第六話 「黒狼」
「きゃああああああああああっ!」
霧が女の悲鳴で震える。
銃声からやや遅れ、驚いて顔を上げたミキは、タケミが男に撃たれたという事実を一瞬遅れて把握し、悲鳴を上げた。
気付いた時にはもう遅い。逃げ散ってはぐれたはずの男達は、いつの間にか公園に五人全員集まって、ミキを取り囲んでいる。
「こんなところに隠れていたのか、イオカ」
タケミを撃った男が、ドーム滑り台の中を確認して呟いた。
「二発は当たっていた。致命傷だったのに、よくもこんな所まで…」
そして、ミキの傍に立った男が、サブウェポンの拳銃をその頭に向ける。
「ミキさん。あんたは頑張り過ぎた。見つけてしまったなら、仕方ない…」
「ど…、どうし、て…?」
ガタガタと震えるミキが理由を問うと、
「…はっ!あんたのフィアンセ様が余計な事をしたからだよ!」
男は憎々しげに吐き捨てた。
「よ、余計な、事…?あの人が、何を…?」
震えるミキの声をかき消すように、男が大声を上げる。
「こんな危険な仕事で、釣り合わない実入り!少し品物を横流しするくらい、命を懸けるなら正当な報酬だろう!」
ビクリと怯えたように身を竦めるミキに、男は詰め寄るように近付いて声を荒らげた。
「なのにイオカは、俺達のアルバイトを嗅ぎつけて、告発の準備をしてやがった!」
「おい!」
メンバーの一人が咎めたが、激高した男は「どうせ殺すし、全員死んだ!聞かれる心配はないさ」と吐き捨てた。
「結局、告発用データの在り処は言わなかったが、その結果がこれさ。馬鹿なヤツだよ、利口に立ち回ってあんたと結婚してれ
ば良かったのになぁ」
「それじゃあ…、トシノブさんが死んだのは…」
「俺が撃った」
ゴリッと、ミキのヘルメットに拳銃を突き付けながら、男が言った。
「せめて選ばせて差し上げますよ、大臣の娘さん。メットを取って死ぬか、頭を撃ち抜かれて死ぬか」
「…そう…なのね…」
ミキは項垂れた。
(ごめんなさい、フワ君…。こんな事になるなんて…)
懺悔するミキは、しかしその瞳に強い意志を宿していた。
死への恐怖よりも、覚悟の色が濃いその目には、理由がある。
ミキはユージンから、出発前に独りだけ、特別な機器を預けられていた。
ヘルメット内のマイクに被せて使用するそれは、万が一にも素人のミキの通信装置に異常が生じてしまった場合でも作動する、
ユージンへ直接回線を繋ぐサブシステム。同時に、音声を録音しておく機能もあるのだが…。
「ダイブの最中、悲鳴を上げるような事も多々ある。落ち着いたら自分の声を聞き返して、笑い話の種にでもすりゃあいい」
そう、熊親父は冗談めかして、おそらくは亡骸で再会する事になる婚約者探しで、思い出の欠片集めを勧めたのだが…。
(ヘルメットは…、外しておいた方が良いわ…。間違っても壊れちゃいけないし…)
願うのは、ユージンが無事で、異常に気付き、男達と距離を取って、生きて帰還する事。そうなればこのマイクの存在に気付
いて貰える。録音された会話がカズマに届く。
済まない事をしたと、後悔がある。こんな事になると予見できなかったから、自分の婚約者は殺されたのだと気付けなかった
から、タケミをこんな目に遭わせてしまった。
だからこそ、このままでは終われないとも思う。録音した音声が霧の外へ出て行けば、連中に一矢報いる事も叶うだろう。
自死を選んだミキが、ヘルメットを外そうと手をかけた瞬間…。
「おぼっ…!」
妙な音が響いた。嘔吐するような、溺れかけた者が息継ぎするような異音が。
「…何だ?」
「ガキだ。まだ息があったらしい」
男達が言い交わす。その視線の先で、横倒しになったタケミが血を吐きながら、ビクビクと痙攣していた。
「急性中毒だな」
男が近付いて見下ろす。狼型ヘルメットが壊れて飛び、霧に晒されたタケミの頬が、髪の毛と同じ、黒絹のような獣毛に覆わ
れてゆく。
ムクムクと体の表面が動き、スーツに空いた穴からも黒い毛がはみ出した。
急性中毒。肉体が変容によって崩壊する、死に至る劇的な変化。
「とはいえ、致命傷を負っている。霧に殺されなくても死ぬんだが」
と、男の一人が冷徹にせせら笑ったが…。
「わがっ…だ…」
ゴポゴポと喉を鳴らし、顔の輪郭を急激に変化させながら、少年の口が声を発する。
「あなだ…達は…」
そして男達は異常に気付いた。
あきらかにおかしかった。急変を起こした者は、自分の体が破壊されてゆく激しい苦痛で、喋るどころではない。そもそも、
無理な変形で全身に裂傷などが生じ、崩壊してゆくはず。
なのに、少年は臓腑の中から溜まった分の血を吐き出しているだけで、肉体が自壊しているようには見えない。まるで、「定
