第二十話 「開戦」(後編)

西方からブルーティッシュの前衛を押さえているラグナロクの前衛部隊。

その後方、ジープの上で立ち上がり、スコープを覗いて前線を観察していた部隊長は、口元を歪めて含み笑いを漏らした。

「対応が遅れたな。戦力差は明らか…、あれでは増援が来る前に、戦線を下げざるをえまい…」

ほくそ笑む部隊長が乗る屋根のないジープ。その傍に聳える六階建てのビルの屋上から、一台のバイクが飛んだ。

響き渡るエンジン音の出所を求め、部隊長が、そして周囲の二十名近い護衛が辺りを見回す。

ある一人の兵士が近付くエンジン音に顔を上げた。

その顔面を、ブルーティッシュが正式採用しているオフロードバイクのタイヤが抉る。

「て、敵しゅ…!」

傍にいた兵は、警告を発し終える前に、鋭い刃を喉に突きこまれた。

喉に新たに作られた口から、ひゅーという呼気と鮮血を吐き出しながら仰向けに倒れた時には、すでに絶命している。

一人を地上六階から落下させたバイクで轢き潰し、いま一人を一刀で絶命させたライダーは、黒髪を風にたなびかせながら、

部隊長の乗るジープへと迫る。

タケシは隣接するビル群の屋上をバイクで跳ね回り、単身で敵部隊中枢へと斬り込んでいた。

バイクに乗った経験など、覚えている限りは数える程しかない。

にもかかわらず、青年は初めて跨るそのバイクを、驚異的なコントロールで手足のように自在に乗りこなしていた。

敵兵を切り伏せ、跳ね飛ばし、バイクを疾走させたタケシは、接近に気付かれた時には既に、部隊の頭脳の喉元に迫っている。

猛々しいエンジン音を轟かせる軽いバイクを巧みに操り、護衛の中を単騎で突っ切ったタケシは、事態を察する事が出来ず、

ポカンと口を開けていた部隊長へと迫る。

「げ、迎撃しっ…」

焦慮が混じった部隊長の声は、しかし一瞬で途切れた。

その時には、既にジープの脇を駆け抜けたバイクは、後輪を滑らせて方向転換している。

そのバイクの前に、ぼとっと、部隊長の首が転がった。

すれ違いざまの一刀で部隊長の首を斬り飛ばしたタケシは、その黒瞳で残る護衛を静かに見据えながら、エンジンを勢い良

く吹かす。

「任務完了…、直ちに帰還する」

呟くと同時に、青年はバイクを急発進させる。

そしてタケシは、敵軍のまっただ中を最短距離で強行突破しながら、ブルーティッシュの先方部隊と合流すべく、引き返し

始めた。



『西方より進軍中の部隊、後方からの奇襲を受けて潰走!バジリスクがやってくれた!』

最前線から送られた通信は、本部を通してブルーティッシュの全部隊に伝わり、その士気を大いに高めた。

傍受される事を知りながら、あえて通常の電波で発信されたこの通信により、ラグナロクにも、調停者バジリスクの名が伝

わった。

そして、鮮やかな奇襲と一騎駆けにより、前線の戦力差をたった一人でひっくり返してのけたその調停者の名は、全国に知

れ渡り、これ以降も長く語り継がれる事になる。



幼女の悲鳴が続く中、ユウトはアリスと自分との間に立ち塞がる、異形の存在を前に口を開いた。

「もうドゥンは居ない。危険はないよ」

ユウトの言葉にも、帽子を被った異形の、マネキンのようにのっぺりとしたその顔には、一切の反応が無い。

その脇では宙で渦巻くトランプが集まり、再び何らかの形を取る。

トランプが寄り集まって形を為したソレを目に、ユウトは、

「…やっぱり…」

自分の予感が正しかった事を察し、呟いた。

トランプが集まって出来たのは、半人半馬の存在、ギリシャ神話のケンタウロスの姿に酷似したモノだった。

ただし、神話のイメージと大きく異なるのは、長大な突撃槍を携え、人型の上半身には純白の甲冑を着込んでいる事。

マネキンのようなのっぺりとしたフォルムに対し、纏った甲冑や手にした槍は、細部の装飾に至るまでが実に精密である。

「確かに、騎士に見えるね…。でもってそっちは帽子男か…」

南米の事件の記述にある二つの存在を確認し、ユウトは腰を落として身構え、頭を抱えて泣き続けるアリスをちらりと見る。

(さて…、こいつらはアリスを傷つけるかな?巻き添えにする事はないと思いたいけど…)

