第九話 「土肥の大親分」

「こいつは驚いた。熱海の大将が現れたのにも驚いたが、「烈風」まで居ますぜ…」

 状況を確認した猿が呟く。

 一団はもう全員が双眼鏡を覗いて、かぶり付きで見世物に興じていた。

「頭数が減らんのは残念やな。ま、ええ見せもんやったで。何処からか大砲の援護射撃まで入っとる。人が増えて見とがめられ

でもしたら面倒や。そろそろ引き上げ時やな」

 眼光鋭い灰色狼の獣人が、配下にそう声をかけた時…。

「何処に行くんスか?せっかくだから最後まで居たらいいっスよ」

 聞き慣れない声の主に、その場の全員が素早く向き直って構える。

 廃墟となった中学校の屋上に、気配も感じさせず非常階段から侵入したのは、大柄なシロクマ少年。既に得物は抜き放ち、肩

に担いでポンポンと叩くように揺すっている。

「良い眺めっスね。ここからならよ~く見えたんじゃないっスか?色々聞かせて欲しいっスね」

 軽い口調で話す北極熊は、口元を軽く歪ませているが、しかし目が全然笑っていない。

「乱闘観戦の感想とか…、何であんなトラップ張ってたのか、とか」

 次の瞬間、白猫の獣人が走った。真っ直ぐにアルに向かい、跳躍し、そしてゴンッと鈍い音が響き渡る。

 大ぶりなダガーを二本抜き、飛びかかっていた白猫が落ちた。まるで、蠅叩きで潰される虫のように。

「三下に用はねぇんスよ。オレぁここ仕切ってる奴に話してんス」

 白猫の速度は、人間のそれとは比較にならない。瞬きしている間に首を落とされかねないスピードだったが、アルは担いだ大

太刀を横に寝せて、剣の腹で叩き落とす形で迎撃、床にめり込ませている。

「…何やお前…、五等潜霧士やないんか?」

 色めき立ち、武器を構える一団の中で、落ち着き払っている灰色狼が口を開く。

「五等っスよ。ただ、「潜霧士気取りの雑魚共」よりは多少腕は立つっスけど」

「何だと!?」

 猿の獣人が声を上げた途端、アルは軽く肩を竦めた。

「「誰が」とは言ってねぇんスけど、怒るって事ぁ自覚あるんスね?潜霧士気取りの雑魚センパイ」

 男達の間に怒気が満ちてゆく。

 基本的にアルは陽気でノリも軽い少年だが、養母の影響か、頭に血が昇って来ると途端に口調が荒くなり、毒舌になる。こう

なると挑発にも痛烈な皮肉が混じり、愛嬌など欠片も残らない。

「もう正当防衛成り立つんで、やる事は決まってんスけど、一応言っとくっス」

 シロクマは大太刀を担ぎ上げ、両腰から長ドスを抜いた狼を見据える。自分を包囲する他の面々には目を向けようともしない。

「違反行為を素直に認めて出頭するっスよ。まだ死人も出てないし、今なら免許の永久停止ぐらいで済むっス」

 その言葉が終わる前に、アルの右腕が真後ろに、振り向きながら振るわれた。大太刀の重量を無視するようにビタリと止まっ

た切っ先から3ミリの位置に、刀を振り上げて駆け込もうとした犬の喉仏がある。少し踏み込めば死ぬ状況に置かれた犬は、降

参するように手を上げながら後退った。

「…名前、聞かして貰おか」

 目を据わらせた灰色狼が問うと、

「ダイビングコード「3A」っス」

 アルは視線を前に戻しながら応じた。

「「3A」…?」

 男達がざわめく。

「アルビレオ・アド・アストラ…?」

「アストラ上院議員の息子!?」

「「ジオフロントから生還した子供」か!?」

 そんな周囲の声で、シロクマは不機嫌な顔になって口を尖らせた。

「上院議員サンは関係ねぇっス。オレは「ダリア・グラハルトの息子」っスから」

「そう…か…」

 灰色狼はニヤリと笑った。

「成長期前に獣化が完了したガキ…。確かに熊とは聞いとったわ。腕が立つのも納得やで。獣人になって何年かの潜霧士より、

獣化後の体に順応できとるはずや」

 狼が灰銀色の瞳を輝かせ、一歩踏み出したその時…。

「アル君!危ない真似はやめて!」

 屋上にもう一つ人影が増えた。

 黒狼型のヘルメットを被ったぽっちゃりした少年は、自分を置いて先に行ったアルにようやく追いつき、この状況を見るなり

「ひっ!」と声を漏らした。
殺意満々の獣人達がアルを取り囲んでいるという状況は、流石に予想していなかった。

 タケミの甘さがそこにある。悪事の現場を押さえれば大人しく出頭する…。そんな性善説に寄った甘さが。相手が口封じに動

く事を前提にして動けるアルとは、現場に到着した際の腹の決まり具合が違う。

「邪魔やな、ソレ」

 灰色狼が短く言い放った次の瞬間、男達が一斉に動いた。

 ハッと身構えたタケミの、軽く曲げた膝がガクンと折れる。

 体力と筋疲労はもう限界、新型スーツのサポートでここまで保ったものの、最終試験を走破した時点でスタミナも殆ど尽きて

いた。
おまけに男達は全員が獣人。ベテラン潜霧士でも多くない、完全獣化に至った者達。いかに腕が立つタケミでも、人間形

態のままでは基本性能で後れを取る。「人狼化」すれば話は別だが、おいそれと見せられる物ではない。

「タケミ!」

 アルが眼を剥く。あっという間に取り押さえられるタケミ。そして獣人達は…。

「疲れ切っとんのにフルフェイスなんて被っとったら息苦しいやろ。楽にさせたれ」

『へい!』

 灰色狼の指示に嬉々として従い、少年の頭からヘルメットを力任せにはぎ取った。

 ここは通信も通らない、広場から1キロ近く離れた位置。当然ダリアのメガブロワーも及ばない距離。濃霧の中で顔を露出さ

せられれば、人間であれば急性中毒による自壊死は免れない。

 即座に地面を蹴って、「ガァアアッ!」と獣の唸り声を発しながら飛び込んだアルが、タケミを取り押さえている男達を殴り、

蹴飛ばし、投げ飛ばす。一瞬で三名、手早く排除するその動きには、危険生物相手に取っ組み合いすらしてきた北極熊の本領が

発揮されていた。