まった手順で変化してゆくように」形状を変えてゆく。
「怖く…ない…」
少年の手が地面につく。震える体を支えて起こす。声をくぐもらせていた血が鳴る音は消え、音声が明瞭さを取り戻している。
男達は何が起きているか判らない。だが、判らないまま恐怖した。その、未知の現象に。
じりじりと後退し、距離を取った男達と、眼を見開いているミキが見ているのは、自分が作った血溜まりの中でゆっくりと立
ち上がる、一匹の、黒い獣だった。
「だって…、あなた達は…」
マズルが開き、真っ赤な口腔と舌、白々と光る鋭い牙が見えた。その頭部は、いつも着用しているヘルメットとよく似た形状
になっている。
肉体が変容し、体が一回り膨れたように見えるソレは、黒絹のように艶やかな被毛の狼。神秘的な色の紫紺の瞳と、声音だけ
は変わっていない。
「…何だ…、こいつ…?」
男達のひとりが呆然と呟く。
うなった例など聞いた事もない。
それは、そうあるべくしてジークフリート線を越えた者達のような、完全に獣化した姿だった。
数十秒前まで少年の姿だったものは、劇的な変化を経ると同時に、瀕死の状態から蘇っている。弾丸が体を貫通した傷も完全
に塞がり、出血も止まっていた。
少年のシルエットを被毛の分だけ膨らませ、各所の形状を獣のソレに近付けて出来上がったような黒狼は…。
「あなた達は、殺していい人達だ…」
チンッ…。
男達がそんな音を聞いた時には、滑り台の傍から黒狼の姿は消えていた。
そして、一番近かった男の脇で、いつの間にか抜き、そして振り抜いた黒刀を、返り血を振り落とすようにヒュンッと手首で
返している。
しかしそれは無駄な動作。無意味な返し。なにせその一太刀は早過ぎるあまり、振り落とすべき血も脂も、刃に付着していな
いのだから。
「…?」
声が出ないまま、男は瞬きする。狼に変じた少年が消えた。それと同時に景色が傾く。理由が判らない。
男の首は、鋭利な黒刀の抜き打ちで切断されていた。あまりに速く、あまりに鋭いため、斬られた事にも気付いておらず、首
はゆっくりと斜めに落ちてゆく。
ヒュンッと、黒刀が再び振られる。しかしその軌道を男達は認識できず、黒狼が刀を手元で動かしたようにしか見えない。直
後、ずり落ちて落下に移った男の生首が、地面に落ちるなり、八分割されていた事を思い出したようにバラける。
「撃…」
撃ち殺せ。そう言いながら自らも発砲するつもりで、アサルトライフルを構えた男は、
「て?」
即座に、まるで瞬間移動したように眼前に迫った狼の顔を目にし、腹部に軽い衝撃を覚える。
男の左腹部を、水平に寝せられた黒刀が抵抗なく刺し貫いていた。
そして黒狼は、間近から男の顔…フルフェイスのバイザー越しの目を、感情をあらわしていない紫紺の瞳で見つめながら、刀
を回して刃を上に向ける。
「うべ…!」
やっと痛みを感じた直後、それが移動した。腹部からその上へ、耐え難い音を体内に残しながら。
それはまるで薄紙を鋭い剃刀で切るような音。ゾソソッ…と、昇って来るその音は、刃を上に向けた黒刀が上がって来る音。
狼は男の顔を表情無く見つめている。単純作業にいちいち感情を挟まないように、無感情な確認だけがそこにある。
「や…」
止めて。そう言いたかった男の口から血反吐が吹き出て、メットのバイザーを内側から真っ赤に染めた。
腹部を刺してから心臓と肺腑まで斬り上げ、そのまま左肩の上まで抵抗なく開いて男を殺した狼は、吹き上がる返り血を浴び
ながら視線を巡らせた。
「あなた達は、怖くない」
繰り返される言葉。
「殺していい人達だから、怖くない」
振るわれる太刀。
タケミには怖い物が多い。
危険な生き物が怖いし、危ない場所が怖い。しかし何より怖いのは「他者」である。
人付き合いが下手だから、接し方に自信がないから、不快にさせてしまうかもと不安だから、怒らせないかなと心配だから、
ひとと接するのが苦手で怖い。
そして最も怖いのは、「自分がひとの目にはどう映るのか」という事。
人間のようで人間ではない。獣人のようで既存の獣人とも違う。ひとの姿から獣に変じる、他に例がない個体…。
そんな自分が、他者からどう思われるのかを、知るのが怖い。
だから、この連中はもう怖くない。
この連中にどう思われても何でもない。
殺していいから。
殺すから。
だから怖がる必要はない。
三人目は、ミキに突きつけていた拳銃を黒狼に向け直して、続けざまに発砲。しかし稲妻形のジグザグで、横っ飛びを交えて
回避する黒狼の俊敏さに、照準が合わせられない。発射された弾丸は全て外れ、遠くの地面や公園の遊具の残骸に当たる。あま
