第八話 「四等昇級試験」

「過保護じゃねぇか?」

 霧が緩い風で横へ流れる中、赤金色の大熊は大半が崩れてショートケーキのようになった公務員宿舎の上に立ち、腕組みをし

ながら隣を見遣る。

「アンタこそ」

 ユージンより頭二つは背が低いものの、それでも堂々たる体躯の雌虎が、霧の中に目を光らせながら応じた。

 引退して酒場を経営しているダリアだが、基本的に潜霧士免許に返納義務は無い。引退を表明した後でも届け出を出せば大穴

に入れる。今日は養子の様子が気になって酒場は臨時休業、こうして懐かしの「仕事場」に舞い戻っていた。

 ユージンと同じデザインのジャケットにカーゴパンツ姿のダリアだが、流石に金熊と違ってはだけたジャケットの下は「全開」

ではない。…とはいえ、豊満な胸をサラシを巻いて締めているだけだが。

 腰の後ろにトーチを装備しているが、両腰にも大型の荷物が装着されている。ベルトから大型フックで両足の外側に吊るされ、

揺れ防止に太腿へベルトで縛り付けてあるのは、厚み5センチ、幅15センチ、長さ80センチほどの金属の箱らしき物。中央

に溝があり、等間隔にいくつか穴があいている。

 高い所から見渡す霧の中には、無数の瓦礫と廃屋が並び、あちこちに亀裂が走った廃墟。その中に目を凝らすと、人影が移動

してゆくのが見える。

 二日がかりの四等昇級試験は大詰め。初日のペーパーテスト、器具類の扱いなどの技術テストを突破した受験生達は、二日目

となる今日、最終試験科目である潜霧実施テストに取り組んでいた。

 これまでの各等級の昇級試験でもそうなのだが、これは決められたチェックポイント全てを通ってゴールするのが目的の、い

わゆるウォークラリー形式。

 この「ウォークラリー」という言葉の響きで甘く見る者も居るのだが、実質、牧歌的な要素皆無のデスマーチである。

 通らなければいけないチェックポイントは夥しい数で。いずれも登攀や降下が必要になる難所に設定してある。さらにはゴー

ルまで決まった一本道で設定されてもおらず、ジグザクになっている箇所も多い上に、全て通れば通過順は自由。ルート選択の

判断も問われる試験となっている。

 引き抜きやスカウトを目的に、この試験の様子を見物に来る潜霧士も居るのだが…。

「…あの影アルじゃないかい?」

「落ち着け。アル坊はもっとデケェだろう」

 二人は身内の様子の覗き見である。受験者同士の相互補助や協力は認められているが、部外者が力を貸せば失格になってしま

うので、見守るだけしかできないが。

 霧の中に人影が見える度に双眼鏡を構え、今度こそ養子達が来たかと目を凝らしている雌虎だが、アルもタケミも一向に姿を

見せない。

「せっかく筆記試験クリアできたってのに、何やってんだいあの子は…!アタシらだったら一時間で走破するよ!?」

 唸るダリア。なお、この試験で想定されている平均走破タイムは5時間ほどである。

「苛立つんじゃねぇ。あと、ヌシやワシと比べるんじゃねぇ」

 ユージンとダリアが陣取っているのは、伊東のゲートから出発した受験者が早霧湖跡のゴールへ向かう道程の、三分の二を過

ぎた辺りである。ちょくちょく通過してゆく受験者が現れたのだが、タケミとアルはまだ見えない。

 ダリアは苛々しているが、ユージンは落ち着き払っている。

 タケミは潜霧活動の実績も十分。アルは潜霧経験こそろくに無いが、猟師として仕留めた危険生物の数はそのまま討伐数にカ

ウントされるため、二人とも書類審査は問題なく突破。アルだけは危ぶまれていた筆記も何とかパスしている。技術検査もしっ

かりクリアした。試験前の追い込みは無駄になっていない。

 できるだけの事はしたので結果を待つのみだと、ユージンは腹を括っている。それに、あの二人なら…。

「それにしても、またエグい高低差をわざわざ多めに設定したコースじゃないか…。試験官の生真面目さが垣間見えらぁ」

 ダリアが見遣ったのは、大きく地盤沈下した公園跡と、高層マンションの廃墟屋上のチェックポイント。特に高層マンション

の方は内部の階段が所々崩落している上に、危険生物も住み着いているので、内部を踏破するだけで相当な時間を取られる。

 こういった実地での試験環境では、事前駆除などは行われてない。試験環境は本番と一緒、試験で命を落とすなら昇級しても

結果は同じという事である。冷たいようだが、突破できない者は今の等級で落ち着くのが一番良い。

「………」

 不意に、ユージンがピクリと眉を上げた。コバルトブルーの瞳が細められ、確認を終えるなり口元が緩む。

「なるほど、そう来やがったか…」

「ん?」

 ダリアも遅れて気付いた。マンション屋上のフラッグの両脇を駆け抜け、手にした箱…ポイントチェッカーで記録しながら通

過する、大柄な影と低い影に。

「第19ポイントチェック!」

「抜けてる18は…、あの公園っスね!任せるっス!」

 屋上の縁まで駆けるなり、アルは背中の得物…全長2メートルの大太刀を抜き、壁面に突き刺す。

「捕まるっス!」

「うん。…固定オーケー!」

 屋上の端で壁面に刀を突きさし、ぶら下がる格好になったアルの首に腕を回し、少年はヒラリとその背中におぶさると、腰に

