最終話 「愛されし娘」
帝居の裏手の堀に渡された大きな橋の上で、庭に通じる門を背後に護り、一人の男が立っていた。
袖の無い濃紺の胴衣を纏い、捻った白布をたすきにかけ、大きな足に草鞋をつっかけ、脚には同色の脛の半ばまでの下穿き。
朱塗りの鞘に収めた大太刀を背負い、腕を組んでいるのは、ずんぐりと丸い体付きの、黒褐色の猪である。
身長は170あるかないか。しかし、その酒樽を思わせるずんぐりとした体は、150キロをゆうに越え、かなり固太りし
ている。
足は大きく、腿は太く、胸は分厚い。袖の無い胴衣から出た剥き出しの腕は、剛毛を筋肉が押し上げて丸々と太い。
天に向かって反り返る猪らしい立派な牙に、大きな穴を備えた鼻。厳めしい顔つきだが、しかし溢れる若さがその表情にある。
血臭溢れる周囲には、山と重なる異形の死骸。
橋の両脇に積み重ねられたその危険生物達の死骸は、少なく見積もっても五十を越えていた。
それらは、半分近くが上位に入る危険生物の物である。
一人でそれらを片付けた猪は、衣類に僅かに返り血がかかってはいるものの、傷一つ負ってはいなかった。
「お?」
敵を迎え撃つべく橋の上で待ち構えていた猪は、朝もやの立ち込める中を歩んで来る大きな熊の姿を認め、目の上に手で庇
を作る。
「お帰んなさい、ユウヒさん!」
いかつい猪の顔にニィっと笑みを浮かべ、男はユウヒに労いの言葉をかけた。
橋を渡って近付きながら、赤銅色の熊は訝しげに片方の眉を上げる。
「君も来ていたのか猪太(いのた)君。学校はどうしたのだ?」
「一昨日から休みっすよ。ま、上様の御身を守るためだ。ガッコあっても参じてますやね。…もっとも、サボりゃあもちろん
兄貴にどやされっちまうけど」
「それはそうであろうよ。来年から三年生だったかな?進学にせよ就職にせよ、大事な一年となる」
苦笑いしている神将の血を引く若者の前でユウヒが足を止めると、猪の背後で大きな門が、微かな軋みを立てて開いた。
中から現れたのは黒ずくめの集団。
ユウヒとイノタが視線を向けると、忍者を思わせるその集団の中から、羽織袴姿の狐が進み出た。
「お疲れ様でしたユウヒ殿。御柱の破壊、帝居に居ながらしかと見届けさせて頂きました」
細面の狐は、整った中性的な顔に柔らかな笑みを浮かべる。
「手薄にしてしまい済まなかったな狐成(こせい)殿。そちらに問題は無かっただろうか?」
同年代の次期神将に会釈するユウヒの横で、イノタは首を傾げる。
「あれ?神座(さくら)さん、中庭ほったらかしちまって良いんすか?」
「迎撃戦は完了しているからね。掃討の方は神崎家の皆様方が頑張っておられるよ。幸い、私の出番はもう無さそうでね、そ
ろそろかと思ってユウヒ殿をお迎えに…」
そこまで聞くと、ユウヒは急に不安になった。
「…コセイ殿。つかぬ事を窺うが、シバユキはどうしてい…」
コセイはニィ〜ッと顔を歪め、可笑しそうに声を上げて笑う。
「ああ!シバユキ君は実に働き者ですねぇ!もう目を爛々と輝かせて、返り血でまっかっかになりながらお庭を守備していま
したよ。いやぁ、鬼神の如くとでも申しましょうか、いささか近付き難いですねぇあれは!にしししししっ!」
「…やり過ぎていなければ、それで良いのだが…」
整った顔に悪戯っ子のような笑みを浮かべているコセイの横を、ユウヒは顔を顰めながら足早に歩き過ぎた。
「あ。ユウヒ殿、お握りいかがですか?差し入れにと用意して来たのですが…」
忍びのような取巻き達が橋の上の死骸を片付けている中、狐は袂から細切りの竹で編まれた弁当箱を取り出しつつ場違いに
呑気な提案をする。
「…いや結構…、後で頂こう。必ず」
一瞬立ち止まったユウヒだったが、後ろ髪引かれる思いで魅力的な提案を断り、庭へと踏み入った。
「それは残念…。イノタ君どうですか?昆布と鮭と味噌と用意して来ました。お茶もありますよ?」
「うひょおっ!もっち頂きます!」
戻ってくるまでは無くなっているかもしれない。
二人のやりとりを背中で聞き、そんな事を考えながら、ユウヒは残念そうにため息をついた。
動く者の無い、瓦礫の散らばる大通りを、少年がゆっくりと歩く。
