄越した情報、全部じゃないって?」
「あの人は秘密主義の守銭奴ですからね。また色々とろくでもない事を企んでるんでしょう」
馬の問いにレッサーパンダは隠す事なく投げやりに応じる。
「色々って、どういう?」
「例えば…」
ナミは悪戯っぽく笑う。芝居ではなく、あの男ならやりかねないぞ、という面白がり方で。
「子飼いのステージ9が欲しくなったから、自分で抱き込むために情報を伏せている、とか?」
「まさかー」
笑うハンニバルは、その笑顔のまま「いやでも、あの人ならやるかもなー」と軽い調子で続けた。マミヤがどういう人物なの
かはこの馬もよく理解していた。
「案外、調べて欲しいステージ9を実はとっくに特定してたりして?」
「それで、交渉の舞台を固めるための下調べをこっちに投げている…って可能性はありますね。あの人の場合」
などと冗談交じりに言い交す二人だったが、例えそれが本当だったとしても別に驚かない。
マミヤは危険人物で、私利私欲のために何をしでかしてもおかしくない悪党である。だが、霧に抗う事に関しては人類の味方。
ハンニバルも息子のナミもその点だけは信用している。
もしステージ9を私的に押さえたがっているとしても、それを潜霧士や政府、そして自分達にとって不都合な形で利用する事
はないだろうと、ふたりとも確信していた。
そして、俵一家がタケミを加えたテスト用に計画を練り直して準備を進める間、神代潜霧捜索所は平常運転に戻る。
ユージンはヘイジを伴い、日帰りの浅い潜霧で済む様々な仕事を日に二つ三つのペースで片付ける。
長距離潜霧を控えているタケミは霧抜きを兼ねて昇格試験勉強をしつつ、アルのテスト対策用家庭教師も務める。
少年達が同行しない方が仕事が早い熟練潜霧士二人組は、二週間分の仕事を四日でこなしながら、暇を見てシロクマの勉強を
見てやり、タケミの遠征準備を進め、組合の会合や作業機の調整にも時間を割き…。
「バテたっス…」
カウンターの丸椅子からだいぶ尻をはみ出させて座るシロクマが、げんなりした顔で呟いた。
「まだ半分も終わってねぇぜ、ええ?午後の講義は四時間ある」
隣に座る金熊は、シロクマ以上に椅子から尻をはみ出させている。
潜霧組合が指定した研修施設の近く、カウンター席しかないうどん屋へ昼食を摂りに来ているふたりは、込み合う昼時直前に
椅子を確保できていた。
今日はユージンが講師を務める潜霧組合主催の研修会。大穴や潜霧の知識を学ぶ、四等以下の潜霧士を対象にした研修会で、
座学と基礎知識にだいぶ抜けがあるシロクマは所長命令によって強制参加させられた。
ちなみにタケミは今更この研修で新たに学ぶべき事も無いと判断され、参加免除。
今日は講師として振舞うユージンは、半袖ワイシャツを身に着け、スラックスをサスペンダーで吊っている。それらしく見え
るようにという理由で伊達メガネを着用しており、普段とはだいぶ印象が違う。
一方でアルは水色のメッシュ半袖シャツに、ジャージ生地の紺色ハーフパンツというラフスタイル。タケミとお揃いのお気に
入り衣服である。サイズはともかく。
「実技研修とかはないんス?」
連日の勉強にうんざりしているアルだが、毎晩遅くまでナルミとのメールのやり取りを欠かさず続けている上に、ゲームも楽
しみプラモも作り、今週末にはクロコダイルの家に作品を見に行く約束まで取り付けているので、傍目にはだいぶ余裕が窺える。
「実技もあるにはあるが、逆にヌシはそっちに出る必要がねぇ」
ユージンはしれっと応じるが、実際問題アルはかなり偏っており、昇格試験で心配なのはペーパーテストの部分だけ。潜霧に
関する実技や事故対応能力、戦闘能力、判断力については金熊が太鼓判を押すレベルで、特に危険生物などへの対応については