 しかし、男の一人が、タケミからはがしたヘルメットを屋上から投げ捨ててしまっている。

 ゴホゴホと咳き込むタケミ。アルは大急ぎでベストを脱いで、少年の頭に被せてやる。

「………」

 ゆっくりと立ち上がり、振り向いた時には、アルの顔つきが変わっていた。

 焦りの顔ではない。怒りの貌でもない。哀しみの表情でもない。面白みも無い新聞記事を読んでいる者のような、どこか眠そ

うな、面倒くさそうな、下らない物を見るような半眼になっている。

 ただしそれは、見た事がある者なら思考の危険度が判る顔。

 凄むでも、脅すでも、威嚇するでもない時…、始末する事を決めた後の、やくざ者の顔である。

Break you down(ぶっ潰ス)」

 低く平坦にその言葉を囁かれ、ハッ、と灰色狼が笑った。

「おい、やっちまえ」

『へい!』

 男達は威勢のいい返事をする。が、誰か先に行かないかと、チラチラ互いを窺っていて、率先してアルに切りかかろうとする

者は居ない。

「チッ…。腰抜け共が」

 舌打ちした灰色狼が進み出る。両手にぶら下げた長ドスを、正面に持ってきてチンチンと軽く打ち合わせ、峰をベロリと舐め

上げた。

 腕には自信がある。シロクマは確かに腕が立ち、土蜘蛛を狩る闘いっぷりも見物だったが、それはあくまでも危険生物用。威

力がある武器は大振りで、それなりの速さで振るって見せたが、それでも自分の最大スピードからすれば問題ない。むしろ自分

の得物の長ドスは軽量で鋭く、掠っただけでも大怪我必至。元より知られた以上は生かして帰す訳には行かない。何より自分は

二等潜霧士。四等試験を受けている手合いとは格が違う。ここは違いを思い知らせながらいたぶり殺してやろう。

 …まで考えて、灰色狼は瞬きした。

 黒い大太刀の刀身が拡大する。駆け寄って斬り付けて来たのではない。シロクマは、担ぎ上げたそれを、体全部を使って思い

切り投げつけていた。

「な!?」

 高速で縦回転しながら迫る大太刀はまるで鉄の風車。慌てて横に跳び退いた灰色狼は、横を通り過ぎるソレを目で追った。

 それが、そもそもの間違い。

 灰色狼は、例えほんの一瞬でも、正面から視線を外すべきではなかった。

 目が前に向いた時には、もう遅かった。

 両腕を広げ、指を鉤型に曲げ、掴みかかったアルの手が、灰色狼の両手…長ドスを握ったままの手を鷲掴みにした。

「ガァアアアアアアアアアアッ!ルルルルルッ!」

 獣の唸りを発する北極熊。ゴキボキッと音が鳴り、トン単位の衝撃にも耐える獣人の骨が、簡単に握り潰され圧迫骨折。灰色

狼の手は、悲鳴を上げる暇もなく、一瞬で使い物にならない程破壊されていた。

 しかもそれで終わりではない。アルは灰色狼の手を握り潰して掴んだまま下側からねじり上げ、手首を捻り折りつつ、左右に

引っ張って腕を広げさせる。

「ぎゃあああああああああああああああああっ!?」

 灰色狼の口から悲鳴が上がったのは、やっと、ここまで来てからの事。しかしその悲鳴も長くは続かない。両手を掴まれて腕

を左右に広げられた灰色狼の顎を、跳ね上がった太い膝が蹴り上げる。

「~~~っ…!」

 強烈な跳び膝蹴り。舌を噛まされ、顎の骨が割れ、下顎が上顎に埋没する形で、灰色狼のマズルの厚みが三割減る。

 ようやく手を離され、首も背骨も伸び切った姿勢で背中側に倒れた灰色狼は、しかし、解放された訳ではない。

「っべ…、っぼ!?」

 ドズンと、仰向けになったその腹に、重く大きな尻が乗った。

 見下ろすのは、下らない物を見るような、単純作業に長時間打ち込んだ時以上に面倒くさそうな、スカイブルーの冷たい瞳。

 まず振り下ろされたのは右の拳。マズルの厚みが減った灰色狼の顔が横向きになるなり、振り下ろされるのは左の拳。そうし

て始まる、連続する左右の殴打。

 周りの男達は止められない。自分達の中で一番強い親分が秒殺される相手に、立ち向かおうなどという気概があるはずもない。

 力任せにマウントポジションから左右の拳骨を容赦なく打ち込むアルの、乱打が十発に及ぶと、ようやく音が止まった。灰色

狼は後頭部を屋上の床に半分埋め込み、眼を見開いてビクビク痙攣している。

 これがアルビレオ・アド・アストラ。五等ではあるが経歴はあてにならないし、等級で実力を測れないイレギュラー。対象を

狩猟、抹殺、破壊する事にかけてのプロフェッショナル。

 灰色狼を放置して立ち上がったアルが、その半眼を巡らせると、男達は悲鳴を上げて後退した。優先順位を決め、一番のろそ

うな者に視線を据え、次に潰す標的にしたアルは…。

「あ、アル君…!大丈夫だから、止めてあげて…!」

 即座にスカイブルーの目が屋上の片隅に向く。脱いだベストを被せてやったタケミが、顔を隠しながらこちらを見ている。霧

の中でも平気である事が露見しては大変なので、そうして隠しているのだが…。

『なン…で、あいヅ…?』

 意識が戻ったらしい灰色狼が首を起こす。

『自壊が…起きへン、のや…?』

「か、簡易マスクで!間一髪!あ、あ、危なかったなー!ほんとー!」

 嘘が下手糞なタケミの声は裏返って上ずっている。そもそもそれなら顔をベストで覆う必要も無いと、冷静な者なら突っ込ん

でいただろう。

「それは何よりでした。あなたに万が一の事があったなら、ここに居る全員の首を並べて差し出しても、熱海の大将に詫びきれ

なかった所です」

 え?と誰かが声を漏らした。その視線が向かったのはタケミの少し後ろ、非常階段の上。

 そこに、作務衣姿のキジトラ猫が立っていた。下で拾ってきた黒狼メットを、大事そうに胸に抱えて。

「と、虎丸(とらまる)!?」

 灰色狼がグシュグシュと血を垂らす口で叫ぶ。その腫れあがって原型も留めていない顔から、サーッと血の気が引いた。

