第八話 「奥羽の闘神」(中編)
手入れの行き届いた裏庭に面した、八十畳にもなる接客用の大広間。
神代家の当主である巨熊と、タケシ、ユウト、アリスの三人は、分厚い一枚板の立派な机を挟んで向かい合っていた。
タケシとユウトは正座しており、アリスはユウトの膝の上にちょこんと座っている。
巨木を輪切りにした、その机の上に、タケシはザックから取り出した発泡スチロールの箱を置いた。
「これ、つまらないものですが」
と、青年はカズキに言われたとおりの文言を、土産を提示しながら口にした。
なお、その口調は平坦で、棒読みもいい所である。
タケシが持参した保冷容器に詰め込まれた土産は、シャコエビ3キロ。
密封された容器から微かに香るその磯の匂いを、妹以上に鋭い嗅覚で嗅ぎ取ったユウヒは、困ったように眉根を寄せた。
「…これは申し訳ない…。お痛めをかけた…」
チラリと目を横に動かし、問うような視線を向けたタケシに、
「懐を痛ませた…、つまり財布の中身を減らさせたね、って事」
ユウトはボソボソと説明する。
「あとコレ、ボクからのお土産」
ユウトがザックから取り出し、机の上に置いた品を見るなり、ユウヒの顔色が変わった。
「これは…、蒼獅子限定瓶!?」
「良くは知らないけど、手に入り難いんだってね?タケシのツテで取り寄せて貰えたんだ」
それとなく相棒の株を上げようとしたユウトは、兄の表情の微細な変化を見て取り、目論見が上手く行っている事を確信する。
「ところで…」
タケシは気になっていた事を尋ねてみる事にした。
「他の方々が同席せず、天井の上や床下に居るのは、何故だろうか?」
ユウヒは青年の目を見つめ、少し驚いたような、感心しているような表情を見せた。
「あ。やっぱり気になる?」
ユウトは決まり悪そうに苦笑いすると、パンパンと手を叩いた。
「皆、下がってて良いよ」
『はっ』
くぐもった複数の声が天井裏や床下から返り、次いで微かに何者かが動く気配がする。
「ごめんね?要人を迎える時は、皆がこうやって警護に当たるんだ」
ユウトは青年にそう説明しながらも、内心では、今回の警護は別の目的である事を察していた。
すなわち、得体の知れない客、タケシに対する警戒である。
(そんなに心配しなくたって、兄さんをどうこうできる相手なんて居ないのに。でもまぁ、タケシの指摘は良かった…)
ユウトは兄の様子をつぶさに観察しながら、心の内で喜んでいた。
僅かずつではあるものの、タケシの評価は上がっているらしく、ユウヒは興味深そうな目で客人を見つめている。
(ちょっと変わってるけど、タケシは良くも悪くも正直者だし、兄さんもすぐに気に入ると思うんだけどな…)
そんな事を考えていたユウトは、ふとももの上が、いつのまにか軽くなっている事に気付き、「ん?」と下を向く。
「あ、あれ?アリス!?」
慌てて周囲を見回すユウトと、すっと視線を机に向けるタケシ。
ユウヒはゆっくりと視線を下に向けると、分厚い木の机の下からひょこっと顔を覗かせた幼女を見つめる。
「あ!ごめん兄さん!ちょっとアリス、戻っておいで!」
机の下を覗き込み、ユウトは慌てて声をかけるが、
「構わぬ」
ユウヒは机の下から笑いかけるアリスに笑みを返しつつ、短く応じた。
机の下から這い出し、胡坐をかいている脚の上によじ登ったアリスは、ユウヒの腹によりかかってちょこんと座る。
首を反らして自分を見つめ、無邪気に笑うアリスに笑みを返すと、ユウヒは幼女の栗色の頭を撫でた。
(…意外…。兄さんもしかして、結構子供好き?)
