第七話 「奥羽の闘神」(前編)
「お疲れ様で〜す!」
「もつかれたまで〜!」
逞しい両腕で左右の脇にクーラーボックスを抱えたユウトは、ビジネスホテルの改築作業に励む男達に声をかけた。
足元に立つアリスも、真似をして声を上げる。
外回りに組まれた足場の上で、窓を枠ごと入れ替える作業をしていた大柄な熊が、自分達を見上げる金色の熊と、栗色の髪
をした幼女を見下ろし、歯を見せて笑った。
「悪ぃなぁユウトちゃん!アリスちゃん!また来てくれたのかぁ!」
暗い茶色の被毛に体を覆われた熊は、年の頃なら四十代後半に見える。
足場が崩れはしないかと不安になるほど、恰幅の良い大きな熊で、飛び抜けて大柄なユウトと比べても、少し背が低い程度
の巨漢であった。
作業に励んでいた他の面々も、ユウト達に気付いて手を止め、表情を崩した。
改築依頼をしている工務店の面々に、たばこの時間に合わせて飲み物や菓子の差し入れに来る。
それが、今のユウトの日課になっていた。
「アリス。皆さんに飲み物配るの手伝って」
「あい〜!」
工務店の皆が降りて来るのを待ち、ユウトはクーラーボックスを開けて飲み物を取り出し始めた。
事務所の一階に当たる、シャッターを開け放った空っぽの車庫。そこが、皆の休憩場所になっている。
「ど〜ぞ!」
「お。ありがとよぉ、アリスちゃん!」
恰幅の良い大きな熊は、幼女から緑茶のペットボトルを受け取り、相好を崩した。
ごつい体に厳つい顔をしているものの、歯を見せて笑うと、なんとも人が良さそうな顔になる。
この熊が、ユウトが改築依頼をした阿武隈工務店の頭領。名を阿武隈源五郎(あぶくまげんごろう)という。
「こっちは出来る限り早く仕上げるつもりだけどよ、仕事の方は順調なのかい?」
差し入れの醤油団子を持って傍に寄ったユウトに、頭領はそう尋ねた。
「ええまあ、相棒が頑張ってくれてますから。おかげでボクはこの通り、この子の事に専念できています」
ユウトが愛おしげな、穏やかな目を向けると、飲み物を配っていたアリスはその視線に気付き、パタパタッと駆け戻って来る。
脚にしがみ付き、笑顔でユウトを見上げるアリスを眺めながら、ゲンゴロウはニカッと笑った。
「良かったなぁアリスちゃん。良い母ちゃん代理に面倒見て貰えてよぉ」
「もう!ゲンゴロウさん?せめて「お姉さん代わり」って言って下さいよぉ!さすがに母子程は離れて無いんですから…」
ユウトは眉根を寄せて耳を伏せ、困ったように応じる。
「あ。姉ちゃんって言やぁ…」
ゲンゴロウは何かを思い出したように、唐突にポンと手を打った。
「ウチの女房、この間里帰りして来たんだが、ちなっちゃんがな?ユウトちゃんが帰って来ねぇって寂しがってたらしいぞ?」
「義姉さんが?」
ユウトの兄の妻、神代千夏(くましろちなつ)は、ゲンゴロウの妻の妹でもある。
ユウトは目尻の下がった、柔和な顔立ちの義姉の笑顔を思い浮かべる。
アリスがまだ多動で目が離せなかった為、今年の盆にも帰郷しなかったのだが、墓参りもせずに夏を終えるのは、少々落ち
着きが悪かった。
(…アリスもだいぶ聞きわけが良くなってきたし…、事務所が完成するまでもう少しかかるし…、今の内に一度、帰った方が
良いかな…)
「判りました。暇を作って、里帰りしてみます。お盆にも帰れなかったし、お墓参りしなくっちゃ」
「そうしてやんな。ホントはよ、ユウヒさんだってお前さんのツラぁ見てぇはずだ」
「そうやって「さん」づけされるの、兄さん嫌がってるんですよ?干支で一回りも上なのに、自分の事を呼び捨てにしてくれ
ないんだ。ってボヤいてました」
「ぬははは!神代家の当主を呼び捨てになんぞできるかよぉ!」
声を上げて豪快に笑う頭領に苦笑を返し、ユウトは今年届いた兄からのお中元の事を思い出す。
クールパックでマンションに届いた沖アナゴ加工品の詰め合わせには、
本当は 俺が食いたい 沖穴子、、、
との一句と、いつもながらに堅苦しい文体の手紙が添えられていた。
(不思議だね…。手紙の内容よりも、出来の悪い句の方を思い出すよ…。って言うか添えないでよあんな句!なんだか食べ辛
かったじゃない…!)