りの早さに返り血が振り落とされ、血風となって軌跡を残す。
そして、その弾丸が撃ち尽くされる前に、黒狼は男の眼前に迫り、半身になって至近距離の発砲を避けたその姿勢から、左腕
で太刀を振り上げていた。
黒い一閃。右肩から腰付近まで斬り下ろされて、男は臓腑を撒き散らしながら上半身を左右に開いた。その上で、片手の振り
下ろしから両手持ちに直し、黒狼は太刀を素早くコンパクトに振るい、男の首を飛ばす。
四人目は、横手からアサルトライフルの斉射を見舞ったが、弾丸は霧の中に吸い込まれつつ、まだ倒れ切っていない同僚の死
体を貫いただけ。
霧の中を縦横無尽に泳ぐ不定形な影のように、黒狼は斉射を回避しながら標的に肉薄し、すれ違い様に大きく回転。水平の横
薙ぎで腰を断ち、上下に分割した上で、一回転した所から流れるように腕を振り上げ大上段に構える。
両手で握り直された太刀は漆黒の半月を描き、腰から上がずり落ちてゆく途中の男の上半身を、正中線で真っ二つに割った。
黒狼は、確実なとどめを徹底していた。祖父の教え通り、致命傷を与えるだけに飽き足らず、即死するよう確実な追撃で、物
理的に生存不能な損壊を与えている。
そして、五人目…。
(ひとりは…)
バイザー越しの怯える目を視認し、
(生かした方が…)
黒狼は太刀を逆手に握って肩の高さで構え、投擲した。
ヒュンッと霧を裂いたそれは、男の右肩を射貫いて、背にしていた樹木に深々と縫い付ける。
「ぎゃあああああああああっ!」
耳障りな悲鳴に顔を顰め、「うるさい…」と、抑揚のない声で呟いた黒狼は…。
「フワ…君…?」
その声で尖った耳を震わせ、ハッと目を見開いた。
「ミキさん…、あ!」
無表情だった黒狼の顔に、はっきりと判る動揺と焦りが浮かんだ。
振り向いた黒狼の紫紺の目に、立ち尽くすミキの顔が映る。
「無事ですか!?あ、あの、こ、これは…、ええと、この格好は…!」
ミキの安全を確認し、そのままアワアワと手を振り回して焦る黒狼は、いつも通りの声…少年の余裕がない口調になっている。
ミキは目を見開いていた。
穴が空いたスーツと、ヘルメットが外れた顔。そこに見えるのは獣毛を纏った体。
ぽっちゃりした色白の少年は、元の黒髪と同じ色の被毛を全身に密生させた、狼の獣人の姿になっている。だが、その体型と
声、瞳の色は元々の物と変わらず、頭部の形状もヘルメットの形に酷似しているので、
「フワ君…なのね?」
大きく見た目が変わっているのに、ミキには黒狼に少年の面影が見えている。
「は、はい…。あの…、そうです…」
居心地悪そうに体を縮める少年狼。その伏せた目は、自身が作り出した公園の惨状を認める。
(やっちゃった…)
タガが外れて、配慮を欠いていた。一般人のミキに見せるべき光景ではない。凄惨極まる殺戮の現場を目の当たりにさせたと
いう罪悪感から、黒狼は叱られた子犬のように耳を伏せる。しかし…。
「ふぅっ…」
息を吐いたミキは、腰が抜けたのかその場でよろけてバランスを崩す。黒狼は軽く膝を曲げたかと思えば、一瞬でその傍に寄
り、慌てて支えていた。
「だ、大丈夫ですか!?あ、あの…あまり、見ない方が…」
自分でやっておいて説得力がないなと、言葉を尻すぼみにさせたタケミは…。
「だ、大丈夫なの?フワ君の方こそ…!」
ミキから逆に心配された。
「撃たれてたでしょう!?血もあんなに…」
「あ、ふ、塞がったので、もう平気です…。弾も、抜けて行ってたので…」
座り込む格好のミキは、面食らったタケミに支えられたまま、スーツに空いた穴を見た。丸みを帯びた肉付きの良い腹部と胸
部、その二ヵ所の穴からは黒絹のように艶やかな黒毛が、溢れるようにはみ出ていた。
「…あの…、気味悪く…ないんですか…?」
タケミはミキの顔を見る事ができない。血塗れの怪物を映す彼女の目がどんな感情を浮かべるのか、それが怖くて見られない。
素人でも判るはずだった。因子汚染という現象の鉄則から外れている自分が、どれだけ異常な存在なのかは。
致命傷を負うなど死の危険が迫った時に、あるいは任意に完全獣化し、さらに人間の姿まで逆行できる、現状では世界で唯一
の生物…。この事はユージンなど数人しか知らない秘密である。
「気味悪い?…そう、かしら…。いや、怖いけれど、この状況は…。皆が私を殺そうとしていたなんて…」
ミキはボソボソと呟き、震える自分の体を抱き締めた。
「…え?それだけ…です?」
タケミが意外そうに目を向けると、ミキと目が合った。
「それだけって…、何で?」
