第九話 「奥羽の闘神」(後編)

濡れ縁に座し、将棋盤を見つめていたユウヒは、玉砂利を踏み締めて近付いて来る足音を耳にして、ゆっくりと顔を上げた。

「湯加減はいかがだったかな?不破殿」

借り物の浴衣がなかなかに似合っている長身の青年は、無言の首肯で応じる。

「それは良かった」

「ユウトの姿が見えませんが、何処へ?」

「アリスを連れ、墓参りに。だいぶんがおってだが…ゴホン!…だいぶ疲れていたが、涼しい内に行きたいと…」

先の余韻からか、うっかり郷訛りが出てしまい、ユウヒは咳払いして標準語に訂正する。

「先代当主の、ですか?」

「いかにも、そして…」

ユウヒは応じかけた言葉を途中で切り、口をつぐんだ。

そして首を巡らせ、屋敷の裏手に聳える山を見遣る。

自分が当主となる前。両親が健在で、ユウトもまだ己の生まれを知らなかった頃…。

自分の傍を片時も離れようとしなかった、おてんばで落ち着きが無く、純真無垢で陰りの欠片も宿していなかった、幼き妹…。

目を細め、戻る事の無い懐かしき日々を思い返すその表情は、どこか哀しげでもあった。

日陰を通り抜ける涼しい風が風鈴を鳴らし、黙り込んだ巨熊の首回り、その豊かな被毛をくすぐってゆく。

僅かな間、物憂げに細められていたその目に、複雑な感情の色が揺れる。

ユウトが向かった墓地に眠るのは、神代家の者だけではない。

ユウトの実の母もまた、そこに眠っている。

ユウヒは軽く目を閉じ、気を取り直すように首を小さく左右に振ると、タケシに視線を戻した。

「時に不破殿。良ければ一局付き合っては貰えぬかな?」

ユウヒの視線を追うように裏山を振り仰いでいた青年は、首を戻して頷いた。

「俺は、将棋のルールにはあまり詳しくない。相手になるか判りませんが?」

「結構。…いや、言ってはなんだが「俺」もさして上手くは無い。…むしろ下手な方でな」

自嘲気味の苦笑を浮かべるユウヒの口調と態度は、いつの間にやらだいぶ軟化し、やや砕けた口ぶりになっていた。



「どうしたの兄さん?」

約一時間後、墓参りから戻り、庭先に姿を現したユウトは、難しい顔で盤面を睨んでいる兄に、そう声をかけた。

「不破殿に一局申し込んだのだが…、手も無く捻られた…。将棋は良く知らなかったらしいのだが…」

「あ〜…。得意そうだもんなぁタケシ。そういうの」

へこんでいるらしい兄を目にして苦笑いすると、ユウトは濡れ縁に歩み寄り、靴を脱ぐ。

「前々から言ってるけど、向いてないんじゃない?兄さん。何か将棋に拘る理由でもあるの?」

「本気で勝負して俺が勝てば、見合いの席を設けても従う約束になっている」

「シバユキ?」

縁に上がり、横手を通り過ぎながら尋ねたユウトに、ユウヒは頷く。

「難しいねぇ…。それこそ絶対に手を抜かないよ…」

とある事情で幼少の頃より屋敷に入り、ユウトと兄妹のように屋敷で育った柴犬の事を、ユウヒは実の弟のように思っている。

もっとも、シバユキ自身は臣下の礼を崩そうとはしないが。

ユウヒの後ろに回り込むと、ユウトは腰を下ろし、兄の背中に背を預ける。

「ほんと、堅いもんねぇ、シバユキ…」

「お前に対してはいくらかマシだろう。俺にはもっと堅い」

ユウトに寄りかかられ、もろに体重をかけられながらも、どっしりと座したユウヒはビクともしない。

「慕ってはくれてるじゃない?」

「それは嬉しいが、慕うついでにあの堅い口調も、もう少し何とかならぬものかな…」

「もう直らないんじゃないかなぁ?あの言葉遣いはウチに来てすぐの頃からだもん」

「爺が厳しく仕込み過ぎたせいだ。見合いの責任も爺に擦り付けられれば良いのだが…」

背中を合わせたまま、二人は肩を震わせて可笑しそうに笑う。

「で、兄さんを負かした、そのタケシはどうしてるの?」

「俺が勝てない、そのシバユキの案内で村の見物に出かけた。お前の方こそ、アリスはどうした?」

「丁度出かける所だった義姉さんに、玄関でバトンタッチ。…んふふっ!だいぶ懐いてるみたい!一緒に実家に行ったよ。…

ほら、お姉さんが東護から帰って来てるんでしょ?アリスを会わせたいんだってさ」

「なるほど、確かに帰郷中であった。…ゲンゴロウ殿も難儀な…」

「…ところでさ?そろそろ自分達の子供が欲しいんじゃないの?義姉さんも」

広く逞しい兄の背中に身を預けながら、ユウトはからかうようにそう言い、ユウヒは困ったように頬を掻く。

十年来、想いを秘め続けた末にようやく娶った妻。

大事にしているのは勿論の事、神将の家に放り込まれたチナツを、ユウヒは不必要なまでに気遣ってもいた。

事実、新婚当初は家事の類を一切させないどころか、当主であるユウヒ自身が身の回りの世話までやこうとする程のデレッ

デレの甘やかしぶりで、チナツ本人からクレームがついた程である。

「当主は当主らしく。妻は妻らしく。家事の心配をするのが私の仕事で、デンと踏ん反り返るのがユウヒ様の仕事です」

当時チナツがユウヒに伝えたその言葉は、村中の誰もが知る名言である。

(…にしても、奥さん一人迎えるのに、あの兄さんがあそこまで手こずるなんてねぇ…)