「ロキ」
横手からかかった声に、少年は首を巡らせた。
「脱出準備は出来ているわ」
レヴィアタンはそう言って、自分の背後、崩れかけた地下鉄入り口を指し示した。
「ご苦労様です。…そう言えば、タイプアリスは見付かりましたか?」
「ええ」
「死体はどうしました?試算よりも長く生存した個体です。研究価値はあるのですが…」
「ヘルもそう言っていたけれど、手が出せる状況に無い、諦める事ね」
レヴィアタンはそう呟くと、雲の切れ間から覗く僅かな空を見上げる。
「今は、この世で最も安全な所で護られているから…」
彼女が出会った、優しく、強く、美しい、心身共に傷だらけだった獣人。
あの熊の瞳と同じ色の空が、哀しいまでに青々と、雲の向こうに見えていた。
雲の切れ間から太陽がその姿を晒した頃、アンドウやエイルを含むブルーティッシュの精鋭部隊は、保育園の職員と児童達
を救援部隊に預け、川沿いに南下を始めていた。
「妙だな…」
周囲を警戒して障害物を利用しながらも、片側二車線の道添いに展開し、可能な限りの速度で前進しているその部隊の中で、
アンドウはボソリと呟いた。
「連中、進んで来てねーんじゃねーの?ここより前に展開してるこっちの部隊は無いはずだぜ?」
横転した車の陰から前を覗き見ながら訝しげに首を捻ったアンドウの横で、両手にハンドグレネードを携えたレッサーパン
ダが眼を細める。
「…撤退するにも、空母も先に引き上げたようでありますが…。…あ」
車の陰から少しだけ顔を出し、前方を伺ったエイルは、声を漏らして動きを止めた。
「どした?」
「負傷者であります…!」
アンドウの問い掛けに即答すると、エイルは珍しく焦りの表情を浮かべて車の陰から飛び出し、道の真ん中に立った。
「ちょ、不用心に飛び出すなっての…」
ぼやきながら再び前を見たアンドウは、前方から歩いて来る、ボロボロの獣人の姿を認めた。
(ありゃあ…、リーダー達の客人…だよな?避難したって聞いてたが…、何でこんなトコに?)
胸の内で呟いたアンドウは、先程救助した高校時代の友人が言っていた事を思い出した。
「…会った調停者って…、あのひとの事か?」
駆け出したエイルに倣い、部隊の全員がユウトに駆け寄った。
が、ぴくりとも動かぬ幼女を片腕で胸に抱き、意識のない青年を千切ったジャケットでその背に縛り付け、足を引き摺りな
がらよろめき歩くその大熊の少し前で、ブルーティッシュのメンバーは、息を飲んで一様に固まった。
肩を銃撃された左腕は、力なく体の横で揺れ、激戦で傷付いた体は至る所が赤黒く汚れている。
自力で立ち、歩いているのが信じられない程の負傷と出血であった。
意識の戻らぬタケシを背負い、冷たくなったアリスを抱いたまま、ユウトは足を動かし続けている。
「…ユウトさん?」
あまりにも痛々しいその姿を目にし、声もかけられないメンバーの中から、エイルが進み出て呼びかける。
が、意識が朦朧としているユウトの耳には、その声も届いてはいない。
「ユウトさん。動いてはいけないであります」
再度声をかけたエイルは、大熊が漏らしているか細い囁きに気付き、耳を動かした。
「…帰ろう…、ボク達の家に…。三人揃って…」
遥か遠くを眺めているような、ぼうっとした目で前を見据えたまま、ユウトは呟き続け、足を進める。
のろのろと足を進めるユウトの前に進み出たエイルは、グレネードを地面に放り出した。
がしゃんと音を立てて地面に転がったグレネードを残し、エイルは歩いてくるユウトに近付いてゆくと、両手を前に突きだ
し、ユウトの腹を正面から押さえた。
「もう良いのであります…。大丈夫でありますから…」
小柄なレッサーパンダが、軽く押し留めたそれだけで、金色の大熊は歩みを止めた。
ぼんやりとしていた瞳が下に向けられ、自分を見上げている見知った顔を映す。
「すぐに運ぶであります。傷に障るので、もう動かな…」
「…ボクが…、連れて行かなきゃいけないんだ、エイル…。他の誰でもなく、ボクが…」
エイルの言葉がユウトの声で遮られる。か細いながらもはっきりとしたその声は、その場にいた全員の耳に届いた。
