第十七話 「不穏な気配」

「おかえり。今日は随分かかったねぇ」

青年が自分に与えられた部屋に戻ると、何故かユウトがそこに居た。

タケシがダウドと共にブルーティッシュの任務に参加した後、午前五時の事である。

「待っていたのか?」

「一回起きたら目が冴えちゃってね」

「アリスは?」

「んふふ〜!良い子にして、ぐっすり寝てるよ」

そう答えながら、ユウトはソファーから立ち上がり、机の上に置いていた鍋と皿に視線を向けた。

「お腹減ってない?クリームシチューとハンバーグ作ったんだけど…」

「…そう言えば、小腹が空いた」

思い返してみれば、昨夜八時からの九時間で、立て続けに三件の事件に当たっている。

タケシは疲労と空腹を覚えていた事に、言われて初めて気が付いた。

ユウトはタケシに、労うような柔らかい笑みを向けると、鍋と皿を手にして簡易キッチンへ向かった。

「それじゃあ温めるね」

タケシは頷くと、脱いだ上着をソファーの背もたれにかけ、腰を降ろす。

先にユウトが淹れてくれた緑茶を啜りながら、タケシはつい先程行われたミーティングの内容を思い出していた。



「旧下水路を廃絶するつもりは、政府には無い」

参謀のトシキは、会議室正面のスクリーン脇に立ち、そこに映し出された、首都の航空写真を横目で見つめながら、一同に

告げた。

ドゥンを討伐した先の任務終了直後、ダウドは幹部達を対象に、緊急呼集をかけた。

会議室にはサブリーダーのネネ、参謀のトシキ、各支部長、そして各部隊の隊長達と、主要メンバーが呼び出されている。

その中にはダウドと共に現地を確認した、カルマトライブのリーダー、客分の青年の姿もあった。

「古くに作られた物という事もあり、図面が失われているルートが大半だ。全ての正確な水路位置を知る者は、皆無と言って

いいだろう。なお、現在までに判明している分を重ねると…」

トシキは自分の傍の椅子に座っている、髪の長い細面の若い男に目配せした。

男はこくりと頷くと、手元の端末を操作し、スクリーンの航空写真に、現在解っているだけの下水路の図を重ねた物を表示

させる。

「む?」

表示された図を目にしたダウドは、僅かに身を乗り出した。

「…どうかしたの?」

「…いや…」

傍らのネネが小声で問いかけたが、ダウドは首を横に振って応じた。

地下水路の図を重ねた首都の姿を目にした瞬間、ダウドは微かな違和感を覚えていた。だが、その違和感の正体が判らない。

(何だ?何に気付いた…?それは些細な事か?それとも重要な事か?…まぁ良い、今は目の前の事に集中しろ。だが、忘れる

なよ…)