兄が「好きだ」というたった一言を伝えられずに思い悩んでいた様子は、シバユキ越しに聞いている。

この豪胆な当主も、色恋沙汰となれば途端にうぶで奥手になってしまう。

その一連のエピソードを思い出し、これ以上からかうのも可哀そうだと、ユウトは苦笑いしながら胸中で呟いた。

「ところで、タケシはどう?」

「…む?…ふむ…。面白いな…」

ユウトの問いに、巨熊は少し考え、そう応じる。

「話してみて解ったが…、そう。刀のような男だ」

「刀?」

兄が持ち出した妙な例えに、金熊は訝しげに首を巡らせた。

「うむ。無駄を削ぎ落とし、ただ一点、斬る事に特化した得物、すなわち刀…。彼の青年からはそんな印象を受けた」

「無駄を削ぎ落とした?一点特化?」

なおも兄の言っている事が良く解らず、ユウトは首を巡らせたまま、モサモサした被毛に覆われた赤銅色の後頭部に尋ねる。

「あれだけの手練でありながら、彼の技には武をたのみとする者特有の熱が無い。実戦に主眼を置いた無駄の無い、効率を最

優先とする動きだ。もう一つ面白かったのは…話の内容だな。ある方面に実に深い知識を持っているかと思えば、その反面、

ありふれた事を知らなかったりもする。まるで深山で修行に明け暮れ、下山したばかりの武芸者のように感じてな…。実に面

白い」

「う〜ん…。言い得て妙、納得した…」

ユウトは首を戻し、同意して深く頷く。

実際に、ユウヒの意見は実に的を射たものであったが、この時のタケシ自身にも、ましてやユウトにも知りようの無い事で

ある。

気を良くしたユウトは、兄の背によりかかったまま、満面の笑みを浮かべた。

兄がタケシを気に入ってくれた事が、認めてくれた事が嬉しかった。

しばし言葉も無く、兄の背に寄り添うユウト。

久々の帰郷と再会。本音を言えば、ずっと傍に居て甘えていたい。

だが、自分の出生の負い目と、胸中に秘める目的の為に、内心を正直に吐露する事ができない。

ユウトと同じく黙したまま、将棋盤に視線を向けつつ、妹の体重を感じるユウヒ。

傍で見守っていてやりたい。危険な真似などさせたくない。

だが、ユウトの心情を想い、己の立場を考えれば、引き止める事もついて行く事もできない。

互いに、この世に居る誰よりも親しい相手。誰よりも似た血を宿す肉親。

そんな二人の距離は、近くて遠い微妙なものである。

それでも、互いに言葉にしないまま、二人は相手の本心を知っている。

相手がどれだけ自分を想ってくれているかを理解している。

ただ、相手が自分の本心を知っている事は知らぬままに…。

相手の事を慮るばかりの温かなすれ違いの中、しばし黙していた兄妹は、砂利を踏む音を耳にし、揃って首を巡らせた。

「あら…」

屋敷の裏手側から回り込んで来たのは、細身の雌熊、チナツ。

そして、彼女に手を引かれているアリスであった。

たおやかな身ごなしの神代婦人は、「お邪魔でしたか?」と目で夫に問いかけたが、ユウヒは軽く目を閉じ、首を左右に振っ

て応じる。

「ごめんね義姉さん?お世話頼んじゃって…」

「気にしないでユウトちゃん。私も夕刻までは手空きですから」