大きなごつい手で、よくもこれほどと思えるほどに優しく頭を撫でてやっている兄の姿を見ながら、ユウトは微笑する。
心配していたほど騒がせずに済みそうだと安堵したユウトは、チラリと青年の横顔を盗み見た。
ユウトと同じく意外に思ったのか、タケシは少し眉を上げながら、アリスに甘えられているユウヒの姿を見つめていた。
「失礼致します」
襖が開き、恭しく頭を垂れた犬獣人を横目にし、刀の手入れをしていたタケシは手を休めた。
「お風呂の支度が整いましたので、お知らせに上がりました」
タケシは頷きつつ、確かユウトにシバユキと呼ばれていたはずだと、犬獣人の青年の名を思い出す。
時刻は午後八時を少し回った所。
ユウトに屋敷の中を案内して貰って日中を過ごし、豪勢な夕食でもてなされたタケシには、見事な庭園に面した客間が用意
されていた。
与えられた客間は当然のように和室で、高級旅館の一室を思わせる、質素ながらも高級感のある八畳間である。
なお、アリスはユウトの自室で一緒に寝起きする事になっている。
「ありがとう」
タケシが刀を鞘に納めようとしたその時、シバユキは再び、
「失礼致します」
と、先程と同じ文言を繰り返した。
タケシは素早く、半分納めた刀を顔の前で縦に構える。
その鍔に、硬い音を立てて鋭い金属の刃がぶつかった。
二つに割れた鍔と、弾かれた苦無(くない)が畳の上に転がった時には、タケシは抜刀を終え、一足跳びに間合いを詰め、
シバユキの喉元に刀を突き付けている。
対するシバユキは表情一つ変えず、作務衣の胸元から半分抜き出した匕首(あいくち)の腹を、タケシの刀の切っ先にあて
がっていた。
匕首の腹から2センチ程の隙間をあけて刀を止めたまま、タケシはシバユキの瞳をじっと見つめる。
言葉も無く、無表情のまま視線を交えていた二人は、やがてどちらからともなく身を引く。
「何故、突き手に力を込めなかったのですか?」
観察するような目で自分を見つめながら尋ねるシバユキに、タケシは刀を納めながら答える。
「得物を投擲する一拍前に、わざわざ殺気を放っていたな?本気ではないと感じただけだ。もっとも、俺がその気で突き込ん
でいたところで、防いでいただろう?」
無表情だったシバユキは、口の端を僅かに上げ、どこか満足気にも見える、微かな笑みを浮かべた。
「御見逸れ致しました…。御無礼の程、平にご容赦を…」
木鞘に収めた匕首を畳の上に置き、床に平伏したシバユキを前に、タケシは胡乱げに目を細めた。
「確認したい。この屋敷に来てからというもの、常に監視の気配を感じる。が、敵意は感じられない。この監視には何の意味
がある?」
顔を戻してタケシの目を見つめたシバユキは、感心して眉を上げる。
眉目秀麗。一見ただの優男に見えるこの青年は、自分が思っていたような軟弱な男ではなかったのだと再認識して。
「確かに害意は有りません。少なくともここまでの私を除けば、皆は貴方を観察しているだけです。果たして、お嬢さんに相
応しい方なのかどうか?と…」
「相応しい?」
訝しげに尋ねるタケシに、シバユキはコクリと頷いた。
「お嬢さんは強い女性です。ですが、内面的には脆い部分も持っておられます。神代の血を引くとはいえ、まだ十九歳の女性
なのですから…」
シバユキは一度目を伏せ、それから改めて真っ直ぐに、タケシの瞳を見つめた。
「お嬢さんには、支えてくれる誰かが必要なのです。不自然な背伸びをしないよう、無茶な事をしないよう、傍で支えて差し
上げられる誰かが必要なのです。…それも、この村の者や、身内以外…、自分を神将の血筋と意識しない誰かに…」
シバユキの微妙な言い回しは気になったが、タケシはその言葉から、神代家の使用人である彼の、強い意志を感じ取った。
忠義心。人の感情の機微を上手く理解できないタケシには、それがどのような物なのかは、やはり良く理解できない。
それでも忠義なるものの概念は知っている。
目の前の若者が滾らせるそれこそが、強い忠義の心である事は、何となくだが察する事ができた。
「支えとなれるかどうかは解らない。なにしろ、俺よりもユウトの方が遥かに強く、そして人ができているからな」
タケシはそうシバユキに告げると、軽く肩を竦めて見せた。