ダウドは胸の内で自問し、違和感の正体を探る事はとりあえず後回しにする事に決めた。

ただし、決してその違和感を忘れないよう、強く心に刻み込みながら。

「想像していたより、遙かに多いわね…」

ダウドから視線を離し、地図に視線を戻したネネは、顎に手を当てて目を細めながら呟く。

「確かに、これだけの旧下水路の大半が、埋もれもせずに放置されているとしたら…、色々な悪だくみに使えそうね…」

ダウドは自分の隣に座っているタケシをちらりと見ると、口を開いた。

「手間はかかるだろうが、調べる価値はある。俺とフワが入った旧下水路内だけでも、複数の危険生物、…そして人が入った

らしい痕跡も確認できた」

一同が視線を向ける中、白虎は険しい表情で続ける。

「空路、航路、陸路と、隙無く目を向けて来たつもりだったが…、とんだ間抜けだった。地面の下を使って、首都に不要な物

を持ち込んでいる連中が居る事は、ほぼ確実だ」

そこで一度言葉を切り、ダウドは一同の顔を見回す。

「事件がさっぱり減らないのは、ここに原因があると見た。…お前の意見は?」

ダウドはスクリーンの前に立つトシキに視線を向ける。

「先にも述べたが、不破リーダーとお前の見解、そして推理…、熟考したが、俺も同意見だ」

ダウドは頷くと、サブリーダーに視線を向ける。

「ネネ。旧下水路調査のために特別チームを編成する。お前が直に指揮して探査に当たれ」

「解ったわ」

「それと、各支部長は、ネネの要請に応じていつでも出動できる隊を、常時最低二つは確保しておくようにな」

ダウドはさらにいくつか、おおまかな指示を出すと、一同の顔をゆっくりと見回した。

「悪いが、しばらくは忙しくなるぞ?」



「おまたせ〜」

相棒の弾んだ声に、青年は回想を打ち切った。

気が付けば、部屋にはシチューの良い香りが漂い、ハンドバーナーで焦げ目を入れ直したハンバーグが上げる、香ばしい匂

いが充満していた。

テーブルの上にハンバーグとシチューが用意されると、タケシは礼を言って食べ始める。

青年と視線の高さを合わせるため、ユウトは床に直接腰を下ろし、テーブルに頬杖をついた。

「美味しい?」

「美味い」

短い返答に、ユウトは満足げに笑みを浮かべた。

タケシの返答はそっけないが、常に本心である。

初めこそ、その無表情さと感情表現の少なさに面食らいはしたものの、共に過ごす時間が増えて以後、この青年は感情を表

現するのが下手なだけなのだという事を、金熊は理解していた。

「一緒に任務についたりしてるみたいだけど、間近で見たダウドはどう?」

タケシはシチューを掬っていたスプーンを口元で止め、ぼんやりと何かを思い出しながら答えた。

「そうだな…。太かった」

「太い?」

(神経が太いとか、肝が座ってるとか、そういう事かな?)