ゲンゴロウにじゃれつき始めたアリスを眺めながら、ユウトは心を決めた。
これから事務所を共同経営する事になる相棒の事を、兄には先に紹介しておくべきだろう、と。
紹介すべき相棒の事を考えれば、不安はあったが…。
「帰郷?」
ユウトが借りているマンションの部屋で、一緒に夕食を摂りながら、青年は聞き返した。
放って置けばカロリークッキーと錠剤での栄養補給で食事を済ませてしまう青年は、見かねたユウトから、
「食事はボクが用意するから、せめて一日一食、夕食ぐらいはまともな食事を摂る事!」
と厳命されているので、最近の夕食はほぼ必ず一緒に摂っている。
なお、本日の夕食はハンバーグにマカロニサラダ、コーンポタージュスープ。
「うん。奥羽山中にあるんだけど、一回帰っておきたいなぁって…。あ、おかわりどう?」
「欲しい」
ユウトに茶碗を差し出したタケシは、ハンバーグと格闘しているアリスをちらりと見遣る。
「それは、アリスも連れてか?」
「うん。あとキミもね」
炊き立ての米を茶碗に盛っているユウトに視線を移し、タケシは首を傾げた。
「俺も?何故だ?」
「なんでって…。一応兄さんにも紹介したいなぁって。こういう人と仕事してるんだよ。ってさ」
「紹介であれば、電話での口頭説明で十分ではないか?」
「無理。一見シンプルそうな割に、電話で説明できる程単純じゃないもん。キミ」
「そういう物か?」
「そういう物だよ。はい」
「判った。ならばカズキさんに一言伝えておこう。こちらを離れている間、緊急時に期待されても困るからな」
米を山盛りにされた茶碗を受け取りながら、タケシはユウトにそう告げた。
「うん。じゃあさっそく後で日程決めようか」
口の周りを特製ハンバーグソースでベタベタに汚したアリスの顔をぬぐってやりながら、ユウトは胸中で嘆息した。
正直な所を言えば、あまり気が進まない。
懐かしき故郷の村に帰る事で、決心が鈍ってしまいそうな気がするというのが、帰郷したくない理由の一つ。
そして、正妻の子ではないという事を負い目に感じているのが、理由の二つ目。
もっとも、気にしているのは当のユウトだけであり、屋敷の皆も、兄も、全く気にしてはいないのだが…。
「へぇ、神代家にねぇ」
タケシから話を聞いたカズキは、意外そうに目を丸くした。
夜勤明けを捕まえられた丸顔の監査官は、最初こそ不機嫌だったものの、ファーストフード店で朝のセットメニューを奢ら
れただけでコロっと機嫌が直っている。
「緊急呼び出しに対応できなくなるので、その報告を。それと、潜入前に情報が欲しかったのですが」
「潜入?情報?お前何しに行くつもりだよオイ…」
呆れたように言ったカズキに、タケシは腕組みをしながら、
「俺は、「御挨拶」という物をするべく同行するらしいのですが、この「御挨拶」というもの、具体的に何をすれば良いのか
が判らない。よって、先に相手方の情報を得ておこうかと…」
と、珍しく悩んでいる様子で呟く。
「神将家については、ユウトとカズキさんから聞き、ある程度のイメージは掴めています。が…、情報量が少なく、少々心許
ない」
「情報ねぇ…」
「例えばそう、ユウトの兄、神代家当主は、一体どんな人物なのだろうか?」
「神代勇羆殿かぁ…。そうさなぁ、俺も監査官になりたての頃…、首都に居た時にたまたま二回会っただけ、言葉を交わした
のも一度きりだが…」
カズキは肉のついた顎を撫でながら、当時を振り返るように目を細めた。
「…山のような男だった」
「山?」
