第二十五話 「アリス・イン・ワンダーランド」
「さっきの閃光…、雷切だ…!」
崩れかけたビルの頂上で、ユウトは閃光の消えた空を見上げ、口の端を吊り上げる。
この地で、敬愛する兄もまた戦っている。その事が、ユウトの心を奮い立たせた。
瓦礫を踏み締め仁王立ちした金熊の、蒼い瞳が見据えるのは、街並みを越えた遥か彼方。河口とひとつながりになって見え
る海である。
沖に浮かぶは三隻の空母。ラグナロクの兵士達を運び、そしていまだ大戦力をその身に抱えたまま、洋上で睨みを利かせる
巨大な怪物。
「負けてられないね…。ボクも一発、派手なのぶちかますよぉ!」
ユウトは腰を落とし、両脇腹にぴたりとつけた拳に、力を集中させた。
金色の体に大気中からエネルギーが取り込まれ、周囲の気温が急激に低下する。
体に流れ込み、圧縮されてゆくエネルギーに、ユウトは体が内側から押されているような感覚を覚える。
(何て言うのかなぁ…。体を膨らまされてるようなこの圧迫感…、いまいち慣れないな…)
ユウトは目を閉じて呼吸を整え、不慣れな奥義の制御に神経を尖らせる。
力の集中に時間はかかるものの、失敗しない自信はあった。
焦る気持ちを押さえ込み、慎重に、慎重に力を取り込み、練り上げる。
やがて、眩く輝く黄金色の燐光を身に纏ったユウトの周囲で、キラキラとダイアモンドダストが舞い始めた。
「…よし…!」
準備を整えたユウトは双眸を見開き、かき集めて練り上げた力を両の拳に集中させる。
「奥義、轟雷砲!!!」
大きく前に踏み込みつつ、勢い良く突き出した両の掌から、金色の閃光が迸った。
川岸に近い位置のビルより放たれた、太い閃光の帯が上を通過し、川面が激しく乱れる。
ここまでの橋が全て落とされた川の上を辿るように、金色の光が海を目指して駆け抜ける。
そしてそのまま、沖合に停泊していた空母を一隻飲み込んだ。
一瞬の内に沖まで到達した光の帯の照射時間は、一秒にも満たない短いものであったが、巨大な空母はその熱と衝撃に耐え
切れず、自らの腹に抱えた弾薬等の兵器の誘爆によって、炎と黒煙を周囲に飛び散らせて爆発、四散した。
回避も防御も許さぬ、超長距離からの強力無比な砲撃。
後に、ラグナロク内で「魔王の戦槌」と呼ばれる事になる轟雷砲は、その一撃で空母を一隻沈め、結果的には他の二隻を撤
退させる事になった。
「ええ、撤退です。ミドガルズオルム?関係有りませんよ。これは中枢最高顧問としての命令です。解りましたね?」
前線間近の高層ビルの上、ロキは懐から取り出したペンシル型の通信装置にそう告げると、回頭し始めた残る二隻の空母を
眺め、満足げに頷いた。
「さて、退路を失ったミドガルズオルムは、どう出ますかね…」
「なんだと!?」
港で指揮を執るべく設置した仮設テントの中、空母が一隻撃沈され、残る二隻が戦線離脱したという報告を受けた竜人は、
驚愕に目を見開いた。
「くそっ!たかだか一隻沈められた程度で…!臆したか、ロキ!」
ミドガルズオルムは苛立たしげに吐き捨てると、傍らの椅子に立てかけていた槍を乱暴に掴んだ。
「全軍に告げろ!これより総進撃を開始する!」
「お待ち下さい!撤退すべきです!」
大隊を纏める隊長の一人、壮年の男が声を上げ、黒い竜人はギロリと視線を巡らせた。
「ちょ、調停者の連合軍が、すぐそこまで来ているのでは…!?空母からの支援が望めない以上、もう勝ち目はありません!
