第五十三話 「審問会」

 襟元に手をやり、着衣の乱れがないか確認した少年は、一般人にはおよそ用がない刀剣類を商う店のドアを潜る。

 途端に、着流し姿で帯刀している厳つい獣人店員…赤毛の虎と水牛が視線を向けたが、『いらっしゃいませ』と声を発したそ

の瞬間には、客を確認する瞳の鋭さが消えていた。

 行動を共にする面子との挨拶を終えた後で、タケミは刀鍛冶の直営店へ足を運んだ。勿論、懇意にして貰っている若い試刀師

へ顔見せするためである。ジュウゾウ相手なら仲立ちは必要ないと判断しているので、トラマルは一旦タケミと別れ、一足先に

本部へ戻っていた。

「あ、あの…。こんにちは…」

 静かで人が少ない店内では入店しただけで視線を浴びる。タケミは首を縮めて小さくなりながら挨拶した。

 客の姿はまばらだが、これは経営不振だからではない。駆け出し潜霧士には高嶺の花である、土肥の刀工による業物を商うこ

の店は、腕のある潜霧士か財力のある関係者でもなければ商品に手が届かないので、いつも客の数は少ない。

 店番であり案内であり用心棒でもある屈強な獣人たちは目配せし合い、赤毛の虎の方がゆったりとした大股で歩み寄ると、丁

寧に腰を折ってタケミに挨拶する。

「ようこそおいで下さいました不破様。ご来訪、誠に有り難うございます」

「え?あ、は、はい…。その…、お、お邪魔します…」

 大柄な虎が恭しく、上客を迎える態度で接すると、店内に数名居た潜霧士達が軽く驚いたり奇異の視線を向けたりし始めた。

タケミ自身はここの刀を愛用している訳ではないが、土肥の大親分俵早太の紹介なので、店でも賓客扱い。しかもジュウゾウが

気に入っている事を同僚達も把握しているので、対応は非常に丁寧な物になる。

 虎が対応している間に、水牛の方は耳に装着したイヤリング状の飾りに触れ、小声で何か囁いているが、こちらは奥で待って

いるジュウゾウにタケミの到着を告げていた。やり取りを終えるとその視線はタケミに向き、僅かに目が細められて微笑みかけ

る形になる。

「どうぞ奥へ」

 若輩者には分不相応な対応だと恐縮するタケミは、大柄な男に案内されて店の奥へ向かい…。

 