「ああ。山のように大きく、そして静かで…、何て言えば良いのか、深さを感じた」
「良く判りません」
「…だろうな」
カズキはコーヒーをズズッと啜り、思い出したように付け加えた。
「他には、そうだな…。人柄の話じゃあなくなるが、神将家の現当主中最強の男だそうだ」
「比較対象にできる神将家の当主を知らないので、その説明でもいまひとつ…」
「そうだよなぁ…。う〜ん…、調停者のランクで言うなら…、特定…いや、特解上位のさらに上だな。以前、あのダウド・グ
ラハルト氏を負かしたって話もある」
比較できそうな尺度になったのか、タケシの瞳が興味深そうに細められた。
「まぁ、俺には解らない次元の話になって来るんだがな…。そうそう、こんな風に呼ばれる事もある」
カズキは思い出したように手を打った。
「奥羽の闘神、神代勇羆ってな」
「奥羽の闘神…」
ぼそりと呟き、小さく頷いたタケシは、カズキが何故かニヤニヤしている事に気付き、首を傾げた。
「どうかしましたか?」
「いや…。お前、いつの間にかあいつの事、「ユウト」って、名前で呼ぶようになったんだなって」
「おや?いらっしゃいクマシロさん」
店の者の案内で地下に降りて来たユウトを、相楽堂の若旦那は珍しそうに見つめた。
「今日はフワさんが子守りですか?」
「ええ。お姫様は上でタケシを引っ張り回してます」
二人は可笑しそうに笑いあう。
調停者か関係者でなければ、相楽堂の地下設備に入る事はできない。これは、まだ小さいアリスといえども例外ではない。
聞きわけが良くなってきたとはいえ、好奇心旺盛なアリスの事、一人で上に残してくれば何か悪戯をするかも知れないので、
念の為にタケシに監視して貰っている。
「タケシさんにもすっかり馴れたんですか?」
「バッチリです。…まぁ、タケシもちょっとだいぶかなりズレた所があるから、教育係としては問題あるんですけどね」
ユウトは苦笑いしながら肩を竦めると、
「ところで、タケシから話が来てたと思うんですけど…」
「ああ。旧州の清酒ですね?えぇと…」
ヨウスケは地下室の奥の棚に歩み寄ると、縦長の桐箱を手にして戻って来る。
蒼獅子と金で箔押しされた箱を受け取ると、ユウトは深々と頭を下げた。
「なかなか手に入らないって聞きました。取り寄せにも手間がかかったんでしょう?有難うございます」
「いえいえ。お得意様の頼みとあればお安い御用です。…ところで、フワさんが飲まれるんですか?」
「ん〜…。実はその、ちょっと里帰りする事になったんで…、兄に土産をと…」
歯切れ悪く応じたユウトに、ヨウスケは頷きながら微笑んだ。
「お兄さんもきっと、喜ばれる事でしょう。…ところで…」
ユウトは大事そうに抱えた箱から視線を外し、興味深そうな視線を投げかけてくる若旦那に目を向ける。
「フワさんの事、名前で呼ばれるようになったんですね?」
「…ん〜と…。まぁ、えへへへへっ!」
ユウトは少し恥かしそうに笑い、グシグシと頭を掻いた。
「一日に三往復しか無いのか?」
「だって行き先に村二つしか無いんだもん」
バスに揺られながら意外そうに尋ねるタケシに、幼女を抱いたユウトが応じる。
一行は電車を乗り継いで麓まで移動し、そこからバスに乗って山道を登っている所なのだが、珍しさで興奮したのか、アリ
スはすでにはしゃぎ疲れて眠ってしまっている。
「そもそも、麓に用事があるなら殆どの人は自家用車を使うし、よっぽどの用事でも無いと、下界から村に来る人もそうそう
居ないしね。バスを使う人は少ないんだ」
ユウトの言うとおり、バスの乗客はたったの三人、一行のみである。