二等潜霧士級と評価している。
「実地試験で二倍の点数とか稼げれば良いんスけどね…。いつかそうなれがち…」
「腕が立っても、物を知らねぇと行き詰まる。大穴はそういう場所だ」
本土では馴染みがないものの、伊豆半島では潜霧士はありふれた職種。特に金に困った若い者が一攫千金を夢見て潜霧士を志
すケースは後を絶たないので、伊豆の食堂で潜霧の話題が出ているのは珍しくない。店主も周りの客もふたりの会話に全く興味
を示さない。
大盛り肉うどんがカウンター向こうから差し出され、受け取るユージンにアルは訊ねてみた。ダメモトで。
「危険生物たくさん狩って来たら点数免除してあげるよ制度とか作ってくれないっスかね」
「ヌシみてぇなのはともかく、点数欲しさに死人と怪我人がワラワラ出ちまうからダメだ。…お先」
肉うどんをズゾッ、ズゾッとリズミカルに啜り始めるユージン。間を置かずカレーうどんが提供され、アルも隣で豪快に啜り
始める。一杯目はあっという間に消えて、おかわりの二杯目が出てくるタイミングでシロクマは再び訊ねた。
「作業機の免許も勉強必要っスか?」
「当然だ。が…、昇格試験ほどじゃあねぇだろうぜ」
ユージンは作業機免許取得に限っては、アルはあまり苦労しないだろうと考える。
このシロクマは学習効率に興味の有無が大きく反映されるタイプ。率直に言うと、好きな事はいくらでも頭に入るが、そうで
ない物については勉強する行為自体を過剰なほど億劫に感じる困った性質。
アルはメカメカしい作業機がだいぶ好きなようで、ヘイジがボイジャー2のメンテナンス作業を行う際にはくっついて行って
手伝うし、熱心に説明も聞いている。何よりヘイジはユージンも認める作業機のエキスパートな上に、整備も構築も自前でこな
せるプロフェッショナル。アルに手ほどきできる先達として彼以上の人材は思い浮かばない。
今の所は捜索所で作業機を複数台運用する計画も所有する予定も無いが、ヘイジが手を離せない時などに代わってボイジャー
2を操縦できる者が居れば心強い。ユージン自身も基本的な操縦はできるものの、細かな操作はあまり得意ではないので、アル
がボイジャー2を御せるようになると助かる。
「興味があるなら取得するか?ヘイジも教えてくれるだろうし、そこまで難しくはねぇだろう」
「じゃ、昇格したら狙ってみるっス!」
口の周りをカレー汁で染め上げたシロクマが興味深そうに宣言し、金熊は三杯目のお代わりに口を付け…。
「タケミはん、ここな。コイツを回すとカバーが外れてハンドルが出るんや」
その頃、サソリにもヤシガニにも似た、濃紺の多脚型大型作業機…ボイジャー2の背中の上で、丸々した狸は丸々した少年に
指さしながら説明していた。
作業用のオーバーオールを腰の所までめくって下げ、上はタンクトップになっているヘイジも、動き易いジャージ姿のタケミ
も、耐加重ブーツとヘルメットと軍手は外さない。大型作業機が起動しておらず、固定されている状態で、作業機の上に乗って
いても、あちこちの外装や装甲板を開いたり閉じたりする際に手足を挟んでしまう事故は起こり得る。
「タイプが違っとっても、メーカーが違っとっても、例え部品集めて組み上げたお手製作業機やったとしても、必ずコレはつい
とるんや」
ヘイジが指さしている、直径20センチほどの丸いカバーを外した下を見つめ、タケミは呟く。
「これが、強制停止ハンドル…」
外装を外した内部機構、ガンメタルに輝く構造材の一部は、そこだけコンパスで円を描いたような切れ込みが入って窪んでお
り、中央を横断する格好で掴み易い形状のバーが設置されている。
「せや。ハンドルを引いて時計回りに180度回すと、躯体がロックされてシステムもダウンするようになっとる。チエイズの