幸いクルーザーが数隻残っております!我々だけでも撤退するべきで…がふっ!?」
作戦参謀を務めていた壮年の男は、体をくの字に折り曲げた。
その腹部を、先端が三叉に分かれた竜人の槍が串刺しにしている。
「この期に及んで己の保身とはな…。腑抜けの意見など、必要無い…!」
ミドガルズオルムは串刺しにした参謀を腕一本で吊るし上げると、そのまま槍を振るって天幕の外へと放り投げる。
硬いコンクリートの地面に転がり、血溜りを作った参謀を一瞥すると、竜人は繰り返した。
「これより総進撃を開始する…!」
周囲の部下は怯えた表情で敬礼し、攻撃準備に取り掛かった。
「見ていろよロキめ…。バベルの出現は私の手で成す…!あいつを使い捨てになどはさせんぞ…!」
黒き竜人は、もはや撤退など考えてはいない。率いた兵を消耗品として扱う以上、自らの力と命もまた、消耗品として使い
切る覚悟を決めている。
ミドガルズオルムは自ら兵を率い、川沿いを上るルートを進軍する事を決めた。
橋を落とし、援軍の渡河を防ぐことができれば、事態を好転させる事ができると考えて。
瓦礫に半ば埋没していたユウトは、頭を振って意識を覚醒させる。
轟雷砲の反動で、元々崩壊寸前だったビルは完全に崩れ落ち、発射直後でまともに動けなかったユウトは、その崩落に巻き
込まれてしまっていた。
どれほどの時間気を失っていたのか、正確には解らなかったが、既に太陽が水平線から半分覗いている事から、数十分は経っ
ていると察しがついた。
強烈な脱力感があり、手足に力が入らなかったが、ユウトはなんとか瓦礫から這い出すと、
「…み…、水…!」
瓦礫から突き出している、水を噴き上げている水道管への傍へと、疲労で重い体を引き摺り、ずるずると這い進む。
ユウトの体が水溜りに触れると、明け方の冷たい空気に蒸気が立ち昇った。
熱暴走している体を冷水である程度冷やすと、ユウトは水道管に口を近付け、ガブガブと水を飲み始めた。
(…早く…、二人の所に帰ってあげなきゃ…)
熱を持った体はだるく、四肢に力は入らない。目は翳み、耳鳴りが酷い。
ユウトはフラフラと立ち上がり、水道管から離れる。が、直後に目眩を覚え、前屈みになり、膝に両手をついて体を支えた。
よろよろと、おぼつかない足取りで来た道を引き返し始めるユウト。
しかし、彼女が持つ鋭い感覚も、消耗の酷い今は本来の能力を発揮してはいなかった。
早く二人の元へ戻らなければならないという焦りが、冷静な判断力を奪っていた。
ユウトが自分の失態に気付いたのは、左肩に後ろから衝撃を受け、地面に倒れた後だった。
(あれ…?)
顔に、そして体の前面に硬いものが当たり、ユウトは一度、フラついて壁にでもぶつかったのかと考えた。
その一瞬後に、自分はうつ伏せに倒れ、地面に顔をぶつけているのだと気付く。
ライフル弾はユウトの左肩を後ろから前へと貫通し、その衝撃で金色の巨躯を地面へ押し倒していた。
左肩に衝撃の残滓があったが、感覚も麻痺しつつあるのか、痛みよりも灼熱感の方が強い。
ミドガルズオルムが指揮する、川沿いを上ってきたラグナロク兵三百超が、閃光の発射元を突き止めようと、周囲を捜索し
ていた。
「仕留めたか?」
「まだ息があるが、だいぶ弱っている。とっとと止めを刺せ」
自分の周囲でかわされる言葉を聞きながら、ユウトは朦朧とした頭で考える。
(あぁ…。あんな派手な真似すれば、敵が寄ってきて当り前だよね…。フラフラと大通りに出るなんて、どうかしてたな…)
自分の背に、誰かが靴裏を乗せたのを感じたが、ユウトにはもはや振り払う力さえ残っていない。
「しかしでかいな…」
「こいつも調停者か?一人で何してたんだ?」
「おおかた逃げ遅れたんだろう」
後頭部に硬い何かが押し付けられる。それを銃口だと悟りながらも、ユウトは動くことができない。
(ボクは、ここまでか…。ごめん、母さん…。仇を討てなかった…。ごめん、アリス…。帰れそうもないや…。ごめん、タケ
シ…。アリスの事、お願い…)
押し付けられた銃口の感触は、ユウトの祈りが終わると同時に、ふっと消えた。