収益がほとんど見込めず、それでもなお廃線にならないのは、バスの運営会社に神代家から多大な寄付金が払われているか
らなのだが、言及する必要も感じなかったユウトは、タケシへの説明からその事をはぶく。
「お前の兄も、やはり金色なのか?」
「ううん。兄さんの被毛は赤銅色。あんまり赤味が鮮やかだったから、夕陽にかけてユウヒって名前がつけられたんだって」
本人は自覚が無かったが、兄の事を話すユウトは、どこか誇らしげですらあった。
そんなユウトを、タケシは奇妙な感覚を抱きながら見つめる。
「やったわね!トレーニングドロイド二十体撃破!正規軍の中隊の何処も勝てないのに!」
訓練場の気密ハッチから飛び出して駆け寄り、輝くような笑みを浮かべて言った少女に、タケシは刀を鞘に納めながら応じた。
「所詮は訓練だ。それに、ドロイドは生物ではない。生物特有の閃きや揺らぎを持たないパターン化された行動しか取らない
戦闘機器を相手に、どれほど修練を積んだところで、真に強き者と相対した時には役に立たない」
「またまた謙遜して!」
淡々と応じたタケシに、少女は誇らしげに胸を張って言った。
「どんな強いヤツより、タケシは強いわ。絶対に、だ〜れも敵わないんだから!」
「どうしたの?バスに酔った?」
急に額を押さえてやや前屈みになったタケシの顔を、ユウトは横から覗き込む。
「…かもしれない。が、問題ない。少し頭痛がしただけだ…」
心配そうな顔をしている相棒に応じながら、タケシは自問する。
(何だ?…今のは、俺の記憶…?)
前後の脈絡も、居合わせた場所の事も、言葉を交わした少女が何者なのかも思い出せない。
ただ、短く切れた8ミリフィルムを投射したように現れた、記憶の一部、ほんの断片。
記憶が意味するところも解らず、ただ、タケシはその情景を反芻した。
その記憶に抱く、ほんの一掴みの懐かしさを、胸の内に噛み締めながら…。
道祖神や巨大な石の碑が立ち並ぶ道沿いで、三人を乗せたバスは速度を緩めた。
屋根付きの待合室が傍にあるバス亭で、山奥にしてはやけに丁寧に整えられている降り場に足を降ろすと、ユウトはアリス
を両手で抱いたまま、仰け反るようにして背筋を伸ばした。
バス停のすぐ先、河祖下村と彫られた高さ2メートルほどの石碑の向こうに、畑と、家畜小屋と、まばらな家屋からなる村
が佇んでいる。
行き来不便な辺境の寒村というよりは、世俗から隔絶されたのどかな村という印象があった。
山間の比較的平坦な土地に作られたその村は、周囲を針葉樹に覆われた山稜に囲まれ、盆地のようになっている。
冬場には雪に閉ざされ、厳しい寒気と吹雪に晒されるこの村も、残暑厳しいこの時期には、実に穏やかで過ごしやすい環境
にあった。
懐かしい、故郷の山の空気。
金熊が下界よりも涼しい清涼な空気を胸一杯に吸い込むと、目を覚ましたばかりのアリスもまた、真似をして深呼吸する。
最後にタケシが降りると、バスは三人を残し、さらに上を目指して走り去って行った。
「この先には何がある?」
「河祖上村と、河祖中村跡地」
バスを見送るタケシの問いにそう応じると、ユウトは懐かしの故郷を眺めながら、ゆっくりと歩き出す。
その後ろを歩き、ユウトの広い背中で揺れる、自分が背負っている物の倍はある大きなザックを見ながら、タケシはさらに
問いを重ねた。
「予想していたより世帯が少なそうだが、公共機関はどうなっている?」
「村役場と駐在所、そして郵便局だけ。あとは自前だね。もし何かあっても消防車や救急車の到着まで時間がかかるから、こ
