第二十一話 「マーシャルロー発令」

帝居を囲む堀の外、敷地内への侵入を試みる危険生物の討伐のため、列を成した近衛衆が慌ただしく駆け回る。

避難誘導の済んだ周辺では、至る所に待機させられていたと思われる危険生物が、あの手この手で帝居への侵入を試み、攻

撃を仕掛けている。

そんな中、ある近衛達は、黒い大犬、危険生物プーカと交戦していた。

近衛の一人にスタンガンが仕込まれたさすまたで顔を打たれながらも、怯む事無く牙を剥くプーカ。その牙がさすまたの柄

を咥え込み、やすやすと噛み折る。

得物を失い悲鳴を上げた丸腰の近衛に、今正に躍りかかろうとしたプーカの前を、一陣の黒い風が通り過ぎた。

直後、プーカは顔や喉から血を噴出させ、大きく仰け反る。

喉を深々と切り裂かれたせいで、断末魔の声を上げる事すら叶わず、プーカは横倒しになって息絶える。

驚いて近衛達が見遣れば、痙攣するプーカの両目の位置、そして喉の二ヵ所に、深々と、横に薙いだような刀傷が残っていた。

そして、近衛達が首を巡らせたその時には、殺害者の姿は道の遙か彼方で小さくなっている。

軽く跳躍し、近衛とプーカの間を風のように通り過ぎ、一瞬で黒犬を仕留めてのけたのは、若い柴犬の獣人であった。

後ろを振り返りもせず、その両手に逆手に握っていた一対の匕首を一振りし、付着した血を払い落とすと、腰の後ろに互い

違いに、横向きに固定した鞘に納める。

「…近い…」

主の命を受けたシバユキは、鼻をヒクヒク動かし、大気中の匂いを嗅ぎ取りながら、さらに足を速めた。

纏った黒装束は闇に溶け込み、踝で固定された本体も鼻緒も黒い雪駄は、駆ける足音すら殺す。

腰の後ろにはそれぞれ左右に柄を向けた匕首。背中には40センチ程の長さの棒状の包みを斜めに背負っている。

ほとんど音も立てずに疾駆するその様は、さながら、凝縮されて一塊となった夜風のようですらあった。

やがて、迷いの無い足取りで、堀の外周の一部に位置する、木々に囲まれた遊歩道に駆け込んだシバユキは、濃くなった血

臭気を嗅ぎ取り、鼻面に細かな皺を作って足を緩めた。

点々と倒れる近衛達の骸、彼らにちらりと視線を走らせながら、シバユキは匂いの元を辿り、さらに奥へと踏み込む。

油断無く足を進めていたシバユキは、唐突に懐に右手を突っ込むと、真後ろへ素早く飛び退きつつ、腕を一閃させた。

頭上から落ち掛かって来た赤い虎が、ゴォっと苦鳴を上げ、着地と同時に飛び下がる。

間合いを取って着地したドゥンの右目には、黒く塗られた苦無が突き刺さっていた。

奇襲を察知し、素早く回避しつつ苦無を投擲したシバユキは、着地したその時には、両腕を大きく後方に引いている。

滑空する猛禽類の翼のように構えられたその両手には、指の間に挟み込み、左右四本ずつ、計八本の苦無が握られていた。

微かな呼気と共に、素早く投擲された闇色の苦無は、ドゥンの顔面に一本余さず叩き付けられた。

顔面から九本の苦無を生やして仰け反ったドゥンの喉が、素早く脇を駆け抜けたシバユキの匕首に撫で斬られる。

急停止し、右手に匕首を逆手に握った状態で身構えたシバユキは、倒れ伏すドゥンには一瞥くれる事すらなく、前方の闇へ

鋭い視線を向けた。

いつからそこに居たのか、遊歩道に敷き詰められたブロックの上、暗がりの中に溶け込むようにして、一人の男がゆらりと

足を踏み出す。

「お見事…。帝の近衛と言えば、肩書きだけの弱兵が大半だと聞いていたが…、なかなかやるものだ」

黒いロングコートを纏った痩身の狐が、シバユキを見つめながら口を開く。

「私は近衛ではありません。あなたは、獣使いですね?」

狐はシバユキの問いに答えず、薄く口を開いて笑うと、右手をすっと上げ、パチンと指を鳴らした。

その号令に従い、狐の後方の暗がりから、二つの影が進み出る。

漆黒の毛皮に覆われた、犬の獣人にも似たフォルムの危険生物、ヘルハウンドは、赤く輝く瞳にシバユキの姿を映した。

シバユキは第一種最上位の危険生物を前にしても、臆した様子も無く、獣使いに言葉を投げる。

「帝居への攻撃を、今すぐに止めさせてください」

