第十二話 「首都の知人」
「ほぼ一年ぶりの首都かな…」
高層ビルが増えてきた街並みを列車の窓から眺め、ユウトは呟いた。
「俺は初めての首都だな。…記憶にある限りは」
回転させ、向かい合わせにした座席で、車内販売で購入した、網に入ったミカンを剥きながら呟くと、タケシは大熊の膝の
上で眠そうにしているアリスに視線を向けた。
「アリス。もう少しかかる。無理せず眠っていろ」
「ん〜ん…!アリス、起きてるもん…!」
しかし、幼女はタケシの言葉に首を横に振り、見逃すのを惜しむように、目を擦りながら、窓の外を流れて行く景色を瞳に
映している。
アリスにとっては、列車に乗るのはまだ二度目、出発から長らく興奮し通しだったので、そろそろはしゃぎ疲れてしまった
らしい。
「ところで、ブルーティッシュのリーダー…。デスチェインとはどういう男なのだ?」
タケシの問いに、ユウトはアリスの髪を撫でてやりながら答える。
「一言で言うなら…、「最強の調停者」かな…。あ、少しちょうだい?」
タケシが差し出した皮を剥いたばかりのミカンを受け取り、一個丸々そのまま口に放り込むと、大熊はそれを咀嚼しながら、
知人の姿を脳裏に思い浮かべる。
タケシはと言うと、「少し」と言ったユウトにミカンを丸ごと持っていかれた手の平をじっと見つめていたが、やがて何も
言わずに新しいミカンを取り出し、剥き始める。
「ボクが知る中で最も強い二人の一方。たぶん、ボクが3人居たって敵わないな」
相棒の表現に興味を覚えたのか、ミカンの皮を剥く手を止め、タケシは僅かに目を細めた。
「もう一方はユウヒさんか。お前をしてそこまで言わせるとなれば、よほどのバケモノだろうな」
「相当な物だよ。…アリス?無理しないでね?寝てて良いんだから…」
ユウトは会話を打ち切ると、コックリコックリ船を漕ぎ始めたアリスの体を支える。
「最強の調停者、デスチェイン…か…。興味が湧いた」
「そう?まぁ、もうじき会えるから、お楽しみにっ!」
青年が、剥き終えたミカンを見つめながら呟くと、金色の手がミカンに伸び、またしても掴み取って行く。
「…ユウト…」
「んむぅ?」
ミカンを頬張ったユウトが首を傾げると、
「…いや、何でもない…」
抗議しようと思って口を開いた青年は、やはり何も言わずに次のミカンを取り出し、剥き始めた。
それからふと思い出したように、幼女に視線を向ける。
「…アリス。ミカンは要るか?」
青年の問いにはしかし、夢の世界に片足を突っ込んでしまっているアリスは、答える事ができなかった。
国内最大規模を誇る首都の守護者、ブルーティッシュの調停事務所は、巨大な高層ビルであった。
しばらくの間ユウトにおぶられて眠っていたアリスも、調停者や依頼人等が溢れかえるロビーに入ると、眠気が吹き飛んだ
のか、立派なビル内をしきりに見回し始めた。
「お待ちしておりました。お久しぶりですクマシロ様」
微笑んだ受付嬢は、カウンターに歩み寄ったユウトに深々と頭を下げた。
「お世話になります。で、ボクらは何処に行けば?」
ユウトとは顔見知りなのだろう受付嬢は、手元のディスプレイに繋がれた電話から、何処かへ内線を繋いだ。
そして、しばらく何やら話した後、通話を終えた受付嬢はユウトにお辞儀する。
「お待たせ致しました。現在神崎は第8会議室におります」
「ありゃ…、打ち合わせ中だった?何か事件が?」
「いいえ、何もないはずですが、内密の話だから他の者は入れるなとだけ聞いております」
(あぁ、気を遣ってくれたんだな、ネネさん…)
ユウトは古馴染みの気配りに感謝しつつ、タケシを促し、アリスをおぶったまま、指定された部屋へと向かった。
「失礼します」
ノックしてからドアを潜ったユウトは、広々とした会議室で一人、一行を待っていた女性に会釈する。
四角形に並べられた長机の一番奥の席に座っていた、美しいグレーの毛並みの猫獣人女性は、金色の巨躯を目にすると、優
雅な動作で立ち上がり、笑みを浮かべた。
「久しぶりね。元気だったユウト?」
懐かしそうに目を細めた灰猫に、ユウトも笑みを返す。
「おかげさまで、変わりなくやってるよ。ネネさんも、元気そうで何よりっ」
歩み寄った猫獣人と手を握り合うと、ユウトは首を巡らせて背後を見る。
「紹介するね?ウチのリーダーの不破武士と、先に連絡していたアリス」
ネネと呼ばれた猫獣人は、タケシと、そのズボンを握って立っているアリスに視線を向けて微笑んだ。