それ以上言葉をかけられなくなったエイルの脇を歩き過ぎ、難しい顔をしているアンドウの横を通り、調停者達の間を抜け、
真っ直ぐに駅を目指して歩むユウト。
ぼんやりとした目で、時々肩越しにタケシの顔を見遣り、アリスの顔を覗き込みながら、ただひたすら真っ直ぐに、真っ直ぐに、金熊は帰路を歩んだ。
二度と目を開ける事のない幼女に、今も変わらぬ愛を注ぎ、意識の戻らぬ相棒を気遣いながら。
ほどなく力尽き、意識を失って倒れ込むまで、ユウトがその歩みを止める事はなかった。
ユウト達が発見される三十分程前、保育士、双葉恵は、アンドウ達の手によって、ブルーティッシュの支部から駆け付けた
救助部隊へと、園児共々託された。
アンドウが記録した彼女の証言によれば、調停者から預かった女の子は、彼女の通れないシャッターの下の隙間から外へ出
ると、
「だってアリスは、もうあまり生きられないから…。それまでは、ユウトと、タケシと、いっしょにいたいの」
そう言い残して、保護者を追って行ってしまったのだという。
後に、入院先の病院でこの話をネネから聞いた時、ユウトは声も無く項垂れ、涙を零した。
アリスが、自分の死を予感していたのだと、その時初めて気が付いて…。
その後、戦闘は二十六日未明まで続いた。
総司令官を失い、退路を断たれたラグナロクの兵の一部は投降したものの、大半は徹底抗戦の末、追い詰められれば自害した。
捕虜となった兵士達は、ラグナロク内でも地位の低い者ばかりで、士官クラスは一名として投降せず、ラグナロクについて
の情報も、ブルーティッシュが掴んでいる程度の物しか手に入らなかった。
戦場となった首都が被った被害は大きく、完全な復興には丸三年近くを要する事になる。
警察機構、特自、港湾警備も大きな被害を受け、この後数ヶ月間は、組織としての機能維持だけで精一杯となった。
しかし、最も多くの犠牲を出したのは、五千ものラグナロク兵を相手に最前線で戦った調停者達であった。
ほぼ全国から戦闘に参加した調停者達は、ラグナロクの徹底抗戦により、その内二割が殉職し、一割が負傷などにより現役
を退く事になる。
現役を退いた調停者達の内、約半数は政府の方針に反発を覚えての依願離職であった。
政府の打ち出した方針では、首都の機能回復と維持が最優先とされ、傷付いた調停者達には、今後数年間が過ぎてもまとも
な補償がされる事は無かった。
また、港を目標に発射され、首都の上空で消滅したミサイルについても、政府はある佐官の独断による発射と公式発表を出
し、政府の意図するところではなかったと強調した。
護るべき者に裏切られ、多くの調停者が政府に不信感を抱く中、翌二十七日夕刻にマーシャルローの終息宣言がなされる。
後に第一次バベル戦役と呼ばれる事になる戦いは、こうして幕を降ろした。
首都の街並みと警察と特自、そして調停者達に多大な被害を残して。
毛足の長いディープブルーの絨毯が敷かれた、薄暗い照明が照らすその部屋で、自分に背を向け、腕組みをして立つ大柄な
男を、レヴィアタンは見つめていた。
壁は彼女の背後、木製のドアがある一面だけであり、他の三方と天井は分厚いガラス張りになっている。
ガラスの向こうでは魚が群れを成して泳ぎ回り、巨大なエイが優雅に舞っていた。
巨大な水槽の中にしつらえてあるその部屋には、中央にソファーセットが置かれているが、二人ともソファーセットを挟む
ようにして立ったままである。
「…状況は良く判った」
部屋の奥にあたるガラスから水中の世界を見つめていた大柄な男は、レヴィアタンの報告を聞き終えて後十数秒黙っていた
が、ようやくそう言葉を発した。
燃えるような深紅の被毛。くっきりと黒いストライプ。金色に輝く両の瞳。
黒のタキシードに身を包んだ筋骨隆々たる虎は、ゆっくりとレヴィアタンを振り返る。
「首都の塔を奪取する事については、元よりさして期待していなかった。少々惜しいが、この結果もやむをえまい。兵の損失
は痛手だが、戦果はあったと言える」
低い声でそう呟くと、深紅の虎はソファーセットに歩み寄った。
「味方を巻き添えにする範囲めがけての反応弾の発射…。調停者と政府の間の綻びは、無視できぬ物になるだろう」
