第十九話 「開戦」(前編)
「状況は!?」
司令室に飛び込んだユウトを、すでに戦装束を整えているダウドが振り返った。
白虎の傍らには、体にフィットするタートルネックの長袖シャツに、防弾防刃のベスト、アーミーボトムに身を包んだ青年の姿。
常ならば戦闘直前に刀を出すにも関わらず、濃紺の衣類に身を包んだタケシは、既に帯刀していた。
「沖合に空母が三隻、どの波数の通信にも応答無しだ。下に注意を向け、本隊は海上からか、してやられたな…」
「港湾警備と海保は!?接近するまで気付けなかったの!?」
ユウトの問いに、白虎は目を閉じ、首を左右に振る。
「光学、及び電波ステルスを使って、近海まで接近したらしい。気付いて警告に近付いた海保の船は問答無用で撃沈された。
港湾警備については退去するように忠告してやったが…」
その言葉を遮り、回頭中の港湾警備船が三隻沈められたとオペレーターから報告が入ると、白虎は顔を顰めて舌打ちした。
「海の上じゃ…、手出しができない…?」
ユウトの問いに、ダウドは黙って首を横に振る。
「不可能じゃあないが…、不利だな。ウチには空母とやりあえるような軍船なんぞ無い。クルーザーで接近しようにも、接舷
して乗り込むまでに何隻沈められるか…」
ユウトはギリリと歯を食い縛る。
「ヘリはあったよね?上からじゃダメなの!?」
「冷静になれユウト。近付くまでに撃ち落とされるだろう」
鼻息を荒くしている金熊に声をかけたのは、それまで黙っていた、相棒の青年であった。
「ボクは冷静だよ。ただ、後手に回るのがイヤなだけだ!」
ラグナロクという組織に対し、ユウトは異常なまでに過敏に、攻撃的に反応する。
タケシは先日、いち早くそれに気付いていた。
事実、今この時も、言い返すユウトの目には、すでに剣呑な光が宿っている。
「そいつの言うとおり、空戦は不可能だ。首都防衛用自動迎撃装置のおかげで、空母からも戦闘機は出せないが…、おそらく
あっちにも、同様の対空設備があるだろう」
そう説明した白虎は、口の端をぐっと吊り上げた。
「引き付けて叩く。ヤツらの目的は首都の制圧だ。水の上にいつまでもプカプカ浮いていたところで、この首都は落とせん」
獰猛な虎の笑みを浮かべたまま、ダウドは続ける。
「俺達得意の陸戦でカタをつける。既にトシキは防衛線を構築し、迎撃の準備はほぼ整った。相手の出玉が無くなり、港を制
圧し返したら、湾岸からの超長距離砲撃で空母を軒並み沈めて終いだ」
ひとまず納得して頷いたユウトは、組んだ指をパキポキと鳴らしながら口を開いた。
「港を取り返せば良いんだね?じゃあボクもそっちに…」
「ダメだ」
タケシは金熊の言葉を素早く遮り、ユウトは鋭い視線を青年に向ける。
「なんで!?」
「相手の規模はもはや軍隊だ。首都そのものが戦場になる。この意味が解らないのか?」
怒りすら見て取れるユウトの顔を真っ直ぐに見つめ、青年は畳み掛けるように言った。
「アリスはどうするつもりだ?」
ユウトの顔から、激情が一瞬にして消えた。
「…アリスは…、この本部に居る限りは…」
「確かにこの本部には緊急防衛用にACSシステムがある。対都市用クラスのミサイルが一発や二発飛んで来ようと、そう簡
単に潰れはせん。…だが、確実じゃあないぞ?」
白虎がそう言うと、タケシが言葉の後を引き取った。
「「ここならばアリスは安全なはずだ。だから放ったらかしにして前線で暴れよう」そんな世迷い言でも言うつもりなのか?」
相棒の痛烈な言葉に、ユウトは返す言葉も無く、喉の奥から呻き声を漏らす。
「俺の相棒は、自分の事は置いて、まずは弱者の保護を優先する、そんな、バカがつくほどのお人好しだ。常ならばな」
タケシの真っ直ぐな視線に耐えかねたのか、ユウトは反論せずに俯いた。
「俺は、これ以上はもう何も言わない。護るか、攻めるか、後はお前自身が決めろ」
青年の言葉を受けたユウトの、握り締めた拳が小刻みに震え、食い縛った歯がギリっと音をたてる。
「…判った…。まずはアリスを避難させるよ…」