「初めまして。ブルーティッシュサブリーダー、神崎猫音です」
「不破武士です。それとこっちが…」
「アリス!」
青年の足元で元気に声を上げたアリスを見遣り、ネネは笑みを深くした。
恥ずかしがっているように、上目遣いにネネを見つめるアリスを眺めながら、ユウトは小声で囁いた。
「迷惑かけちゃうけど、どうしても調べて欲しいんだ…。他じゃちょっと頼めなくて…」
「分かったわ。…それにしても…」
ネネはちらりとタケシを見た後、ユウトに囁いた。
「変わった気配をしているわね…?彼…」
「やっぱりそう思う?」
ユウトがタケシから感じるレリックにも似た気配を、ネネもまた敏感に感じ取り、訝しげに目を細める。
が、初対面であまりジロジロ観察するのも無礼だと思い直し、軽く頭を振ってから話題を変える。
「…とりあえず、詳しい話を聞かせてくれるかしら?」
ネネの言葉に頷くと、ユウトはタケシとアリスを促し、手近な席に着いた。
「なるほど、南米の事件ねぇ…。チェックしていなかったけれど、私も後で資料に目を通しておくわ」
ユウトから事の次第を聞いたネネは、メモを取っていた手帳を上着のポケットにしまい込む。
「検査室は空いているわ。早速確認する?…と言いたいところだけれど…。当のアリスちゃんがお疲れみたいね」
金熊に抱っこされたまま、目をしょぼしょぼさせているアリスに気付いて、ネネは微苦笑した。
「部屋は用意してあるから、ゆっくり休ませてあげて。検査室の使用予定は、今日明日は割と空いているから、後で時間帯の
相談をしましょう?」
「何から何までごめんネネさん…。ホントに助かるよぉ」
頭を掻きながら笑ったユウトに、ネネは妹でも見るような優しげな表情で、微笑みを返した。
「さてと…、そろそろ鉄砲玉も帰ってくる頃ね。戻ってきたら声をかけるから、それまで休んでいてちょうだい」
席を立ったネネに、立ち上がりながらユウトが尋ねる。
「ダウド、仕事だったの?」
「えぇ。ああ、事件が起きた訳じゃないのよ?ただの事後処理」
説明するネネの後に従い、一行は会議室を出て、廊下を歩き始める。
「ダウド、とは?」
尋ねるタケシに答えようと、ユウトが口を開きかけたその瞬間、青年は素早く身を翻した。
振り返ったその時には、青年の右手には抜き身の刀が、逆手に握られている。
タケシの鋭い視線の先、後方の廊下の奥には、白い獣人の姿。
殺気。背筋が凍り付きそうな程に冷たく鋭いその殺気に、タケシは殆ど無意識に反応し、臨戦態勢に入っていた。
振り向き様に姿を認識したその瞬間から、既に動き始めていた青年は、体の捻り戻す反動を利用し、逆手に握った刀を投擲
する。
矢のように宙を走った刀は、しかし獣人の眼前で止まった。
顔面めがけて投擲された刀の切っ先を、顔の前に翳した右手の親指と人差し指で摘むように受け止め、口元を微かに歪ませ
て笑みを浮かべるのは、白い虎。
筋骨隆々たる、鍛え抜かれた見事な体躯。
白い毛並みには、くっきりとした黒いストライプ。
がっしりした体に羽織った濃紺のジャケットはブルーティッシュのユニフォームである。
「タケシ!?」
驚いたようなユウトの声を背後に置き去りにし、青年は廊下を疾走していた。
その両手には、続けて召還された二本の刀。
まるで地面を撫でる突風のように、低い姿勢で疾走したタケシは、白虎めがけて下から右の刀を振り上げる。
甲高い金属音が、廊下に響き渡った。
白虎は自分に投擲され、摘み取った刀を宙で反転させて左手に握ると、鋭い斬撃を押し留めるように受け止めていた。
タケシは間髪入れず、続けざまに左の刀を横薙ぎに振るう。
胴めがけて振るわれた刀は、しかし、白虎の右手に握り取られた。
振るわれた刀を峰側から掴むという神技を目の当たりにし、内心で驚愕しつつも、タケシは躊躇する事無く刀を手放す。
引いたその左手には、瞬時に四本目の刀が召還され、握り締められた。
虚空から刀が出現するという現象を目の当たりにした白虎は、訝しげに目を細めながら、右手で掴み取った刀を回転させ、
握り直す。
再び金属音が鳴り響く。それぞれ右手と左手の刀を絡ませたまま、青年と白虎は二本目の刀を噛み合わせた。
膂力と体格で勝る白虎に押されたタケシは、不利を悟って素早く後方へ跳び、加速をつけての再突撃の為に足を撓める。
青年が床を蹴ろうとしたその瞬間、太い金色の腕が、背後から青年を羽交い締めにした。
