第十四話 「幼女と白熊」

『ネネさん!アリスがそっちにお邪魔してない!?』

内線を取ったネネは、開口一番発せられたユウトの問いに、見えていないにも関わらず、首を横に振って応じた。

「いいえ、今日は来ていないわよ?」

年末も近付き、朝から昼を跨いで書類審査に追われていたネネは、額に落ちかかる少し長めの、美しいグレーの被毛を手で

かき上げる。

「お姫様、またお出かけしたの?」

『うん…。ちょっと目を離した隙に居なくなっちゃって…』

首都入りから五日目。せっかくなのでクリスマスを首都で過ごす事にした一行は、ダウドやネネの好意に甘え、ブルーティッ

シュ本部に滞在を続けていた。

アリスは広く立派なこの本部が気に入ったらしく、ユウトの目を盗んではこっそり部屋を抜け出し、ちょくちょく気ままな

探検に出かけている。

ユウトとタケシは、例の白い兎は、アリスに危害を加える存在ではないと、一応の判断を下した。

それでも、これまでと変わらずに警戒はしているユウトだが、最近のアリスは眠っていると見せかけて、目を離した隙に部

屋を抜け出すという高等技術まで使用するようになっており、捕まえておくのは難しくなっていた。

先日に至っては、エレベーターを三つ乗り継ぎ、階段の警備をスマイルという強力な買収手段で懐柔せしめ、事務フロアの

サブリーダー執務室に入り込み、ネネの留守中に冷蔵庫から無断でアップルジュースを失敬するという、敏腕スパイ顔負けの

働きまでやってのけている。

「調停者や監査官に向いている」

とは、彼女のもう一人の保護者となっている青年の意見である。

なお、そう述べたタケシは真顔であり、ユウトの耳には冗談に聞こえなかった。

…もっとも、彼は常々無表情で真顔ではあるのだが。

ちなみに、タケシもタケシで、ダウドの案内で本部内や各支部、時には夜の街を連れ回されており、ここ数日は不在がちである。

あの白虎に良からぬ事でも刷り込まれはしないかと、ユウトにしてみれば少々心配ではあった。

「…まぁ、ビル内で危険な目に遭うことはないでしょう?幻術師も敵ではないのだから」

『確実じゃあないんだけどね…』

幻術の使い手は敵ではない。

そのユウトの推測は、ほぼ時を同じくしてタケシも考えついたものだった。

二人の推測はすでにネネやダウドも知る所であり、外出の際には目を光らせているものの、本部内に居る限りは、厳重な警

護はつけられていない。

もっとも、監視がないからこそ、アリスも簡単に脱走できているのだが…。

「心配なら警備に探させる?」

『え?いや、そこまでは迷惑かけられないよ。ちょっと探してみる。邪魔してごめんね』

通話を終えたネネは、受話器を置くと、机の上に積まれた書類の山に視線を戻し、それからため息をついた。

「息抜きに、お姫様の捜索でもしようかしら…。それとも、あの頭の中まで真っ白なウチのリーダーを探して、書類整理させ

ようかしら…」



一方その頃。保護者である金熊の心配をよそに、アリスは至ってご機嫌な様子で、ブルーティッシュ本部内を探索していた。

アリスは、ユウトやタケシと過ごしたここ数ヶ月しか、外の世界を知らない。

幼女にとってこの巨大なビルは、初めて目にするモノに溢れた神秘の宝庫であった。

探索開始から三日目、一度もビルから出てはいないが、各所に設けられたフカフカのソファーや、無料でジュースが飲める

飲料提供機、高い窓から見下ろす都会の街並みなど、幼女はどれだけ眺めていても少しも飽きなかった。

アリスが出歩く日中は、非番のメンバーは出かけているか仮眠を取っているので、調停者達と出会う事はあまりない。

時折出会う、重要な区域を警護する屈強な獣人達も、アリスが客の連れだと知っているので顔パスである。

もっとも、顔パスどころか、お菓子を渡す者まで何人か居る始末なのだが。

幽閉されていた日々を思い出すせいか、タケシ以外の人間の男には警戒するアリスも、容姿が大きく異なる獣人の男達には

至って無警戒である。



幼いアリスはその理由を知る由も無いが、ブルーティッシュには獣人のメンバーが多い。

人口の一割強とされている獣人が、ブルーティッシュ内においては全メンバーの四割にも及んでいる。

理由の一つは、獣人のその身体能力にある。

身体能力に恵まれた獣人達は、元々調停者に向いている。

この国で、腕利きとして名を知られている調停者の半数以上は獣人であるが、この事にはその素養と、生存率が関係している。

リーダーとサブリーダーが揃って獣人である事も含め、ブルーティッシュ内においては、獣人は戦力の中核である。

集団戦では前衛に多く獣人が配され、サポートや後方支援には人間が多くまわされる。

差別からではなく、厳密な実力評価によって徹底的に配置分けされ、適材適所を心掛けて組まれる部隊は、国内最強の戦闘

集団の名を欲しいままにした。

これは、参謀のトシキの経験と、観察眼の確かさと、努力の賜物でもある。

理由の二つ目は、リーダーであるダウドの考え方にある。

獣人差別の根強い首都が、獣人が中核になっている組織に護られる。

獣人差別が根強い首都で、ブルーティッシュ内においては一切の種族格差が無い。

獣人差別が根強い首都を、護る立場の者が変えてゆく。

「実力で示して、価値観を根っこからひっくり返してやる。どうだ?痛快だろう?」

チームを立ち上げて間もない頃、自分が練る構想を語りながら、ダウドはまだ少なかった発足初期のメンバーを前に、悪戯

小僧のような笑顔でそう言った。

