第十五話 「平穏なる日常」
「んがぁ〜!…っと…」
伸びをして、胃の中まで覗けそうな大欠伸をすると、白地に黒の縞を持つ虎は、逞しい腕をグルグルと回して肩をほぐした。
筋肉の塊のような、屈強な体に纏うのは、洗い晒しのジーンズに黒いタンクトップ。
足につっかけたサンダルをぺったぺったと鳴らして歩く白虎は、12月という時期にもかかわらず、その薄着でも寒さなど
感じていない様子であった。
ブルーティッシュ本部ビル内、居住スペースの通路をのんびりゆっくり歩きながら、地上58階から見下ろす首都の町並み
を、白虎は眺める。
自分達が護る、活気溢れる首都の景観を楽しみながら、
「さぁて…、何をするかな…」
ダウドは欠伸を噛み殺して呟いた。
ブルーティッシュのリーダー、ダウド・グラハルト。
一度戦場に立てば勇猛果敢な戦士となる彼は、しかし無類のデスクワーク嫌いでも有名であり、事務的なものについてはサ
ブリーダーのネネと参謀のトシキに丸投げしている。
そんな彼も、現場主義であるが故に日々は多忙である。
危険生物の捕縛や討伐はもちろん、レリックの捜索に事件調査、骨を惜しまず現場に出る。
というよりも、リーダーが直々に出向くほどでもない事案に首を突っ込みたがり、無用に出しゃばる。
ブルーティッシュの幹部達にしてみれば、そんな業務こそ一般メンバーに任せて、対外外交や内部の重要事項に当たって貰
いたいのが本音ではあった。
そんな現場好きのダウドではあるが、本人は別にどうでも良いのだが、もちろん休日はある。
心身の休息を取りコンディションを維持する事を、他のメンバーに模範として見せなければならない。
そういう理由をつけられ、サブリーダーであり、恋人でもあるネネによって、定期的な休暇の取得を義務付けられているの
であった。
とは言っても、ネネに色々と言われてしまうので、休みだからといって、昼間から飲み屋街に出かける訳にもいかない。
よって、無趣味な彼は、日中は特にする事がなく、休みの度に暇を持て余す。
白虎は通路の休憩スペース前で足を止め、ネオンの光でも恋しがっているのか、窓から見える町並みを物憂げな目で見つめ
た後、
「…よし。部屋に篭って酒でもかっくらってエロビでも見るか…」
と、実に不健康な、そして彼自身にとっては有意義な、休日のスケジュールを立てた。
「つまみは何があったっけなぁ…?ああ、まだユウトの土産のカラスミが残ってたな?」
などと呟きながら、今しがた出てきたばかりの自室へと戻るべく踵を返したダウドは、
「ん?」
ちょうど前を通りかかったタイミングでエレベーターのドアが開いたので、歩きながら何気なく中を覗く。
「…………ん?」
エレベーターは空っぽに見えた。が、ダウドは視線を下に向け、
「お、居た…」
相好を崩して小さな女の子に笑いかけた。
「よう。今日も探検か?」
今日もユウトの目を盗んで一人歩きをしていたアリスは、大柄な白虎の顔を見上げ、
「あ〜!ニャンニャンのおじちゃん!」
と、嬉しそうに笑みを浮かべた。
「ニャンニャンは無いだろ?俺は虎、密林の王者様なんだぞ?」
ダウドは屈み込み、丈夫そうな牙を覗かせて、エレベーターから降りて来た幼女に笑いかける。
「みつりんのおーじゃさまって、なぁに?エラい人?」
笑いながら首を傾げたアリスに、
「エラいかどうかは判らんが…、まぁ強い人だな。あとエロい人だ」
そう応じつつ、ダウドは何故か胸を張る。
「つよい人?じゃあ、ユウトもみつりんのおーじゃさま?」
アリスの無邪気な問いに、ダウドはニヤリと笑うと、
「ま、あいつは山の姫様、ってとこか?」
ごつい、大きな手をアリスの頭に乗せ、クシャクシャっと撫でた。
一騎当千という言葉を、その文字通りに体現してしまう、国内最強の調停者。
デスチェイン(死の連鎖)の二つ名で讃えられる、幾多の敵を屠って来た男の手はしかし、その事実を感じさせないほどに
優しく、幼女の頭を撫でている。
ユウトを見慣れているアリスは、大柄な白虎を前にしても物怖じせず、されるがまま、気持ち良さそうに目を細めた。
「それより、ちゃんとユウトには言って来たか?出かけるって」
アリスは頬を膨らませてダウドに訴えた。
「言ってない!みんながめーわくするから、ダメだって言うんだもん!アリス、ちゃんとめーわくかけないように、いい子に
するのに!」
ブルーティッシュ本部は、確かにメンバーの住まいではあるが、職場である。
客分として滞在しているユウトが、まさかアリスに好き勝手に出歩いて良いと言えるはずも無い。