つけていたフックつきのロープを縁にかけて二度引っ張り、準備完了を告げる。そして…。

「イイイイイイイイイイイイッ………ヤッホォオオオオオオオオオオオオオオウ!」

 突き刺した刀を手掛かりに、そのまま壁を自重で斬り崩しながら、タケミをおぶったアルが降下を開始。ブレーキ用のロープ

をかけたタケミが上げる悲鳴が、「あわぁあああああああああっ!」と霧中にこだまする。
崩落した階段のせいで迷路のように

なっている上に、危険生物も徘徊するマンション内を避けた、大胆なショートカットだった。

 屋上に引っかけたロープのフックを、内部を通るワイヤーの操作で開かせて回収し、公園跡のチェックポイントを通過するな

り、タケミとアルは呆気にとられる他の受験者を尻目に、折り返して駆け出す。

「20は!?」

「道なり真っすぐ、今度は登り400メートル!緩い坂で、高低差20メートル未満!」

「オーケーオーケー、よじ登りが無いなら先導任せたっス!索敵は任されたっス!」

「うん!お願い!」

 高低差の移動をなるべく避けてきたその足取りには、疲労の色が殆ど見られない。ふたりはやや早い駆け足のペースで見通し

の悪い霧中を突き進み、先をのろのろ進んでいる疲労困憊の潜霧士達をあっと言う間に抜いてゆく。

「ヒュウ、案外やるモンだよ…」

 これはダリアも素直に褒める。

 タケミが立てた踏破計画は、高低差で持って行かれる体力を軽視せず、上り下りのタイムロスも短縮するため、近場にある高

所のチェックポイントを纏めて通過、その後降下しながら低い位置のチェックポイントをクリアするという、部分的な逆走も厭

わないルート。

 詳細な地図を配布された際、試験官のルート設定が上下動させる事を意図した物になっていると即座に気付いたタケミは、同

時にポイントがある程度纏まって配置されている箇所が多い事にも着目。数分でこのルートを設計した。

 自分ひとりでは困難なルートもあるが、そこは体力自慢のアルと共同なら乗り切れる。最初からツーマンセルで突破するつも

りだったので、設計に迷いはなかった。自分に自信が持てないタケミだが、ひとの事は信じられる。アルとなら行けると踏んで、

大胆な地図を描いてのけた。

 日常的にユージンが行なうスパルタ縦走は、体力をつけさせ場慣れさせる事だけが目的ではない。状況と目的に応じ、自身に

最適なルートを設計できる柔軟な思考力を身につけさせるのも狙いだった。そしてタケミは所長の期待通り、見事なルート選定

で霧中を駆け抜けてゆく。

「はぁ~…。誰かさんを見てるような走破ルートだよ」

 ダリアのそんな感想を聞くと、ユージンは目線を少し上に向け、ポリッと鼻の上の古傷を掻いた。

 タケミのルート設計にアルの踏破性能が加わった今回、その軌道はまるで、ユージンのルート選びのようでもあり…。

 

 高低差での同距離移動と水平に近い移動では、消耗する体力も使う時間も段違いである。

 ビルとビルの間にロープをかけて渡るなどの、かなり曲芸スキルを要求されるような手段まで交えて、高低差のある移動を極

力カットし、体力の消耗を抑えたタケミとアルは、平地では遠回りが多くとも余裕が失われない。

 試験が後半に近付けば近付くほどこの差は影響が大きくなり、疲労が蓄積した他の受験者を抜いてゆき、ついにふたりは先頭

集団まであと少しの位置まで順位を上げた。

 順位は合格判定に大きく響く。この最終試験では先頭から一割以内の着順は確実な合格ラインとされており、先頭集団四名に

続くアルとタケミは、もう昇級が確実になったような物と言える。

「昇級祝いは、あの子が好きなビーフハンバーグにしようかね」

 邪魔にならないよう遠巻きに並走し、その移動を見守るユージンとダリア。ゴールするまで気が抜けないとはいえ、ここまで

来ればお祝いの事も考える程余裕が出て来る。そして…。

「いや、ステーキもつけよう!タケミには川俣軍鶏のフルコースだ!」

 ダリアが興奮して身を乗り出した。

 丸っこい少年が前傾姿勢で疾走し足が鈍った先頭集団を抜く。それに続いて、疲れた様子もないシロクマが、腹が出た中年が

ジョギングするような格好で「ホッ、ホッ、ホッ、お先っス~。ホッ、ホッ、ホッ」と、整った呼吸を乱さないまま追い抜いて

ゆく。そして、最後の直線900メートル、最後のチェックポイントを同時に通過し…。

「タケミ先行くっス」

 シロクマに背を押された少年が、試験官が待つ広場へ最初に足を踏み入れた。土肥のゲートから出発した西エリアの受験者は

まだ誰も来ていない。東西含めて最初のゴールは…。

『一着。ダイビングコード「ウォルフ」』

 電子音声がタケミのドックタグを読み上げ、

『二着。ダイビングコード「3A(スリーエー)」』

 続いてアルのタグを読み上げる。

「ヘイ!」

 体を折り、膝に手をついてハァハァ喘いだタケミの横に、ザリッと軍用ブーツが進み出る。顔を上げると、笑顔のシロクマが

右手を軽く上げていた。

「やったね…!」

「ミッションコンプリートっス!イェア!」

 パンッと、ハイタッチの音が軽やかに霧に響いた。

 四等昇級試験、東エリアからの最終試験挑戦者48名中の、ワンツーフィニッシュ。期待以上の成果で、ふたりは昇級を勝ち

取った。

 

