第五話 「アリス」(後編)

「ごめんね…」

暗い波間にたゆたうボートの上、カズキへの報告と応援要請を終えたタケシに、ユウトはぼそっと呟いた。

「結局、足手纏いになっちゃった…」

「そんな事はない」

即座に返された言葉にも、ユウトの心は晴れはしない。

幼女は怖い目に遭って疲れてしまったのか、熊のぬいぐるみを抱いたまま、あぐらをかいたユウトの脚の上で寝息を立てて

いる。

「ねぇ…。ボクが海に落ちそうになった時、キミだけならアリスを連れて脱出できたでしょ…。なんでボクを助けたの?」

青年は項垂れたまま尋ねるユウトに視線を向け、しばらく沈黙した後、

「…何故…?」

不思議そうに眉根を寄せて呟いた。

(…解らない…。俺は、何故あの時、脱出を優先しなかったのだ?)

青年は自問し、そして首を傾げる。

考えても考えても、何故あの時、自分があのような行動を選んだのか、確たる理由は思い浮かばない。

「…放って行く事に、抵抗を感じた…。そうとしか答えようがない」

困ったようにそう言った青年を、ユウトは上目遣いに見つめた。

「強いて言うなら…。お前の顔を見たら、放っておけなくなった…」

ドキンと、胸が高鳴った。頬がかーっと熱くなるのを感じ、ユウトは顔を伏せる。

脈打つ鼓動が耳元で鳴り響き、それがタケシに聞こえてしまうのではないかと不安になり、そして恥かしくなる。

大熊は動揺を誤魔化すように、無言のままオールを握り込み、ボートを進ませ始めた。

これまで、兄を除けば、誰かに助けて貰った事など殆ど無かった。

母を喪ってからは、強くなろうと、誰も頼らずに生きて行けるようになろうと、自分でも気付かぬ内に意地になっていた。

後々、ユウトはその生涯において、何度もこの時の事を思い出す。

その度に、胸に手を当て、心の中でこう呟いた。

(きっとボクはあの時、タケシに恋をしてしまったんだろうな…)

まるで自分の心の内を探るように、しばし沈黙していたタケシは、ふと思いついたようにユウトに尋ねる。

「お前こそ、この幼女や俺を放置し、単身であれば簡単に退却できたはずだ。何故あれだけ消耗しながら踏み止まった?」

「それは…、仲間や、護るべき相手を見捨てて逃げるようじゃ、調停者じゃないもん」

オールを操りながら、ユウトが言葉を選ぶようにしてそう応じると、タケシは少しの間を置いて頷いた。

「ならば、俺も同じ理由なのかもしれない。自覚はできていないが」

ユウトは目を見張る。困ったような微笑が、青年の顔に浮かんでいた。

(この人となら…、ボクは…)

ユウトは自分の頭に一瞬浮かんだ考えに苦笑し、それから声を上げた。

「あ〜あ!かなづちだって事までバレちゃったぁ、恥かしぃ〜!…この事、お願いだから誰にも言わないでよねぇ?」

「承諾した。では交換条件だ。秘密にしておく代わりに、俺の事も黙っていてくれると有り難い」

奇妙な事を言い出した青年に、ユウトは不思議そうに首を傾げる。

「実は、俺は、能力を使い過ぎると…」

先を続けるタケシの頭が、左右にふらふらし始める。

「フワ君?大丈夫?」

「眠く…なって…」

重そうに半分閉じられた瞼の下から、青年は虚ろな視線をユウトに向けた。

「悪いが、後は…たの…」

「ちょ、ちょっとフワ君!?」

タケシは言葉の途中で横向きに倒れ、ユウトは仰天しながらその体を揺さぶる。

何処か負傷しているのかと慌てたが、青年は規則正しく、安らかな寝息を立てていた。

どうやら言葉どおりに本当に眠くなっただけのようだと察し、ひとまずは安心したものの、どんなに揺すっても全く起きる

気配の無いタケシと、ぐっすり眠ったアリスを交互に見つめ、ユウトは途方に暮れて呟いた。

「…なじょすっぺなぁこいづぁ…」(訳・どうしようかなこれは…)



