第六話 「チーム」

「あ〜、い〜、う〜、え〜、お〜…」

口を大きく、目立つように動かしながら、一音ずつ発声する金色の熊の目の前で、

「あ〜!い〜!う〜!…」

栗色の髪の幼女が、大きく口を開けて発声を真似る。

掃除の行き届いたフローリングの床。

 その上に敷かれた絨毯の上で、大熊は両足を投げ出し、前のめりになる格好で幼女と向き合っている。

大柄な体躯に似合わぬ、そのなんとも可愛らしい姿勢は、巨大な熊の縫いぐるみを連想させた。

対する幼女は、大熊と至近距離で向き合い、正座から足を左右にずらしたような格好で、ペタンと尻をついている。

のどかで微笑ましいその発声練習は、しかしそれほど長くは続かなかった。

「んう〜う〜!」

繰り返し五十音順の発声を行う事に飽きてしまったのか、アリスは小さな両手で絨毯をぱしぱしと叩くと、腰を上げてユウ

トに近付き、その大きな体にばふっと抱き付く。

「あ、ちょっとアリス?…もぅ…!」

脂肪が乗り、ぽっこりと丸い自分の腹に抱き付いたアリスを見下ろし、ユウトは困ったようにため息をついた。

薄いティーシャツの生地越しに感じる毛皮の感触と温もりが心地良いのか、アリスはユウトの鳩尾に頬を擦り付けている。

「ちゃ〜んと練習しないと駄目だよぉ…?」

ふと顔を上げたアリスは、困ったような表情を浮かべる金熊の顔を見ると、輝くような笑みを浮かべた。

(この笑顔、もはや兵器だよ…)

思わず笑みを返しながらユウトは、そんな事を考える。

愛想笑いや作り笑い、返答や挨拶、そんな日常的に交わされる笑みとは違う。

ただ嬉しくて、ただ楽しくて、胸の奥深くから迸り、顔の表皮まで溢れ出る。

一片の異論も疑問も引っかかりも無く、心の真ん中から外界へと向けられる無垢なる笑顔。

これほどまでに愛らしく、素敵で根源的で純粋な笑顔で笑える者はそうは居ない。

あるいは、アリスが知恵をつけていない、実にプリミティブな状態だからこそ生まれる、特別な笑みなのかもしれない。

ユウトはアリスが見せる笑顔を、そう評価している。

(子供の笑顔は別物だって言うけれど…。本当だなぁ)

強く抱き締めれば壊れてしまいそうな幼子、その両の脇下に手を入れ、逞しい両腕でそっと持ち上げ、抱っこしてやりなが

ら、ユウトはゆっくりと立ち上がった。

「それじゃあ、少し気分転換しようか?」



東護町の市街地に建つ十階建ての建物。

熊のエンブレムが正面に掲げられた賃貸マンション、ベアパレス23。ユウトはそこに部屋を借りている。

アリスを保護し、部屋に連れ帰ったユウトは、暇さえあれば言葉を教えていた。

とりあえずアリスの親が見つかるか、でなければアリスが気に入ってくれる預かり手が見つかるまでは、自分が面倒を見る

つもりでいる。

もし、なかなか見つからなくとも、当面の生活はなんとかなる。

参考人の保護という名目で僅かながら振り込まれる手当てと、これまでの蓄えを使えば、働かなくとも数年は暮らして行け

る計算だった。

少なくとも、アリスが日常的な事を覚えるまでは、そうそう目を離す事はできない。調停者を休業するつもりでいる。

(ある程度の会話が出来るようになるまで、たぶん四ヶ月くらいかな…。半年までかかる事はないと思う)

