第五十一話 「同好の士とひと時の幸福」

「異常はない。が…」

 レンズを重ねて倍率を変えられる工業用眼鏡をかけた狸が、吊るされた潜霧服のチェックを終えて口を開いた。

「が、何だ?気になる事でもあったか?」

 口ぶりが気になって訊ねたのは、客用の長椅子にどっかと腰を下ろしている熊の巨漢。赤味が入った金の被毛は、天井に設置

された無数の照明で普段より明るい色に見える。

 その隣で、太ももをピッタリ閉じた上に握った手を乗せている丸い少年が、緊張気味にゴクリと喉を鳴らした。

 据わった目の狸は明らかに不服そうだった。

 タケミの潜霧装備は、愛刀の黒夜叉以外全て相楽製作所の工房長…相楽源治のオーダーメイド品。スーツもマスクもトーチも、

その他の小物類に至るまで、熱海の潜霧士が憧れる相楽製作所のワンオフ。それを不満顔で見つめる製作者は…。

「パワーアシストが、あまり働いていない…」

 ユージンが横目でチラリとタケミを見遣った。

 人狼化していない状態でも、タケミの身のこなしは標準的な人間の水準を上回る。人間の姿でいても半分獣人のような物なの

で、霧を見透かす視力や反応速度、瞬発力などは一般人の比較にならない。

 とはいえ、ゲンジはタケミの身体能力を把握した上でスーツを作ったのである。その調整にも拘わらずパワーアシストによる

繊維等の摩耗が無いという事は…。

「おそらく、単純に身体性能が上昇しているだけでなく、動作から無駄が削ぎ落されている…。負荷に反応してアシストする機

能が作用しないのは…、多くのケースで理想の出力まで、自力到達し、過剰な負荷が生じる動作をしなくなったせい、か…」

 ブツブツ呟くゲンジは、タケミとユージンの前に来ると難しい顔で腕を組む。

「パワーアシストが働いているのは、ほぼ下半身のみ…。走力の強化や持久走の助けにはなっているようだ。…が、上半身は機

能した回数が極端に少ないらしい。回路も繊維もほぼ新品同様だ。そこで、提案する…」

 もしやサイズが合っていないようだと言われ、体重増加についてつつかれるのではないか?とドキドキしていたタケミはホッ

と安堵し、ユージンはゲンジを見つめ返して「どんな提案だ?」と先を促す。

「戻ったら、スーツの構造を見直し、現在のタケミに即した装備に改良する。…「機能特化」。腕力も腕の振りも、補わなくて

良い分だけ、「他の機能」に工夫を凝らせる…」

 これまでタケミが着用した歴代のスーツは、ユージンの希望により「バランス良く耐久性に優れた仕様」として製作されてき

た。これは金熊が少年の生存を最重要視していたからである。

 だがゲンジの見立てでは、もうタケミはスーツに庇護される者ではなく、既にスーツを「武器」として扱える技量を備えた潜

霧士になっている。

「三等になれば…、工房からも、個人からも、素材確保の護衛依頼をする事もあるだろう…。その時は安く頼む」

 タケミが三等資格を得られたらと話を持ち掛けたゲンジに、今でもヘイジとボイジャー2を出して依頼をこなせるが?と言い

かけた金熊は、危うい所で言葉を飲み込む。

 気持ちが分かる…とは言わないユージンだが、サガラ兄弟の顔を合わせ難い関係性…特にヘイジが兄を避けたがる理由につい

てはまぁまぁ理解していた。

 期待された工房職人としての生き方を蹴り、めくるめく冒険に憧れて西エリアへ発った弟。

 親方に口利きした兄は顔に泥を塗られた格好な上に、才能を活かす道を捨てた弟の選択自体に腹を立てている。

 タツロウを養育していた間も援助を求めなかった事から窺えるように、ヘイジの方も折れるつもりはない。先代工房長の厚意

で用意して貰えた働き口を蹴った弟を、ゲンジも許していない。

 喧嘩別れしてそれっきり。ヘイジが土肥に行ってからは、兄弟は一度も会っていないし口もきいていない。ユージンから見れ

ばどちらが良い悪いで決着する話ではなく、意地の張り合いである。

 ただ、不仲は憎悪に発展するほど深刻ではないと、ユージンは考えている。

 少なくともヘイジは工房の賑わいを気にかけているし、ゲンジはゲンジで、ヘイジが神代潜霧捜索所に加わる事になった際に

は、ボイジャー2のベース素体としてレッドアンタレスを内密に提供している。

 袂を別つ事になっても、互いの事をそれほど疎んではいないのである。

 気を取り直して、ユージンは「そうだな…」と呟いた。

「タケミとアルが三等になったら、ヌシの護衛に派遣するか。潜霧、目利き、どっちも良い経験になる」

 ゲンジは三等潜霧士の資格を持つ。潜霧業は引退しており捜索依頼は受けないが、素材を取得するために自らダイブする事も

ままある。その探索作業に若手を同行させるのもアリだとユージンは考えた。

 