不意に、帽子のマネキンが動いた。

先程と同じようにぐるりと上半身を回し、ユウトに向かって帽子を放る。

フワリと宙を舞うシルクハット、その威力は先程目にしている。

弾くのも受けるのも危険と判断したユウトは、飛来した帽子を、地面に四つん這いになるほど深く伏せてかわした。

そこへ音もなく駆け寄った騎士が、長大な槍で突きかかる。

素早く上体を起こしつつ半身に身構え、穂先に胸元をかすらせる最小限の動きで避けたユウトは、すれ違いざまに右腕を振

るい、騎士の胴へ拳を放り込む。

大柄な、太った体付きからは思いもよらぬ身のこなしとスピードで繰り出された豪腕は、しかし大気を粉砕する手応えだけ

を残し、騎士の体をすり抜けた。

「っと、幻っ…!そういう事だったね…!」

ユウトは左手を上げ、そっと胸元に触れてみた。

ジャケットの胸元を掠めたはずの槍の穂先も、傷一つ残していってはいなかった。

しかし、肉体は幻の攻撃に反応する。

強い暗示によって、焼きごてと信じ込まされた棒で触れられただけで、時に人の体は水ぶくれを生じさせる事もある。

意識が肉体に変調をもたらす現象、つい今し方ドゥンの一頭も、その現象で屠られている。

自分も体験してみたいとは、ユウトもあまり思わなかった。

(こっちの攻撃は通じない。でも、向こうからの攻撃は有効…。フェアじゃないねぇどうにも…)

ユウトは心の内でぼやくと、駆け抜け、反転して来る騎士にちらりと視線を向け、それから正面の帽子のマネキンへと視線

を戻した。

ぐっと身を屈めると、金熊は躊躇する事無く前へ出た。

二つめの帽子が飛び、後方からは槍を突き込まれる。

走りながらお辞儀するようにして帽子を避け、背後から追い縋った騎士の槍は、身を捻ってかわす。

自分を追い抜いた騎士と、正面に居た帽子のマネキンが重なり、何の影響も与えあわずにすり抜ける。

(変幻自在か…、実体が無いっていうのは、どうも勝手が違ってやり辛いなぁ…)

