第十話 「月輪の訪問者」

カルマトライブ調停事務所の滑り出しは、決して順調とは言えなかった。

メンバーたった二人の新造チームには一般の顧客がなかなか付かず、主な仕事は今までどおり、官公庁からの依頼や緊急呼

び出しへの対応である。

それでも、十月初日の営業開始直後から、タケシの馴染みである相楽堂の若旦那が依頼を持って来るなどして、収入源その

ものは確保できた。

ビジネスホテルを事務所へ改築する業務を請け負った、ユウトの親戚筋が経営する阿武隈工務店は、運営が順調になるまで

と、一回当たりの分割払いを低く抑えた金額にし、便宜を図ってくれた。

決して順風満帆とはいえないスタートだったが、二人は周囲の人々の好意によって、とにもかくにも事務所を運営する事が

できていた。

少ない人手での慣れない事務に追われ、苦労しながらもアリスの面倒を見続け、そして、あっという間に事務所開設から一

ヶ月近くが過ぎた。



深夜の事務所の事務室兼応接室で、来客用ソファーに腰を降ろしていたユウトは、帳簿に収支を書き込みながら、ほっと息

を漏らした。

「今月もなんとか黒字だね。仕事回してくれる皆に感謝だ」

解決済の事件資料を纏めていたタケシは、所長席でもある自分の机にあてがわれていたコーヒーに、ごばごばとプロテイン

の粉を投入しながら口を開く。

「出費を削減してみるか。例えばそうだな、拘束テープなど…」

「捕縛用具の削減は認めないからね?」

「…解った…」

皆まで言わせず、即座にジト目で睨んだユウトに、タケシは小さく頷く。

(相手は犯罪者だ。別に腕の一本や二本、斬り落としても構わないだろうに)