 メンテナンスを受けたスーツと潜霧用具一式と土産などの諸々を、ゲートの受付経由で土肥へ発送してから、ふたりはモール

を出て熱海の街へ出た。

 少し高い位置…隆起した岩盤の上にテラスが作られた展望カフェで、金熊は輝く海を眺める。

 テーブルの反対側についているタケミが何気なくその視線を追うと、水上タクシーであるボートが数隻、高い波を立てないよ

う速度を落としてすれ違うのが見えた。

 経済観念が庶民派のユージンが普段はあまり利用しない、少し値が張る洒落たカフェでの軽食。朝八時半という時間帯もあり、

席は空いていてテラスは広く感じられる。若い潜霧士が自分へのご褒美で訪れたり、物好きな「本土」の観光客が景色を楽しん

だりする…、そんな場所を金熊が選ぶのは珍しい。

「足が速け作業機に乗るのは、初めてになるな…」

 ボソリと呟くユージンに、「はい…」とタケミが控えめな相槌を打つ。懇意にしているヤベチームの作業機は運搬や土木作業

向きの物ばかりで、ボイジャー2に至っては機動性よりも安定性とベースとしての多機能性を追求した超大型作業機。他にタケ

ミが乗せられた経験がある作業機も、全て多脚歩行型が中心だった。

「何処かに頼んで経験させて貰っとけば良かったか…」

「………」

 ここで「大丈夫です」と言えないのがタケミ。正直なところ不安はある。

「…腕利き揃いのキャリアーが配備されとるらしい、心配は要らねぇだろう」

 自分の懸念が少年を不安がらせてしまった事に気付いた金熊が、気を取り直したように続けたそこへ、ウェイトレスがトレイ

を手にして歩み寄った。

「チキンサンドとポテトオニオンフライセットとコーヒーフロート、それぞれ御二人様分お持ちしました。ご注文は以上でしょ

うか?」

「おう、有り難うよ」

 襟元に手を入れたユージンが、豊かな被毛に埋まっていた潜霧認識票を取り出し、ウェイトレスが差し出したスキャナーに読

ませて支払いを済ませる。

 獣人が多い伊豆でも2メートル半の大男などそうは居ない。一目でそうと判る熱海の大将の初来店に、対応するウェイトレス

は勿論、他のスタッフも興味津々である。他者の目線に敏感なユージンだが、悪意のない視線についてはいちいち反応しないし、

ひそひそ噂されても咎めない。殺気には鋭敏だが好奇心にはおおらかなのである。

(美味しそう…)

 タケミの喉がコクンと鳴る。このカフェでは、合成油や合成タンパク質の整形肉などを一切使用していない。伊豆半島では値

が張る一枚肉のフライドチキンを挟んだ、パンまで高品質のサンド。タマネギとポテトのフライも店舗で揚げている。特に、深

煎りのコーヒーにアイスを浮かべた新商品のコーヒーフロートが先月から話題になっており、タケミが気にしていた事をユージ

ンは把握していた。

「南に行ったら、土産を「月乞い」とドク達に届けてくれ。判らなくなったら連絡を寄越せ」

「はい」

 食事に取り掛かりながら、ユージンはタケミに南エリアでの自由行動中の話をする。本人は知らないが叔父である字伏兄弟に

顔を見せるのも、ユージンの古馴染みであるマヌルネコのドクターに挨拶するのも、頻繁にはできないので貴重な機会だった。

 が、ユージンが本当に気にしているのは、そこではない。

(過保護か…。心配性か…)

 タケミの自発的な申し出を尊重して許可を出したユージンだったが、内心、少し心配していた。

 少年の腕前についてはもう心配無用。実力も知識もついた、三等昇格にふさわしい一人前の潜霧士。機械人形とも渡り合える

ようになった今、大穴表層で脅威となる物は僅かしか存在しない。

 誇らしい成長ぶりだと思う。思うのだが、いざ一人で送り出す段階になってユージンは落ち着かなくなっている。

 また、タケミが南エリアへ行っている間に、ユージン自身にも用事が入り、伊豆を離れて東京へ出向かなければならなくなっ

た。万が一の事があっても、いざとなれば最短距離で南エリアへ直行…といかなくなってしまった事もまた、不安のタネとなっ

ていた。

(タケミが一人前になっても、ワシが心配性じゃ話にならねぇぜ。ええ…)

 などと、内心で自分を戒めているユージンの向かい側で、チキンサンドを黙々と食べながらタケミもまた考えている。

(所長、あっさり認めてくれたけど…、やっぱり止めないんだ…)