響き渡る絶叫。体に降り注ぐ熱い液体。濃い、錆びた鉄のような臭気。
ユウトは何が起きたのか分からず、力を振り絞ってゆっくりと顔を上げる。
その眼前に、チョッキを着た白いウサギが立っていた。
「キミは…」
驚きを隠せず、呆然と呟くユウトの前で、目鼻も無い、マネキンのようにノッペリとしたウサギは、音も無く手を伸ばし、
その額に触れた。
幻のはずのウサギの手は、何故か暖かく、心地よかった。
白ウサギはすっと横にずれ、うやうやしく一礼する。その向こう側に立つ小柄な幼女を映し、ユウトの目が見開かれた。
「…アリス…!」
幼女は、怒っていた。目に涙を一杯に溜め、口を一文字に引き結び、視線はユウトを飛び越して向こうを見つめている。
その隣にはシルクハットを被ったマネキン。
ふと傍らを見れば、ヘルメットを被った男の生首が、ユウトの傍に転がっている。
ユウトに止めを刺そうとした男は、帽子男、ハッターの攻撃で首を飛ばされて絶命していた。
「…ユウトを…、苛めないでぇえええええええええええっ!!!」
アリスの叫びと共に、ハッターは狂ったように首を振り回し、次々と帽子を放つ。
飛翔した帽子は、次々とラグナロクの兵を仕留めながらも、ユウトの体を避けて飛んでゆく。
金熊は力を振り絞って身を起こすと、背後を振り返った。
三百を超えるラグナロクの兵が、港から続く川沿いの道を埋め尽くし、列を成していた。
「ワンダーランド…!」
アリスの口が、ユウトによって名付けられた、彼女自身の能力の名を呟く。
その直後、幼女の周囲の空間で、幻影のトランプが滲み出すように現れ、舞い始めた。
「レッドナイト!ホワイトナイト!あいつらをやっつけて!」
アリスの声に応じてトランプが渦を巻く。
それらが集まり、瞬時に姿を現した赤と白の騎士が、ユウトの脇を駆け抜け、ラグナロクの兵へと突撃をかけた。
「レッドクイーン!ホワイトクイーン!ユウトを守って!」
続けて呼び出されたのは、それぞれ赤と白のドレスを纏った二体のマネキン。
ホッソリとした体だが、胸が膨らんだ体形と、ドレスを纏っている事から、どうやら女性型らしい事が窺えた。
二体のマネキンはすうっと宙を滑るように、ユウトの左右へ移動すると、護るように両手を広げる。
すると、ユウトを囲むように周囲の景色が揺らめき、陽炎のようなものが立ち昇って、金熊の姿を敵兵の姿から覆い隠した。
「ジャバウォック!バンダースナッチ!」
アリスの声に応じ、その左右でトランプが渦巻くと、それぞれ西洋のドラゴンと虎のフォルムを模したマネキンが出現する。
二頭のマネキンは威嚇するように口を大きく開け、ユウトを飛び越して敵兵の中へと突っ込む。
ユウトは蜃気楼に護られながら身を捻り、背中側に手を付いて上体を支え、ぼんやりとした表情で二体の騎士と共に荒れ狂
う獣を眺める。その目が、丸く見開かれた。
金熊のぽこんと丸い腹の上で、少量のトランプが渦を巻くと、小さな茶色いウサギのマネキンが現れる。
「マーチヘア!ユウトを治して!」
アリスの声に応えて片手を上げると、小さなウサギはユウトの腹の上でうつ伏せに寝転がり、顔を見上げて頬杖をついた。
何をしているのかと、ユウトが訝しげに首を傾げると、小さなウサギも目鼻も無い顔を斜めにし、小首を傾げる仕草を見せる。
どうしていいのか判らず、ウサギを見つめていたユウトは、やがて自分の体に起こった変化に気付く。
火照っていた体が冷え始め、試しに動かしてみれば、弛緩していた四肢に僅かながらも力が入る。
いつの間にか肩の出血も止まり、少しずつ、ゆっくりと、ユウトの体に力が戻り始めていた。
(これも、幻覚の作用なの?)
驚きを隠せないユウトに、腹の上の小さなウサギは、依然としてうつ伏せに寝転がったまま、呑気に足をぱたぱたと動かし
ている。
(幻覚から攻撃を受けたと認識して傷を負う…。それと逆のパターン?疲労が抜けているって、ボクの心が認識して、体に影
響が出ているの?…ううん…、それにしてもこれは…)
ユウトは首を巡らせ、真剣な顔で自分の友人達を見守る幼女へと視線を向けた。
(アリスは…、ワンダーランドを制御している…!)