「トラマル…?トラマル…。あ!鋼虎丸(はがねとらまる)さん!?」

 呟いたタケミが何かに気付き、次いで驚きの声を上げた。

「…誰っス?」

 少し頭も冷えてタケミの傍に移動したアルが小声で問うと、タケミは「土肥の二等潜霧士」と囁き声で伝えた。

「「土肥の大親分」の懐刀って言われてるひとが、確かそんな名前…」

 男達もザワついている。顔面蒼白の者まで居る。事、ここに及べばもう隠蔽は叶わない。

「な、なぁ、トラマル…。これは、その、やな…。じゃれあい言うか…」

 なおも灰色狼が弁明を試みたが、トラマルは「静粛に」と弁明を断ち切る。

「大親分がお見えです」

 シンと、場の空気が静まった。

「…ウソや…。大親分は…、まだジオフロント遠征中…」

 大親分が不在だからこそ、灰色狼は勝手を働いた。しかし…。

「それ故に、「ひとっ走りして」お呼びして参りました。お報せしたところ、大親分は即座に探索を中断なさり、もう表層に帰

還なさっておいでです」

 大親分の懐刀と言われるキジトラ猫は、長期潜霧作業に当たっている彼から、留守中の事を頼まれて居残っていた。

 そして灰色狼達の不穏な話を聞いたトラマルは、思案した結果、本当に被害が出ては大事になると判断。最悪を想定してジオ

フロントに単身で降下し、大親分に直接事の次第を伝え、呼び戻している。

 灰色狼が震え始めた。

 事が明るみに出たら東エリアとモメる案件、処分は免れない。しかも、費用も時間も命もかかるジオフロント進入を、予定半

ばで切り上げさせたとなれば、潜霧士として想定し得る最大の失態。事態の隠蔽はもう不可能で、逃げ場は無くて…。

「う、う、うあああああああああああっ!」

 叫び声を上げて灰色狼が走った。混乱の末に、トラマルさえ殺せば大親分の耳には入らないという思考になって。

 そもそも、自分では万全な状態ですらこのキジトラ猫に勝つ事などできないのに。

 トラマルは眉を軽く上げ、迎え撃つために抱えていたタケミのメットを下ろしかけ、しかし足元に置くのはちょっと非礼だな、

などと下を向いて思い直し…。

「あっ!あぶなーい!」

 あまりにも動きがのんびりしているトラマルに、タケミが悲鳴に近い警告の声を発したその時だった。ヌッと、キジトラ猫の

背後下方…非常階段下から腕が伸びたのは。

 パンッと鋭く音が鳴った。突っ込んでいった狼の顔面を、分厚く大きな手が平手打ちしている。

 が、ただのビンタであるはずのそれは、余りにも重過ぎた。横っ面を張られた灰色狼は、まるで風車のように回転しながら横

に吹っ飛び、屋上の床に打ち付けられて数回バウンド。そのまま端まで転がって柵に激突して止まる。

「済みません、大親分」

 トラマルが見上げる。自分の頭越しに腕を伸ばし、狼を張り飛ばした巨漢猪の顔を。

『お、大親分!』

 男達が一斉に跪き、平伏した。ポカンとしているアルは、「アメージング…!」と呟いている。

 朱色の装甲を縫い付けた黒作務衣を着込み、二つ折りにした巨大弓と矢筒を背負い、左腰に長ドスを差した、身の丈七尺の恰

幅が良い壮年猪は、「土肥の大親分」こと「俵早太(たわらのはやた)」。
五名しか居ない現役の一等潜霧士の一人であり、五

十六歳で現役という最年長の潜霧士でもある。

 猪は無言で視線を巡らせる。平伏している男達はガタガタと震えているが…。

「しょっ引げ」

 東北地方の訛りがある発音で猪が命じると、階段下から一斉に作務衣姿の男達が駆け上がって来た。

 猪の頭部を模したヘルメットを被った人間や、顔が部分的に獣化し耳が髪の中から生えている者、四肢の末端から肘や膝まで

獣化している者や、完全にシベリアンハスキーの獣人になっている者…。因子汚染率は様々だが、いずれもジオフロント帰りの

二十名は全員が二等潜霧士で、百戦錬磨の猛者揃い。土肥の大親分率いる「俵一家」の精鋭達である。

 アルがビックリするほど素早く、流れるような統制が取れた動きで屋上になだれ込んだ俵一家は、タケミとアルにそれぞれ会

釈しながら、平伏している男達と、のびている灰色狼を縛り上げ、素早く引っ立てて非常階段から降りてゆく。

 まるで、昔タケミとその祖父と一緒に観ては馬鹿笑いしていた、前世紀の人気コメディアングループの舞台装置がはけていく

時のような流れの良さだと、特徴的なBGMを思い出しながらアルは感心する。
色々な所で様々な部隊に身を置いてきたが、こ

こまで統制が取れている所を見た事は殆ど無かった。

「迷惑かげだな、東の。大事ねぇが?」

 のっそりと近付いた大猪は、座り込んでいる少年の前で膝をついた。

 顔面に目立つ向こう傷がある、ユージン並の強面な大男だが、漆黒の瞳も声音も穏やかで、タケミは怖がるどころか不思議と

リラックスする。

「オメさんが、三厳(みつよし)の孫っこだったな?」

「は、はい!…え?」

 タケミはベストで顔を隠したまま、大きく瞬きした。

 この人物の事は知っている。伊豆で暮らす者に知らない者は居ないほどの有名人なのだから、当たり前に写真や映像で見てき

た。熱海に来ていた時に遠くから姿を見かけた事もある。

 ユージンからも、大百足の頭を一矢で吹き飛ばしただの、牛鬼と相撲で取っ組み合って捻じ伏せただの、まるで御伽噺のよう

な様々な武勇伝を中心に話を聞いている。

 その人物が、自分の事を…そして祖父の名を知っているという事が、ピンと来なかった。

「まずはどうぞ、簡易マスクでは安心できないでしょう」

 猪の傍らに跪いたトラマルが黒狼ヘルメットを差し出し、タケミは礼を言って受け取り、逡巡した。

 何故被らないのかと、訝しむ猪とキジトラ猫。この時点でアルは滝のような汗を流している。

(マ、マママママッ、マイガッ!ど、どうしたら良いんスかコレ…!?)