 もしかしたら寸前になって、やはり未熟なので行かせられないと言われるかもしれないと心配していた。

 だが、思えばしばらく前から金熊の態度は変化してきている。

 祖父の死後ユージンの元に身を寄せ、所長と所員の関係になり、潜霧士として師事するようになって以降、それまで優しいど

ころか甘かった金熊は、少年に厳しく接するようになっていた。

 しかし土肥で機械人形を退けて、初めて明確に手放しで褒められた事を皮切りに、小言も無くなり、叱られる事もなくなった。

単純にタケミがミスをしないようになったのもあるが、ユージンが先回りして注意を促すケースが皆無となっている。もういち

いち言わなくともタケミなら大丈夫だという、信頼に基づいた態度の変化だった。

 そもそも、必要と考えて厳格な所長として振舞っているだけで、元々のユージンは子供を猫可愛がりしてベタベタに甘やかす

性分。あえて厳しく接するのは本人にとってもストレスだったので、だいぶ気が楽になっている。

「俵一家の縁者も一緒で、短ぇ間だが、一応ヌシにとっては初めての単独活動だ」

「はい…」

 気を引き締めろと言われるのだろう。そう感じて背筋を伸ばしたタケミだったが、

「油断だけするんじゃねぇぜ?あとは、いつも通りにやればいい。ヌシなら心配要らねぇ」

「は…、はい…」

 予想外の励ましで驚いてしまう。

 そして思う。信用して送り出してくれる所長に恥じないよう、仕事をしっかり果たそうと。

「戻ったらまたここに来るか。今度は所員総出でな。コーヒーフロート、案外美味ぇじゃねぇか。ええ?」

「は、はい!」

 嬉しそうに返事をした少年を映し、コバルトブルーの目が細められた。

(そうだな。厳しく締め付ける必要はもうねぇんだ。昇格試験が終わったら、祝いに旅行でも行くか…。しばらく大島にも行っ

てねぇし、慰労も兼ねて…)

 タケミを送り出す自分の胸の内を、ユージンは細かく吟味する。

 不安、心配、それらの他にあるのは僅かな安堵と、自分の手がかからなくなりつつある少年の、巣立ちを見据える寂しさ。

(子離れってのは、こういう事かもな…。おい、本当はヌシらが経験するはずの事だぜ?兄弟…)

 亡きタケミの両親の事を思いながら、ユージンは口の端に微苦笑を乗せていた。

 

 同じ頃、シロクマは実家…養母のマンションでソワソワウロウロ歩き回っていた。

「落ち着きなって。ウロウロしたって何も変わりゃしないよ」

 キッチンで鍋に向かっている肥満体の雌虎が、後ろを行ったり来たりしている養子を、振り返らずに宥める。

「判ってるっスけど~…!」

 黒いタンクトップに迷彩ズボンという、休憩中の女性兵士のような格好にエプロンを着用したなかなかにシュールな姿でダリ

アが見下ろしているのは、シチューが入った鍋。

 昨夜店じまいしてから煮込み始めたビーフシチューは、トマトとワインを贅沢に使ったダリア入魂の逸品。友人の家に遊びに

行くのに手土産が欲しいというアルの要望を叶える物。

 完成したシチューの温度を一時間ほど自然放熱で冷まし、食材に味が沁み込むのを待ってから、密閉できる蓋つきの鍋に移し

替えるダリアの後ろで、アルはソワソワと落ち着きなく作業の完了を待っている。

「獣人の友達なんて白神山地か伊豆でなきゃできないからね。知り合えた偶然は大事にしなよ?」

「うっス!デアイ!ダイジ!」

「大丈夫だとは思うけど、温め直す時の注意点と手順はメモで付けとくよ」

Thanks!

 嬉しさと楽しさで落ち着かない養子の気配を背中に感じつつ、ダリアは笑っていた。

 伊豆半島には子供が殆ど居ない。護るために居る大人と、稼ぐために居る大人と、その他の大人ばかりである。だから白神山

地にでも行かない限り、タケミ以外に遊ぶ相手は居ないだろうと思っていたのだが…。

(多少歳が離れてても、趣味が合う相手…しかも同じ獣人なんて貴重な友人だ。そりゃ嬉しいだろうさ)

 自慢のシチューとスライスしたバゲット、調理メモを密閉ボックスに詰め込んで、ダリアはアルを振り返る。

「さあ、準備できたよ!」

 ずっしり重い運搬用密閉ボックス…そのまま大型リュックに入れて行ける品を、テーブルにドンと置いた雌虎に、シロクマが

ギュッとハグをする。

Thanks 母ちゃん!」

 微笑ましい養子の喜びぶりで嬉しくなったダリアは、尻尾をゆったり振りながらハグし返し、シロクマの背中を撫でてからポ

ンポンと軽く叩いた。

「行っといで。失礼しないようにね!」

「うっス!」

 意気揚々と玄関を出てゆくシロクマを暖かい眼差しで見送り、ダリアは目を細めた。

(舞い上がっちまってまぁ、可愛いねぇ…!伊豆住まいじゃあ同じ趣味の友達なんてそうそうできないだろうし、仲良くやれる

と良いねぇ)

 