ミキはタケミの目を不思議そうに見返していた。
少年は、自分を他者がどう見るかが怖い。異様な生物と忌み嫌われるのではないかと、不安で心配で仕方がない。だが、黒狼
の顔を映しながら、ミキの瞳に嫌悪の色は無かった。
ホッとした。
タケミの中に常々ある怯えは、きょとんとしているミキの目を見ている内に和らいで…。
ガンッ。
唐突な音が、少年の眼前で響いた。
尖った耳が驚いて寝て、見開かれた目がミキの顔を映して、割れて吹き飛ぶヘルメットが視界の外に消えて…。
「え?」
頭が揺られ、脳震盪を起こしたらしいミキの目が揺れる。そして…。
「こひゅっ!」
ミキの手が自分の喉を押さえた。見る間に顔が紅潮し、白目が血走ってゆく。
銃撃だった。タケミが太刀を投擲して木に縫い留めた男は、救命ポーチと偽っていた中に隠し持っていた小型拳銃で発砲して
いた。だが、
「は、外した…!?ちくしょう、いっつ…!」
狙ったのはミキではない。痛みに震えて手がブレたせいでタケミから照準が外れ、不幸にもミキのヘルメットを割っている。
男が取り落とした拳銃が、霧の中に金属音を響かせた。
「ミキさん!息を止めて!」
タケミは背負っていた小さなザックのベルトを外した。鼻と口元を覆う、緊急時用の簡易マスクが中にある。これで霧の流入
を止めないと、ミキは急性中毒で死に至る。しかし…。
「あ…」
ザックを開けたタケミは、呆けたような声を漏らした。
「ああ、あ…!」
タケミが浴びた銃弾は、その体を貫通していた。
「あああああああ!どうしてぇえええええええっ!」
運悪く、予備のマスクは三枚とも銃弾に貫通され、使用に耐えなくなっていた。
「ごひゅっ…!ひゅっ!」
ミキの体が跳ねるように激しく痙攣し、手足がバタバタもがく。
「ミキさん!息を止めて、しっかりして下さい!ミキさ…」
タケミはミキの口元を手で覆う、そんな事では霧の流入は防げないと、覚えた知識が残酷な現実を突きつける。
ブシュッと、ミキのスーツの首元から、どす黒い血が跳ねた。スーツの下では自壊が始まり、頬には産毛のように獣毛が生え
始め、見開かれた両目では小刻みに震える瞳が瞳孔の形状を変えつつある。
「誰か…、誰か…!」
震える声で少年は漏らす。
「誰か助けてぇえええええええええええっ!」
霧に吸い込まれる仔狼の遠吠え。応じる者は…。
「タケミ!手を除けろ!」
居た。霧中を走破し駆け付けた、金色の熊がそこに居た。
駆けこみつつ膝を曲げ、膝立ちで滑り込んだユージンは、腰のポーチに押し込んでいた簡易マスクを取り出し、タケミが除け
た手と入れ替わりでミキの口元を覆う。
防塵マスクのような、鼻と口を保護する最低限の品。少なくともこれ以上の吸霧は避けられるが…。
「所長…、しょ…ちょ…!」
涙ぐむタケミが、自分に何を期待しているのかは判る。だが、ユージンは黙って首を横に振るしかなかった。
手遅れだった。
霧をこれ以上吸わせないようにしても、既に汚染されたものはどうしようもない。急激な獣化による自壊が物理的な致命傷と
なっている。
急変により肉体が大規模損傷を被り、多臓器不全を起こしているミキは、もう助ける術がない。
「そん…な…!」
「タケミ」
ユージンは腰を上げつつ、「お嬢ちゃんを見てろ」と指示を出す。
「テントを張ってビバークする。せめて、少しでも楽に眠れるようにな…」
巨漢はポーチから取り出した長方形のケースを取り出すと、タケミに預けた。中身は栄養剤や鎮痛剤が含まれる、注射器と薬
のセットである。
処置を命じたユージンは、テントを支度する前に、その目を樹木に縫い留められている男に向けた。
「ひっ!」
樹木の幹に深々と突き刺さっている刀の柄を握り、何とか引き抜こうともがいていた男は、歩み寄るユージンに気付くと…、
「た、助けてくれ!降参する!もう何もしない、大人しく裁きを受け…ゲクッ!?」
命乞いの言葉が途切れる。巨漢の右手は、男の喉仏をスーツ越しに、人差し指と中指で摘まんでいた。
「ちぃと喧しいぜ…、ええ…!?」
ドスのきいた声に続き、ブヂュッと、男の喉で音が鳴った。
喉仏を潰されて悲鳴も上げられない男の右腕を掴むと、ユージンの手は力任せに握り込み、前腕の骨が纏めて折れるほど圧迫
して潰す。さらに左腕も同じように潰されるが、男はメットの中で大きく口を開けるばかり。絶叫すら上がらず、ただただ息を
吐き出している。
大人しく裁きを受ける…。当然だった。そうさせなければタケミがあえて生かした意味がない。
男がもう何もできないように両腕を壊したユージンは、手早くテントを設営し、宵越しの支度にかかった。
(あれ…?)
