第十六話 「タケシとダウド」
立ったまま熱いシャワーを全身に浴びながら、白虎はちらりと、傍らの椅子に腰掛けて、同じくシャワーを浴びている男に
視線を向けた。
美青年と呼べる整った横顔。切れ長の鋭い目には、光を飲み込むような漆黒の瞳。
すらりとした長身は引き締まり、無駄な肉は全くついていない。
体のあちこちに傷痕が残っているが、大半が古傷であり、新しいものはほとんど無い。
どちらかと言えば細身のシルエットだが、そこかしこに筋肉のラインがくっきりと浮き上がった、鍛え抜かれた体付きである。
が、ダウドの視線が最も感心を示しているのは、
「しっかし…、でかいなおい…」
タケシの股間だった。
「そうか?」
シャワーを顔にかけながら応じたタケシに、ダウドは呆れたような感心しているような、微妙な顔を見せた。
ブルーティッシュ本部の地下にあるシャワールーム。
深夜の仕事を終えた二人は、連れだって汗を洗い落としに来ていた。
「「そうか?」って、サラッと言うがな…。えらくでかいぞ?化物じみてやがる…」
青年は興味なさそうに「ふむ」と頷くと、ダウドの股間に視線を向けた。
「太いな」
「まぁな。長さはまぁ並の上ってとこだが…」
応じたダウドはアピールするように背を反らし、腰を突き出す。
「自信はあったんだが、総合サイズじゃお前のには負けるなぁ。がははははっ!」
白虎は豪快に笑うと、
「そんなにでかいと、アレん時なんか大変だろう?相手もさぞ良い声上げるんじゃあないか?」
右手の親指と人差し指で作った輪に、左手の指を刺したり抜いたりしながら、下品な笑みを浮かべる。
「アレ、とは?で、そのサインは何だ?」
自分を見上げ、真顔で尋ねるタケシに、ダウドは少し呆れたような顔をする。
「お前、妙な事には詳しい割に、結構色々な事を知らないな…。つまりだな、そのサイズならセックスん時、相手が喜ぶだろ
うって?」
シャワーヘッドを取って椅子に腰を降ろし、分厚い胸板の被毛に押し当てて、中に湯を送り込んでいたダウドは、
「ふむ。セックスの経験が無いので、それは解らない」
タケシがさらりとそう答えると、「あ!?」と、驚いたような声を上げ、動きを止めた。
「無い!?」
「記憶に残っている限りでは、無い」
頭からシャワーをかぶり、黒髪をザカザカとかき回して洗っている青年を、白虎は痛ましそうな目で見つめた。
「勿体無いヤツだなお前…。顔は良いし、背は高いし、腕は立つ。おまけにスタイルも良くて物知り。まぁ、調停者って職業
には難があるが、モテない事が不思議だ…。あぁ、アレか?出会いの場が無いだけか…?絶対に女に困ってはいないと思って
いたんだが…」
そう、胸板をガリガリ掻きながら言った後、ダウドは何かに思い至ったのか、耳と尻尾をピンと立てた。
「するとアレか?ユウトともまだやっていない…、と…?」
「ああ」
またしてもさらりと頷いた青年を、ダウドは「ふぅん…」と唸りながら眺め回した。
「ユウトは好みじゃあないか?」
「好み、好みで無い、という判断基準では評価していない。もっとも、轡を並べる相手としては、これ以上望むべくも無い相
棒だが」
淡々と応じた後、青年はピタリと動きを止め、思案するように目を細めた。
「…傍に居て、居心地が良いと感じるのは、好みだという事なのか?」
まるで、重大な件について慎重に思案するように、顎に手を当てて考え込んだタケシを見たダウドは、
(…あぁ…、こいつ、色々とダメだ…。ガキみたいに考え込みやがって…)