「遠出は明日からというお話でしたね」

 冷たい胡麻麦茶と水羊羹でもてなされる少年は、大きな河馬に「はい」と顎を引く。

 商品の試しもできる、藁人形と休憩用の席が設けられた、いつもの土間部屋。茶屋の椅子を思わせる席に並んで座るふたりは、

歳は程近いが体格は大きく異なる。基本的に他者と会話するのが苦手なタケミだが、ジュウゾウにはすっかり気を許しているの

で、変に硬くなる事も、どもってしまう事もない。

「心情的にもお忙しいでしょうに、御訪問、有り難うございます」

「いえ!ボクの方こそ、予定が詰まっている所に押しかけちゃって…」

 大きな河馬は、おくゆかしい少年の手土産…脇に置いた紙袋を見遣る。中身は各種茶漬けの詰め合わせ。パックされた鮭の切

り身やタラコなどが含まれる高級品である。

 手っ取り早く食べられるし消化も良いので、昼食休憩の茶漬けは重宝する…とかつて話した事を覚えていた少年の、心ばかり

の土産物に胸がホワホワ暖かくなった。

「潜霧の知識は心許ない素人なので、どうお声がけするのが適切なのか判りませんが、此度は運搬が目的との事。巻狩りなどと

違い交戦が目的ではない分、危険は幾分少ないかと。気を緩めろなどと愚を申す訳ではありませんが、その、何と申すべきか…」

 素人ながら危険が少ない仕事だと感じるものの、安心ですねと言って油断させては万が一の時に危うい。かと言って、普段と

違う出先でいつもと異なる面子との仕事にプレッシャーを感じさせたくない…。そんな具合でどう言葉をかけようか迷う河馬の

心遣いが、タケミにはちゃんと伝わっている。思慮深いが考え過ぎのきらいもあるという点で、よく似た二人であった。

「ありがとうございます。気を付けて行って来ます。あの…、南へ向かう他の皆さんも、刀のお手入れとかはここに…?」

 仕事に関わる事なので訊いたらまずいだろうかとも感じて、尋ねるうちに控えめな声のトーンに変わっていったタケミだった

が、ジュウゾウは「ええ」と二重顎を引く。同じ事業に携わる面子が支度を済ませているという事実は、同行する少年に漏らし

て問題がある内容ではない。それどころか重要な安心材料である。

「特に、今回責任者のおひとりとして同行なさるキンジロウ様など、愛用なさる得物が特別なので、ウチなどの数店でしか調整

ができません。長年ご贔屓頂いております」

「ああ、あの凄く長い片刃の…」

 かつて、瀕死の傷を負ったヘイジと共に救助、運送された際に、タケミはキンジロウの「義手武装」を見ている。

 土肥刀工会による業物。前腕の半ばから失われている左腕にそのまま被せて装着する、刃渡り1メートルにも及ぶ超硬ブレー

ド「首狩り出刃」。既に一線を退いたというゴールデンレトリーバーが、タンデムした高機動作業機の上からこれを一閃し、最

短距離でゲートを目指す隊の進路に入った野襖を一刀両断する様は、実に鮮烈な光景だった。

「利き腕だったとはいえ、流石に細かな挙動が難しくなったとの事で、丈夫さを重視した重量武装になっております。切れ味を

活かして切断するより、剣速を乗せた重い刃で叩き斬るという使用方法が追求されました」

 身幅も広く刀身も厚い上に長い、おまけに重量に難がある合金製なので、太刀や打刀とは比べ物にならない重さだとジュウゾ

ウは述べた。

「アル君の鬼包丁みたいな感じ…なのかな…」

「如何にも。武具として目指すところ、及び仕様は、あの重々しい業物に近しい物がございましょう。斬り、打ち払い、防ぎ止

める。一振りで多数の用途をこなせるよう設えられ、継戦性能も加味された品です」

 隻腕であるが故に、持ち替えや複雑な操作が求められる武装は取り回し難い。そのためにキンジロウの刀はああいった武器に

なったのだとジュウゾウは説明する。

「ここ数日の間にキンジロウ様以外の方々もお見えになり、それぞれの担当者が点検致しました。念には念をという事でしょう」

 これを聞いて、タケミは少し羨ましいような、しかしこれで良かったような、不思議な気持ちになった。

 タケミの愛刀…父の得物だった「黒夜叉」は、刀剣型であるにも関わらず手入れが必要ないレリックである。何せ、例え欠け

ても刃毀れしても、分子レベルでの自己修復により記憶された形状へ戻り、切れ味も復活する。研ぎ直しは勿論、日々の手入れ

すら不要な刀なので、技師に点検して貰う必要が無い。

