第二十六話 「震天の慟哭」

『救援!至急救援を請う!川沿い…、う、うわあぁっ!』

『ひぃぃっ!来るな!来るな!来るなぁぁぁ!』

『誰か!誰か来ないのか!?もう保たな…ぎゃぁぁぁぁっ!』

『た、助けっ…!こんな、こんなヤツが…!』

『助けてくれっ!あ、悪魔だ…!魔王が来るっ!』

錯綜するラグナロク兵の通信は、調停者側にも傍受された。

恐慌状態となった兵士達の声が、悲鳴が拾われる中で、金色の魔王が荒れ狂う様が、戦場に中継された。

総司令官であるミドガルズオルムを含む、ラグナロクの精鋭三百名は、アリスの守護者達とユウトの手によって、一人の生

存者を残すことも無く、完全に壊滅する事となる。

マーシャルロー後に纏められた公式記録には、アリスと守護者達の事は残されておらず、ユウト一人の手による戦果として

記された。

そして、この凄惨かつ徹底的な殺戮の後に、魔王…、アークエネミーと、ユウトは呼ばれる事になる。



「あらあらあら…、面白い子が居るわねぇ…」

一般人の退去が済み、人気の無くなったアーケードのベンチに一人座りながら、ヘルは手元のコンパクトを覗き込んで呟いた。

一見普通の手鏡であるそれは、彼女お気に入りの通信端末である。

勝ちは無いと踏み、ミドガルズオルムのバックアップに見切りをつけたものの、しかしバベルぐらいは拝んでおきたい。

そんな事を考えながら手近なところで贄を集めるべく動き始めたヘルだったが、ミドガルズオルムの部隊にいくつか忍ばせ

ておいた中継装置に異常を感じ、戦場の映像を拾ってみたのである。

味方にすら伏せて様々な場所に仕込んでいる、米粒程の中継装置は、まずアリスの能力によって倒されてゆく自軍の兵士達

の姿を映した。

アリスの守護者は映像には映らないものの、ヘルは製造に携わった一人として、その現象がアリスシリーズの能力による物

であると察する事ができた。

視点を変えながら興味深く観察するヘルに、映像はミドガルズオルムの死を伝えた。

そして、彼を屠り、いまや暴走状態に陥っている金色の大熊の姿も。

自分が調整をおこなったミドガルズオルムを喪った事にはまったく頓着せず、ヘルは食い入るようにコンパクトを見つめる。

「ふぅん…。アリスシリーズも問題点さえ見つめなおせば使い道があったのねぇ…。それとも、あの個体が特別なのかしら?」

呟いたヘルは、コンパクトの表面をしなやかな細い指でなぞる。

「…良いわね、この熊ちゃん…。この子を素体にすれば、さぞ強いエインフェリアができあがるでしょうね…」

兵士の一人のヘルメットにつけていた中継機が送って寄越す映像の中で、凶々とした蒼い瞳を輝かせる金熊が拡大する。

指を大きく広げた腕を振り上げる金熊に、ヘルはコンパクト越しに微笑みかけた。

目を細め、艶然と笑むヘルが見つめていたコンパクトから、不意に映像が消える。

「あらやだ…。全部壊されたの?」

最後の中継機が、ついていたヘルメットの持ち主ごと粉砕されて沈黙すると、ヘルは腰を浮かせた。

「あらぁ…?夢中になっている間に結構経ったわね…。贄狩りするつもりだったのに…」

ヘルは困ったような顔でソバージュのかかった髪をかきあげ、コンパクトを畳んだ。

「機会があったら捕まえてあげるわね?金色の熊ちゃん…」

コンパクトに口付けし、ルージュを残したヘルは、面白いおもちゃでも見つけたように、目を輝かせながら呟いた。