 テーブルの上をウェットティッシュが往復する。来客に備えて椅子やテーブルなどをアルコール消毒し、1メートルほどの長

さの棒状コンパクト掃除機をかけ、忙しなく部屋を往復するクロコダイルは、

「やっべ、汗かいた…」

 何度目かの時計確認の後、額の汗を腕で拭う。

 今日は朝からこの調子。昼飯を持ってくるとの知らせを受け、キッチン周りから始まって家の隅々まで徹底的に掃除したのは

昨日の事。もう充分にも関わらず、今日はまた気になって目についたところを掃除している。

 落ち着きが無いのはアルだけでなく、初めてこの家に客を入れるイズミも同様。そもそも、人当たりが良く社交性はあっても、

実家住まいだった頃から友人が部屋に入れた事もなかったクロコダイルにとって、実質的に人生初の友達招待。平静でいるのは

なかなか難しい。

「アルビレオさんが来た時に汗臭くなってたらやっべぇ~…。ステラ、ちょっとシャワーしてくる!」

 テーブル上に置かれている、コリーが彫られた懐中時計が、ごゆっくりとでも答えるように、あるいは呆れて雑に返事をする

ように、赤いランプをチカチカと明滅させた。

 

 

 

 ダリアのマンションから、バスを利用して15分ほどの距離。安定居住区画から離れた、岸壁が広範囲で崩落した海沿いの区

域は、道路脇に建つ家も殆ど無い。

 遺棄された建物も多く、いくつか残る潜霧士向けの簡素で安価な集合物件…「巣箱」が、地震で倒壊したまま残されたり、損

壊して空箱になったまま取り壊されもせずに、雑草が茂った空地だらけの風景に佇んでいる。

 普段はタケミの買い物に付き合って外出したり、潜霧の準備やボイジャー2の整備手伝いなどでモールへ出向いたりする程度

のアルは熱海の地理に疎く、初めて足を向けた地区の景観に少し戸惑っていた。

Ghost town…までは行かないっスけど、寂しいトコっスね)

 伊豆半島は地震が多い。大規模な地殻変動を伴う物でなくとも、日常的に震度3以上の揺れに見舞われ続けている。揺れと歪

みの蓄積は建物だけでなく地面も侵し、岸壁沿いは崩落の危険から住めなくなる個所もある。

 そういった地域からは必然的に人が居なくなる。転居先を政府があてがってくれるというのに、崖崩れの危険がある所に住み

続けたい者など居ない。人が住まない所へは埋設ケーブルや水道管を引き直す必要が無くなるので、ライフラインの復旧も諦め

られる。そうして徐々に人が減り、数年するとそこが崩れて地図が変わる。

 土地が少なく住居が高騰する熱海でも、いつ足元が崩れるか判らない所には誰だって住みたくない。捨て値で売られる物件に

しか住めないような貧困者や、物好きを除けば。

 崖崩れを恐れて新たに建物を造る者は無く、遺棄された空き家も日常的な微震と潮風で傷み、年々風化して潰れてゆく。次第

に、緩やかに、静かに死んでゆく区域…ここはそんな場所だった。

(路線バスの通りから200メートルも無い距離で、ここまで違うんスか…)

 欠けたコンクリートや、ラベルの色が褪せたペットボトルが散らばる道路。ひび割れの隙間から這い出た生きの悪い雑草が、

断崖絶壁を越えてきた潮風に揺れる。

 ギリギリ電線は通っているのだろう、街路灯脇に利用者がどれほど居るか判らない自販機が設置され、かつては潜霧士が詰め

込まれていたのだろう崩落した「巣箱」を眺めている。

 見渡す限りに人の往来も無く、主要道の車の走行音も潮風に半ばかき消されて遠く聞こえる。

 端末のアプリを開いても店の表示もバス停の印も出ない一角を、道路の線を頼りにシロクマは歩き、やがて崩れた工場の瓦礫

が撤去されてできた平地…元の駐車場にまで草が茂った広い空き地の脇に、一見すると車庫のように見える建物をみとめた。

 そのシャッター前に立っていた巨漢の鰐は、マップを見ながら歩いてきたシロクマが見えた途端、片手を大きく上げて呼びか

ける。

Hey!

 良く通る朗らかな太い声。端末をポケットにしまったアルは、手を振るイズミの姿を見るなり笑顔になって、大股に、足早に、

ひびだらけのアスファルトを歩き抜ける。

Howdy bro! Whahaha!

Howdy big guy!

 挨拶を交わしながらアルが両腕を広げ、つられてイズミも手を開く。自然に軽いハグをして、クロコダイルは少し戸惑った。

(案外体が覚えてるっていうか…。つられると自然にやるモンだなぁー…)

 薄いメッシュティーシャツ越しに、シロクマの弾力がある被毛と脂肪層の柔らかさ、そしてしっかりした骨格と筋肉の感触を

確かめる。意識しての事ではないが、接触時に少しでもターゲットの情報を得る事で仕事の成功率を上げる習性が、イズミにそ

うさせていた。一方アルも…。

(分厚いっス…!毛が無いから表面プニプニ、もっとゴツゴツして硬いかと思ってたっス…)

 ハグで密着した胸と腹に、イズミの柔らかな体表の感触を覚えた。胴回りは分厚く四肢も逞しい体躯だが、想像していた以上

に柔らかい。

 抱き合ったのは一瞬で、すぐに身を離したイズミはニカニカ笑ってアルを見下ろす。

「ようこそ!迷いませんでした?」

「目印無いけど見通しきくっスからね!違う家にピンポンする心配いらないっス!…Oh!