目が覚めると、クリーム色の天井が見えた。
良い香りがする。コーヒーの匂いだと気付いた途端に、ぼやけていた視野がピントを合わせ始めた。
「…テント…の、中…?」
顔に鈍痛があり、ごわついているように感じたミキは、
「気が付きましたか!?」
自分を覗き込んだ黒狼の顔を見つめた。
(ああ、そうかぁ…)
ミキは思い出し、悟った。
自分はもう駄目なのだなぁ、と。
ビバークの準備は整い、テント内の除染は完了している。今はミキもマスクを外されているが、その顔はもう人間の物ではな
くなっていた。
せめて少しでもリラックスできるようにと、テント内にはカップが置かれ、コーヒーの良い香りが立ち昇っている。
「痛い所はないですか!?我慢できないようなら、鎮痛剤がまだありますから…!」
ワタワタと、焦りを見せている少年に、
「ううん…。もう良いから…。だから…」
ミキは微笑みかける。
「泣かないで…」
ミキを見下ろすタケミの目は、涙をためて震えている。
痛む上に感覚が鈍い手を上げ、黒狼の頬に触れる。頬がぷっくりした太った狼…。まだ大人のそれではない、精悍さが足りな
い幼顔は、頬毛もパヤパヤと柔らかかった。
一応あれかな?仇を討って貰った事になるのかな?ここまで連れて来て貰った事も確かだし…。と、頭の芯に重さを感じなが
ら、ミキは思う。
「ありがとう…。感謝しか、していないわ…。こうなったのは、私が選んだ、結果…。フワ君が…失敗とか、したわけじゃない
の…。だから…、泣かないで…」
大粒の涙が溢れそうな狼の目元を、親指でそっと拭ってやって、ミキは大きく息をついた。
「所長さんは…?」
時間がない。だが、少年に聞かせるには余りにも汚れた話だと感じた。だからミキは、ユージンに全てを託す事にした。
数分後。
タケミと見張りを交代したユージンはテントに入り、ミキの隣に遺体袋を並べた。
滑り台ドーム内から運び出した、婚約者の遺体である。
中を見せないのは、せめて婚約者の生前の姿を記憶に留めたまま眠らせてやろうという、ユージンの配慮。
「縮んだね…」
顔を横に向けたミキが、袋の輪郭を見ながら言った。
「だがまだ残っとる。待ってたのかもしれねぇな、お嬢ちゃんを」
ユージンが枕元にどっかと胡坐をかき、トーチでカップを温め直してコーヒーの香りを強く行き渡らせると、ミキはクスリと
笑みをこぼした。
「いつも、待ち合わせの二十分くらい前には来て、私を待っていてくれるひとだったから…」
「そいつぁ見習いてぇモンだぜ。ワシはいつもギリギリか遅刻だ」
巨漢が太い笑みを返すと、婚約者の方を向いたまま、ミキはポツリと漏らした。
「…私…、間違ったんでしょうか…」
「さぁ、どうとも言えねぇな。確実なのは、連中は間違えたって事だ」
しばしの沈黙。ミキの呼吸は少しずつ早く、浅くなっている。喋るだけでも辛いので、ユージンはその息が整うのを急かさず
に待つ。
「所長さん…。借りたマイクに、録音が…。タネジマさんに、お願いします…」
「判った、請け負う。必ずやっこさんに手渡す」
ミキに力強く頷いたユージンは…。
「あと…、彼の、ヘルメット…」
「おう」
「もしかしたら、私が借りたのみたいな、録音とか…」
「!」
ユージンは傍らの遺体を見遣る。
ミキの婚約者は即死ではなかった。撃たれたが一度は逃げ延びて隠れ、連中が見失っていた。力尽きはしたが、死ぬまでに時
間はあったはず…。
「お嬢ちゃん。頑張ってもう少しだけ起きとくんだぜ?すぐだからな」
ユージンはそう告げるなり、ミキから見えないよう間に膝をつく格好になると、遺体袋を開けて、白骨化した遺体からメット
を外し…。
「…あった。共通規格のチップマイクだ…。ここで再生できるが、どうする?」
目当ての物を見つけるなり、すぐさまヘルメットを遺体に被せ直し、袋を閉じた。
「聞かせ…て、下さい…」
ミキの呼吸が怪しくなっている。ユージンは自分の携帯通信機を取り出すと、録音マイクの小型チップを抜いて挿入し、デー
タを再生してミキの耳元に寄せる。
そこに、言葉が遺されていた。
帰れなくて済まないと、愛した男は最初に謝り、ミキの目から涙が零れる。
ミキの婚約者は、余命幾ばくもない重傷を負いながら、自分が何をしてきたか、同僚達が何をやっていたのか、簡潔に説明し
た。そして、不正の証拠となる物を集めた記録媒体の隠し場所を述べていた。
それを聞いている内にユージンの顔がみるみる険しくなる。
(海外に…、政府関係者が横流しを…!)
ここ数年、非合法で持ち出された危険生物のサンプルが逃げ出したという事件は増えていた。十年ほど前までは、年に一度か
二度、闇市を介して運び出された生きたサンプルが、輸送途中で脱走するなどの事件があっただけなのに、今は月に一度ほどの
頻度で起きている。それも世界中のあちこちで。
合点が行った。政府側の公的調査で捕獲し、後に処分する事になっている危険生物の一部を、殺処分した事にして生きたまま
海外へ売却していたなら、闇市を介して秘密裏に運び出すよりもバレにくく、数も多い。
録音されていた最後の言葉は、どうか幸せに、という願い。これを聞いてミキは笑う。
「怒られるだろうけれど、私、幸せです…。ここまで来て、幸せです…。貴方の隣で眠りにつけるんだから、幸せ…、本当よ…」