「…あれも貴方が計画していた事なの?」
黙していたレヴィアタンは、形の良い眉を僅かに上げた。が、思い直して小さくかぶりを振る。
「…いえ、貴方が好むような手ではない…。ラタトスクの仕業ね?」
レヴィアタンの言葉に頷くと、赤虎はテーブルの上のグラスを手に取り、水差しで真水を注ぐ。
「事前に断りは無かったが、結果だけを見ればあの策によるこちらの損害はゼロ、そして今後の成果は期待できる一手だ。策
を吹き込んだロキの弁護もある、重く咎める事もできん」
半眼になり、猛虎の顔に思慮深げな表情を浮かべた赤虎は、グラスを口元に運び、冷たい水を口に含んだ。
「ご苦労だったシャモン。今日はもう良い。身を休めておけ」
赤虎の言葉に頷くと、レヴィアタンは踵を返し、ドアに向かって歩を進めた。
そして、装飾が施された金属製のノブに手を伸ばしかけた所で動きを止め、振り返らぬままに口を開く。
「…初めて、この目で白虎を見たわ」
レヴィアタンの言葉に、赤虎はピクリと眉を動かした。
「…どう見た?」
「強いわ。中枢メンバーでも、何人が勝てるか…、いえ、アレとまともに戦えるか…。並の神将をも凌駕するわ」
「…ふはは…!あの化け物揃いの神将共に「並」もあるものかね…!」
レヴィアタンの表現が可笑しかったのか、赤虎は微かに肩を震わせ、面白がっているように笑った。
レヴィアタンはその笑いが収まるのを待ち、しばしの沈黙の後に再び口を開く。
「ダウド・グラハルトに神将達…、障害は多い…。それでも、バベルを諦めるつもりはないのね?スルト…」
「無論だ」
顎を引いて頷いた赤虎を振り返る事無く、レヴィアタンはドアを開けて部屋を出た。
室内とは印象ががらりと変わり、ベージュの壁と天井、赤い長絨毯が敷かれた長い廊下に出たレヴィアタンに、ドアの脇に
控えていた銀狼が深々と頭を下げる。
「いかがでしたか?」
引き締まった長身を黒革のジャケットとズボンで覆った、精悍な顔つきの銀狼は、恭しい一礼から顔を上げ、口を開いた。
「何も…。まるで、作戦の失敗を予期していたかのようだった…」
呟いたレヴィアタンは絨毯の上を音もなく歩み始め、銀狼はその後を追って斜め後方に従う。
「フェンリル。貴方はもう私の部下ではないのよ?ロキの傍に居るべきでしょうに」
「存じております。が、ロキにお仕えするようになった今も、自分が主と仰ぐのは貴女様お一人です」
背にかけられた生真面目な返答に、レヴィアタンは微苦笑を浮かべて立ち止まると、軽く目を閉じた。
周囲の雰囲気が変わった事を察し、フェンリルは僅かに眼を細める。
自分達の周囲で空間の連続性を断ち、声が漏れ出ないようにすると、レヴィアタンはフェンリルを振り返った。
「シノブが…、正式にロキの下に配置される事が決まりました。いずれは新たなベヒーモスとして、重要な作戦に組み込まれ
て行く事になるでしょう…」
少しだけ眉を上げたフェンリルに、口調を変えたレヴィアタンは静かに続ける。
「シロウ…、できる範囲で構いません、あの子を護ってあげて…」
「…御意」
大きく頷いたフェンリルに、レヴィアタンはさらに続ける。
「もしもこの先、あの子が私達と袂を分かつ事になったとしても…、貴方はあの子の側に立ってあげて…」
「沙門様!?」
驚いたように声を大きくしたフェンリルの顔を、レヴィアタンは懇願するような目で見上げた。
「何をおっしゃられます!?よもや、シノブが裏切るなどと…!?」
銀狼は主と仰ぐ女性の前で跪き、右拳を床に当てて頭を垂れる。
「自分は貴女様に帰依した身、今はお側に仕える事が許されぬ身ですが、この身この命は全て…!」
「…お願いです。聞き入れて下さいシロウ…。あの子は…、いいえ、あの子らは、私の…」
レヴィアタンがその口から小さな声で何かを告げると、フェンリルは次第に目を見開いてゆき、ついには弾かれたように顔
を上げた。
驚愕のあまり声も出ず、ただただ見開いた両目で自分を見上げるフェンリルに、レヴィアタンは繰り返した。
「…お願いです…」
懇願するレヴィアタンに、視線を床に落としたフェンリルは、