立ち上がり、申し訳なさそうに言ったユウトに、微笑みながらチナツが応じる。

「それよりも、出かける用事が有ったんじゃあ…?」

「あ。そうだった」

ユウトは思い出したように目を丸くし、縁側から降りて靴を突っかける。

「じゃあ、ちょっと裏山行ってきます。アリス、良い子にしてるんだよ?」

「うん。いーこしてるぅー」

歩いてゆく妹を目で追いながら、ユウヒは僅かに首を傾げた。

「裏山?」

「えぇ。何でも、少し練習したい事があるとか…」

「ふむ…」

チナツの言葉に頷くと、ユウヒはすっと視線を動かし、それから目を見開いた。

いつの間にやらチナツの手を放したアリスは、トトトっと、小走りに池へと近付いてゆく。

泳いでいる鯉に目を奪われ、他の物への注意力を完全に失って池に駆け寄ったアリスは、池の周りの岩囲いに躓き、前のめ

りに宙を舞う。

「いかん!」

ユウヒの反応は速かった。

将棋盤をひっくり返し、右手を縁側についた低い姿勢から、殆ど予備動作も無く、砲弾のように庭へと跳ぶ。

そして、まだアリスの行動に気付いていないチナツの脇を、赤い突風となって通り過ぎた。

ユウヒは砂利に一度足を着いただけで、縁側から15メートル以上離れた池、そこへ落ちる寸前のアリスの元へと迫る。

自分に何が起こっているのかまだ判らず、水面から顔を覗かせている岩へと、バンザイするような姿勢のまま突っ込むアリス。

その体の下に、間一髪で赤銅色の太い腕が滑り込んだ。

何とかアリスの体を捕まえたユウヒは、幼女をしっかりと抱え込み、飛び込み前転の状態で池に突っ込む。

盛大に水柱を吹き上げた池を振り返り、チナツは驚いたように目を見開いた。

「ユウヒ様!?アリスちゃん!?」

「問題無い。ちと転びかけただけだ」

水底に尻餅をついたユウヒは、大事にその胸に抱え込んでいたアリスを見下ろす。

幼女はさすがに驚いてワンワン泣いてはいたが、細心の注意を払って抱き込み、ユウヒが自身をクッションにして衝撃から

守った事もあって、暴風のような速度からの急停止を体験しながらも、かすり傷一つ負ってはいなかった。

「大丈夫だ。少々驚かせたな?」

穏やかな低い声で語りかけつつ、ユウヒはびしょ濡れになったアリスの頭を撫でる。そして、

「む…、むむ…?」

自分の胸に視線を落とすと、アリスを片腕で抱き直し、バタバタと動いている甚平の胸元に手を突っ込む。

懐に突っ込まれた赤銅色の手が、懐に入り込んでいた立派な錦鯉を掴み出すと、アリスはピタッと泣き止んだ。

ビチビチと身を跳ねさせる赤い鯉を、目を丸くして見つめ、それからユウヒの顔を見る。

「でぢな?」

「…違うのだが…。面白かったのなら、何より」

ユウヒは鯉を水面に放しながら、アリスに笑いかけた。

その笑みを目にしたアリスは、口の端をぎゅっと上げ、歯を見せて笑い返した。

「…ユウトのような笑い方だな…」

「あら、本当ですわね。ところでユウヒ様…」

少し驚いたように言ったユウヒを池のほとりから見遣り、チナツは可笑しそうに口元を覆って微笑んだ。

(ユウトちゃんのあの笑い方、貴方に似たんですよ?)