 人付き合いが苦手で、ゲンジにスーツを調整して貰う事にすらいつまでも慣れないタケミとしては、黒夜叉の調整でいちいち

店頭へ行かなくても良いのは助かる。だが、こうしてジュウゾウと知り合い、武器の使い手と作り手のやり取りの話などを聞く

と、そういった行為が少し眩しく思えて来る。

「よろしければ、次は黒夜叉をお持ちください」

 まるで気持ちを読んだようなジュウゾウの言葉で、ピクンと肩を震わせたタケミは、

「研ぎなどの調整は必要なくとも、鞘や柄などの汚れ落としは請け負えます。まだまだ半人前ですので、こうお誘いして良いも

のか少々迷いましたが…。いずれ、ジブンの顧客になって頂ければと思っております」

 大きな河馬から柔和に笑いかけられ、一も二も無く頷いた。

 初めに会った時は、仕事の態度という事もあって表情に乏しい印象だったが、今ではよく穏やかな笑みを見せてくれるように

なった。それがタケミには嬉しい。

 同時にジュウゾウも、少年が遠慮がち過ぎるオドオドした態度を薄れさせ、慣れて来た様子を見せてくれるようになったのが

嬉しい。

 頻繁に会える訳でもなく、少し距離も機会も空くふたりだが、友人関係と言ってよい繋がりが自然と育まれていた。

「ルートの開拓は、我々のような潜霧士の皆様の装具を商っている側にとっても大きな変化になりそうだと窺っています。いえ、

小耳に挟んだ程度で詳しくはありませんが…」

 河馬はタケミにも分かり易いよう、大穴内のルートを利用して俵一家の傘下…つまり潜霧士が物資を運搬できるようになる事

のメリットについて、要点を挙げて説明した。

 潜霧士が扱う装備品の多く…とりわけレリックやそれに類する機能を搭載している武器などは、取り扱いどころか所持や持ち

歩きに関しても厳しく規制が布かれており、資格保有者以外は一時所持すら許されない。潜霧士の資格を得る事で所持と使用が

認められる他、製造者である刀鍛冶やジュウゾウなどの試刀師も、特別な資格を有しているからこそ限られた場所…例えば店舗

内のみで商いや手入れ目的の取り扱いができる。

 これはレリックを悪用されることを防ぐための法に基づいているが、この特色がネックになり、武装の輸送にも様々な制約が

ついてしまう。具体的には、販売するための輸送や出張販売も、資格制限のせいで難しい。南エリアはこの影響を直に受ける格

好で、レリック関係の武装は入手も整備も難しい状況となっている。

「あちらは環境的にも工房を構えるのに向いておりません。精密な調整や、大がかりな機材が必要になる品の生産は非常に難し

いとか。しかし、取り扱い許可がある潜霧士が直接品を運び、直接手渡すのであれば…」

「あ。法律違反にはならない、です!」

 気付いて目を丸くしたタケミに、ジュウゾウは頷きかける。

 ダイバー相手の商売として利権と独占性が高いこの新規事業開拓は、これを良く思わない方面から妨害工作が入れられる懸念

もある。だからこそ俵一家は時間をかけて大穴の内でも外でも障害を取り除き、慎重に準備を重ねてきた。タケミも他所の潜霧

士も知らないが、今回本格的な試運転に漕ぎ付けるまでに、ハヤタは両手の指で数え足りない数の「障害」を取り除いている。

それらは残らず近海の底で静かになっているので、もはや試運転部隊に危険はない。

「上の者達も楽しみにしていました。自分達が手掛けた自慢の一振りが、腕利き揃いと聞く南エリアのお歴々の御眼鏡にかなう

か否か、と」

 ああそうか、とタケミはジュウゾウの言葉でまた一つ気付いた。

 少人数の作業機輸送では運べる量は限られ、大量の物資や食料品などの運搬には不向き。だが、希少品や武具などの単価が高

い物を俵一家の監視下で運送する事業は、広い目で見れば影響力が大きいのだと。

「…大穴の中の事ばかりで、経済とか、物流とか、そういった物の関係性とか、環境とか…、そんな物にボクは不勉強でした…」

 恥じ入って俯き、頬を染めたタケミを、ジュウゾウは柔らかな微笑を浮かべて見つめる。

 熱海の大将が一人前と認めた腕利きの潜霧士とはいえ、タケミはまだ十七歳の少年。伊豆を取り巻く経済や利権などとは、精

神的にも縁遠くて当たり前である。

「学び覚える物というより、いずれ感じて身についてゆく類の物でしょう。さて、そろそろ茶を淹れ直しましょうか」

 そうして、タケミが茶菓子でもてなされ、ジュウゾウとの歓談を楽しんでいる頃…。

 

 

 