「…が、努力はしよう。チームを組む以上、足手纏いにはなりたくない」
「そのお言葉、信じましょう」
深々と頭を下げたシバユキは、
「…が、もしも貴方様がお嬢さんを裏切るような事があれば…」
すぅっと顔を上げ、再び鋭さを宿した瞳でタケシを見つめた。
「そのお命を頂戴に上がりますので、お忘れなきよう…」
「肝に銘じておこう」
タケシは真顔でそう応じ、次いで口の端を微かに吊り上げ、あるかなしかの微笑を浮かべた。
青年の真面目腐った返答が可笑しかったのか、シバユキが可笑しそうに笑っていたから。
(だが、今の殺気は本物だったな…。間違ってもユウトを裏切るような真似はするまい…)
気配が捉え辛い、しかも、そこいらの調停者よりよほど腕の立つであろうこの若者に命を狙われては堪った物では無いと、
タケシは心の内で呟いた。
「ところで、割れた鍔は弁償して貰えるのか?」
タケシは、正座したままのシバユキを見下ろして尋ねる。
「刀も含め、装備はチームの予算で購入する事になっている。…出費を増やすとユウトに怒られる…」
「ああ。その点はご心配なく。…お嬢さん、怒らせると怖いですからね…」
「全くだ。あれが本性ではない事を祈る」
二人は顔を見合わせた後、声を殺して忍び笑いを漏らした。
シバユキは気付かなかったが、他人に、しかも出会ったばかりの相手に向ける物としては、青年が見せた態度は非常に珍し
いものであった。
「おふとん!おふとん!」
畳の上に敷かれた布団が珍しいのか、アリスは無邪気に笑いながら、パタパタと布団の周囲を駆け回った。
(そういえば、ボクのマンションでも、タンカーでもベッドだったもんなぁ…。考えてもみれば、アリスは畳に布団で寝るの、
今日が初めてなのかも…)
布団を敷き終え、座布団に腰を降ろし、文机についたユウトは上に置いていた紐綴じの古い書物を手に取る。
厚紙の表紙には題名が記してあるものの、墨が滲み、掠れて薄くなり、判読できない。
この書物、神代流古式闘法の技書。門外不出の品である。
十二歳の時に海外へ渡り、十五歳の時に家に戻り、十六になる前に再び家を出たユウト。
彼女の会得している闘法は、兄に仕込まれた基礎と初歩技法と、見様見真似の技術の数々に、実戦経験から得た自分なりの
工夫を加えたものである。
(奥義の会得は、付け焼刃の闘術じゃ限界があるんだよねぇ…。こればっかりは先人の知識を拝借するのが近道…)
修練は弛まずに積んでいるものの、以前兄に見せて貰った奥義の会得にはまだ至っていない。
神代家に伝わる三大奥義。
その内一つは何とか会得できそうだと目処は立っているのだが、コツが掴めていないのか、なかなか上手く行かない。
今回の帰郷の内に、何とか足がかりだけでも得ておきたかった。
(事務所持つんだもんね…。少しでも力が欲しい…。そもそも、発動まで漕ぎ着けられるようになった狂熊覚醒(きょうゆう
かくせい)だって、まだコントロールできてないし…)
「ユウト、ごほん?」
後ろから脇の下に頭を突っ込み、本を覗き込んだアリスに、ユウトは考え事を中断して苦笑いで応じた。
「ざ〜んねん。絵本じゃないんだ」
「ぶ〜!」
不満げに頬を膨らませたアリスを抱き上げ、自分の足の上に座らせると、
「そうだ。ボクが小さい頃に貰った本が残ってるかもしれないから、帰りに持って行こうか?」
と、栗色の髪をすいてやりながら、ユウトは思い出す。
「ごほん?」
目を輝かせたアリスに、ユウトは微笑みかけながら頷く。
「あんまり多くはないけれどね。…母さん達からのプレゼントが、何冊かあるんだ…」
月明かりに照らされた濡れ縁に腰を据え、素焼きの大きな湯飲みを片手に、赤銅色の巨熊は一人、空に瞬く星を眺めていた。
穏やかな夜風に揺られる風鈴の音と、虫の声に耳を傾けながら。
深夜という事も有り、部屋着兼寝間着でもある、薄手の生地で作られた特注サイズの甚平を纏っている。
通気性を良くするため、黒い甚平の両肩や胴の脇に大きく入れられた切れ込みからは、赤銅色の豊かな被毛が覗いていた。
傍らにはユウトの土産である一升瓶。手にした湯飲みの中には、その高級酒がなみなみと注がれている。
「眠れぬかな?」
不意に発せられたその問いに、音も無く横手から歩み寄っていたタケシは首を横に振った。