はしゃぐアリスを背中に乗せ、四つん這いで部屋の中を歩き回り、お馬さんごっこをしてやりながら、ユウトはそう考える。

アリスは驚くほどに何も知らなかったが、驚くほどに飲み込みが早かった。

幼子ならではの多動さと、集中力が持続しないのは難点ではあったが…。

ほんの数回弄らせただけでテレビのリモコンの使い方を覚え、一度危ないと教えたガス台や電気ポットには手を触れなくな

り、電話も取るようになった。…取るだけで会話はできないのだが。

乾いた砂が水を吸い込むように、アリスはユウトが教える事を驚異的なスピードで吸収して行った。

そうして過ごすようになって、今日で一週間になる。



遊んでやっているはずなのに、自分でもお馬さんごっこが楽しくなり始めた頃、唐突にチャイムが鳴り響き、ユウトは耳を

ピクリと動かして止まった。

銃で武装する男達を、素手で叩きのめしてのける大熊が、幼い女の子を背中に乗せて部屋の中をのそのそと歩き回る姿は、

なんともユーモラスに見える。

べたっと床に寝そべってアリスを降ろすと、「ちょっと待ってて」と告げて幼女ををリビングに残し、ユウトは玄関口に立つ。

「はいは〜い。今開けま〜す」

宅配便か何かだろうと思ってドアを開けたユウトは、意外な訪問者を見て目を丸くする。

「フワ君?」

そこに立っていたのは、顔馴染みの調停者、不破武士だった。



アリスは、リビングに戻ってきたユウトの後ろに続く来客の顔を見つめた。

警戒しているのか、表情を硬くしたアリスは、ソファーの後ろへ回り込み、端から顔だけを覗かせてタケシの様子を窺う。

「大丈夫だよアリス、ボクの友達だから前にも会ってるでしょ?」

安心させようと微笑みかけたユウトの横で、タケシは、

「トモダチ?」

と、首を傾げる。

「あ。友達って呼ぶのはちょっと馴れ馴れしいかな?ごめん」

「…いや…」

タケシは何か考え込むように目を細め、歯切れ悪く黙り込む。

機嫌を損ねた様子でも無いが、どうにも気になるリアクション。

ユウトは青年の様子を気にしながらも、隠れているアリスに歩み寄って抱き上げ、ソファーに座らせる。

そして自分はその隣に腰を降ろし、タケシには向かいのソファーに座るように促した。

「よくボクの部屋が分かったね?」

「カズキさんに聞いた」

青年はそう応じると、自分の前にあてがわれたカップを取り、紅茶を啜る。

「もしかして、心配して来てくれたの?」

ユウトが冗談めかして笑いながら言うと、青年はしばし沈黙した後、

「…心配…。ふむ…。心配だったのかもしれない…」

と、呟いた。

戸惑っているような響きを伴うその言葉に、ユウトの顔からはからかうような笑みが消え、少し意外そうな表情に変わる。

「実際のところ、その娘を見ながらの仕事は不可能だろう」

「まぁね。しばらくは休業する事に決めたよ」

ユウトはそう応じながら、デロデロになるまで蜂蜜を加え、甘くした紅茶を啜った。

「収入は?」

「貯金でしばらくはやって行けるよ。この子の保護手当ても降りてるしね、当面は大丈夫」

青年はユウトの返答を聞き、顎を引くようにして小さく頷いた。

それっきり黙り込んだ青年から視線を外し、来客で少し緊張しているらしいアリスを見下ろしたユウトは、安心させようと、

優しく頭を撫でる。

「クマシロ。俺とチームを組むつもりは無いか?」

しばしの沈黙の後、青年が唐突に口を開いた。

ユウトはアリスの頭を撫でていた姿勢で一瞬固まり、それからゆっくりとタケシに視線を向ける。

「…へ?」

間の抜けた声を漏らし、口をポカンと開け、目を丸くしているユウトに、タケシは続けた。

「誰と組もうと足手纏いにしかならないと思い、これまでは単独でやってきた。だが今は、お前とならば、一緒に仕事をして

も良いと思っている」

タケシは呆然としている様子のユウトの目を、真っ直ぐに、じっと見つめた。

「無理にとは言わないが、考えてみてはくれないか?」

青年の申し出は、ユウトにとって意外なものだった。

彼女も青年の腕は信用している。

少々無愛想ではあるが、信頼に足る人物だと感じている。

もちろん、チームを組むのに不足な相手ではない。

だがユウトには、海を渡り、母の仇を捜し出すという目的がある。