 東京、新宿。

 電光看板が乱立し、空中にホロ広告が浮き出て歩行者の頭上に展開する大通り。立っているだけで運ばれるコンベアロードに、

張り巡らされた中空パイプを移動するカプセルユニット。目まぐるしく物と人が行き交うその様は、前世紀末に人類が思い描い

た未来都市のよう。

 見渡す限りの人、人、人。高層ビルごと特区を丸々覆い、天候も日照も思いのままにする巨大人工天蓋…スカイドームによっ

て、天候すら支配下に置いた都市は、人工の風が湿度も温度も一定に保ち続ける。

 見上げる空も太陽もイミテーション。造り物の空は、しかし既に当たり前の物として受け入れられている。

 伊豆での研究がもたらした科学技術や医療技術のブレイクスルーにより、この都市だけが本来数十年先に訪れるはずだった未

来を先取りしている。日本が医療大国として築いた莫大な富、その三分の一が集中する世界で最も裕福な大都市のひとつは、貧

困以外は何でもある都市と称されていた。

 ただし、あえて言及しないだけでもう一つ「ない」物がある。

 それは獣人。「因子汚染者」をこの都市で見かける事はほぼ皆無。

 迷信に満ち溢れた先史時代に戻ったように、伝染する事が無いと科学的に解明されている因子汚染を強く忌避する傾向が、こ

の都市では一際強い。人工天蓋に覆われた特区においては、「身の危険」を理由に立ち入りすら制限される。つまり、どんな排

斥行為を働かれるか判らないので、安全が保障できないと、警察機関が匙を投げるほどなのである。

 そんな世界の最先端を、ひとりの少年が弾むように歩いている。

 物珍し気に空中のホロ広告を見上げ、「へ~…」だの「ふお~…!」だの感嘆の声を漏らす少年は、しかし周囲から浮いてし

まう見た目だった。

 赤銅色の色濃い肌に深い黒瞳。背中の中ほどまで届いている無造作に伸びた蓬髪は瞳と同じ深い黒色で、軽く癖があり所々で

跳ねている。

 肉付き良く肥えた体は骨太で、手足も太いが胴も太い。丸く突き出た太鼓腹も、丸みを帯びた頬も、ムチムチと張りがあり、

歩くたびにあちこち弾む。

 ミクロネシア系の異国人と見える少年は、太腿の上部までの短いホットパンツを穿き、袖の無いブルーのシャツを着て、サン

ダルを履いていた。丸々太った体型のわりに足取りは軽やか。振る舞いや仕草には年相応の子供っぽさが見られる。

 東京特区ではファッション的にも人種的にも異物感が拭えない、十代前半と見られるその少年は、

「アマタ。あまり上ばかり見てると、躓いて転ぶぞぉ?」

 後方からかけられた声に足を止め、その場でクルリと片足を軸に回転し、頭の後ろで腕を組むと、人懐っこそうな苦笑いを見

せた。

「へへっ!だって珍しいんだもん!あ、でもあんまりキョロキョロしてたらイナカモノっぽいか?ギョウギわりぃか?」

「足元に気を付けるんなら、それでいい。どうせ周りはおれ達を気にできないからなぁ」

 琥珀色の瞳を少年に向けて応じたのは、覇気のないぼんやり顔の大男である。が、どこか異常だった。

 腹が出た固太りの肥満体で、2メートル30はあろうかという長身。ショートジーンズにアロハシャツという軽装の巨漢は、

セントバーナードの獣人である。

 なのに、その目立つ風体に視線や注意を引かれる者は皆無。まるでそこに居るのが普通の人間であるかのように、獣人嫌い達

は巨漢の容姿に反応しない。それはこの特区内において極めて異常な事である。

 だが、異様なのは少年に穏やかな目を向けている巨漢だけではなく、その横に立つ偉丈夫も同様だった。

「ふははははは!感謝し、崇め奉るがいいアマタ・パエニウ!と、字伏夜長(あざふせよなが)!我が威光の前に人間共はその

目を向ける事もかなわぬ!煩わしい雑事から解放されるのだからな!」

 大声で高笑いを上げるのは、人間の姿をしていない男。身の丈は190センチほどで、派手にならない程度に金糸の刺繍が施

された、チベットの民族衣装を思わせる黒服を着込んでいる。

 特筆すべきは人間ではない事。そしてどんな獣とも異なる奇妙な姿である事。

 トカゲやワニとも違う爬虫類系の顔。筋肉質で逞しい体躯は白銀に輝き、頭部には後方へと伸びる、短角牛の物に似た形状の

黒く艶やかな角が生えている。

 その瞳がコバルトブルーに輝いている男は、いかなる獣とも異なる似姿…西洋のドラゴンを人型にしたような、他に例が見ら

れない姿の奇妙な獣人であった。

 姿形だけでなく、若々しい二十代とも、精力的な三十代とも取れる雰囲気もまた奇妙である。普通ならば他者と向き合った際

に想像される、この人は勤め人のよう、この人は育ちが良さそう、というような素性やバックボーンが全く浮かばない。

「ところで王様」

 セントバーナードが隣を歩く竜人に横目を向ける。

「質問か?良い、今の余は気分が良い!質問を許そう!何なりと申せ字伏夜長!」

「何処に行くんだぁ?」

「ふははははははははは!異なことを申す物よ!貴様の母国であろう、化粧品の店などに案内するがいい!」

 高笑いする竜人は、

「いやぁ。おれは東京に来る事が滅多にないし、案内できるほど詳しくないぞぉ?」

 セントバーナードの言葉で「何だと!?」と目を剥いた。

「妃共の土産に洒落た化粧品をと考えていた余の計画を何と心得る!」

「お妃さん達の土産物は、室長に頼んで手配して貰えば良いかなぁ?」

「であれば良い。そして特に用事もなくなった。散歩としゃれこもう」

 竜人が満足げに頷くと、先を行きながらキョロキョロしている少年が「アンチャン、腹減った」とカフェらしき店舗を指さし

て振り返る。

「じゃあ飯して行こう。「審問会」までまだまだ時間あるからな。王様もあそこで良いかぁ?」

「許す!案内せよ!余はソバとやらを所望する!ウドンとやらでも良いぞ!」

「あの店には無いと思うけどなぁ」

「何と!?」

 そうして風変わりな三名は、周囲に注目される事も無く歩き回りながらあちこち覗き、飲食店を選び始めた。

 

