第二十七話 「御柱破壊」
数十名の調停者達が、少年の周囲で倒れ伏していた。
静かな、そして広い公園。
心霊現象が目撃されるなどとの様々な噂が飛び交い、昼間でも閑散としている、首都の中にあって異様に緑が多いその公園
の入り口で、左脇に四角い石版を抱えた少年は、口の端を微かに吊り上げて薄く笑う。
「ば、馬鹿な…!」
少年を遠巻きに包囲した中の一人、壮年の調停者が、恐怖に顔を引き攣らせながら口を開いた。
「封印点を汚せば、何が起こるか解らないのだぞ!?」
少年の姿をしたソレが、しかし中身は全くの別物である事を、取り囲んだ調停者達は悟っていた。
ねっとりと体にまとわりつき、動きを妨げるような、禍々しく濃密な殺気。
肌が粟立ち総毛立つ、全身をチリチリと刺激する不可視の圧力。
発令されたマーシャルローに応じ、確保された陸路を辿っていち早く東進して来た援軍は、監査官達からの依頼を受け、最
優先でこの公園の防衛に回った。
ブルーティッシュへの助力ではなく、この封印点とされる公園を護る為に。
しかし、たった一人の少年を遠巻きにしながら、調停者達は封印点を防衛するどころか、逃げる事すらできなくなっている。
少年は調停者達には目もくれず、何処か面白そうに公園を眺めながら呟く。
「解らないのは貴方達にとって、でしょう?私には解っていますよ。…此処に眠る物が何なのかという事まで、ね…」
目を細めて囁くように言うと、少年は自分を囲む調停者達を見回した。
一見すると、少年が調停者達に包囲されているように見える。
だが、実際には少年に射竦められた調停者達が、身動きできない状況であった。
「退いて下さい。でないと死にますよ?」
そこに居ると、雨に濡れますよ?そんな他愛のない調子で少年は言った。
だが、その一言と同時に起こった変化は劇的だった。
その場に漂っていた濃密な殺気が霧散すると同時に、調停者達は呪縛から解かれたように、雪崩を打って逃げ出した。
一人残ったロキは、薄く笑みを浮かべたまま呟く。
「首都の調停者が今の皆さんのようなレベルであれば、ミドガルズオルムでも首都を落とせたでしょうね。さて…」
ロキは公園の中に視線を注ぎながら、興味深そうに瞳を煌めかせた。
(皮肉にも、我等が精鋭達の犠牲によって、封印を解くに十分なだけの精神波が満ちました。犠牲を顧みないミドガルズオル
ムの強引な攻め手も、少しは役に立たせなければ勿体無いですからね)
心の内で呟くと、ロキは公園に足を踏み入れた。
大地が震えた。
その時、首都に残っていた多くの者が、その信じ難い光景を目にした。
空に湧き出した黒雲。その下を駆け巡る稲光。
立て続けに落ちる雷、それを浴び、雲を突く巨大な塔が現れる様を。
攻める者、護る者、多くの犠牲が積み重なり、首都に充満した精神の断末魔を糧に、バベルは、顕現した。
「ゆ、ユウヒ様…!御柱が…!」
塔を見上げ、焦りの声を上げるシバユキには答えず、ユウヒは帝居の濡れ縁に跳び上がり、帝の元へと走った。
(…ユグドラシル…!誰が喚びやがった!?)
