第十三話 「思念波」

一行がブルーティッシュを訪れた翌日、

「大丈夫だよアリス。痛い事とかはないから」

不安を取り除こうと、優しく微笑みかけるユウトの前で、アリスはガチガチに緊張していた。

直径3メートルの円盤型をした、巨大な複合検知装置の台にチョコンと座り、怯えたような表情を浮かべているアリスを安

心させようと、ユウトは幼女の頭を軽く撫でる。

ユウトも他人の事は言えないが、アリスもまた、多くの子供がそうでるように、病院が嫌いである。

様々な装置が並んだ、床も、壁も、天井までもが白で統一された清潔な部屋は、病院を連想させるのだろう。アリスは落ち

着かない様子で、しきりに周囲を見回していた。

「ボクはすぐ隣の部屋に居るからね?少しだけ我慢して、大人しくしててね?」

ユウトはアリスの頭をクシャっと撫でると、幼女を残して装置から離れる。

「それじゃあ、お願いします」

年配の技術者に会釈してそう告げると、ユウトは部屋に一つだけ存在するドアを抜け、モニターが並んだ隣室に移る。

そこでは、数人の技術者とネネが、アリスの姿を様々な角度から映し出しているモニター群を見つめていた。

ちらりと視線を向けたネネは、ユウトが頷いたのを確認すると、

「それじゃあ、早速始めてちょうだい」

機器から生えるように突き出ている、鉛筆のように細いマイクに向かって、そう声をかけた。

ネネの声をイヤホンで受信した隣室の技術者は、アリスを取り囲むように配された、メガホンを思わせる形状をした、複数

の検知器を作動させる。

隣室のアリスを映すモニター傍の計器類には、次々に数字が表示され始め、刻々と、めまぐるしく変化してゆく。

それから数分間、黙ってそれらを眺めていた技術者達は、後ろからその様子を見つめていたネネとユウトに報告を始めた。

「検知器、オールグリーン。測定値は誤差0.002%未満の物です」

「脳波は正常値。異常は検知できません」

「組織、骨格照合。いずれも人間の正常値内です」

「獣化因子混合率0.2%。ほぼ生粋の人間と言って良いでしょう」

「レリック適正タイプはマルチ。適性値32です」

ユウトが目を細め、ぼそりと呟く。

「マルチタイプ…。それに、適性値は結構あるね…」

「ええ。これかしら?」

思案しながら首を傾げるネネに、ユウトは首を横に振る。

「解らないなぁ…。驚くほど高いって訳じゃないでしょう?ボクでさえ27だもん」

「そうね…。マルチタイプは確かに希少だけれど、調整技術が進歩した今では、それほど重要な素養でもないし…」

それからしばらくの間、次々と寄せられる報告を聞いていたネネは、報告を聞き終えると、ユウトに向き直った。

「…聞いたとおりよ。どうやら普通の人間の子供、そう言って良いレベルのようね」

ネネと自分の見解が同じである事を確認し、金熊はほっと息を吐き出した。

「良かったぁ…」

何らかの手掛かりが得られるかと思い、今回、検査を頼んだのではあったが、正直なところ、ユウトはアリスが普通の人間

である事を望んでいた。

手掛かりは得られず、アリスの正体は不明なままではあったものの、大熊はそれでも残念とは思わず、むしろ安堵した。

「無駄な検査させちゃって、ゴメンね?ネネさんに皆さん…。それにアリスも…」

ユウトはモニター越しに、不安からぐずつき始めたアリスを眺め、微笑した。

「迎えに行って、安心させてあげなさい?御姫様、今にも声を上げて泣き出しそうよ?」

「だね。どんな調停者も泣く子には勝てないよ」

ユウトが笑みを返そうとしたその時、笑いながら言ったネネの表情が一変した。

「っく…!?」

ネネは右手を額に当て、小さく呻く。

まるで頭痛でも感じたかのようなその仕草に、ユウトは訝しげに眉根を寄せた。

「どうしたのネネさん?」

ネネは答えず、額を押さえて歯を食い縛ったまま、モニターに映るアリスの姿を見遣る。

(こ、これは…!?)