 同時刻。丸の内に聳えるタワーホテルの一室。

 天候をも管理下に置くドームに覆われた大都市を、小柄な人影が窓際に立って見下ろしている。

 青みがかった淡いグレーが、顎下や喉、腹側などに向かうにつれ、グラデーションを経て白く変じる被毛。その上を走るくっ

きりと鮮やかな黒。縞々の尻尾が目を引くそれは、虎の少年。黒虎と言えなくもないが、ロシアンブルーなどに似た毛色のため、

全体的な印象としては黒よりも青に寄った珍しい色合いになっている。

 十代になったかどうか、まだ子供と言える年頃と体型の青虎は、ゆったりとした漢服様式の浅葱色の衣を纏い、鴉の羽のよう

な黒い腰帯に剣を挿していた。

 よくよく見れば腰の剣は木剣で、木材をそのまま削った様は子供向けの玩具と見えなくもないが、色も塗らず白木のままなが

らも細緻な彫刻が施されており、祭儀用の物と見えなくもない。

 青虎の男の子がじっと、そのクリクリした紫色の目で東京の街を見つめていると…。

―愛奥(イオ)。外が気になるのならば、そこの椅子に腰を落ち着けて眺めるがよい―

 声ならぬ声が、後ろからそう告げた。

「いえ!そんなに気になってませんから!ちょっと見てるだけですから!」

 シャキッと背筋を伸ばして表情を引き締め、体ごと振り返った青虎の目に映るのは、でっぷりと肥え太った老獣人。

 高級そうなホテルの広い一室。スペースにだいぶ余裕がある客室中央に置かれた革張りのソファーにかけている老いた男は、

プラチナゴールドの被毛がくっきりとした黒い縞模様で彩られた、一見すれば虎に見える獣人である。が、その上顎の犬歯は妙

に長い。口を閉じても隠れないそれが顎下まで伸びており、普通の虎種とは異なる。

 絶滅種である剣歯虎にも似る特徴を持つものの、縞模様や顔立ちはアムールトラに似ており、正確な種は判らない。

 こちらも幼い青虎同様にゆったりとした漢服を纏っているが、サイズがだいぶ違う。緩んだ贅肉で丸みを帯びた体型もさる事

ながら、上背も2メートル近くあるので、単純な大人と子供以上の体格差があった。

 老いてはいるが、しかし具体的に何歳なのかは断定が難しい。六十過ぎにも思えるし、八十と言われても納得できそうな、高

齢故の年齢不詳さがある。

 その顔つきは柔和の一言に尽きる。青虎の子に向けられる細められた目は優しく、長大な牙を有するにも拘わらず口元は穏や

かな微笑を湛えており、孫を見守る祖父のような慈愛に満ちていた。

 大きな老虎は腰を上げ、足音も立てず、重さを感じさせない足取りで、大股に、しかしゆるりと窓際に移動すると、青虎の傍

にあった別のソファーに腰掛ける。

 目の前で展望用の席に腰を下ろした老虎に目配せされると、青虎は少し迷った後、その横にチョコンと座った。

 青虎の隠しきれていない外界への好奇心は尻尾の揺れに表れていたが、大人であろうと背伸びする本人がそれを隠すので、老

虎は指摘するのではなく自分につき合わせる形で着席させ、一緒に景色を眺める格好に落ち着けている。子ども扱いではない配

慮はまさに年の功といったところ。

「師父はこの都もすっかり見なれてるんでしょ?」

 物珍しさで夢中になってしまった、その照れ隠しのように問う青虎。言葉遣いも態度も丁寧だが、口調にも滑舌にも年相応の

幼さが滲む。背伸びして大人のように振舞おうとする態度が、年齢とのミスマッチで微笑ましい。

―四十年間、毎年欠かさず来ておる故な。しかし慣れるほどではなし。いつ来ても、何度見ても、一向に飽きぬものよ―

 老いた虎はいつの間にか手にしていた、湯気立つ茶の入った湯飲みを口元に寄せながら応じた。

 奇妙な声だった。青虎には届いているが、音として空気を震わせる事がない。老虎は一種のテレパシー能力に近い意思疎通方

法で青虎に「声」を送っている。

―「審問会」までしばし時がある。せっかく用意して貰った菓子に手を付けぬも非礼である故な。甘味を楽しみつつゆるりと景

色を眺むるも一興―

 老虎の手には湯飲み同様、いつの間にか二つのどらやきがあった。先ほどまで着いていたソファーセットのテーブルからは、

菓子皿からどらやきが二つ消えている。

―非常に美味なり。ほれ―

 押し付けられるようにして渡された青虎は、包装を破いてどらやきを一口齧り、素朴な甘さと餡の味の濃さの差で目を白黒さ

せる。

「豊かな都なんですね…」

―如何にも。ただしそれだけに非ず―

 コバルトブルーの穏やかな目に思慮深い光を灯し、老虎は透明過ぎる窓越しに、人工の空を頂く都市を眺める。

―この都は、上澄みにして結晶。片面だけの景色とも言えよう―

「それは…、つり合いが取れてませんね?」

 老虎は耳を立てて、呟いた青虎の横顔を見遣る。

「陰と陽、どっちか欠けたら太極は成り立たないし、どっちか偏っても巡らない。片方だけなのは良くない。…っていうふうな

話を、兄弟子達がしてました」

―聡いな、おぬしは―

 老虎は青虎の頭を軽く撫でる。

―如何にも、不均等は太極を崩し、循環を妨げる。よく学んでおる―

 老虎の手を受け入れるように耳を左右に倒し、くすぐったそうな顔で頭を撫でられながら、青虎は疑問を口にした。

「いつかこの国の全部がこの都みたいになるんですか?」

―さて…。そもそも発展以前に存続できるか否かの瀬戸際で当事者達はあがいておる訳だが…―

 老虎は思案するように瞼を半分下ろす。

―少なくとも、我は存続を望む―

 

 

 