こちらは普段通りに黒を主体にした、細身の長身が映える格好。
闇に溶け込む黒のスラックスに、同色のメッシュ生地で作られた、身体にフィットするタートルネックのシャツ姿である。
「眠ろうと思えば眠れます。…ここは静かだ。深い睡眠がとれるでしょう」
傍らで足を止めた青年を見遣り、ユウヒは「ふむ」と頷く。
タケシは足元にある品々…、酒瓶、氷水を張った木だらいに沈めたいくつかの杯、器に並んだ数匹の蝦蛄海老を見遣り、そ
れからある物に視線を止めた。
「…これはユニークだ…」
青年が見つめるそれは、デフォルメされた、口を開けた熊の顔の形をした蚊取り線香ポットである。
「ふむ。ゆにぃく、か…。首都に住む知人の土産だが、なかなか気に入っている」
発音を楽しむように繰り返したユウヒに、タケシはすっと視線を向けた。
「明日、一手指南を請いたい」
立ったままそう告げたタケシに、ユウヒは沈黙する。
「一般常識に照らし合わせれば、不躾な申し出だという事は理解しています。ですが、俺にはこの方法以外に、貴方や屋敷の
方々を安心させられる方法は思いつきませんでした」
ユウヒは僅かに眉を上げ、次いで口の端を吊り上げた。
「ふ…ふふふふふ…!これは恐れ入った…!」
面白そうに目を細めると、ユウヒは手の平を上にして自分の横を示し、座るように促す。
一礼し、自分と同じように胡坐をかいて座った青年に、ユウヒは木だらいに沈めていた杯を取って差し出した。
「…いつ、お気付きになられた?」
タケシが手にした朱塗りの杯に酒を注ぎながら、巨熊が尋ねる。
「屋敷の前でお会いした際、貴方が俺に向けた視線…。その意味を考えました」
初めて顔をあわせたその際に、ユウヒが自分に向けた、内面まで見定めようとするような観察の視線。
射抜くような鋭さを持ちながら、しかし敵意は全く無かったその視線の正体を、タケシはシバユキとの接触を通して理解した。
おそらくは家長として、そして兄として、自分の妹が背を預けるに相応しい相手かどうかを見定めようとしていたのだろうと。
「誤解の無いように、先に申し上げておこう」
一升瓶を脇に置きつつ、ユウヒは口を開いた。
「某は、もはや貴兄の力を疑ってはおらぬ」
なみなみと酒が注がれた杯を手にしたまま、タケシは巨熊の表情を窺うように目を細める。
「こう見えても、あのじゃじゃ馬の目は信用している。某が注意を払ったのは、貴兄がユウトを信用してくれているかどうか
という一点のみ。あいつが共に仕事をすると決めた相手だ、貴兄の力は察して余りある」
「買いかぶりです。俺は貴方の妹よりも弱い」
「果たしてそうだろうか?」
ユウヒは楽しげに呟き、ぐいっと碗を煽る。
「不破殿。貴兄からは不思議な物を感じる。どのような家に生まれたのか、聞かせては貰えぬか?」
「判りません」
その答え方が、あまりにも奇妙なものだったので、ユウヒは眉を上げた。
「俺には、過去の記憶が無いので…」
記憶喪失である事を簡単に説明されると、ユウヒは顎に手を当て、目を細めて考え込んだ。
(不破殿の、この一風変わった奇妙な気配…。遺物から受ける物にも似ている…)
いや。と、ユウヒは小さく首を振って考え直す。
(以前出逢うた、「れびあたん」と名乗りしあの女性…。彼女から感じた気配もまた、不破殿の物と似ていた…)
「どうかしましたか?」
黙り込んだユウヒに、タケシは訝しげに問う。
「…いや、以前の事が思い出せぬのでは、何かと不便ではないかと…。察するのも難しいが…」
「無ければ無いなりに、何とでもなる物です。もっとも、不便である事が自覚できていないだけかも知れないが」
淡々とそう言ったタケシに、ユウヒは口元を綻ばせた。
(なかなかどうして、悪くない…。己を知らぬは、敵や仲間を知らぬ以上の不安であろうに…。儚ささえ窺わせる優男に見え
ながら、実に大した胆力だ…)
ここまで興味をそそられるのは久方振り、実に面白い男だと、巨熊はしみじみ思う。
青年がくいっと煽って飲み干した杯に、再び酒を注ぐと、巨熊は蝦蛄海老を掴み、殻も剥かずにバリボリと噛み始める。
その豪快な食いっぷりを間近で目にし、食い終えた後に残るはずの殻が辺りに無い理由が解ると、タケシは「なるほど」と、
小さく頷いて納得する。