と、物騒な事を考えたりもしたものの、ユウトを怒らせてしまいそうなので、口にするのは止めておく。

共に過ごす時間が長くなり、青年はユウトの性格をおおまかに把握しつつあった。

他者の感情の動きに、多少なりとも気を配る事ができるようになったのは、ユウトとアリスと共に過ごす、今の生活によっ

て得られた大きな進歩である。

もっとも、タケシ本人はそれを進歩と自覚してはいないのだが。

「今年はやませが長く吹いたからねぇ…。野菜の値段とかが結構深刻なのも影響してるかも…」

「やませ、とは何だ?」

首を傾げた青年に、ユウトは帳簿に書き込む手を休めないまま説明する。

「北東風の事。ほら、今年は梅雨明けにずいぶん冷え込んだでしょ?海に霧がかかったりしてさ、それも結構長く。あれのせ

いで冷害になっちゃって、野菜の収穫が悪かったんだ。で、例年に比べて結構値上がりしちゃってるの」

事務所の台所と帳簿を預かるユウトは、この手の話にいやに詳しい。

「さぁてと!纏め方終わり!」

ユウトは帳簿を閉じて背伸びすると、タケシに微笑みかけた。

「何はともあれ、今月も無事終わり!お疲れ様」

「ああ」

タケシが頷き返すと、ユウトは立ち上がり、机の上を覗き込む。

「大丈夫だ。もうじき終わる。先に休んでいろ」

「ん。じゃあ悪いけどそうさせて貰おうかな。疲れない程度にね?」

「解った」

頷いた青年に、笑みを浮かべて軽く手を上げると、

「じゃ、おやすみタケシ」

「ああ。お休み、ユウト」

ユウトはタケシと就寝の挨拶をかわし、部屋を出て行った。

「…お休み…か…」

資料をクリアファイルに挟み込みながら、青年は一人きりになった部屋で呟く。

それまで習慣になっていなかった、日常的な挨拶をする事に馴染んでいる事が、なんとなく不思議に思えた。

「…ふむ…。悪くは無い…な…」

ぼそりと呟いたタケシは、自分でもそんな言葉を発した事を、意外に思っていた。



「今日から十一月だねぇ」

「じゅーいちがつ!」

ユウトに抱きかかえられ、リビングのカレンダーを楽しげにビリビリと剥がしながら、アリスが元気に声を上げる。

ユウトの熱心な教育の成果が現れ、アリスはやっと、簡単な会話が可能になっていた。

人間の男性を恐れるのは相変わらずだが、例外的にタケシにだけは懐いている。

女性や獣人にはすぐに懐くので、近所の主婦達にも抵抗無く挨拶できるようになっていた。

「そうだ!そろそろ鍋とか良いかもしれないね」

「なべ?」

大熊の言葉の中に混じった耳慣れない単語に、アリスは小首を傾げる。

「うん。鍋。アリスはまだやったこと無いもんね?」

「ない〜!」

「タケシはたぶん鍋とか嫌いじゃないよね。何でも食べるし…」

「たべるし!」

ユウトはアリスを抱っこしたまま、目を細めつつ「う〜ん…」と唸って考え込む。

その腕の中で、アリスもまたユウトの真似をして「う〜ん…」と唸る。

が、こちらは真似ているだけであって、特に何も考えてはいない。

「よしっ!思い立ったら吉日!さっそく今日は鍋にしてみようか!」

「なべ〜!」

大熊はアリスを抱いたまま、タケシの居る応接室へと向かった。



「タケシ。ちょっと出てくるから、アリスを見ててくれる?」

ユウトが応接室で降ろすと、アリスはトテトテと所長席まで走り、新聞を読んでいるタケシの膝によじ登った。

「分かった。何処へ?」

「夕飯の材料を買ってくる。キミ、鍋は嫌いじゃないよね?」

「お前が作るもので嫌いなものは、甘いものだけだ」

遠慮も躊躇も無くさらりと答えた青年に、ユウトは微妙な表情で頬を掻き、

「…喜ぶべきか…、怒るべきか…」

と、口の中で呟く。

そして、タケシの読んでいる新聞を、首を捻りながら覗き込んでいるアリスに声をかけた。

「アリス、すぐに戻るから、良い子にしてるんだよ?」

「うん!いーこにしてる!」

「よしよし!じゃ、行ってきま〜す!」

笑みを浮かべて軽く手を上げ、ユウトは事務所の玄関から出て行った。

「連れて行ってくれれば良かったのにな?アリス」

「うん。くれればよかったのになー」

残された二人は新聞記事を眺めながら、そんな言葉を交わした。



「鶏の水炊きなんかがいいかな?それとも石狩鍋にしとこうか?」

どんな鍋にするか考えながら商店街に向かって歩き始めたユウトは、道の向こうから歩いてくる大柄な獣人に気付いて足を

止めた。

左手に重そうな包みを下げ、のしのしと歩いてくるその若い獣人を、ユウトは大きな声で呼んだ。

「お〜い!沙月く〜ん!」

大声に驚いて周囲の人々が一斉に視線を向ける中、ユウトは自分に気付いた相手に、笑みを浮かべて手を振った。

「ユウト姉ちゃん?…丁度良いとこで会ったぜ」

濃い茶色い被毛の大柄な熊獣人は、ユウトの顔を見て太い笑みを浮かべた。



「ただいま〜」