 取り押さえられてヘルメットをはがれて霧に顔を晒されたタケミは、その襲撃行動その物に危機感を覚えた。獣人に飛びかか

られるのは下手な危険生物に襲われるよりも致命的、恐怖感は銃弾が頬を掠めるような物にも匹敵する。そのため、生存本能が

刺激されて体が反射的に人狼化を起こしてしまっていた。アルは機転を利かせてベストを被せ、人狼の物になった頭を丸ごと隠

す事で誤魔化していたのである。

 ビックリが続いて気が静まらなかったので、タケミは落ち着こうとしているのに人間の姿に戻れない。ヒッヒッフー…の出産

呼吸法でも落ち着かないし戻れない。

「あ、ありがとうございます…!アル君、ちょっと押さえててくれる?」

「うス?…うス!そうっスね!」

 タケミの意図に気付いたアルは、ベストを広げてカーテンにし、タケミはその向こうでヘルメットを被ろうとし…。

『あ!』

 ふたりの声が被った。

 運悪く、風が一陣屋上を駆け抜けた。それにベストがはためいて捲れ、大猪とキジトラ猫は…。

「………」

「!?!?!?」

 バッチリ見てしまった。黒狼の物になっているタケミの顔を。

「じゃ、ジャストアモーメンッ!こ、これは!こここれはっスね!」

 タケミを隠すように前に立ち、ワタワタと広げた手を振り回すアルは、弁解を試みる。が…、

「ニキビっス!」

 無理があるにも程がある、全然ダメな弁解であった。

「………これは…」

 トライチは目を大きく見開いて、アルに隠れているタケミを窺う。

 人間だった。救助活動前提で集めた資料でも、実際に確認した姿も、人間だった。なのにこれは…。

「大親分…」

 トライチは大猪に視線を向ける。ハヤタは向こう傷が走った眉間を太い指で軽く揉みながら天を仰ぎ…。

「ん~、今日は疲れ眼でな」

 大猪はあっけらかんと言い放った。

「老眼なのが、最近めっきり目が弱ぐなった」

 バカみたいな目をしていてよくおっしゃるものだ…、と思ったキジトラ猫だったが、それを微苦笑一つに変えて、「御意」と

会釈した。

 大親分が問わぬと言った。ならば自分がタケミに訊くべき事はない。

「では、一足先に下へ参りましょう」

「んだな。広場さ向がう。各々、あどでまだ改めで」

 トライチとハヤタが屋上を去り、アルとタケミはホッと胸を撫で下ろした。

「見逃されたっスね…」

「うん。後でお礼を言いに行かなきゃ…」

 

 

 