「だいぶ集まってきましたね」

 次々とゴール地点に到達する受験者達を、分厚い霧越しに遠距離から双眼鏡で覗って、猿の獣人が声を発した。踏破した受験

生が西からも東からも続々と到着しており、広場にはもう70人以上が集まっている。

 元は中学校の校舎だった廃墟の屋上、猿の周囲には十数名の獣人。いずれも獣人特有の軽装潜霧装備に身を固めていた。

「そろそろ頃合いでしょうか、親分?」

 その問いに、眼光鋭い灰色狼の獣人が顎を引く。

「今の時点で辿り着けてへん連中は、そもそも不合格や。篩にかけるまでもあらへん」

「では…」

「連中も腹空かしとるやろ。やれ」

 狼に命じられ、傍らに控えていた白猫が、T型のハンドルを備えた箱に手をかけ、上から押し込むようにスイッチを入れた。

 

「汗かいたっス~。喉乾いたっス~。お腹減ったっス~」

 まだ帰れないのかと、座り込んで嘆くアルの横で、「ごめん、さっきのグミが最後…」とタケミが苦笑いした。走破が少しで

も楽になるよう、飲料水も食料も最低限しか持ち込んでいない。落ち着いたら試験官側から配給があるはずなので、それまでは

我慢だとアルを慰める。

「こうなったら、そこらで霧トマトとか探してみるっスかねぇ」

「…それは…。最後の手段にした方が…」

 タケミの脳裏を過ぎるのは、試験に備えたユージンの現地授業中、数ある中からシロクマが猛毒キノコを一発で選んだ時の事。

「赤いのは三倍って古文書にも書いてあるっス。たぶん。つまりこの赤い茸は栄養三倍の大正解!ほらこんなに美味そうっス!

あ~ん…」

「食べちゃだめぇええええええええっ!」

 素人でも本能的に忌避感を抱くだろう、毒々しい赤さがチャームポイントの霧テングダケを、美味そうだと評して食べそうに

なるのは衝撃の光景であった。

(アル君は本当に、戦闘行動に物凄く尖ってるんだから…)