一人納得したユウトは、タケシがダウドとのシャワールームでのやりとりを思い出しながら答えた事など、想像もしていない。

…さすがのタケシも、どうやら明け方近くまでの任務で、それなりに疲れてはいるようである。

「…そうだ。明日には話があると思うが、先ほど行われたミーティングの事を話しておく」

タケシはそう切り出すと、食事を続けながら、ミーティングの内容をユウトに話して聞かせた。



テーブルの上のワイングラスを手に取り、赤い液体を少し舐めてから、ネネはバスローブの裾を翻して振り返る。

その視線の先のダブルベッドには、全裸のダウドが仰向けに寝転がっていた。

腰から下には毛布がかけられているが、下着すらも身に付けてはいない。

白虎はタバコを咥え、煙が昇ってゆく天井を見上げながら、物憂げな表情で考え事をしていた。

「寝タバコは止めてって、言ってるでしょう?」

歩み寄ったネネは、白虎の口からタバコをスッと取ると、自分の口に咥えた。

「かたい事を言うな。焦がしたりはせん」

「ベッドに匂いがつくのよ」

不機嫌そうに反論したダウドに、困り顔で微笑みながら紫煙を吐き出すと、ネネはタバコを灰皿に押し付けた。

「で、どう?フワ君は」

「ん?あぁー、良いなぁ!」

白虎はベッドに手をついて身を起こし、口元に太い笑みを浮かべる。

「戦闘技術、知識、反応、危機対応、どれも超一流だ。ウチのメンバー中でも、あいつと同等かそれ以上のヤツは、俺やお前、

トシキやエイルを除けば、殆ど居ないだろう」

上機嫌で意見を述べるダウドに、ネネは少なからず驚いていた。

「随分高い評価ね?」

「一回でも現場を一緒にしてみれば解る。良いぞぉあいつは!記憶喪失だとか、過去の経歴が不明だとか、そんな事はどうで

も良くなるぐらいにな!」

声を上げて笑いながら、ダウドは続ける。

「ユウトにも言える事だが、狭い範囲で燻らせておくのは勿体ない。実に魅力的だ!」

愉快そうに言うダウドとは対照的に、ネネの表情には、僅かに陰りがあった。

「魅力的というのは、調停者として?それとも、プロジェクト・ヴィジランテの…?」

ダウドは笑い声を止めると、僅かに目を伏せているネネを、金色の瞳で見据えた。

「さて、どっちだろうな…。まだ判らん…」

ダウドはそう応じて肩を竦めると、「不服か?」と、短く尋ねた。

ネネは黙って首を横に振り、ベッドに歩み寄り、ダウドの傍らに腰を下ろす。

「私は、貴方の考えに従うわ。命を賭して貴方に添い遂げると決めたもの…。貴方が進む先を、共に目指すって…」

ダウドはしばらく黙った後、ネネの肩を抱き寄せ、その頬にそっと口付けをした。

意外な程に静かで、優しく、慈しみに満ちた、優しい口付けを…。



「地下から危険生物が…」

話を聞き終えたユウトは、腕を組み、難しい顔をした。

「首都外からも繋がっているルートが、何ヶ所かあるらしい。それらを全て見つけ出し、封鎖した後、旧下水路内の掃討作戦

を行う段取りだ」

説明を終え、茶を啜るタケシに、ユウトは微妙な表情で頷く。

「覚えてる?アリスの事件の時に、ボクらが潜入したタンカー…」

頷いた青年に、金熊は渋い顔で続けた。

「ああやって地方の港から運び込まれた危険生物やレリックは、きっとそのルートを辿って首都に来ていたんだ…。どうりで、

港と陸路をいくら厳重に警備しても、首都の事件が無くならないわけだよ…」

「同意見だ。これまで露見しなかったのが不思議…」

タケシは言葉を切り、目を細める。

不意に黙り込んだタケシを前に、ユウトは口を開きかけ、止めた。

相棒が何かに気付き、脳内で情報を整理している事を察して。

「…ユウト。首都での事件の頻度、お前が居た一年前と今現在とで、どう変化しているか、明日にでも確認してくれ。恐らく、

事件数はかなり増加しているはずだ」

「うん、分かった。…で、何に気付いたの?」

尋ねる相棒に、青年は思案するように目を細めたまま呟いた。

「まだ推測の域だが、おそらく裏で指揮している者が居る。何者かまでは判らないがな…。並の規模の組織ではそんな真似は

できまい。かなり大規模な組織が、旧下水路での危険生物搬入のバックについていると見て良いだろう」

「大規模な組織?」

聞き返すユウトに、青年はゆっくりと頷いた。まるで、自分も本心では認めたくないというように。

「ブルーティッシュと真正面から事を起こすのも厭わない。そんな規模の組織だ。…それが、この首都で何かをしようとして

いるのかもしれない…」



白い被毛に覆われた分厚い胸板に頬を乗せ、ネネは情事の余韻に浸りながら微睡んでいた。

ネネの髪をすきながら、ダウドは天井を見上げ、薄く目を開けている。

ミーティングでは口に出さなかったが、白虎もまた、タケシと同じ疑念を抱いていた。

この首都を標的にして活動している、何らかの組織がある。それも、かなり巨大な組織が…。

(…まさかとは思うが、可能性が無いとも言い切れんな…。気は進まんが…、じいさんにカマをかけてみるか…)