アリスの保護を請け負った事で、予定は大幅に狂ったものの、それでもいずれはこの国を離れるつもりなのだ。

そして、タケシの提案に即答できないもう一つの理由は…、

ユウトはちらりと視線を動かし、自分の傍らで緊張している幼女を見下ろす。

アリスは男に対して怯えを示す。実際にタケシが目の前に居るだけで、声を発する事も無くなっていた。

「…申し出は、正直言って有り難いよ。でも…」

「その子…、アリスの事ならば、俺も少々策を講じて来た」

タケシはそう言うと、上着の内ポケットから小箱を取り出した。

赤いリボンのかかった、細長く薄い、桃色のその小箱を、青年は幼女に差し出す。

「贈り物だ」

タケシはしばし箱を差し出した姿勢で待ったが、アリスが受け取ろうとしない事を見て取ると、幼女の目の前、テーブルの

上に小箱を置いた。

アリスは戸惑うように小箱と青年の顔を交互に見つめた後、おずおずと箱を手に取る。

幼女は手にした箱を見つめ、それから微笑んでいるユウトの顔を、伺うように見上げた。

アリスから何かを問いかけるような視線を受け、一瞬考えた後、大熊はある事に思い至り、苦笑した。

「ああ、ごめん!リボンつきの箱なんて部屋の中じゃ見慣れないもんね…。これはね、こうして…」

ユウトに指導され、アリスはリボンを解く。

引っ張ったらするりと解けたリボン結びに、幼女は驚いたように目を丸くした。

そしてしばらく赤いリボンを見つめた後、大熊に促されて箱の蓋を開ける。

「…ユウト…」

幼女は箱の中身を見てポツリと呟いた。

「うん?」

箱の中を覗き込んだユウトは、そこに入っているハンカチを見て微笑んだ。

小さな熊が何頭もプリントされた、淡い赤のハンカチ。

それは、少女の唯一の持ち物、熊の縫いぐるみに良く似た熊のデザインだった。

幼女はハンカチの熊を指さし、笑みを浮かべてしきりに「ユウト!」と繰り返す。

「分かったってば。嬉しいんだね?」

「もしやと思って選んだのだが、好みに合ったようだな」

微笑んだユウトに、タケシが無表情のまま言った。

「アリス。ほら、お兄ちゃんにお礼をして」

アリスはユウトに促されると、タケシを見つめ、それから、恥ずかしそうに微笑んだ。

「使い古された手ではあるが、いわゆる餌付けだ。自分に危害を加えない相手だと理解すれば、態度も軟化するだろう」

「なるほど…。そう言えばさっき、好みに合ったって言ってたよね?アリスの好みって?」

ユウトが首を傾げると、ハンカチを広げて笑みを浮かべているアリスを眺めながら、青年は口を開いた。

「脱出する際にも、アリスは縫いぐるみをしっかりと抱えていた。恐らく、彼女にとって唯一の味方だったのだろう。それで、

熊がデザインされた物を選んだ」

「…そっか…」

タケシの推測を聞いたユウトは、表情を曇らせる。

縫いぐるみしか味方の居ない、部屋に閉じ込められていた孤独な幼女…。

せめて自分は、この子の味方でありたい。護っていてやりたい。ユウトはその想いを一層強くする。

あるいはそれが、意外にも自分にも備わっていた、母性というものの影響なのかもしれないと、頭の隅で考えながら。

「…で、その唯一の味方は、今どこに?」

タケシに問われたユウトは、小さく頭を振り、気分を切り替える。

「今朝方、アリスにチョコバニラをお裾分けされてね…、今は乾燥機の中。そろそろ大丈夫かな?」

苦笑しながらそう青年に応じ、立ち上がると、ユウトはリビングを出て行く。

「お?ばっちり!」

そんな声から殆ど間をおかずに戻って来たユウトは、乾燥機から取り出して来た熊の縫いぐるみをアリスに手渡した。

「ユウト!ユウト!」

「はいはい。綺麗になって良かったねぇ」

せがむように手を伸ばしたアリスに、微笑みながら縫いぐるみを渡すユウト。

タケシは何故か、少し訝しげに眉根を寄せて二人を眺める。

そして残り少なくなった紅茶を飲み干すと、ユウトに声をかけた。

「チーム参加の要請にあたり、俺の事も少し話しておくべきだろうな」

「キミの事?」

ユウトは首を傾げた。

改めて言われてみれば、初めて顔をあわせ、勘違いから刃を交える事になったあの夜からしばらく経つが、ユウトはこの青

年の事を殆ど知らない。