短い葛藤の末、ユウトが選び取ったのは、幼女を護るという選択だった。
「…俺が前線へ往く。たまには、お前が退くその後ろを護らせてくれ」
タケシはユウトに背を向け、モニターに映し出された、刻々と港に迫る空母の影を見据えた。
「…うん…。無事に帰ってこなきゃ、承知しないからね…?」
青年の背にそう告げて、ユウトは素早く身を翻すと、司令室から飛び出して行った。
「良い演説だったぜ?」
傍らのダウドがそう言うと、タケシは珍しいことに、困ったような、そして哀しそうな、そんな微妙な苦笑を浮かべた。
「あいつの事情もまだ良くは知らないまま、きつく言い過ぎた…。戦闘が済んだら、謝らなくてはな…」
首都の中心に在りながらも静かな、風流な庭園に囲まれた広大な屋敷の前で、赤銅色の巨熊と、灰色の猫が向き合っていた。
「こちらの配置は終わった。他の家と比べて総数が少なく、心苦しいが…」
目を細くして口を開いたユウヒに、ネネは首を横に振って応じた。
「いいえ。神代家の御庭番衆は、どの家の皆よりも質が高いですから、本当に助かります」
そう言って、ユウヒの背後にちらりと視線を向けたネネは、少し離れて控えているやや小柄な犬の青年に微笑みかけた。
「シバユキ君一人居れば、近衛二十名以上の働きをしてくれますしね」
「いえ、そこまでの力はございません。私には過ぎたお言葉でございます…」
深く頭を下げ、丁寧に礼をしたシバユキに親しげな笑みを投げかけた後、ネネはユウヒに視線を戻した。
「ユウヒさん。帝をお願いします」
「心得た。身命を賭して、帝の御身をお護り致す。…して、ネネ嬢はどうするつもりだ?」
ネネは口をきゅうっと三日月型に吊り上げ、鋭利な刃物を思わせる、剣呑な笑みを浮かべた。
「無論。前線にて敵を排除して参ります。…帝のお膝元へ土足で踏み入る無礼者、首都の守護を担う神崎家の者として、見過
ごす訳には参りませんから…」
優雅に一礼し、玉砂利を踏み締めて歩き去るネネ。
彼女が十分に離れた後、下がっていたシバユキは、ユウヒの斜め後ろにすっと進み出た。
「凄い迫力ですね…、ネネ様…」
赤銅色の巨熊は「さもありなん…」と呟き、顎に手を当てる。
「神崎は帝の最も傍にお仕えする神将だ。帝のお膝元で狼藉を働こうとする者が居る。…一見冷静に振舞ってはいるものの、
皆、胸中穏やかではなかろう。使命感の強いネネ嬢は、なおの事な…」
シバユキは納得したように小さく頷いた後、声を潜めて主に尋ねた。
「ところで、神崎家のご当主様のご容態は…?」
ユウヒは、深くため息をつき、小声で呟いた。
「思わしくないようだ…。俺が御挨拶に伺った際も、床に臥せったままでおられた…。すでに御年八十、そろそろ隠居して養
生に専念せねば、治る病も治るまい…」
「…では、ネネ様が次のご当主に?」
「どうだろうな…。妹君に継がせるよう、俺から働きかけて欲しいとは言われているが…」
巨熊は顎を撫でながら、眉を八の字にし、困り顔になる。
「他のまっとうな神将家ならばいざ知らず…、我家には、逆神を出し、一度は神将の席を外れた経緯もある。他家の跡継ぎ問
題に口を出せば、帝の側近の御歴々が良い顔をすまい」
「帝に纏わりつき、政にまで口をさし挟もうとする、まるで寄生虫のような、名ばかりの側近の方々でらっしゃいますね?」
「口が過ぎるぞ、シバユキ」
冷笑を浮かべ、どこか楽しげに言ったシバユキを、ユウヒは呆れ混じりの優しい口調でたしなめる。
まるで、弟の軽い悪戯を注意するような、そんな視線を青年に注ぎながら。
「失礼致しました」
微苦笑を浮かべたシバユキを、しかし強く叱責するつもりはないようで、ユウヒは軽く顎を引いて頷く。
シバユキは、仰ぐに値すると判断した相手と、信頼する相手には、過ぎる程の礼節を尽くす。
その反面、気に食わない、あるいは主君や近しい相手の害となる相手には、態度こそ丁寧なものの、実に辛辣な毒を吐く。
さらに言うならば、敵、害悪と認識した者には、毛ほども容赦が無い。