巨大な塔の威容を見つめ、白虎は憎々しげに胸の内で呟く。
「バベルが顕現した!?そ、そんな…!敵部隊はここで食い止めているのに…!?」
彼方に聳える、天を突く巨大な塔を睨むダウドの傍らで、ネネは驚愕の表情を浮かべる。
バベルの出現条件が整うほどの血が流れた事と、自分達が維持しているはずの防衛線の内側に侵入し、封印を解いた何者か
が居る事、それらの事に驚きを隠せなかった。
「ネネ。長く離れる。後は頼んだ」
ダウドは巨剣を背負うと、厳しい表情でサブリーダーに告げた。
「死守だ。何があってもこれ以上アレに敵を近付けるな」
頷いたネネに背を向けると、ダウドは遠くにあってなお巨大な塔の姿を睨み据える。
「誰が来てるんだか知らんが…、渡す訳にはいかん…!」
呟いた白虎は目を細め、不敵な笑みを浮かべた。
バベルの出現。それは首都最大の危機であると同時に、ダウドにとっては千載一遇の好機でもあった。
首都にバベルが出現した。そこに居合わせる以上、盟友は必ず行動を起こすはずだと信じ、ダウドは白い塔を目指す。
「帝。お許しを頂きに上がりました」
畳の上に片膝をついて目を閉じた赤銅色の巨熊は、神将の血族が仕え、護るべきモノの象徴たる人物に対し、深々と頭を垂
れた。
「一時、帝居の護りから離れる事、そして…」
ユウヒは一度言葉を切り、それから続ける。
「御柱を破壊するお許しを頂きたい」
少しの間の後、澄んだ、高い声が応じる。
「面を上げよ、ユウヒ」
主の言葉に応じ、赤銅の巨熊は顔を上げる。
その瞳に、不釣り合いに大きな座椅子に腰掛けた、小さな人影が映り込んだ。
「呼ばれているような、奇妙な感覚がある…。余に来やれと言うておる…。それでもあれは、危険な物か?」
「は。恐れながら…」
奥羽の闘神がかしずくのは、黒絹のような美しい黒髪を肩まで伸ばし、艶やかな金糸で飾られた朱の着物を纏う、十歳にも
満たない子供。
この年端もゆかぬ小さな女の子こそが、ユウヒが仕える現在の帝であった。
帝は壁を見透かすように目を細め、バベルが出現した方角を見遣った。
「御柱は、どのような者の手にも、…この国の政府の手にすらも渡ってはならぬもの…。どうかお許しを…」
ユウヒの言葉に頷くと、帝は口を開く。
「判った。そなたに任せる。皆に良いようにしてくれ」
「御意」
深々と頭を垂れ、下がろうとしたユウヒは、「あ…」という、帝の小さな声を耳にして顔を上げた。
「いかがなされましたか?」
「あ…、その…。ユウヒ…、…無事に終わったら…、少しでよい、外へ連れて行ってはくれぬか?」
困ったように眉根を寄せた赤銅色の巨熊に、帝はおずおずと続ける。
「クリスマスで、街は綺麗に飾られているのであろう?少しでよい、歩いてみたい。…駄目か?」
子供らしい歳相応の希望は、しかしこの国の鎮護の要である帝にとっては、そう簡単には叶わぬ物であった。
しかしユウヒは、厳つい顔に優しげな笑みを浮かべて頷く。
「はっ。共が某などでも宜しいとおっしゃられるのであれば、喜んで…」
帝の取巻きから不興を買う事になるのは重々承知していたが、自分が一緒であれば神崎家は目を瞑ってくれるだろう。
そう考えたユウヒは、幼い主君のささやかな願いを、叶えてやりたいと思った。
(しかし…、これだけ被害が出ては店も閉まっておろうな…。帝がお喜びになられるような物などお見せできるかどうか…)
一時、そんな平和な事を考えていたユウヒは、自嘲するように口元を歪めて自分を戒めた。
「では、行って参ります」
最後に深々と頭を下げると、戦人の顔に戻った神代の当主は、己が役目を果たすべく立ち上がった。
「…首都の御柱が…、戻ってきた…」