「酒も肴も貴兄らの土産だ。遠慮せずやってくれ」
「恐れ入ります」
応じたタケシは酒を口に含み、澄んだ空気の中で星が瞬く、奥羽の夜空を見上げた。
「手合わせの件…、受けて頂けますか?」
「必要は無いと思うが…」
「安心させたいのは、貴方だけではありません」
タケシの返答に、ユウヒは口の端を微かに上げて笑う。
「なるほど、屋敷の者達にも、という事か…。承知した」
頷いたユウヒは、椀をあおり、酒を飲み干す。
空になったユウヒの椀に、今度はタケシが一升瓶を取り、酒を注ぐ。
元々それほど喋るわけでもない二人の男は、互いに酌をしながら、言葉少なく、更けてゆく夜を楽しんだ。
翌朝、屋敷の裏手にある開けた場所で、タケシとユウヒは向きあった。
そこは四方が高い塀で囲まれた、屋敷の修練場である。
5メートルほどの間を空け、中央で向かい合う二人を、壁際に下がった屋敷の一同と、ユウト、そしてその腕に抱かれたア
リスが見守る。
佇むタケシは、腰に刀を挿し、防弾防刃ベストを身につけた以外は、普段の仕事着でもある軽装。
太刀は神代家から借りたもので、刃挽きされた修練用の物。
刃先が丸くなった、厚い、頑丈な造りの修練刀だが、青年の腕にはさして重くはない。
対するユウヒは無手。空手着にも似た袖のない濃紺の道着…、神代の戦装束で赤銅色の巨体を覆っている。
「では…」
胸の前で、右の拳を開いた左の手の平につけ、礼を取ったユウヒに、タケシは顎を引いて頷く。
右足を前に出し、半身に構えて腰を落とし、ゆっくりと右手を動かし、左の腰に挿した太刀の柄に触れる。
先んじて動きを見せたのは、当然のようにタケシだった。
太刀の柄に手を乗せた、抜刀に備えたままの姿勢で土を蹴り、黒い突風のようにユウヒに迫る。
右足で初歩、左足で二歩目を蹴り、一気に間合いを詰めると、鞘内を走らせた太刀を解き放つ。
両手を体の脇に垂らし、まだ構えすら取っていなかったユウヒの右肘を狙い、銀光が弧を描いた。
ガッと、硬い物が接触するその音と同時に、タケシは目を見開く。
半身になって外に曲げたユウヒの肘、その頂部で、刃先の丸い打撃用の太刀は止められていた。
太刀を振り切る前の不完全な姿勢のまま、初太刀を防がれた青年は即座に動きを切り替えた。
右腕を抱え込むように引き、刀を戻しながら、身を屈めて反時計回りに回転する。
体ごと捻ったその頭部、こめかみ付近を、横合いから飛んだユウヒの張り手が通り過ぎた。
小指の先が髪を掠め、巻かれた風が頭を叩く。
ほんの一瞬でも回避が遅れれば、まともに左頬を張られ、吹き飛ばされていた所である。
足裏で土を丸く抉りつつ、その場で回転したタケシは、振り向く勢いを乗せ、左手で逆手に掴んでいた鞘を突き出す。
ユウヒの腹に、金属製の鞘尻が鋭く突き込まれた。
が、相手を昏倒させるはずのその一撃に、タケシは妙な手応えを感じる。
鞘の先端は道着に突き込まれ、間違いなく胃の辺りにめり込んだ。
にもかかわらず、トラックのタイヤでも突いたような手応えと共に、鞘は弾き返された。
驚愕するタケシとは対称的に、ユウヒの動きはいささかも鈍らない。
先にフック気味の張り手を放った左手が途中で止まり、拳を握りこんで折り返す。
視界の隅にも捉えられない角度からの攻撃だったが、タケシは勘と本能で攻撃のタイミングを察した。
(飛び退っての回避は不可能。防御も無意味。ならば…)
咄嗟に判断したタケシは、ほとんど背を向けているその状態から、ユウヒの体の方向へと踏み込んだ。
背で相手の胴に密着するように飛び込み、首をすくめて右肩を上げたタケシを、引き戻されたユウヒの腕、肘付近が強打する。
左の裏拳を寸止めするつもりだったユウヒは、予想外の動きに対処が遅れた。
(しまった!)
思った時にはもう遅い。右の肩口辺りを、丸太のように太いユウヒの左肘で叩かれ、タケシの体は真横に吹き飛んだ。
加減をし損ねた事を悔やんだユウヒは、しかし肘先に残った予想より軽い手応えに、僅かに目を細める。
そして、宙で身を捻り、体勢を立て直すタケシを目にし、感嘆の息を漏らした。
痛みに僅かに顔を顰めながらも、片膝立ちで着地したタケシは、鞘と刀をそれぞれ左右の手に握り、再び身構えた。
(なんと…。これは少々見くびっていた…!)