二体の激突を狙ったユウトだったが、これも通用しないと確認して顔を顰める。

直後、三度放たれた帽子が、金熊の顔面めがけて飛翔した。

三つ目の帽子を身を低くしてかいくぐり、臆する事無く前進したユウトは、帽子のマネキンに肉薄し、その体をすぅっとす

り抜ける。

速度を緩めぬまま、金熊はさらに方向転換の最中の騎士の体もすり抜けた。

攻撃。つまり、槍や帽子の攻撃を受けていると自分が認識しなければ、幻覚と接触しても影響を受けない。

ユウトは先の攻撃が騎士をすり抜けた事から、そう仮定していた。

もっとも、その仮定が間違っていれば、ドゥンのような目に遭わないとも限らない。

その事を覚悟した上での躊躇無い突進は、この剛胆な金熊ならではの判断であった。

幻影をすり抜けたユウトは、その幻影を発生させている本体めがけて腕を伸ばし、突進の勢いそのままに、歩道の花壇の中

に突っ込んだ。

相手の体を両腕で抱え込み、植木の葉や枝を跳ね上げながら転がり、ユウトは仰向けの姿勢で停止する。

しっかりと捕まえた幻影の出所の顔を見つめ、ユウトは微笑みかけた。

「大丈夫。もう恐いことは何もないよアリス…。ボクがついてるから…」

金熊に優しく抱き締められると、続いていたアリスの悲鳴は、やっと止まった。

標的を見失ったかのように、しばし立ちつくしていた騎士と帽子男は、バラバラとトランプに分解し、路上に散った。

歩道の上に溜まったトランプの塊は、やがて雪が解けて地面に染みこむように、じわりと路面に溶けて消える。

しゃくり上げるアリスをしっかりと抱いたまま、ユウトは身を起こす。

軽く首を振って頭についていた葉や土を落とすと、改めてアリスの顔を見下ろし、そっと頭を撫でた。

「アリス…。あれは、キミ自身の能力だったんだね…」

ユウトの声は、暗く沈んだものになっていた。

アリスは、ユウトが最初に懸念した通りに、やはり、普通の人間では無かった。



「うわぁっ!」

人間よりも大柄な猿に飛び掛られ、防護服で身を包んだ男達が地面に突き倒される。

横合いから振るわれた高電圧スタンガン内蔵のサスマタは、しかし素早く飛び退いた猿の体に掠りもしない。

形の良い松が並び、見事な錦鯉の泳ぐ池のある、風流な誂えの帝居の庭園で、帝の身辺を警護する近衛衆は、猿型危険生物、

オンコットの一団の襲撃を迎え撃っていた。

二十人は集まっている近衛衆だったが、対するオンコットは三十頭を軽く超えている。

数の不利は否めない上に、腕利きの調停者でも手こずる相手である。

何とか隊列は維持しているものの、近衛達はじりじりと後退してゆく。

先程の攻撃で倒れこんだ近衛の一人が、頭を打ったか、ふらついて立ち上がれないでいる所へ、別のオンコットが奇声を上

げて飛び掛った。

怒号と狼狽の叫び。浮き足立って統制が取れておらず、援護の手も回らない。

片膝立ちで顔を上げた近衛の目に、鋭い牙が並ぶ口を大きく開き、かぶりつこうと飛び掛ったオンコットの顔が映り込む。

目を閉じる事も、顔を伏せる事もできず、恐怖で硬直した近衛の眼前で、しかしオンコットの落下が止まった。

近衛の視界の上、隅の方から伸びた、赤銅色の毛に覆われた太い腕が、オンコットの首の後ろを捉え、宙吊りにしていた。

「何処より湧いたか、騒がしい事だ…」

頭上から響いた、低く太い、落ち着いた声に、近衛は顔を上に向ける。

袖の無い空手着のような戦装束。濃紺に染め上げられたそれを纏うは、当代随一と評される神将、赤銅色の小山のような巨

躯を誇る巨熊であった。

「く…、神代殿…」

驚きと安堵の入り混じった声を漏らした近衛に視線を向け、小さく頷くと、ユウヒはネコの子でも持ち上げるように首の後

ろを捕えたオンコットに目を戻す。

次の瞬間、魅入られたように身じろぎ一つできなくなっていたオンコットは、力任せにグイッと上に引っ張り上げられ、次

いで凄まじい勢いで放り投げられる。

野球のボールを放るような、そんな無造作な腕の一振りで放り投げられたオンコットは、放物線を描いて80メートル以上

も飛び、庭の遥か彼方で、玉砂利が敷き詰められた地面に叩きつけられて絶命した。

「帝の庭で、騒がしい真似は遠慮願いたいものだがな…」

禁圧解除をおこなった左手に燐光を灯し、ユウヒはオンコットの一団を睨み据えた。

その眼光に気圧されたか、最も近くに居たオンコットは、より確実な方法で逃走すべく、近衛達に向き直った。