ユウトの傍らで立ち上がり、レヴィアタンは塔を見据えて呟いた。
「私もそろそろ行かなければならないわ」
ユウトはアリスを抱き締めたまま、フラフラと立ち上がる。
「…ボクは…、うぶっ…!」
言葉を全て言い切る事はできなかった。ユウトはがくりと膝を着くと、その場で噎せ始め、喀血する。
「無理はしない事ね。どのみちもう遅い…、アレはラグナロクの物にはならないわ」
レヴィアタンはそう言うと、ポーチから錠剤が入ったプラスチックの小瓶を取りだし、ユウトの目の前に放った。
音を立てて地面に落ちた小瓶を目にしたユウトは、のろのろと顔を上げてレヴィアタンを見る。
「ただの栄養剤よ。気休めにしかならないけれど、無いよりはマシのはず」
「…ありがとう…。何て、お礼を言えば良いか…」
「礼には及ばないわ」
頭を下げたユウトに背を向け、レヴィアタンは呟いた。
「…できれば、戦場ではもう、会いたくないものね…」
そのあまりにも小さな呟きは、ユウトの耳には届かなかった。
「え?」
ユウトが顔を上げた時には、レヴィアタンはそこに居なかった。
取り残されたユウトは、物言わぬアリスを大事に抱きかかえたまま周囲を見回す。
しかし、女性の姿は見える範囲の何処にも無い。
まるで煙のように、レヴィアタンは忽然と消えてしまっていた。
「やはり…、この扉はベヒーモスシリーズ…、でなければレヴィアタンでもないと開けられませんか…」
バベルの前、巨大な扉に手を当てて、ロキは呟いた。
「到着まで待つ…、というのは、いささか難しいようですね」
ゆっくりと振り向いたロキの眼前で火花が散り、ギィンという甲高い音が響いた。
飛来した衝撃波は、ロキが展開した不可視の障壁に阻まれ、相殺して砕け散る。
細められたロキの瞳に、大剣を左斜め下へ振り切った姿勢でこちらを睨む、筋骨隆々たる白虎の姿が映り込む。
「お久しぶりですね、ダウド。それに…」
言葉を切ったロキは首を左手側へ向ける。
その視線の先で、木々の間から現れた赤銅色の巨熊がドシッと地面を踏み締めた。
「闘神、神代勇羆…」
薄い笑みは絶やさぬまま、しかしロキの瞳には緊張を帯びた鋭い眼光が灯る。
「誰が来てやがんのかと思やぁ…、三番目に見たくねぇツラだったな…、えぇおい…!?」
ドスの利いた低い声音で呟いたダウドは、巨剣を斜め後ろに引き、半身になって身構える。
ロキをひたと見据えるユウヒもまた、胸の前に上げてゴキリと鳴らした左手に、眩い燐光を灯す。
正面にダウド、左手側にユウヒという位置関係で、バベルを背にしたロキは思案するように目を細めた。
周囲で空気が張り詰めてゆくその中で、ダウドとユウヒは同時に耳をピクリと動かし、視線を動かす。
「あらあら…。見物に来てみれば、大変な状況じゃないの先生?」
ロキの右手側、ユウヒが現れた方向とは逆側の木立から、ソバージュをあてた髪をかき上げつつ、一人の女性が歩み出る。
「ヘル…!二番目に見たくねぇツラまで…!」
ダウドが憎々しげに上げた声はしかし、獣の怒声にかき消された。
蹴った地面を轟音を上げて粉砕し、ごう!と唸り声を発したユウヒの巨体が、爆発的な速度で突進する。
進路上に立つロキは、見えない操り糸で手繰られたかのように素早く後方へとスライドし、身を退いた。
直前までロキが立っていたその位置を、衝撃波と光の粒子を撒き散らしながら赤銅色の巨躯が通過する。
距離をおいて通り過ぎる、ただそれだけの事で障壁を削減されながら、後方に退いたロキは素早く首を巡らせた。
その視線の先で、ヘルの姿がユウヒの巨躯に重なって見えなくなる。
(轢き潰されますかね、あれは…)
ユウヒの頭上に振り上げられた右の平手が、巨大な力場の塊を生成する。