遠くタンカーを見渡せる港では、応援要請で集まった調査員や調停者達が、慌ただしくボートに乗り込み、タンカーに向かっ

てゆく。

乗員の大半を無力化したとはいえ、タンカー内には危険生物も居る。

事件の完全な解決までは、まだまだ調停者に出番が回ってくるだろう。

ユウトの腕に抱えられたアリスは、騒ぎをものともせず熟睡していた。

「ご苦労だったな。大手柄だぞ?後は任せて、まずは休んでくれ」

「…はぁ…。それはまぁ喜ばしい事なんですけど…」

労うように言ったカズキに。ユウトは困ったように眉根を寄せた。

「どうしますか?彼?」

ユウトは困ったような口調で、コンクリートの地面に放り出されてなお、ぐっすりと眠っている青年を見遣った。

「う〜ん…。本来なら俺が送ってくか預かるところだが…、これから現場監督だ。忙しくなるからな…」

カズキもまた困ったように顔を顰め、それからポンと手を打った。

「そうだ。あいつのヤサはここから近い。放り込んで来てくれるか?」

言うが早いか、「え?」と聞き返すユウトに、懐から取り出した鍵を放って寄越した。

「え?ちょっと、これは?」

「そいつのアパートの合い鍵だ。場所は…」

カズキが大熊にアパートの場所と名前、部屋番号を伝えると、ボートの上から調査員に呼ばれ、手を上げる。

「済まない!今行く!…じゃあ、悪いけど頼むぞ」

「ちょっと!?ボクはまだ引き受けるとは…」

「ああ、それと恐らく夕方近くまでかかるから、監査の方はその後で頼む」

「そんなぁ…!あ、あとこの子は!?」

「済まんが預かっててくれ。一応参考人だからな、しっかり保護しててくれよ?」

「…つまり、休んで良いとは言っても、待機って事ですか…」

「そういう事だ。重ねて済まんが頼むぞ?」

カズキがボートに乗り込み、取り残されたユウトは、硬いコンクリートの上に横たえられてもなお、健やかな寝息をたてて

いるタケシに視線を向け、

「…はふぅ…」

疲れたようにため息をついた。



「ここかぁ…」

アリスを抱え、タケシを背負い、アパートに辿り着いたユウトは部屋の前で足を止めた。

警官から預かった鍵を使い、

「…おじゃましま〜す…」

と、背負っている部屋の主に小声で断りを入れてから玄関に足を踏み入れた。

「…うわ…」

踏み入れた途端、ユウトは声を上げた。

呆れているような、驚いているような、そして感心しているようなユウトの視線の先、玄関から伸びた短い廊下のすぐ先に

は、畳敷きの殺風景な部屋があった。

箪笥やテレビなどは勿論、テーブルや座布団まで、家具らしい家具が一切無いガランとした部屋は、生活臭がほとんど無く、

まるで夜逃げ直後のようですらある。

生活の痕跡を匂わせるものは、町指定の袋に詰め込まれたゴミと、積み重ねられた古新聞、畳の上に無造作に放り出された

一枚の毛布のみ。

「何て言うか…、どうやって生活してるの君…?」

自分の背中で眠っている部屋主に小声で問いかけつつ、ユウトはやけに広く見える六畳間に上がる。

そして興味深そうに部屋の中を見回しながら毛布を広げ、その上にタケシを寝かせた。

襖を開けて中を確認したが、押し入れの中は空っぽで、敷き布団も何も無かった。

アリスを抱いたまま、ユウトは心の中で青年に詫びつつ、他の部屋を確認する。

しかし、隣の四畳半には本や資料が詰め込まれた本棚があるだけで、アリスの寝具にできそうな物はない。

しかたなく台所に足を運んだ大熊は、タオルを多めに持ち出し、小さな幼女の体をくるむ。

(ボクが抱いてれば風邪を引く事はないと思うけど…)

アリスをしっかりと抱き直しながら、ユウトは小さな冷蔵庫に目を止める。

何気なく中を覗き込んだ大熊は、驚きに目を丸くした。

冷凍室のない、安物の小さな冷蔵庫の中には、ミネラルウォーターの2リットルボトルが三つ、カロリークッキーが3パッ

ク、リンゴが二つ、それと大量の粉末プロテインだけが詰め込まれていた。

(どんな食生活してるんだろ…?)

眉を潜めて冷蔵庫を閉めると、ユウトは居間へと引き返す。

ゴミ袋の中に視線を向けると、カロリークッキーの空箱とプロテインの空き袋が詰まっていた。

(これはいけない!)