大切な者を守る為に精神が成長したのか、それとも先に解放された事でコントロールできるようになったのか、どちらかは
判断できなかったが、ユウトはアリスが自身の能力を完全に制御している事を察していた。
同時に、アリスの能力の正体に、この時始めて仮説を立てる事ができた。
それは、桁外れに強力な精神波を放つ事で、周囲の者達の精神波の波長を飲み込み、強制的に揃え、その認識に自分のイメ
ージする物を刷り込む、いわゆる認識ジャックのようなものなのではないかと。
有効範囲はかなり広く、範囲内の全ての者が、アリスのイメージする幻覚の守護者を目撃する。
複数人が同時に見る事ができる現象としては、ホログラムに近いものがある。
アリスの守護者達に襲われているラグナロク兵全員が、てんでばらばらに認識するのではなく、ユウトの目に見えている守
護者が居る位置を、やはり同じように見ている事から、全員が同じ位置に幻像を認識しているのだと仮説を立てたのである。
そしておそらく、場に満ちた精神波は、幻覚が肉体へ及ぼす影響をさらに強めている。
焼き鏝と偽られた鉄の棒に反応して水ぶくれを生じさせるどころではなく、骨が砕け、首が飛ぶ、強力な物理的影響力すら
発揮する程に。
(改めて考えて見れば凄い能力だ…。一気に8体もの幻影を生み出す能力。しかも、彼らは一切の攻撃に対して無敵…。…そ
う、アリスを守る、不死身の守護者達…!)
驚愕と共にユウトは悟る。
アリスの力は、本人が安全な所に居る限り決して敗れる事の無い、難攻不落の能力なのだと。
アリスの守護者達によって進軍が滞り始め、後方に控えていたミドガルズオルムは苛立たしげに怒鳴った。
「何をしている!さっさと進まぬか!」
「そ、それが!前方に奇怪な部隊が現れまして、妨害を受けています!」
「奇怪な部隊?」
竜人は報告を聞くと、運転する兵に命じ、自分の乗ったジープを進ませた。
「ユウト…。大丈夫?」
不安げに傍らに屈み込んだアリスに、ユウトは微笑を返した。
「大丈夫だよ。…護るつもりが、アリスに助けられちゃったね…」
ユウトは震えが抜けていない手を伸ばし、アリスの頭を撫でる。
アリスが目を離してもなお、幻影達は自らに下された命令を忠実に実行していた。
「このウサちゃんのおかげで、もうじき動けるようになりそうだから、そうしたら逃げようか。お友達も一緒にね」
「うん!」
幸いな事に、アリス自身には相手を殺したいという意思は無い。
強力過ぎる力が勝手に殺しているのだ。金熊はそう自分に言い聞かせた。
実際にはアリスの能力で人が死んでいるとしても、この幼いアリスが人を殺めていると認めるのは、ユウトには辛すぎた。
「そろそろなんとか動けそうかな…。ありがとう、えぇと…、マーチヘア?」
ユウトに礼を言われると、小さなウサギはピコッと耳を振って応じ、地面に降りた。
アリスの能力で産み出された幻影であるにもかかわらず、全ての幻覚達の動きはバラバラで、個性的で、ユウトは幻覚達自
身がそれぞれ独立した意志を持っているような錯覚を覚える。
「さあ、タケシの所に戻ろう…」
身を起こし、膝立ちになったユウトは、幻影に襲われている敵軍から目を離し、アリスに視線を向ける。
その一瞬が、運命を分けた。
遥か前方の幼女と、その前に屈み込む金熊めがけ、竜人は手にした槍を真っ直ぐに向ける。
「…穿て、ゲイボルグ…!」
竜人の意志に応え、三つの穂先が光を灯す。
放たれた、輝く三つの光弾が、無音で宙を走る。
笑みを浮かべ、ユウトに抱き上げて貰おうと腕を伸ばすアリス。
小さな手にそっと触れ、微笑みを返すユウト。
二人の間で、パシャッと温かい飛沫が跳ねた。
アリスは、少し驚いたように下を向いた。
幼女の腹には、ぽっかりと、直径2センチ程の穴が、並んで三つ空いていた。