「落ち着いてタケシ!どうしちゃったの!?彼は敵じゃないよ!」
飛び出す寸前でタケシを押さえたユウトの声には、困惑と驚きが滲んでいた。
ユウトに動きを封じられながらも、青年はまだ緊張を緩めず、鋭い眼光を白虎に向けている。
白虎は両手に握って構えた刀をゆっくり降ろすと、口元を歪めて笑う。
「ふん…。なかなか活きが良いな」
ユウトから預かったアリスの手を引きながら、ネネが三人に歩み寄る。
「ダウド」
ユウトの傍でアリスの手を放し、ツカツカと白虎に歩み寄ると、ネネは高い位置にある白虎の顔を見上げた。
「ん?」
白虎が顔を向けたとたん、ネネのアッパーカットが白虎の顎をまともに捕らえた。
いきなり繰り出され、小気味の良い音を立てた良いパンチに、さすがのタケシも状況を忘れて目を丸くした。
「彼に何をしたの?」
ネネは穏やかではない目つきで白虎の顔を睨み上げた。
腰の入った見事なアッパーカットを貰ったにもかかわらず、大して堪えていないのか、白虎は僅かに顔を顰めて顎をさすり、
苦笑いした。
「そう怒るな。ユウトが認めた男と聞いて、どんなヤツか気になってな。ちょいと殺気を放ってやっただけだ」
ネネは呆れたようにダウドを軽く睨むと、ユウトに押さえ込まれているタケシに視線を向けた。
「ごめんなさいね?このうすらとんかちがウチのリーダー…。ダウド・グラハルトよ」
タケシは緊張を緩めると、ユウトに目配せした。
金熊が羽交い締めを解くと、青年は姿勢を正して深々と頭を下げる。
「知らなかったとはいえ、初対面でとんだ無礼を働いてしまった…。申し訳ない」
「謝らないで。悪いのはこっちなんだから」
そう言って、ネネの方も申し訳なさそうに頭を下げる。
「で、どうだった?」
アリスを抱き上げながらユウトが口を開き、タケシとネネは言葉の意味が解らず、大熊に視線を向ける。
ただ一人、白虎だけが口元に笑みを湛えたまま頷いた。
「いいな…。殺気への敏感さ、咄嗟の反応、剣の腕もスピードもかなりのものだ。おまけに、俺の殺気を浴びても全く怯まず
向かって来る度胸…。お前が気に入るのも頷ける。正直ウチの強襲部隊に欲しいぐらいだ」
白虎はそう批評すると、声を上げて豪快に笑った。
「改めて名乗っておく。俺はダウド・グラハルト。一応はブルーティッシュの頭をやってる。まぁ、実際の運営はこいつと参
謀に任せてるから、リーダーとは言ってもただの飾りだがな」
「飾りに甘んじていないで書類審査ぐらいしなさい」
ネネの苦言を聞こえない振りでやり過ごしたダウドは、二本の刀を纏めて逆手に握り、タケシに突き出した。
「不破武士だ。カルマトライブのリーダー…、とは言っても、経理や運営方針はユウトに任せているので、実際には実働員だが」
刀を受け取りながら言ったタケシに、
「がはははは!俺と同じか!」
ダウドは大声で笑いながら応じると、興味を覚えたように目を光らせる。
先程刃を交えた際に見せた、野生の獣のような闘争心はなりを潜め、今の青年からは一切の敵対心を感じない。
緊張が張り詰めた時と平常時で、ここまで雰囲気が違う者は珍しい。
まるで、戦闘に際してスイッチが入り、終わると切れる、そんな機械的な切り替わり方に感じた。
(…なかなか面白い男だな…)
ダウドは思案するように目を細め、心の中で呟く。
「どうだ?ブルーティッシュに入らんか?」
「ちょっとダウド、いきなり引き抜き?」
呆れたような顔をするユウトに、ダウドは開けっぴろげな笑みを見せた。
険の無い笑みを浮かべると、鋭さを持った虎の顔が、途端に魅力的な笑顔になる。
「ユウト。お前の事だってまだ諦めちゃいないんだぞ?どうだ?この際二人纏めてウチに来ないか?」
「いい加減になさい!」
ネネは思いっきりダウドの向こう脛を蹴り飛ばす。
が、やはり堪えていないのか、それとも鈍感なのか、ダウドは痛がる素振りも見せなかった。
「ご免なさいね…。腕が立つ人を見ると、すぐこうやって口説くのよ…」
ネネは一行に向き直り、それからアリスに視線を向けた。
「あらいけない…」
アリスはぼんやりとした顔つきで、半眼にした目で宙を眺めていた。
その頭が前後左右に、不安定にふらふらと揺れ動いている。
「アリスちゃん、おねむみたいね…。休ませてあげないと…」
「っと!ごめんねアリス!?疲れちゃったね?」
ユウトは幼女を抱き上げ、軽く揺すった。ネネはその姿を見て、
(なんだか母娘みたいね…。なんて言ったらユウトは怒るかしら?)