タケシが自分の事を自発的に話す事は殆ど無かったし、ユウトから尋ねる事も無かったのだ。

「俺には、ここ二年程度分しか記憶が無い」

あまりにも唐突に、そして何の感情も交えずに呟いた青年の言葉の意味を、ユウトは一瞬はかりかねた。

「今からほぼ二年前になる。夏の事だ。自分の名前以外はろくに思い出せない状態で、俺はこの町の岸壁に流れ着き、カズキ

さんに保護された」

「…つまり、そのぉ…。記憶喪失…、って事?」

驚きを隠せぬままユウトは尋ね、タケシは頷く。

「それまでの自分が何処に居たのか、何をしていたのか、未だに全く思い出せないでいる」

「調停者の記録には無いの?」

「カズキさんが調べてくれたが、殉職扱いの不明者も含め、これまでに登録された調停者の中に、該当する記録はなかったそ

うだ」

戸惑うように問い掛けるユウトとは対照的に、青年は何の感情も交えず、淡々と語る。

「…ただ、危険生物やレリックを目にすれば、それに関連した知識が思い出される事もある。それもかなり頻繁にな。恐らく、

以前の俺は海外で活動していたフリーのハンターか、あるいは何処かの組織の構成員だったのではないかと推測している」

さらりと言ったタケシに、ユウトは驚愕に目を見開いた。

「組織の構成員って…、タネジマ監査官は?」

「否定はし切れないが、可能性の話だ。と一笑された。現行犯なら捕まえない訳にはいかないが、確証も無いから保留だ。と」

ユウトは警官の丸顔を思い出し、そして微かな笑みを浮かべた。

決してハンサムとは言えないまん丸な赤ら顔にメタボ体型。

それでも、ユウトはあの警官の事を「男前」だと思っている。

「男は顔じゃない。大事なのは「男前」な心根をしてるかどうかだよ」

それが、今は亡きユウトの実母の口癖だった。

きっとあの警官のような人物を、母は「男前」と呼ぶのだろうと、ユウトは思う。

「男前だね。タネジマ監査官は」

大熊の呟きにも、タケシは特に何の感想も漏らさず、話を続けた。

「調停者資格を取るまでの間、俺は一年ほどカズキさんの保護下で過ごした。恐らく俺はカズキさんに対し、世間で言うとこ

ろの兄に対するような感情を抱いている。と、思われる」

淡々と述べられたその言葉はやけに客観的ではあったが、ユウトは青年が口にした言の葉の節々から、カズキへの深い信頼

と謝意を汲み取る。

「キミが調停者になったのは、記憶を取り戻す為?」

「それもある。が、身元も不確かな俺には、他にできそうな事が見つからなかったと言うのも理由の半分を占めるな」

「…剣術も、能力も、記憶の中に無いの?」

「体が覚えていた。…とでも言うべきか。知識としては、戦闘経験に追従する形で少しずつ取り戻して来ている」

「なるほどねぇ…」

「ついでだから説明しておくが…、一つ訊きたい。何度か見せているが、俺の能力、お前はどのような物だと認識している?」

青年の問いに、ユウトは目を細めた。蒼い瞳には興味深そうな光が湛えられている。

「最初は重力操作能力かとも考えたんだ。あの能力自体珍しいし、ボクも詳しくは知らないからね。これがそうなの?って一

瞬思ったよ。…でも、違うね」

タケシは頷き、ユウトはさらに思考を巡らせる。

「もう一つ候補に考えたのは、大気に干渉するタイプの能力。刀が急に現れたりするのは、空気の層を操作して可視光線を屈

折させて隠し持ってるから。これまでにボクが見た現象は、衝撃波や、指定範囲の大気の圧縮や拡散、局所粉砕なんかにも少

し似てるしね。…けど、たぶんこれも違う。大気を圧縮して対象を圧力で破砕しているとしても、跡形もなく消滅するのは不

自然だしね」

ユウトはため息をつくと、軽く肩を竦めた。

「ん〜!降参っ!分からないや。ボクが知ってる中には、該当しそうな能力は無いよ」

タケシは一つ頷くと、短く告げる。

「俺の能力は、空間への干渉だ」

ユウトは目を見開き、口を開く。が、上手く言葉が出なかった。

「空間を歪曲させる事や、断裂させる事ができる」

「…空間…、って…、へ…?」

驚愕を隠せないユウトに、タケシは淡々とした口調で続けた。

「例えばディストーションならば、指定した空間を歪め、他の空間に繋げ、そして閉じる。こうする事で、指定した空間内に