思わず苦笑いを浮かべ、ワシワシと首周りを擦った。
「ま、そこはじっくり考えてみろ。…いや、考えるんじゃあないな、感じられる事だ。自然に判って来るだろう」
虎の顔に思いの外優しい表情を浮かべ、青年にそう言葉をかけたダウドは、
「しかし勿体無いな…。一つ屋根の下に、アリスとユウトと三人暮らしなんだろうが?」
表情を一変させ、下卑た笑いを口元に張り付かせながら、嬉々として話し始める。
「コブ付きとはいえ、夜這いの一回でもしかけてやりゃ…、あぁ、ダメか…。一緒に寝てるんだったな、あの二人…」
さすがに、アリスと一緒に寝ている所へ夜這いに行け、とは言わないだけの常識は持っていたようである。
「俺だったら間違いなく口説くぜ?…まぁ、ふられたけどな…」
ダウドが苦笑いしながら呟くと、何かを考え込んでいたタケシは、ボソリと囁いた。
「ユウトは、魅力的なのか?」
「だなぁ。ま、他種の目から見ても良く解らんらしいが、熊の中でいうならベッピンらしいぞ?」
シャワーを股間に近付け、入念に洗いながら、白虎は続ける。
「体型はまぁ好みが割れるトコだなぁ。俺としても胸は物足りんが、反面尻は見事だ。あ、ユウトには言うなよ?あいつ女っ
ぽくないデブ胸と体型の事、結構気にしてるからな」
「了解した」
タケシが頷くと、ダウドはシャワーを止めて立ち上がり、伸びをしながら浴槽に向かった。
「あ〜、生き返るぜ…」
広い浴槽に身を沈め、満足げに声を上げたダウドの正面に、遅れて体を洗い終えたタケシも、静かに身を沈める。
二人とも男のシンボルを全く隠そうとせず、浴場は今まさに大公開時代。
「ネネも言ってたが、気にする事は無いんだぞ?ユウトの仲間なら俺達の友人だ。泊めるぐらい何でも無い」
タケシは滞在期間中、手伝いとしてブルーティッシュの任務に参加すると申し出ていた。
「宿泊と食事、そしてアリスの検査を無償で引き受けて貰った借りを返したい」
そんな青年の申し出を聞いたダウドとネネは、初めこそ当然遠慮したが、
「噂に聞くブルーティッシュの仕事を間近で見るのは、俺にとってもプラスになる」
とのタケシの言葉に、結局は折れたのである。
ダウドの言葉に頷きながら、タケシは口を開いた。
「だが、実際のところ、俺にとっても学ぶところが多い。使って貰えるのは実に有り難い」
「ま、こっちも助かってるがな…」
白虎は手ぬぐいで顔を拭いながら、楽しげな笑みを浮かべて応じる。
一般常識に疎く、必要な時以外はほとんど口を開かず、人付き合いも決して上手いとは言えないタケシは、参加当初こそブ
ルーティッシュのメンバー達からは胡散臭い余所者といった目で見られていた。
しかし、たった数日間の内にその能力を遺憾なく発揮し、言葉ではなく、行動で実力を示したタケシは、古参のメンバーか
らも認められ始めている。
「しかし惜しいなぁ…。轡を並べて再確認したが、良いモノ持ってやがる。ますますお前が欲しくなったぜ」
ダウドは声を上げて笑うと、
「おっと。欲しいってのは戦力としてだからな?あっちの意味じゃないぜ?」
と付け加えた。
「…?あっちというのは、どっちの意味だ?」
「判らなけりゃそれで良い」
首を傾げた青年に苦笑いし、ダウドはザバッと、筋肉質のゴツい体躯から湯を滴らせながら立ち上がった。
「お疲れさん。先に上がるぜ?すっかり遅くなった、飲んで寝るか…」
が、白虎が湯船から足を踏み出したとたん、浴室内に切羽詰った声が響く。