などと考え、小さく笑う。
「夕食の席を設けるから、話はその時にしましょう。長旅で疲れたでしょうから、三人とも一度休んだらいいわ。部屋までは
私が案内するから」
「ありがとう。そうさせて貰うよ」
ユウトは礼を言い、ダウドに背を向け、先に立って歩き出したネネの後ろに従う。
が、足を止めたままの青年に気付き、数歩も進まない内に立ち止まった。
「どうしたのタケシ?行くよ?」
青年は肩越しに振り向き、一度ユウトに視線を向けた後、再び視線を戻して白虎の顔を見つめた。
「何だ?俺の顔に何かついてるか?」
訝しげに問うダウドに、タケシは、この青年にしては珍しい事に、躊躇うように口を開いた。
「…俺の顔に、見覚えは無いか?」
「ん?」
ダウドは目を細め、青年の顔をしばらく見つめた後、首を横に振った。
「悪いが覚えて無いな…。何処で会った?」
訝しげに尋ねた白虎に、タケシは首を横に振った。
「いや…。覚えが無いなら、恐らく俺の勘違いだろう。気にしないでくれ」
青年は軽く首を振りながらそう言うと、踵を返し、ダウドに背を向けた。
自分の横に並んだ青年に、ユウトは不思議そうに尋ねる。
「名前は知らなかったのに、ダウドの顔は知ってたの?」
「いや、知らなかった。…そのはずだが、見覚えがあるような気がした。顔だけでなく、声や雰囲気、仕草…」
青年が口にした奇妙な答えに、ネネもダウドも眉を潜める。
ユウトだけが、その言葉に潜む意味に気付いた。
「ダウド!本当にタケシの顔に見覚えは無い!?」
勢い込んで尋ねたユウトに、ダウドは首を傾げた。
「んん?何だ急に?」
「いいから良く見て!本当に見覚え無い!?」
ダウドは改めて青年の顔を見つめ、それから首を横に振る。
「いや、やはり無いな…。これだけの腕だ。顔を合わせてれば忘れるはずはないと思うが…」
「…そう…」
白虎の答えを聞いたユウトは、少し残念そうに目を伏せた。
「どうしたの一体?血相を変えて…」
戸惑いながら尋ねたネネに、ユウトはかぶりを振りながら応じる。
「後で、夕食の時にでも話すよ…」
知らないはずなのに、見覚えがある。
タケシに限って言えば、ただのデジャヴで片付けるのは躊躇われた。
もしかしたら、記憶を失う以前のタケシは、ダウドと顔を合わせた事があったのかもしれない。
そう、ユウトも、タケシ本人も考えたのだが…。
灰猫の後に従って歩きつつ、うとうとしているアリスの頭を撫でながら、ユウトはネネに聞こえないよう、小声で青年に囁
いた。
「記憶を失う前に、ダウドと似た人と知り合いだったのかな?」
「あるいは、やはり俺が元犯罪者で、要注意調停者として組織間に出回っている手配書きを見たか、だな」
さらりと返された青年の囁きに、ユウトはピクリと耳を震わせ、表情を硬くする。
「冗談だ」
「笑えないよ…」
真顔で付け加えたタケシに、ユウトはため息をついて応じた。
そして、どうにも落ち着かない、不安な気分になる。
決して考えたくはない、相棒の、最悪のケースでの過去の姿が、ちらりと脳裏を過ぎって…。