 土蜘蛛の襲撃が退けられ、安全が確保された後で、試験官と受験生達は、俵一家の護衛付きで土肥ゲートへ向かった。

 試験に加えて、土蜘蛛の大群との戦闘。受験者のみならず試験官も余力がなく、負傷者まで居る。俵一家の名でトラマルが行

なった手配により、西エリアの潜霧士達が協力し、土肥ゲートまでの離脱ルートの安全が確保されたため、東エリアの潜霧士達

もこれを有り難く利用する格好になった。もっとも、トラマル達からすれば「傘下」の非礼が原因、埋め合わせにはとてもなら

ないとの事だが…。

 西エリアは東エリアでやって行けなかった者が流れてゆく事も多く、事務所も構えず、気が合う者同士で組んだフリーランス

集団として活動する者も多い。その集団の頭を「親分」と呼ぶのが西エリアの習慣である。

 潜霧の歴史が始まった頃からある俵一家は、そういった者達に仕事を下ろしてやったり、住む所をあてがってやったり、衝突

を仲裁してやったりもする調停役であり顔役。よって、ここの頭領であるハヤタは、親分達の親分という事で「土肥の大親分」

と呼ばれている。

 今回、その傘下であり恩恵にあずかっている灰色狼が起こした事件は、この大親分の顔に泥を塗る行為だった。本人は証拠も

残さず上手く行き、商売敵を減らせると目論んでいたが…。

 灰色狼は危険なジオフロントに降りる事を避け、取り巻きと共に表層に留まって、安全なシノギをする事しか考えなかった。

よって他の二級より経験は乏しく、腕は錆び付き、等級に相応しい実力や実績も無かった。アルに太刀打ちできなかったのも当

然である。

 四等の潜霧士が増えると面白くないという事情には、表層全域を歩ける上にジフロントには降りられないというこの等級の潜

霧士が増えると、自分の稼ぎが減るという即物的な勘定も入っていた。

 まだ調べも途中だが、今回行なった事の大きさや深刻さを考えると、これまでの悪行も可愛い物ではないだろう。

 灰色狼の異能は「活〆(いけじめ)」と言い、一部の危険生物を殺さずに、仮死状態のまま数日動けなくしておける。これを

悪用し、土蜘蛛を集めて埋めておいた。活〆は電気ショックなどで解除される性質があり、有線操作で電流を流し、一気に目覚

めさせる事で、あの集団襲撃を起こさせた訳だが…。

「あんだけ集めて、やった事は命に関わるような嫌がらせとかさぁ…。あのまま土蜘蛛売りゃあ良いじゃないか?バカじゃない

のかいあの連中?」

「ごもっともっスねぇ~。活〆ってメチャレアな異能っスよね?」

「そうだねぇ。かなりレアな上に有用だ。上手く使えば無傷で危険生物を捕獲、傷をつけずに素材も総取りだ。それに、政府機

関なんかが求める生きたままのサンプル確保、あのやたら礼金が高い依頼も、活〆が使えるなら比較的簡単にやれる」

 土肥ゲートを抜けた先、湯煙漂う温泉街の情緒あふれる夕暮れの中を、雌虎とシロクマが闊歩する。

 俵一家のはからいで、東から来た一行は土肥の温泉宿に部屋を用意された。俵一家に所属していた元潜霧士などが共同経営す

る宿なので、安全も保障されている。負傷者も手当てを受け、栄養の付く豪勢な食事まで振る舞われ、体を休める事が出来てい

た。帰り道も抜かりなく、明日は沿岸を北上して熱海へ向かうバスで送って貰える事になっている。

 食べるものを食べたら疲れも短時間で抜けたアルは、養母と共に散策中。お揃いの花火柄浴衣でご機嫌である。

 赤提灯が等間隔で並ぶ土肥ゲート前は、温泉施設が並び、出店が曜日ごとに顔ぶれを変えて現れる、毎日が縁日のような街並

み。観光誘致を狙ってハヤタが投資したおかげで、かつて寂れていた界隈はここ20年の間に観光名所となり、西岸にはいくつ

もこんなスポットができた。

 中でも俵一家が本拠地とするこの土肥は最大級の温泉歓楽街となっており、湯治客に観光客、潜霧に関する事に興味を持って

訪れる者、そして夜の刺激や行きずりの一日伴侶を求めて来る者など、客足は途絶えない。夜中も通りやその手の店の灯りが消

えず、熱海とはまた違った栄え方をしている。特に、ここの湯屋や一部の宿では、元潜霧士の獣人…あるいは現役が臨時収入を

求めて、子供には言えない夜の遊び相手になったりもする。好きな者には堪らない、ここでしか味わえない遊楽がここにはある。

当然、ダリアはそこまでアルに説明はしない。「成人するまで知るこたぁないさ」との事である。

「やっぱそうっスよね~。異能の無駄遣いっス。…母ちゃん、日本語の「タカラノモチグサレ」ってこういう事すスか?」

 ブルーハワイのフラッペを買って貰ったアルは、着色料で舌を青くしながら尋ねる。

「ああ、そうそう。まさにそれだよ。それと、活〆の有用性はそこだけじゃない」

 ダリアは語る。活〆は対象に接触して神経に働きかける異能。仮死状態にする前段階では、相手の動きを少ずつ鈍らせ、徐々

に掛かりを強くして行く。本格的に使用して完全な仮死状態にするには長時間接触が必要だが、それ以前の段階では僅かな接触

で効果が表れる。これが危険生物との戦闘でも、牽制、足止め、撃退にと幅広く活用できる。特に相手の最も危険な武器が判っ

ていれば、まずそこを上手く使えないようにする事で大きなアドバンテージを得られ、共に挑む者も安全になる、と。

「ま、効きにくい手合いも居るには居るけどね。便利である事に違いはないよ」

「オレも早く獲得できないっスかね?どんな異能っスかね~」

「…どんな異能が良いんだい?」

 少し期待する雌虎。気象操作するような…などと言わないかなぁとか考えている。

「おっちゃんみたいな!ビーム撃てるヤツとか良いっスね!」

「…そうかい」

「あれ?母ちゃんなんかガッカリしてるっス?」

「別にそんな事ぁないよ」

 応じながら、しかし可能性はゼロではないなとダリアは考える。スカイブルーの瞳をチラリと見やって、アルの瞳の色からす

ると、ユージンと同じ「法則型異能」になる可能性が高い、と。

 覚醒する異能の傾向は、獣化の進行に伴って多くの者が変色する部位…「瞳」である程度予測できる。もっともこれは100

パーセントではなく、異能と瞳の色が無関係な者も少数ながら存在するのだが。

 黄色や金の眼など、ダリアのような瞳の者は「現象型」。自然現象の増幅や操作を行なえる、規模によっては環境すら一変さ

せる異能で、応用力や汎用性の高さから、コンスタントに強力と評価される。

 あの灰色狼のように白や銀が入った瞳の者は「干渉型」。活〆など相手の神経系などに干渉する異能や、もっと狭い範囲…自

分の体の不随意部位に干渉し、身体性能を底上げして瞬間的な自己強化を行なう者もある。

 そして、青が入った瞳は「法則型」。ユージンなどのように、既存の法則に当てはまらない未知の現象を、己の肉体をエンジ

ンにして発生させる異能。字面からすると凄そうなのだが、これがもっとも当たり外れが大きい異能である。

 発生させられる現象はユージンのような物ばかりではない。中には、手の平を向けている間、風船が謎の推力を得てゆっくり

前進する…という、明らかに手で押した方が早いし役立てるのが難しい上に原理が不明な物まである。

 そして、紫紺…。タケミの瞳は「判らない」。

 青系とも取れるし、赤寄りとも取れる。さらにあの少年は生まれつきあの瞳の色なので、獣化に伴って変色した瞳と同じよう

に考えて良いのか判らない。

「あの灰色狼達、どうなるんスかね?資格剥奪は当たり前として…」

 アルは話題を戻した。騒ぎを主導した灰色狼達は、少なくとも潜霧士の資格を剥奪された上で、殺害未遂など様々な罪状で法

の裁きを受ける事になるが…。

「それだけじゃ済まないねぇ。俵の親父殿は面倒見も良くて慈悲深く、決まり事よりも人の心を汲んでくれる懐も深いお人だけ

ど、仁義に関しちゃこの上なく厳格なお人さ。特に同胞…潜霧士相手に違法行為を働く輩には容赦しない。連中、法の裁きだけ

じゃ済まされないよ」

「何て言うんスかね~…。ドッシリ貫禄もあって…。ナイスミドルの先は何て言うんスかね?ゴッドファーザー?威厳とか迫力

とかあって厳しそうな感じっス…」

(この子、時々自分でも意味わかってない言葉で核心を掠るよね…)