ミートポイントをずらし、さらに跳んで威力を殺したとはいえ、本来であれば骨が砕けかねない当たりであった。
にも関わらず、すっくと立って構えた青年を前に、ユウヒは少しばかり楽しげに口の端を持ち上げる。
今度は先程とは逆に、ユウヒが地を蹴った。
一足飛びで瞬時に間合いを詰める小山のような巨躯を前に、タケシは腰を落とし、とんっと後方へ跳ぶ。
振るわれた左手が眼前を通り過ぎ、突風が頬を叩く。
尋常では無い重さと速度。平手とはいえ、一撃貰えば木っ端の如く吹き飛ばされるのは目に見えている。
突くように繰り出された右の張り手を、首を逸らしてかわしつつ、タケシは反撃に下から鞘を振り上げた。
顎を狙った一撃はしかし、グローブのようなユウヒの左手で掴み止められる。が、
「ぬ?」
真下から、鞘の後を追うようにして逆薙ぎされた太刀を目にして、ユウヒは鞘を離し、すっと、すばやく半歩退いた。
鼻先を掠めるに留まった太刀を見送ると、ユウヒは感嘆したように息を漏らした。
(反応速度、身体能力、咄嗟の機転、技の組み立て、攻守の判断、…いずれも一流…)
半歩退きつつ、惚れ惚れしたようにタケシを見遣るユウヒの目には、実に楽しげな光が宿っている。
(重ね重ね納得した…。ユウトが気に入る訳だ。これほどの使い手が無名のまま野にあったとは…。真に世は広い…!)
「先程から張り手ばかりだが…、神代の古式闘法とは、もしや相撲と同じ源流なのか?」
「いや。鳴神(なるかみ)を祖とする我らの技は、大陸の徒手空拳の影響を大きく受けている。単に貴兄が速いので、平手の
方が捉え易いだけだ」
そんな事を話しつつ呼吸を整え、相対するタケシもまた、高揚感を覚えていた。
(驚嘆すべき力だな…。あのユウトをも遥かに上回る、正真正銘のバケモノだ。これほどとは思っていなかった…)
再び動き出した二人は、先にも増して激しく、拳と刀を打ち交わす。
終始ユウヒがペースを握ってはいるものの、タケシはそれに引き摺られるように、速度と技の切れを上げてゆく。
まるで、眠っている力を引き出されてゆくかのように。
気を抜けば瞬時に地に這わされる。その緊張が何故か心地良く、青年は戸惑ってすらいる。
導くように攻守を切り替え、攻めさせ、守らせ、タケシが見せる技巧を味わいつつ、ユウヒもまた楽しげに目を光らせる。
そんな二人を見守る屋敷の一同は、感嘆の表情を浮かべ、食い入るようにして立会いに見入っていた。
自分達の主と、こうまで渡り合い、見事な立会いを演ずる事ができる者など、数えるほどしか見た事が無い。
それも、これまでに訪れた神将家の者との立会いとは意味が異なる。
今回の客人は獣人ですらなく、しかもまだ若い。調停者としても無名の青年なのである。
「私には、詳しい事は解りませんが…」
ぽそっと小声で呟いた傍らのチナツに、ユウトはちらりと視線を向けた。
「凄い方なのね?タケシさんは。あのように楽しげな顔で立会いをなさっているユウヒ様は、久し振りに見ました」
「本当に驚きました…。まさか、ここまでの腕をしていらっしゃったとは…」
ユウトの後方に控えていたシバユキもまた、想像を遥かに上回るタケシの戦技に感嘆の吐息を洩らしていた。
「うん。タケシは凄い…!」
ユウトは少し誇らしげに、自慢の兄と競い合うタケシの姿を見つめた。
「あ〜あ…。なんかウズウズして来ちゃった。ずるいよねぇアリス?兄さんとタケシ、二人だけで楽しんでさぁ?」
「じゅるいおね〜」
意味が解っているのかいないのか、アリスは真面目腐った顔で頷く。
案外、幼女の目にも二人は楽しげに見えていて、本当にずるいと感じているのかもしれないが。
「あ。良い事考えた!」
急に大きめの声を出したユウトを、チナツとシバユキが見上げる。
「お嬢さん?良い事って一体何で…あ、まさか?」
焦ったような声を上げたシバユキには答えず、ユウトはチナツにアリスを預けた。
「ボクも混ぜても〜らおっと!」
楽しげな、そして悪戯っぽい笑みを浮かべて、ユウトは指をポキポキと鳴らす。
「はいは〜い!ちょっとちゅうだ〜ん!」
突如上がった大声に、太刀を袈裟懸けに振り抜いたタケシと、半身になってそれをいなしたユウヒが動きを止め、同時に首