地下通路の入り口に降りたシャッターは、来訪者を頑なに拒んでいた。

「ちっ!シャッターがいかれてやがる!」

アンドウは舌打ちをすると、同行者を振り返った。

「エイル。敵が見えたら遠慮なく蜂の巣にしてやれ」

「了解であります」

地下通路前でジープを盾にし、両脇に挟み込むようにして二丁のアサルトライフルを構えたレッサーパンダは、川下の方角

を見据えたまま応じた。

ずんぐりした体型で背も低いエイルが握ると、アサルトライフルはやけに長く見える。

周囲には能力の使用準備として様々な重火器を広げ、迎撃に備えた体勢をとっていた

救助に駆け付けた二人の周囲には、同じく個別に廃墟を突破してきたブルーティッシュのメンバー十二名。いずれも中位以

上の腕利き調停者である。

故障したシャッターを通常の手段で開ける事は諦めたアンドウは、

「済んませーん!救助の者ですが、ちょっと手荒に開けますんで、決してシャッターには近付かないで下さーい!」

床に伏せてシャッターの下の隙間から中を覗き、誰も居ない事を確認しながらも、一応警告を叫んだ。

「…んじゃ、ぶっ壊すかね…」

呟いたアンドウが腰の後ろに手を回し、固定具を外して両手で引き抜いたのは、二丁の小型サブマシンガン。

拳銃を一回り大きくしたようなサイズのそれを、シャッターめがけて両手で構えると、アンドウはそのトリガーを引き絞った。

連続した銃撃音と同時に、高速連射される鉛弾。

銃口で楕円を描くように腕を動かしたアンドウは、トリガーから指を離すと同時に、勢い良くシャッターを蹴った。

弾痕で楕円形が描かれたシャッターは、その蹴りで内側に向かって弾け飛ぶ。

「じゃ、おじゃましまーす」

場にそぐわぬ気の抜けた断りを入れ、同僚二名と共に地下通路内に入り、階段を下ったアンドウは、

「ん…?」

警戒した表情でモップを握り締め、通路の曲がり角に身を潜めて、こちらを窺っている女性を目にして、口をポカンと開けた。

「あ…?」

エプロン姿の女性もまた、アンドウの姿を目にして声を漏らす。

「…フタバ…?」

「アンドウ君!?」

二人は意外そうな顔で、同時に声を上げた。

「知り合いか?」

脇を固めたヘラジカの同僚に尋ねられたアンドウは、頭をガリガリと掻き、気まずそうに顔を顰めながらボソっと応じた。

「高校ん時の同級生…」



その女性は、長く美しい黒髪を風になびかせ、返り血で全身を染めた大熊と対峙していた。

周囲には、広範囲にわたって倒れ伏す、物言わぬ骸。

大半が原形を留めていない遺体のその数は、少なく見積もっても三百近い。

「ルルルルルルルルルッ…!」

喉を鳴らして威嚇する大熊は、蒼い双眸で女を睨み、全身の毛を逆立てる。

金色の体毛は返り血で鮮やかに赤く染まり、朝日が注ぐ中にあってなお、まるで夕陽を浴びているようにも見えた。

その少し後ろでは、小さな女の子が、身じろぎ一つせずに地面に横たわっている。

「…タイプアリス…。やはり…」

女性は小さく呟くと、ちらりと視線を横に向ける。

大きく抉れた地面に半ば埋没するようにして、胸から上を失った、甲冑姿の死体があった。

女性はさらに周囲を観察し、転がる死体の山が、全て自軍の兵である事を確認する。

(ミドガルズオルムと三百の兵が敗れた…。タイプアリスと、たった一人の獣人に…。信じ難いけれど事実のようね…)