 少し感心するダリア。ゴッドファーザーという表現は言い得て妙。

 実際の所、俵一家は西エリア最大の潜霧集団であるだけでなく、潜霧組合も顔色を窺う「元締め」である。率いているのがハ

ヤタなので非道な仕事(シノギ)をしないだけで、その気になればあらゆる流通と人事を牛耳って君臨できる。

 そんな男を裏切ったのだから、灰色狼達の末路は想像に難くない。例えハヤタが許しても、界隈の秩序を乱した事を快く思わ

ない他の親分も居るし、慕うハヤタの面子を潰したと息巻く連中も居る。少なくとも、西エリアどころか伊豆の何処にも、もう

彼らの居場所はない。

(まぁ、茶目っ気もあるし天然でもある、大概の連中にとってはおっかないひとじゃあないんだけどねぇ…。この子の事だから、

下手に説明したら無礼なレベルのフランクさでグイグイ行きそうだし、黙っとこう)

 とりあえずダリアは、端的に「滅茶滅茶エラい人なので失礼をしたら周りから凄く怒られる」と、小学生に説明するように息

子に告げておいた。そして…。

「親父殿はそれだけじゃないよ。あの歳でユージンや字伏兄レベルの肉弾戦ができる化け物だ」

「へ~。母ちゃんぐらいっスか…」

「おや、随分評価するねぇ。でもアタシはあの三人に比べりゃ少し劣るよ。…おっと、焼きそば売ってるね。食うかい?」

「食うっス!」

 本当の母子ではないとはいえ、二人の仲の良さは本物である。久方ぶりに仲睦まじく過ごしているこの時間を、ダリアも、ア

ルも、大袈裟に喜びを表現しないながらも噛み締めている。

「あ、ほら。ちょっとこっち向きな。また帯が緩んでるじゃないか…」

 アルを向き直らせ、屈んだダリアは緩んできた帯を直し、広がりかけていた襟を直してやる。浴衣に不慣れなアルは、動き方

にそういった気配りができていないので、歩いている内にすぐ着崩れてしまう。

「えへへへへ…!サンクス母ちゃん!」

 嬉しそうに耳を倒して笑うアル。腰回りや出っ張った腹の脇などをポンポン叩いて、各所の遊びを確かめたダリアは、同じ高

さの目線になりつつある息子の瞳を、目を細めて見つめた。まだまだ育ち盛り、背丈はすぐに自分を越すのだろうな、と感慨深

くなりながら。

「温泉はどうだった?」

「ヌルっとしてるのとかサワ~ッとしてるのとかピリピリ来るのとか、色々あったっス。面白いっスね~!白神山地の温泉と全

然違うのも多いっス!」

「大隆起以降、温泉は色んなとこで新しく沸いたらしいけど、伊豆は元々温泉地だからねぇ。アンタ、こっちに腰据えたら一回

温泉巡りでもしてみたら良いんじゃないのかい?」

 そんなダリアの言葉には、ほんの少しだけ、こっちで暮らせばいいのにという思いが宿っていた。潜霧士の免許を取って以降、

アルは海の外を飛び回ってばかりで殆ど帰って来なかった。成長した息子とゆっくり話す機会も、じっくり顔を見る機会も、あ

まり無かったのである。しかし…。

「こっちにはもう少し居るつもりかい?それとも、資格も取れたしすぐ行くのかい?ユージンが四等になった節目ってんで、タ

ケミを崩落点まで連れて行ってやるそうだ。せめてそいつには付き合ったら良いんじゃないかい?物見遊山にさ」

 ダリアは、アルが海外へ出てゆくのを止めない。

 六等の資格を取り、正式な潜霧士になった後、海外へ行くと言い出した時も止めなかった。アルが何故そうしたがっているの

か、察する事ができたから…。

 アルの経歴は、普通の潜霧士達とは違う。メインとする活動内容も含めて大きく異なる。その仕事内容は、海外に流出した危

険生物を狩る、専門の「猟師(ハンター)」。危険生物の駆除が必要になる事件が発生する度に、国家や軍に傭兵のように雇わ

れる職種である。

 倫理的…つまり表向きには、いたわられるべき罹患者や犠牲者とされる因子汚染被害者だが、蔑視の風潮は世界中どこでも同

じ。そんな中で、獣化が進行した者が唯一ヒーローになれるのが、その人間離れした戦闘能力を発揮して危険生物を仕留める猟

師である。

 アルがヒーローに…「広告塔」になりたい理由は、実の両親を意識しての事。ダリアにはそれが判っている。

「あの…、母ちゃん」

「うん?何だい?」

 今度は何処へ向かうと言い出すのだろう?何と言われても快く送り出すつもりで、ダリアは先を促し…。

「………アンタ…!良いのかい…!?」

 意外な言葉を聞き、金眼を見開いた。

 