小さくなってゆくミキの声を、ユージンは枕元に座したまま、最後まで聞き届け…。
「タケミ」
膝を抱え、背中を丸めていた少年は、テントから出て来た巨漢の声で耳を震わせ、ハッと振り向いた。
「逝ったぜ。安らかな顔だ。…お別れするか?」
「はい…」
のろのろと身を起こした黒狼は、巨漢が捲り上げているテントの入り口を潜る。もう除染も必要ないので、入り口は開け放た
れていた。
ミキは目を閉じていた。だいぶ顔形は変わってしまったが、それでもミキの印象は消えていない。
少年は婚約者の遺体袋と並ぶミキの傍らに正座すると、その顔を覗き込み、グイッと腕で目を拭う。
ミキの顔は、瞳孔が猫のように縦長になり、口元が変形し、ネコ科のそれに近付いていた。針金のようなヒゲが飛び出し、黄
色い顔には産毛が生じて、縞模様が浮き上がっている。
獣化には個人差がある。どんな獣化を起こすかは千差万別で、変化が生じ始めないと、何になるのかは判らない。
虎。それがミキの獣化だった。
強い意志を持ち、気丈で、覚悟を有する彼女に、相応しい獣の姿と言えた。
あどけなさがまだ顔に残る仔狼は、胸の前で手を合わせる。
「…ミキさん…。「おやすみなさい、良い夢を」…」
潜霧士の別れの言葉を送り、タケミはそっと立ち上がり、テントを出る。
「済んだか?」
待っていたユージンの顔を見上げ、黒狼は頷いた。
「そうか。…今夜はふたりきりにしてやるぜ」
ユージンはテント内の灯りはそのままにして、入り口を閉める。
動けなくした男は滑り台ドームの中に放り込み、公園内に見えるのは二人の姿だけ。
「今夜は寝ずの番だ。夜明けと共に折り返す」
「はい」
腕を横にして目をグシグシ拭っている黒狼の肩をポンと叩き、ユージンは空を仰いだ。
夜の深い霧の中からは、星も見えない。
翌朝、ユージンは近くの廃屋からベッドや支柱を失敬して、ロープで縛り、廃車のホイールを使って簡素な荷車を組み上げた。
応急で造った不格好な荷車は、ミキと婚約者の遺体をスプリングマットの上に安置し、ひとりだけ生かして残して縛り上げた
男を後部に括りつけ、巨漢に引っ張られて帰路を往く。
他の死体は纏めて埋めておいた。後日、タクマが手配する政府のチームが回収し易いように、座標をしっかり押さえた上で。
500キロ超の重量を肩に担いだロープで引きながら、力強く歩む熊の前を、簡素なマスクで鼻と口元を隠した少年が往く。
人間の姿に戻ったタケミは、泣き腫らした目をまっすぐ前に向けている。
ミキを送り届ける。それだけを、今は考えていた。
そして、翌日の夜…。
「ここで聞くのか?」
神代専務捜索所の地下、ミーティングルームにもされるそこで、ユージンはカズマと向き合っていた。
挟んだ机の上には、ミキが遺した録音マイクと、そのフィアンセが遺した録音マイクが並んでいる。
ユージン達の今回の帰還は、面倒事が多かった。そのままでは霧から上がるにもひと悶着あるので、先にタケミを霧から上が
らせ、カズマに事情を伝え、他の目に触れない形で簡易荷車を回収させるなど、最後まで大変だったのである。
タケミはもう心身ともに疲れ果て、「カズマさんが帰るまで起きてます」と気を張ってはいるが、話を聞かせるのは気持ちに
効くと考えたユージンは、同席はパスさせた。今はリビングのソファーに座ったまま、虚ろな目を何処ともない空中に向けてぼ
んやりしている。
「ええ」
カズマは神妙は顔で二つのマイクをくっつけて並べた。まるで手を取り合わせるように。
「一人で聞いたならいざ知らず、貴方の前で聞いた事実があれば、言い逃れできません。中身が例えどんな面倒事だったとして
も、逃げ出したくなるような中身だったとしても、握り潰す訳には行かなくなりますから」
聞かなかった事にはできない。ユージン自身を証人に解決を誓う…。それがカズマの言い分だった。
「そう願う」
巨漢は腕を組んで目を閉じる。
「…でなけりゃ、霧の中から声を投げかけた、あのふたりが浮かばれねぇ…」
今回の件は政府内の不祥事。神代専務捜索所には迷惑がかからないよう、カズマの方で便宜を図る事になった。
粕谷大臣への報告共々、カズマの両肩には重しが乗るが、それが仕事だと彼は腹を括る。
経費込みの報酬は、後日色を付けて振り込むと約束し、カズマは引き上げて行った。
潜霧成功の打ち上げをするだろうと踏んで用意していた、個人的な御礼を置いて。
ドンと、テーブルが音を立てて震えた。
ハッと顔を上げたタケミは、ホットプレートを持って来た巨漢の顔を仰ぎ見る。
「肉だ」
再びドンと、ホットプレートの脇に置かれたのは、桐箱入りの鹿児島産ブランド豚肉…、カズマの個人的な御礼品である。
「ヌシは座ってろ」
腰を浮かせかけたタケミの肩を押さえつけるようにして座り直させ、ぶっきらぼうに言い放ち、ユージンはドスドスとキッチ
ンに向かった。
食器棚をガチャガチャ鳴らして皿を取り出し、冷蔵庫からタレを取り出し、冷蔵庫の野菜室にあった玉ねぎ三つを全て取り出
し、皮を剥いてさっと洗って雑で不揃いな輪切りにする。そして日本酒の瓶を引っ掴み、麦茶のボトルを取り、慌ただしく何度
か行き来してから、タケミと向き合う位置でソファーに座る。
が、思い出したようにまた立ち上がり、プレートに塗る油を取って来て、改めて座る。
「食うぞ」