『おくつろぎ中のところ、申し訳ありません!』
「アンドウか、どうした?」
『繁華街再開発区域で危険生物発見の報がありました。サブリーダー、参謀共に調停執行中で連絡が取れませんでしたので、
出撃許可をお願いします!』
「…今夜は大繁盛だな…。準備が整っている隊はどこだ!?」
浴室内のスピーカーから流れた男の声に、ダウドは叫ぶように応じた。
『第6小隊がB(ベーシック)で待機中、車も準備できています!』
「俺が出て指揮をとる。四分で行く。すぐ出られるようにしておけ!」
『了解!』
スピーカーから視線を外し、更衣室へと視線を向けたダウドは、少し目を見開き、次いで苦笑する。
湯船に居たはずのタケシは、体を大雑把に拭い、すでにケンケンしながらズボンを穿いている所だった。
「働き者だなぁおい」
ダウドは笑みを浮かべてそう呟くと、タオルで逞しい胸板を拭いながら、浴室から駆け出した。
「首都では事件が少なく、仕事を探すのも一苦労だったとユウトから聞いていたのだが…」
「それはそうだ。こうやってウチが即座に対応しているからな、フリーには仕事が回り難いだろう」
自分達を含めた6人のメンバーが乗り込んだジープの荷台で揺られ、現地へと運ばれながら、青年は隣に座るダウドに尋ね
ていた。
「だが、ここ一ヶ月ばかり、事件が増えてるのは確かだ…」
白虎は思案するように目を細めながら続ける。
「港からはほとんど入って無いにもかかわらず、あちこちで危険生物が見つかる」
タケシが訝しげに眉をひそめ、口を開きかけたその時、運転手から声がかかった。
「間もなく現場です!準備を!」
青年は発しかけた問いを呑み込み、瞬時に思考を臨戦状態のものへと切り替えた。
「うっぷ…!ひでぇなこいつは…!」
メンバーの一人が、顔を顰めて口元を押さえながら呟く。
整備途中の道路の脇、プレハブの現場事務所の裏手には、凄惨な殺戮の跡が広がっていた。
立ち込める血臭の中で、強力なライトに照らされた犠牲者は、少なく見積もっても五人。
人数を特定できない理由は、至って単純である。
遺体がバラバラになって散乱し、混じり合っているので、何人分の死体なのかが一目では判断できないのだ。
たすきのように装着した革のハーネスで、愛刀である巨大な剣を背に固定したダウドは、腕組みをして現場を見回す。
ブルーティッシュのユニフォームでもある濃紺のジャケットを、袖を捲り上げて着用した、雄々しく精悍なその姿は、本部
内でダラダラと過ごし、ネネの目を盗んでは書類を放置して飲みに出歩く、がさつで大雑把でだらしない虎と同一人物には見
えない。
「被害者はこの傍の道路で作業をしていた建設作業員と、交通整理のようです」
「傷は噛み千切られたようになってますね。損傷が酷くて、合いません」
「食われたか、持ち去られた部位もあるようです…。遺体が揃いません…」
「どれも内臓がえらく食い荒らされてるぜ…」
「こりゃ、捕縛対象10匹は下らないんじゃないか…?」
現場を調べたメンバーから報告を受けていたダウドは、凄惨な現場から少し離れた、暗がりで蹲っているタケシに気付いた。
「どうした?気分でも悪いか?」
声をかけたダウドを振り向かぬまま、アスファルトに跪き、路面を凝視していたタケシは、ゆっくりと視線を前に向けた。
視線の先、道路脇には、掘削された穴が黒々とした口を開けている。
「あの穴は?」
「道路の整備の際に見つかった旧下水路を、埋め直していたんだろう」
「旧下水路…?」