 一方その頃、湯屋の一室…蒸気漂う蒸し風呂で…。

「顔上げてくれ親父殿。詫びはもう充分に聞いたぜ」

 正座し、床に顔を伏せている猪の頭を、赤金色の熊は困った顔で鼻の上の傷を掻きながら見つめていた。

 男二匹で裸一貫、こうまでしなければ好きに頭を下げられない自分の立場が、ハヤタは時々恨めしくなる。

 多くの者の上に立つ、そんな自分が頭を下げて詫びたとなれば、これを良く思わない者が「親父に頭を下げさせた」と、相手

側に突っかかる事もある。不要な面倒を避けるために、詫びを入れるにも場所を選ばなければならない我が身が、今は恨めしい。

「親父殿にそこまで頭を下げさせちゃあ、今夜あたり爺さんがワシの枕元に立って怒りそうだ。どうか、頼む」

 ようやく顔を上げたハヤタに、ユージンはしらふであるにも関わらず、珍しく歯を剥いて苦笑いを見せた。若い頃そうだった

ように、開けっ広げな笑顔である。

「それに、やっこさん達は俵一家じゃねぇし、独立したかつての身内って訳でもねぇ。仕事のおこぼれに預かってる傘下って話

じゃねぇか?親父殿の責任じゃねぇぜ。お堅いな、相変わらずよぉ」

 ましてや灰色狼達は、ハヤタ不在中に事を起こした。監督責任がどうのという話でもない。そう言って笑うユージンは、所長

でもベテラン潜霧士でもない、若い時分の貌に戻っている。

 ふたりが向き合うスチームサウナは密室で、前室、脱衣所も人払いしてあり、廊下には見張りを立てている。水入らずでくつ

ろぐので立ち合い不要とハヤタが申し渡したので、誰かに会話を聞かれる恐れもない。

 部屋が狭く見えるほどの二つの巨躯。向き合う双方とも、無数の古傷を身に刻んだ古強者。

 中年太りを自称しているものの、まだまだ張りがあるユージンと向き合っても、六十代が近付いているハヤタの体躯は見劣り

しない。双方とも腹が出た肥満体型だが、どっしり重々しく力強い、戦士の体である。

 蒸気が漂う中に、用意されているのは氷を盛った盥に埋めてある茶の水筒。水分を補給しつつ汗を流し、ふたりは邪魔の入ら

ない歓談を続ける。

「タケミから聞いた。…見逃してくれたってな…」

「………」

 ハヤタは無言。はて何の話だったかな、とでも言いたげな少しおどけた表情で、目線を明後日の方に向けている。

 ユージンは「訊かねぇでくれるんだな…」と呟く。有り難いと、その細めた目が語っていた。

「理由あってのごったべ。ミツヨシが言わねがったんなら、オラが知る必要はねぇ話ってごった」

 旧友があえて言わなかったのは、おそらくは知る事で面倒に巻き込まれるから。そんなタケミの祖父の配慮を汲めたからこそ、

ハヤタはタケミの秘密について追及しようとは思わない。ただ…。

「ただ、なんぞ困りごどんなったら、遠慮しねぇで言ってよごさい。ひとっこ一人、消すも隠すもどっかさ遣るも、オラんどご

でなら何とでもなる」

 タケミの異常さが、そして貴重さが、どれほどの物かハヤタは把握している。その上でこう言っている。

 万が一の時は自分を頼れ。タケミを誰にも知られずに逃がしてやれるから、と…。

「恩に着るぜ、親父殿…」

 今度はユージンが、深々と頭を下げてハヤタを慌てさせた。

 

(温泉アイスだって…。所長、喜ぶはず…)

 広い宿をフラフラと見学し、貸切風呂なども覗いてみて、宿の一階で提供されている甘味に気付いたタケミは、そろそろ大事

な話が終わってユージンが帰って来た頃かもしれないと、用意された客室に戻った。

 アルはダリアと同じ部屋で、タケミとユージンが同じ部屋。白神山地で暮らしていた時は、ユージンが訪れるとアルと三人で

畳に布団を並べて、川の字になって面白い話を聞きながら寝たなぁと、懐かしく思い出す。

「あ…」

 鍵を開けてドアを潜ったタケミは、見慣れたブーツを認める。

 畳敷きの客間には、窓際に立って温泉街の夜景と、その向こうの宵の海を眺める巨漢の姿があった。

「おう、戻ったかタケミ」

 振り向いたユージンの手には御猪口。テーブルには温泉街のラベルが貼られた冷酒の瓶。

「は、はい…!」

 タケミの声が上ずった。というのも…。

(所長も…浴衣…)

 大柄な獣人が着用できる浴衣も用意されているが、流石に度を越した巨体のユージンに合うサイズは無く、胸元が大きく開い

て鳩尾辺りまで露わ…。要するにつんつるてんである。

 その大きく開いた襟から右腕を入れ、腹の所に落ちつけている巨漢の姿は、サイズが合わない服を着たちぐはぐな格好のはず

なのに、タケミの目には、何処か艶めかしく、不思議な色香すら漂って見えた。

「所長、その…ゆ、浴衣…」

「おう。借りてみたが…合うサイズがねぇってよ。こいつで我慢だぜ」

 微苦笑するユージン。「変か?」と。

「い、いえ!とても良くお似合い…で…!その、す、す…、ステキ…です………!」

 ドキドキしながら、何とか感想を伝えようと頑張ったタケミに、

「そうか?ちぃと小させぇ気もするが…、ヌシがそう言うなら、まぁ悪い気はしねぇな。ええ?」

 巨漢はそう言ってタケミを手招きした。

「お?よく見るとヌシも浴衣が似合ってるぜ」

「え?そ、そうですか…!?」

 ドキドキしてしまうタケミ。いつもと違う服装から漂う、いつもと違う布の匂いが混じると、嗅ぎなれたユージンの体臭も酒

の匂いも、普段とは違うように感じられる。

 傍に呼んだタケミに窓の外を見せ、ユージンは一緒に夜景を眺めながら話し始めた。

「一人前に…、つまり、四等潜霧士になったら、大穴横断で土肥ゲートまで抜けた話を手土産に、ヌシを土肥の大親分に紹介し

ようと考えていた。それが、予定が早まってこんな形で来ちまったぜ…。ゆっくり話をする時間も取れやしねぇ」

「あの…。大親分さんは、お爺さんと知り合いだったんですか?」

「「知り合い」って言っちゃあ随分他人行儀になっちまうな。ま、そこらも含めてどんな人だか、直接会わせながら話したかっ

たが…。ワシもダリアも随分世話になったぜ。ヌシの親父とお袋もな」

「そう…なんですか…」

 教えられなかったので仕方がない所なのだが、タケミの性格では、そういう繋がりを全然知らなかった事が申し訳なくて恥ず

かしくなる。

「ヌシとも縁があるお人なんだぜ?」

「え?」

 きょとんとしたタケミに、ユージンは部屋の隅に顎をしゃくって見せた。

 そこには、鞘に納めて壁に立てかけられている少年の愛刀…。

「ヌシの「黒夜叉(くろやしゃ)」な…。元はと言えば、あの人がジオフロントで見つけたレリックを、特注の太刀拵えに直さ

せて、ヌシの親父の一等昇級祝いに贈った品だ」

「…!」

「ワシらは大穴を中心に生きとる。大穴に挑む者は、どっかで大なり小なり繋がっとる。自分達が知り合いじゃなくてもだぜ。

判るか?」

「はい…。判る気がします。今は…」

 タケミの頭を、大きな手がワシャッと撫でた。

「忘れんじゃねぇぜ?ここ…」

 ユージンは太い指で、タケミの柔らかい胸の中心を押さえる。

「あったけぇだろう?「そう考えると」、よ」

「はい…!」

 じんわりと、胸の奥が温かい。

 今は知らない、まだ会ってもいない、そんな誰かとも繋がっているという事は、何故だかとても、心強かった。

 