それは、振り下ろされると、周囲5メートル四方に渡って地面を粉砕し、熱と衝撃を撒き散らし、大地を震わせた。
そこに存在する物を跡形もなく砕き散らすような、巨熊の一撃。
しかし、ヘルはその破壊領域に囚われる寸前で、舞い上がった土砂と荒れ狂う衝撃波の向こうへと跳び退っている。
「あらあら…。激しいのは悪くないけれど、せっかち過ぎる男はもてないわよご当主?」
唇をきゅうっと吊り上げて艶然と笑むヘルに、舞い上がる土埃を吹き散らしながら、ごおうっ!と叫びを上げたユウヒが再
び迫る。
それを他人事のように眺めていたロキは、視線を前に戻しながら、つっと右手を上げた。
地面を割って突き上がった巨大な岩が、飛来した衝撃刃で両断される。
縦に割られたその岩の間に、白い猛虎が飛び込んだ。
弧を描いて振り上げたダインスレイヴから不可視の刃を放つと同時に、瞬時に間合いを詰めたダウドは、大上段に振りかぶっ
たその巨大な剣を、ロキめがけて振り下ろす。
真上に翳されたロキの右手の先で、黒い刃は見えない障壁に激突し、停止した。
力を込めて振り下ろすダウドと、意識を集中して押し返すロキの力が拮抗し、二人の視線が火花を散らす。
一方、両側から挟み込むようにして粉砕すべく、左右に広げた両手に眩い燐光を灯し、ヘルめがけて突進したユウヒは、
「ぬ!?」
両目を大きく見開いて腰を落とし、足を踏ん張って急制動をかけた。
大きく見開かれた両の眼が、赫怒の炎に代わって困惑の色を浮かべる。
視界の隅に異常を捉えたダウドは、剣を叩き付けた姿勢から前蹴りを繰り出し、ロキの障壁を蹴り付けるようにして後方へ
跳躍し、乱暴に距離を取る。
距離を保持してロキと向き合いながら素早く動かされた金色の瞳が、新たに現れた何者かの姿を映した。
踏み止まったユウヒの目前、僅か1メートルほど先に、長い黒髪を風にたなびかせ、一人の女性が立っていた。
「…れびあたん…!」
ユウヒの口から呻くような声が漏れた。
「お久しぶりです。神代勇羆殿」
レヴィアタンは臆する様子もなく、ボリュームにして自分の五倍以上はある巨熊と近距離で向き合う。
「あらあらあら。助かったわ、レヴィアちゃん」
レヴィアタンの後方で、ヘルは余裕の笑みを浮かべ、面白がるように二人の様子を眺める。
同じくそれを眺める白虎は、金色の瞳に訝しげな光を灯した。
(…何者だ…?一体何処から出てきたあの姉ちゃん…?それと、なんで「たん」付けしているんだユウヒは?)
横目でそちらを見遣るダウドを前にしながら、ロキは小さくため息を吐き出す。
「三対二。数の上では有利ですが…、阻む相手はよりによってデスチェインと奥羽の闘神…。レヴィアタンが間に合ったもの
の、バベルへの侵入は困難ですね…」
心底残念そうに呟いたロキに視線を戻すと、ダウドは告げる。
「そこを退けロキ。ソイツはてめぇらにゃあ渡さねぇ…!」
恫喝するように低い声を発したダウドは、再びユウヒと女性に視線を向けた。
目の前の女性を捻り潰す程度、ユウヒにとっては簡単な事のはず。
知った相手のようでもあるが、例え傷つけたくないにせよ、ユウヒであればいかようにも除けて、ヘルへの攻撃を再開でき
そうに思えた。
だが、自分以上の戦士である赤銅色の巨熊がそうしようとはしない。その事が不思議でならなかった。
「…そなたとは、戦場で相見えたくは無かった…」
低い声音で呟いたユウヒに、レヴィアタンは顎を引いて頷く。
「私も同じ思いです…」
見つめ合う二人の瞳が、互いの目に浮かぶ複雑な感情を映す。
「…黙って退いては貰えぬか?でなければ、某はそなたを相手に拳を振るわねばならなくなる…」
苦しげな響きすら伴ったユウヒの言葉に、レヴィアタンはその瞳をロキに向けた。