タケシが胡乱げに聞き返すと、ダウドは旧下水路について簡単に説明を始めた。
首都の地下には、戦前に使われていた下水路が今もなお残っている。
戦後の復興に伴い街並みが整備され、下水管が巡らされた後は使用されていないが、無計画に、それこそアリの巣のように
張り巡らされた旧下水路は、かかる費用の都合上、探して埋める事もされずに放置されているとの事だった。
「普通は地下4〜50メートル辺りを通っているが、岩盤を避けたのか、時折こうやって浅い所を通っている箇所もあってな。
危険といえば危険なんだが、お役所は出費を嫌って積極的に探そうとはせん。たまにこうして見つかった場合に、埋める費用
を出すだけだ」
タケシは視線を手前に戻し、すぐ目の前の地面を見つめ、指でなぞる。
「何かあるのか?」
ダウドは金色の目を細めて路面を子細に眺め、そして気が付いた。
ローラーをかけられた後の、真新しいアスファルト。そこに残る筋のような数本の線。
素早く動かされたダウドの、鋭く、精密な眼球は、そこかしこに残っている同じような筋を見つけ出し、金色の光を強めた。
「…爪跡か…」
例え日の光の下でも、人間の目で見つけ出すのは困難な程の微かな痕跡。
実際に、ダウドも近付くまでは全く気付かなかった、ごくごく浅い、細やかな物である。
白虎は改めて、それらを目ざとく見つけ出した青年の注意深さに感心する。
「旧下水路の中はどれほどの広さだ?人間が立って入れる程だろうか?」
「ああ。俺やユウトが手を伸ばしても天井には届かん。戦時中は防空壕にも利用されたらしいからな」
「ならば、危険生物が身を潜めるには都合が良いな…」
タケシはぽっかりと口を開けた穴を見据えながら、ぼそりと呟いた。
「襲った後、旧下水路に逃げ込んだ…。そう見てるんだな?」
「正確には少し違う。旧下水路から現れ、そして帰って行ったのだと思う」
ごくあっさりと言ったタケシに、ダウドは「ふん…?」と声を漏らし、目を細める。
言葉を交わす二人の話が一区切りしたその時、二人の元へ、現場を調べていた他のメンバー達がやって来た。
「相手は強力な顎を持つ四足歩行タイプと思われます」
「恐らくハウンドか何かでしょうね、一般道を走って逃げたか…」
「逃走経路を予測し、非常網を張りましょう」
ダウドはメンバーに頷き、タケシに視線を向けた。
「網の張り方と捜索は任せる。俺はこいつと一緒に、少々調べたい事がある。外すぞ?」
旧下水路内を走りながら、ダウドは前を駆ける青年に尋ねた。
奥から漂ってくる血臭を、鋭い嗅覚で捉えながら。
「襲撃者の正体、お前は何だと思っているんだ?」
灯りのない下水路内を照らすのは、二人がそれぞれの前方に浮遊させている、無色透明なガラス玉のような球体、ライトク
リスタルと呼ばれるレリックのみである。
使用者の意志で追走させるように動かす事もできるので、こういった状況では、手を塞がずに行動できるという大きなメリッ
トがあった。
「ウチの連中の見立てじゃハウンド系だが、お前はどう考えている?」
「恐らくハウンドではない。被害者の食い荒らされ方を見たか?」
「さらっとはな」
ダウドはげんなりして顔を顰め、凄惨な現場を思い出す。
「大腿骨が露出するほどに大腿を食い荒らされていた。腰回り、肛門付近から内臓を引き出されていた者も三名。反面、首が
無傷な死体すらあった。これは、ハウンド系の合成クリーチャーとしては不自然だ」
確信めいた響きを伴うタケシの言葉を聞き、ダウドはヒュウ、と口を鳴らす。