を巡らせた。
ユウトは肩を回し、首を曲げてほぐしながら二人に歩み寄る。
「ここからは、ボクとタケシ二人で相手をするよ」
訝しげに眉根を寄せたタケシに、ユウトはウィンクして見せる。
「キミ個人の力は皆に見せ付けられたけど、チームワークってヤツもちゃんと見せてあげなくちゃね?」
次いでユウトはユウヒに視線を向けた。
「二人掛かりなら兄さんもそれなりに歯応えあるでしょ?中年太りかもだけど、前よりお腹出て来てるし、少しはハードな運
動させてあげようっていう、ボクなりの気遣い」
ユウヒはじっとユウトの目を見つめ、ぼそりと呟いた。
「…お前に言われるとは…夢にも思わなかった…」
「真顔で言わないでくれる!?すっごい傷付くんだけど!?」
ユウトは憤慨して頬を膨らませる。
「が、まぁ良い。身体が温まってきた頃だとは思うが…、ここからはそれで構わぬかな、不破殿?」
「俺は構いません。が、二対一で…?」
「心配御無用。こちらも十分に身体はほぐれた」
目を細め、歯を見せて楽しげに笑うユウヒの顔は、タケシの目には、ユウトの笑顔とそっくりに見えた。
「一つ確認したい。ユウヒさんの禁圧解除の持続時間は?」
再び5メートルほどの距離を置き、修練場の中央でユウヒと向き合うと、タケシは傍らのユウトに小声で尋ねた。
「あ〜…。その事について、比較的マシな情報と、かなり悪い情報があるけど…、どっちから聞きたい?」
微妙な表情で、呟くように訊き返したユウトを、タケシはチラリと横目で見る。
「マシな方から聞こう」
「おっけー。兄さんの禁圧解除の持続時間は大体60秒くらい。体自体がとんでもなく頑丈だから、そのくらい続けてもガタ
が来ないらしいよ」
「なるほど、桁が違う…。タイミングを外す程度の対処は不可能だな…。で、悪い方は?」
「兄さんは、ここまで一回も禁圧解除を使ってないよ」
「………」
タケシは僅かな間沈黙し、何やら楽しげな表情で肩を回してほぐしているユウヒを眺め、それからユウトに顔を向け、ぼそ
りと呟いた。
「訊かなかった方が良かったかも知れない情報だな」
「キミでもそう思う事、あるんだねぇ?」
可笑しそうに笑ったユウトは、ぎしっと拳を握り込み、身構える。
タケシもまた抜刀の姿勢を取りながら腰を落とす。
二人を見遣りながらゆっくりと拳を握り、開き、感触を確かめたユウヒは、おもむろに口を開いた。
「では…。確かめさせて貰うぞ?ユウト」
「え?ボク?」
ユウトが意外そうに問い返した次の瞬間、ユウヒはその眼前に居た。
ドシン、と、力強く踏み締められる震脚。
反射的に胸の前で交差させた金色の腕に、ボーリングの玉のような拳が叩き付けられた。
ユウトの巨躯が後方にすべり、力場で覆ったにも関わらず、あっさり弾かれた両腕が上に跳ね上がる。
(無拍子!?しまった!)
ユウトへの追撃を阻止すべく、横合いから横一文字の抜刀を見せたタケシだったが、その太刀の切っ先は、身を捌いたユウ
ヒの肩を微かに掠めるに留まる。
注意力、それを支える集中力は、常時途切れずに持続している訳では無い。
呼と吸の息のリズム。注意の方向性。力の入れ具合。緊張を保っているつもりでも、それらは刻々と移ろう。
無意識の内に出来上がる緊張の隙間。その拍を捉え虚を突く技術。それが、ユウヒが得意とする無拍子である。
奥羽の闘神、神代勇羆が垣間見せた武の高みに、ユウトとタケシは驚愕も覚めやらぬままに、なんとか体勢を整え直す。
間合いを詰め、正面から切り結びにかかったタケシを抑え、横合いから飛び込んできたユウトの拳を左の肘で迎撃するユウヒ。
激しく、息もつかせず畳み掛けるように仕掛ける二人の波状攻撃を、巨熊はその両腕でいなし、弾き、捻じ伏せる。
やがて、一方的に攻め立てているにも関わらず、逆に二人の息が上がり始めた頃、ユウトはその事に気が付いた。
位置を入れ替え、角度を変え、攻め立てている自分達の攻撃を、ユウヒはその場から一歩も動かずに防ぎ切っている事に。
腰の位置から繰り出した渾身のボディブローをあっけなく片手で跳ね除けられたユウトは、素早く後退して間合いを外す。
そして、頭上から振り下ろされたタケシの一刀を、右手の人差し指と中指で挟んで防いだユウヒを正面に据え、大きく拳を