が、近衛達がその動きに反応するよりも、オンコットが跳躍するよりもなお先に、赤銅色の巨躯が、大気を押し退けて動い

ていた。

赤銅色の被毛をたなびかせ、一瞬の内にオンコットの正面へ回り込んだユウヒの足元で、急制動をかけた素足が、玉砂利を

弾き飛ばしてその下の土を抉り、深い溝をつける。

「散華衝(さんげしょう)!」

移動を終えた時点で、既に地面を踏み締め、拳打の姿勢を整えていたユウヒは、咆吼と共に左拳を繰り出す。

オンコットの胴へと飛び込んだ赤銅色の巨拳が、眩い閃光とともにその胴体を打ち据える。

 その命中の瞬間、巨大な拳を覆う光の力場が、内側から発生した二枚目の力場によって破砕され、小爆発を引き起こす。

限定された範囲で炸裂した力場が発した、超高圧のエネルギーの波で破壊されたオンコットの肉体は、一瞬の内に炭化して

跡形も無く飛び散り、白い塵となって風に散る。

 妹の不完全な制御による技とは似て異なる、完成されたユウヒの光拳は、瞬間、光の華を咲かせ、オンコットの肉体を風に散

らされる花弁の如く散華させていた。

静かに白い息を吐き出しつつ、ユウヒが視線を巡らせた先には、凍りついたように動かなくなった三十近い猿の群れ。

「つくづく、何処から湧いたものか…」

「申し訳ありません!巡回はおこなっていたのですが、まさか排水溝から現れようとは…。我々の落ち度です!」

近衛衆の一人が泣きそうな顔で詫びるが、ユウヒは「お気になさるな」と涼しい顔で応じた。

「ここは某がお引き受けしよう。下がっておられよ、近衛の方々」

ユウヒはゆっくりと猿の群れを見回すと、ぼそりと呟いた。

「…これだけの数が一箇所からとなれば、他所にも注意せねばなるまい…」

ユウヒは胴着の襟元に手をかけ、ぐいっと開いた。

 袖から交互に腕を抜いて諸肌脱ぎ、逞しい赤銅色の上半身が寒気にさらされる。

熊族特有の固太りした体は、中年太りもあってか、従者に注意を促されるのも頷ける程に脂肪がついているものの、分厚い

皮下脂肪のその内側には、みっしりと筋肉が詰め込まれている。

「逃がしても手間…。一匹ずつ退治する時も惜しい…。見敵即滅、一息に押し潰すか…」

上半身をあらわにしたユウヒは、そう低く呟くなり、腰を深く落として前傾姿勢を取り、右拳を地面についた。

相撲の仕切りを思わせる、そんな低い構えから、ユウヒは禁圧を総解除する。

同時に大気中のエネルギーが赤銅色の巨躯に取り込まれ、周囲の気温が急激に低下し、ダイアモンドダストが宙を舞う。

「奥義…」

ドォンという爆発音と共に、ユウヒの居た場所とその後方で、地面が抉れた。

巨熊の蹴り足によって地面が粉砕されて土煙が上がり、背面で発生、炸裂させた力場の斥力で、それらが吹き飛ばされる。

力場の炸裂の余波を背に受け、自身の突進力と合わせ、静止状態から爆発的な加速を得たユウヒは、赤銅色の砲弾となって

オンコットの群れに肉薄する。

高密度のエネルギーに覆われたその巨体は、燐光を撒き散らしつつ、一瞬で群の真っ只中を突き抜けた。

低い姿勢のまま、暴風の如く駆け抜けたユウヒは、瞬き一つの間の内にオンコット達の背後に現れる。

踏み締めた両足で地面に深い溝を作りながら、深く腰を落とした正拳突きの姿勢で停止したユウヒは、

「百花繚乱(びゃっかりょうらん)…!」

拳を引き戻して脇腹につけ、ズシンと、地面を揺るがせて震脚する。

ユウヒが駆け抜けた背後、その進路上には、オンコットは一頭も残っていなかった。

突進によって跳ね上げられ、跳ね飛ばされ、挽き潰され、そして発散された力場の波動に曝されたオンコット達は、原形を

留めている者すらも、ことごとくが白い塊となっている。

それらが、ユウヒの巨大な足が地面を踏み締めた震動で粉と砕け、風に舞い散り、消えていった。

一瞬前までオンコットの群れが存在していた、白い塵が乱舞する背後を振り返り、ユウヒは目を細める。

「さて、他も見回るか」

始祖の再来と呼ばれる神代家十八代目当主は、ものの数秒も要さずに、三十頭近いオンコットの群れを、文字通り消滅させ

てのけた。

「これが…、奥羽の闘神、神代勇羆殿…」

近衛達はぽかんと口を開け、呆然とした面持ちで、

「…ちと張り切りすぎたか?あとで埋めておかねばな…」

 砂利を蹴り散らかし、深々と抉り跡を残してしまった地面から右足を退け、困ったような顔をして足をプルプルさせている

ユウヒを眺めていた。

「シバユキ、おらぬか?」

「はっ!」

