第四話 「アリス」(中編)
鉄扉の先に広がる光景に、しばし目を奪われていたユウトは、我に返ると、まずは栗色の髪の幼女の事を優先して考えた。
(粗末に扱われてる感じはしないけど、あの怯えた表情…、捕らわれているのは間違いないね…。事情は良く分からないけれ
ど、救出しなくちゃ…)
ユウトは手を握り、開き、動きを確かめた後、監視カメラの位置を確認する。
そして、ある奇妙な事に気付いた。
(カメラのあの向き…、室内だけを監視してる?)
男が居る側の天井に備え付けられた3つのカメラは、全てガラスの向こう、幼女の方を向いていた。
その手前、男の居るスペースや、今もユウトが張り付いている扉を見張るカメラは、見回した範囲には存在しない。
軽く頭を振り、とりあえず疑問を棚上げにしたユウトは、幼女を救出する事に思考を戻す。
鉄扉に指をかけ、引き開けつつ即座に室内に飛び込む。
ユウトに気付いた男は、その漆黒に染め上げられた巨躯に目を奪われて一瞬驚き、少し遅れて銃を引き抜く。
幸いにも幼女の前には分厚い強化ガラスが張られている。流れ弾が当たる心配は無い。
銃が視線の高さに上げられたその時には、一気に間合いを詰めたユウトは男の眼前まで迫っていた。
銃を握る男の手を、大きな左手が上から被さるように捕らえ、握り込む。
捻り上げられた男の手が引き金を引くが、弾丸は見当違いにも床に当たってめり込んだ。
「ぐあぁっ!?」
骨が軋む音が響き、男が苦鳴を漏らした瞬間、ユウトの右の手刀がその首筋に叩き込まれ、瞬時に昏倒させる。
男が完全に気絶している事を確認すると、ユウトは分厚いガラス越しに女の子を見つめた。長い栗色の髪の下で、澄んだ茶
色い瞳が大きな黒色の熊を見つめ返している。
「もう大丈夫だよ。すぐに出してあげるからね?」
ユウトは女の子を怖がらせないように、慎重に笑みを作る。が、意外なモノを目にして、その表情は驚きに変わる。
女の子は、ユウトを見て微笑んでいた。
一瞬前までの怯えたような表情は跡形もなく消え、ただ純粋な、怯えの無い微笑みが、女の子の顔を輝かせていた。
まるで、心を溶かすような…、そんな笑みを前に、ユウトはしばし言葉を失い、立ち尽くした。
(…人形の親戚とでも、思われたのかな?)
少女が大事に抱きかかえている熊の縫いぐるみを眺めながら、幼女の無垢な笑みによってぼんやりとした頭で、ユウトはそ
う考えた。
それから再び軽く頭を振って気持ちを切り替えると、改めて部屋の中を確認する。
幼女が捕らわれている部屋にはカードリーダーが無い。
その代わりに、以前何処かの組織内で見た事のある、指紋認識タイプの解錠システムが壁に設置されていた。
「ちょっと下がっててね?」
分厚いガラス越しで声が伝わらないのか、幼女は微笑んだまま首を捻る。
少し苦労して身振り手振りで下がっているように伝えると、幼女はようやく部屋の一番奥まで下がった。
大熊は部屋の一番隅、最も幼女から離れた位置でガラスに向き直り、腰を落とし、しっかりと床を踏みしめた。
本来の利き手である左手に力が集中され、高密度の力場が形成される。
「熊撃衝(ゆうげきしょう)!」
発光し始めた左拳を、ユウトは中段突きで分厚いガラスに叩き付けた。
圧縮されていた力場が炸裂し、分厚い強化ガラスが砕ける。
砕け散ったガラスは、絶妙にコントロールされた力場の斥力によって全て正面へと飛び、幼女を傷つける事は無かった。
ぽっかり空いた直径50センチ程の穴から中を覗き込み、ユウトは幼女を手招きする。
「おいで。もう大丈夫だよ」
大熊がそう告げて穴の前から退くと、幼女は縫いぐるみをギュッと抱き締めたまま、おそるおそる穴に近寄る。
「大丈夫。こっちにおいで」
こわごわと穴からこちらを覗き込む幼女に、ユウトは微笑みかけた。
幼女は少し躊躇った後、少し高い位置にある穴に、もぞもぞと体を入れる。