狐はクスクスと笑うと、すぅっと右手を上げ、人差し指でシバユキを指し示す。

「…やれ」

囁き声の号令と共に、ヘルハウンド二体が同時に地を蹴った。

走行中の車でさえも襲撃可能な脚力で、一瞬にして間合いを詰めた二頭は、小柄なシバユキめがけ、振り上げた爪を叩きつける。

二頭の四本の腕が、小柄な青年を引き裂いた。そう、狐が確信した次の瞬間には、

「ガァァアアアアッ!」

ヘルハウンドの一方が、縦に切り裂かれた右目を押さえて仰け反っていた。

沈み込むように体勢を低くし、四本の腕をかいくぐったシバユキは、匕首で一頭の顔面を浅く、正確に薙ぎつつ脱出している。

腕をかいくぐった直後に体を反転させ、右手で投擲した匕首が、無傷な方のヘルハウンドの眉間に深々と突き刺さった。

絶叫を上げて仰け反っているもう一方の喉には、間を置かず、ほとんど同時に左手で投擲されたもう一本の匕首が突き刺さる。

正確にして無駄の無い攻撃で、第一種の危険生物二頭を造作もなく仕留めたシバユキを前に、狐は呆けたような顔をした。

ドサリと、音を立ててヘルハウンド達が崩れ落ちると、ようやく事態を察した狐は、顔色を失って一歩後退する。

「お、お前は…、一体…?」

掠れた声を漏らした狐に、小柄な青年は無表情に応じる。

「帝直轄奥羽領守護頭、神代家御庭番衆が一人、犬沢柴之…」

「…し、神将家の…、御庭番だと?…き、聞いていないぞ?下っ端ですら化物だなどと…!」

逃げようと後ずさった狐の両頬の脇を、闇色の何かが飛び過ぎた。

直後、狐は喉元を押さえて「ぐぇっ!?」と声を上げ、仰け反る。

その周囲を、闇色の何かはグルグルと旋廻し、首を押さえた狐の手は、首にピタリとくっついたまま動きを封じられた。

シバユキが狐の左右に放った二本の苦無が、狐の体の脇にぶら下がる。

苦無の尻、わっかになっている部分には、闇に溶け込む黒色の極々細い糸が結び付けられていた。

尻を細い糸で繋いで放たれた二本の苦無は、狐の両脇をすりぬけて糸でその体を絡めとり、支点とし、慣性で旋廻してがん

じがらめにしていた。

「その黒鋼糸(くろごうし)は1トンの加重にも耐えます。下手にもがけば身が切れますよ?」

そう言いながら狐に歩み寄るシバユキは、右腕を一振りする。

黒い革手甲の、甲の部分から音もなく飛び出した両刃の仕込み刃を目にすると、鋼の糸に絡め取られて身動きがとれない狐

は狼狽して声を上げた。

「わ、解った!攻撃はやめさせる!」

目前で歩みを止めたシバユキは、狐の体にぶら下がった苦無を手に取り、スルリと糸を外して懐にしまい込んだ。

「では、いますぐに退かせて下さい」

静かに言ったシバユキに、しかし狐は思わず首を横に振ろうとし、鋼の糸が首に浅く食い込んで苦鳴を漏らした。

「で、できない!一度下した命令は撤回できない!」

「…それは困りましたね」

冷たい視線で自分を見上げる小柄な青年に、狐は媚を売るように、引き攣った笑みを浮かべて見せた。

「そ、その代わり、これ以上の攻撃命令は出さない!だから…」

「命令を出さないというのなら、息をしていても、していなくとも、同じですよね?」

シバユキは無表情にそう呟き、狐は顔色を無くして硬直する。

「ま、まっ…」

「誤解の無いように申し上げますが、あなたを生かしておくつもりは元々ございませんでした。遅かれ早かれ始末するつもり

でおりましたので、悪しからず…」

丁寧な、しかし冷たい声音でそう告げると、シバユキは拳を握った右手を、顔の高さに上げる。

怯えきった狐の顔を映すその瞳が、静かに、憎悪の色に染まった。

「帝…、ひいては我が君に牙を剥いたその咎…。…死を持って償え…」

口調を一変させ、冷徹に言い放ったシバユキは、くるりと踵を返しつつ、鋼糸を掴んだ右腕をクイっと引いた。

ヘルハウンドの死骸に刺さったままの匕首を回収すべく、スタスタと歩き去るシバユキの後ろで、引かれた鋼糸に刻まれた

獣使いは、断末魔の声を上げる事すらできずに、胸から上を輪切りにされて崩れ落ちた。

(…位置を掴むのに少々手間取って、時間をかけてしまった…。ユウヒ様にご心配をおかけしているかもしれない…)