女性は胸中で呟くと、血塗れの金熊に視線を戻す。

美しい。そう思った。

あちらこちらに傷を負っており、特にライフル弾で射抜かれた左肩の銃創からは出血がひどく、腕は流血で真っ赤に染まり、

力なくだらりと下がっている。

その身を染めているのは自身の血だけではない。命を摘み取り、そして浴びた夥しい返り血が大半を占める。

しかし、己と敵の血で朱に染まり、傷つき汚れ果てた逞しい体躯は、それでもなお衰えぬ闘志で支えられ、覇気が漲っている。

倒れた幼女を護るように、夥しい骸の中にただ一人立つ者…、緋金色の魔王。

これほどの戦士が、果たしてラグナロク内に何人居るだろうか?レヴィアタンはそう自問した。

「この気配…。貴女は神将の血族ね…?」

囁くようにそう呟いた女性は、大熊の姿を改めて観察する。

限界を遥かに超えた身体能力を引き出され、酷使された金熊の体には、至る所に裂傷が生じている。

切られたのではなく、負荷に耐え切れずに内側から皮膚が裂けてしまっていた。

レヴィアタンの目には映らないものの、被毛の下では肌が内出血で変色し、パンパンに張っている。

(神卸しの制御失敗…。それなのに、理性を失ったその状態でもなお、その子を護り続けているのね…。…本能?それとも、

それ以外の深い何かによって、最後の一線を越えずに踏み止まれているの?)

表情に乏しい、人形のように整った女性の顔に、有るか無しかの微かな笑みが浮かんだ。

そして彼女は、無造作に足を踏み出す。

「クハッ!クハッ!」

四つん這いに近い前傾姿勢を取り、威嚇音を発する大熊に、女性はまるで親しい友人にでも近付くように、怯えも、警戒も

見せず、自然な足取りで歩み寄った。

「ゴアアアアアァッ!!!」

間合い直前まで歩み寄った女性に向けて、大熊は咆吼を上げる。

豪腕を振り下ろそうと上体を起こした大熊の懐に、女性は瞬き一つの間にするりと入り込んだ。

ふっと消え、そして目の前に現れたようなその動きに、大熊は虚を突かれたように動きを止める。

その鼻先に、女性の手が伸びた。

「鎮まりなさい。その子を傷つける者は、もはやこの場には居ないのだから」

湿った鼻先を、女性の手がそっと撫でた。

鼻の上、口の横、そして頬へと、女性のしなやかな指が撫でる内に、大熊は警戒を解いたように唸りを止めた。

その瞳からは獰猛な光が徐々に失せ、理性の光が舞い戻る。

蒼い瞳に女性の顔を映し、数度瞬きした後、ユウトはハッと我に返った。

素性の知れない女性を前に、素早く間合いを取ろうとしたが、しかし足に力が入らず、膝が折れてその場で片膝をつく。

女性の顔を見上げたユウトは、その優れた戦士の感覚で、目前の相手の事を知った。

(…このひと、一体…!?)

自分を遥かに凌駕する戦士。ユウトの感覚は、目の前の女性の力をそう捉えていた。

(それに…、この感じは何?レリックの波長にも似た感覚…、まるで、タケシみたいな…)

敵なのか、それとも味方なのか、にわかには判断がつかず、ユウトは困惑する。

相棒と似た印象を受ける目の前の女性からは、敵意も、闘志も、全く感じられなかった。

「貴女は…、一体…?」

正体も所属も不明な女性を前に、大熊は慎重に口を開く。

「私は、レヴィアタン」

困惑を湛えるその瞳を見つめ返しながら、女性は囁くように、そう名乗った。

(調停者…なの?少なくとも、敵じゃないみたいだ…)