呆然としているタケミの前で、油をひいて厚切りの豚肉を並べ、水切りつきのボウルで持って来た輪切り玉ねぎを手掴みで鉄
板に放り込み、ジュウジュウ音を立てて焼き始めたユージンは…、
「今回、ヌシのミスはねぇ」
雑な菜箸捌きで肉をひっくり返しながら言った。
「潜霧以前に、大人の身勝手と、大人の失敗と、大人のやらかしが原因だ。ヌシは悪くねぇ。むしろよくやった」
グズッと、タケミが鼻を鳴らす。潤んだ目から頬にポロポロと涙が零れ、白い頬が紅潮して、眼が真っ赤になっている。
焼けた傍から高級豚肉を箸で摘まみ上げて、玉ねぎと共に山のように盛り、ユージンは皿を差し出した。
「食え」
「…所長…ボク…」
何か言いかけた少年を遮り、巨漢はずいっと皿を突き出す。
「食え」
「………ふぁ…い…!」
目をグシグシ擦り、皿を受け取ったタケミは、焦げ目が薄くついたプリプリの豚肉を見つめる。
こんなに辛いのに、こんなに悲しいのに、腹は減るし、食えば美味い。
「食え。食わねぇ奴と休まねぇ奴は使い物にならねぇ。食え。たらふく食って、寝ろ」
促したユージンは一升瓶を掴み、安酒をグビグビと音を立ててラッパ飲みし、ホットプレートから自分の皿にも肉を取り、お
ろしポン酢をドバドバかけて、数枚纏めて口に放り込み、モリモリ噛んで飲み下す。
「食え。さっさと食わねぇとワシが全部食っちまうぜ?食え」
「は…ひ…!」
グシュグシュと目を擦り、鼻をすすり、タケミはニンニク胡椒ダレをかけて豚肉を口元に運び、ふぅふぅと冷ましてからパク
リと食いついた。
プリプリの食感。そうそうと流れるような脂。口の中に溢れる肉汁。
哀しくても、泣きたくても、体は食事を求める。生きるために食料を必要とする。
「う…、うっ…!」
口を動かしながら呻いたタケミが、ギュッと目を瞑る。
「ううっ…、ふふ!んっ…、ふむっ…、むぐ…!」
泣きながら噛み締めた肉は涙の味がする。ホットプレートの向こうからまたユージンの手が伸びて、タケミの顔に濡れタオル
を押し付け、不慣れな、しかし少し優しい手つきで涙を拭った。
「食え」
「あい…!」
「三回目かい」
『ああ』
その日の深夜、恰幅が良い雌虎は、客が居なくなった酒場のカウンターにもたれかかり、電話を受けた。
今宵のラウドネスガーデンは店仕舞いが済んだ。片付けも仕込みも終わった。退店して行くスタッフの挨拶に、マダム・グラ
ハルトはひらひらと手を振って応じながらため息をつく。
「塞ぎ込んでるのかい?」
『そうだな』
「今もかい?」
『今は泣き疲れて寝とる』
ユージンの声は重い。酒を飲んでいるのに全く酔えていない。
潜霧の後は酒場で夕食を摂るか、時間が無い時はテイクアウトメニューを注文するのがユージンの習慣。それは生きて戻った
事をダリアへ報せる、帰還の顔見せのような物でもある。
だが、今回はタケミがとてもそんな状態に無かったので予約をキャンセルした。ユージンは改めて電話して、そのドタキャン
を詫びながら、今回の顛末をダリアにも情報提供している。
「三回か…。慣れはしないだろうね…」
三回目。タケミがひとを殺した回数。
最初と二度目は一人ずつだった。しかし今回は一気に四人、流石にダリアも顔を曇らせる。
とんでもない事をしでかした。…などとは微塵も思っていない。タケミのメンタルが心配なのである。
潜霧士は危険と隣り合わせの仕事である。国家資格で、前科がある者は潜霧士になれないが、この認可を受ける者が必ずしも
善人とは限らない。
余裕がない潜霧捜索、獲物が被るなどのトラブルがエスカレートして、誤って相手を殺してしまったなどという話は、そこら
じゅうで飽きる程聞いている。金に困ったあぶれ者が一獲千金を狙ってダイバーになる事も多く、血の気の多い連中や素行の悪
い者はいくらでも居る。
原因不明の死を遂げる者もある。行方不明になる者もある。そして、その持ち物が闇市に流れる事もある…。逮捕されていな
いから犯罪者になっていないというだけの、悪人だってマスクを被って霧に潜る。
われた事も、背中に銃口を向けられた事も、両手の指では数え足りないほどあった。
大穴の中は、法と秩序と衆人環視が及ばない、各々の常識と倫理に行動を委ねる世界である。故に、潜霧士は正当防衛の末に
相手を殺してしまったとしても、過剰防衛として裁かれる事が殆ど無いように特例が定められている。
タケミはこれまでに、霧の中で合計6人返り討ちにしているが、今回を含めて一度も法を犯してはいない。いずれも、自分の
生命の危機に対して正当な交戦権を行使した結果である。しかし、タケミ本来の精神は、理由があれば人死にを肯定できるほど
強靭でもないし、諦観と共に受け入れられるほど慣れても、擦り減ってもいない。
「姐さん。お先します」
灰色の雌猫が小声でそう告げて、ダリアの傍のカウンター上に、ワイングラスと封を開けたボトルを置き、退店する。片手を
上げて応じた雌虎は、ボトルを取ってグラスにワインを注ぐ。
おそらくあまり聞かれたくない類の込み入った話だと察したスタッフ達は、気を使ってオーナーだけを残し、全員が先に引き
上げた。グラスを軽く掲げたダリアは、黙礼するように軽く目を閉じた。
今宵の弔い酒は貴腐ワインの一種。霧の中で特殊なカビがついた、非常に糖度が高い霧ブドウから造られるそれは、酒とは思
えない程甘い。