 イズミがシャッター脇のドアを開けて中に招き入れると、中を覗いたアルは感嘆の声を漏らす。

 スモークがかかった窓から入る光が、倉庫の真ん中にある鋼鉄の塊を照らしていた。

「イカしたバイクっスね!」

 照明をつけていない倉庫の中、マットブラックの大型バイク…ビッグスクーター型の車両をベースにしたカスタムバイクは眠

る獣のような佇まい。「うはははは!愛車です!」と応じるイズミの許可を得て近付いたアルは、重厚なボディを感心した様子

で、様々な角度から眺めた。

「高いんじゃないっスかこれ!?」

「中古の安物をカスタムしたんで、そこまでじゃないですよ」

「オテセイ!?スゴイがち!」

「半分は。うはははは!」

 見れば倉庫は作業場でもあるらしく、大型レンチや油圧ジャッキ、溶接用工具まで揃えられ、天井にかかった鉄材剥き出しの

支柱には、リモコン操作可能なフック付きチェーンが設置されている。

「秘密基地っぽいっスね!ワクワク感アリアリ気味!」

「お?判ります!?うははははは!憧れだったんですよね、秘密基地風の家に住むの!」

「あっちは何スか?別室?」

 倉庫の左手奥は壁で区切られ、別の部屋になっていた。トイレにしてはスペースが広過ぎると感じて疑問を抱いたアルは、イ

ズミに案内されてドアを潜り、そこが模型などを作るための作業部屋だと理解する。

「プラモやガレキの塗装は埃が天敵ですから、こうやって別室に分けました」

「カイテキそうっス!ここも秘密基地っぽいっスね!」

 そこには組み立てなどの作業に使うデスクが二つ。そして塗装用ブースがまた別のデスクに分けられている。電動工具まで揃

えた本格的な道具類チョイスもアルの好奇心を刺激した。

 さらに、四方の壁などはまるで模型店の一角のよう。ラックやボードを設置してデザインされた壁は商品棚を思わせ、塗料瓶

や未使用の消耗品、未組み立てプラモデルなどの箱がきちんと整理されて並べられている。拘りの作業場を、店に来たようでテ

ンションが上がるレイアウトにデザインするイズミのセンスに、アルは心底感心した。

「あれ?完成品は飾ってないんスね?」

 棚を見回して作品が見当たらない事にすぐ気付いたアルは、箱にしまっているのだろうかと首を傾げたが、「全部じゃないで

すけど、下の階に飾ってますよ」と説明されて納得する。

「とりあえず降りますか。荷物も重いでしょう?」

 言われて「そうだったっス!」と思い出すシロクマ。

「連絡してた昼飯、この中っス!食べる前に温めろって母ちゃんが」

「うはははは!気ぃ使わせちゃって済みません!」

 まずは荷物を下ろして一息ついて貰おうと、イズミが先導して階段を下り、居住スペースに足を踏み入れたアルは…。

「秘密基地っぽいっス!ニカイメ!」

 階下に広がるリビングスペースを見るなり、謎の万歳で驚きを表現。

「車庫を一階に数えると、地下三階までの四階構造です。元は水産加工場の施設だったんで、間取り変わってるでしょう?」

 興奮するアルにリュックを下ろさせたイズミは、目をキラキラさせて壁の一角を見つめるシロクマの表情に見入った。

 おもちゃ屋で佇む子供のような無邪気な笑顔。壁の一面を埋めるショーウィンドウに飾られた完成品プラモデル類を見つめる

アルの顔は、イズミにそんな物を連想させる。

That's amazing!