(別に気を遣わんでも良いんだがなぁ…。子供の一人や二人うろつき回った所で、それほど支障がある訳でもなし…。機密エ
リアや危険な場所なら、さすがに見張りのメンバーが引き止めるし…)
「ああ、そうだ…」
ダウドはアリスの顔を見つめたままぽつりと呟くと、
「どうだ?俺も暇なんだが、一緒に出かけるか?」
と、笑いかけながら尋ねてみた。
「おでかけ?」
「ああ。こっちに来てからはろくに外を出歩いてないんだろう?どうだ?」
「面白い?」
興味を覚えたのか、アリスは期待に満ちた眼差しで、ダウドの金色の瞳を見つめた。
「おう。面白いぞぉ!たぶん」
「行きたい!」
目をキラキラさせて自分を見上げるアリスに頷くと、
「よし!ならさっそく出かけるか」
ダウドは携帯を取り出しつつ、エレベーターの下りボタンを押した。
「そうだなぁ…、喜びそうなのは、動物園とか、遊園地辺りか…?一応、連れ出す事はネネに伝えておいた方が良いだろう…」
「…という訳で、お姫様、ダウドが連れて行ったわ」
「まぁ、連絡がつく状態になっているなら、そんなに心配じゃないけど…」
ダウドがアリスを伴って外出して間もなく、執務室で、ソファーにかけて向き合ったネネとユウトは、そんな言葉を交わし
ていた。
「…それに、ダウドが一緒に居るなら、誰も手出しできないだろうし」
二人の間のテーブルでは、薄く、凝った装飾のティーカップが芳しい湯気を上げている。
アップルティーの香りが漂う蒸気越しに、ユウトはもぞっと身じろぎしながら、ネネの顔を見つめた。
「ごめんねネネさん?」
耳を寝せ、大きな体を縮め、上目遣いに自分を見つめて謝った金熊に、灰色の猫は僅かに首を傾げた。
「ダウド、お休みだったんでしょう?そうでなくとも、ボクらの事、色々と迷惑かけてるのに…」
「迷惑なんて…」
ネネは微苦笑し、ティーカップを手に取り、息を吹きかけながら続ける。
「それに、フワ君のおかげで助かってるわ。ダウドともウマが合うみたいだし」
微笑むネネの言葉を、ユウトは微妙な表情を浮かべて首肯する。
寡黙で無表情、自己主張が乏しいタケシ。
大雑把で豪放、声も態度も大きいダウド。
全く似ていないにも関わらず、何故かあの二人は気が合うらしい事が、ネネにもユウトにも判っている。
「ただ世話になるのも悪い」
青年はそう主張し、ブルーティッシュの実働部隊に臨時編入させて貰っている。
リーダーながら、自ら現場に出る事の多いダウドは、そんなタケシを面白がって連れ回している。
連れ回しているダウドは、恐らくはタケシの実力を推し量っているのだろうと、ネネは見当をつけていた。
(それにしても、ユウトは彼を何処で見つけて来たのかしらね?あれだけの腕の調停者が無名だったなんて…。フリーの調停
者の情報も、もう少し集めてみるべきかしら…)
恐らく、あの若い客人は、ブルーティッシュの幹部達にも匹敵する実力を持っている。
ダウドから青年の働きぶりをかいつまんで聞かされたネネは、タケシの事をそう評価していた。
「最初こそ、ウチの宿六がいきなりケンカをふっかけたせいで、どうなる事かと思ったけれど…。懐が深いわねフワ君」
「懐が深いっていうか、何ていうか…」
ユウトは眉根を寄せて考えた後、
「タケシって、怒るとか、イライラするとか、そういうのが無いんだ。理由も無く殴られたって、たぶん怒らない」
「理由無く殴られても、赦してしまうわけ?」
「う〜ん…、赦すんじゃなく、怒らないっていうだけ。怒らないけれど、殴った相手はただじゃ済まない。反射的に反撃が出
ると思うし…」
金熊はティーカップを掴み、ふぅふぅと息を吹きかけて冷ましながら、目を細めて思案しながら続けた。
「上手く言えないけれど、タケシの場合、理不尽な仕打ちや、理由の無い攻撃にも、怒らないんだ。怒らないで、ただその状
況を受け入れて、しかるべき対処をするだけ…」
ネネはユウトの言葉を聞きながら「なるほど…」と小さく頷いた。
初めて会ったあの日。タケシはダウドが放った殺気に、過剰なまでの反応を示した。
だが、ユウトに止められ、敵では無いと諭された後の青年は、まるで憑き物が落ちたかのように、一瞬前まで見せていた苛
烈な攻撃性を失っていた。
恐怖からの反応にせよ、怒りからの反応にせよ、事情を理解した後も、心の揺れはある程度引き摺られるはずである。
一瞬で対応が切り替えられていた、あの時の青年の様子は、確かに普通では無いと感じられた。
(何と言うか、機械的な…?)