相手に敵意が無い事を悟ったユウトは、小さく安堵の息を吐き出す。

女性はその黒い瞳を、ユウトの後方で横たわるアリスへと静かに向けた。

「…まだ息があるようね…」

その言葉に、ユウトは狂熊覚醒で意識が飛ぶ前の出来事を思い出した。

「…ア、アリス…!」

素早く振り向くと、負荷に耐え切れずボロボロになった体を引き摺り、ユウトはアリスの傍へと這うようにして進む。

「アリス…。アリス…?う…、うぅうううっ!」

にじり寄ったユウトは、ぐったりとしたアリスを抱き起こし、嗚咽を漏らした。

幼女の出血は、だいぶ治まっていた。

それが、体内の血液自体が殆ど流れ尽くしてしまったからだという事を、ユウトは絶望と共に悟る。

「アリス…!アリスっ…!」

ユウトは体温を失って冷たくなりかけている幼女を抱き上げ、その体を温めるように優しく抱きかかえた。

まるで、そうする事で幼女が体温を取り戻し、命の灯火を繋ぎ止められると信じているかのように。

何十という敵を屠り、何百という敵を退ける力を持ちながらも、自分には、幼い女の子一人救う事が出来ない…。

己の無力さに絶望し、歯を食い縛り、目を固く閉じ、涙を流して肩を震わせるユウト。

その耳に、弱々しい、微かな声が届いた。

「…ユ…ウ…ト…」

囁かれた声に、ユウトは目を開け、アリスの顔を見つめた。

薄く開けられたアリスの目は、焦点があっておらず、ユウトを突き抜け、天の遥か高みに向けられている。

「アリス!アリス!しっかりして!必ず、必ず助けるから!だから…」

やっとの事で薄く目を開けたアリスの耳にはしかし、もはやユウトの声も届いてはいない。

幼女の意識はすでに朦朧としており、間もなく闇に飲まれようとしていた。

涙を流しながら、必ず助けると訴えるユウトの横に、レヴィアタンが静かに立つ。

「その子は…、タイプアリスの一人、アリスエイトよ」

ユウトは涙でグショグショになった顔を上げ、傍らに立つ女の顔を見上げる。

「タイプ…アリス…?」

意味が解らず問い返したユウトに、レヴィアタンは小さく頷き、続けた。

「ラグナロクがエインフェリアの製造技術を応用して産み出した、局地攻撃用人造人間。開発コードは、オリジナルとなった

幼女の名を取って「
Alice」…。その子はその中の一人よ」

レヴィアタンはとうとうと説明を続けながら、ユウトから視線を外し、アリスを見遣る。

「生物以外に一切の破壊を及ぼす事無く対象を殺戮する生きた兵器。…けれど、タイプアリスはラグナロクの意図にそぐわな

い欠陥品だった…。オリジナルとなった幼女もそうだったように、産み出されたタイプアリスもまた、その能力の負荷に耐え

られずに脳が自壊してしまう事が、誕生後に解ったの」

レヴィアタンの言葉の内容が、今のユウトの頭には半分も入らない。

目の前の女性が何故ラグナロクの内部事情まで知っているのか、そんな事にも疑問が及ぶ事は無かった。

「タイプアリスの殆どはラグナロク内で処分されたわ。でも、ある獣人の手により、処分直前だった二人だけが連れ出された」

レヴィアタンは目を細めアリスの瞳を見つめた。

「この子と、南米で死んだ子がその二人よ。そしてこの子は、現存するタイプアリス最後の一人…」

生気を失った目で、ぼんやりとユウトの顔を見つめているアリスを眺めながら、レヴィアタンは思う。

(ウル…。貴方が命をかけてまで救い出した子は…、結局二人とも…)

レヴィアタンは屈み込むと、焦点を失った目をのろのろと自分に向けるアリスに手を伸ばし、その頭をそっと撫でた。

(タイプアリスが産み出されて、もうじき七年…。ラグナロクの試算では、タイプアリスの寿命は六年程度といった所だった

わ…。にもかかわらず、この子は今日まで生き続けた…)

黒い目を細め、レヴィアタンはアリスに微笑んだ。

(頑張ったのね、貴女は…。そんなにも、このひとと少しでも長く、一緒に居たかったのね…)

それまでの、表情に乏しい顔からは想像も出来ないほど、レヴィアタンは限りなく優しい、慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。