「極端な話、俺が疎まれるのは別に構わぬ。が、俺からの言を受けて後継者を決めたとなれば、神崎家まで印象が悪くなろう。
ゆえに軽々しくは口出しできぬ」
「ですが、「にぃにぃ」としては無下には断れない、と…」
「…シバユキ、その話はその辺りにしておけ…」
昔の呼び名を持ち出され、頬を掻きながら決まり悪そうに言った主に、シバユキは微苦笑を浮かべながら、「失礼致しまし
た」と一礼した。
「避難先での民間人の誘導と世話!?」
ブルーティッシュ本部地下。
駐車場でアイドリングしている救護車両の脇で、アルはダウドから言い渡された命令に不満をあらわにしていた。
「オレだって戦えるっス!」
「調停者資格もないくせに、駄々をこねるな」
ダウドは呆れ顔で白熊の鼻に指を付き付けてグイッと押し、アルは「あうっ」と声を漏らして顔を仰け反らせる。
「試験はまだでも、ダウドさんにもしっかり鍛えられて、修練もきちんと積んでるっス!」
鼻を押さえて顔を下ろしたアルは、なおも不満そうに続けた。
「そういう問題じゃないんだよ…。お前はまだ調停者じゃない。参加させる訳にはいかん」
「まだ正式な調停者じゃなくとも…!」
しつこく食い下がる少年を前に、ダウドは「はぁ〜…」と、長い息を吐いた。
「なら一つ問題を出す。正解したら連れて行ってやる」
「え!?ホントっスか!?」
顔を輝かせたアルに、白虎は問う。
「調停者の使命は「護る事」だ。知っているな?」
「うス!」
「なら、ブルーティッシュは何を護るのが目的だ?」
「首都っス!」
即答したアルに、しかしダウドは首を横に振った。
「残念、不正解だ。大人しく避難民の補助に行って来い」
「え?えぇ!?じゃあ正解って何なんスか!?」
納得行かない様子のアルに、白虎は救護車両に乗るよう、顎をしゃくって示した。
「探して来い。これから行く先に答えがある。帰ってきたら答え合わせしてやる」
アルがしぶしぶ車両の助手席に乗り込むと、救護車両はエンジン音を轟かせて発進した。
ダウドは地上へと走り出て行く車両を見送ると、苦笑いを浮かべた。
「お前にもすぐに解るさ。なんたって、あいつの息子なんだからな…」
本部からの増援部隊に同行し、いち早く前線へ赴いたタケシは、トシキ率いる迎撃部隊に合流し、ラグナロクの先兵達と交
戦を開始した。
ラグナロクの攻勢はブルーティッシュの予測を超えており、既に前線は後退し始めていたが、少しでも戦線を維持させるべ
く、指揮官のトシキ自ら戦闘に加わっていた。
「助力に感謝する。礼を言うぞバジリスク」
「…その呼び名、ひょっとして定着しつつあるのか?」
乱戦の最中で肩を並べ、礼を言ったトシキに、タケシは訝しげに眉根を寄せて応じた。
「全体の状況は?」
目前の敵を斬り捨てつつ、表情を改めて問うタケシに、両手に握った拳銃から立て続けに銃弾を放ちつつ、トシキが叫ぶよ
うに応じる。
「戦力差は約1:3だ。はっきり言って楽観はできない。相手は三方向から押し包むように進軍して来ている。大部隊にも関
わらず、末端まで統率がとれているのが厄介だな」
タケシは頭の中に付近の地図を浮かべ、現在地と部隊の状況、さらに三方向からの敵軍進行ルートを重ねた。
(東方の部隊は、川向こうの支部からの増援さえ待てれば挟撃できる…。それまでここを保たせられればだが…)
敵を斬り散らしつつ、タケシは戦況を分析する。
(西側はフォローが見込めない。逆に言えば、そちらの部隊さえ何とかし、戦力を割く方向を減らし、戦線を拮抗させられれ
ば、個々の戦力で上回るこちらは、増援まで楽に持ち堪える事ができる…)
「済まない。一度戦線を離脱する」
タケシはトシキにそう声をかけると、訝しげに首を巡らせた参謀に尋ねる。
「バイクを一台拝借したい。構わないか?」
「好きに使え。だが、何をするつもりだ?」
「宿泊費と食費、それからアリスの検査費を返す」
そう言い残すと、青年は身を翻して後方へと走り去った。