アリスは、声を上げて泣いていた。

その姿を見つめるネネの美しい顔は、苦悶するように引き攣り、瞳には緊張の色が浮かんでいる。

「検知器再稼働!思念波測定!急いで!」

「え?」

意味が解らず問い返すユウト。その耳に技術者達のどよめきが届いた。

「ど、どうなってるんだ!?」

「こんな数値、前例が無いぞ…!」

「まだ昇る!な、何だ!?こんな…!」

ネネは技術者達の慌てようを見ると、苦しげに頭を押さえたままユウトに告げた。

「あの子を泣きやませて…!すぐに…!」

その声からただならぬ気配を感じ取ったユウトは、急いで隣室に戻り、泣きじゃくるアリスを抱き上げた。

「アリス!落ち着いて!大丈夫!大丈夫だか…」

幼女を慰めていたユウトは、視界の隅に何かを捉え、首を巡らせた。

「え…?」

同室で検知器を監視していた年輩の技術者も、目を丸くしてソレを見つめる。

チョッキを着た、白いウサギが、部屋の隅から三人を見つめていた。

ユウトに抱かれて安心したのか、アリスの泣き声が、次第に啜り泣きに変わる。

金熊はアリスをしっかりと右腕で抱きかかえ、左腕を軽く開いて胸の前で構え、半身になる。

反射的に腰を落とし、身構えながらも、ユウトは動く事ができなかった。

(コレ…、タンカーで見た…兎…!?)