その考えに賛同する者は、獣人は当然として、獣人と共に戦線を潜り抜けた、人間の調停者達にも多かった。

囚われず、縛られず、屈さない。

首都においても自らの価値観を変えず、あるがままに振舞う、自由奔放な白虎のカリスマに惹かれ、猛者達は集った。

差別体勢に反感を抱く、それまでの大型チームに属していた現役や、行き場をなくした老兵、そして、可能性を感じる若手。

ダウドはそれまで首都に居座っていた大型チームに、価値観の違いから敵愾心を持たれた。

妨害工作などを受けながらも、しかしブルーティッシュはその実力を示し続け、結局は国内最大のチームの座を勝ち取った。

そうやって、ブルーティッシュという名の、首都を守護する一頭の獣は育ってきたのである。



アリスは今日もこれまでと同じく、好き勝手にビル内を彷徨い歩き、エレベーターのボタンを適当に押し、知らぬ間にメン

バーの宿泊にあてられているフロアに辿り着いた。

幼女は喉の渇きを覚え、トテトテと廊下を歩き出す。

どのフロアにもだいたい同じ位置に、ジュースが飲める休憩スペースがある事を、三日間の冒険の内に、幼いアリスの頭脳

は記憶していた。

やがて、どのフロアでも代わり映えしないレイアウトの休憩スペースを見つけ、足を速めて歩み寄ったアリスは、こちらに

背もたれを向けたソファーを回り込んだ所で足を止めた。

背の低いアリスからは背もたれが邪魔で見えなかったが、ソファーには先客が居た。

回り込むまで気付かなかった理由はもう一つ。

その先客はソファーに寝ていたので、背もたれの陰に隠れて見えなかったのである。

顔に本を載せ、ソファーに仰向けになり、左腕を胸の上に、右腕を床に投げ出している先客は、黒い学生服を着ていた。

真っ黒な学生服とは対照的に、袖から覗く手も、ボタンを外して開いた襟元から覗く喉も、純白の被毛に覆われている。

顔は見えないが、呼吸で上下している腹を見つめたアリスは、首を傾げ、おもむろに脇腹をつついてみる。

「んむぅ…?」

本の下から呻き声が漏れ、次いで先客はむっくりと身を起こした。

顔に置いていた本が、アリスの足下に落ちる。

背伸びしつつ大あくびをして、それからキョロキョロと周囲を見回し、アリスの顔に視線を止めた先客は、白い熊の獣人で

あった。

幼女を紅い瞳で見つめると、白熊はまだ微かに幼さが残る顔に、訝しげな表情を浮かべて首を傾げる。

「子供…?」

同じように首を傾げた幼女の顔を眺め、白熊は軽く頭を振って眠気を覚ます。

「ああ…。そう言えばネネさんの客人が、小さな子供を連れて来てたはずっスね…」

納得したように呟くと、白熊はアリスに笑いかけた。

「お嬢ちゃん、一人なんスか?」

「うん!」

笑顔で頷いたアリスは、白熊の安眠マスク代わりにされていた本に視線を落とす。

表紙を上に向け、伏せるように床に落ちた本には「中学数学・3」とタイトルがあったが、幼いアリスにはその文字が読め

ない。

「ご本?」

本を読んで貰うのが好きなアリスは、興味深そうに本を拾い上げると、白熊に差し出した。

「どもっス」

礼を言って教科書を受け取った白熊は、自分の顔を期待に満ちた眼差しで見上げるアリスに気付く。

「あ〜、いや…、読んでも面白い物じゃないっスよ?…ホント…」

白熊は本を広げて見せ、絵本ではない事を知ってがっかりした幼女に笑いかけると、急に表情を曇らせ、落ち込んだように

ため息をつく。

「…もう冬休みに入るっていうのに、追試なんてついてないっス…」

「ついし?」

「オレみたいな頭の良くない生徒を狙った、学期末の嫌がらせイベントの事っスよ」

首を傾げたアリスに、白熊は肩を落とし、しょぼくれた様子でそう答えた。

「で、まぁ勉強しなきゃいけないんスけどね…、ポカポカ気持ちよくってつい…」

窓の外に視線を向け、白熊は差し込む日差しに目を細めた。

「アリスもポカポカ好き!ひなたぼっこ好き!」

「へぇ、アリスちゃんって言うんスね?」

笑いかけた白熊に、アリスは頷いて話し始めた。

「うん!アリスはね、ユウトとお昼寝するの!でも、お昼寝してると、ユウトはアリスを置いてどっか行っちゃうの。昨日も、

今日も、タケシと難しいお話してて、アリスにかまってくれないの」

アリスの口から出た名前を、両親の名かと思った白熊だったが、どちらも男性の名前に思えて首を傾げる。

(お母さんはきっと美人っスねぇ…。栗色の髪だから、外人さんかな?タケシって名前は日本人っぽいっスけど、…ユート?

って名前の人が外人っスかね?でもって母親っス?)

頭の中で、日本人男性のタケシという父、栗色の髪をした外人女性のユートという母、その間で両親に手を握られてはしゃ

いでいるアリスを想像し、白熊は微笑む。

「お兄ちゃんは、お名前なんていうの?」

「あ。オレはアルビオンっス。アルビオン・オールグッド」

名乗った白熊に、しかしアリスは首を傾げる。

「ありゅじっ、ありゅ、あるびのーる…?」

名前を覚えきれない上、上手く発音できずに四苦八苦するアリスに、白熊は微苦笑した。

「オレの名前、長くて呼びにくいっスからね。アル、で良いっスよ」

「…アル…?」

「うん。アル」

「アル…。アル…」

アリスはその響きが気に入ったのか、口の中で何度か呟いた後、白熊に笑いかけた。

「アル!覚えた!」

その心溶かすような笑みを見ながら、アルは無意識に笑みを返している自分に気付く。

(そうっスよね…。このくらい小さい頃は、誰も人間と獣人の違いなんて気にしてないのに…)