帝居襲撃の要を排除したシバユキは、しかし首尾よく使命を果たしたその事よりも、自分を可愛がってくれている主が、帰

りが遅い事を心配しているのではないかと、そんな事を考えていた。



「本部から緊急通信!川を上ったクルーザーが、長距離砲で市街地を攻撃し始めました!」

「早くもなりふり構わず来たか…!」

最前線手前、剣を担いでリーダー自ら斬り込む準備をしていたダウドに、通信手が告げる。

「…最後の手段だったけれど、被害を食い止める為よ、頃合いね…」

傍らで呟いたネネに小さく頷き、白虎は意を決した。

「俺の名で、中央監査室長への直通回線を繋げ」

ダウドの言葉に、通信手の顔色が変わった。

「特解上位調停者、ダウド・グラハルト、神崎猫音の連名で、マーシャルローの発令を進言する」



住民が避難し、ひと気が無くなった高層マンション。

その管理人室に入り込んだユウトは、目覚めたアリスを応接用らしきソファーに座らせ、その脇に腰を下ろした。

そして目前のテーブルに、懐から取り出した、丸まった画用紙を広げる。

それは、幼女がブルーティッシュ本部で、クレヨンで描いた絵だった。

「アリス。この絵の事を教えてくれる?」

ユウトはそう言いながら、画用紙に描かれた帽子を被った白い人型を指した。

「これは誰?」

幼女は笑みを浮かべながら、保護者の質問に答える。

「ハッター!」

「じゃあこっちは?」

「ホワイトナイト!」

「じゃあこれは?」

「ホワイトラビット!」

「この皆は誰なの?」

ユウトの問いに、アリスは笑みを深くする。

「アリスのお友達!」

ユウトは確信する。アリスの脳は幻覚達のデータを宿しているのだと。

自分達が突き止められなかったアリスの価値とは、つまりこの幻覚の能力。

周囲の全員に見せる事ができ、しかも殺傷能力すら持つその強力な幻覚が、アリスの商品価値だったのだろう。

その原理までは、神代家で育ち、ハンター養成校で専門的な教育を受け、様々な能力に対しての知識が豊富なユウトにも解

らなかったが…。

そして恐らく、アリスは生まれたその時から、この幻覚を脳に刷り込まれている。ユウトはそう推測した。

ユウトがアリスに施した学習の中にも、読んで聞かせた本の挿絵にも、幻覚達に似たものは無いのである。

「皆とは、これまでも良く会ってたの?」

「うん!」

「それはどこで?」

「寝てる時!」

迷う事なく応じるアリスを前に、ユウトは「やっぱり…」と、小さく呟いた。

テーブルの上の画用紙にはまだ様々な者が描かれている。

ユウトが指さして問う度に、アリスはハキハキと「友達」の名を口にした。

アリスは友達をユウトに紹介するのが嬉しいのか、それとも、これまでに尋ねられなかった、自分にとっては身近な友人達

について訊かれる事が嬉しいのか、ニコニコと笑みを浮かべていた。

全ての絵の特徴と、アリスが口にした名を記憶すると、ユウトはふうっとため息を漏らした。

一度に何体まで出せるのか判らないが、アリスが挙げた「友達」の名は十を越えた。

そして、ユウトはその名と絵から、ある事に気付く。

自分がアリスに読んで聞かせた、ある物語…。

その物語に登場するキャラクターと、アリスの「友達」は、名前と姿に共通点があった。

その物語の主人公の少女もまた、名を「アリス」と言う…。

(幻覚達のデザイン…、間違いなくあの物語が意識されている…。もしかしたら、アリスの名前すらも…、能力に付随して与

えられたコードネームなの…?)