「で、どう不自然なんだ?」
「ハウンドの狩猟は、まず獲物を行動不能にする事から始める。これは、相手が小動物であっても変わらない、種の根源的な
狩猟傾向だ。小型ならば首などの急所に深手を、大型ならばまずは足をという具合に、的確に、合理的に狩猟を行う。それな
のに、遺体の多くは逃げるための足が無傷だった。ハウンドに負わされたにしてはおかしい」
淡々と述べたタケシは、走りながらなおも続ける。
「もう一つ、現場に残されていた爪痕は、形から察するに、着地の際など、体重が掛かった際に微かに擦れたものだ。だが、
あまりにも浅い。ノーマルタイプのハウンドならば爪の出し入れはできない。弄られてでもいない限りはな。ヤツらが駆けた
のなら、固まりきっていないアスファルトには、もっと深く爪痕がつくはずだ。残っていた爪痕が浅かった事から、対象は爪
を上げるか、出し入れできるタイプ…、恐らくは猫科だと推測できた」
「だが、死体には猫科の肉食獣に襲われたような、派手な爪痕は無かったぞ?」
「死体を食らうのに、大げさに爪を立てる必要は無いからな」
「何?」
訝しげに問い返したダウドに、青年は当然のように説明する。
「調べれば判る事だが、被害者の死因は四肢を切断された事によるショック、及び失血死だ。ヤツらは被害者が生きている内
には、爪の先、牙の一本も触れてはいない」
「…何らかの能力で仕留め、それから食った?」
「流れ出たり吹き出たものにしては、血痕の一部は不自然に飛び散っていたからな。おそらく衝撃波、真空波のような能力で
仕留めた。そういう事だろう」
「切断面は食い荒らされていたが、よく気付いたな?」
「血が流れる傷口をほじくるのも、捕食戦闘タイプの危険生物に散見される習性だからな。食い荒らされていると気付いた時
に、傷口は見た目以上の情報を含んでいると仮定し、推測を立てた」
説明を聞きながら、ダウドは舌を巻いていた。
「ほんの僅かに残った痕跡から、確実に敵を追い詰め、屠る…。その目に捉えられたら確実な死、か…。まるで欧州の言い伝
えにあるバジリスクだな…」
「バジリスク?」
走りながら、振り返りもせずに尋ねる青年に、ダウドは口の端を吊り上げながら答える。
「猛毒を持つ怪物の名前だ。物を介して間接的に触れただけで毒に侵される。ついでに言えば目を合わせただけで死に至るっ
て伝承まである」
現場を子細に観察し、僅かな痕跡から対象の姿を具体的に導き出す、類い希な洞察力。
そして、その思考を支えて推理を裏打ちする、並の調停者は習得していないレベルの、危険生物に対する深い知識。
さらに、ブルーティッシュの幹部クラスをも凌駕する戦闘能力。
(ちくしょう!ますます欲しくなるなぁおい!)
ダウドは思わず笑みを浮かべ、青年の背を見つめていた。
「…で、その口ぶりだと、正体はほぼ特定しているんだろう?教えろよ」
「俺の知識の中に、条件に合致するタイプは一種しか居ない。おそらくだが…」
青年は言葉を切り、急停止した。
同時にダウドも急制動をかけ、背に担いだ巨大な剣に手をかける。
「…ドゥンだろう…」
「…正解だったな…」
青年と白虎の視線の先に、赤々と燃える光点が6つ、静かに灯っていた。
ライトクリスタルの光がかろうじて届く闇の先、照らし出されたのは真っ赤な体毛に黒いストライプの入った、体長4メー
トル近い、三頭の虎の姿。
赤い虎を見据えたタケシは、この青年にしては珍しい事に、嫌悪するように顔を顰めた。