汚れを知らない、小さな天使…。アルの紅い瞳には、アリスはそう映っていた。

今の首都では珍しい存在、獣人である自分に、蔑みの視線を向けない人間。

「あいつら」とは違う。同じ人間でも、この子は「あいつら」とは違う。

「あれ…?」

アルは奇妙な感覚に、首を傾げた。

胸の中がじりっと焼けたような、嫌な感覚があった。

それが、自分の中に知らぬ間に根付いていた、獣人差別者に対しての嫌悪と拒絶である事を、この時のアルはまだ、自覚で

きていない。

そして、その人間全体への不信感が拭われるのは、この日からまだまだ先の出来事。

それが原因で上官と諍いを起こし、部隊から外されて出向いた地方の町での事。

人間への不信感を拭い去り、調停者として歩むべき道を見い出すきっかけを与えてくれる、その少女と出会うのは、これよ

り二年後の事である。



休憩スペースのソファーに、こちらに背を向けて腰掛けている白い獣人に気付くと、ユウトは駆け寄って声をかけた。

「済みません!この辺で栗色の髪の、五歳くらいの女の子を見ませんでしたか?」

首を巡らせた獣人は、ユウトの問いに首を横に振った。

「いんやぁ、見てねぇなぁ」

年老いた白猿の獣人にぺこりと頭を下げ、ユウトは再び歩き出す。

「もうっ!このビル空気清浄機が効き過ぎてるよ…。匂いがすぐ消えちゃって、痕跡が辿れやしない…!」

頼りの鼻を不満げに鳴らしつつ、ユウトはアリスの捜索を続行した。



傍の機械からオレンジジュースを取り出すと、アルはアリスと並んでソファーに腰掛け、その話を聞いていた。

まとまりのない幼女の言葉の中から、断片的な情報を繋ぎ合わせ、アルはアリスの保護者が調停者であるらしい事を察する。

「…ま、ネネさんの客なら、大半は調停者っスからね…」

呟いたアル自身は、今年度で義務教育が終わり、受験条件を満たすので、来年春の調停者試験を狙っている。

試験を数ヶ月後に控える身ではあるものの、予定外にも保護者のネネから高校へ進学するよう命が下ったせいで、入試対策

に追われ、おまけに期末テストの追試を受ける事になり、試験への備えが殆どできていないのが現状だった。

(まぁ、それが目的なのかもしんないっスけどね…。ダウドさんはともかく、ネネさんはオレが調停者になるの、ほんとは賛

成じゃないみたいっスから…)