存在する物質は「向こう側」へ置き去りにされる。つまりは「こちら側」からは消滅する」

「…この世界からの強制排出って訳?」

「そうなるな。が、行き先は指定できない。「向こう側」のどこかだ」

「…さっきも言ってたけど、その「向こう側」っていうのは?」

「俺が便宜的にそう呼んでいるだけだ。あるいは宇宙の何処かなのかもしれないが、良く分からない。向こう側を確かめる術

はないからな。ついでに言えば、刀もそこにしまっている。俺が送ったものならば、自分の意志でこちらに呼び戻せる」

空間そのものを操作する能力…。ユウトの知識には無く、聞いたことも無い力だった。

にわかには信じ難い話だったが、タケシの言葉を信じれば、その不可解な能力にも説明はつく。

ユウトは驚愕しながらも、理解する事はさておき、まず青年の話を信用する事にした。

青年が自分の手の内を明かし、能力の正体を暴露した事が、何よりも確かな自分への信頼の証明である事を察し、ユウトは

胸の奥が暖かくなるのを感じる。

「俺からの話は以上だ。今伝えた事を考慮した上で決めてくれ」

ユウトは与えられた情報を頭の中で整理しながら、ゆっくりと頷いた。

「数日したらまた来る。返事はその時に聞かせてくれ」

青年はそう言ってソファーから立ち上がる。

「分かった。じっくり考えるよ。…もう帰っちゃうの?」

ユウトの声を聞き、少し名残惜しい物を感じ、青年はそんな自分を意外に思いながらも頷いて返答した。

「今夜は仕事が入っているのでな…」

玄関まで見送りに出たユウトとアリスに、タケシは別れを告げた。

「では、また後日」

「うん。またねフワ君。お土産ありがとう」

アリスはタケシの顔をじっと見上げ、それから口を開いた。

「あい…あと…」

ユウトとタケシは目を丸くして幼女を見つめ、それから顔を見合わせ、また幼女の顔を見下ろす。

二人に見つめられたアリスは、恥ずかしそうな笑みを浮かべ、ユウトの後ろに隠れてしまった。

「…邪魔したな…」

タケシは微かな笑みを浮かべ、ドアを閉じた。

青年を送り出してリビングに戻ったユウトは、飽きずにハンカチを見つめ続けているアリスを眺めながら、ぼんやりと考える。

(…チームか…。数年の内には、この国を出るつもりだったんだけどな…)

しばらくの間、アリスを見ながら考えた後、ユウトは決心した。



三日後の夜に、タケシは再びやって来た。

すでにアリスを寝かし終えていたユウトは、青年をリビングに迎え入れ、向かい合ってソファーに座る。

そして姿勢を正し、タケシの顔を真っ直ぐに見つめた。

「チームを組むって話、ボクには断る理由は無いよ。キミの考えが変わっていなければね」

「そうか」

タケシは頷く。

「もちろん、俺の考えは変わっていない。チームの結成、受けてくれるか?」

「うん。喜んで…!」

ユウトは大きく頷くと、

「チームかぁ…。えへへ! これからよろしくね、フワ君!」

少し照れているように微笑み、テーブル越しに手を伸ばす。

タケシもまた、口元に微かな笑みを湛え、その手を握り返した。



「事務所は他のトコみたいに、住居兼務が良いよね?」

「ああ。別宅にしておいて、緊急時に対応できないようでは困る」

「チームを組んで事務所を構えるとなると、調査物やレリックなんかの一時保管も出てくるし…。う〜ん…、借り物件は難し

いなぁ…」

「そもそも、一般人である大家が出入りできる場所にレリックを保管するのは…」

「あ。そっか、調停法に違反しちゃうね…」

タケシが返事を聞きにやって来たその翌日から、二人は町中の不動産屋を当たって資料を集め、事務所の候補を探し始めた。

「フワ君。貯金どれくらいある?」

「現在は五百万程か…」

「…ボクの三分の一くらいか…。どうでも良いけど、あんな安上がりな生活してて、何にお金使ってるの?」

「主に刀の購入だな」

「…あぁ、高いもんね…。そもそも何で日本刀を使うの?直剣や西洋刀なら調停者用に生産されてるのがあるじゃない?それ

こそハイセラミ製のとか、結構安価なのにすれば…」

「日本刀が一番しっくり来る。これだけは譲れない!機能性の中にも醸し出される美!そして一本毎に込められし匠の技術!