 精巧、緻密、丁寧。ずらりと並ぶイズミの作品は、自らもプラモデルを弄るアルから見ればその凄さが判る。ツヤツヤの新品

…ロールアウト直後の状態を思わせるモデルもあれば、長らく野戦で酷使された摩耗と損壊が表現されたモデル、そして迷彩や

汚れが塗装表現された物など、改修や塗装の方向性も様々。表現のレパートリーが広い事も驚きだが、丁寧な仕事ぶりが一目で

判る細やかな仕上げに目を奪われる。

「…このカウンターシェイド迷彩…画像で何回も見てたっス…。実物だと感動が割り増し商品券…!」

 我知らずラックの前に歩み寄り、至近距離からウインドウ越しに作品群を見つめるアルは、その隣の、装甲が削れたり土汚れ

や煤で汚れた処理が施された四足獣のモデルに目を移す。

 外装についた傷は実際に削られており、その内側がくすんだ金属色に塗られ、着弾の煤や焼けを表現してある。その爪楊枝の

先端のような小さな傷が、20センチほどの体長がある四足獣型メカの全身に満遍なく施されている上に、設定上熱を持つはず

の金属部分はガンブルーから鉄色のグラデーションで焼けが表現されていた。金属パーツに置き換えたと言われても信じてしま

いそうなリアルさに、シロクマは気の利いた感想も言えないほど衝撃を受けている。

 同好の士…などと気軽に言える物ではない。腕の差に愕然としながら、しかしアルは純粋に感動した。模型とは拘ればここま

でできる物なのだと、可能性の広がりにワクワクした。

「いっや~!あんまりそうシゲシゲ見られると、はっずいですね~!」

「恥ずかしくなんかないっスよ!?自慢するべきっス!あと威張るべきっス!ジマンシテ!イバッテ!」

 首の後ろを掻きながら照れているイズミに向き直り、アルが作品を指さして熱弁をふるい始める。

 このモデルのここが凄い、この作品はサイトにアップされていなかった、この三つの連作は共通性のある汚し塗装と部隊章が

醸し出すチーム感が素晴らしい…。

 思いつくまま感じたまま、剥き身の感想を興奮して並べ立てるアルの熱量に、イズミは嬉しいやら恥ずかしいやらで半笑いの

照れ笑いのまま表情が固まってしまう。

 結局十数分間も機銃掃射の勢いで喋り続けたアルは、我に返って「興奮し過ぎっスね…!」と苦笑い。

 作品群については後でじっくり見る事にして、アルは後ろ髪を引かれる思いでイズミに連れられ、他の階を見て回る。「仕事

道具」については表に出していないので、クロコダイルの住まいには客に見られて困る物は無い。

 好みが近いというかツボが似ているというか、ロマン重視でイズミが改築した隠れ家風のマイホームに、アルはレジャーラン

ドに連れて来られた子供のような喜び様。寝室とキッチンの地下二階、風呂場と洗い場の地下三階まで案内したイズミは、終始

ハイテンションなアルの反応で気を良くする。自分好みのリフォームを良い物と評価されて喜ばれるのは、価値観の近さを確認

できたようで嬉しい。

「オーシャンビューっスね!あの水上バイクは…」

「自前のです。業務用を払い下げて貰った安物ですけど」

 元水産加工施設の水作業フロアの風呂場。その海側に大窓が切られた一角は、海を眺めて湯涼みできる贅沢なブース。そこか

ら外に出れば桟橋に係留された水上貨物バイクと、壁に立てかけられた釣り具の一式が見えて、神代潜霧捜索所と似た海との距

離がやたら近い生活が窺える。

 一通り案内された後で地下一階のリビング兼趣味部屋フロアに戻ると、アルは改めてじっくりと、イズミが手掛けた数々の模

型類を鑑賞した。

 作業の細やかさや技術の素晴らしさは勿論、それ以上にアルを引き付けたのは「丁寧さ」である。

 好きでなければここまでできない。

 熱意が無ければここまでやれない。

 作品の丁寧さが、イズミがどんな気持ちで作ったのかを如実に物語っている。

「オレ、「組み立てワニ」さんの作品好きっス…」

 再確認したように呟かれたアルの言葉に、イズミは照れて視線を少し上に向け、尻尾の先で軽くヒタヒタ床を打った。真っ直

ぐでシンプルで、しみじみと口にされた言葉は本音だと、直感できてくすぐったい。

「ん?あれってもしかして…」

 作品を一つ一つ見ていたアルは、ふと視界の隅にきらめきを捉えて視線を動かす。

 ミリタリーテイスト溢れる塗装や処理が施されている機械群の中で、異彩を放つ人型の甲冑姿が仁王立ちしていた。

 腰に帯びた大小朱塗りの鞘。段が付いた装甲一枚一枚が、個別に成形されている大袖。三日月をあしらった兜を着用したよう

な頭部。戦国武将で言う「赤備え」を彷彿とさせる赤い甲冑姿の人型メカ、それは…。

「もしかして「ダンザイガー」っスか!?」

「お?知ってんですかダンザイガー?」

 知っている若い子は珍しいなと、イズミは目を丸くした。ダンザイガーはそもそも、ユージンなどが少年だった頃に放映され

ていた古いアニメである。イズミ自身も資料を漁って知り、視聴したクチで、リアルタイム視聴世代ではない。

「知ってるけど知らないがち?聞いただけで観てないがち?」

 アルの説明は曖昧ではあったが、詳しくないものの名前やタイトルだけは知っているというニュアンスはイズミに伝わった。

「観てみたいと思うんスけどね~。キカイニメグマレが無いんス」