 などとタケミが微苦笑していると…。

「ん?地震っス?」

 地面がゴゴ…と唸り、体が軽い振動を感知した。試験官達も周囲を見回したが、すぐに地鳴りは遠のいて、視線は元の向きに

戻りかけ…。

「…アル君…。ここに来る、途中でだけど…」

「うス?」

「最後の直線で、何か…、危険生物の痕跡とか…あった…?」

「無かったっスよ?」

 猟師の目は地表に残された危険生物の痕跡を見逃さない。断言したアルは、

「…ソーリー」

 タケミが見ている方向を見て、急に自信が無さそうな声になる。

「無かったんじゃなく、見逃してたって事っスね。コレ…」

 霧の中でゾロゾロと影が動く。地面付近に濃く溜まった霧は、その輪郭を不確かにしているが…。

「全員戦闘態勢!土蜘蛛っス!数は5以上!」

 影の挙動で正体を把握したアルは、素早く立ち上がって背中の得物を抜き、肩に担いだ。

 そしてその直後、西側のゴールラインからも声が上がる。

「あっちでも!?」

 タケミは弾かれたように振り返り、どよめきと緊張の叫び、驚きの声を上げている人影の向こうに、霧に紛れる色の異形を認

める。

「いや違うっス!これって…」

 北極熊がスカイブルーの瞳を素早く巡らせ、ゴールに設定されているこの広場を包囲するように、土蜘蛛達が全方向で姿を現

している事を確認した。

 アルが最初に確認した5体どころではない。成体ばかりではなく、まだ小さめの若い個体も多いが、見えているだけで30は

下らず、まだ増えている。

「大穴とあんまり付き合いが深くないオレから兄ちゃんに質問っスけど」

「プレッシャーかかるからギリギリな時にお兄さんにしないで…!質問って?」

「大穴の中じゃ、土蜘蛛は「こんな状況」で集団発生するんスか?」

 アルが妙だと思っているのは、自分が猟師として確認している土蜘蛛の生態に照らし合わせると、今の行動が不自然だからで

ある。

「それは…、あまり無いっていうか、ボクも知らない。こんな出方をしたケースは…」

 ナマコ達が地面にたくさん出てきている時などは、それを狙って集まる事が多い。しかし今は、何もないのに地面から這い出

て来ていて、しかも獲物と認識した広場の潜霧士達を狙って近付いて来ている。周囲の餌を探さずに向かって来るあたり、異常

なほど空腹である事は間違いない。

「いくら試験前にルート近辺の掃討とかしないって言っても、こんなに群れているのが見つかったら、普通に駆除の呼びかけが

組合を通して出るよ!」

「つまり、こいつら誰にも把握されないでゴール近辺に集まって、腹を減らしてじっとしてたんスか!?ゴールにひとが集まる

の待ってたみたいにっス!?そんなの…」

「うん!おかしい!」

 何もかもおかしい。外からは異常な事だらけに見える大穴の中でも、この内部なりに自然な営みという物はある。この土蜘蛛

達の行動は霧の中の自然に照らし合わせても異常だった。

 エマージェンシーコール…つまり緊急救難信号を発した試験官達から、集団防衛陣形を取るよう指示が飛ぶ。しかし下見の際

に安全と判断されたゴールの広場は、遮蔽物も無く防衛戦向きの立地ではない。

「少人数で密集陣形!死角カバーして、各自攻撃体勢!ブロッカー経験者は前へ!」

 響いた声は、しかし試験官の物ではない。

「この状況、専守防衛じゃジリ貧っス!頭数減らす駆除主眼の迎撃戦、いいっスね!?」

 響き渡るのはシロクマの声。

 潜霧経験は少なくとも、危険生物との戦闘という点ではアルはベテラン顔負けの経験を積んでいる。何より、傭兵のように雇

われて即席集団戦を数多く経験しているため、こういった「泥仕合」には慣れっこである。

 有効性を認めて試験官が指示を切り替えたのはその直後。殺到する土蜘蛛との接敵が十秒ほどまで迫ったタイミングだった。

「お見事な采配です」

 ん?とシロクマが眉根を寄せる。タケミとコンビで迎撃に入るつもりだったアルは、覚えの無い声の主に顔を向けた。

 そこに居たのは、作務衣にも似た黒い和風の衣装を纏ったキジトラ猫の獣人。

 潜霧士のスーツがプロテクターを装着しているように、作務衣の両肩から肘の手前や、両腰などには、和甲冑の大袖のような

段々重ねの装甲が紐で縫い付けられているが、艶やかな朱色の着色が施されたそれらは危険生物の外骨格から削り出された物。

 両前腕には、危険生物由来の皮素材に、作務衣と同じように朱色の装甲が縫い付けられて、肘までカバーする手甲を装備して

いる。

 左手にぶら下げているのは、鍔が無く、日本刀のように反った、熱した鉄のように赤い刀身を持つ刃物…長ドス。雅な朱色に