無邪気に微笑む幼女を見つめながら、ユウトはアリスが不憫でならなくなった。

「アリス。お友達はこれで全部?」

「ううん。もう一人居るの!でも…、まだ形が決まってないんだって」

「え?決まって…、ない?」

何気なくした質問に思いがけない答えが返され、ユウトはアリスに問い掛ける。

「そのお友達は、何ていう名前?」

「ハンプティダンプティ!」

「そのお友達は、一体どういう…」

爆発音を耳にしたユウトは言葉を切り、覆い被さるようにしてアリスを抱き締めた。

突如襲った振動で、ビル全体が激しく揺れ、軋んでいる。

「地震…、じゃないよねもちろん…」

屋内も危険だと判断したユウトは、アリスを抱きかかえたまま外へと向かう。

爆発音から砲撃が行われたと察したユウトは、ビルの近くにある地下鉄のホームへ降りる事を考えた。

ビルが崩れて生き埋めになれば、強固な建材を退けて脱出するのは難しい。

だが、地下に埋もれる分には、土を掘って脱出できる。

ユウトは障壁を作り出せる自分の能力と、そして身体能力と相談し、そう結論を出した。

「アリス。お友達に伝えておいてくれる?ボクやタケシ、調停者や一般人は、皆味方だから、怖がらなくて良いんだよ、って」

「うん」

この伝言が上手く伝わる事を祈りながら、ユウトはアリスをしっかりと抱いたまま、爆発音の連続する屋外へと踏み出した。



「監査室より回答!受理されました!マーシャルロー、発令されます!」

通信手の声と同時に、ダウドとネネは携帯を取り出した。

開いたモニターは、程なく赤紫色に染まり、マーシャルローの発令を知らせる文面が映し出される。

「よし…!」

ダウドは国内の全調停者への最上級命令の発動を確認すると、背負った愛剣の柄を掴む。

「さぁて、一暴れするか、ダインスレイヴ…!行くぞネネ!」

「ええ!」

白虎は灰猫を伴って、前線へと駆け出した。



地下鉄のホームへ降り立ったユウトは、携帯が振動するのを感じ、ポケットから取り出した。

「マーシャルロー!」

赤紫の画面に浮かぶ指令を確認し、ユウトはほっと息を吐き出した。

やがて、首都外から調停者達がなだれ込んで来る。

ラグナロクの大部隊も、調停者連合軍を相手にすれば、戦線維持もままならず、後退を余儀なくされるはずだった。

「もう少しの我慢だからねアリス?すぐに静かになるから…」

「うん」

笑みを浮かべて頷いたアリスの頭を軽く撫で、ユウトは丸い耳をピクリと動かした。

無人のホームを見回したユウトは、レールが消えてゆく暗いトンネルの先へと視線を向ける。

「…声…?」

並の獣人を遙かに超える鋭い聴覚が、重なり合って響いて来る、微かな声を捉えた。

「アリス、しっかり捕まっててね!」

アリスを抱き締めたユウトは、迷うことなく線路に飛び降りると、