 そして夕刻、熱海。

 少し空気が湿気っている地下モールを、恰幅の良い大男が巨体を左右に少し揺するような歩き方で行く。

 潜霧士や政府の認定を受けている者だけが入れるエリア内。中古品を卸すショップが店頭に目玉商品を電光掲示し、潜霧用品

店が高性能フィルターを特価で売り出し、各種資格取得用の講習案内所がパンフレットを軒先に並べる、目にも賑やかなそこで、

「おい、あれ…」

 比較的若い潜霧士の三人組が、目立つ巨体を目に止めて囁き交わした。

「豊平丸(ほうへいまる)潜霧団の…」

「「打ち潮(うちしお)」、豊平潮満(とよひらしおみち)だ…」

 大荷物を肩に担いだセイウチの獣人は、自分に向けられる視線を意に介す事なくズンズン進み、武具などを商う店が軒を連ね

る方向へ歩き去る。

「南エリアから出てくるなんて珍しいな…」

「何かあるのか?」

 南エリアは激戦区。戦力不足は慢性化しているので、腕利きはおいそれと地元を離れられない。シオミチが熱海に出向いてい

る理由を、潜霧組合の大きな会合か何かに出席するためか、はたまた政府公式の依頼のような大仕事でも入ったのか、と皆が噂

するが…。

「…異常は、…どうやら無いか」

 相楽工房の作業室で、ロボットアームが運搬し吊り上げた重量物を子細に見つめながら、工房長のゲンジが呟く。

「…つまらん…」

「つまらんくないでしょ!?」

 興味を失ったような狸の態度に、流石に突っ込まざるを得ないシオミチ。

 熱海に出てくる機会は多くないので、来たついでに得物の整備もしておこうと、工房に予約を入れておいたシオミチだが、個

人的な本命である用事の方はアポ無しというアンバランス具合。

「いや…。コレが小破くらい…いや、中破でもしていれば、それなりに面白かったんだが…」

「面白くないでしょ!?」

「統計データ上での意味だ。興味深い、有意義な、という意味での面白い、であって…」

「ああそれなら…、いやいやいや!それでも面白くない!」

 みたび突っ込むシオミチを他所に、ゲンジは船の錨を思わせる形状の得物を細部までチェックしてゆく。

 重葬式大戦斧「ベースアンカー」は、元々が極限状況下で安定利用可能な工業製品を手掛けている、大手の中の大手ツヅミヤ

インダストリー製のレリック武装。シオミチが日常的に馬鹿力で振り回して機械人形を叩きのめしても、各所に致命的な損傷や

摩耗が見られない。商売敵とはいえ信頼の大手メーカーが手掛けたワンオフの武器は、ゲンジにとっても興味深い品なので、持

ち込まれる度に詳細な確認を怠っていないのだが…。

(ウチで最後に整備を請け負ったのは…、二年以上前。驚異的な耐久性だ)

 専門家の定期メンテナンスも無く、基本的な整備しかできない南エリアで何年も戦い抜けるという設計思想。乱暴なコンセプ

トに見えても実際にそれを実現させている事に、素直に感心するゲンジ。何せシオミチの武装はアルやタケミの得物のようにシ

ンプルではなく、他の機能…つまり変形機能とレリック能力の発動を盛り込んである代物。構造自体は単純でないにも関わらず、

作動不良を起こさないのは流石と言えた。

「「トレイルブレイザー」にも、問題は無さそうだ…」

 ロックを解除させ、エネルギー放出型に形状を変えさせながら確認するゲンジの声音に、やはり不満げな響きを感じるシオミ

チだったがあえて突っ込まないでおく。罪悪感ゼロの職人には何を言っても暖簾に腕押しである。

「総体は問題ない。細かな部品の消耗はこれからオーバーホールして見て行くが、交換が必要な場合は…」

「金額関係なく、全部取り換えて貰って結構です。工房長にお任せします」

 霧の中では一蓮托生の相棒となる愛用の得物、かける金は惜しまない。シオミチが判断を任せる旨を告げると、ゲンジは「丸

一日だ」とセイウチを振り返った。

「明日の夕方、それまでには仕上げる」

「助かります。では取りに来る前に連絡を入れますので…」

「ところで…」

 ゲンジはセイウチの恰好をジロジロと無遠慮な視線で観察する。職業柄武器の方が気になっていたが、改めて見ると妙だと感

じない事もない。

「高級レストランでも、予約したのか…?」

 シオミチが纏っているのはタキシードである。パリッとした…と言うよりはムチッとした印象なのは、やや窮屈そうに生地が

張っているせい。

「いや~…!」

 デレッと照れた笑いを浮かべるセイウチ。

「別に、普段、通り、ですが!」

「………」

 ゲンジは軽く眉根を寄せたが、特に興味もないのでそれ以上問う事もなくシオミチを帰した。

 