「…アリスは…、助からないの…?助けられないの…?」

ユウトはしゃくりあげながら、懇願するようにレヴィアタンに尋ねた。

自分でも解っているのに、尋ねずにはいられなかった。

もう助けられない事は重々解っているのに、誰かに「そんな事はない」と言って欲しかった。

レヴィアタンは黙したまま、腰の後ろに止めていたポーチに手を伸ばすと、中から半透明の蒼いビニールケースに収まった

注射器のセットを取り出す。

目で問うユウトに、レヴィアタンは告げる。

「一種の強壮剤よ。痛覚を麻痺させる効果もあるわ。強い中毒性があるから本来は簡単に使うべきではないけれど…、この子

の苦しみを、薄れさせる事はできるはずよ」

確認するように蒼い瞳を覗き込んだレヴィアタンは、

「…それで…、アリスが少しでも楽になるなら…」

ユウトのその返答を待ってから、アリスの細い腕に注射器の針を当てた。

注射器の中の透明な液体が、幼女の血管に注ぎ込まれる。

薬物が弱った鼓動に乗り、緩慢に血管の中を進んで脳に達すると、意識の覚醒作用と痛覚の鈍麻作用は、直ちに発揮された。

「…ユウト…」

アリスの瞳が、ユウトの顔に焦点を合わせた。

「ユウト。なんで泣いてるの?」

「泣いてなんか、いないよ。アリスが眠っている間にね、雨が降ったんだ…」

ユウトは嗚咽を飲み込み、アリスに微笑んだ。

泣き顔は見せるまい。

ほどなく涅槃へと至るこの子に、泣き顔だけは決して見せるまい。

ユウトは自分の心に、そう言い聞かせる。

「ユウト…、アリス、お腹減っちゃった…」

「うん。帰ったら、アリスの好きなフレンチトースト作ろうか!タケシの為に、二人でハンバーグも焼こう?そうだ!せっか

くだから、昨日はゴタゴタでできなかったクリスマスパーティーにしよう!」

「クリスマスパーティー?」

「うん!事務所に帰って、タケシと、アリスと、ボクと、三人で部屋を飾り付けしてさ!そうだ!ツリーも買って来なきゃ!」

「ユウト…。アリスのお友達も、呼んでもいい…?」

「もちろん!いっぱい、いっぱいお礼をしなくちゃね!アリスとボクの事、助けてくれてありがとうって!」

「うん!でも、お風呂にも入りたい」

「あ〜、ずいぶん汚れちゃったもんね。…そうだ!狸のおじちゃんのお風呂に行こうね!また泡の出るお風呂に入ろう!」

「ユウト、ごめんね?アリス、お洋服よごしちゃった…」

「い、良いよそんなの!怒ったりしないから…!そうだ!服屋さんにも行かなきゃね!会った頃と比べて背が伸びてきたから、

少し小さくなってるのもあるもんね。一緒に可愛いの探しに行こう!せっかくだからクリスマスプレゼントも!」

「うん。ユウトのも!」

「んははっ!ボクのはちょっとなぁ。普通のサイズじゃ着れないから…」

自分の頭を優しくなでながら、苦笑いを見せたユウトに、アリスは思いついたように言った。

「アリス、ユウトとおそろいのが着てみたい」

「えぇ?でも、これ着てもかわいくならないよ?仕事で選んでるだけなんだから…」

「でも、着てみたいの」

「う〜ん…。まぁ、子供用のジャンバーとか、カーゴパンツなら似たような感じにはなるか…。判った。一着探してみようか」

「うん!…ユウト…」

「ん?なぁに?」

ニコニコと笑みを絶やさず話し続けるユウトに、

「ユウト、大好き」

アリスは笑みを浮かべてそう言った。

出会ったあの夜のような、心溶かすその笑みに、ユウトは、なんとか微笑み返した。

「…ボクも…、アリスが大好きだよっ…!」

涙を堪えるのは、限界だった。

微笑みながらも、金熊の目尻から涙がこぼれ落ち、アリスの頬を濡らす。

「ユウト…、ありがとう…」