困難だからこそ、高校入試を決めた上で調停者試験にも合格すれば、今後はネネにも反対されずに、調停者としてやって行

けるだろう。アルはそうも考えていた。

それでも、勉強は暴れたくなるほどに嫌いではあったが…。

話し疲れたのか、欠伸をもらして目を擦ったアリスに気付くと、アルはソファーから立ち上がった。

「そろそろ戻った方が良いっスね?あまり遅くなると、お父さんとお母さんも心配するっスよ?」

目を擦りながら首を傾げたアリスに、アルは微笑みかけた。

抱かれ慣れているアリスは、ほとんど反射的な動きでアルに両手を伸ばした。

アルは少し考えた後、それを抱っこして欲しいというサインだと理解し、幼女を優しく抱き上げる。

「でも…、お客さんは何処に泊まってるんスかね…?あ。ネネさんのトコに連れてって聞けば良いっスか」

歩きながら呟き、エレベーターのボタンを押したアルの元に、二機のエレベーターが同時に向かって来た。

僅かに早かった方のエレベーターにアリスを抱いた白熊が乗り込み、扉が閉まると、殆ど間を置かずにやって来たエレベー

ターから金熊が歩み出る。

自分が到着する一瞬前にドアが閉じ、今まさに背後で上昇を開始したエレベーター内にアリスが居るとは気付かぬまま、ユ

ウトは鼻をひくひくと鳴らした。

「アリスの匂いだ…。まだ新しい!」

ユウトは廊下に残っているアリスの匂いを頼りに、周囲の探索を開始した。

たった今、立ち去ったばかりだとは夢にも思わずに…。



区切りの良い所で書類整理を一旦切り上げ、ネネは息抜きついでに、まだ見つかっていないらしいアリスの捜索を開始する

事にした。

懐から取り出したきらびやかなネックレスを首に巻くと、しなやかな指先でそれを撫でる。

それは、感覚増強作用を持つレリック、名をブリージンガルという。

能力増強系のレリックはかなりの貴重品であり、ダウドはネネに交際を申し込む際に、プレゼントとしてこれを渡し、驚か

せた。

もっとも、それをレリックだと知らずに所持していたダウド本人も、ネネからその事を告げられて驚いていたが…。

胸元で輝くレリックに触れたネネは、椅子に座ったまま全身の力を抜き、天を仰ぐように顔を上に向け、目を閉じる。

意識を外に向かって解き放ち、触覚や嗅覚が拡散し、広がって行くような感覚に身を委ねる。

目を閉じているにも関わらず、今のネネには、目を開けていた時よりも鮮明に部屋の様子が認識できた。

思念波を周囲に放ち、その反射率からあらゆるモノを探知する。

それがネネの、神将、神崎家の血筋の者に宿る能力である。

放つ波動の質や強弱を変える事で、有機物、無機物を問わず、どんなモノでも探知する。

距離が離れれば離れる程に精度は失われてゆくが、ブリージンガルで感覚を増強すれば、最大で半径10キロ以内の全ての

生命体、レリック、運動物、エネルギー反応を捉え、把握できる。

探知できるのは品や人物だけではない。空気中を漂う物質、大気の動き、磁場や電波まで、人類がその存在を確認できるも

のは、ほぼ全て感じ取る事ができる。

マインドソナーと呼ばれる探知型能力だが、しかしネネ程の探索範囲と精度を有する能力者は、国内には存在しない。

セレスティアルゲイザーの二つ名は、その能力の発動に伴い、無意識の内に天を仰ぐ、彼女のこの仕草からつけられた名で

ある。

放出する思念波を希薄にして探索範囲を拡大し、巨大なビル全体に意識の触手を伸ばすと、意外にもターゲットはこちらに