避難する人々に混じり、アリスを抱いて雑踏の中にあったユウトは、安心させようと幼女の頭を撫でた。
地下鉄入り口付近は混み合い、ユウトはアリスが圧迫されないように、肩の高さに抱き上げ、首にしがみつかせていた。
避難命令が出て以来、首都は混乱の極みにあり、周囲の騒ぎに怯えたアリスはぐずついている。
「大丈夫。タケシが頑張ってくれてるから、ここは安全だよ…」
ユウトは、今もなお最前線で剣を振るっているはずの相棒の事を思う。
青年の放った厳しい言葉が、今も胸に残っていた。
自分とアリスの事を思い、口にされた言葉だという事が、ユウトには痛いほどに良く解っている。
だからこそ、怒りを覚えるどころか、あそこまで言わせてしまって申し訳ないという気持ちで、胸が満たされていた。
「ユウト…。こわい…」
「大丈夫だよ。タケシが戦ってるし、ボクだってついてる。恐いことなんか何も無いからね?」
安心させてやろうと微笑みかけたユウトに、アリスは首を横に振った。
「ちがうの!こわいのが…、こわいのがくる…!こっちにくる!」
ユウトは目を少し見開き、幼女の顔を見下ろす。
ユウトの鋭い五感を持ってしても、まだ異常は察知できない。
見えている範囲にも、特に騒ぎらしい騒ぎは起こっていない。
なにより二人がいるこの近辺は、防衛ラインの遥か後方なのである。だが金熊は、
(アリスは、強力な思念波を持っているってネネさんが…。まさか、何かを感じてる?)
保護すべき幼女の警告を、不安に駆られた子供の戯言として無視するような事はしなかった。
「アリス!その恐いのは、どこに居るの!?」
アリスは怯えた表情で手を上げ、真っ直ぐに地下鉄入り口を指し示した。
一瞬どういう意味かはかりかねたユウトだったが、幼女の警告は正しいと、直感で悟る。
「入り口から離れて!地下は危険だ!」
ユウトは周囲の群衆に向けて、大声で叫んだ。
次の瞬間、人々が飲み込まれてゆく地下への階段の先から、悲鳴や叫び声が上がる。
「え…!?」
目を見開き、絶句したユウトの視線の先で、地下鉄のホームへの階段から、真っ赤な虎が飛び出す。
地下通路から飛び出した虎型の危険生物、ドゥン達は、群がる群衆を噛み散らし、高々としぶく鮮血の中で、炎のように踊
り狂った。
「旧下水路だけじゃない…、地下のライン、全部に手が及んでいた…!?」
ユウトは愕然としながら呟くと、思考を切り替え、目つきを鋭くした。
逃げ散る群衆を追い、次々と襲っていたドゥンは、場に満ちたプレッシャーを感じ、ピタリと動きを止める。
歩道の脇にアリスを下ろすと、ユウトは安心させるように微笑みかけ、それからキッとドゥン達を睨んだ。
「避難経路を潰して、皆を逃がさないつもり?…一般人まで無差別に巻き込んで…、何が狙いなんだ、ラグナロク…!」
絞り出すような低い呟きと同時に、蒼い瞳が赫怒の炎で燃え上がる。
金色の巨躯から発散される怒気に気圧されたのか、ドゥン達は低い唸り声を上げながら後ずさった。
「禁圧…、総解除…!」
低く呟き、全身のリミッターを解除したユウトは、瞬時に金色の突風となった。
手近なドゥンとの間合いを一足飛びに詰めつつ、金熊は右の拳を固める。
分厚いブーツの底が歩道と擦れてギュギュギュッと急ブレーキの音を立て、ユウトは拳撃を放つ直前の姿勢で、ドゥンの目
前で静止する。
一瞬で懐に飛び込まれ、反応しきれなかった虎の顎を、ユウトは最小限の動きの、腰の高さからのアッパーでかち上げた。
のけぞりながら宙に舞い、がら空きになったドゥンの胴めがけ、一歩踏み込みつつ放たれた左の拳が、続けざまに叩き込まれる。
内臓と肋骨を粉砕されながら吹き飛んだドゥンは、同胞の一体めがけて宙を飛んだ。
横っ飛びにそれを避けた二頭目のドゥンは、すでに接近していたユウトの足が振り上げられている様を、その瞳に映す。
それが、その赤虎がこの世で最後に見た光景となった。
殴り飛ばした一頭目の体を目隠しにし、宙で前転しながら飛び込み、放った踵落としで二頭目の頭部を破砕すると、ユウト