こじゃ消防団と青年団が災害対策のスペシャリスト。…まぁ、平和なもんだよ。事件らしい事件なんて滅多に起きないしね」
ユウトは村の入り口となるのだろう石碑の脇を歩き過ぎながら応じ、タケシはその答えに頷きつつ、
「かそしたむら…それがこの村の名か」
と、ボソリと呟く。
「かそしもっ!かそしもむらっ!」
振り返ったユウトが頬を膨らませ、
「たそしおむら!」
腕に抱かれたままのアリスが可笑しそうに声を真似た。
造りの古い家屋が並ぶ集落の中を歩きつつ、タケシはじっと、ユウトと、出会う住民達の様子を観察していた。
世帯数の少ない村という事以上に、ユウトが名家の娘という事も有るのだろう。
金熊に気付いた住民達は一様に笑顔を見せ、声をかけ、丁寧に挨拶をしてゆく。
(獣人ばかりだな…)
タケシは出会う中に殆ど人間が居ない事に気付き、違和感を覚えた。
獣人は、世界的に見て全人口の一割程度とされている。
やや割合が高いとされるこの国の地方方面でも、獣人の割合は約14パーセントに過ぎない。
にも関わらず、この村では比率が逆転している。
「獣人が多いような気がするが、何か理由があるのか?」
「ん〜…。今では随分住みやすくなったんだけれど…、この辺り、ちょっと前まで物騒だったんだ」
ユウトは周囲を見回して、挨拶しようと近付いて来る住民がいない事を確かめてから、声を潜めた。
「…っていうのも、ボクがまだ小さかった頃まで、この近くに御柱が封じられてたんだ」
「御柱?」
聞き返すタケシに、ユウトは「あぁ」と声を上げた。
「ごめん。「バベル」って呼んだ方が一般的だよね?知ってるでしょ?」
「…ああ」
青年は少し顔を顰めながら頷いた。
自分でも理由は解らないが、「バベル」と呼ばれている、レリックと同源とされている建造物の事を考えると、胸の奥がざ
わつくような感覚に囚われる。
「今はもう破壊されて残ってないんだけどね。ずぅ〜っと昔、帝に命じられた神代の始祖と部下の獣人達が、バベル監視のた
めにこの土地に住み着いたのが、村の興りだったんだ。つまり、バベルの封を護るのが神代家の役目だった訳」
「バベルが…、破壊?」
タケシは足を止め、目を丸くした。
つられて立ち止まったユウトは「おや。珍しい顔…」と、驚きの表情を浮かべた青年の顔を眺める。
「そんな事が可能なのか?」
「らしいよ。ボクもどうやって壊したのかまでは知らないんだけどね…。神代の技は、元々はレリック破壊の為に生み出され
た物らしいし」
青年の持つ情報によれば、バベルとは、文字通り天を突く巨大な建造物である。
実物を肉眼で見た事は無いが、極秘資料でもある海外での出現映像を、カズキのコネで特別に見せて貰った事があるので、
その巨大さは知っている。
「ボクのレリック探知能力も、バベルを監視してきた神代の血が流れてる影響なのかもね」
そう言いながら歩き出したユウトは、難しい顔をしている腕の中のアリスに視線を向けた。
「どうしたのアリス?疲れちゃった?」
「ユウトぉ…。おはなし…、むずかし…」
「あぁ、ゴメンゴメン」
構って貰えなくて、話しの内容を理解しようと頑張っていたアリスは、結局中身が理解できず、困ったような苛立っている
ような顔で、眉根を寄せていた。
「もうじき着くからね?そうしたらゆっくりできるから」
幼女はユウトに微笑みかけられると、機嫌を直したように笑顔を見せた。
やがて一行は集落の最奥、裏手にこんもりと高くなる山を背負った、高い壁に囲まれた屋敷の前に辿り着いた。
「ここがボクの実家」