近付いて来る所だった。

自分の身内の反応が一緒に移動している事に気付き、ネネは目を閉じた顔に怪訝そうな表情を浮かべる。

そしてアリス探索中のユウトが、幼女の反応と近距離ですれ違い、遠ざかるのを感じ、小さく吹き出した。

「惜しいわねユウト。絶妙なタイミングだわ」

ネネは思念波の放出を止めて探索を切り上げ、目を開けて立ち上がる。

紅茶を淹れながら待つと、程なく、幼女を抱いた白熊が執務室のドアをノックした。

「入っても大丈夫よ、アル」

返事を待ってからドアを開けた白熊は、ペコッと軽くお辞儀した。

「お仕事中失礼するっス!ネネさん。この子…」

「丁度良かったわ。探していたところだったのよ」

ネネは笑みを浮かべてそう言うと、アルの手から目をショボショボさせているアリスを抱き取る。

「少し待っていてねアリス?ユウトもすぐ戻って来るから…」

「そのユートさんって人が、この子の母親なんスか?」

「う〜ん、母親ではないけれど、似たようなものかしら?まぁ保護者には違いないわね」

この説明で訳ありである事を察したアルは、それ以上問う事はなかった。

ネネが調停者として知り得た事は、身内とはいえ、まだ調停者ではないアルには話せない。

その事を、良く理解しているからである。

「まぁ、機会が有ったら紹介するわ。ダウドがウチに引き入れたがる程の人材よ」

「へぇ〜…」

興味を覚えたアルに、しかしネネは笑顔で釘を刺した。

「とりあえず今は、数学の追試準備をしっかりなさい?」

「う、うス…」

気乗りしない様子のアルに、ネネは笑顔のまま、

「もしまた赤点だったら…、落とすわよ?」

アルに向かって伸ばした腕の先で、立てた親指をグリッと下に向けた。

(何処から!?ってか何処へ!?)

顔を引き攣らせて頷き、退室したアルは、廊下に出るとガリガリと頭を掻いた。

「…とは言われたものの…、なんかいまいち気分が乗らないっス…。今日は調停者採用試験の方の勉強をするっスかね…」



白熊が退室してからしばらくの後、執務室のドアは、今度はノックも無しに勢い良く開いた。

「ネネさん!アリスの匂いが残ったソファーにこんな物が!きっと犯人の持ち物…、あれ?」

ユウトの中ではすでに誘拐されたような扱いになっていたアリスは、しかし執務室のソファーですやすやと眠っていた。

「その犯人が、ついさっき連れてきたわ」

ネネは書類がだいぶ減った机の向こうで可笑しそうに言い、ユウトは決まり悪そうに頬を掻いた。

「で、犯人は現場に何を残して行っ…」

ユウトが手にしている数学の教科書を目にして、ネネはしばらく黙り込んだ。

…やがて、その美しい顔に凄絶な笑みが浮かぶ。

「あらあらまあまあ、あらまあまあ…、数学の追試を受けるというのに、数学の教科書を置き去りにして、あの子は一体何を

勉強しているのかしらねぇ…?」

にこにこと笑っているネネを前に、しかしユウトは熟睡しているアリスを抱き上げ、全身の毛を逆立てて後ずさる。

「…本当に落とそうかしら…」

にこやかな笑みを浮かべながらも、ネネの全身から発散されている激しい怒気に、勇猛なユウトすらも怯えの表情を隠すこ

とはできなかった…。



翌朝、5階にある執務室の窓から蹴り落とされる事だけは何とか免れたものの、代わりに散々ケツバットを貰った白熊は、

パンパンに腫れた尻をさすりながら、泣きそうな顔で登校して行った。

もちろん、ガラガラのバス内でも座ることができず、立ったまま…。