「おかえり〜!」

「随分早かったな?」

新聞から顔を上げたタケシとアリスは、ユウトの後ろから入ってきた客に気付き、視線を向けた。

「出たとこでバッタリお客さんと会ってね」

ユウトはそう言うと、招き入れた茶色い熊に向き直り、口を開いた。

「紹介するね?彼は不破武士。ウチの所長。それと、ウチで預かってるアリス」

ユウトは次いでタケシとアリスに向き直ると、茶色い熊を紹介する。

「彼は阿武隈沙月(あぶくまさつき)君。ほら、前に話した棟梁の息子さん。中学三年生」

「どうも。サツキって言います。親父がお世話んなってます」

茶色い若熊は軽く会釈する。

「不破だ。こちらの方こそ、棟梁には大変世話になっている」

アリスを床に降ろして立ち上がり、会釈を返したタケシは、少年の顔を見上げる形になった。

熊少年は中学生との事だったが、大人顔負けの巨漢であった。

長身のタケシよりさらに背が高く、太り気味ではあるが、がっしりした立派な体格をしている。

「親父から牡蠣預かって来ました。皆でどうぞって」

「わ!ありがとう!丁度今夜は鍋にしようかって思ってたんだ!」

サツキは牡蠣が詰まったタッパーの包みをユウトに渡すと、「ん?」と視線を床に向ける。

タケシの膝から降り、所長席の机の脇からひょこっと顔を出したアリスは、興味深そうにサツキの顔を見上げた。

「よぉ!こんちは!」

サツキは口の端を吊り上げ、アリスに笑いかけた。

笑いかけられた幼女は、はにかんだ笑みを浮かべて机の影に隠れたが、またそろっと顔を出してサツキを見上げる。

「ぬははっ!かわいいなぁ!外国の子?」

尋ねるサツキに、ユウトは「たぶん…」としか答えられなかった。

なにせ、今に至るまでアリスの素性は何一つ解っていないのである。

栗色の髪と顔立ちからアジア系では無さそうなものの、確実なところは判らない。

気を利かせたのか、それとも細かい事に無頓着なのか、困り顔のユウトの曖昧な返答もそれ以上追求せず、サツキはアリス

が顔を覗かせている机の脇に歩み寄った。

そして屈み込むと、ジャンバーのポケットに手を突っ込み、棒付きの丸い飴を取り出して、アリスに差し出した。

戸惑ったように自分の顔と飴を交互に見つめるアリスに、サツキは再び笑いかける。

いかめしい顔つきとは裏腹に、歯を見せてニカッと笑うと、人の良さそうな顔になった。

「やるよ。お近づきの印ってヤツだ」

そう言われたアリスは、大きな熊の手からおずおずと飴を受け取り、ペコリと頭を下げる。

そして恥かしそうに微笑んだまま、サツキの脇を駆け抜け、ユウトの後ろに隠れた。

「良かったねぇアリス。お兄ちゃんにちゃんとお礼言った?」

ユウトに抱き上げられたアリスは、目線が近くなったサツキの顔を、恥かしげに、上目遣いで見つめながら口を開いた。

「ありがと、おにーちゃん!」

サツキは「ぬはは!」と照れ臭そうに笑いながら、人差し指で鼻の頭を掻く。

「わざわざありがとうねサツキ君。お茶淹れるからゆっくりして行ってよ」

「あ、いや良いって。営業中だろ?悪ぃよ」

遠慮するサツキに、タケシが口を開く。

「そうそう客は来ないからな、遠慮する事は無い。それに、世話になった棟梁の息子を、もてなしもせずに帰すのは心苦しい」

「だってさ。心配要らないよ」

珍しく気を利かせるタケシに、ユウトも同意を示して微笑んだ。

「客が来ねぇの、心配要らねぇって言われてもなぁ…」

微妙な表情で頬を掻くサツキの前で、困ったような顔のユウトと、無表情のタケシは顔を見合わせた。

『確かに…』



「柔道を…。なるほど、どうりで良い体付きをしている訳だ」

「ま、引退してから随分肉が付いちまったんすけどね」

話を聞きながら感心したように頷くタケシに、向かいに座っているサツキは苦笑を浮かべて応じた。

一同は応接用のテーブルを挟み、ソファーに座っている。

タケシとユウトが並んで座り、サツキがそれと向かい合う形になっていた。

「ジュードー?」

すっかり懐いてサツキの膝の上にチョコンと座っているアリスは、首を傾げて少年の顔を見上げる。

「柔道ってのは…、あ〜…、何て説明すりゃ良いのかな…?」

どう説明すべきか困っているサツキに代わり、

「この国の格闘技の一つで、オリンピックの種目にもなってるんだよ?」

ユウトがアリスにそう告げる。

「カクトーギ?ユウトのみたいな?」

「うん。そうそう」

「へぇ、その歳で格闘技って言葉が解んのか?偉いもんだなぁ」

感心して見下ろしたサツキに、誉められて嬉しいのか、アリスはにーっと笑みを返す。

「ってか、初耳なんだけど、ユウト姉ちゃんも何か格闘技やってんのか?」

「あ〜、うん。護身術をちょっとね」

曖昧に言葉を濁すユウトを横目で見ながら、

(あれを護身術と言い切るか…。随分と殺傷技法に長けた護身術が有ったものだな…)