神代という表札がかけられた門の前で足を止めると、ユウトは懐かしそうに微かな笑みを浮かべる。
大きなその門を潜った一行の前には、砂利の敷かれた広い敷地が広がっていた。
門を背にして立った正面には、平屋の大きな建物。
赤銅色の瓦屋根に、黒光りする太い木の柱。土壁の色も沁みて濃い、かなり年季の入った、しかし立派な屋敷である。
ユウトは真っ直ぐに屋敷の玄関を目指し、タケシはその後ろを黙ってついてゆく。
一行が玄関手前10メートル程まで歩み寄ったその時だった。玄関の中から「あ!」と声が聞こえ、作務衣姿の犬獣人が飛
び出して来たのは。
「お嬢さん!?」
薄茶色の被毛をしたやや小柄な犬獣人は、一行に駆け寄り、ユウトの前で立ち止まると、顔を綻ばせながら、腰を折って深
々とお辞儀した。
「お帰りなさいませ、お嬢さん!先に連絡を頂ければお迎えに上がりまし…た…のに…?」
顔を上げた犬は、ユウトが抱いているアリスに、次いで斜め後ろに立っている見慣れぬ青年に視線を向けると、
「お…、お…、お嬢さん!?い、いいいいいいつご出産なさっ…!?ま、まさか…!?そ、そちらの御仁が旦那様で!?」
目を見開き、狼狽した様子でユウトに詰め寄る。
「違ぁあああああああうっ!ななななな何言ってるのシバユキ!?子供じゃないからっ!違うからっ!」
慌てて弁解したユウトは、玄関からワラワラと出てきた獣人達に視線を向けた。
「お帰りなさいおじょ…」
犬猫牛馬猪羊に蜥蜴に鹿。実に多様な顔ぶれが揃った神代の使用人達は、ユウトに会釈し、そして硬直する。
「お、お子様が!?」
「娘様だ!しかも人間の!」
「あ!だ、旦那様とご一緒にお帰りになられたので!?」
「ちがぁぁああああああああああああああああああああっ!!!」
大気をビリビリと震わせる、ユウトの否定の叫び声で、騒ぎ始めた使用人達が静まる。
「この子は訳があってボクが保護してる子!それと、彼は仕事の相棒!そもそも、こんな大きな子が居る歳じゃないでしょ!?」
「…い、言われてみれば…、帰国以前にできたお子様という事になってしまいますね…」
シバユキが早とちりを恥らうように耳を伏せると、ユウトはほっとしたように息を吐いた。
「そういう事…。まったくもう!皆騒ぎ過ぎだよ…!」
「も、申し訳有りません…!」
「驚きの余り、つい…」
口々に言いながら決まり悪そうな顔をする使用人達の後ろに目を遣ると、ユウトは少し目を見開き、次いで笑みを浮かべた。
「お帰りなさい。ユウトちゃん」
玄関先に立った、着物姿の熊獣人は、ユウトに柔らかい微笑みを投げかけた。
熊にしてはほっそりしていて背の低い、明るい茶色の毛並みをしたその女性に、ユウトは耳を寝せながらペコッとお辞儀する。
「ただいまっ!千夏義姉さん!」
道を空けた使用人達の間を抜けると、チナツは一行に歩み寄り、タケシに深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私は神代千夏と申しまして、このユウトの義理の姉に当たります」
「不破武士です。義妹君と共に、調停事務所を運営する事になりました」
タケシは会釈し、カズキに言われて用意していた挨拶を口にする。
チナツはユウトが抱いているアリスに視線を向けると、目を細めて話しかけた。
「初めまして。私はチナツ。お嬢ちゃんのお名前は?」
「アリス!」
アリスはチナツが差し出した手を握り、笑顔で元気良く応じた。
(アリスは熊好きだし、すぐ義姉さんに懐くだろうなぁ。兄さんは…どうだろう…?)