「禁圧解除っ!」

両脚のリミッターを解除し、列車の運行が途絶えた線路を、猛スピードで走り出した。



敵兵を斬り伏せ、刀を一振りして返り血を落とすと、タケシはボロボロに刃こぼれした刀を見下ろす。

「…済まない天国、無理をさせたな…」

労るように言って刀を空間の歪みに戻すと、青年は次の刀を呼び出す。

「頼むぞ、胴田貫…!」

使用不能になった刀はすでに三本に及ぶ。

消耗を押さえる為に能力の使用は控えているが、タケシは剣技だけで三十八人もの敵兵を斬り伏せていた。

「鬼神の如く…、だな…」

乱戦の中において、優雅と言えるほどの太刀捌きを披露する青年を横目に、トシキは呆れたような、そして感心したような

顔で呟く。

後方から味方の声が上がったのは、その時だった。

「マーシャルローが発令したぞ!」

その声は一気に全体へ広がり、疲労困憊の状態にあったブルーティッシュのメンバー達を奮い立たせた。

「ついに発令か…。正直なところ、可能であれば我々だけで何とかしたかったがな…」

トシキは低く呟くと、撃ち尽くした弾倉を素早く交換し、再び死の銃声を奏で始めた。



20分足らずで線路を10キロ以上も駆け抜けると、辿り着いた3つ目のホームで、ユウトは脚を止めた。

そのホームには、小さな子供達がひしめいていた。

「な、何で…!?」

ユウトがホームへひらりと飛び上がると、突然現れた金熊に驚き、子供達が泣き始める。

それを庇うように、エプロンをつけた若い女性が子供達の前に進み出た。

顔には怯えの色が見え、手足は震えているが、モップを握り締めて立ちはだかる女性の瞳からは、子供達を守るという使命

感が見て取れた。

「大丈夫!安心して!ボクは調停者だ。皆の味方だよ!」

ユウトはアリスを片手で抱き、もう片手を万歳でもするように上げて、敵意の無いことを伝えながら、子供達の引率者らし

き女性に歩み寄った。

「ちょ、調停者…?…はぁ…」

女性はほっとしたように呟くと、緊張が弛んだのか、へなへなと崩れ落ちる。

「一体…、どうしてこんな所に子供達が?」

そう問いながらも、ユウトは頭の中で地図を描く。

このホームは川を渡る大きな橋の傍にあり、前線に近い位置のはずであった。

「私…、この近くのモチノキ保育所の保育士です。あ、双葉恵(ふたばめぐみ)と言います…」

女性はそう名乗ると、ユウトに自分達が置かれている状況を説明した。

「保育所に特自の車両が来てくれて、ピストン輸送してくれていたんですが…、何か手違いがあったらしくて、この子達を迎

えに来るはずの最終便が、来なかったんです…」

事情は察したものの、ユウトは困惑の極みにあった。

(…参ったな…。いつもは、護るだけなら問題ないけれど…)