塗られた艶のある鞘が、腰の後ろで斜めに差してあった。

 タケミより少し背が低く、165センチ無いだろう、小柄で華奢な若者である。

「…あれ?試験官さん?」

 タケミの記憶では試験官。西エリア担当のゴール側に居た一人だが、こんな目立つ格好をしていただろうかと違和感を覚える。

こんな特徴的な装備なら強く印象に残っているはずなのだが、今の今まで気になっていなかった。

「厳密には「否」、臨時ボランティアのようなものです。此度の騒動、一枚噛んでいるのは「こちらの親分」。何かする気だと

は思っておりましたが、遺憾にも突き止め損ねまして…」

 キジトラ猫は、ふぅ、とげんなりした様子で息を漏らす。

「…仮死状態の………埋設…。一斉覚醒……、空腹だから、目覚めたら手近な物を………。はぁ…」

 ブツブツと零す言葉は、小声なのでタケミ達には全てを聞き取る事はできなかった。

「こんな手の込んだ、死人が出るようなシャレにならない嫌がらせなんて…。戯れ事では済まされませんよ本当に…。最悪に備

えて潜り込んで正解でした」

 何かを必死に堪えているような怒り顔で、キジトラ猫は眉間を押さえた。何が何だか判らないタケミだが、それでも気になっ

たのは…。

「「こっちの親分」…。「一枚噛んでる」…。あの、それじゃあこれは、「土肥の大親分」がしている事なんですか!?」

「それは…」

 答えかけたキジトラ猫の声を遮り、アルが声を張り上げた。

「来るっスよ!」

 先頭の一匹が、最前線に立って迎撃するつもりで前に出ていたシロクマに躍りかかる。両腕の鎌を展開し、大きく左右から挟

み込むように振るって…。

「どっせぇーい!」

 気合い一閃、地面すれすれに切っ先を下げた所から振り上げた黒い大太刀が、真下から跳ね上げられる。

 豪剣一閃。蟹は跳ね上げられた一刀の勢いだけで真っ二つになった上に、分割された左右部分がそれぞれきりもみ回転する。

さらに…。

「も一丁っ!」

 北極熊の丸太のような右足が唸りを上げ、分断した蟹の半分を手ごろな飛び道具として蹴り飛ばす。後続に命中し、甲殻同士

が激しくぶつかって欠け、破片が飛び散るそこへ、黒い颶風が強襲をかける。

 アルが回し蹴りの格好でいる間に、タケミは腰の刀に手をかけながら疾走。

 アルが蟹を蹴り飛ばして怯ませた二体目の前で、瞬時に抜刀、一閃、潜るように離脱しながら大回転。鎌の一本と脚二本が殆

ど同時に切断される。
まるで入念に打ち合わせた剣舞のように、ふたりの動きはシンクロし、隙を生じないよう噛み合っていた。

 タケミもアルも、同じくタケミの祖父から剣術を教わっている。危険生物を相手取るためのソレだが、しかしその戦い方は見

た目の上ではまるで違う。

 タケミの剣術は、彼の父親のそれ。素早く、鋭く、損傷を与えて仕留める鋭利な剣。

 アルの剣術は、タケミの祖父のそれ。一刀で命を絶つ事を基本とする、いわば豪剣。

 それぞれに向いた戦い方を教授したというのもあるが、タケミの祖父がふたりに違う型を習得させたのには意味があった。

 それは、この二種の剣質が、互いの欠点を補う相互補完の性質を持つから。タケミとアルの剣は、天と地、陰と陽、龍と虎な

ど、型の名前にも対になる物が多い。性質が大きく異なるそれぞれの剣は、互いの不得手を補い、相乗効果で長所を伸ばす。

(体が軽い…!新しいスーツ、す、凄い…!こんな風になるなんて…!)

 少年は、疲労した体がまだここまで動く事に、感動すら覚えた。

 新型スーツはタケミの挙動を先読みするように、曲げた四肢の動きをサポート。たわめる脚を力強く抑え、伸ばす時には後押

しする。しかもプロテクター部分は土蜘蛛以上の強度を備える大百足の素材。削り込まれて軽量化されても強度を損なわず、紙

を貼り付けているかのように重さが感じられない。

 そして…。

「素晴らしいお手並み、息の合い方にも感服します!」

 声はキジトラ猫の物。タケミに多くの脚を断たれて転倒した蟹を、大上段からの一撃で真っ二つにしたアル、その頭上を、ま

るでトスされたバレーボールのような軽やかさで、捻りを加えた宙返りで飛び越え…。

「よっ…と」

 アルが目を剥いた。タケミも動きを止める。

 続いた三体目の甲羅の上に着地しながら、キジトラ猫は手にした長ドスで、ソクッと、抵抗なく土蜘蛛を刺して仕留めている。

正確に急所を貫いて。土蜘蛛の甲殻を貫く瞬間だけ、赤い刀身がヴヴッと振動音を発していたが…。

(アメージング!何て無駄がない殺し方っスか!?)

(あの刃物、レリックだ!)