 呟きながら、アルはダンザイガーのスケールモデルをしげしげと見つめた。アニメ本編ではもっと簡素なデザインなのだが、

イズミが作ったプラモデルは戦国武将の甲冑よろしく、鎧留の紐や金具まで彫り込んだり貼り付けたりとディテールアップされ

ており、情報密度が非常に高い。金具の細緻な金属色塗装は、赤い外装に良く映えて華やか。刀の柄や鞘の細かな装飾も見事な

塗り分けで、ため息が漏れてくる。

「全然詳しくないんスけど、カッコイイっスね…。こんな顔してたんスか」

「同感です。男前ですよねダンザイガー!」

「塗装も細かいし、漆器みたいな艶があるっス」

「あ、判ります?下地にブラックまでは普通にやって、朱色とトップコートに工夫して…」

 作った本人から技術的な解説を聞きながら、一つ一つの作品を鑑賞してゆくアルは、短い尻尾をずっとピコピコさせていた。

シロクマにしてみれば、解説員付きっきりで美術館を回るような物である。

 楽しい時間は過ぎるのも早く、少し見ていたつもりが気付けば正午になっており…。

 ぐぅ…。

 と低い音が鳴った。視線を下げて腹に手をやったシロクマの横で…。

 ぐぅ…。

 つられるように腹が鳴ったクロコダイルも、鳩尾を反射的に撫でる。

「あ!昼飯!」

「おっとそうでした!うはははは!気付いたら急に腹減りましたー!」

 イズミから塗装技法について説明され、夢中になっていたアルは思い出して声を上げる。イズミもまた空腹を実感して苦笑い。

 笑いあったふたりはすぐに昼食の準備にかかった。

 イズミは日頃から殆ど料理をしないので調理器具類は充実していないが、IHヒーターやいつもピザを加熱するオーブンレン

ジなど、利便性でチョイスした簡素な物は備えている。

 今回はダリアのメモを参考にシチューを温め直し、バゲットを焼き直すだけなので、そう難しい事もなく、時間をかけずに食

べられるようになる。

 メモの手順をしっかり守って加熱し直したシチューは、すぐさま食欲をそそる香りを発散し始めて、階段を通ってイズミの作

品に囲まれるリビング兼ダイニングまでシチューの匂いが充満した。

「良い匂いですねー…。腹減りが加速します…!」

「ヨダレ止まんないっス…!」

 リビングのテーブルへシチュー皿とバゲットを運びながら、イズミは少し後悔した。誰かを呼ぶ事を想定しないでデザインし

た家なので、こういう時になってから足りない物に気付く。背もたれも無い簡素な丸椅子を出してはきたが、来客用に立派なソ

ファーもあった方が良かったなと気にしてしまう。

 イズミが尻を落ち着ける大型チェアは、太い尻尾をそのまま後ろに出せるように背もたれ下部に四角く穴が開いた特注品。そ

れ以外の椅子も尻尾が邪魔にならないよう背もたれがついていないタイプなので、尻尾があまり邪魔にならない普通の獣人や人

間にはくつろぎ辛い品である。

 やがて、リビングに昼食の支度が整い、ローテーブルを挟んで着席したふたりは、

「いただきますー!」

「いただきまっス!」

 熱々のビーフシチューにスプーンを入れ、まずは一口。

「うんっ…!」

 目をパチパチさせるイズミ。うんっまい、と言いたい言葉すら途切れ、すぐに二口目を口に運ぶ。

 赤ワインとトマトベースのシチュー、凝縮された旨味が口内に広がり、顎の付け根が軽い痛みにも似た疼きを覚えた。味わい

を舌が十分に吟味する前に芳醇な香りが鼻へ抜け、ダブルパンチで味覚と嗅覚を揺さぶり、刺激されたせいか舌の根元から唾液

が湧き出る。

 ジャガイモは口の中でホロホロと崩れ、ニンジンは舌と上顎の間で押さえただけで潰れるほどトロトロ。主役の牛肉はワイル

ドな大ぶりブツ切りだが、味が沁み込んでろくに噛まなくとも蕩けるような柔らかさ。

 ダリアのシチューはレパートリーが多く、いずれも酒場の定番メニューになっている人気の品である。火の通り具合を見越し

て順番に投入される牛肉、ニンジンやジャガイモ、タマネギは、熟練の煮込みと火の見積りによって、舌で転がしているあいだ

にホロホロと崩れるほど柔らかい仕上がり。味も食感も満足度も群を抜く、正にプロの腕と経験が凝縮された一品。

 イズミは感動のあまり肥えた巨体を軽く震わせた。身震いを禁じ得ない、名曲の演奏を生オーケストラで聴くような精神への

揺さぶりがあった。じっくり火を通した上で一度冷まし、しっかり味を沁み込ませる一手間をかけた絶品ビーフシチューは、今

まで食べたどのビーフシチューよりも美味。稀にレトルト品を温めて食べたりもしていたが、もはやそれらとは別の料理と言え

るほどレベルが違う。

「うっわ…!うっま~…!」

 目をまん丸にして驚き、またブルルッと身震いしたイズミに、「プロっスからね、母ちゃん!」とアルは誇らしげに応じた。

「プローッ!?料理人なんですかお母さん!?どーりでっ…!」

「熱海で飲み屋で食堂みたいな店やってるっス。店長なんスよ!オカミ!」

「へぇ~!何て店なんですか?」

 早速カリカリのバゲットの先端をシチューに浸し、舌なめずりしたイズミは、

「ラウドネスガーデンって所っス!」

 手を止めてマジマジとアルを見つめた。

「…え?ラウドネスガーデンって…事は…」

 イズミも名前は知っている。熱海の潜霧士に人気の酒場は、一般人にも評判のグルメスポットだったので。実はクロコダイル