「…御意…!」
少し震える、押し殺された声で応じた。
自分が良く知る勝ち気な少女が背負わされた、過酷な運命に胸を痛めながら。
「…なるほど。事情は良く判りました」
縁なし眼鏡をかけた、こざっぱりした身なりの監査官は、ベッドの上に縛り付けられているような状態のユウトから事情を
聞くと、手にしたボードをペンの尻でトントンと叩きながら頷いた。
重傷を負っていたユウトと、意識が戻らないタケシは、都内のとある病院へ入院している。
ダウドとネネはベッドを提供すると申し出たが、ユウヒはそれを固辞し、シバユキが手配した病院へと二人を入院させた。
ブルーティッシュもまた多くの負傷者を抱えており、本当はそれほどの余裕が無い事を察して。
そして今も、ユウヒとシバユキはユウトに連れ添い、病室で事情聴取の様子を見守っていた。
「このたびは本当に大変でしたね。ゆっくりご養生なさって下さい」
目礼した監査官に、ユウトは顎を引くようにしてなんとか会釈する。
「あの…。アリスは…、いつ帰って来れますか?」
しゃくりあげそうになるのを堪えてその名を口にし、おずおずと尋ねたユウトに、監査官は「ああ…」と、思い出したよう
に声を漏らした。
「まぁ、諦めて下さい」
ペンを胸ポケットにしまい込みながら応じた監査官に、ユウトは意味を図りかねて「え?」と聞き返した。
「捕虜も重要な情報は知らされておらず、使い捨てと思われる施設のいくつかの所在が判っただけでしたからね。あの組織製
の品は重要な情報源かつ研究資料になります」
「研究…資料…?」
「ええ。まぁ、資料として有効かどうかは、バラしてみないと何とも言えませんが…」
その言葉の意味が判るまで、数秒かかった。
やがて、意味するところを察したユウトは、傷が開くのも構わずに身を起こす。激しい怒りが傷の痛みを凌駕していた。
ユウトがレヴィアタンから得たアリスのルーツは、監査官に伝えてある。
監査官は、ラグナロクの技術で生み出されたアリスの遺体を、研究資料として保管すべきだと主張しているのだった。
「アリスの体は検査してあります!普通の人間と同じです!研究なんかしなくても…」
ユウトは自分の発言を悔やんだ。調停者としては背信行為に当たるが、アリスの事情は報告すべきでは無かったと。
「同じかどうかは、再度じっくりと検査してみない事には…」
「お話中に口を挟んで申し訳有りませんが…」
困ったように肩を竦めた監査官に、それまで黙って話を聞いていたシバユキが尋ねた。
「司法解剖は済んだのでしたね?」
「ええまぁ、死因は特定されました」
「では、そこから先は、身寄りが無いから資料にするという事で?」
「判り易くご説明するなら、そういう事になります」
監査官が頷くと、ユウトは息を荒くして身を乗り出した。
その肩を、横合いから伸ばされた赤銅色の大きな手がしっかりと押さえつける。
「兄さん…!?」
何故止める?そう目で問うたユウトの顔には視線を向けず、ユウヒは監査官に向かって口を開いた。
「ならば、神代家がアリスの身柄を引き受けよう」
一瞬の間が空き、やがて監査官はきょとんとしながらユウヒに聞き返す。
「身元引受人…?いや…、そう言われても…。死人ですよ?」
重々しく頷いたユウヒは、静かに続ける。
「確かに、話しかけてもくれなければ、笑いかけてもくれはせぬだろう。が、それでも人だ」
その言葉を聞き、ポカンと口をあけた監査官は、
「考え直して頂けませんか?どうする事が建設的か、お解りになって頂けると思いますが…」
やや焦ったようにそう言葉を紡いだが、ユウヒは首を横に振る。
発言を控えていたシバユキは、すぅっと目を細めると、なおも食い下がろうとする監査官に、冷徹な眼差しを向ける。
「我が主はお断りすると申しております。二度、言わせないで頂きたいのですが?」
それ以上の議論は無用である。言外にそう漂わせたシバユキを一瞥すると、監査官は眼鏡を指先で押さえながら立ち上がった。
「残念です。もう少し物分かりが良い方々かと思っておりましたが…。私情を優先した非協力的なその判断につきましては、
後日正式に抗議させて頂きますので、あしからず…」