ガラスの破砕面は、炸裂した力場が発した瞬間的な熱で融解していたが、こちら側に転げ落ちて怪我をしないようにと、ユ
ウトは手を差し伸べる。
幼女は躊躇う素振りも見せず、伸ばされた大きな手に縋り付いた。
少しひやりと冷たい、しかし心地良い、小さな手の感触を手の平に感じながら、ユウトは幼女の体を穴から引っ張り出す。
床に下ろされた幼女は、大きなユウトの顔を真っ直ぐに見上げ、そして微笑んだ。
頭の芯が痺れるような、奇妙な感覚が胸を満たし、気付けばユウトは、屈み込んで幼女に微笑み返していた。
タンカー内の監視カメラをチェックする警備室で、私物のパソコンでいかがわしいDVDを眺めていた男は、十数分ぶりに監
視モニターへと視線を戻した。
この国に来て6日目、男にとっては慣れた、退屈な一夜がふけてゆく。
男は、何度も違法品を密輸しているこのタンカーで、すでに三年近くこの業務に就いている。
しかし、これまでたったの一度も異常が起こった事などない。
今夜もまた、何事も無く夜が明け、出港となるはずだった。
そう。そのはずだった。
男は欠伸を噛み殺しながら、数十個のモニターを眺め、それから眉を潜めた。
「ALICE」と刻まれたプレートが下に配された三つのモニター。そこには幼い女の子の姿が映るはずだった。
幼女の正体については、男も詳しくは知らない。
だが彼らのボスは、今回の積荷の中で、最も価値のある商品と呼んでいた。
あまりにも値が張るため、今回の取引では買い手も諦めたあの幼女について、「あの子供にどんな価値があるのか?」と問
い掛けた男に、ボスは口元を歪ませながら一言、「爆弾だ」と答えた。
それっきり、何の説明も無い。
興味はあったが、しかしどうしても知らなければならないモノでもない。
この世界では軽い興味が身を滅ぼす事もある、男はその事をよくわきまえていた。
だからその時も、男は適当に話を切り上げた。
しかし今、映し出されるはずの女の子の姿は、今は三つのモニターのどこにも無い。
ただ、分厚いガラスの破片が、部屋の一角に散らばっているのが見えるだけだ。
男はモニターと繋がるカメラを遠隔操作で動かし、何ヶ所かのゲートで見張りが倒れている事に気付き、青くなる。
その細かく震える手が、操作盤に設けられている、透明なプラスチックのフードを被せられた真っ赤な警報スイッチに伸ば
された。
「お嬢ちゃんのお名前は?」
ユウトの問い掛けに、幼女は笑みを浮かべたまま首を捻る。
(日本語は分からないか…)
ユウトは英語、フランス語、イタリア語、あげくアジア系には見えないにもかかわらず、広東語や韓国語まで、知っている
限り全て、かたことの物でまで挨拶を試したが、幼女は首を傾げたままだった。
「…もしかして、言葉を知らないのかな…?」
ユウトは微笑んだままの幼女を前に途方に暮れ、それからある事を思いついて、太い親指で自分を指し示した。
「ボクはユウト。神代熊斗って言うんだ。いい?ユ・ウ・ト」
幼女はしばらく不思議そうに大熊の目を見つめた後、
「ユ…ウ、ト?」
と、小さく呟いた。
「うんそう!ユウト!ボクはユウト、…そしてキミは?」
ユウトは笑みを浮かべ、それから幼女に、促すように手の平を向けてみせる。
幼女は自分に向けられた手を見つめた後、金熊と同じように自分を親指で指し示した。
「アリス」
ユウトは笑みを浮かべる。
「アリス…、アリスちゃんか、可愛い名前だね」
ユウトは幼女の頭を軽く撫で、それからゆっくりと話しかけた。
「これからキミを逃がしてあげる。騒々しくなるけれど、少しの間我慢しててくれる?」
言葉の意味は通じていないようだったが、アリスと名乗った幼女は、差し出されたユウトの手を握り、微笑んだ。
ユウトはアリスに微笑み返し、ぬいぐるみを抱き締めたままの幼女の脇の下に手を入れ、ヒョイっと持ち上げる。