 キジトラ猫は素早く、抵抗もなく、土蜘蛛から長ドスを引き抜くと、その体が崩れ落ちる前にトンと軽やかに跳躍、後方宙返

りでタケミの脇に着地し、少年と並んで四体目に対処するポジションにつく。同時に五体目はアルが回り込んで迎撃できる位置

取りになる事を強いられていた。

 手練れな上に集団戦、特にポジショニングに習熟している。

「なんだい…。あっちは助太刀無用かい?たまには間近で母ちゃんの格好良いトコ見せてやろうかと思ったのにさ…」

 そんな言葉を少し残念そうに吐いた女性を、迫る土蜘蛛にショットガンを連続で撃ち込んでいた潜霧士が、驚いて振り返る。

「マ…、マダム・グラハルト!?」

「店に来てくれるつもりだったら悪いね。今夜は臨時休業なんだ」

 ウインクした雌虎は、猛々しい笑みを浮かべて舌なめずりした。金眼はその瞳孔を縦に細くし、爛々と獰猛に輝いている。

「今日は久方ぶりに復帰中さ…!一等潜霧士「烈風」!張り切って行くよ!」

 その両腰に手が伸びる。吊るされている厚み5センチ、幅15センチ、長さ80センチほどの金属の箱が、太腿の固定ベルト

を解かれ、腰のフックから外され、中央の溝から扇状に展開。分割されて180度回転するその部位は、平時は鞘であり、展開

時は柄。

 それは、端的に言い表せば巨大なバタフライナイフ。展開時の全長が150センチを超える諸刃のそれを、二振り同時に扱う

のがダリアの戦闘スタイル。

「あ!弾が!」

 ダリアの参戦に驚いていた潜霧士が、ショットガンの弾切れで声を上げた。が、

「そら!ボサッとしてんじゃないよ!」

 一瞬の突風。射撃が途切れた所へ跳びかかった土蜘蛛は、その多くの目が密集する顔面の中心を、ダリアが小脇に抱えた大型

ブレードでガツンと突き刺される。さらに…。

「大盤振る舞いだ、取っときなぁっ!」

 ブレードを突き刺したそこから半歩前進、雌虎はその強靭な左足で土蜘蛛を蹴り上げる。余りの威力に、垂直に8メートル浮

き上がった土蜘蛛の胴体は大きく陥没し、体中のあちこちから体液が噴き出している。

 それの落下を待たず、ダリアは素早く身を伏せて、横合いから飛び込んできた蟹の鎌を避ける。その時は既に、ダリアの左腕

が得物の結合を解除、グリップを開いて可動状態にし、スイングの遠心力を加えて頭部の付け根、斜め下から刃を突き立てる。

 バタフライナイフの構造そのものなので、グリップを解放すれば刃は動く。固定されていないそれを自在に操るのは極めて難

しいが、ダリアはこの通り、スイングと重量バランスを完璧にコントロールし、開いたグリップと刃が直角になるような角度で

トリッキーな突きを見舞う事も可能。

「さぁ!ドンドン行くよドンドン!」

 猛々しい虎の笑みは、店を切り盛りする女将とはまるで別の貌。武装展開から十秒足らずで三匹目を仕留め、雌虎は次の獲物

に躍りかかる。現役時代とは違い、店の料理研究に熱を上げた結果としてだいぶ豊満な体つきになっているが、それでもコレで

ある。彼女の武勇伝で聞く全盛期は一体どれほどだったのかと、知らない受験者達は驚愕した。

 それは正に、変幻自在な鋼の嵐とでも言うべき多角高速攻撃。まるでヌンチャクのように振り回して背面まで攻撃範囲に収め

る得物は、最大全長150センチという重量凶器。これを小枝のように軽々と振り回す様は、四等試験に挑む経験を積んだ潜霧

士から見ても、多くの逸材を選別してきた試験官から見ても、圧巻の一言。さらに…。

「霧が晴れて行く…!?負傷者集めろ!手当を!」

 ダリアを中心にして、外側へ押し流されるように霧が晴れてゆく。広場の一部からはすっかり霧が無くなり、顔を晒して止血

などをする事も可能な状況になっている。頭部に傷を負ったりスーツが破れた者達を、試験官が集めて応急処置を始める。

 これがダリアの異能、「メガブロワー」。ユージンの「雷電」と対になっている彼女のダイビングコード、「烈風」の名の由

来。大気と気圧を味方につける、大規模な作用範囲を持つ異能である。

 作用は見ての通りで、霧を押し流して彼女の周辺に除染済みの空間をたちどころに形成。常に霧に満たされている大穴内に、

数時間単位で人類の生存圏を造り出す事すらできる。

 さらに効果範囲を絞れば、ジェット気流のような強い風を発生させ、彼女自身を浮き上がらせたり対象を吹き飛ばしたりもで

きる。これを用いれば正に「虎に翼」のことわざ通り、ダリアは縦横無尽の立体攻撃が可能になる。

 そして、ダリアが大暴れしているその最中に、ドンと大気が震えた。花火が咲いたような、腹に響く轟音で。

 

 ゴール地点から少し離れた位置、運悪く移動中に土蜘蛛の発生現場に居合わせてしまった受験者が、慌てて武装を構えて交戦

に入った。

 疲労も驚きもあって動きに精彩を欠いた射撃は逸れ、サブマシンガンの斉射は土蜘蛛の硬い背中に弾かれて飛び散らされる。

 距離が近い。後退すべきだった。そもそも何で土蜘蛛が大群で…。

 そんな思考がグルグル回り、翻った鎌が反射した次の瞬間……………。

「………お、おぶぇえええっ!」

 その受験者は、気が付けば地面で四つん這いになり、胃の中身をヘルメット内にぶちまけていた。

 その傍らには、パチッ、パチッと青白い電光を巨躯に這わせている金熊の姿。一瞬で獲物を眼前から消された土蜘蛛は、状況

の把握ができずに頭をクルクル回している。

 受験生が切り裂かれる刹那、異能を使用して水平に吹っ飛んできたユージンは、間一髪でこれを救出していた。

 しかし、あまりの加速と減速の差、人間が耐えるには厳し過ぎるGで、受験生は一度意識が飛び、レッドアウトを起こし、地

面に降ろされたら嘔吐している。

(柔らか~く捕まえて、脇に抱えて大事に運んだつもりだったが…。人間相手の加減ってのは難しいもんだぜ)

 もう少し減速して捕まえるべきだったかと反省しつつ、巨漢はそのゴツい両を、胸の前でガツンと打ち合わせる。バヂッと、

青白いスパークが太い両腕を走った。

「悪ぃが、今アイツの目の前で人死にが出るのは勘弁なんでな。残らず、急ぎで、雑に、片付けさせて貰うぜ?」

 そしてふと、ユージンは嘔吐している受験者の腰の後ろに目を遣る。そこには、中折れ式のハンディグレネードランチャーが

装着されており…。

「…っ!?ヌシ、それ…!その銃は何だ!?」

 興味津々に、ユージンの目が輝いた。

 

 父兄約二名の乱入もあり、包囲殲滅も免れない劣勢から始まった防衛戦は何とか盛り返した。しかし、受験生の大半は全力の

ルート走破で体力を使い果たしている。タケミも息が上がり始め、気付いたアルが背中に庇い、連携の型を変更する。

「一息入れた方が良いんじゃないっスか?」

 短時間ならタケミ抜きでも前線維持を引き受ける。そうアルが休憩を促すが、

「まだ、まだ…!」

 少年は刀を下げない。呼吸は乱れて汗だくになっても、集中力は切れていない。

 これに、アルは少し驚いた。

 タケミは怖がりである。辛い事やしんどい事にはすぐ泣き言を言うし、半泣きになる事もしばしば。

 なのに、今は…。

(堪えたんスよね…。せっかく友達になれそうだった人間に、目の前で死なれたのは…)

 辛かったろう。苦しかったろう。だが、それをタケミは無駄にしなかったのだと、アルは感じ入る。

 鈍感でがさつな自分でも判る。そのひとと接した時間は短くとも、交わした言葉は多くなくとも、タケミを奮起させるほどの

価値があったのだと。

「兄ちゃん頑張るなら!オレも張り切んなきゃいけないっスよね!」

 気合いを入れ直したシロクマは、

(ん?反射?新手?)