ノッペリとした目鼻も無い、チョッキを着た、マネキンのようなウサギは、手にした懐中時計を弄りながら、小首を傾げて、

目の無い顔をユウトとアリスに向けている。

頭の中を疑問符に占領されたユウトと技術者が見つめる中で、のっぺりとしたマネキンのようなウサギは、懐中時計を持っ

た右手を胸に当て、左手を背中側に回し、おもむろにお辞儀のポーズを取った。

警戒しながら凝視するユウトの前で、お辞儀の姿勢のまま硬直したウサギは、ザラッと輪郭を崩し、小さなカードの塊になる。

音もなく床に落ち、そして広がり、カードは見る間に床の上に山となった。

ユウトの目は、そのカードに描かれた絵柄から、それをトランプと認識する。

カードの山になったウサギは、床に溶けるようにして消えた。

何度か瞬きし、ユウトと技術者は視線を交わす。

互いの表情から同じ物を見て取ると、二人は揃って、白兎が消えた部屋の隅を見つめた。



同時刻、ブルーティッシュ内の居住区画内の一室。

「いぢっ!?」

顔を顰めてこめかみを押さえた白熊に、テーブルを挟んで向かい合っていた若い男が視線を向ける。

「どうかしたか?」

「んんっ…!なんか、頭痛がしたんスけど…」

白熊は首を傾げると、

「あ、治ったっス…?」

不思議そうな表情を浮かべ、こめかみの辺りをさする。

大柄な身体に、黒い学生服とは対照的な真っ白い被毛に、瞳は薄い赤。

制服姿の白熊は、体格はともかく、顔立ちはまだ幼かった。

向かい合う男は、二十代半ばといった辺り。

細面で顎が尖っており、肩にかかりそうな長い髪をしている。

「勉強したせいで頭痛?」

「かもかも?やっぱりそう思うっス?」

白熊は我が意を得たとばかりに顔を綻ばせると、

「無理は禁物っス!今日はお開きで…」

と、腰を浮かしかけた。

「ダメだっつーの。この問題集終わるまで開放すんなって、神崎さんから言われてんの。ほら続けた続けた」

「うひぃ〜!」

男に釘を刺された白熊は、泣きそうな顔で、問題集と教科書が広げられたテーブルに突っ伏す。

「ったく…。泣きたいのはおれの方だっつーの…。年明け一発目の昇格試験狙ってんのに…」

「特定中位っスかぁ…。いいっスねぇ…」

「受かればの話な。受かる確率を上げる為にも、お前の…、お勉強の…、お目付け…」

男は突っ伏している白熊の頭をボールペンの尻で何度も強めにつつき、

「あっ、あっ、あうっ…。痛いっスよぉ〜…」

白熊は溜らず声を漏らす。

「とっとと終わらせて、集中して勉強したい訳。解る?」

「う〜っス…」

言葉とボールペンでチクチクと責められた白熊は、依然としてテーブルに突っ伏したまま、元気なく返事をした。



「異常に強力な思念波が検知されたわ…」

ネネは少し疲れた様子で、こめかみを揉みながらユウトに告げた。

データ解析に移り、慌しくなった検査室から場所を変え、三人は開放感のある応接室に移っている。

二人はソファーにかけ、テーブルを挟んで向き合っていた。

「強力な…、思念波…」

ユウトは硬い表情で呟き、自分の傍らで丸くなっているアリスに視線を向ける。

幼女は泣き疲れたのか、ぐっすりと眠っていた。

ネネは小さくため息をつき、手元の資料に視線を向けた。

「ええ。神崎の血が、強制的に反応させられる程のね…。一応、この本部は思念波もシールしているから、外には漏れていな

いはずよ。本部内にはアレを感知したメンバーもいるかもしれないけれど、そっちには実験の一環の現象だから問題ない、と

でも通達を出すわ」

「あ…。有り難う…。」

ネネの処置が、アリスの事をあくまでも内密に扱うためのものだと気付き、ユウトは申し訳無さそうに身を縮め、ペコリと

頭を下げる。

「お礼には及ばないわよ。それと、コレ…」

ネネの差し出した資料を受け取った金熊は、そこに書き込まれたアリスの検査結果を目にし、低く呻いた。

専門的な事は解らないが、それでも、グラフ化されたアリスの検査結果の中で、一つだけズバ抜けて高い数値がある事は理

解できた。

「一流の…、いえ、超一流の術師でも、そこまでの思念波を発散する事は不可能でしょうね。こんな数値…、個人が…いえ、

複数で放ったものと比較しても、前例が無いわ…」

ネネの口調は硬い。ユウトはため息をついて資料をテーブルに置いた。

「何者なのかしらね…、その子は…」

ネネの問いに、しかしユウトは答えを返せない。

それが知りたくて検査を受けさせたと言うのに、アリスについての謎は深まるばかりだった。

解ったのはただ、アリスに術師としての類い希なる資質が備わっている事だけだった。

「…その子を狙う者というのは、異常に高い思念波を発生させられるという事を知っているのかしら…?この資質故に、アリ

スちゃんは命を狙われているという事?」

ネネの呟きに、ユウトは顔つきを鋭くした。

「その事なんだけど…、実は…」

ユウトは検査の際に目にした白兎の事を話し、ネネは驚きを隠せない様子で目を見開いた。

灰猫は即座に内線を入れ、画像記録の確認をさせる。

「考え難いわね…、まさかこの本部内に直接攻撃を仕掛けて来るなんて…。それも、私の網をかいくぐって…」

ネネは言葉を切ると、首を横に振り、ため息をついた。

「…いえ、あの時は強力な思念波に当てられて注意がそちらに向いていたわ…。それで気付けなかったのかもしれないわね…」

驚きを隠せない様子のネネは、内線の呼び出しに応じ、映像解析を終えた技術者からの返答に耳を傾ける。

「…考え難い…。ううん。考えられない…」

ユウトの呟きは、しかし通話中のネネには聞こえなかった。

やがて通話を終えたネネは、

「画像には何も映っていないわ…」

と、目を細めて熟考しながらユウトに告げた。

「ボクと技術者の人は、確かに見た…。映像には残らないけど、二人が見てる。…つまり…」

「南米の事件と同じ、集団幻覚…?」

ネネの言葉に、金熊は硬い表情で頷く。

「警戒を強化するわ。もちろん私も監視に加わる。このビル内に居る限り、決してアリスちゃんには危害は及ばないと、約束

するわ」

本部へ直接攻撃をかけられた事が癇に障ったのか、それとも幻覚攻撃を察知できなかった事で矜恃を傷つけられたのか、ネ

ネは険しい表情で力強く言い放つ。

しかしユウトは、何かを考え込むようにして俯いたままだった。

「ユウト?どうかしたの?」

尋ねるネネに、ユウトはぼそりと尋ねた。

「南米の事件、もっと詳しい情報を手に入れられるかな?できれば、あっちから出てる表向きの報告以上の物を…」

「え?ええ、参謀は元々あっちのハンターだったし、そのつてで当たれるかもしれないけれど…」

ユウトは思案した後、勢い良く顔を起こした。

「ヤマガタさんは、今どこに?」

「帝居前支部よ。どうしたの急に?」

「もしかしたら…、ボクもタケシも、とんでもない勘違いをしてたのかもしれない…」

ユウトは一向に目覚めないアリスをソファーに降ろし、起こさないように気をつけて立ち上がると、灰猫に深々と頭を下げた。

「ごめんネネさん。タケシに引き取りに来て貰うから、ちょっとだけアリスを見てて!ヤマガタさんにお願いして来る!」

「あ、ちょっと!ユウト!?なんなら電話でも…」

「急ぎなんだ!直談判してみる!」

金熊はドアを開けて廊下に飛び出すと、上着も羽織らないまま外へ向かった。



「白い兎?」

ユウトに呼ばれ、アリスを預かりに来たタケシは、灰猫の説明を聞くと、鋭い目を細くした。

アリス本人はソファーの上がよほど気持ちいいのか、まだ膝を抱えて眠っている。

「幸いにも被害は無かったけれど、遺憾だわ…。天下のブルーティッシュ本部が、まさか直接攻撃を受けるなんて…」

「それで、ユウトは何処へ?」

「南米の事件の詳しい情報が欲しいと言って、出かけたわ。なんでも、勘違いをしていたのかもしれないとか何とか…」

「…勘違い…?」

青年は黙り込むと、アリスの寝顔を見つめ、これまでに得た情報と、自分達の体験を一から顧みる。

(時間的には、白兎を目撃したのは俺が最初…。その後、甲板の上で再び現れた…。一度目は、まるで俺を誘うような行動を

見せ、二度目は…。そして今回の三度目、ユウトの目の前、アリスの元に…)