ユウヒにそう告げた監査官は、「ご協力ありがとうございました」と一言添え、病室を出てゆく。
「…ごめん兄さん…。ありがとう…」
身内だけとなった病室で、ユウトは申し訳なく思いながら礼を言った。
本来ならば、神代家が口を出す必要の無い問題である。だが、ユウヒは、そこを曲げてアリスの引き取りを主張した。
神将家からの申し出となれば、監査局も無視はできない。ほぼ確実にアリスを取り戻せるからである。
ユウヒは無言のまま、妹の頭に大きな手を置くと、わしわしっと少し乱暴に撫でた。
ユウヒが一声発すれば、観察中だったとはいえ、アリスを河祖下の屋敷に引き取る事もできた。
それをしなかったのは、神代家で引き取れば、アリスが普通の生活を送れなくなるからである。
幼女の将来の事を考えればこそ、ユウトにも提案しなかったユウヒだが、今となっては、その判断を悔やんでいた。
少しの間、監査官が出て行ったドアを見つめていたシバユキは、
「ユウヒ様、お嬢さん、少々失礼致します…。すぐに戻りますので」
二人に一礼しながらそう言うと、ツカツカとドアに向かう。
「ちょっと待ってシバユキ。どこ行くの?」
不穏なものを感じて声をかけたユウトを、シバユキはドアノブを掴みながら振り返った。
「神代家への宣戦布告が成されましたので…」
「待って!宣戦布告じゃないでしょ!?キッツい事しなくて良いからっ!」
「ですが…」
「シバユキ。過激な真似は慎め」
ユウヒが静かにそう言葉をかけると、シバユキは一瞬の沈黙の後に、「かしこまりました…」と一礼する。
「それでは、そろそろ三時になりますので、売店で茶菓子などを買って参ります。…お嬢さんは駄目ですよ?我慢して下さいね」
笑みを浮かべて言ったシバユキは、二人が頷くといそいそと退室する。
が、この時の二人はまだ、シバユキの笑みの奥に秘められた物に気付いていなかった。
気が付いたのは、先程出て行った監査官が、車を発進させた直後に駐車場内の電灯に正面から突っ込んで院内に運ばれて戻
るという騒ぎがあり、シバユキがやけに時間をかけて茶菓子を買って戻った、その後の事である。
何が起こったか察しはついたが、ユウトとユウヒは、何食わぬ様子で帰ってきたシバユキを責めはしなかった。
やがて、午後の茶を終えたユウヒは、羨ましそうに自分を眺めていたユウトに告げて席を立つ。
「さて、フワ殿を見舞って来る。シバユキも共に来い。大人しくしておれよユウト?」
「判ってるってば…」
ユウヒに付き従って廊下に出て、静かにドアを閉めたシバユキは、主の背に控えめに声をかけた。
「よろしいのですか?お嬢さんをお一人にして…」
「一人にする為にお前も連れて来たのだ」
応じたユウヒは、心の内で呟く。
(身動きすらままならぬ身では、一人になりたくともなれぬからな…)
主の胸の内を察したシバユキは、恐縮して目を伏せる。
「これは…、気が利かず、申し訳ございません…」
「良い…。…一番気が利かぬのは、アリスを引き取る踏ん切りのつかなかった俺の方だ…」
その頃、一人部屋に残されたユウトは、ベッドに横たわり天井を見上げていた。
蒼い瞳が潤み、涙が横にこぼれ落ちる。
兄と幼馴染みの手前、気丈に振る舞ってはいるものの、アリスを喪った喪失感は全く薄れていない。
その重苦しい感覚は、まるで返しの付いた針のように、ユウトの胸に深く食い込み、抜けて行かない。
「ごめん…。アリス…」
護り切れなかった事を小声で詫び、ユウトは右腕を上げて顔に乗せ、しゃくり上げ始めた。
アリスの葬儀は、年末の東護町にて、事情を知る人々の手によってつつましく行われた。
参列者はブルーティッシュの幹部達と、使用人達を含めた神代家一同。
そして彼女の引き受け先を探していた監査官、カズキをはじめとした数名だけである。
東護町の病院へ搬送されたものの、いまだに意識が戻らないタケシの姿だけが、その中に無い。
一般の者には、アリスの死亡は知らされていない。
アリスは幼女とはいえ、秘匿しなければならない出生の秘密を持っている事が明らかになった為である。