とは思ったものの、その事は伏せ、チナツはユウヒと、抱かれているアリスを見ながら苦笑した。

「そろそろ、上がられてはいかがですか?アリスちゃんが風邪を引きますよ?」

「…む…。うっかりしていた…。涼しくて良い塩梅だったのでな…」

アリスを抱いたまま、巨熊がざばっと水を跳ねて立ち上がると、驚いた鯉達が千々に乱れて逃げ惑った。

「蒸す日には、池に浸かるのもよいかもしれぬ。この娘のおかげで一つ学べた」

本気とも冗談ともつかない口調で笑うユウヒに、チナツは微苦笑を返す。

「さて、シバユキさんが何と言いましょうか?」

「…あいつは近頃、爺に似て口煩くなってきた…」

困ったように眉尻を下げたユウヒは、抱かれたまま鯉を目で追っているアリスを見遣る。

「風呂に入れて、身体を温めてやるべきだろうな?お前も言ったが、風邪でもひかせては困…」

「きしゅっ!」

自分の言葉を遮り、クシャミをしたアリスをしっかりと抱きかかえると、ユウヒはやや焦った様子でチナツに視線を向けた。

「これはいかん…!風呂は空いているか?」

「はい。では、着替えを用意しておきますので、ごゆるりと…」

ユウヒはチナツに目を向けると、少し驚いたように目を見開く。

「俺がいれるのか?」

「ユウヒ様もそのお格好ですし…」

チナツは口元を隠してクスッと笑うと、困ったような顔の夫に続けた。

「ユウトちゃんをお風呂に入れていた時のようにすれば、よろしいかと…」



一方その頃、屋敷の裏手、こんもりと小高くなった山中、その開けた平地にユウトは立っていた。

直径30メートル近く、円形に木々が切れ、草が茂った広場。

ユウトはただ一人、三戦立ちの構えで、その中心に立っている。

目を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返すユウトの身体は燐光を帯び、本来の金色の被毛はさらに鮮やかに輝いていた。

(取り込む…。外から、内へ…)

頭の中で昨夜読んだ古書の一文を繰り返し、深い呼吸を繰り返す。

今朝おこなったユウヒとの立会いで軽い疲労を覚えてはいたものの、それはむしろ好都合だと、金熊は考えている。

周囲の力を身に取り込むには、脱力している事が好ましい。そう、参考にした古書にも記してあった。

以前、兄が見せてくれた三つの奥義。

その内、自分に最も習得が向いているのはこの技だと、ユウトは確信している。

(奥義、轟雷砲(ごうらいほう)…。使う機会は少ないだろうけれど、力の集中は応用が利くはず。何とかモノにしなくちゃ…)

周囲のエネルギーをかき集め、自身の内に取り込み、練り上げながら、ユウトは少しずつ、コツを掴み始めていた。



「熱くはないか?」

「ない〜」

ユウトが持参したシャンプーハットを被せたアリスの頭を洗いながら、ユウヒはため息をついた。

椅子に座らせた小さな女の子の後ろに、小山のような巨熊がどっかと腰をすえ、頭を洗ってやっている様子は、なかなかに

ユーモラスで微笑ましい。

(…ユウトを風呂に入れていたように…とは言うものの…。年頃は確かに同じだが、ユウトはここまで細くは無かったからな…)