ハッキング対策でAIの類は使用制限がかけられとるけど、システムがオート化されとる部分については万が一の事もあるし、
そもそも作業機は馬力が工事用の重機みたいなモンや。暴走やら事故やら不具合やらの対策は、法律で義務付けられとるんやで。
考えてみぃ。ウチのボイジャーがシステムに不具合起こして、ひたすら真っ直ぐ自動で走ってってもうたら…恐ろしいやろ?」
「………」
黙ってフルフル震え出すタケミ。ボイジャー自体はヘイジが作業と踏破性を優先して設計しているが、この質量と大きさ、頑
強さである。アクセルの故障で暴走する10トンダンプよりも恐ろしい。下手をすれば大穴を横断して突き当たった部分の長城
に穴を空けかねない。
「お、お、お、覚えておきます…!絶対忘れません…!」
硬い顔で繰り返し頷くタケミ。
神代潜霧捜索所が所有する大型倉庫兼整備所。ヘイジがボイジャー2の定期チェックを行うのに合わせて、タケミは潜霧用の
作業機について基礎知識を教えられていた。
何せ俵一家の新事業…正確にはそのテスト運行に参加させて貰える事になったので、生真面目なタケミとしては作業機に乗っ
ての長距離移動に際して注意すべき事を少しでも多く知っておかないと不安なのである。
「あの新型はボディ側面についとった。共通のマークがあるさかい、一目瞭然や。心配せぇへんでも見落とす事はあらへんで」
ヘイジはタケミの緊張をほぐすように、外したカバーの表面を見せながら笑いかける。そこには強制停止ハンドルの握り部分
をモチーフにした、丸に一文字のマークが記されていた。
「もうひとつ注意や。この強制停止ハンドルで止めると、作業機は再立ち上げの時に自己診断プログラムを走らせて、異常が無
かった時だけ再起動するんや。せっかく止めたかてまた暴走したら意味あらへんから、当然の処置やな。せやから、一回この手
段で止めたら再起動には最短でも五分程度かかってまう。で、ホンマに異常があったら、マニュアルモードでしか動かへんよう
になる。どっちにしろすぐには動かせへんから、このハンドルは緊急用かつ最終手段や。ま、最後の最後は自爆させて止める事
もできるようになっとるんやけど…。正直な、アレはゴメンやで…」
「はい…」
実際に自爆させた狸と、その場に居合わせた少年は、二度と経験したくない危機的状況を鮮明に思い出して身震いする。
武装もしていない初代ボイジャーと、最低限の武器しか携帯していなかったヘイジと、機械人形と初めて戦ったタケミ。その
状況でも複数体の一つ目小僧を相手に生還できたが、本当にギリギリだった。
「タケミはん、南エリアに行く理由の事やけど…」
ヘイジの言葉でタケミは委縮した。
白神山地の友人との話を含め、自分が南エリアへ行きたかった理由についてはユージンにもヘイジにも伝えてある。人探しと
いう理由を聞いた金熊は、軽く眉根を寄せていたものの特に意見はしなかったが…。
(やっぱり、不真面目だとか、怒られるかな…)
心の中で構えるタケミに、しかしヘイジは柔らかく目を細めて続ける。
「探し出して終わりにしたらあかんで?それは勿体なさすぎる話や。縁ができるかもしれへんチャンスやて、考えて行かなあか
んで」
「え?」
きょとんとした少年に、ヘイジは優しく笑いかけながら続ける。
「所長も言うやろ?ウチがヤベはんのトコなんかと上手くやっとるように、潜霧士同士の繋がりは大切や。知った相手やったら
潜った先で助け合う事もできる。危ない時には手ぇ貸して貰える。繋がりは財産やで?」
そこまで言って、「ま、10年もハグレやっとったワイが言うたかて説得力はイマイチやな」とヘイジはペロリと舌を出した。
「は、はい…!繋がり、意識します…!」