左胸、鳩尾、右脇腹。連なった三つの穴から、血が断続的に吹き出し、地面に落ちる。
膝立ちで向かい合っているユウトの脇腹も一箇所が裂け、焼けたような裂傷から血を噴き出していた。
ふらりと揺れ、仰向けに倒れるアリスを、ユウトは己の傷の痛みも忘れて抱きかかえた。
「アリス!?アリスっ!」
胸に触れた手を顔の前に翳し、そこに付着した血を呆然とした表情で眺める幼女。
その口の端から、つーっと、赤い筋が流れた。
小さく一度噎せた後、アリスは堰を切ったように激しく咳き込み始める。
咳をする度に傷から血が吹き出し、口から血が溢れる。
その周囲で、幻覚達は制御を失い、トランプの山となって地面に崩れ落ちた。
「やはりタイプアリスか…。まさかと思ったが…、こんな所に生き残りが居ようとはな…」
振り向いたユウトの視線の先に、甲冑を纏った黒い竜人が立っていた。
その手には、先端が淡く輝く三つ叉の槍。
「脅威ではあるが、原理を知っていれば攻略可能な能力だ。術者本人を殺せば、幻覚も消える」
しばしユウトとアリスを見下ろしていたミドガルズオルムは、やがてその片手を上げ、前へ振り下ろした。
「始末しろ」
竜人の命に従い、進み出たラグナロクの兵が、二人に銃口を向ける。
ユウトはアリスを地面に横たえ、発泡スプレーで手早く止血すると、
「アリス。ちょっと我慢してて…。…帰ろうね…、一緒に、帰ろうね…!」
青ざめた顔で咳き込み続けているアリスを地面に寝せ、震える脚を叱咤して立ち上がる。
体が小刻みに震えているのは、疲労とダメージの為ばかりではなかった。
「…アリスを…、傷つけたな…?」
金色の大熊は、敵軍に向き直ると、震える声で呟いた。
「…これ以上は赦さない…、絶対に!」
足を引きずって進み出ると、ユウトは拳を固めて身構えた。
向けられる銃口に、しかし一片の怯えも見せずに我が身を晒し、ユウトはミドガルズオルムを睨み付ける。
その瞳に宿るのは、この場で死ぬ事になろうとも敵兵を追い散らすという決意。命尽きるまで退きはしないという不退転の
覚悟。
ボロボロになったユウトの体を支えているのは、ただ一途な、護りたいという心。
「…その目…、気にいらんな…」
竜人は苛立たしげに呟き、ユウトを睨み返す。
大切な者を護りたいが故の戦いへの意志は、ミドガルズオルムの戦う理由と近い。
自分と近い意志で戦う、しかし敵として立ちはだかる者を前にしたが故の苛立ちだという事に、竜人は気付いていない。
「…ハンプティ…ダンプティ…」
か細い声がユウトの背後で何かを呟いたのは、兵士達の指がトリガーにかかり、斉射がかけられる直前の事だった。
「…これ…は…?」
「何だ、あれは…?」
ユウトとミドガルズオルムは同時に呟いた。
銃を構える兵士達すらも目を丸くし、突如現れたその物体を見つめる。
ユウトとラグナロク軍の間に、巨大な卵が出現していた。
真っ直ぐに立ったその卵の高さは2メートル近くもあり、殻の表面にはスペードやハートなど、トランプの柄が描かれている。
ユウトは思わずアリスを振り返る。
意識が朦朧としているのか、幼女は焦点の合わない目で、卵をぼんやりと眺めていた。
「アリス!もう良いんだ!お願いだから…、お願いだからもう止めてぇっ!」
ユウトの口から悲鳴に近い声が漏れる。しかし幼女は、血の気を失った顔に、微かな、弱々しい笑みを浮かべて囁いた。
「ハンプティダンプティ…。ユウトを…、助けて…」
ビシッと、音が響いた。
音を立てる事の無いはずの幻影の卵に、音を立てて亀裂が生じていた。
ミドガルズオルムが、ラグナロクの兵士達が、振り返ったユウトが、そしてアリスが見つめる中、卵の殻は粉々に飛び散り、
トランプとなって宙に舞う。
(るおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉっ!!!)