「今気付いた…。理由は解らないが、俺はどうもこいつらの外見が好きではないようだ。昔何かあったのだろうか?」
「奇遇だな。俺も虎だが、赤いのは嫌いだ」
タケシは瞬時に召還した刀を抜き放ち、右手で構え、左手には逆手に鞘を握る。
その横でダウドは足を開き、背にした巨剣の柄を握り込んだ。
ハーネスと一体化している革のベルトに支えられた黒い巨剣には、一見すると判らないが、実は刃が無い。
刃挽きされたように刃が潰れている巨剣はしかし、ダウドの腕でベルトから引き抜かれ、
「起きろ、ダインスレイヴ…」
名を呼ばれると同時に拘束が解除されると、微かな唸りと共に、気流による不可視の刃を形成し、臨戦形態に移行する。
大剣型レリックウェポン、ダインスレイヴ。ダウドはその巨大な凶器を、軽々と一振りし、正眼に構えた。
現在確認されている中でも最高レベルの力を有するとされるこのレリックは、ダウド以外の何者も、使いこなすには至らな
かった。
強力過ぎるその力の制御はもちろん、剣そのもののサイズと重量から、取り扱いが極めて困難なのである。
「第二種上位が三頭か…、やれるか?」
「問題ない」
ダウドの問いに、鋭く目を細めたタケシが短く応じる。
喉の奥で雷鳴のような唸りを発していた三頭の虎、ドゥンは、いつでも飛びかかれるよう、姿勢を低くして前進を始める。
その一歩目が、ある一線を踏み越えた瞬間、青年が床を蹴った。
自分の身体を前へと蹴り出すような、極端な前傾姿勢で突進するタケシに、右手のドゥンが間合いの外で前脚を振り上げる。
振り下ろされたその爪の先で、ギンッと音が発せられた。
青年はいささかも速度を緩めず、ただ自分の前方に意識を集中する。
放たれた不可視の真空刃は、疾走するタケシの眼前に展開された空間の断層に飲まれて消失した。
かつて、アリスを救出した潜入作戦でユウトが見せた、力場による障壁。
今青年が行使したのは、それを参考に編み出した、瞬間的な防壁展開技術である。
能力を無効化され、一瞬の戸惑いを見せたドゥンの間合いへ、タケシは速度を緩めぬまま踏み込んだ。
そして、自分の間合いにドゥンを捉えるや否や、即座に、刃を寝かせた刀を右から左へ横薙ぎに振るう。
赤い体よりもなお赤い深紅の血を、側頭部と肩口から迸らせ、斬撃を回避し損ねたドゥンが苦鳴の咆吼を上げる。
間髪入れず、振り切った腕と交差するように、青年の左手が振り上げられた。
逆手に握った鞘が、ドゥンの顎を下から強打し、その苦鳴を中断させる。
強制的に首を反らされたドゥンの喉へ、タケシは瞬時に逆手に握り直されていた刀を滑り込ませた。
刃を寝せ、鋭く突き込まれた日本刀によって動脈を絶たれ、頸骨を半ばまで切断されたドゥンは、大きく開けた口腔から鮮
血を溢れ出させる。
喉を貫かれたドゥンの胸に足を当て、止めとばかりに抉るように刀を捻って引き抜くと、絶命寸前の赤虎の体を蹴った勢い
そのままに、タケシは床に身を投げ出した。
怒号と共に横合いから振るわれた、いま一頭のドゥンの爪は、しかし転がって後退したその体にかすりもしない。
ダウドはその金色の瞳で、一瞬の内に行われた攻防の全てを、仔細に観察していた。
本来ならば小隊規模で当たるのが望ましいとされる、第二種上位の危険生物を圧倒する、まだ若い調停者…。
(居るもんだな、抜けたヤツってのは。人間でここまでの肉弾戦が出来るヤツが居るとはねぇ…。というよりも、本当に生粋
の人間かコイツ?)