ネネはあの時の青年の様子を、そう感じていた。
「記憶を失ってる事と関係があるのか…、それとも元々ああいう性格なのか…、とにかく、感情が顔にも態度にも出にくいん
だ。最近はまぁ、ちょっとマシになってきたけど…」
ズズッと紅茶を啜るユウトの前で、ネネは「ふ〜ん…」と小首を傾げる。
「そういえば…、行動が突発的な辺りとか、ちょっとシバユキ君と似てるかしら?」
「…あ〜、言われて見れば…。里帰りした時に会ってるけど、確かに気が合うみたいだった」
「でも、シバユキ君の余所余所しさは、外からの客に対してだけよね…。屋敷の皆には、それなりに色々な顔を見せるんでしょ
う?」
「シバユキの場合は、単に堅いだけだもん。ああ見えて結構苛烈な性格だよ?」
「…それはまぁ、知っているわ…」
ネネはティーカップを口元に運びつつ、眉間に皺を寄せ、微妙な表情でぼそりと呟く。
「そうだ、里帰りといえば…、彼、ユウヒさんとはどうだったの?」
「仲良しだった」
即答したユウトは、軽く肩を竦める。
「兄さんもタケシに興味持ってたし、タケシの方も兄さんの事気に入ったみたい」
「…その興味というのは、彼の奇妙な気配についても?」
「何も言わなかったけれど、たぶんその事もいくらかは。どっちかって言えば、今のタケシ自身の性格っていうか、性質の方
に興味を持ってたみたい。んふふ!随分と気に入ったみたいだったよ」
嬉しそうに微笑むユウトに笑みを向け、手にしたティーカップに視線を落としながら、しかしネネは別の事を考えていた。
(あの気配、ユウヒさんが気付かないはずがないわ…。フワ君のあの奇妙な気配…、神将の血のざわつき…。…あの女の…、
レヴィアタンの気配にも良く似ている…)
「ネネさん?」
急に声をかけられ、ネネはユウトに視線を戻す。
「どうしたの?難しい顔をして…」
「いえ、何でもないの…。ユウヒさん、元気にしているかしら…」
「元気だよ。相変わらず化け物じみてる。中年太りなのかなぁ?前よりちょっと太ったけど」
「幸せ太りじゃなくて?」
「あ〜!それもあるねぇきっと!んははっ!」
微笑みながら首を傾げて見せたネネに、ユウトは可笑しそうに、声を上げて笑った。
『ぶぁくしゅっ!!!』
ネネとユウトが顔を見合わせて笑っていたその頃、雪深い奥羽の山奥に、凄まじいクシャミが響き渡った。
険しい山肌にへばりついていた乾いた粉雪が、その音でささーっと崩れ落ち、木々の枝葉にしがみ付いていた雪と氷柱が、
至る所で落下する。
露天風呂の湯を波立たせ、湯気を吹き飛ばすほどの盛大なクシャミを放った赤銅色の巨熊は、「む?」と首を傾げた。
「ユウヒ様?もしやお風邪でもめされたのでは…」
同じ湯に浸かっていた、比較的小柄な柴犬の青年が、爆音のようなクシャミに耳を痛め、顔を顰めながら尋ねる。
「いや、心配ない。大方、誰かが何処ぞで、俺の噂話でもしているのだろう」
尋ねるシバユキに、ユウヒは手ですくった湯を顔にかけ、擦りながら応じた。
朝稽古の後、軽い一風呂を楽しみ、汗を落とすのは、ユウヒの日課である。
とある理由により、他者を伴っての入浴を嫌うユウヒではあったが、幼い頃に引き取り、使用人ながらも弟同然に扱ってき
たシバユキについてだけは例外であった。
一方、使用人として、そして付き人としてユウヒに仕えるシバユキも、言葉遣いこそ常のままながらも、二人だけの時には、
稀に少々砕けた態度を見せる。
「案外お嬢様かもしれませんよ?秋を越してまた太ったのではないか、などと…」
当人は気付いていなかったが、今日のシバユキは鋭かった。
「有り得るな。自分の事は棚に上げ、そんな話をしておるやもしれん。…さて、そろそろ上がるか」
ユウヒは低く笑いながら応じると、その巨躯から大量の湯を滴らせ、湯気を纏って立ち上がる。