鼓膜を震わせない無音の雄叫びが、その場に居た全員の精神に直接響き渡った。
舞い散る幻影のトランプの中、卵を割って現れた守護者の姿を目にし、ユウトは目を見開いた。
まだ、姿が決まっていない。アリスは先だってその友達の事を、ユウトにはそう説明していた。
ハンプティダンプティと名付けられた、昨日の段階では絵に描けなかったアリスの守護者は、たった今、その姿を定められた。
金色の巨躯に水色のティーシャツ、白いカーゴパンツと白いベストを身に纏った、これまでのマネキン型とは明らかに異な
るその守護者は、蒼い瞳で敵軍を見据える。
幼女が知る中で、この世で最も優しく、この世で最も美しく、この世で最も温かい存在。
そして、この世で最も信頼を寄せている存在…。
最後の守護者は、ユウトの姿を模して創造されていた。
まるで鏡に映したように精密に再現された金熊の姿は、身につけた衣類が部屋着である事を除き、本人と瓜二つであった。
生まれたその時から情を注がれる事も無く、ただ兵器として扱われ、あげくに処分されそうになった幼女。
それを哀れんだ一頭の狼によって、姉妹の一人と共に外の世界へと連れ出されたものの、さらわれてしまい、商品として扱
われて来たアリス。
彼女にとって、あの夜初めて出会った金熊が自分に微笑みかけてくれた事は、その数年の人生経験の中で、最も強く、鮮烈
な印象を伴って心に焼き付いていた。
「ハンプティダンプティ(ずんぐりむっくり)…。はは…、ボクの姿のお友達か…。名前キツいなぁ…」
ユウトが呆然としながらそう呟いた途端、ハンプティダンプティは守護すべき主の視線と想いをその背に受け、音もなく地
を蹴った。
大気の膜も、重力の楔も無視した無音の跳躍。
視界の中で急激に拡大した金熊に、ラグナロク兵は引き金を引き絞る事すらできなかった。
禁圧解除時のユウトに匹敵する、アリスの想像力の限界速度で移動したハンプティダンプティは、兵達に肉薄しつつ、跳躍
の勢いそのままに、身を捻って後ろ回し蹴りを放つ。
ゴキンッと、蹴りの軌道上にあった兵士三人の頭部が、肩と平行に折れ曲がった。
(るおおおおおおおおおおおっ!)
ハンプティダンプティは精神に直接響く雄叫びを上げ、敵兵の中で暴れ狂う。
その動きは、アリスが鍛錬中のユウトの姿を見て記憶した、神代流古式闘法の一部を完全に再現していた。
「えぇい!幻に構うな!本体の娘を始末しろ!」
ミドガルズオルムの叱咤も、荒れ狂うハンプティダンプティに乱された兵達には届かない。
幻とはいえ、攻撃を受ければ即死する。相手は攻撃を受け付けない上に、その動きはユウトそのものである。
繰り出される拳の先から、風にたなびく動きまで見せる尻尾の毛の一本に至るまで、あまりにも精密に再現されている為に
幻影と思えない事が、混乱を生じさせる一因にもなっていた。
ハンプティダンプティめがけて撃ち込まれる弾丸は、全てがその体をすり抜け、同士討ちを引き起こしている。
兵士達は完全な恐慌状態に陥った。
「ちぃっ!」
ミドガルズオルムは舌打ちをすると、リミッターをカットして漆黒の突風となり、混乱の極みにある兵士達の中を駆け抜け、
ユウトとアリスの姿を捉えて槍を振りかぶる。
その穂先が光を灯し、突き込む動作と同時に光の弾丸が放たれた。
先程ユウトとアリスを貫いた光弾は、しかし今回は寸前で竜人の手元がぶれ、見当違いの方向へ飛んでいた。
二人から大きく離れた位置で、光の穂先は地面に三つの穴を空ける。
「…がはっ…!?」
ミドガルズオルムは体をくの字に折って血塊を吐き出し、首を巡らせる。
すぐ脇に、自分の顔を見つめるハンプティダンプティの顔があった。
横合いから振るわれたその拳は、体を覆った鎧を傷つける事無く、竜人の鳩尾に飛び込んでいた。
幻だと知っていても、干渉を受けたと心が認識すれば、攻撃は有効となり、肉体へのダメージとなる。
精神波のフィールド内では、それがルール。
ラグナロク製人造人間、タイプアリスの能力特性を認識していながらも、ミドガルズオルムには誤算があった。
戦いを知らない幼子の感覚と認識、そして想像力が生み出す幻覚が、まさか自分よりも速く動けるとは思ってもいなかった
のである。
ハンプティダンプティの繰り出した右拳、ユウトそのものの豪腕は、分厚い鎧を無視し、竜人の堅固な外皮も無関係に、肋
骨をへし折り、胸骨を粉砕し、内臓を破裂させていた。
(るおおおおおぉっ!)