ユウヒが声を発し、遠くで声がしたかと思えば、夜気を裂いて落下してきた小柄な影が、ザシャッと地面に着地し、赤銅色

の巨躯の前で得物を眼前に置き、跪いた。

「遅くなり、申し訳ございません。僭越ながら、お蔵の上を掃除させて頂いておりました」

「ふむ。首尾は?」

「このとおりでございます…」

長袖の胴着に下穿き、革の手甲、脚絆や雪駄までが黒一色で統一された、神代家御庭番の装束に身を包んだシバユキは、視

線を落として地面に置いた匕首を示す。

 血塗れになった刃を一瞥して頷いたユウヒに、その諸肌脱いだ姿をしげしげと眺めながら、シバユキは首を傾げて訊ねた。

「ところでユウヒ様。何故にお脱ぎになっていらっしゃるので?」

「帝の御傍で間違いがあってはならぬ。さほど手加減も必要無かろうと思うてな」

それを聞いたシバユキは、眉根を寄せ、眉間に深い皺を刻んだ。

「…ユウヒ様…?帝の御庭を更地になどなさいませんよう、くれぐれも…、くれぐれも…!」

「判っておる…。して、後門はどうだ?」

憮然として頷いたユウヒは、気を取り直して従者に状況を尋ねた。

「明神様と尾神様の若君方が向かわれたようです」

「牛頭馬頭か、ならば問題あるまい。では、庭園は?」

「近衛衆が守りにつかれたようです」

「ふむ…。ならば俺はそちらへゆこう。してシバユキ、一つ頼みたいのだが…」

「はっ、何なりと…」

ユウヒは周囲を見回しながら、クンクンと鼻を鳴らした。

「これだけの数の獣が、それなりに統率の取れた動きをしておる。そこそこ腕の良い獣使いがおるのだろう。探し出し、排除

してはくれぬか?」

「御意」

シバユキは頭を垂れながら、伏せた顔に微苦笑を浮かべた。

主従の関係である。ただ一言命ずれば良い事なのに、ユウヒは多くの場合、屋敷の者にも「頼む」と言う。

そこがまたこの主らしいのではあるが、それでは他の家に示しがつくまいに、と。



「どうした?」

前線へ向かう装甲車両の中で、ダウドは通信を終えたネネに尋ねた。

「帝居に危険生物が侵入したそうよ」

「戻るか?」

「いいえ。護りについてくれていた神将家の皆が殲滅に当たっているから、結果は見えているわ。ただの経過報告よ」

さらりと応じつつも、ネネの瞳には剣呑な光が灯っている。

神将家が守護すべき、この国の平和の象徴たる帝居の庭先に賊が侵入したのだ。心中穏やかではない。

「それよりも、正直驚いているわ」

「何にだ?」

「フワ君よ。奇襲で一部隊の指揮系統を壊滅させて、敵陣を掻き回し、おまけに一騎駆けで戦線突破、そのまま部隊に合流し、

何事も無かったように継続戦闘中…」

「トシキの話じゃ、飯とベッドの借りを返す、と言っていたらしいぞ?」

ダウドが可笑しそうに笑いながら言うと、ネネの顔が綻んだ。

「ふふっ、義理堅いわねぇ彼…。どんな高級ホテルに宿泊していたつもりだったのかしら?」

「まったく、でかい借りを作っちまったもんだな…」

ダウドは口元に笑みを浮かべると、運転手に声をかけた。

「前線までアクセル全開でふっ飛ばせ!俺達も少しは働かんと、デカい顔ができんぞぉ!?」



「これは、マズい戦だな…」

高いビルの頂上からたった一人、ブルーティッシュが押し返しつつある前線を見下ろし、漆野兵武(うるしのひょうぶ)は

呟いた。

「川向こうからの増援が間に合ってしまった。潰せなかった指揮官の無能を責めるよりは、ブルーティッシュの底力を評価す

るべきか…。ま、こんな泥仕合に付き合う義理も無い。さっさと引き上げ…、…?」

ヒョウブは気配を察し、くるりと踵を返す。

振り向いた先には、いつの間にか一人の少年が立っていた。

十歳ほどに見えるその男の子に、ヒョウブはうやうやしく一礼する。

「これはこれは…。ロキ様直々にご視察とは…」

少年は涼やかな笑みを浮かべ、ヒョウブの隣へと歩むと、ふわりと宙に浮き、手すりの向こうに広がる戦場へと視線を向けた。

「加勢はしないのですか?」

尋ねるロキに、ヒョウブは決まり悪そうに苦笑した。

「あ〜…、もしかして、さっきの独り言、聞こえていましたか?行かないと駄目でしょうかね?」

「まあ、行く必要は無いでしょうね。一方的に攻め切る機を挫かれました。貴方の言うとおり、これは泥仕合になります」

ロキはさらりとそう応じると、目を細めて薄く笑う。

「ただ、総指揮を執っている者は、戦いの泥沼化に気付いていないようです」

「例の、エインフェリアの一人ですか?」

「ええ」