 

 

「…おふ…?」

 翌日の夕刻。神代潜霧捜索所のリビングで、ユージンは目を大きくしていた。珍しい事だが変な声が出ている。

 テーブルを挟んでソファーに座り、深々と頭を下げているのは、シロクマの少年である。

「オレを雇って欲しいんス!」

 改まってお願いというから何だろうと思っていたタケミも、運んできたアイスコーヒーをトレイから下ろすのも忘れて立ち尽

くしている。

 土肥から熱海に戻り、やっと一息ついたという夕刻。突然訪れたアルは、この事務所で雇ってくれと頭を下げた。

「…ダリアは何て言ってんだ?黙って来たわけじゃねぇよな?」

「オレから頼んで、ダメって言われたら諦めろって言われたっス!」

 頭を下げたままアルが言うと、ユージンは目だけ天井に向けて古なじみの顔を思い浮かべた。

 誰かを挟む者の話より、自分で直接物事を言う者の話を、ユージンは聞く。性格を把握しまくっているダリアならではのアド

バイスであった。

「…で、ヌシは何ができる?」

 一応型通りに、面接の決まり文句を発したユージンに…。

「ゴハンたくさん食いまス!」

 ガバっと顔を上げたアルは、大真面目な顔で言った。

「おし、採用」

「採用!?」

 素っ頓狂な声はタケミの口から上がっていた。

「そもそもこの件、断る選択肢がワシにはねぇ。不採用を言い渡した時点でラウドネスガーデンから出禁くらっちまうぜ」

 勿論冗談で、アルがそう望むなら断る理由がないというのがユージンの本音。潜霧経験こそ少なく、大穴内の常識にやや疎い

所に不安は残るが、腕は立つし危険生物についての知識と対応力、そして体力に物を言わせた踏破力は一級品である。
前方で戦

闘が起きても、後方で事故が起きても、急行して加勢できる良い「チェイサー」になれる素養がこのシロクマにはある。

「ただしウチは厳しいぞ?」

「覚悟の上っス、おっちゃん!」

「まずソレだ。ウチで働くならワシはおっちゃんじゃねぇ。所長って呼べ」

「うっス所長!あ、ならオレも…」

「ん?」

 疑問の声を発したユージンに、「アル坊卒業で!」とシロクマが訴える。

「タケミだけ呼び捨て!何か羨ましかったんスよ~…」

「お、おう…?そうか…」

 あまり気にしていなかったが、確かに従業員を「アル坊」呼びでは格好がつかない。

「おし、今から「アル」だ。ビシバシ行くから覚悟しとけ」

「うっス!」

 ビシッと敬礼したアルは、「って訳で!」とタケミに視線を向けて笑いかけた。

「これから同僚っス!よろしくセンパイ!」

 嬉しいのにビックリが先に立って、喜びを表現できないまま曖昧に頷くタケミがまず思ったのは…。

(呼び方が増えた…!?)

 これからはタケミで時々兄ちゃんで所によりセンパイである。

「ああ、それとなアル」

「うス!」

「履歴書は書いて来いよ?ワシは自己紹介欄をしっかり読む所長だから、そのつもりでな」

「え?それ、今更必要っス…?」

 

 

 

 その夜。アルを一度帰し、タケミも自室に入った夜遅く。赤金色の巨熊はバルコニーで煙管を弄りながら電話していた。

 電話の相手は相楽製作所、工房長のゲンジである。

「…タケミのスーツ用に追加で卸した大百足の素材、いくらか余ってたよな?」

『多少は…。ただ、当たり前だが、スーツをもう一着組み上げられるほどは、残っていない…』

「ああ、丸々一着分までは必要ねぇ。今日思いついたんだが…」

 ユージンは、タケミのスーツを作った際に余った大百足の素材を、破損修繕用の予備としてゲンジに預かって貰っていた。こ

のままストックしておいても良いが、有意義な使い道が思い浮かんだのである。

 ダリアと酒場のスタッフも誘って、プライベートビーチ貸し切りで海水浴バーベキューという、タケミの分と合同の四等昇級

祝いはするが、アルの場合はそれに加えて、「就職祝い」もしたい。

『そういう用途になら…、使える程度に残っている…』

 ゲンジはユージンの提案を承諾した。

 潜霧時に全身を覆う密閉型スーツを必要としない獣人達は、活動し易い軽装を基本装備にする。アルもユージンやダリアと同

じく、大仰なプロテクターなどを装着せず、柔軟な衣類を好む。大半は特殊繊維で構築するので、危険生物由来の特殊素材はあ

まり多くは使わない。

 だが、要所に大百足の甲殻で造ったプロテクターを配置するのは有効である。特にタケミと違い、蹴りや拳での殴打など、己

の五体も武器にするあのシロクマには…。

「おし。じゃあ明日にでもアル坊…いや、アルに話して採寸に連れて行く。アイツの好みのデザインでオーダーしよう」

『判った…。仕事は、あけておく…』

「悪いな、続けて立て込ませて」

『問題ない。貴重な素材を、久々に弄れたからな…』

 通話を終えて、ユージンは煙管を見つめた。

 それはタケミの祖父の遺品。形見分けに貰った品。

(あいつらの息子に、ダリアの息子…。へっ…!昔を思い出しちまうメンツになってきたな、爺さん…)

 見上げた空で星が瞬く。

 今も昔も、伊豆の夜空は変わらない。