大きくあけられたハンプティダンプティの口から、精神を揺さぶる雄叫びが発せられた。
左拳が顎を殴り上げ、くの字に体を折っていた竜人の背筋が伸びる。
がらあきになった胴へ、右の膝が飛び込む。
再び体を折ったその首後ろに、組んで握り固められた両手が振り下ろされる。
俯せに崩れ落ちたミドガルズオルムの背に、踵が振り落とされる。
一瞬。ほんの一瞬の間に、竜人の頑強な体は、行動不能なまでに破壊されていた。
血反吐を吐きながら首を上げたミドガルズオルムの目が、二頭の金熊の姿を映す。
一瞬、目が霞んでいるのかと思ったが、ほどなくそうではない事に気付く。
金熊の一方は、体が土や血で汚れ、ジャケットを着ていた。
薄汚れた方の金熊が、竜人の喉を掴む。
ミドガルズオルムは声を発する事もできず、抵抗する事もできず、腕一本で吊し上げられた。
「…よくも…、アリスをあんなめに遭わせたな…?」
静かな、しかし赫怒に震えるその声に、瞳に、竜人は全身が凍りつくような恐怖を感じた。
自分の顔を映す蒼い瞳のその奥に、隠れ潜む別の何かが居る。
息を殺し、楔から解き放たれるその時を虎視眈々と待っている、無慈悲で凶暴な何かが、自分の様子を窺っている。
そんな、奇妙な寒気を伴う感覚があった。
視線だけを何とか動かし、助けを求めるように部下達を見るが、兵士達は完全に戦意を失い、ただただ怯えた目で彼を見返
すばかりだった。
「…砕け散って詫びろ…!」
静かに、そして無慈悲に、ユウトはミドガルズオルムに死刑宣告をおこなった。
竜人の喉を掴み、吊し上げた腕が筋肉で膨張し、手に燐光が灯る。
満身創痍でありながらも、そこに込められた力は、一撃で装甲車両を撃ち抜くだけの威力を持っている。
(ここまで…か…。済まん、ヨルムンガンド…。俺は、世界を変えられなかった…)
死を受け入れた黒き竜人の体から、力が抜けた。
「落熊撃(らくゆうげき)!」
喉輪落としで地面に叩き付けられ、硬い地面に後頭部を埋没させたミドガルズオルムの喉元で、閃光が弾けた。
胸から上を爆砕された竜人は、一度だけ、宙を蹴るように足をビクンと伸ばす。
そしてそれきり、もはや二度と、動く事は無かった。
こうして、首都攻撃部隊の総司令官は、ユウトに名乗る事無く屠られた。
死体の損壊があまりに激しく、指揮官本人だと特定されなかった為、公式文書では半年以上に渡り、指揮官の生死は不明と
いう扱いになった。
ブルーティッシュの調査と情報収集、捕虜の尋問の結果などを照らし合わせ、その事実が明らかになるまでは。
荒い息を吐き出しながら身を起こし、ユウトは傍らに立つハンプティダンプティに視線を向けた。
ユウトは自分の生き写しのような幻影を、奇妙な気分で見つめる。
その目前で、ハンプティダンプティの姿がすぅっと薄くなった。
向こうが透けて見える程に希薄になった姿を、ユウトが驚いて見つめる中、ハンプティダンプティは(るおぉっ…)と、ど
こか物悲しい声を発した後、空気に溶けるようにして消えた。
これまでとは明らかに異なるその消滅の様子に、ユウトは弾かれたようにアリスを振り返った。
地面に横たわったアリスは、目を閉じたまま、動かなかった。
「…アリ…」
ユウトの口から、か細い声が漏れた。
「…あ…」
わなわなと口元が震え、言葉が出ない。
「あ、あぁ…」
手足が震え、体中から何かが抜けてゆく。
「ああああああああああぁっ!」
胸の中心には、ポッカリと穴が空いたような喪失感があった。
「るおぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」
天を仰ぎ、垂直に立てた金熊の喉から、魂を磨り潰して絞り出すような、悲痛な叫び声が迸る。
蒼い瞳に、寒々しく、禍々しく、そして冷たい輝きが宿り、虹彩が消え失せる。
ユウトの穏やかな心の奥深くに押し込められ、理性に縛り付けられていた狂熊が、覚醒した。