そう呟いたアリスの目が、ゆっくりと細められた。

いつもの、眠くなったときに見せる顔で、アリスはユウトの頬に手を伸ばす。

小さなか細い手が、柔らかな毛に覆われた頬をそっと撫で、涙を拭う。

「…楽し…かった…。ありが…と…」

自分の頬を撫で、微笑みながら続ける幼女に、ユウトは怒ったように言う。

「アリス…、そんなお別れみたいな事、言っちゃ駄目だよ?これからも、ずっと、ず〜っと、ボクとタケシと三人で…」

「アリスね…、ユウトと、タケシと居られて…ずっと、嬉しかっ…た…。幸せ…だった…」

「アリス?ねぇ、これからも、ずっと…」

「ユウト…」

ユウトの言葉を遮り、アリスは満面の笑みを浮かべる。

「大好き」

その言葉に次いで、アリスの手はユウトの頬から離れた。

自分の頬から離れ、薄い胸の上に落ちた幼女の手を、ユウトは息を止めて見つめる。

「…あ…アリ…ス…?」

笑みを浮かべたまま目を閉じているアリスは、まるで、眠っているようだった。

「アリス?…もうっ!眠る前には「おやすみなさい」だって、いつも言ってるじゃないか…」

アリスの頬に触れ、ユウトは微笑みながら呟く。

「アリス…?ねぇ…?おやすみなさいは?」

ユウトの声に、しかしアリスが答える事は、二度と無かった。

「アリス…。アリス…!ア…、アリ…ス…」

まだ温もりをもっているアリスの小さな体を、ユウトはぎゅっと抱き締める。

息遣いも聞こえない。鼓動も感じられない。温もりはゆっくりと失われてゆく…。

全てを賭けて護ると決めた。

必ず幸せにすると誓った。

なのに、それらは果たせなかった。

幼女を抱き締めたユウトの背が小刻みに震え、喉の奥から押し殺された嗚咽が漏れる。

「…ほんとうに…、逝って…しまったの…?もう…アリスは…」

誰に問うでもなく、ユウトは呟く。

黙したまま、アリスとユウトの別れを見守っていたレヴィアタンは、幼女を抱き締める金熊の肩に、そっと手を置いた。

声は掠れ、しゃくりあげる音に混じり、決して鮮明には聞こえなかったユウトの言葉に、レヴィアタンは優しく答える。

「安らかに旅立ったわ…。決して恵まれた状況で生を受けたとは言えないけれど、この子の最期はそれでも、幸福なものだっ

たと私は思う…。最愛の者の腕の中で、逝く事ができたのだから…」

「アリスは…、まだこんなに小さいのに…、もっともっと、生きて、見て、笑って、楽しんで…」

ユウトは天を仰ぎ、睨み付けるように空を見上げ、声の限りに叫んだ。

「こんなっ…!こんなのぉっ…!幸福でなんかあるもんかぁああああああっ!!!」

悲痛な叫びが大気を揺らし、瓦礫の中を駆け巡る。

響き渡ったその声の反響が収まった後、

「その子は言ったわ」

レヴィアタンは静かに、ユウトに囁いた。

「楽しかったと…。嬉しかったと…。幸せだったと…。そして、ありがとう、と…。この子の言葉を信じてはあげられないの?」

ユウトは空を見上げたまま、喉の奥から嗚咽を漏らす。

「この子はもう話せない。なら、最期の言葉を聞いた者が、この子は幸せだったのだと言ってあげなければ…」

レヴィアタンはアリスの安らかな顔に視線を向け、哀しげに目を細めた。

「…信じてあげなければ…、哀し過ぎるでしょう…?」

天を仰いだユウトの目から、涙がこぼれ落ちる。

「う…、うぅ…、うぅぅうううっ…!」

蒼い瞳に映る、のっぺりとした曇天が、滲んで、揺らめいた。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」

天を打ち震わせる慟哭が、ユウトとレヴィアタン以外に動く者のない戦場跡に、風に乗って響き渡った。