は振り向きざまに左拳に光を宿す。
「熊撃衝!」
振り向く一連の動作で繰り出された、力場に覆われた左の豪腕は、背後から飛びかかろうとしていた三頭目の顔面を捕らえ、
血煙と共に吹き飛ばす。
顔面をすり鉢状に陥没させられ、後頭部を破裂させた三頭目は、地面に転がる前に絶命していた。
怒りに駆られ、常の加減を忘れて猛り狂う金熊の前には、赤き猛虎でさえも赤子のように無力であった。
獰猛な唸りを発し、素早く駆け寄る四頭目に対し、ユウトは燐光を纏わせたままの左手を地面すれすれで構え、四つん這い
に近い極端な前傾姿勢で接近する。
大気を引き裂き、上から叩き付けるように振るわれる赤い両前脚。
それに対し、舗装された歩道の表面を削りながら、真下から振り上げられる金色の腕。
力強く踏み込んだ右足が路面を粉砕し、ユウトの左腕が急加速する。
「熊撃破(ゆうげきは)!」
ドゥンの爪が目標までの距離の半分まで進まぬ内に、金色の拳が赤い虎の顎を真下から打ち砕いた。
跳躍の勢いを加え、真下から叩き付けられた左拳で、ドゥンは下顎を上顎に埋没させ、頭部の厚みを半分にされて宙に浮く。
仕留めたドゥンには目もくれず、ユウトは着地するなり、最後の一頭に鋭い視線を向ける。
路肩で蹲るアリスを獲物と見定め、にじりよっていた最後のドゥンめがけ、金の大熊は飛びかかるべく足を踏ん張る。
ユウトから見れば余裕を持って迎撃できるタイミングと距離だったが、アリスにはそんな事が察せられるはずもない。
幼女は恐怖のあまり声も出ず、自分へにじり寄って来る、返り血塗れの獣を見据えて、カタカタと震えていた。
「いやぁぁぁぁぁあっ!!!」
幼女の叫び声と共に、飛びかかろうとしたユウトは動きを止め、その目を見張った。
ドゥンと幼女の間、一瞬前には確かに何も無かった空間で、小さな紙片がパラパラと舞う。
反射的に目を懲らした金熊は、舞っている紙片が、以前白い兎を見た時の、あのトランプだと気が付いた。
ドゥンも、ユウトも、我を忘れて見入るその中で、宙で渦を巻くように舞っていた紙片が寄り合わされる。
集まった紙片は、一瞬の内に人型になる。
瞬き一つか二つかの、ほんの短い時間での出来事だったが、ユウトはその一部始終を子細に観察している。
人型は、帽子を被ったマネキンに見えた。
目鼻、口もない、のっぺりとした顔。
指の無い、つるりとしたしゃもじのような手。
両手はつるりとした凹凸のない胴体を抱くように体の前で交差され、上から黒いベルトのような物で縛られている。
拘束された、やけに鍔の広い、漆黒のシルクハットを被ったマネキン…。
ユウトは現れたその人型を、そう認識した。
目を固く閉じたアリスの悲鳴が響き渡る中、幼女の前に現れ、ドゥンの前に立ち塞がったマネキンは、腰でもほぐすように、
上体をぐりんと回した。
体を一回転させ、加速を乗せて頭を勢いよく振るうと、シルクハットが、マネキンの頭部を離れて音もなく飛んだ。
ユウトの優れた聴覚でも、一切の音を知覚させずに飛翔したシルクハットは、ドゥンの体を鍔で掠めて彼方へ飛んで行き、
大気に溶け込むように消えた。
どういう訳か、シルクハットを飛ばしたにもかかわらず、マネキンは帽子を被ったままであった。
まるで、シルクハットの影だけが飛んで行ったかのように。
ドゥンは動きを止めたまましばらく立っていたが、やがてその場でドサリと横に倒れる。
その胴の側面には、鋭利な刃物で斬りつけられたような傷が、深々と刻まれていた。
「…アリス?」
驚愕が冷めやらぬまま、ユウトは叫び続ける幼女に声をかける。
しかし、守護者のその声すらも届いていないのか、アリスの悲鳴は止まらない。
マネキンは、音も無くユウトに向き直った。
その隣で、再び虚空から出現したトランプが舞う。
「…今度は何…!?」
ユウトは反射的に身構えながら、アリスとマネキン、そしてトランプの渦との間に飛び込む隙を、慎重に窺う。
新たな人形が、油断なく身構える金熊の視線の先で、その体を形成させていった。