ユウトは拳を握り込み、何かを決意したように深く頷いた。



タケシが目を覚ましたのは、昼近くになってからだった。

目覚めた青年は、部屋を見回し、壁に寄り掛かっているユウトに視線を向けた。

胡座をかいた上にタオルに包まれたアリスを寝かせていたユウトは、「おはよう」と微笑みかける。

「状況を教えてくれ。タンカーはどうなった?」

目覚めるなりいきなり仕事の話に移ったタケシに苦笑し、ユウトは引き上げ以後に自分の携帯に入った追加情報も含め、事

件の顛末を話して聞かせた。

「…って訳で、タンカーは拿捕完了。生き残ってた乗組員の大半が無条件で投降したから、調停者側は被害ゼロ。でもってボ

クらは今日十八時に交番で監査ね。その時にアリスも保護してもらう事になると思う」

受け取った毛布にアリスをくるみ直し、体を伸ばして寝かせているユウトに、タケシは軽く頭を下げた。

「了解した。手間をかけたな」

ユウトは笑みで応じ、それから何かを思い出したように顔を顰めた。

「ところでフワ君。キミ、いつもはどんな食事をしてるの?」

何故そんな事を聞かれるのか解らず、青年は不思議そうに首を傾げた後に答えた。

「カロリークッキーとミネラルウォーター。それとプロテインだ。他の栄養は必要に応じ、錠剤等で摂取している」

ユウトはほぼ予想通りの答えを聞き、眉間に皺を寄せた。

「ダメ!」

いきなりのダメ出し。この青年にしては珍しい事だが、タケシは驚いたように目を丸くした。

「良い?栄養を摂るばかりが食事じゃないの。美味しい食事は健康の元!栄養だけ確保してもダメ!」

「そうなのか?体が動けばそれで良いと思うが…」

ユウトは呆れたようにため息を漏らした。

「あのねぇ、ボクらは機械じゃないんだからさ…。例えばフワ君、何か好きな食べ物とかは無いの?」

「特に無いが…、強いて挙げればプロテインだろうか?」

プロテインを好物に挙げた青年に、大熊は眉間を押さえた。

「ああもう!ちょっとアリスを見てて。買い物に行ってくるから!」

「…?…了解した」

首を傾げる青年と、ぐっすり眠っている幼女を残し、ユウトはアパートを出て、近くのスーパーに向かった。



調理器具どころか、食器類もまともに揃っていなかったので、ユウトは食材と食器、まな板に包丁、フライパンや鍋まで購

入し、アパートに戻った。

ユウトが料理を始めると、アリスは物音で目を覚ます。

「ちょっと待っててね〜。すぐに美味しいものを作るから」

足下に縋り、興味深そうに自分を見上げる幼女に話しかけながら、ユウトは手慣れた様子で食材を刻み、挽肉を捏ね、ハン

バーグと野菜スープ、フレンチトーストを拵えた。

側に立って一部始終を眺め、鮮やかな手並みに感心していた青年に、ユウトは料理を盛った皿をグイッと押し付ける。

「テーブル無いみたいだから、新聞を敷いてその上で食べようか」



畳の上に古新聞を敷き、三人はその上で食事に取りかかった。

(なんだかハイキングでもしてるみたい…)