 周囲の霧が薄まったこの時、視界の隅にチカリと、反射光を捉えた。

「………」

 襲い来る土蜘蛛を、大上段からの一撃で叩き伏せ、慎重に口を開く。

「タケミ…。確認したい事があるんスけど、オレの右側に入って貰えるっスか?」

 警戒してすぐには襲って来ない蟹と相対し、膠着状態を作りつつ、アルはタケミに囁く。

「うん。こう?」

 タケミは従いながらも訝しむ。ふたりの連携は前後左右入れ替わっても問題なく成立する練度だが、右は利き手側なので、ア

ルがカバーを求めるのは本来左側である。

「ちょい前…、行き過ぎ、頭3センチ後ろっス。…ベリグー…!そのままっスよ?構えたまま、あまり動かないようにして…」

 アルは土蜘蛛を牽制するように、両手持ちの大太刀を軽く上げる。脇が締まっていない格好になるので、構えとしては隙があ

るが…。

「オレの右腕の下、隙間から真っすぐ北方向っス。あっちに反射光を見たんスけど…」

 アルの意図を察したタケミは、腰を落として土蜘蛛に備える体を装いつつ、ソロリと視線を投げる。

 アルが意図して浮かせた、大太刀を掴む右腕。奥の左腕。出っ張った腹。三つの線が囲んだ歪な三角形…方向指示も兼ねてい

る、狭く区切られたそこから、タケミは遠く蟠る霧の向こうに建物の影を見た。そこにチカッと瞬いた光を少年も確認する。

 霧が薄まったおかげで気付いたが、それは間違いなくレンズの反射光だった。しかもガラスの残骸などの反射なら、太陽の動

きと無関係な瞬きは無い。つまり…。

「…潜霧士が居てもおかしくない。けど…」

「そうっス。試験官がエマージェンシーコール出してるのに、駆け付ける様子が無いんスよね。こういう事もあるんスか?」

「ううん。…おかしい」

 タケミはチラリと視線を巡らせる。

 キジトラ猫は広場外周付近、試験官のひとりを援護している。一斉に殺到しないよう、携帯式爆雷で固まった所を攻撃する準

備中で、手が離せない試験官は、キジトラ猫に護衛されて作業している格好。どちらもすぐ動ける状態ではない。

 タケミは、キジトラ猫が先ほど発していた言葉が気になった。あれは、この状況が意図的に仕組まれている事を示唆している

ような内容で…。

「アル君!」

「ラジャー!」

 タケミの声で行動方針がどうなったのか悟り、アルは急に構え直して、対峙していた土蜘蛛に飛びかかる。

 一撃で背甲を割り、泡を吹いた土蜘蛛をサイドキックで蹴り飛ばす。バウンドして遠ざかったそれを猛然と追い、シロクマは

霧が晴れていないダリアの異能範囲外へと突っ込んでゆき…。

「アル君!深追いはダメだよ!」

 タケミが忠告を発する声を、その場の誰もが聞いていた。ふたりは霧の中へ、追撃の為に出たと認識し…。

「まずいね。みんなヘバって来てるよ」

 ダリアは右手で巨大なバタフライナイフをヒュンヒュンと回し、付着した土蜘蛛の体液を振り払う。なお、左肩には負傷して

気を失った潜霧士を前後逆に、荷物のように担いでいる。

 殺し尽くすだけなら可能である。他者を護らず、単身で戦うならば。だが大人数を守りながらの迎撃戦というこの状況では、

ダリアは持ち味の機動力を発揮し辛い。彼女の異能によって霧が押し遣られ、防衛拠点を成立させているのだから、あまり好き

勝手には動けないのである。

「ユージン!何とか片付かないかい!?」

 肩越しに振り向いて怒鳴った先には、ハンディグレネードランチャーに普段よりかなり大ぶりなエネルギー塊を装填している

金熊の姿。

 発砲するなり轟音が響き、普段よりだいぶ太い閃光が迸って、命中した土蜘蛛を顔面から前後に貫通、ボーリングの球が通り

そうな大穴を穿つ。素材の回収など考えていられる状況ではないので、加減無しである。

「後続が湧いてやがる。終わりが見えねぇ以上、人命優先で地道にやるしかねぇ。少しずつ受験生を集めて、負傷者を内側に密

集陣形を整えてくぜ」

「ハッ!地道って割にぶっ放してるモンは景気良いじゃないのさ。どうしたんだいソレ?」

「借りた」

 応じたユージンは、耳を震わせ、「む?」と顔を上げ…。

「そこの狐面!伏せろ!」

 巨熊が怒鳴った直後、狐の面を模したヘルメットを被っていた潜霧士の眼前で、威嚇するように鎌を振り上げていた土蜘蛛が、

木っ端微塵に砕け散った。

 一瞬遅れて土煙が吹き上がり、突風が吹き荒れ、轟音が響き渡る。

 狐面の潜霧士は、尻もちこそついたが無事。ただし散弾のような破片で全身を叩かれて、堪らず悲鳴を上げている。

 砲撃が着弾したような音と衝撃だったが、粉塵が落ち着き、脚と鋏と胴体の縁を少しだけ残して微塵に散った土蜘蛛の残骸が

見え始めると、着弾した物も姿を現す。

 見えるのは、羽を三本備えた、直径5センチほどの鉄の棒。それが地面から20センチほど顔を出している。

「こいつは…!」

 コバルトブルーの瞳に矢羽根を映したユージンは、ソレを知っていた。ソレを放てる者を、一人だけ知っていた。

「「親父殿」か!」

 