視線を受けたロキは、口元を微かに綻ばせる。
「できません。…と言ったらどうします?」
面白がるように言った少年に、
「お前の首と体が別々に地面に転がるか…、あるいは影も残らず砕け散るかだ」
牙を剥き出しにした獰猛な表情で、ダウドは即座に切り返した。
「まぁ、そうなるでしょうね。貴方達二人と真っ向からやりあう愚を犯す程、私も自惚れてはいませんよ」
反論するでもなくそう言うと、すっと滑るように横に移動して、ロキはバベルの前から退いた。
そしてそのまま宙を滑り、ユウヒを遠回りに避け、レヴィアタンの後方でヘルと並ぶ。
「あ〜ら?せっかく手伝いに来たのに…、退くんですか先生?」
「事態を悪化させないで下さい。貴女が来ると闘神が殺る気になります。さっさと帰ってくれませんか?」
見下ろしながら尋ねたヘルに、ロキは肩を竦めて呆れたように応じる。
「あら、つれないのね…。まぁ、ユグドラシルは諦めるしかなさそうですし…。大人しく帰りますわね」
鋭い眼光をヘルに向け、一歩踏み出したユウヒの前に、レヴィアタンが僅かにずれて立ちはだかった。
行く手を阻まれ、喉の奥で唸るユウヒの目を、レヴィアタンは無言で見上げる。
「レヴィアタン、ここまでです。退却します」
ロキが口を開くと、レヴィアタンは踵を返してユウヒに背を向け、二人に歩み寄った。
「貴女達は先に退いて下さい。私はもう少し用事がありますから」
レヴィアタンは無言でユウヒを一瞥すると、木立の中へ歩いてゆく。
その傍らで、ヘルはダウドに流し目を送ってから、ユウヒにウィンクした。
「それじゃあね、ダウド。またお会いしましょう、ご当主」
挑発を受けて喉の奥から獣の唸りを発しながらも、ユウヒはかろうじて自制心を働かせる。
私怨よりも優先すべき事がある。
皮肉な事に、その事を思い出せたのはレヴィアタンと顔を合わせたせいであった。
二人の女性が木立の中に消えると、ダウドは一人残ったロキを睨んだ。
「おかしな真似はするなよ?」
低い声で恫喝するダウドに、ロキは肩を竦める。
「しませんよ。した所で、もはや無駄ですしね」
ダウドはロキを警戒しながらユウヒに視線を向け、尋ねる。
「ここまで来てなんだが…、やれそうかい?」
「無論。神代はもともと遺品の破壊を役目とする神将の一つ…。我等の技の大半は、本来その為に編み出された物だ」
ユウヒはそう応じると、胴着の中に両腕を引っ込め、前から腕を出して逞しい上半身を外気に晒す。
「ま、他でもないあんたの言葉だ。信用するさ」
ダウドは口の端を吊り上げて笑みを浮かべると、ロキを視界に収めながら、諸肌脱いだユウヒから距離を取った。
バベルの確保ではなく、破壊。
それが、駆けつけたダウドとユウヒの目的であった。
首都でのバベル出現は前代未聞の危機ではあったが、破壊さえできれば首都の安全はこれまで以上に安定した物となる。
今後二度と、バベルを狙う襲撃に曝される事は無いのだから。
首都の護りを担うブルーティッシュにとっては、バベルは優先度の高い防衛対象であると同時に枷でもあった。
バベルさえ消失すれば首都の危険は格段に減り、ブルーティッシュの活動範囲はさらに広げられる。
ここ数年間ほとんど首都から離れられなかったダウドも、それなりに自由な動きが取れるようになる。
そして、ユウヒにとっても、バベルの破壊はかねてから望んでいた事であった。
塔が無くなれば、帝の傍から脅威が一つ取り除かれる事になるのである。
かつてダウドとユウヒが取り交わした盟約には、帝の守護だけではなく、バベルの破壊の際には互いに協力しあう事も含ま
れている。
赤銅色の巨熊は盟約に従って塔を破壊すべく、両拳を胸の前でガツンと打ち合わせ、逞しい体に力を込めた。