も何度か訪問を夢見た事はある。

 ただし、一般客は予約を取るのが難しい。ラウドネスガーデンは優先して潜霧士の予約枠を確保しており、一般客の予約枠は

あまり多くない。たまたま空席でも出ない限りは数ヶ月待ちが当たり前の混雑状況である。そのためイズミはまだ一度も行けた

事が無かった。

 しかし評判の有名店の料理を堪能できたという事以上に、イズミには気になる事があった。

 「ダリア・グラハルト」。ラウドネスガーデンのオーナーである彼女は、歴代で十名しか存在しない一等潜霧士。その事は潜

霧業界に詳しくないイズミも知っている。

 だから気になった。何故苗字が違うのか、と。

「そうっス。店長のマダム・グラハルトがオレの母ちゃんっス。正確には伯母さんだったんスけどね、オレ養子になったんスよ」

 調べればすぐに判る事なのだが、イズミはアルの生い立ちについても経歴についても一切検索しなかった。友人関係とはそう

いった物を根掘り葉掘り調べておく物ではないだろうと考え、あえて何も調べていない。だから正確な背景は判らないが、何か

事情があるのだろうなと察する事はできた。

「母ちゃんは有名人っスけど、苗字が違うから親子だってあんまり知られてないっス。あ、そんなに深い理由があるとかじゃな

いんスけどね?苗字違い」

 イズミが訊かなくとも、アルは何でもない雑談のようにその事を語った。

 シチューに浸したバゲットをシロクマが口に運び、満足げに顔を笑み崩すと…。

「良いお母さんなんですね」

 イズミは微笑んでそんな感想を口にした。

(似た者同士、か…)

 養親の元で育った自分の身の上にアルの境遇を重ねるイズミは、シロクマの屈託がない話し方から親子関係が良好である事を

察する。

「自慢の母ちゃんっス!…ところで、イズミさん皆に敬語なんスね?」

 問われたイズミは「あ~…!」と苦笑い。

「敬語とため口を使い分けるの、難しくないですか?なもんで、使い分けサボってます。うはははは!」

「判るがち!オレもそうっス!」

 自分もそうだという共感と嬉しさが先に立ったので、アルは気付かない。イズミが口にした、敬語の使い分けをしない理由…、

それが、ネイティブな日本語話者が言うには不自然だという事には。

「いっやー、それにしてもラッキーでした!有名な店だし食べに行ってみたいな~っては思ってたんですけどね?予約とか競争

激しくって!」

「そういえば潜霧士優遇とか聞いたっスね。普通は予約厳しいんスか…。いつも混んでるし納得気味」

 和気藹々と楽しむ食事と会話は、ふたりに時間を忘れさせた。

 途中でアルが、家ではビーフシチューにフライドポテトをつけて食べたりすると言い出し、イズミがレンジで温めるだけの冷

凍ポテトを出してきて、美味いけどこれカロリーヤバイヤツ、とふたりで大笑いして…。

 熱々のシチューで体温が上がり、冷房を強くし、イズミが冷凍庫に保管していたアイスのパックを出して、残ったバゲットに

乗せてデザートにし、アイス好きなのも似たところだと喜んで…。

 まさかのダンザイガーアニメデータ完全版を所有していたイズミにアルが視聴をせがんで、ダイナミックな演出と作画の上質

さに驚いて…。

「…っと、もうこんな時間ですね」

 午後六時を過ぎた頃、アニメの次回予告タイミングでイズミが時計を確認した。

「もうっスか…」

 名残惜しい気持ちのアルは、仕方なく腰を上げる。

 一階に上がり、倉庫前まで出て、色々見せて貰えて楽しかったと礼を言ったアルは、イズミの作品と自分の作品の差を改めて

知る一日になったと述べて…。

「最近作ったの、艶コートしても表面粗くなるんスよね。田舎で作ってた頃はそうでもなかったんスけど…。熱海は風が強かっ

たりするんスかね?風が無い日にやっても上手く行かないっス…」

「もしかして、湿度の影響じゃないですか?ミカンの皮っぽくなってます?」

 イズミのように上手く仕上げられない事をぼやいたアルは、クロコダイルの指摘でハッとした。

「それっス!湿度なんス?」

「霧が晴れてると忘れがちですけど、伊豆半島一帯は地熱の影響でほとんどいつも地面の水分蒸発しっ放しですから。霧が無い

日も湿度は常に高いんですよね。あ、そうだ」

 イズミはシャッター…倉庫兼作業場を振り返りながら提案する。「ウチの塗装ブース使いますか?」と。

「いいんスか!?」

Yep! 連絡貰えれば支度しときますから、気軽に声かけて下さい!」

「マジでガチで!?Thanks bro!

 しっかり握手したアルは、自宅前で見送るイズミを何度も振り返りながら去り…。

「………ステラ?」

 シロクマの姿が消えてから、クロコダイルはズボンのポケットから懐中時計を取り出した。蓋を開けて覗き込んだアナログな

文字盤上に、ホログラムの文字が表示される。

 ビーフシチューは美味かったか?と…。

「え~?怒ってんのか?」

―怒っている訳じゃなくて率直な感想を求めているだけ―

「なんか不機嫌そうじゃねぇの…」

―気のせい―

 頭を掻きながら室内に戻るイズミがドアを閉め、住む者も少ない周辺はすべての気配が消え去った。

 風の音と海鳴りだけが、まるで、もうここは人の住む地ではないと、警告するように響いていた。