「命中。お見事です。いやでもちょっと加減が要るかも?」

 倒壊せずに40年以上残っている、高台にある送電塔の上。

 ウィーン、ウィーン、と音を立ててピントを調節する遠望用ゴーグルを装着しているのは、艶やかな黒い毛に覆われた顔。

 胸部から太腿の付け根までを残して獣化が進行したビントロングの獣人が、器用に脚と長い尾を鉄骨に絡ませて身を乗り出し、

ゴール地点の広場を注視しながら呟く。獣化進行の途中とはいえ、ここまで変われば身体性能もかなり人間離れしている。

 ビントロングは作務衣のような衣装に朱色の雅なプロテクター。腰の後ろには長ドスを挿している。腰回りにトーチの他にも

多数の小型ポーチを装着しており、背中には多数のワイヤーロープの束や小袋を吊るした大型のザック。探索中だった事が判る

出で立ちだった。

 その、鉄塔天辺にしがみ付いているビントロングの少し下、送電塔の左右に張り出している鉄骨の上で、男が一人、長大な弓

を下ろして、右手を傍らの矢筒に伸ばす。

 落下しないように鉄柱に革紐で縛り付けてあるそれは、矢筒と言ってもサイズがおかしい。中に入っている矢も直径5センチ

ほどで、もはや手槍のサイズである。

 それを一本引き抜く男は、補助器具も無しに3,400メートル彼方の広場を望み、標的を見定める。

 大きな男だった。左腰に長ドスを差し、纏っている衣装はビントロングの物と同じデザインの、朱色の装甲を配した黒作務衣。

だが衣装はサイズが全然違う。

 身の丈七尺、目方は八十一貫。胴回り180センチの、腹が出た肥えた巨躯は、白毛混じりの赤銅色。

 眉間を通って額の左から右眼の下へ真一文字の向こう傷。マズルの両側には反り返った二本の牙。双眸には深い黒瞳。

 男は、見上げるような巨躯の壮年猪である。

 大猪は一度下ろしていた弓を縦にすると、これの下端を足場の鉄骨にズンと据えて固定し、矢をつがえる。

 身長が2メートルを軽く超える巨漢が構えてなお、つがえる矢が肩の高さになる象牙色の大弓は、危険生物由来の逸品。節が

刻まれた長大な角…牛鬼の角を素材に用いた物。

 その銘は「鵺射り(ぬえいり)」。相楽製作所先代工房長の遺作にして最高傑作。大の大人が六人がかりでようやく少し引け

るという、冗談のような強弓である。

「弓勢(ゆんぜい)は九割ぐらいに加減して良さそうですぜ」

 大猪はビントロングの言葉に、無言で顎を引く事で応え、まるで四股でも踏むようにどっしり腰を落として上体を開き、弓を

引き絞る。

 その巨躯全体を使って引いた弓が、淡く赤い光を纏い、微かな音を立てる。キィィィィィン…。そんな、微かな細い音を。

 そこから放たれた矢は、音速を越えた。

 大猪が放った瞬間、オンッ…と大気の震えを残して矢は彼方へ消え、たわみが戻る弦と弓を中心に風が荒れ狂う。矢を射た反

動だけで、ドォンと大気が叩かれた音が鳴り響き、爆風に近い大気の移動が生じていた。その暴風を間近で浴びて、衣類を激し

くはためかせられながらも、大猪は微動だにしない。

 鉄塔がビリビリと震動するその上で、ビントロングがゴーグル越しに着弾を確認。潜霧士の一人が銃撃を浴びせていた土蜘蛛

が、脚を残して爆散する。

「お見事。しかし加勢はもう要らないかもしれませんぜ。熱海の大将と女将が受験者の襟首引っ捕まえて、一ヵ所に密集させ始

めました。あれなら一等のおふたりだけでも…っと?あれ?トラマル、何処行くのアンタ?………ん?ひのふの…、おやぁ?ふ

たりほど受験者の姿が見えなくなってます!」

「………」

 猪は三本目の矢を掴んだ手を止め、ビントロングを仰ぎ見た。

「…ちょっと待って下さいよ、今探してますから…、居た!霧の中に居ますね、蟹達を追いかけて…いや違うな。これは…、霧

に紛れて移動中ですね。安全圏への避難じゃないな…、どこに向かってる?」

 そこまで聞いた猪は、矢を筒に戻して弓を頭上に掲げた。それが握りの位置でゴグンと重々しい音を立てて二つ折りになると、

巨漢は背中の革帯にストンと落とすようにして背負う。

「移動しますか?合点です。見張りは継続します」

 弓と一緒に矢筒も背負った大猪が、鉄骨に結ばれたワイヤーロープを掴み、落下するような速度で地上へ向かうと、ビントロ

ングはスチャッと手を上げて「お気をつけて!」と見送った。