太い右腕で広くて柔らかい胸へとしっかり抱き寄せられると、幼女はユウトに縋り付くようにして大人しくなる。
アリスを抱いたユウトが鉄扉を潜って船倉へと戻ったその時、船内は赤い光で照らされ、警報が鳴り響き始めた。
次々と現れる銃で武装した男達を、左腕一本で片っ端から殴り、蹴り、張り倒し、ユウトは船内を駆け抜けた。
いくつ目かの封鎖されたゲートへ駆け込み、飛び蹴りであっさりと粉砕し、靴底を磨り減らしながら床の上を滑り、停止す
ると、
「フワ君!」
通路の向こうから駆けて来る、血塗れの刀をぶら下げた青年の姿を目にして、ユウトは安心したように、そして嬉しそうに
声を上げた。
「貨物スペースでかなりの数の危険生物を見つけたよ。それと…」
訝しげな視線を自分の胸元に向けている青年へ、ユウトは簡単に幼女の事を説明した。
当のアリスは怯えたような表情でタケシを見つめ、しっかりと大熊にしがみついている。
「状況は把握できた。では、最短ルートで脱出しよう」
タケシはアリスの様子には頓着せず、横手の壁を空間歪曲で大きく抉る。
「この船を航行不能にした後、脱出する」
「了解っ!」
青年の言葉に頷き、ユウトは怯え始めたアリスをしっかりと抱き直し、タケシの後に続いて穴を潜った。
「ここが動力室か…。原子力じゃなくて良かった」
唸りを上げる巨大な機械を前に、ユウトは呟いた。
「俺が停止させる」
「こんな大規模なの止められるの?機械に詳しいんだ?」
感心したように言ったユウトに頷くと、青年は機械に向かってすっと手を翳した。
ギンッ、ギンッ、ギンッ、という連続した音と共に、立て続けに生み出された空間の歪によって心臓部まで抉られた機械は、
耳障りな音を立て始め、やがて静まる。
「ある程度の知識は持っている。が、破壊した方が手っ取り早い」
「…まぁ、確かにそうだろうけれど…」
ユウトは釈然としない表情を浮かべながらも頷き、さっさと引き返し始めた青年の後に従った。
天井に、壁に大穴を穿ち、追っ手を巻きながら最短ルートで甲板へと戻ったタケシは、床に空いた穴に声をかけた。
「先回りされたな、囲まれている」
「そっか。仕方ない、強行突破だね」
ユウトは床を蹴って穴から飛び出し、身構えるタケシの隣へ着地する。
二人を包囲するのはマシンガンで武装した男達。それを見た大熊は不快げに顔を顰めた。
「…アリスちゃんが居るのに…、安全の考慮は無し、か…」
やがて、包囲する男達の間から一人の男が数歩進み出て、二人をじろりと睨んだ。
一人だけ場違いに高級そうなスーツを纏い、銃を抜いてはいない。
「親玉、だな…」
呟くタケシに、ユウトは頷いて同意する。
「貴様ら…調停者か?」
口髭を蓄えた壮年の男は、威厳を感じさせる、良く通る声で二人に問う。
ユウトとタケシは無言のまま返事をしないが、二人がボスと認識した男は、構わずに続けた。
「そのガキを返して貰おう。大人しく返すというのならば、命だけは保障してやる」
ボスの視線はユウトが抱きかかえる幼女に向けられていた。
幼女は相変わらず怯えた様子で、少し震えながらボスを見返している。
大熊は抱えた幼女を安心させるべく、優しく微笑みかけた。
「安心して、渡したりなんかしないから」
言葉の意味が解った訳では無さそうだが、ユウトの声の調子に安心したのか、アリスは微かに表情を緩めた。
「残念だが帰りたくないそうだ。交渉決裂だな」
ユウトが口を開く前に、タケシはボスにそう応じた。
意外に思ったユウトは、少なからず驚きながら青年の横顔を見る。
「ならば、少し惜しいが纏めて始末するまでだ」
ボスは苛立たしげに顔を歪めた。同時に取り囲んだ男達が銃を構える。
「な!?この子まで!?」
声を上げたユウトに、ボスは吐き捨てる。
「商品としては希少なものだが、野放しにする危険性を考えれば、始末する方が得策だ」
(危険性…?)
(このちっちゃい女の子が…?)