タケシは顔を上げ、ネネの顔を正面から見た。

「もしかしたら、ユウトの言うとおりかもしれない」

「え?」

訝しげに問うネネに、タケシはアリスの寝顔に視線を向け、呟くように続けた。

「幻覚の使い手は、アリスや南米の幼女を狙っていたのではなく…」

青年の説明を聞きながら、ネネは目を丸くした。



「…やっぱり…」

ブルーティッシュの帝居前支部。

その中にある参謀執務室で、ユウトはパソコンの画面に表示された、南米の事件の詳細な記録を食い入るように見つめ、呟

いた。

その傍らで画面を覗き込み、パソコンの持ち主である、口ひげを蓄えた精悍な顔つきの男が口を開く。

「何か分かったのか?」

ブルーティッシュ参謀であり、以前は母の戦友でもあった山形敏鬼(やまがたとしき)に、ユウトは画面を見つめたまま頷く。

「幼女の死因は、胸部への銃撃…。その後の調査で、ハンターの一人が撃った弾が跳弾して当たった物…、つまり流れ弾が死

因だって確認されてます…」

トシキは「ふむ」と頷くと、先程自分のパソコンに届いたばかりのメールに添付された資料を眺める。

「今までボク達は、幻覚の使い手が、アリスやこの子を殺そうとしていると思っていました。でも、たぶん違う」

ユウトは腕組みし、背もたれに体重を預ける。

椅子がギシリと抗議の声を上げ、「わっと!」と、慌てて振り返りながら背を浮かせたユウトに、トシキは先を続けるよう

促した。

「幻覚の使い手は、アリスやその子を連れ出そうとしてたんじゃないでしょうか?南米の件だってきっと、本当は死なせるつ

もりなんて無かったのかも。アリス達を自由にしたいのか、それとも特定の組織に渡したくないのか、あるいは利用するつも

りなのか…。目的までは分からないけど、アリスを殺そうとしている訳じゃないと思います」

「予想できる動機が多いが…、君自身はどの線が濃いと思っている?」

トシキの言葉に、ユウトは僅かに考え、それから口を開いた。

「ボクが思うに、幻覚の使い手は、…アリスの味方です」

ユウトはそう切り出すと、自分の考えを語り始めた。

「考えてみれば、南米の一件は不幸な結末だったにしても、アリスに限って言えば、少なくとも幻覚の出現で危険に晒された

事はありません。…ううん。それどころか、これまで二度も、幻覚のおかげでアリスにとっては有利に事が運んでる…」

ユウトは太い指を三本立て、指を折って例を挙げた。

「まず一度目。あの白兎は、タケシをボクとアリスの元に導くように誘いました。二度目は、ロケットランチャーからボクら

を守ってくれた」

「三度目の、本部での出現は?有利にも不利にも働いていないように思えるが…」

トシキの問いに、ユウトは頷いた。

「そこなんです。今回の件のせいで、幻覚の使い手はアリスの味方なんじゃないかって思えるんですよ」

「そこが…?一体何故だ?」

意味が解らず問い返すトシキに、ユウトは口元に笑みを浮かべた。

「不自然なんです。有利も不利も関係なく…、いや、幻覚の出現で警戒を抱かせる事になるから、むしろ不利になる状況…。

それなのに幻覚は現れました」

ユウトは幼女を抱きながら、のっぺりとした顔の白兎と対峙した時の事を思い出す。

「…怯えるアリスの様子を見るために現れたような…、まるでそんな出現タイミングでした。実際に、何もしないですぐ消え

たし…。幻覚の使い手は、どんな手段かまでは判らないけど、アリスの怯えを感じ取って、危機と勘違いして、守るために白

兎を送り込んだんじゃないでしょうか?」

トシキはユウトの言葉を吟味しつつ、慎重に口を開いた。

「では、君達の元で保護されるようになってから、幻覚が現れなかった空白期間は…」

「認めてくれてたのかもしれませんね、ボクらがアリスの味方だって…」

ユウトはそう言うと、微笑を浮かべた。

「随分楽天的な推測だな…。しかし確証は無い。油断はできないぞ?」

気を引き締めさせようと、そう言ったトシキに、ユウトは微笑を浮かべたまま頷く。

「うん。気を緩めるつもりは無いですよ。でも…」

ユウトは微笑し、トシキは訝しげに眉根を寄せた。

「でも…、何だ?何か嬉しそうだな?」

「んふふっ!ちょっとだけっ…!」

これまでは、自分達以外に誰一人味方の居ない、天涯孤独の身の上だと思っていたが、幼女には、味方が居るのかもしれない。

そう考えると、ユウトは少しだけ嬉しくなった。