愉快そうに目を細めた白虎は、剣を握る手を一度緩め、それからギリリと握り込んだ。
素早く間合いを離して身を起こし、残り二体となったドゥンを見据えて身構えるタケシ。
残る二頭の内、一方のドゥンが、獰猛な唸りを発しながら、青年めがけて地を蹴る。
それを迎撃すべく、刀を横に寝せて構えたタケシの脇を、黒白の突風が駆け抜けた。
青年に向かって飛び掛ったドゥンが、その突風に呑み込まれ、後方へと連れ去られる。
巨大な剣を腰溜めにして突っ込んだダウドによって、胴を剣で串刺しにされた赤虎が絶叫を上げた。
筋肉の塊のような大柄な体躯にも関わらず、タケシをも驚嘆させる、静止状態からの爆発的な急加速。
ドゥン達の目はもちろん、驚異的な動体視力を誇るタケシの目ですらも、かろうじて追える程の速度であった。
白虎が動いた後の闇に、白いストライプ模様の残像が鮮やかに残る。
飛び掛っていたドゥンを迎撃、さらに突進に巻き込んで駆け抜けたダウドは、そのままもう一体の脇を通り過ぎると、足元
の石板を踏み割りつつ、即座に急停止する。
そして、停止と同時に足を踏み締め、巨剣を勢い良く上へと振り抜いた。
胴を串刺しにされていたドゥンは、身体の半ばから脳天までを綺麗に両断され、連れ去られた勢いそのままに、鮮血の尾を
引いて通路の奥へと吹き飛んでゆく。
停止、そして剣の振り上げから、ダウドは一連の動作で身体を反転させる。
半身になって構えた頭上には、片腕一本で、高々と振り上げられた巨大な黒剣。
白虎の鋭い視線の先には、黒白の襲撃者を振り返る途中のドゥン。
タケシの目でも追いきれない斬撃が、下水道の天井を深々と断ち割りつつ、振り向く途中のドゥンに叩き付けられた。
巨剣は何の抵抗も無くドゥンの頭部と胸部を両断し、爆弾でも破裂したかのように、その下の床を爆砕する。
反射的に腕を上げ、目を庇ったタケシの体を、突風と、砕けた床の破片、そして赤い血が叩いた。
剣を振り上げつつ一体目のドゥンを両断し、そのまま振り下ろして残る一体を屠る、強烈極まる一太刀。
加えて、剣の重量を無視するかのような、青年の物を軽く凌駕する剣速。
とんでもない力技だが、同時に白虎が持つ桁外れの技量も垣間見せる、至高の剛剣であった。
(恐らく、本気のユウトよりもさらに速いな…。ユウヒさんにも匹敵する速度だ…)
頬に付着したドゥンの血を、手の甲でグイッと拭った青年に、実力の一端を見せた白虎が笑いかけた。
「がはははっ!済まん済まん!少々やり過ぎた。これはシャワーを浴び直さんとな」
「どうやらそのようだ」
タケシはダウドに微苦笑を返す。
青年が初めて見せる笑みに、ダウドは驚いたように目を丸くした。
絶対的な戦闘能力と、大雑把で豪放な人柄。
首都に来て、実際に会うまで想像していた最強の調停者の姿とはやや異なるが、自分が、このダウド・グラハルトという男
に、少なからず好意的な印象を抱いている事を、タケシは実感し初めていた。
引き返し、地上に戻ったダウドは、付近を捜索、封鎖中だった他のメンバーを呼び戻すと、現場の処理と、監査官への報告
を命じた。
タケシにはその辺りで休憩しておくように告げると、白虎は車に戻り、通信機を起動させる。
「アンドウ、秘匿回線でネネに繋げ」
『え?三十分ほど前に自室に戻られたようなので、もう就寝中かもしれませんよ?』
「構わん。なんなら俺が怒られる。一応急ぎの、真面目な用事なんでな」
『…了解』
笑いながら告げたダウドは、タバコを取り出し、一服つけながら少しの間待った。
やがて、通信機から漏れる音声のノイズが治まり、通信が特殊な回線で繋ぎ直される。
「起きてたか?ネネ」
『幸いにも着替えの途中だったわ』
条件反射でネネの裸体を頭の中でリアルに再現しつつも、そんな事はおくびに出す事も無く、ダウドは手短に状況を報告する。
「国内でも十数例だったはずだな?あんなゴツい、対部隊用の危険生物が街中にポンと放り込まれたのは…」
『そうね…。ドゥン自体も、確認できる限り、この国に持ち込まれた頭数は、片手の指で足りる程しか居ないはずよ』
「きなくさいな…」
『えぇ…』
ダウドは金色の目を細めて思案した後、静かに口を開いた。
「休む直前の所で悪いが、上を中心に召集をかける。トシキに話をして資料を出して貰ってくれ。戻って体を流し次第、フワ
を加えて緊急ミーティングをやる…」
前例が殆ど無いケースの発生。不自然な場所に住み着いていた危険生物。
白虎はこれらの陰に、不穏な何かを感じ取っていた。