心の内で呟いたダウドは、目を細め、その金色の瞳に厳しい光を瞬かせた。



「任務ではないのか?」

翌朝、ダウドが運転するレモンイエローのビートルの助手席で、タケシは白虎の横顔を見据えて尋ねた。

「まぁな。が、全く無関係な訳でもない」

なお、バイク派のダウドは自分の車を持っておらず、このビートルはネネの愛車である。

車内には二人だけで、他に話が漏れる心配はない。青年はユウトと話しあった昨夜の推測について、今しがたダウドに話し

て聞かせた所だった。

「俺も昨夜、お前と同じような事を考えてな。で、手っ取り早く知っていそうな相手をあたってみる事にした」

「知っていそうな相手?」

「首都近辺最大の組織のボスだ。…ま、表向きは黒伏コンツェルンの総帥だがな。…あのじじぃから何処まで情報が引き出せ

るかだが…」

「待て。組織の頭だと知っているのに、捕縛していないのか?」

訝しげに尋ねるタケシに、ダウドは苦笑して応じた。

「まぁな…。というのも、証拠が全く無いから捕縛はできん。…っと、ここだ」

二人を乗せた車が右折して乗り入れたのは、都内でも屈指の大病院の駐車場だった。

「病院?ここに居るのか?」

タケシは車を降り、病院の玄関に向かって足を進めながら、先に立って歩くダウドに尋ねた。

「今日はここに来てるって話だ。出る前に電話で確認したからな、まだ居るだろう」

「電話で?誰に確認したのだ?」

「そいつの秘書だ。自慢じゃないが、ブルーティッシュのダウド・グラハルトと名乗れば、面会を断られる事は殆ど無い。特

にこっちの社会の住人達にはな」

院内に入ると、ダウドは受付にも待合室にも目をくれず、タケシを促して真っ直ぐに入院病棟へ向かった。

二人でエレベーターに乗り込み、ドアが閉まると、タケシは口を開き、小声で問いかける。

「先程、「今日は」ここに来ている、と言っていたな?そのボスとやら、入院患者でもあるまいし、何故ここに?」

「あのじじぃ自身は全くの健康体だ。入院病棟に居るヤツに用事があって来ているのさ」

ダウドはそう応じると、何やら思案するように黙り込んだ。

人の感情の機微に鈍感なタケシには気付く事ができなかったが、沈黙した白虎の目には、微かに、沈痛な光が灯っていた。



老人が、白いリノリウムの廊下を歩いてゆく。

その周囲には四人の男。いずれも黒ずくめで、サングラスをかけており、堅気の者ではないと解るだけの雰囲気を漂わせて

いた。

男達は老人を警護するように周りを固め、周囲に気を配りながら、老人の歩調に合わせて進んでゆく。

老人はある個室のドアの前で足を止めると、そのドアをノックしようと手を上げた。

「おい」

老人の手がドアを叩く寸前、突如かけられた声に、男達は弾かれたように振り返る。

老人は少し遅れてゆっくりと振り返ると、周囲に深い皺が刻まれた目に、白虎の姿を映した。

「…誰かと思えば、お前さんか」

自分を見つめて呟いた老人を見据え、ダウドは口の端を吊り上げた。

「聞きたい事がある。隠し立てすると為にならんぞ?」

「貴様…!無礼だぞ、この御方を…」

黒服の一人が声を荒げたが、老人は片手を上げてそれを制した。

「止めておけ。その男、ダウド・グラハルトじゃ」

老人の口から囁かれた名を耳にし、声を上げた男は、ビクっと硬直する。

「安心しろ新人。そっちが大人しくしてるなら、俺達は何もせん。もっとも、このじいさんに荒っぽい真似をしようなんて、

元からこれっぽっちも考えちゃあいないがな」

そう言うと、ダウドは口元に笑みを浮かべた。

その様子を見た青年は、どういう訳か、ダウドがこの老人の事を嫌ってはいないように感じた。

もっとも、他人の感情の動きに鈍感なので、そう感じたと実感したのは、帰還後にこの時の状況をユウトに話して聞かせ、

指摘されてからの事だったが…。

最大の調停者チームを束ねる、最強の調停者。その男が犯罪組織のボスに対して、好感に近い感情を抱いている。

青年にとっては、例えその場で感じ取れていたとしても、理解不能な心情であった。

「改めて、人払いを頼みたいんだが?」

ダウドの提案に、老人は首を横に振った。

「もうじき午前の面会時間が終わる。こっちの用事が済むまで待っとれ」

そっけなく断った老人の言葉に、ダウドは素直に頷いた。

「今日はそれなりに急ぎだ。ここで待たせて貰うぞ」

老人はダウドに頷き返すと、一人で病室へ入ってゆき、黒服達と二人が廊下に残される。

警戒している黒服達を、まるで居ないもののように無視した白虎は、腕組みをし、壁に背を預け、疲れたようにため息をつ

いた。

「じいさんが昼間っから病院、か…。…俺が思ってたよりも悪いって事か…、マユミの容態は…」

口の中で囁かれたダウドの呟きは、傍らに立つタケシの耳にも届かなかった。



「お客様なのでしょう?おじい様…」

「気にするな。待ってくれとるよ」

「少しだけ、声が聞こえました。ブルーティッシュのダウドさんでは?」

「ふむ…、そう言えば、お前とも面識があったんじゃったか…」

「ええ。それに、お見舞いにとゼリーの詰め合わせも頂きました」

「はは!そんな事もあったのう…!そう、あの男じゃ。ワシらの天敵じゃが…、ふふ…、まぁ、面白い男ではある…」