ユウトとタケシは一瞬目を見交わし、次いでユウトの腕の中のアリスを見つめる。
しかしもちろん幼女は何も語らず、黙って大熊にしがみ付いているだけである。
「…フワ君。ボクらの後ろ、ボート側の一箇所だけ包囲を切れる?」
「可能だが、どうするつもりだ?」
「ボクらへの銃撃を一瞬だけ防ぐ。だから突破口を開いて」
「何故だ?交戦が不可能な程の戦力差ではないが…」
「この子を危険な目には遭わせたくないんだ…。お願い…」
懇願するような響きのユウトの声に、青年は僅かな沈黙の後、
「承諾した」
そう応じて僅かに立ち位置を変えた。
タケシの体勢が整った事を察し、ユウトは後ろへ跳躍した。同時にタケシも大きく後ろへ跳ぶ。
二人の動きに反応し、男達が構えたマシンガンが火を噴いた。
その時には、既に着地したユウトは屈み込んだ姿勢でアリスを床に降ろし、左右の手を大きく広げていた。
「雷障陣(らいしょうじん)!」
掛け声と同時に一瞬で広がった光の膜が、三人の周囲にドーム状に展開され、銃弾を弾き散らす。
ユウトは本来自分の体をコーティングするエネルギーを周囲に放出し、自分とタケシ、アリスを守るための障壁を築いたの
である。
自分達を覆う光の障壁を見回し、タケシは感嘆したように目を見開いた。
「これ、そう長くは持たないんだ…!斉射が途切れた瞬間を狙って陣を解くから、突破口の確保をお願い…!」
これだけのエネルギーを放出するのは相当な負担になる。
全身から急激に力が抜けて行くのを感じながら、ユウトは食い縛った歯の間から苦しげに囁く。
青年は刀をしっかりと握り直し、大熊に頷いた。
「今だっ!」
銃撃が途切れた一瞬を見計らい、発せられた声と同時に、タケシが床を蹴る。
叫んだユウトは青年の動きに合わせ、刹那の間も遅れずに障壁を解除した。
目の前で消滅した障壁から飛び出し、初めて目にするのだろう、異常な現象に驚いている男達に、青年は一気に肉薄した。
闇に翻る刃の輝きが、男達の手、銃、腕、肩などを切り裂き、次々と、瞬く間に無力化してゆく。
消耗が激しく、肩で息をしながらアリスを抱き上げると、ユウトは精彩を欠いた動きでその後を追う。
青年の鬼神の如き戦いぶりに恐れをなし、包囲網の一角があっさり崩れた。
そこへ走り込んだユウトは、本能の警告を耳にして振り返る。
その蒼い瞳が映したのは、こちらに向けられた大型の重火器…、ロケットランチャーだった。
(まさか…、仲間もろとも!?)
ボスは自分の横でランチャーを構えた男に、あごをしゃくった。
「フワ君!お願い!」
ユウトは叫ぶが早いか、タケシにアリスを放る。
周囲の男達が巻き添えを恐れてパニックになる中、刀を片手に振り返った青年が、脇に抱え込むようにしてアリスを受け止
めたのも確認せず、ユウトは体ごと向き直り、腰を落とした。
大熊が身構えて両腕を前に突き出したのと、ロケットランチャーが発射されたのは、ほとんど同時だった。
「お願いだから保ってよ…?雷障陣!」
飛翔したロケット弾を睨み据え、ユウトは前に翳した両手からエネルギーを放出する。
再度形成された障壁は、今度は範囲が狭く、ユウトの前面にのみ展開された。
障壁と接触し、弾頭が爆発する。
障壁は広がる爆炎を食い止めたが、一瞬の後、ガラスが割れるような音を立てて砕け散った。
威力を減殺されたとはいえ、荒れ狂う爆風と炎は、ユウトの巨躯をも軽々と吹き飛ばす。
反射的にエナジーコートで全身を覆い、丸焼きにされるのだけは防いだが、踏ん張りきれずに吹き飛ばされたユウトは手す
りに激突し、そのままタンカーの外へと放り出される。
「っく!」
ユウトがぶつかった衝撃でぐしゃぐしゃになって千切れかけ、へりからぶら下がった手すりを掴んで落下を免れると、ユウ
トは上を見上げてほっと息をついた。
へりから身を乗り出して大熊の無事を確認する青年の姿が、視線の先にあった。
その腕には怯えきった表情のアリスが、それでもしっかりと抱えられている。
二人の無事を確認し、這い上がろうとしたその時、ユウトは自分が置かれている状況に気付いた。
ゆっくりと、視線を下に向ける。遥か下の足元には、暗くたゆたう夜の海面が広がっていた。
手すりを掴む手の平がじっとりと汗ばみ、体が硬くなる。
掴んだ手すりはユウトの重さに耐え切れず、徐々に曲がってゆき、ギシギシと音を立てた。
「早く上がれ、また包囲されるぞ」
逃げ散った男達も爆発の騒ぎから立ち直りつつあるのか、タケシはしきりに周囲を見回していた。
「…だ、だめ…、千切れちゃう…」
ユウトの口から、か細い声が漏れた。
その体は小刻みに震え、歯がカチカチと音を立てている。
「上がるのは無理か?ならば飛び降りろ。ボートで拾う」
タケシの言葉に、ユウトは怯えた表情のまま首を左右に振った。
「…ぼ、ぼぼ…、ボク…、泳げないんだ…!」
恐怖で体がすくみ上がる。それでも、ユウトは最優先すべきと決めた事を、見失いはしなかった。
「か…、構わないで行って!ぼ、ボクは…自分で、何とかするから…!」
タケシは一瞬沈黙した後、身を翻してへりから姿を消した。
甲板の上で銃声が響き、誰かが上げる悲鳴が響く。
昇る事も、飛び降りる事もできず、ユウトはガチガチと歯を鳴らし、足の下に広がる暗い海への恐怖に必死に耐える。
(どっちみち落ちるなら…、いっそ…!)