大きく頷いたタケミに、ヘイジは「そろそろ上がろか」と出っ張った腹を撫でながら言う。
「昼もだいぶ過ぎてもうたわ。飯食って戻ろか。タケミはん何か食いたいモンある?」
「えぇと…お蕎麦とか?」
「お、ええね!冷たい蕎麦しばらく食ってへんかったわ」
倉庫の電源を落とし、地上に出たふたりを薄い霧が包む。大穴内の霧ではなく、風が強くて生じた潮霧である。熱海の沿岸は
強風で白波が立っているが、配達の水上バイクやタクシーボートなどは、この程度の海なら平常運転。
「南についたら「月乞い」にも挨拶に行くんやて?」
「はい。せっかくだからお土産にウイスキーを持って行けって、所長にも言われました」
「そらええわ。きっと喜ぶで~!」
などと話しているヘイジは、
(所長が取り寄せた宮城峡…、土産に持たすヤツやったんか…)
昨日クロコダイルの配達人が届けに来た通販の品…ウイスキーの詰め合わせ、それがどうやら月乞いへの贈り物らしいと知っ
てちょっと残念がった。が…。
「五本ならあまりかさばらないからって言われましたけど、瓶だからちゃんと梱包しないと危ないですよね?」
「せやな!しっかり緩衝材で包んどきまひょ!おひょひょひょひょ!」
タケミの質問に答えてから妙な笑いを漏らす。
(届いた宮城峡は六本セットやった!一本はウチで飲む分やな!スパイスが利いたチーズか生ハムでも仕入れて帰ろか!せや、
土肥土産の干物もあるし…、ふひひっ!)
ホクホクする狸は、太い尻尾を忙しなく揺すっていた。
その日の夕刻、南エリアDゲート。
「お疲れ様でした兄者。そして他二名」
定期巡回の当番を終えて長城内部に戻ったグレートピレニーズを、直立不動の姿勢でアラスカンマラミュートが労う。なお、
同行していた他の二名は対応が若干素っ気ないが、これもいつもの事である。
「有り難うテンドウ。変わった事は無かったかい?」
団員二名を先に戻らせたジョウヤは、いつから待っていたのか定かではない弟に尋ねる。
「は!異常と呼ぶべき事象は皆無です。しかし報告すべき事が二点」
顎を引いたジョウヤが「聞かせておくれ」と促すと、テンドウは「では一点目」と、見えていない兄の目を見つめながら報告
した。
「本日も豊漁のアサリですが、熱海のラウドネスガーデンと漁協の間で正式に買い付け契約が締結されました。協同組合長より
訪問しての情報提供、「熱海の女将」より直々の電話連絡を頂いております」
「有り難いね。ダリアさんのお店にはもう何年も行っていない。そろそろ熱海を訪問する時間を作らないと」
手近なベンチに歩み寄り、腰を下ろす巨漢。その動作は流麗で正確、盲目である事を窺わせない。
「二点目。俵一家の会計方より、潜霧用ツール及び武装、消耗品類について、新ルートでの提供が可能になった後の需要見込み
の提出を求められました」
「判った。そちらについては潜霧組合の役員達や、他の団長達とも相談して、優先すべき物を吟味して回答しよう。大親分のご
厚意は嬉しいけれど、月乞いだけ恩恵に預かるのは気が引けるからね」
俵一家の新事業については、ジョウヤ個人宛にも先に打診があった。環境は変わって来るなと、グレートピレニーズは穏やか
に微笑む。
南エリアの物流改善は少しずつだが進展している。大穴を東西南北で結ぶ、潜霧環境の革新とも言える計画…グランドクロス
の前段階、その準備の準備の下準備と言ったところだが、熱海方面からの水上輸送に、土肥から大穴を突っ切る潜霧用品直接輸
送など、去年まで話も出なかった物が次々と実現しつつあった。
加えて、マダム・グラハルトが特産品の貝類を買い付ける事を決め、直接委託した業者が南エリアまで来る事になっている。