「おじい様…。私は嬉しいですが、昼間から病院になど…。今の黒武士会は、おじい様抜きでは機能しません。私になど構わ

ずに…」

「わしには、お前が一番大切なんじゃよ…。会の事よりも、ずっとな…」

「……………」

「それに、今日は急ぎの知らせもあって会いに来たんじゃ」

「急ぎの知らせ?」

「うむ。もうじき、ある組織が首都に攻撃を仕掛ける。ここも騒がしくなるじゃろう…」

「首都を…、攻撃!?ブルーティッシュと神崎家に守護された、帝が住まうこの首都を!?」

「ブルーティッシュと、そして恐らくは神崎とも、真っ向からやりあうつもりなんじゃ、あそこはの…」

「それは一体…?」

「黄昏じゃ」

「!!!」

「案ずるな…。お前には脅威は及ばんよ」

「…ごめんなさい、おじい様…。せめて私がお力になれれば良いのに…」

「お前は何も気にせんで良い。まずは体を治す事じゃ」

「でも…、私の体は…」

「…あの技術は、ほぼ完成しとる…」

「…え?」

「今は時間稼ぎがせいぜいじゃし、お前にも辛く、不便な想いをさせる事になるが、ひとまず命を繋ぐことはできる」

「…まさか…、意思と記憶の転送が…?」

「これから首都は騒がしくなる。その場しのぎに過ぎんが、一旦仮の体にお前の人格を転送し、都外へ脱出させる」

「都外へ?」

「うむ。その為に、お前のもうひとりのおじいちゃんは、組織を去り、お前がワシの孫じゃと悟られず、安全に暮らせる地を

探しておったんじゃ」

「霞のおじい様が!?そんな…、黒武士会を去ったのは、私のためだったのですか!?」

「…お前は、ワシらに残された最後の生き甲斐なんじゃ…」

「……………」

「ワシも一度行って、この目で見て来た。少々騒がしいが、それでも首都よりもずっと静かな、良い所じゃ。東護町という東

北の町なんじゃが、聞いた事は無いじゃろうな」

「…おじい様…」

「転送については、お前の決心次第じゃ。数日したらまた来る。それまでに、決めておいておくれ…」

「……………」

「では、またの、マユミ…」



「早かったな?」

「待たせてはいかんと思ってな」

ダウドは病室から出てきた老人に向き直ると、表情を改めて口を開いた。

「聞きたい事がある。場所を変え、人払いして貰いたい」

しかし老人は、白虎の言葉に首を横に振った。

「それには及ばん。長い話にはならんからの。お前さんが聞きたい事は解っとる」

胡乱げに眉根を寄せたダウドの、その金色の瞳を真っ直ぐに見上げ、

「この首都に、黄昏が来るぞ」

老人はただ一言、そう告げた。

「…そうか…」

ダウドは頷きながら短く呟くと、踵を返し、老人に背を向けた。

「邪魔したな」

背を向けたまま、肩越しに手を上げたダウドは、思い出したように半面だけ振り返る。

「…大事に…、してやれよな…?」

「お主に言われるまでもないわい」

静かに呟いたダウドに、老人は苦笑いを返す。

そのまま前を向き、歩き出したダウドの後ろを追いながら、タケシは訝しげな表情を浮かべた。

「お主はやはり、あやつらとも戦うつもりなんじゃろうな、ダウドよ…」

去ってゆく二人の背を見送りながら、黒伏総悦(くろぶしそうえつ)は、小さくため息を吐いた。



病院を出てビートルに乗り込むと、タケシは二人だけになるのを待っていたように口を開いた。

先程の老人について、白虎から話を聞きたかったが、周囲を気にして黙っていたのである。

「組織のボスというからには、纏った空気はもう少し違う物だろうと思っていたが…」

「まぁ、あのじいさんは、ただの犯罪者とは少々毛色が違うな」

ダウドは微妙な表情で応じる。

「何かを完全に押さえ込む事など不可能だ。いくらチームが大きくなろうと、強大な力を持とうと、人が居て、人の出入りが

ある限り、生まれる芽も、入り込む種も、全て監視するなんて事は到底無理だ」

どれほど強力なチームであろうと、生まれる組織、入り込む脅威は消し去れない。

ダウドはそう説明した上で、口元に微かな笑みさえ浮かべ、タケシに告げた。

「法の破り方も節度を守ってる。俺達とは違う立場、違う角度から物を見てはいるが、不必要に社会が乱れる事は望んじゃい

ない。裏の側から他の組織に睨みを利かせ、やり過ぎないよう節度を守らせている。ある意味あのじいさんもまた調停者だな」

納得したのか、それとも後で熟考するつもりなのか、タケシはその言葉にとりあえずは頷いた。

「それで、「黄昏が来る」とは、どういう意味だ?」

タケシの問いに、ダウドは顔つきを鋭くする。

「噂ぐらいは、聞いた事がないか…?」

エンジンをかけながら、白虎は苦々しげに呟いた。

「ラグナロク…。世界最大、最悪の組織が、この首都に狙いをつけやがった…」

「ラグナ…ロク…?」

その名を呟いたタケシは、こめかみを押さえて低く呻く。

「どうした?」

「…いや…、突然頭痛がした…」

訝しげな表情を浮かべながら、ダウドはサイドブレーキを解除し、車を発進させる。

(…ラグナロク…。覚えがある響きだ…。それに、この頭痛は何だ…?)

タケシは表情を消し、しばらく自問しながら記憶を手繰ったが、どこでその名を耳にしたのか解らない。

失われた記憶の中に、その名が埋もれているのだろう。

黙考の末、結局ラグナロクの事を思い出すまでに至らなかった青年は、そう結論付けた。