アリスは、同年代だった頃の妹と比べれば、あまりにも華奢で小さい。

力を込めれば壊れてしまいそうな気がして、頭を洗うにもいささか緊張していた。

「あわ〜!」

シャンプーハットの縁から零れ落ちた泡を手に取り、無邪気に笑うアリスを見遣りながら、ユウヒは苦笑いする。

「おじちゃん。あわ〜!」

首を巡らせ、両手ですくった泡を差し出す幼女に、巨熊は笑みを返した。

「うむ。………うむ、泡だな…」

気の利いた事も言えない自分に呆れつつ、ユウヒはアリスの頭を洗い続けた。

「おじちゃんか…。ふむ。俺ももう、立派なおじちゃんだろうな…。さて…」

アリスの体から泡を流してシャンプーハットを外すと、ユウヒはその両脇に手を入れて抱き上げ、湯船に歩み寄って慎重な

手つきで湯に入れる。

構って貰えるのが嬉しいのか、自分を見上げながらバシャバシャと湯をかき混ぜているアリスに笑みを向けると、ユウヒは

ゆっくりと湯の中に足を入れ、体を沈めた。

水底に尻を下ろし、あぐらをかいたユウヒの足によじ登ると、アリスは何かに気付き、湯の中をじっと見る。

湯を手で掬い、顔を流すユウヒの足の上で、アリスは不思議そうに首を傾げると、見慣れないソレに向かって手を伸ばした。

「…んむ…?」

ユウヒは妙な感触を覚え、下に視線を向ける。

「こ、これ。それは…!おふっ…!」

物珍しげな表情を浮かべながら指先で触れていたアリスは、おもむろにソレをギュッと掴んだ。

思わず声を漏らすユウヒ。

柔らかい感触のソレをさらに間近で見ようとしたのか、幼女は掴んでいたソレを思い切り引っ張る。

幼児の腕力とはいえ、ソレが何であるのか知らないが故に、引っ張る力には欠片ほどの思い遣りも手加減も無い。

さすがにこれには堪りかね、ユウヒは慌てて幼女の手を押さえて止めた。

「アリス…。コレは男にとって非常に大切な物でだな…、軽々しく触れてはいかんのだ」

上手く説明できず、ごもごもと諭すユウヒの顔を見上げ、アリスは首を傾げた。

「つまりその…。急所だ。…判るか?」

「あい〜」

返事をしたアリスだが、再び視線を下に向け、ソコへ掴まれていない方の手を伸ばす。やはり判ってはいない模様。

「これ!駄目だと言うに…」

「…ダメ?」

再び手を掴まれたアリスは、理解できる単語を耳にして顔を上げる。

「そう。駄目。駄目なのだ」

「あい〜…」

少々不満げではあったが、アリスはしぶしぶ頷く。

説明が何となく通じたらしい事に、とりあえず安堵の息を漏らしたユウヒは、

「ちーさい、いもむしたん。かあいいね?」

再び顔を下に向けたアリスの、悪意のないその言葉に、ぐっさりと心を抉られた。



それから数十分後…。

「戻りました。良い村ですね」

「…ユウヒ様?湯あたりでもなさったので?麦茶をお持ち致しましょうか?」

縁側で涼みながら項垂れている主の姿を目にし、外から戻ったシバユキとタケシが首を傾げた。

「いや、大丈夫だ…。済まぬがしばらく一人になりたい…」

(げに恐るべきは、無垢なる子供よ…)

深々とため息をついたユウヒの背を、シバユキとタケシは訝しげに首を捻りながら眺めていた。



一方、屋敷の裏山では、黄金色の燐光を全身に纏ったユウトが、身じろぎ一つせずに精神を集中させていた。

周囲から力を身体に取り込む、奥義の第一段階は達成できた。

現在は第二段階、流れ込んで来る力を身の内で練り上げ、高密度の力場として身に纏ってゆく準備段階である。

周囲の気温が著しく低下し、辺りの草木が季節外れの霜に覆われ、足下の大地が凍り付く程にかき集めた膨大な量のエネル

ギーは、制御を誤れば自身を傷つける。

(気を抜いたら…、取り込んだ力が暴れ出して、パンクしちゃいそう…)