ユウト達が世話になった阿武隈工務店にも、事務所の近所の住民にも、アリスは本当の両親が見つかり、親元へ帰ったのだ
と伝えてある。
神代家の申し出によって、アリスは帰って来たものの、一般人とラグナロクに対して伏せるため、墓碑銘を刻む事は許され
なかった。
ユウヒをはじめ、ダウドやネネまでがこの事に抗議しようとしたが、もう十分だと、ユウトがそれを断った。
ユウトはアリスの眠る小さな棺に、彼女のお気に入りだった熊の縫いぐるみと、タケシが贈ったハンカチ、そしてアリス自
身が友達を描いた画用紙を、一緒に入れた。
参列者が持ち寄った色とりどりの花が、小さな白い十字架を彩り、埋める。
小さな女の子が眠る墓地で、参列者達は静かに祈りを捧げた。
ユウトは目覚めぬタケシの病室と事務所を往復し、アリスの墓に花を添えにゆく日々を送りながら、あの時出会った黒髪の
女性にせめて一言礼を言いたいと、手を尽くして彼女を探した。
しかし、該当するような調停者も、警察や特自関係者も存在せず、結局あの女性を探し当てる事はできなかった。
そして、世間では年末年始で慌しく、ユウトにとってはじりじりと長い半月が過ぎる。
頬をくすぐる感触に、青年は薄く目を開ける。
長い、長い眠りのせいで、頭に霞がかかったように、思考がまとまらない。
ぼんやりとした視線を巡らせると、目を見開き、自分の顔を見つめる相棒の顔が見えた。
「……………」
ユウトは目を大きくしたまま、青年の顔を拭っていたタオルを取り落とした。
「ユウト…、戦況は…?ここは何処だ?」
のろのろと身を起こし、尋ねるタケシに、
「………っ!」
ユウトは声を詰まらせ、しゃくり上げると、
「ぅ……ふ…ぅ…っ!!!」
言葉を発する事も出来ず、ただただ泣きながら、震える腕で青年に抱き付いた。
「ユウ…ト…?…アリスは?アリスはどうした?」
青年は困惑し、どうしていいか分からずに、無言で自分に縋りつき、泣き続けるユウトを見つめていた。
ブルーティッシュの執務室。ネネは机を挟んで立ったまま向き合った白熊の少年に、調停者試験の合格通知を手渡した。
「合格おめでとう、アル」
「えへへ〜っ!ありがとっス!」
ネネから祝いの言葉をかけられると、アルは頭を掻きながら嬉しそうに笑う。
右目の上と鼻の上には、厳しい試験を突破した勲章とも言える傷がつき、大きな絆創膏が貼ってあった。
「証書と認識票は後日授与式で渡されるわ」
そう告げたネネは、「…ふぅ…」とため息を零す。
「…あれだけ反対したのに、とうとう調停者になってしまったわね…」
その言葉を聞き、困ったような顔をしたアルに、ネネは少し寂しげに微笑みかけた。
「でも、もう何も言わないわ。私の反対を押し切ったんだもの、立派な調停者になって見せなさい?アル」
励ましの言葉をかけて貰えるとは予想もしていなかったアルは、驚いてパチパチと瞬きした後、
「…えへへっ…!うっス!」
心底嬉しそうに、ぱぁっと笑みを浮かべた。
「それで、オレいつから任務に出して貰えるんスかね!?すぐっス!?」
意気込んで尋ねたアルに、部屋の隅にある上等な革張りソファーにふんぞり返っていたダウドが、「はっ!」と笑う。
「いつ、お前をウチで雇うなんて言った?」
アルはダウドを振り返り、一瞬きょとんとした後、
「へ?…あれ?あ、え?うぇえええええっ!?」
大慌てで両手をブンブン振り回しながら声を上げた。
「お〜、良いリアクションだなオイ。冗談だ冗談」
白虎がニヤリと笑うと、アルはほっとして胸をなで下ろした。
「しばらくはまぁ見習いだ。じっくり勉強しろ。…が、ブルーティッシュに相応しい調停者じゃないと判断したら、その時は
ほっぽり出してやるから肝に銘じておけよ?」
「うス!よろしくおねがいするっス、ダウドさん!」
胸を張って大きな声で返事をしたアルを、
「ダウドさんじゃねぇ!」
白虎はそれ以上の大声で一喝した。
ソファーから身を起こし、立ち上がったダウドは、びっくりしたように固まっているアルの前に立つと、厳しい顔つきで口
を開いた。
「調停者になった以上、俺はもうお前の兄貴代わりとは違う。俺はリーダーでお前はヒラのメンバーだ。けじめは付けろ!」