「確か弟の方は…、貴方が直接指揮を執る予定の新造部隊に引き抜いたそうですね?」

ロキは興味深そうに、さりげなく尋ねて来たヒョウブを見る。

「耳が早いですね?貴方のそういう所、評価していますよ。ただし、知るべき事と、知らない方が良い事があるのは、理解し

ておく事です」

「…肝に銘じておきます」

恐縮したように背筋を伸ばしたヒョウブから視線を外し、ロキは再び戦場を見下ろす。

「ミドガルズオルムは彼と違い、野心が大き過ぎます。身の程知らずは私の手駒には向きませんし…」

ロキは冷徹な光を瞳に灯し、静かに、冷たく続ける。

「何より、先の無い者など、配下に必要ありません」

ヒョウブは意外に思いながらロキの横顔をちらりと盗み見た。

ヒョウブ自身も、強引さで知られるこの作戦の総指揮官の事はあまり好きではないが、ロキが嫌悪を滲ませる理由が少々気

になった。

「今回の作戦、マイナス点は三つあります」

ロキはそう言うと、指を三本立て、それを折りながら理由を挙げ始めた。

「地下経路等を利用した伏兵と奇襲…。ブルーティッシュによる警護が厳重なこの都市を攻めるのには悪くないアイディアで

した。…が、下準備がお粗末過ぎました。直前になって露見し、むしろ奇襲に備えさせるという結果になりましたからね」

ロキは二本目の指を折る。

「二つめは、この状況における帝居の奇襲と住民の避難路の封鎖。アリの巣のように巡らされた避難路、この封鎖にいたずら

に戦力を割くよりも、前線維持に集中すべきでした。まぁ、先ほど一騎駆けした調停者の働きは計算外でしたがね…」

「あぁ。あんな真似する阿呆が居るとは思いませんでした」

「まったくです。自身の腕によほどの自信があったのか、それとも身の程知らずの愚か者だったのか…」

少し面白がっているように、口の端を上げながら言ったロキは、その微かな笑みを消し去って続ける。

「十分な贄を確保する事を焦るあまり、前線が崩れかけてもなお戦力を裂き続けたのは下策と言わざるをえません。まずは贄

の確保を後回しにして戦線を維持し、ブルーティッシュの消耗後に取り返すべきでした。帝居襲撃そのものは、陽動としては

悪くありませんが、これも前に上げた失敗によって、事前に察した神将家が護衛に付き、功を奏しませんでした」

「神将家が帝に釘付けになっているので、一概に失敗とも言えないのでは?」

ヒョウブの問いに、ロキは首を左右に振る。

「そもそも襲撃準備が露見しなければ、神将達はやってきませんでした」

「…神将家を、随分高く評価されているようですね?」

「もちろんです。彼らの存在が邪魔で、いくつものバベルが眠っているこの小さな島国に、おいそれと手が出せなくなってい

るのですよ」

「やはり、配下に神将の血筋が居ると、その力も解るものですか?」

ロキは興味深そうに、ちらりとヒョウブを見遣る。

「本当に耳が早いですね?ですがそれは、「知らない方が良い事」に入る情報ですよ?」

「では忘れましょう」

「それが良いですね」

素直に頷いたヒョウブに笑みを見せ、ロキは最後の指を折る。

「最後の一つは、調停者達を甘く見た事…。相手の実力を読み違えるなど、司令官としては三流以下、愚にも付きません。い

かに戦士として優秀でも、そんな男は使えません」

ロキはそう締めくくると、冷ややかに言い放った。

「ミドガルズオルムは今、意地になって、兵を退く判断もできなくなっているでしょう。強硬姿勢で志願してのこの失態…。

なんとしてでも作戦を成功させなければ、処分は免れませんね」



ドゥンの襲撃から逃げ散った人々を誘導し、特自の車両に保護を求めると、ユウトはようやく肩の荷がおりたようにため息

をついた。

能力の発動で消耗したのか、それとも泣き疲れたのか、抱かれたアリスはすやすやと寝息を立てている。

「もう、何処の避難経路も安全じゃない…。一般人と一緒に避難させたとして、また何かあってあの能力が発動しちゃったら…」

幼女の能力で産み出される幻影達は、幼女にもコントロールできないのか、周囲の者を無差別に攻撃する。

一緒に避難してまた襲撃を受けた場合、一般人を巻き添えにしてしまう可能性は、決して低いものではない。

ユウトはアリスの寝顔を見つめ、意を決した。

(皆と一緒には避難しないで、ここに留まろう…。アリスはボク一人でも護り抜いて見せる…!)

この時下したこの決断を、後々まで悔やみ続ける事になろうとは、この時のユウトは、まだ知る由もなかった。