「「水の量はケチらないこと」、あと…「火加減と時間は厳守」っスか…」

 その頃アルは、早番で引き上げてくる予定のダリアの帰りを待ちながら、キッチンで養母お手製のレシピを読みつつ、料理に

挑戦していた。

 不慣れなのでニンニクを処理するだけで手もベタベタになり、ダリアから借りたエプロンには水や汁が跳ねて斑な染みを作っ

ている。

 料理の一つ二つは覚えたいという養子の頼みを、表面上は面倒くさそうに、しかし内心は尻尾のようにくねりながら、ダリア

は受け入れてレシピを記した。

 茹で方のコツからソースの作り方まで細かに記したダリアのレシピは、アルが興味を示した貝類を使う物…ボンゴレビアンコ

である。養子の性格を把握している虎女将は、アルがやりそうなミスや改変に全て釘を刺すように先回りしてレシピに注釈を書

き込んでいる。しかも時間短縮のために火力を上げかねないので、弱火と強火の違いをハンドソープと危険生物のアルカリ性溶

解液に例えたりするなど、猟師アルビレオが身をもって体験した危険な物やインパクトが強い物を挙げて注意を引く構成である。

 磨り潰したニンニクでガーリックオイルを作るだけでも相当手間取ってしまったが、シロクマは時間も手間も惜しまず、逐一

念入りにレシピを確認し、手順を遵守する。

「「アルデンテのちょっと手前の湯で加減がコツ」…。ホワ~イ?ナンデ?えーと…、「完全に茹で上がった後はパスタが水気

を吸いにくくなるからね」…、「鞄は空きが多い方が爆薬も食料も詰め込めるって寸法さ」…。ナルホド!わかったっス!水分

も飽和前の量が良いって話っスね!」

 鍋でパスタの束を茹でる支度をしつつ、レシピを確認したアルは首を傾げ、そして納得した。

「「先にパスタ用の鍋で湯を沸騰させておく」「茹で上がった先はスピード勝負だ」「慣れてきたら茹でてる間に作業しても良

いけどね、それまでは先の準備を済ませてからパスタを茹で始めること」…。ラジャー!慣れてないオレは先に準備っスね!」

 使用する調理器具もダリアが並べて行ったので迷う事は無い。手順を守って湯を沸かし、パスタを入れる前に先の作業を前倒

しで進める。

(ちょっとプラモ作りと似てるっス。分量のパーセンテージ黄金比とか~、接着剤が乾くまでの作業前倒しとか~、…何か楽し

くなってきた~っス!イズミさんもこんな感じに自炊するんスかね?)

 元々プラモデル作りで手順を追う作業は得意。丁寧に書かれたダリアのレシピは説明書のような物。そんな条件が揃ったせい

か、中学の家庭科授業程度しか経験が無いにも関わらず、アルは結果として素人とは思えない手際で見事にボンゴレビアンコを

完成させ…

「デキタ!マジデ!?」

 本人が一番驚いていた。

 

 熱海の沿岸に点在する小島。その一つに屋形船のような屋根付きの小型ボート…水上タクシーが寄り、暮れた空の下に大柄な

影を下ろす。

 桟橋から見上げたセイウチの目に映るのは、明かりが灯る一軒家。小島一つを丸々所有する神代潜霧捜索所の事務所にして所

員寮にして神代家自宅。

「…来ちゃった…!」

 ぬふ、と笑ったシオミチは、シャツの襟元を直し、着衣の乱れをチェックし、スンスンと鼻を鳴らして体臭も確認。潮風に紛

れて汗臭さが判らなかったがセルフチェック上はオーケーと判断。

 ずっしり重い大型のクーラーボックス…土産の貝類が収められた大荷物を引っ掴み、肥えた体をどっしどっしと揺らしながら

玄関へ向かい、深呼吸してから太い指をインターホンに押し当て、軽く咳払いし…。

「ワイ以外だ~れもおられまへんで?」

「…ふぇ?」

 玄関に出てきて困惑顔で対応する狸を前に、セイウチは目をまん丸にして間の抜けた声を漏らす。

 この日、ユージンは東京に出向き、タケミは土肥に行き、アルが実家に戻って、残っていたのは留守を預かって独りタコパ…

たこ焼きパーティーをしていたヘイジだけ。すっかりしょげてしまったシオミチだったが、アポ無し突撃の代償が客観的に分か

り易い図式である。

 もう日も暮れたし、知らない仲でもないし、南エリアの実力者の一角ともなれば無下に扱えるはずもなく、ヘイジはユージン

にメッセージを送って了解を得た上で、シオミチを中に入れてたこ焼きでもてなす事にした。

 