引いた。
「雷音破!」
唸りを上げて突き出された金色の拳から、眩い光弾が放たれる。
が、ユウヒはその時既に、刀を捕らえた右手を振るってタケシを跳ね飛ばし、左腕を大きく引いていた。
下からアンダースローのモーションで振り抜かれる赤銅色の平手、その五指には眩い光が灯っている。
「雷音破!」
太い五指から放たれた五発の光弾は、内一発がユウトの光弾を相殺し、残る四発が空を裂いて飛翔する。
「は…?」
迫る光弾を前にしたユウトは、目を見開いて口をポカンとあけた後、
「反則だぁあああああああああああっ!」
抗議の叫びと共に慌てて横に跳ぶ。
「甘いっ!」
一言と共に、ユウヒは上へ振り抜いた左手を眼前に引き戻し、そのまま水平に振るう。
高等技術、遠隔手導によって軌道を変えた四発の光弾は、ユウトの跳んだ先、着地点間際の地面へと回り込んだ。
爆ぜる光弾。生じる爆風。ずんっと、腹に響く衝撃音が修練場を揺さぶった。
悲鳴すら上げられなかったユウトを飲み込み、吹き上がった土砂を眺め、
「…いかん…。調子に乗ってやり過ぎたか…」
ユウヒは困ったように頬を掻いた。
「ユウト!?」
慌てたように声を上げたタケシの視線の先で、咄嗟に全身を力場で覆っていたユウトが、もうもうと立ち込める土煙の中か
ら姿を現す。
「こ…、殺す気があにちゃぁああああああああああっ!?」
(訳・こ…、殺す気か兄さぁんっ!?)
「わりぃわりぃ!ちくっと調子こぎ過ぎだなぁ。がはははは!」
(訳・悪い悪い!少し調子に乗り過ぎたなぁ。ははははは!)
「がはは、であんめぇ!?禁圧解除もすねぇどやってで、なすてオラさは加減すねんだ!?」
(訳・ははは、じゃないでしょ!?禁圧解除もしないでやってて、なんでボクには加減しないの!?)
頭を掻きながら笑って応じるユウヒに、涙目になって詰め寄るユウト。
「ちったぁいもうどんどごもぞけぇどが思わねのすかや!?」
(訳・少しは妹の事をもぞこい(可愛いく可哀想?愛おしむ、哀れむ、慈しむ、というようなニュアンスを含む。該当する標
準語無し…)とか思わないかなぁ!?)
「何ゆぅが。めんけぇど思ってるでば」
(訳・何を言うか。可愛いと思っているとも)
激昂し過ぎて郷訛り丸出しのユウトに引き摺られ、ユウヒまですっかり方言トークである。
ひとまずユウトが無事であった事を確認したタケシは、
「まぁおっつげや。はずみだべ?なんもにぐくってわざどしたわげでねんだべがら」
(訳・まぁ落ち着け。はずみだろう?何も憎くてわざとやった訳ではないのだろうから)
と、仲裁に入る。
その流暢な発音に少し驚いたユウヒは、妹に問うような視線を向けた。
「いや…。試しにおっせでみだっけ、すらっと覚えですまったのっしゃ…」
(訳・いや…。試しに教えてみたら、すんなり覚えちゃったんだ…)
頭を掻きながら苦笑いしたユウトは、教えた方言が実際に使用され、少し嬉しそうでもあった。
もはや立会いを続ける雰囲気でもないと感じ、
「さぁ、立会いはここまでにしよう。皆、済まぬが風呂と朝食の支度を頼む」
ユウヒは分厚い手をパンパンと叩き、一同に立会いの終わりを告げた。
呆気に取られていた屋敷の使用人達は、一礼して屋敷へ戻ってゆき、残ったチナツとシバユキが三人に歩み寄る。
「お怪我は?」
「大丈夫だよ、何とかね。…直撃してたらただじゃ済まなかっただろうけど…」
シバユキの問いに応じつつ、ユウトはじろりと、恨みがましい目でユウヒを睨む。
「ユウトぉ!アリスもぉ、遊んでぇ〜!」
チナツの腕に抱かれたアリスは、どこまでも無邪気に、疲れ切った表情のユウトに遊びを催促した。
「…あ〜…。ゴメンけどちょっと休ませてぇ…」
ユウトは鼻先を擦りながら、困ったようにアリスに応じる。
パチンと、刀を鞘に納めたタケシは、恭しく頭を下げて手を差し出したシバユキに刀を返すと、ユウヒに向き直る。
「奥羽の闘神、その名に違わぬお力、感服致しました」
一礼し、敬意を払って自分を見据えたタケシに、
「…よしてくれぬか…?その二つ名、某には過ぎた物だ。尻がむず痒くなる…」
ユウヒは困ったように眉尻を下げ、居心地悪そうに首の後ろを掻きながら応じた。