と、青年は心の中で呟いた。

「サツキ君は年明けに受験だったよね。どう?順調?」

「う…!ま、まぁ順調かな…。勉強は嫌いだけど、今は教えてくれるヤツも居るし…」

少年の微妙な表情の変化を見て取ったユウトは、「ははぁん?」とニヤニヤ笑いを浮かべた。

「教えてくれる相手って、これ?」

ニヤつきながら小指を立てたユウトに、サツキは視線を逸らしながら鼻の頭を掻く。

「…ま、まぁ…、そんなトコ…」

「んふふ〜!いいねぇいいねぇ!」

「いいねーいいねー!」

ニヤニヤするユウトと、意味が解らないながらも真似るアリス。

無言でそのやりとりを見つめていたタケシは、ユウトに小指を立てて見せた。

「コレ…、とは?どういう意味のサインだ?」

「…後で説明するよ…」

真顔で尋ねる青年に、ユウトは若干疲れたように応じた。



「悪ぃっす。すっかり長居しちまった」

事務所の前で、サツキはアリスを抱いたユウトに軽く頭を下げた。

「正直、最初はユウト姉ちゃんの子供かと思ったぜ?」

「んはは!さすがにそれは無いよ。キミくらいの時に産んだ事になっちゃう」

「ぬはは!それもそうだな」

サツキは苦笑いし、それから少し表情を改めた。

「ユウト姉ちゃん。フワさんの事、好きなんだろ?」

「えっ!?」

目を丸くしたユウトは、サツキの真っ直ぐな視線を受けながら、こっそり自問した。

(タケシを…?ボクが、タケシを好き…?)

改めて考えたら顔が熱くなり、ユウトは咳払いした。

「…どうだろう?正直なところ、良く判らないよ」

「そか」

サツキは頷くと、微苦笑する。

「ガキの俺が言うのもなんだけどよ、好きならとっとと言っちまった方が良いぜ?時間ってのは俺達の都合にお構い無しに流

れてくだろ?待ってちゃくれねぇんだ」

目の前の少年が言った、思いのほか大人びた言葉に、ユウトは意外そうに目を丸くする。

「焦り過ぎんのも問題だけどよ、いつまでも同じ関係で居てぇって、遠慮して、後回しにして、告白をずるずる先延ばしにし

ても、結局いつか追い詰められちまうか、置き去りにされちまう。少なくとも、俺の周りはいつだってそんなんばっかだった…」

サツキはそう言うと、ほんの一瞬、哀しげに目を伏せた。

それから気を取り直したように笑みを浮かべ、ユウトの目を見つめる。

「時期が来たと思ったら、迷わねぇで突っ込んじまえ!ユウト姉ちゃん美人なんだしよ、きっとフワさんも悪く思っちゃいねぇさ」

「んふふ、ありがと!お世辞でも嬉しいよ。でも、人間の基準で言ったらボクらってどうなのかなぁ?」

「ぬははっ!そいつぁ保障できねぇなぁ!けどよ、親のどっちかが人間で、どっちかが獣人ってヤツ、俺の周りにゃそこそこ

居るぜ?それこそ好みの部類だろ?種族の違いなんて、そんなに心配する事じゃねぇかもな」

サツキはそう言って話を打ち切ると、自分に向かってしきりに手を伸ばすアリスに笑いかけた。

「じゃあ、またなアリス。ユウト姉ちゃんの言うこと聞いて、良い子にすんだぞ?」

「うん!ばいばいサツキ!」

「こらアリス、サツキお兄ちゃん、でしょ?」

「ぬはは!良いよサツキで!」

サツキはその大きな手で、触れたら壊れそうな程に小さなアリスの手をそっと握り、軽く上下に揺すった。

「んじゃ、ご馳走さんユウト姉ちゃん。フワさんにもよろしく言っといてくれよな!」

「うん!こっちこそ牡蠣ありがとう!ゲンゴロウさんによろしくね!」

くるりと背を向け、肩越しに手を上げて去って行くサツキの背を見送りながら、ユウトは呟くような小声でアリスに尋ねた。

「アリス。タケシの事、好き?」

「うん!すきー!」

迷い無く、笑顔で答えた幼女に、ユウトは微笑んだ。

「そっか…」

「好き」という言葉に対する認識が、感情が、幼女と自分とでは少々違う事を考慮しても、僅かな迷いも無く、純粋に「好

き」という言葉を口に出来るアリスが、ユウトは少し羨ましいと思った。

(純粋さは、強さだよねぇ…)

自分にもこんな頃があったのだろうかと自問したユウトは、河祖下の屋敷で過ごした懐かしき、幼き日々の事を思い出す。

それから苦笑を浮かべると、軽く首を振って頭を切り替えた。

「さってと!中に入ろうか!」

「うん!ユウト、おきゃくさんこなかったら、ごほんよんでくれる?」

「良いよ。何を読もうか?」

「うんと、うんとねぇ〜…」

幼女を抱いた大熊は、ゆっくりと事務所の階段を登っていった。