 再び、東京。

「緊急の用事では?」

「内輪の話だ。客が来たってよ」

 カズマと並んで高級ホテルのエレベーター内に立つ巨漢の熊は「間が悪ぃぜ、全く」と苦笑い。

「事前に連絡貰ってりゃ日程を指定したってのに、よりによって「審問会」と被るとはな…」

 室長のスーツ姿はいつもの事だが、今日はユージンも黒パンツにサスペンダー、上にペストを着用した姿。講師として潜霧士

の研修を請け負う時のような恰好である。

「極秘ですからね。「審問会」の存在も意義も、おいそれと説明する訳に行きませんから…。ユーさんは不在中の伊豆が心配で

しょうが、毎回不定期なので直前になるまで予定も組めませんし…」

 これにはユージンが苦笑し、「ワシが離れても親父殿も狛犬兄弟も居る。いざとなったらダリアもだ。何か起きても滅多な事

にならねぇだろうぜ」と肩を竦めた。

 カズマは心の中で、タケミを過度に心配しなくなってきたな、と感じたものの口には出さない。その代わりに、「しかし、何

度経験しても慣れないですね」と、エレベーターのドアが開いた向こうを見据えて眉を顰める。

 ふたりが足を踏み出したのは広いエレベーターホール。ただし、「広い」のスケールが違う。

 高級な絨毯が敷き詰められたそこは、サッカーグラウンド四面ほどの広さ。ホテルの一階分の面積をはるかに上回り、物理的

に内包できるはずがない規模の異常な空間がそこに横たわっている。遥か彼方に米粒のようなドアや、先が見えない廊下の入り

口が点在する景色は、縮尺を強引に弄っていびつに引き延ばした写真のよう。

「そう言うな。老師の結界があるから警備含めた他のメンツを近付けねぇで済む。余計な連中に漏れでもしたら大事だからな」

 ユージンが歩き出すと、途方もなく広いはずの空間の向こう…小さく見えていた壁と扉が急激に近付いてきた。それに倣うカ

ズマも金熊と全く同じ体験をする。視覚情報と足の動きの差に軽い酔いを覚えそうになった。

 通したい者だけを選別して辿り着く事を許す、錯覚ではなく実際に拡張された空間…。これはもはや異能の範疇からも逸脱し

た怪現象である。

「審問会の結果次第で、この島国が丸ごと消されるなんて話は…」

 呟くユージンの隣で、カズマが表情を引き締め、ドアノブに手をかけた。

 

 そんなやり取りが東京で行われている頃…。

「留守番?」

「そう。君達にお願いしたいんだ」

 デスクについている灰色の髪の男の前で、口周りを金具の補強材で覆った狼が胡乱な顔をした。

「普段からそないなモン用意してへんやろ。何でや?」

「ただの留守番ではなく…。噛み砕いて言うと、「屋敷に私が居るように見せかけるために君達にはここに居て欲しい」という

事なんだ」

「………「組織」への目くらまし、って事なんか?」

「察しが良くて助かるよ。表向きには体調不良で寝込んでいる事にするので、君達は常駐戦力として暇を持て余している様子を

時々「遠くから窓越しにプライベートを覗く仕事熱心な監視者」に見せてあげてくれ」

 灰色の髪を軽く撫で上げて笑う男。狼は一瞬見えた傷跡のような物を一瞥しながら、「何処へ出るんや?」と尋ねた。

「南へ」

「何でや?」

 狼が即答へ即座に問いを噛ませると、マジラは少し困ったような微苦笑を見せた。

「地殻変動の発生が予想より遅い…。この分だと予想した以上に規模が大きくなりそうだから、直接確かめたいと思ってね」

「それこそアンタが出向くんやなく、手下を向かわせたらええやろ。留守番させへんで、使うべきトコに割いたらええ。こっち

はそのための兵隊や」

「おや?気を遣ってくれているのかな?」

「給金に見合う働きはする。そう言うとるだけや」

 男は「有り難う」と目を細め、「しかし今回は私が単独で行く方が良い。最悪の場合でも「私一人なら何とかなる」から」と

軽く肩を竦めた。

 これには狼も反論しない。大穴の中でマジラの警護をするケースは度々あるが、あの鼠のボディーガード含め、自分達が本当

に必要になった局面は人手が必要な作業程度。霧の中に潜む危険に対しては、むしろ自分達の手が不要だった。

 人間の姿で異能を扱い、霧の中でも平気…。どこまでも正体不明で底が知れないのがこの男である。

 そんな狼の内心を他所に、マジラは軽く黙考した。

(このタイミングでユージンが伊豆を離れている…。万が一の事が起きた場合、潜霧組合は最も自由に動ける最大戦力が不在の

状態で事に当たらなければならない。組織もこの事は把握していない。動くのに適しているのはこのタイミングだ)

 何やら思案する灰色の髪の男の顔色を、口を閉ざした狼は推し量る。

 狼達は俵一家の傘下として活動していた頃も、非合法組織とはそれなりに関わりを持っていたし、世の中の黒い部分には触れ

ていると考えていた。だが、今思えばそれはまだ浅い黒さだった。

 この男の子飼いに近い立場になった狼達は、マジラからの話で組織の全体像をうっすら把握して来てはいるものの、組織の活

動方針や理念等には特に賛同も反発もしておらず、相変わらずビジネスライクな関係と言える。興味を抱いているのはその力と

影響力だが、どうやらそれらは政界にすらパイプを持つ規模らしい。大穴の中へ直接入れる非合法ルートなどが確保されている

事からも、その権勢や隠蔽力は想像を絶する。

 そんな中で権力を握れる幹部ならば、さぞ快適な生活を送れるだろうと思うのだが…。

(この男はそないな事を考えてへん)

 狼が最も判らないのは、この男の目的だった。

 組織内でも高い地位に就いている事は確かなのだが、どうにも組織そのものへの忠誠は薄く見える。最近では、組織の思惑と

は別の目的で動いている事を狼達に隠そうともしていない。マジラというコードネーム同様、組織の幹部という立場すらも、こ

の男にとっては「必要なツール」レベルの物でしか無いようで…。

「そんな訳でよろしく頼むよ。いかにも私が屋敷に留まっていると見えるように、「監視」に窓越しのアピールをしてくれたま

え。ああ、事業の方は問題ないよ。リモートで商談は捌いておくからね」

 国際物流企業の代表取締役社長として仕事に抜かりはないとアピールし、マジラと名乗る灰髪の男は気楽な調子で言い放った。

「頼りにしているよ」