身体を、細胞の一つ一つを、内側から押し破ろうとするような圧迫感を伴う力の流れに耐えつつ、ユウトは細心の注意を払

い、力を練り上げる。

やがて、自分の許容限界が近い事を悟ったユウトは、密度と輝きを増してゆく力場を、ゆっくりと両腕に集中させる。

制御し切れなかった力が熱となり、金色の身体から発散されてゆくが、集めた全体の量から見ればそれもごく僅かな物である。

太陽のように眩く輝く両腕を、万歳でもするように正面上方へと伸ばすと、ユウトは高密度に圧縮した力場を解き放った。

「奥義、轟雷砲!」

両腕から放たれた眩い閃光が、柱となって天を突き、ユウトの身体を通して流れた衝撃が地面を揺さぶる。

放射された熱エネルギーの余波で、周囲の霜が一瞬で融け、蒸気に変わる。

発射の反動で体勢を崩し、たたらを踏んで尻餅をついたユウトは、両手を後ろについて身体を支え、自分が放った光の柱が

駆けて行った空を見上げる。

「…で…、でき…た…」

気が遠のくような強い疲労を覚えながらも、ユウトは満足げに、口の端を少し吊り上げて笑みを浮かべ、草の上にどさりと

身体を投げ出す。

熱暴走した身体の周囲から蒸気が立ち昇る中、ユウトは吸い込まれるように、心地良い眠りの中に落ちていった。



空を駆けた閃光を目にしたユウヒは、濡れ縁から降りると、飛ぶように駆け出した。

使用人達が声をかける間もなく、大きく跳躍して2メートルはある屋敷の塀を軽々と跳び越え、裏手に聳える山を駆け上る。

一見鈍重そうにすら見えるその巨体からは予想もつかない程の速度で、木々の間を駆け抜けるユウヒは、前方を見据える両

眼を細めた。

木立の中、自分よりも前を、同じ方向へ駆けてゆく後ろ姿を目にして。

「不破殿」

速度を上げ、木立の間を前傾姿勢で疾走する青年の横に追いついたユウヒは、問うようなタケシの視線を受けて頷く。

「先程の閃光は、ユウトだ」

「…そう…でしたか…」

青年はやや意外そうに呟く。

異常を察して屋敷を飛び出したタケシは、借り物の浴衣に帯刀した姿であった。

その手慣れた感のある素早い対応に頼もしさすら覚え、ユウヒは駆けながら青年に話しかける。

「おそらく、裏山にて修練していたのだろう。察しはつく」

技書を持ち出す際に、ユウトは兄に一言断っていた。

数冊存在する技書の内、ユウトが持ち出した物が何であるのかは判っている。

未完成だった奥義の修得こそが、その目的である事も。

やがて、木々が円形に開けた広場に出た二人は、草の中に倒れている金熊を発見する。

「ユ…!」

駆け寄って名を呼びかけたタケシは、しかし途中で口を閉ざした。

タケシとユウヒが見下ろす足下で、草を揺らしてそよそよと吹き抜ける風に、金色の体をくすぐられながら、

「…すかー…くー…」

実に気持ち良さそうに眠っていた。

問うような視線を向けたタケシに、巨熊は小さくかぶりを振って応じる。

「心配には及ばぬ。消耗が大きく、眠っているだけだ」

それからユウヒは首を巡らせると、周囲の状況を確認した。

周囲の草木は季節外れの霜をかぶり、ユウトの足下に至っては、轟雷砲発射の衝撃で草が吹き飛んで地面が露出し、深くへ

こんだ足跡が残っている。

何よりも雄弁に、奥義の会得を物語るその状況を目にしたユウヒは、すっきりしたような顔で眠っている妹を見下ろすと、

口の端を僅かに上げて笑みを浮かべた。

(どうやら物に出来たようだな。…心配など無用だったか…)