もしもまた、アリスの力が発動したら…、そう考えると、アリスと子供達を一緒にして護るのは厳しい。

しばし思案した後、ユウトは保育士に頷いた。

「安心して下さい。ボクが皆を護って見せます。ただ、一つお願いがあるんですけど…」

ユウトはそう言うと、抱いているアリスに視線を向けた。

「アリスって言います。ボクの大事な…、何よりも大事な子なんです…。この子も、どうか一緒に見ていて貰えませんか?」

ユウトの願いを、メグミは快く引き受けてくれた。

金熊は感謝の言葉を述べると、アリスを連れて皆から少し離れる。

そして、大切なその幼女を床に下ろし、跪いて目線を近付けた。

「アリス…。キミのお友達は、いつも何処に居るか判る?」

「ううん」

考えた事も無かったのだろう、アリスは首を横に振ると、不思議そうにユウトの蒼い瞳を見つめた。

「お友達はね、いつもアリスの傍に居るはずなんだ。きっと今も、すぐ傍でアリスを見守ってくれてる」

「ユウトみたいに?」

「うん。きっとボクと同じ!」

尋ねた幼女に微笑みかけ、ユウトは頷く。

「お友達に来て欲しい時は、アリスが呼ぶんだ。ただ、呼んで良いのは本当に危ない時だけ、そして、呼んだら必ずこう伝え

る事…、いい?」

ユウトはアリスの目をじっと見つめる。

「「アリスの味方を傷つけないで」って」

「うん。わかった」

ユウトはアリスの頭をくしゃりと撫でると、決してそんな事態にはならないよう、最善を尽くすと改めて決意する。

立ち上がったユウトの顔を見上げ、アリスは尋ねた。

「お友達を呼ぶときは、何て呼べば良いの?「お〜い!」って?」

アリスの問いに、ユウトは僅かに考えた後、その名を思いついた。

「呼びたいお友達の事を考えながら、まずは…、そうだね、こう声をかけてあげて?」

名をつけられる事で安定する能力もある。

能力に対して本人自身が確固たるイメージを持つ事が、制御能力を高める場合もある。

ユウトはその事を踏まえ、幼女に発動条件とすべき言葉を告げた。

その言葉は、「ワンダーランド」。

それがこの時より、アリスの能力に与えられた名前となった。



線路の内壁を崩して埋め、地下の侵入路を絶つと、ユウトはホームへと降りる階段に陣取った。

最前線のこの位置は、いつ敵がやって来ても不思議ではない。

しかし、どんな敵がどれだけ来ようと、ユウトには退く気など少しも無かった。

護るべき者が自分の背後に居る。

その解りやすいシチュエーションが、ユウトに闘志と覚悟をもたらした。

今も続いている砲撃がもたらす震動に、ユウトは怒ったように眉を吊り上げる。

「一人たりとも通さない…。命に代えても護って見せる!」

轡を並べる味方もなく、大勢の命を後ろに庇い、ユウトは、たった一人の防衛戦に挑む。



一方その頃、空母の一隻からやってきたクルーザーが、港に到着した。

ガシャリと音を立ててコンクリートの上に降り立ったのは、銀色の西洋甲冑を纏う、黒い鱗の勇壮なる竜人。

竜人は黄色い瞳で、ゆっくりと周囲を見回す。

港には、空母からやって来た、無傷のラグナロク兵達が整列していた。その数は優に、500を越える。

「これ以上の増援は何としても絶つ。川にかかる橋を落とせ。迅速にだ」

竜人は兵達にそう指令を下すと、後ろを振り返る。

「…貴女はどうなさるおつもりかな?」

遅れてクルーザーから降り立ったのは、すらりとした長身をピッタリとしたウェットスーツのような服で覆った、黒髪の女

であった。

纏う衣類も、ブーツもグローブも、背中に流れる長髪も、双眸すらも艶やかな漆黒で、肌だけが透き通るように白い。

「前線の様子を見て、それから決めます」

女は無表情にそう言うと、竜人の脇をツカツカと歩き抜けた。

女の行く手で、まるで触れる事を恐れてでもいるように、兵士達が慌てて左右に割れて道を作る。

「…中枢の一人、レヴィアタンか…。おそらくはお目付け役という事なのだろうが…、どうにも得体の知れない女だ…」

竜人は不快げに目を細め、口元を歪めて牙を剥き出すと、次いでクルーザーから降りてきた女性に視線を向ける。

「貴女はどうなさいますか、ヘル?」

後から降りてきた女は、肩の高さまで伸ばした、ソバージュのかかった灰色の髪を耳から払い、深紅の唇をキュウっと吊り

上げた。

黒い竜人の顔を映した灰色の瞳が、笑みの形に細められる。

「そうねぇ、まずは状況を見守らせて貰うわ。期待しているわよ?ミドガルズオルム…」

「お任せを、ヘル…。この作戦の指令に推して頂いたご恩、必ずやお返し致します…」

艶然と微笑むヘルに敬礼した竜人は、整列した兵達を振り返り、声を発した。

「後続の兵二千名が上陸し次第、封印点を強襲、制圧する。それまでに橋を全て落とせ。私は前線を視察する。二個小隊10

0名はついて来い。他100名は守備、残る300は橋を制圧せよ」

ラグナロクの首都強襲部隊総司令官ミドガルズオルムは、ついにその足を首都へと踏み入れた。

その命を受け、ラグナロクの兵が進軍を開始する。

ユウトと、アリスの下へと…。