「う、うっス!済んませんリーダーさん!」
「「さん」は要らん!」
「うス!リーダー!」
ビシッと直立不動の姿勢を取ったアルの、自分とほぼ同じ高さにある目をしばし見つめた後、ダウドは口元を吊り上げて微
かに笑った。
(いつのまにかでっかくなりやがって…。いつからだったろうな?こいつの顔を見下ろさなくなったのは…)
そう遠くない内に、自分の方が見上げて話すようになるのだろう。彼の父親と話す時、そうしていたように。
そんな事を思いながら、ダウドはアルの分厚い胸を、拳でドンと叩いた。
「せめて、俺が安心して背中を預けられるくらいには、なって見せろよ?」
ニヤリと太い笑みを浮かべたダウドは、アルの薄赤い瞳を見つめて続ける。
「これからはお互い調停者だ。よろしく頼むぞ、アル」
「う…うス!」
ネネとは違う無骨な励ましで胸が熱くなり、アルは泣きそうになった。
憧れ続けた調停者という存在に、自分は成れた。目指したのは、育ててくれた二人に恩を返すためでもある。
まだスタートに立ったばかりなのだと自分を戒め、アルはグッと歯を噛み締め、沸いてくる涙を堪える。
「さて…、話は終わりだな?ネネ」
「ええ。これからの仕事についての詳しい話は、授与式の後にしましょう」
二人のやりとりを微笑ましく思いながら眺めていたネネは、アルに労るような視線を向けて頷いた。
「退室して良いぞアル。ゆっくり休め」
「うス!失礼しまっス!」
腰を折ってキビキビと一礼したアルは、踵を返してドアに向かい、
「アル」
ドアノブに手をかけた所で、ダウドに呼び止められて振り向く。
「おめでとう」
眼を細めてそう言ったダウドの言葉で、
「う…、うスっ!ありがとっス!」
堪えていた嬉し涙が、アルの目尻からポロッと零れた。
静かにドアを締めて廊下に出たアルは、グシグシと目を擦り、それから笑みを浮かべる。
(…オレ…、調停者になれたんスね…。ようやく実感沸いて来たっス…)
晴れ晴れとした表情で廊下を歩き出したアルは考える。
クリスマス前に会った、客人の連れだというあの女の子。
また来たなら、その時は自分も、調停者として両親にも紹介して貰えるのだろうと。
「どんなご両親なんスかね?ダウドさ…じゃない、リーダー達のお客さんだから、きっと、すんごい調停者っスね!」
無人の廊下を足取りも軽く歩みつつ、アルはあの可愛らしい幼女との再会を楽しみにしながら呟いた。
「…ボクは結局、アリスのお母さんにも、お姉さんにも、なれなかった…」
白い、十字架を象った小さな墓標の前に屈み、白いヒヤシンスを手向けながら、ユウトが呟く。
その後ろで、タケシは無言のまま墓標を見下ろしていた。
「アリスの最期を、一緒に看取ってくれたひとが言ったんだ…。アリスは幸せだった。そう信じてあげなければ、哀しいって…」
目を閉じたユウトの肩に、タケシはそっと手を乗せた。
その感触を何処かで感じた事があるような気がして、ユウトは思考を手繰ったが、それがレヴィアタンと会ったあの時の事
だとまでは思い出せなかった。
「ならば信じよう。アリスは幸せだったのだと」
タケシはそう言うと、墓標を見つめた。
「アリスと共に過ごした時間、俺達が幸せだったように、彼女もまた幸せだったのだと…」
「…うん…」
ユウトは頷くと、立ち上がった。そして空を見上げる。
「…帰ろうか。雨が、降って来ちゃった…」
雲の殆ど無い、晴れ渡った空を見上げたタケシは、「雨など…」と呟きかけ、口を閉ざした。そして静かに目を閉じ、頷く。
「ああ。濡れてしまうな…。帰ろう、ユウト…」
滲んだ視界で空を見上げながら、ユウトは涙を零さぬよう、慎重に頷いた。
「じゃあ、またね、アリス…」
そう、優しく言い残し、ユウトはタケシに促され、墓標に背を向けた。
海を見下ろす小高い丘の上に、木々に囲まれた、小さな、静かな墓地がある。
ある一人の幼女が、初めてユウトとタケシに出会った海が見下ろせるその墓地には、十字架を象った、小さな白い墓標がある。
いつも綺麗に磨かれているその小さな白い墓標には、名を刻む事が許されなかった代わりに、こう刻まれていた。
―皆に愛されし娘、ここに眠る―