胸の内で呟いた巨熊は、ユウトの脇に屈み込み、背と膝の下に手を入れる。

200キロ近いユウトを、逞しい両腕で軽々と抱き上げると、ユウヒはじっとユウトの顔を見つめているタケシを見遣った。

「繰り返すが、心配は無用だ」

「はい」

そう短く応じたものの、タケシはそれからしばらくの間、ユウトから目を離そうとしなかった。

顔にも言葉にも出しはしなかったが、青年がユウトの身を案じている事は、ユウヒにもしっかりと伝わっていた。



山稜の上に月が輝く時刻になると、一同は庭に面した縁側に集った。

チナツと共に、やや時期に遅れた花火を楽しむアリスを眺めながら、タケシは縁側に腰掛け、手にした杯をゆっくりしたペ

ースで口元に運んでいる。

先程目覚めたばかりのユウトは、半分に切った西瓜をラーメンどんぶりのように支え持ち、逆手に持ったスプーンで掻き込

むようにして貪っている。

「静かで、良い場所だ…」

青年がそうぽつりと漏らすと、ユウトは顔を上げ、相棒の顔を意外そうに見遣る。

感慨深げなその呟きは、無表情で感情表現に乏しいタケシにしては珍しく、実に感慨深げな響きを伴っていた。

「気に入った?」

「大いに」

短い返答に満足げに頷き、ユウトはアリスに視線を向ける。

チナツとアリスが摘んだ線香花火の光が、儚くも美しく、裏庭の闇を彩っている。

「いずれ引退したなら、街の喧噪を離れ、静かな場所で暮らすのも良い。…何かのドラマで聞いたセリフだが、少し、理解で

きたかもしれない」

「今から引退を考えてるの?」

「調停者は、無事に引退できるとは限らない職種だ。俺にも引退後の生活が訪れるのだろうかと、少し考えてみた」

可笑しそうに笑ったユウトに、タケシは杯を口元に運びながらそう応じた。

「それはまぁ、できるんじゃないかな?…たぶん…」

笑いながら言ったユウトは、自分の将来について考える。

為すべき事がある。アリスの事もあり、先延ばしにしてしまってはいるが、胸に抱えたその目的を、断念してはいない。

力を蓄えて海を渡り、母を殺した者を捜し出し、自分の手で仇を討つ。

情報も無く、雲を掴むような話だが、やり遂げなければならないと、母の墓前で誓い、心に決めた目的。

それが済まなければ、自分は恐らく他の事などできないだろう。そう、ユウトは思っている。

その母の仇がこの国で見つかり、思いも寄らぬ形で決着がつく事など、無論、この時のユウトは知る由も無かった。

「不破殿」

後ろからかけられた声に、ユウトとタケシは揃って振り向く。

広間の先、開け放たれた襖の向こうの廊下で、赤銅の巨熊が手にした一升瓶を掲げて見せた。

「今宵は良い月が出ている。この村の地酒だが、一緒にどうかな?」

「ご馳走になります」

すぐさま腰を上げ、「行って来る」と告げたタケシを、

(人付き合いが得意な方じゃないのに…。兄さんとは気があうのかなぁ…?)

ユウトは意外そうな顔で、しかし、少し嬉しそうに口の端を上げながら見送った。



「来たね」

その翌朝。山道を折り返し、下って来たバスを眺め遣ると、ユウトは大きなザックを担ぎ直し、アリスを抱き上げた。

「お世話になりました」

頭を下げたタケシに、バス停まで見送りに出た神代家の一同が、丁寧に頭を下げ返す。

その先頭に立っていたユウヒは、顔を上げると、口元を吊り上げ、丈夫そうな歯を見せて破顔する。

「このような田舎で良ければ、またいつでも参られよ」

「はい。いずれまた」

その、妹の物と良く似た開けっ広げな笑顔に、頷くタケシもまた微笑を返した。

一同の前で停まったバスにタケシが先に乗り込み、次いでユウトがタラップに片足を乗せる。

「ばいばい。おじちゃん、おねーちゃん!」

抱かれたアリスが無邪気に手を振り、

「ふむ。俺はおじちゃんで、チナツはお姉ちゃんか」

ユウヒは楽しげにくっくっと笑う。

「ユウト」

「うん?」

「良い御仁と、巡りあえたな…」

バスの入り口に体を滑り込ませたユウトに、ユウヒは優しげに目を細めた、慈しみに満ちた微笑を向ける。

滅多に見る事の無い、兄の優しい表情に、ユウトは言葉を詰まらせた。

「いつでも帰って来い。誰が何と言おうと、お前が何と思っていようと、この山はお前の故郷だ」

自分の葛藤を、心情を、兄は見透かしていた。

驚きと、言葉にすれば泣けてきそうな嬉しさと申し訳なさを噛み締め、飲み下し、

「…うん…。うん…!」

ユウトは二度、俯き加減で照れ臭そうに頷いた。

バスのドアが閉まると、なおもそこに立ったままのユウトと、腕の中のアリス、そのすぐ後ろに寄り添ったタケシへ、使用

人達は口々に別れの言葉を告げ、手を振る。

シバユキは、まるで何かを頼み込むように深く頭を垂れ、タケシはそれに応じて小さく、だがはっきりと頷く。

肩の高さでゆるゆると手を振るチナツの横で、ユウヒもまた、三人に大きく頷きかけた。

三人が揃って軽く別れのお辞儀をすると同時に、バスは走り出し、山を下りてゆく。

一同は、三人を乗せたバスが坂の下へ消えて見えなくなるまで、その場に留まって見送った。



「どうだった?」

「たのしかった!」

座席に腰を下したユウトは、笑顔で応じたアリスの頭を優しく撫でる。

「キミは?気に入ってくれた?」

次いでユウトは、隣の青年に顔を向け、少し首を傾げながら尋ねる。

「考えていた」

ぼそっと応じたタケシは、腕を組み、難しい顔をしている。

「惚れた。というヤツだろうか?」

「へ?」

ユウトは目を大きく、丸くする。

タケシは考え込むように僅かな間押し黙った後、少し楽しげに目を光らせ、大きく頷いた。

「心底感服した…。俺は、ユウヒさんに惚れ込んだのかもしれない。また、指南願いたい」

(ああ…。つまり、腕に惚れたって…、そういう事ね…)