「狂熊覚醒…!」
筋肉が膨張し、被毛が逆立ち、全身が淡く発光する。
その体から発散される燐光が、蒸気のように揺らめき、まとわりつき、輝きを強めてゆく。
ユウヒは完全制御された神卸しによって限界を超えた力を引き出すと、ぐっと腰を落とした。
両腕をピタリと両脇につけ、手の甲を地面に向けて拳が握られる。
すぅ〜っと、途切れる事無く静かに、長々と息を吸い込みながら、ユウヒは周囲のエネルギーを吸収し、己の体に取り込み
始めた。
温度が急激に低下し、地面が凍りつき、空気が輝き出す。
巨躯に纏う力場の輝きは、圧縮されてゆきながら次第に赤味を帯び、被毛に近い鮮やかな赤銅色へと変わってゆく。
ユウトが轟雷砲の発射に際し、エネルギーを集束させる為に要する時間は五分以上。
しかしユウヒのそれは彼女よりも遙かに短く、僅か二十秒程度で発射準備が完了する。
大気中の水分が凍結し、ダイヤモンドダストが舞い散る中、ユウヒは静かに塔を見上げると、その頂上めがけて眩い赤色の
光を纏う両手を突き出した。
「奥義…、轟雷砲!!!」
真っ直ぐに、天を突いて、赤い光の柱が立ち昇った。
発射の衝撃がユウヒの体から足下に抜け、激しい縦揺れが起こり、首都全体が震える。
ユウトが放つものより遙かに太く、遙かに激しい、赤銅色の光の奔流は、バベルの外壁を削り取り、細かい光の粒子に分解
して天へと舞い上げる。
興味深そうにそれを見守っていたロキは、やがて踵を返した。
「バベルを破壊する力、ですか…。なかなか面白い…。塔は惜しいですが、収穫は有りましたね…」
ダウドの鋭い視線を背に受けて、バベルの下を去りながら、ロキは口元を笑みの形にして呟いた。
長く放たれ続けた轟雷砲の照射時間は、10秒ほどに及んだ。
根本を残し、完全に分解されたバベルの残骸は、それでも三階建ての大きな建物ほどの体積が残っている。
が、それも陽炎のように揺らめき始めると、やがて跡形もなく消え去った。
まるで、最初からその存在が幻であったかのように。
消え去ったバベルの下、掲げていた両腕を下ろすと、ユウヒは深く息を吐き出す。
「見事なもんだったぜ。お疲れさん」
歩み寄り、労いの言葉をかけたダウドに、ユウヒは口元を微かに吊り上げ、笑みで応じた。
放熱中の巨体からは蒸気が立ち昇り、周りで陽炎が揺れており、その顔には疲労の色が濃い。
「ひとまずは、終わりと言った所かな…」
呟いたユウヒに頷くと、白虎は腰の後ろのポーチから小瓶を掴み出し、差し出した。
受け取った市販の栄養ドリンクを、礼を言うが早いか一息に飲み下したユウヒに、ダウドは少し緊張を緩めた顔で告げた。
「小競り合いはまだ続くだろうが…、まぁ、目的を失った以上、ラグナロクの士気もガタガタだろう」
総司令官であるミドガルズオルムがすでに死亡している事を、二人はまだ知らない。
いまだ戦場は混乱の最中にあり、情報も錯綜している。
ラグナロク兵達ですらも、現在の指揮系統がどのような状態なのか、把握できていなかった。
「さて、俺は帝の護衛に戻る」
「一人で大丈夫か?なんなら送ってくが…」
疲労の色が濃いユウヒの顔色を窺いながら、ダウドは提案する。
ロキを前にしながらも深追いを避け、見逃したのは、バベル破壊後にユウヒが衰弱する事を見越していたからであった。
「気遣いかたじけない。が、問題無い。ダウド殿はどうする?」
軽く会釈して気遣いへの礼を示すと、ユウヒはダウドに問いかけた。
「もう一働きして来る。まだ仕事が残っているもんでな。…残党狩りって、後片付けがな…」
二人は頷きあうと、それぞれの持ち場へ戻る為に歩き出す。
首都の大戦は、終結に向かって急速に動き始めていた。