(大規模流出から十年…。皆で苦労を分かち合って来たが、ようやく…)
ホッとすると同時に、肩が少し軽くなるような思いだった。
父母が亡くなり、若くして南エリアの支柱となり、その重責を担ってきた狛犬は、ほんの少しだけ負担が軽くなった。肩の荷
が下りる事は、霧から上がらない限り無いのだろう。それでも…。
(少しは、「贅沢」をしても許されるだろうか…)
多忙故に挨拶がおろそかになっていた古い知り合いと旧交を温めたい。
甥が暮らす熱海が今はどのようになっているのか確かめたい。
そして、姉の墓にも参りたい。
(テンドウには、姉さんとあの子の事をいつ伝えるべきだろう)
そんな思考を断ち切ったのは、他でもない弟の「兄者」という呼びかけ。
「お疲れのご様子。戻って休息を取られますよう」
「ああ、そうだね。そうしよう」
腰を上げた巨漢が歩き出し、その後ろにアラスカンマラミュートが付き従う。
風が強い、ひと際濃い霧にけぶる長城の外へ、岬の狛犬は連れ立って姿を消した。
その同時刻、そこからあまり遠くない建物で…。
「今週末から有給を使います」
セイウチの大男がテーブルに分厚い手をつき、身を乗り出して宣言すると、同じ卓を囲むメンバー十七名は『何で敬語?』と
揃って突っ込んだ。
前のめりになり過ぎて、脂肪過多な鳩尾から上がテーブルにでっぷり乗っかっているセイウチは、「久しぶりだし突然だし、
迷惑をかけるかな、と思ってだな」と真面目な顔で応じる。
ここは豊平丸潜霧団の事務所。とはいっても、あちこち錆が浮いたコンテナハウスを、パズルゲームのブロックのように乱雑
に繋げて溶接したそこは、南エリアで五本指に入る潜霧業者の本拠地とは思えない外観をしている。
しかし、鉄板で幾重にも補強されたコンテナハウス連結基地は構造的に優れた面もある。部屋の増設も撤去も簡単で、傷んだ
部分を交換し易いため、過酷な南エリアの環境では運用し易い。
「いや別に良いですよ団長。何なら長期休暇でも。デカいヤマは全部片付いてるし、定期駆除も終わったばっかりだし、急いで
対応するような課題も上がってませんし」
団員のオットセイがぞんざいな口調で言い、他のメンツもこれに同意。
「ジオフロントに降下する予定もしばらくないからねー。団長居なくても支障ないかも。全然ないかも」
ゴマフアザラシもオットセイの意見に同調。引き留めようとする者は一人も居ない。
豊平潮満。豊平丸潜霧団の団長ではあるが、潜霧士としての腕は一流ながら、経営やら運営やらにはまるっきり向いていない
ので、団の運営面に関しては居なくても困らない団長である。
職人などにたまに居る、専門分野の達人だが商売やら何やらはセンスがまるで無い手合い…、シオミチはまさにソレ。団の最
高戦力ではあるものの、大仕事が入っていない限りは現場に必須な人材でもない。
加えて言うと、豊平丸潜霧団は月乞い同様に団員各々が経験豊富な手練なので、よほどの事態に陥らない限りはシオミチ抜き
でも何とかできる。
「ワタシ不在中はあんまハッチャゲんなよ?基本運営で良いがら。留守中に重傷者出されだら気が気でねぇべさ」
素の口調に戻って念を押すシオミチに「適当にサボります」「程々に手を抜きます」「何なら休んでます」とメンバーが口々
に応じる。団長への受け答えがだいぶ雑。
「で、休み取ってどこ行くの団長?」
ゴマフアザラシの問いに、セイウチは頬をポッと赤らめて答えた。
「熱海まで…。タケミちゃんに会いに…!」
「アポは?」
「サプライズ訪問!故にアポ無し!」
「取った方が安全じゃないです?アポもホテルも」
結局、団員達の忠告を聞かなかったシオミチは、連絡を取らずに休暇予定を立てた。
タケミが土肥経由で南エリアを訪問する予定になっている事は知らないまま…。