微妙な顔つきだったユウトは、視線を前に戻しつつ苦笑した。



「わざわざ悪ぃなぁ。土産なんて良いのに…」

ユウトから土産の品、河祖下の地酒を受け取ったゲンゴロウは、鼻の頭を擦りながら困ったように眉尻を下げる。

東護町に帰ってきたその翌日、ユウトはゲンゴロウの自宅を訪れていた。

「兄さんも持って行けって言ってました。また、一緒にお酒を飲みたいって」

「ぬはははは!ま、その内またお邪魔して、酔い潰れるまで付き合うかぁ!」

ゲンゴロウが機嫌良さそうに笑うと、

「ただいま〜」

玄関が開く音に続き、若い男の声が聞こえた。

「って珍しいな親父?こんな時間に居るなんて?」

「おう、サツキか。お客さんが来てるから、上がって挨拶しろ」

ゲンゴロウがそう声を張り上げると、靴を脱ぐ音と、廊下を歩く音に続き、居間の入り口に若い熊が姿を現す。

大きな茶色い熊は、ユウトを目にして少し驚いたように目を大きくした。

身につけているのは白い半袖ワイシャツに、学生服のズボン。

かなり大柄で、がっしりした体付きをしているが、14か5辺り、まだ少年と言って良い年齢だと、ユウトは目測を付ける。

そして、彼が以前から話に聞いていた棟梁の子、下の方だと、良く似た顔立ちからすぐに気付いた。

「お前は会うのは初めてだったよな?ほれ、千夏叔母さんが嫁いだ先、河祖下の神代家のお嬢さんだ」

「初めましてサツキ君。神代熊斗です」

ユウトは笑みを浮かべ、サツキという名の茶色い熊に軽く会釈した。

ユウトを興味深そうに見据えていた若熊は、軽く頭を下げて応じる。

「今度この町で商売する事になったそうだ。で、古いホテルを事務所にするから改築して欲しいって、わざわざウチを選んで

くれたって訳よ」

ゲンゴロウは機嫌良さそうに、ユウトを息子に紹介した。

「しかし、一緒に仕事する野郎が羨ましいねえ。こんなベッピンさんと毎日顔を合わせられるんだからよお!くーっ!俺があ

と10年若けりゃなあ!」

ユウトは少々照れながら頬を掻くと、サツキの横へ視線を向ける。

ユウトが感じていたもう一つの気配の主は、サツキの巨体の影からひょこっと姿を現した。

サツキと同じ格好をした、かなり小柄な、白い被毛の猫獣人は、二人にペコリとお辞儀する。

「お取り込み中済みません。お邪魔しています」

小柄な猫は、顔を上げると、目を大きくしてユウトを見つめた。

「おお、ネコムラ君か!また遊びに来てくれたんだな。ゆっくりしていくといい。サツキ、冷蔵庫にナシが入ってるぞ」

まるで見とれるようにユウトを見つめる白猫から息子に視線を移し、ゲンゴロウはそう告げる。

じっと自分を見つめている白猫の少年に、ユウトは優しく微笑みかけた。

「初めまして。サツキ君のお友達かな?」

ハッとしたように姿勢を正した少年は、

「はい。根枯村樹市(ねこむらきいち)といいます」

丁寧にお辞儀して、そう名乗った。

「神代熊斗です。よろしくね」

ユウトは笑みを浮かべながら名乗ると、サツキと、彼に促されて廊下の奥へと消えた白猫を見送り、口元を綻ばせた。

大人顔負けに大柄な熊少年と、小学生にすら見えかねない小柄な猫少年が、一見デコボコで不釣合いに見えながらも、なん

とも仲が良さそうに思えて。

「仲が良さそうですね」

「ああ。ウチのドラ息子の何処を気に入ってくれたのか、最近の若いのにしちゃ珍しく、しっかりした本当に良い子でなぁ」

微笑みながら言ったユウトに、ゲンゴロウは愉快そうにニカッと笑って応じた。