下手に動けば折れてしまいそうな手すりを握り締め、ユウトは覚悟を決めて上を見上げる。
その時丁度、まるで計ったように、へりの上に青年が再び顔を出した。
そして、ユウトの脇に太い鎖を放って落とす。
「それを体に巻きつけろ。準備ができたら引け」
言い終えると、青年は再び顔を引っ込めた。
ユウトは片手で手すりにぶら下がったまま、のろのろと、慎重に体に鎖を巻きつけ、おそるおそる鎖を引く。
すると、鎖は少しずつユウトの体を引っ張り上げ始めた。
(た…助かった…)
ほっと息をついたユウトは、下に広がる海面を見下ろし、身震いした。
へりに手をかけて体を引っ張り上げたユウトは、倒れ伏す男達の中に立つ青年の姿を見て、目を丸くした。
太い鎖がウインチで巻き上げられる中、タケシは刀を一振りし、血の海の中でユウトをゆっくりと振り返った。
「済まない。加減している余裕は無かった」
血の海に倒れ伏した30名近い男達は、大半が息をしていない。喉を切り裂かれ、胸を貫かれて絶命した者、頭部や胸部な
どを抉られたように失っている者、かろうじて生きている者すらも、五体満足な者は一人も居なかった。
「俺には、一流の調停者の真似は難しいらしい」
刀を納め、青年は何かを思案するように目を細め、そう呟いた。
ユウトはしばし立ち尽くした後、
「ごめん…」
項垂れて、小さく呟いた。
「ボクがへまをしたばかりに…」
青年はその言葉には応じず、自分の傍らで蹲り、震えているアリスへ視線を向けた。
「こっちを頼む。どうにも、俺に怯えているらしい」
ユウトは力なく頷くと、タケシに歩み寄る。
意識せず、偶然にもふと横に泳がせたその蒼い瞳が、血溜りに伏した一人の男に向けられ、警戒の光を宿した。
「フワ君!」
ユウトの声と同時にタケシは振り向き、そしてその黒瞳に、瀕死の重傷を負いながらも、膝立ちでロケットランチャーを構
えたボスの姿を映す。
躊躇は見せなかった。青年は蹲るアリスを、覆い被さるようにして抱き締める。
「逃げてフワ君!!!」
ユウトは駆け出しながらも、エネルギーの放出はおろか、禁圧解除すらできないほどに消耗した自分に気付き、悲鳴に近い
声を上げた。
悔しさと己の不甲斐なさに、思わず涙が滲んだ蒼い瞳は、その時、場違いなモノを映した。
ボスは、ポカンと口を開けていた。
ランチャーを構えたその目前に、チョッキを着た、白いウサギのようなモノが居るのを目にして。
ノッペリとした目鼻も無い、マネキンのようなウサギは、手にした懐中時計を弄りながら、首を傾げてロケットランチャー
を見つめた。
その可愛らしいとも言える仕草に、しかしボスの口から悲鳴が漏れた。
足を緩めず駆け込んだユウトは、タケシと、抱えられているアリスを押し倒すようにしてヘッドスライディングしつつ、自
分の体を盾にして甲板に伏せる。
一瞬後、ボスの目の前で、放たれたロケット弾が爆発した。
(どうして…?)
爆風に全身をなぶられ、破片に叩かれながら、視界の隅でボスの最期を確認したユウトの頭は、その疑問で埋め尽くされていた。
ボスは、自分の目の前に現れたウサギめがけ、ロケット弾を発射した。
しかし、ロケット弾はウサギの体を通過し、床に当たって爆発した。
(あのウサギは幻だった?それにしても…)
恐慌状態になっていたのだろうか、あの至近距離で撃てばどうなるか察しがつくだろうに、ボスは躊躇無くロケット弾を発
射していた。
(解らない…。解らないけど…、とにかく離脱して、応援要請をしよう…)
ユウトはそう考えながら、抱え込んだタケシとアリスが無事である事に、まずは安堵した。