無邪気にはしゃぐアリスを見ながら、ユウトは厳しい兄の事を思い出し、少々不安になった。
悪戯して雷を落とされなければ良いのだが、と。
「あ。ユウヒ様…」
視線を動かして発せられたチナツの声を聞き、ユウトはハッとして首を巡らせる。
屋敷の横側から、回り込むようにゆっくりと庭を歩いて来るのは、濃紺の作務衣に身を包んだ、巨大な熊。
タケシは目を細めてその男を眺め、胸中で「なるほど」と呟く。
漆黒の両目に、きりりと太い眉。
目にも鮮やかな赤銅色の被毛に覆われた巨体は、首と、襟元から覗く胸の上部が雪のような白。
袖から覗く腕はごつく、太く。大きく開いた襟元から見える白い胸は、筋肉で山と盛り上がっている。
下穿きは腿とふくらはぎの位置で大きく盛り上がっており、内包された脚の太さは容易に察せられた。
雪駄を履いた足は広く、大きく、分厚い。踏み締められる砂利が立てる、軋み、割れるような擦れ音が、その体重を物語る。
密生した白い被毛に覆われた首。酒樽でも丸呑みにしたような胴。重機の駆動部のようなどっしりした腰回り。
体中がどっかと太く、どこもかしこも造りが大きい、見事な体躯の巨漢であった。
カズキの言っていた「山のような」という言葉の意味が、ようやく理解できた。
見ているだけで圧倒されそうな、しかし、感動すら覚えるほどの巨体は、静謐さと威厳、落ち着きを感じさせ、まさに山と
表現するに相応しい。
堂々たる佇まいの、ユウトよりもさらに大きい熊獣人は、一行の前で、ゆっくりとしたその歩みを止めた。
三歩ほどの距離を置いて立ち止まった赤銅の巨熊を前に、使用人達は居住まいを正し、ユウトはゴクリと唾を飲み込む。
黒い瞳でユウトを一瞥した巨熊は、次いでタケシに視線を向けると、
「客人よ。遠路はるばるよくぞいらっしゃった。某(それがし)は、そこなユウトの兄、神代勇羆と申す。さぞや愚妹も迷惑
をかけている事と思われるが、その詫びと礼の意味も含め、神代家一同、心より歓迎させて頂こう」
顎を引いて会釈し、口の端を微かに吊り上げた。
笑み。ではあるものの、タケシには、巨熊の瞳に宿る光が少々気になった。
鋭い、射抜くような、貫くような眼光。
相手の心の内を見透かそうとするかのようなその眼光の正体は、これまで幾度も浴びせられ、良く知っている。
すなわち、相手の格を値踏みする、刃を交える直前の観察。
ユウヒと名乗ったその巨熊が、自分を値踏みしている事を察しつつ、タケシは腰を折って丁寧に頭を垂れた。
「不破武士と申します。お噂はかねがね耳にしておりました。奥羽の闘神、熊代勇羆殿」
元々感情の機微に鈍感で、物怖じとは無縁なタケシである。
丁寧なその物言いには、しかし媚びへつらうような様子は微塵も無く、実に淡々としている。
ある意味堂々としているとも取れるその態度を目にし、ユウヒの瞳は僅かにだが、厳しい光を和らげた。
「ときにユウト」
「は、はい!?」
「そう硬くなるな。今回は怒ってなどおらぬ」
背筋を伸ばして返事をしたユウトに、ユウヒは目を細めながら言った。
「近況はゲンゴロウ殿より聞いていた。幼子を預かり、身動きが取れず、盆にも帰郷できなかったのだろう?」
ユウトは少し意外に思い、兄の顔を見つめた。
そして、困っているような、そして喜んでいるような、はにかんだ笑みを浮かべる。
言い訳にしかならないと思い、黙っていた事は、兄には簡単に見抜かれた。
何も言わずとも察して貰えたその事が、ただただ嬉しかった。
「この娘子の名は?」
「アリス!」
ユウトに尋ねたユウヒは、当の本人が元気に声を上げると、眉を上げ、口元を綻ばせた。
「アリス…。響きの良い名だ」
ユウヒはユウトの前に歩を進めると、大きな手でアリスの頭を撫でた。
くすぐったそうに目を細めたアリスから視線を外し、ユウヒは使用人達に声をかけた。
「さあ皆、もてなしの準備を頼むぞ」
深々と一礼して主に応じた使用人達は、ある者は荷物を預かり、ある者は案内に回り、ある者は先に屋敷内へと戻ってゆく。
ユウヒ、チナツ、そして案内の者に従ってユウトと並んで歩き出しながら、タケシは僅かに目を細めた。
先に戻って行った使用人達。
その中で最後尾に居た、ユウトがシバユキと呼んだ犬獣人が、自分に視線を投げかけた事に気付いて。
鋭く、冷ややかなその視線が向けられたのは、振り向きながらの一瞥に過ぎない一瞬の事だった。
が、タケシは自分に向けられたその一瞥に、突き刺して来るような強い何かを、確かに感じ取っていた。