ユウトはそんな事を考え、可笑しくなって小さく笑う。

「……………」

一口囓るなり硬直し、食い入るようにじっとハンバーグを見つめ始めた青年に、

「どうしたの?何か失敗してた?」

ユウトは訝しげに問う。

「いや…。これは、何だ?」

「え?ただのハンバーグだよ?」

「…そうか、これがハンバーグという料理か…」

フォークで切り分け、やけに慎重に口へと運ぶタケシに、大熊は再び尋ねた。

「もしかして、口に合わなかったかな?」

「…いや…」

ユウトの心配そうな言葉を否定した後、青年は実に不思議そうに呟いた。

「…美味い…」

「そう?」

「…ああ…」

食物を口にして、栄養の摂取という事が目的ではなく、純粋にもっと味わいたいと思ったのは、青年にとっては初めての事

だった。

タケシは戸惑いつつも、ユウトお手製のトマトソースがたっぷりかかったハンバーグを、黙々と口に運ぶ。

「良かった。微妙な反応だったから、失敗しちゃったかと心配になったよ」

ユウトはそう言って笑うと、自分の膝の上に座っているアリスに視線を落とす。

一心不乱にフレンチトーストを囓っている幼女を見下ろして微笑み、ユウトは口元についた卵を拭ってやる。

その様子を眺めながら、タケシはこれまでに味わったことのない、奇妙な感覚が胸を満たすのを感じていた。

しかし青年は、自分が感じているそれが、安らぎという感覚である事を、この時点ではまだ知らない。



「名前はAlice…。回収できた資料から確認できたのは、それだけだ」

「う〜ん…、名前だけかぁ…」

交番の地下にある取調室、警官の言葉を耳にしたユウトは難しい顔で唸る。

自分の名前を耳にして、ユウトの膝の上で大人しくしていたアリスが、顔を上げて大熊の顔を見た。

「捕縛した船員達からは何も?」

タケシの問いに、カズキは首を横に振った。

「ただ「大事な商品」とだけ聞いていたそうだ」

商品という言葉に、ユウトは嫌悪感も顕わに眉間に皺を寄せた。

「あの船、危険生物だけでなく、ヤクや銃まで密輸していたからな…。その子も、そういった趣味を持つ金持ち相手に用意さ

れたのかもしれん。…言葉、話せないんだろう?」

「えぇ…」

ユウトは自分を見上げる幼女に視線を落とす。

アリスが目覚めてから、ユウトは話をしようと試みた。

自分が知らない言語圏の人間なのかと思い、様々な単語を試したが、幼女が言葉らしい言葉を発する事は無かった。

何と話しかけても、無言で微笑むか、断片的にユウトの発声を真似るのみ。他には「あ〜」「う〜」と唸る程度だったのである。

結局、幼女が自発的に口にした、意味を成す言葉はたったの二つ。自分の名であるアリスと、昨夜覚えたばかりのユウトの

名だけ。

「推測だが、アリスは乳児の頃から愛玩動物として飼育されてきたのではないだろうか?言葉も、無駄な知恵も、持たせない

方が都合が良かった。だから食事やトイレなど、最低限の身の回りの事しかできないのかもしれない」

「お前なぁ…、もう少し言葉を選べよ…」

大熊が顔を顰めている事に気付いた警官が、淡々と意見を述べたタケシをたしなめる。

「まぁ、何にしてもその子は立派な保護対象だ。護衛、ご苦労だったな」

警官に頷き、それからユウトはふと気になって尋ねた。

「アリスは、これからどうなるんですか?」

「う〜ん…、身元の照会は継続するが、まずは受け入れてくれる施設を探し、預かって貰う事になるだろうな」

「そうですか…」

ユウトは無邪気に微笑むアリスを見下ろし、その頭を優しく撫でた。

一日も早く両親の元に戻れる事を、強く願いながら。



「それじゃあ、お願いします」

交番の一階に戻ると、ユウトはペコリと頭を下げ、足下のアリスの背をそっと押し、カズキの方へ行くよう促した。

しかし、アリスは怯えたように警官の顔を見上げるばかりで、動こうとはしない。

「アリス?このお兄ちゃんがキミを新しいお家に連れて行ってくれる。良い子にして、言う事を聞くんだよ?」

アリスは優しく語りかけたユウトの顔を見上げ、そのズボンに縋り付いた。

「…困ったなぁ…」

ユウトは頬を掻き、アリスをひょいっと抱き上げると、カズキに差し出す。

幼女を受け取ろうと警官が手を伸ばしたその時、アリスは声を上げて泣き出した。

「え?ちょ、ちょっと?どうしちゃったのアリス?」

自分にしっかりしがみつき、泣き叫ぶアリスに、ユウトは慌てて呼びかける。

「大丈夫だよ!もう恐い人達は居ないんだ。ね?大丈夫だから…」

優しく声をかけられ、アリスの泣き声が少し小さくなる。

しかし、ユウトが再び警官に渡そうとすると、また火が付いたように泣き始めた。

「こ、困ったなぁ…」

交番内の視線が集中する中、ユウトとカズキは途方に暮れて顔を見合わせる。

二人とも、子供の泣き声というものがどうにも苦手だった。

「私見だが…」

タケシは泣き叫ぶアリスを冷静に観察しながら呟いた。

「おそらくだが、アリスは男が苦手らしい。クマシロが傍に居なければ、俺にも近付こうとはしない」

「そうなの?」

全く気付いていなかったユウトは、青年が幼女を子細に観察していた事を意外に感じ、少しばかり驚いた。

「俺やカズキさんに対しても、恐怖に近い感情を抱いているようだ」

ユウトはこれまでにアリスが置かれていた状況を思い浮かべ、哀しげに目を伏せた。

しばしの間、アリスを優しく揺すって落ち着かせると、ユウトはカズキにぽつりと尋ねた。

「あのぉ…、タネジマ監査官…。この子、ひとまずボクが預かる訳には行きませんか?」

「うん?」

カズキは少し考え、それからため息をついた。

「まぁ、参考人とはいえ話が聞ける相手じゃない事は確認できたし…。所在が把握できるなら、何処で預かって貰っても構わ

ないが…。子連れでフリーの調停者なんて、やっていけないだろう?」

「一時的なものですし、当面の蓄えはあります。しばらくの生活は大丈夫です」

応じたユウトの目に確かな決心を見て取ると、警官は頷いた。

「なら、悪いが頼もうか。継続護衛という名目で、手当てがつくように上に掛け合ってみる」

ペコリとお辞儀したユウトは、まだしゃくり上げているアリスに微笑みかけた。

「もう泣かないでアリス。まだ、もう少しの間は、傍に居てあげられるから…」

しゃくり上げるアリスをあやすユウト。

その様子を横から眺めながら、タケシは無言のまま、ずっと何かを考えていた。