奇しくも女性に人気の高級品、せめてもの弔いには向いた一杯だった。
「…証言用に生かした奴には、タケミのあの姿を見られたのかい?「人狼」の姿を…」
『ああ。だがカズマちゃんに任した』
「なら心配はないね」
タケミの「変身」を目撃した男は、情報確認の為に引き渡してあるが、カズマの管理下なら情報が漏れる心配はない。「適切
に処理」されるだろうとダリアも安堵する。
「人狼化」。タケミの体に起きる変身現象を、把握している数少ない者達はこう呼んでいる。
霧による因子汚染がもたらす既存の獣化プロセスとは全く異なる、短時間での完全変態。「自分の意志で任意に獣人形態に変
身する」事がタケミにはできる。身体性能も獣人のそれだが、異能が確認できていないのでステージ7相当と思われる。
だがこの現象の最も不可解な点は、「戻る事もまた任意で可能」という事。霧によってもたらされる、本来不可逆なはずの獣
化とは、この点が根本的に異なる。
変身は、肉体の変貌こそ劇的だが短時間で完了し、苦痛もなく、自壊なども起きない。それどころかタケミは変身に際して全
身の細胞の大部分が一新され、致命傷レベルの深手すら短時間で修復される。故に、その真っ白な餅肌には傷跡が一つもない。
とはいえ体力的な消耗はあるようで、短時間に繰り返し何度も人狼化する事はできず、一度人間の姿に戻れば、数時間のクール
タイムを挟まなければ再変身は不可能だが、体に見られる消耗はその程度。もはや「そういう生き物」としか思えないほど、タ
ケミの変身は肉体に悪影響がない物だった。
両親も祖父も、もちろんこんな体質ではなかった。おそらくは特異な生まれが影響しているのだろうが、タケミは前例がない
突然変異なのである。
この奇妙で前例がない体質は、しかしタケミ自身にとって危険過ぎた。公に知られてしまったら実験サンプルにされるのは確
実である。
誰もがそう考え、諦めないだろう。万に一つでも、と…。
だが、そうしてタケミが研究対象になったとしても、得られる物は何もないという事が、ユージン達には判っている。カズマ
の計らいでタケミの体を検査し、専門家がそう結論を出しているのだから。
基本形態は人間の姿でありながら、タケミの因子汚染率は平常時でジークフリート線にある。本来ならば獣化が外見に現れな
いはずがないラインに…。
カズマの口利きで内密にタケミの体を調べた研究者は、少年について「人間でも獣人でもない新種」と結論付けた。人間の姿
で過ごしているが、厳密には中身が違う。タケミの体質を人間に応用したり再現したりするのは不可能だと…。
しかし、それが事実だとしても信用しない者もあるだろう。諦めずにタケミを「調べ尽くそう」とする者もあるだろう。その
「無意味なトラブル」を避けるために、ユージン達はタケミの秘密を伏せている。
『今回は被害者が悪かった…。「良いひと過ぎて」悪かった…』
ため息混じりのユージンの声には悔恨が滲む。
『いいトコのお嬢ちゃんだったが…、家柄や血筋だけって娘じゃねぇ、精神性が高貴だった…』
ユージンは語る。タケミはあの女性を怖がらなくなった。女性が苦手なのに心を開きかけていた。忌み嫌われると決めつけて
いるあの姿と体質を目の当たりにして、それでも態度を変えなかったミキに、目の前で死なれた事は…。
「そりゃあ…、相当堪えたろうね…」
しかも、タケミが生かしておく事にした男が銃撃したのが彼女の死因。必要性から一人生かしておいたのは判断ミスではない
のだが、タケミとしては責任を感じずにはいられない結末である。
「で、メンタルケアの仕方を教えて欲しいってのかい?」
『一応、仕方は考えた。合っとるかどうかを聞きたかった』
「どんな?」
『美味い飯』
プッ、とダリアが吹き出し、『やっぱりダメか』とユージンがため息をつく。
「あっはっはっはっ!何ともアンタらしいねぇ!いいよそれで!アンタはそれでいいのさ」
『む…?』
「良いんだよ、それだけで良い…。タケミはね、賢いし優しい子さ。アンタが不器用に元気付けようとする時、それに応えよう
と頑張る子だ。違うかい?」
『………ダリア』
「うん?」
『恩に着る』
「はっ!ならタケミ連れて高いモン食いに来な。席はあけとくよ」
『おう』
通話が切れて、子機をコトンとテーブルに置いた雌虎は、軽くため息をついた。
政府関係者の汚職は、前々から噂されていた事。ちょろまかしや横流し、規模の小さい物や巧妙に隠された物は追い切れず、
それを内部調査する事に十分な労力を割けなければ、被害の小ささから見逃される事もあった。まさか生体の大規模横流しなど
まで行っているとは思ってもいなかったが…。
「アル達の仕事が無くならない訳だよ、まったく…」
ダリアの養子は、海外に流出した危険生物を狩る事を生業としている。
定期的に仕事がある訳でもなく、何処で事件が起こるか判らない。故に彼らは傭兵のように、事件が起こる都度各国を渡り歩
き、国家や軍に雇い入れられ、放たれる。あたかも猟犬のように。
「…ん?」
おもむろに眉根を寄せて何か考え込んだダリアは、首を傾げて目を閉じ、眉間を押さえる。
「何か忘れてるような…」
ダリアは気付いていない。子機に灯る点滅ランプの光に。ユージンとの話し中に着信があり、留守番電話が録音されていた。
短い物だが…、
…と…。