それを見たシバユキはさっと湯船から上がり、頭に乗せていた手ぬぐいで手早く体を拭い、先に脱衣場へと戻ってゆく。
先に素早く着替えを済ませ、主の召し物を用意したシバユキは、僅かに目を細め、脱衣場に戻ってきたばかりの赤銅色の巨
躯を見遣った。
たった今締めたばかりの、六尺褌の上にせり出した、熊の太鼓腹…。
中に詰まっているのは大半が筋肉とはいえ、柔らかな皮下脂肪がその量を順調に増やしている事は、認めざるをえない。
手早く着替え終え、畳んだ特大作務衣を胸の前に持ち、難しい顔をしているシバユキに、ユウヒは首を傾げて問いかけた。
「どうしたシバユキ?」
シバユキは、衣類を受け取ろうと歩み寄った主の顔ではなく、自分が二人で手を繋がらなければ腕が回りきらないであろう、
特大の太鼓腹に視線を固定しつつ、
「…ユウヒ様、失礼します…」
と、断りを入れてから、長い被毛に覆われた、その腹に手の平を押し当てた。
「何だ?」
腹をまさぐるシバユキの手を見下ろしながら、ユウヒは首を捻る。
「…ユウヒ様…。申し上げ難いのですが…」
「む?」
「先程の話を蒸し返すようですが…、この時期、こまめに体重計に乗られた方がよろしいかと…」
被毛越しに皮下脂肪の感触を確かめ、真顔で進言するシバユキに、
「ふむ…。注意する」
ユウヒはこそばゆそうに目を細め、頬を緩めながら応じた。
「ただいま〜!」
夕刻、タケシに連れられたアリスが部屋に戻って来ると、
「お帰りアリス。って、何でタケシと一緒なの?」
ソファーに寝そべって雑誌を読んでいた金熊は、二人を見遣り、不思議そうに首を傾げた。
ネネから借りたファッション誌をテーブルに置き、立ち上がったユウトに、タケシは傍らの幼女を見下ろしながら応じる。
「ヤマガタ参謀に資料室を案内して貰っていたところへ、ダウドが連れて来た。騒がしくなっても悪いので、部屋に戻してお
くべきかと」
答えたタケシのズボンを掴んでいるアリスは、ユウトの顔を見上げ、ご機嫌に笑顔を浮かべている。
「どーぶつえんと、ゆーえんち!トラのおじちゃんにつれてってもらった!」
「おや。良かったねぇアリス!楽しかった?」
「うん!」
微笑んだユウトに、アリスは満面の笑みで頷く。
「あとね、あとねぇ!いっぱい教えてもらった!」
「ん〜?」
笑みを浮かべて頷いたユウトは、しかし一瞬後にそのままの表情で凍り付いた。
アリスが自分に向かって突き出した、小さな握り拳を見て。
人差し指と中指の間から、握り込んだ親指の先端を覗かせた拳を突き出し、
「ガッツポーズ!」
と、満面の笑みで声を上げたアリスの横で、
「………」
タケシはしばし無言のまま、幼女の手を見つめた後、
「こうか?」
真似をして、ユウトにそのサインを示した。
プチン、と、音が聞こえたような気がして、タケシとアリスは顔を見合わせる。
二人の前で俯き、フルフルと肩を震わせていたユウトは、
「…あ…、あ…、あんの…」
目と口の端を吊り上げ、牙を剥き出しにした凄まじい形相で、顔を上げた。
「あんの、ほでなすがぁあああああああああああああああああああああああああっ!!!」
獣のような咆哮を上げ、ドアを蹴り開けて部屋を飛び出して行くユウト。
ノブが壊れ、開け放たれたまま、ギィッ…、と音を立てて揺れるドアを振り返っていたタケシとアリスは、顔を見合わせ、
首を傾げた。
その後、夕刻より自室でDVD鑑賞を楽しもうとしていたダウドは、部屋になだれ込んだユウトにより、マウントポジショ
ンからの拳の雨でボコボコにされた挙句、ネネにこっぴどく怒られ、五階にある執務室の窓から蹴り落とされる事となった。
なお、この日を境に、アリスを一人ではダウドに近づけないよう、ネネとユウトは常に気を配るようになる。
そして、例のサインの意味が気になり、意味を尋ねたタケシは、
「訊いちゃダメ。あとやっちゃダメ」
と、不機嫌そうなユウトにあしらわれていた。