ただの武器ではない、芸術品と呼べるほどに昇華された日本刀はそもそも…」

拳を握り締めて身を乗り出し、珍しく力説する青年に、ユウトは面食らって目を丸くする。

「…いや、まぁ議論するつもりはないけど…」

ユウトは日本刀について熱く語り始めた青年から視線を外し、カーペットの上に広げた物件リストを、珍しそうに眺めてい

るアリスに声をかけた。

「アリス。それ折り紙じゃないよ?破っちゃダメだからね?」

幼女は顔を上げ、ユウトに頷き返す。

「…言葉が通じるようになったのか?」

訝しげに尋ねた青年に、ユウトは首を横に振った。

「まだ喋れないよ。ただ、単語は断片的に理解してるから、言われている内容は大まかに分かるみたい」

「やけに進歩が早いな…」

「うん。ボクも随分驚かされたよ」

タケシはしばらくアリスを見つめた後、テーブルの上の資料に視線を戻した。

「新築するだけの余裕は無いな…」

「うん…。売りに出されている物件で、アクセスが悪くない場所。しかも予算内に収まる物か…。予算上限はギリギリ二千万っ

てトコだね…」

タケシとユウトは同じような姿勢で、それぞれの手元の資料を見つめ始める。

しかし、殆ど全ての資料を調べ終えても、予算内で希望に添う物件は見つからなかった。

「う〜ん…、もうちょっと資料を探してみようか…」

ユウトが音を上げたその時、二人の真似をして物件リストを逆さまに持って眺めていたアリスが、笑みを浮かべて大熊にそ

の紙を差し出した。

「ん?何アリス?」

「ユウト」

アリスはリストの隅にある広告を指さしていた。

ユウトはそこに目を懲らすと、目をしばたき、食い入るようにじっと広告を見つめた。

「アリスありがとう!盲点だった!」

ユウトが笑みを浮かべると、アリスは首を傾げつつも、嬉しそうに微笑んだ。

「どうした?」

「いや…、すっかり忘れかけてたんだけど、この町に居るうちの親戚が、工務店やってるんだよね!」

ユウトは勢い込んで青年に説明した。

「さっき、一応予算内で条件も満たしてるけど、事務所に使うには改築が必要な物件を見つけてたんだ。交渉して改築の頭金

を少し抑えて貰えたら、その物件が使える!頼れそうな人が居た事を思い出せたのはキミのおかげだよアリス!」

ユウトはアリスを抱き上げ、頬ずりした。

幼女は頬を撫でるフサフサした被毛に、くすぐったそうに目を細めていた。

青年は資料を手に取り、阿武隈工務店と書かれた熊のエンブレム入りの広告を見つめ、以前から気になっていた事を尋ねる。

「ところでクマシロ。アリスに「熊」に類する単語は教えたか?」

「ん?いや、そう言えばまだかも?」

「…なるほど」

「何がなるほどなの?」

「もしやアリスは、「熊」イコール「ユウト」と覚えているのではないだろうか?」

「…は?」

タケシの指摘に、ユウトは目を丸くし、それからアリスに視線を向けた。

「まさかぁ…」

ユウトは資料を手に取り、広告の熊を指さす。

「アリス?これな〜んだ?」

アリスの学習の一環にしている、質問ゲームの要領で尋ねたユウトに、

「ユウト!」

アリスはキッパリと、そう答えた。

「…あっちゃ〜…。これも盲点だったなぁ…」

ユウトは額を押さえ、困ったように天井を仰いだ。

タケシは散らばった資料を纏めながら、ユウトに問い掛ける。

「それと、チームとしての届け出をするに当たり、チーム名などが必要なのだが…」

「ああ。リーダーも決めないとね」

天井を仰いでいたユウトは視線を戻し、抱いたアリスを軽く揺すりながら続けた。

「リーダーはキミにしてよ。獣人のボクよりも、人間のキミの方が何かと都合が良いしね」

「承諾した。それと、チーム名はどうする?」

「ん。実はさっきちょっと考えたんだけど…」

ユウトはそう言うと、ペンを取り、メモ用紙にアルファベットを記した。

「…カルマ…トライブ?」

「ボクらが調停者をやってる理由、お互いに業をしょってるもんね、だからカルマ」

タケシは頷き、

「分かった。俺にはアイディアも異論も無い。これで届けよう。…ときに…」

青年はユウトを見つめる。

「お前が背負う業とは、何だ?」

「…ま、色々とね…」

口ごもったユウトに、タケシはそれ以上尋ねようとはしなかった。

(…いつか、ボクが調停者になった理由、そして目的…。フワ君に話す時が来るのかな…)

ユウトは楽しそうに笑うアリスの顔を見下ろしながら、ぼんやりとそう考えた。



結局、彼女の口から、自分が調停者となった本当の理由、そして喪った母の事がタケシに語られるのは、これから約二年後

の事になる。