おまけ

『おはようございます係長!次の旅行、贅沢に露天風呂付のお部屋とかどうですか!?』

 開口一番、挨拶に次いで唐突な提案を寝起きで叩き込まれたロップイヤーは、万年床の上に胡坐をかき、寝ぼけ眼で垂れ耳に

スマートフォンを押し付けたまま、薄い肌着…元の白さが損なわれてややクリーム色に寄っているランニングシャツ越しに弛ん

だ腹をボリボリ掻いた。

 12月29日。仕事納めも済んだ年末の休み。流石に会社に居着く事もできないので自室に帰って寝ていたカイグチの周辺に

は、Lサイズピザの空箱と、発泡酒の空き缶が三つ転がっている。テーブルではなく、畳の上に。

「次…」

『はい!予約は早い方が良いかなって思いました!』

 耳から入って来るスピッツの声に押し出されるようにして、アルコールの残りと眠気が頭から抜けてゆき、脳が目覚めて来た

ロップイヤーは「いや待たんかい」と顔を顰めた。

「どこ行くかも決めてへんのに宿取るんか?」

『あ。…そうでした!行きたい所あったのに説明忘れて…。えへへ!』

 気恥ずかしそうな照れ笑いに耳をくすぐられながら、カイグチは「会って話そか」と半眼を閉じる。

「年末年始、暇やさかい。飯でもスパでもええで」

『はい!じゃあ…』

 日取りを決めて、資料になる旅行雑誌を持って行って行き先の相談をする約束を取り付けられたカイグチは、通話を終えてス

マートフォンを下ろすと、壁際の棚を見遣った。

 そこには、旅行土産で買った入浴剤…天然の湯の花が詰まった小袋が置いてあり…。

「温泉な…」

 ポツリと呟いたカイグチは、寝起きの頭で思い出す。

 週末のクリスマス旅行…シロキと向かった山間の温泉街での、様々な出来事について。

 

 

 

「高級旅館やで」

 瓦屋根が厳つい温泉宿の庭先で、肥ったフレンチロップイヤーが呟く。

「生で見ると、ネットの写真と迫力が違います!」

 ウキウキしているスピッツがピスピス鼻を鳴らす。

 クリスマスの温泉旅行、駅からここまで買い食いや足湯などを堪能し、たっぷり寄り道しながら宿まで歩いてきたふたりは、

立派な老舗旅館の威容に見とれた。

(しかし、や…)

 目をキラキラさせているスピッツを半眼で見遣り、カイグチは胸中でため息をついた。

(サプライズで伏せたまま予約入れとって、あげく宿代全部自分で払う気やったて…、コイツには色々と教育が必要やで…)

 流石に部下の奢りで高級宿に泊まるのは寝覚めが悪過ぎるので、カイグチのカード払いで割り勘清算という話に持って行った

ものの、計画性がジェットエンジンで吹っ飛び気味のスピッツには機会を見てじっくり言い聞かせなければならないなと、ロッ

プイヤーは心に決める。

「ほな、お邪魔するか」

「はい!」

 玄関まで続く飛び石の上をふたりが歩き出すと、宿の玄関戸をあけて迎えの係が顔を出し、丁寧にお辞儀して案内し…。

 

「うっわぁ~!」

 畳の香りが漂う清潔な部屋で、シロキは感動の声を上げた。

「長旅お疲れ様でした。ただいまお茶を支度しますので、どうぞお寛ぎ下さい」

 案内の係を務める龍人の若い女性が、熱いおしぼりをふたりに手渡し、ウェルカムドリンクの抹茶を淹れる。木のテーブルは

黒くてツヤツヤ、御茶菓子の饅頭が二つ入った篭の他に、羊羹が乗った皿が二人の前に置かれる。

 今回予約が取れたのは一番いい部屋ではないのだが、全十二室のこの宿は、全ての客室に渓流を見下ろせる大窓付きの檜風呂

があり、椅子とテーブルが設えられた広縁からも景観が楽しめる。

 ふたりが泊まる部屋も相当に豪華な二間続きの造りで、テーブルが置かれた居室と、布団が敷かれる寝室が別になっていた。

 床の間には珠を掴んだ龍の像が飾られ、欄間には雲を縫う龍の透かし彫り。襖にも雲を纏う龍が描かれており、そう言えば額

縁や階段にも龍に因んだ物が飾ってあったなとシロキは思い出す。

(見かけた宿の人も龍人が多かった。龍人ってかなり少ないそうだけど、珍しいなぁ…)

 シロキは今まで、小学校でも中学校でも高校でも大学でも、龍人と一緒になった事は無い。社内には一人居るが、それが初め

て直接会った龍人である。世界的に見ても極々少数と聞いていたのに、ここには何人も居るのだなと、旅先の妙を噛み締める。

(ホンマに立派なとこやで…)

 一方、貰ったおしぼりで顔をゴシゴシ擦って一息ついたロップイヤーは、部屋の内装を検分しつつ、ここに来るまで見た宿の

中を思い出していた。歴史を感じる木造建築だが、床板も柱も磨き上げられて光っており、壁の漆喰などは補修痕にも趣がある。

特にあちこちに置かれていた一刀彫と思しき龍の置物の表現力溢れる造形美には目を見張るものがあり、じっくり見て技術解析

と表現分析がしたかったのだが、今日は仕事の事は忘れるべきだと自粛した。

 部屋があまりに綺麗なので、カイグチは珍しく自分の身なりが気になり、ジャンバーの襟を摘まんで首元を開いて匂いを嗅い

でみる。しかし体臭に慣れ切ってしまっている鼻では、客観的な臭気の熟成具合が判らない。加えて温泉街の硫黄の匂いに慣ら

されてしまった嗅覚は、体臭の精査を妨げられてしまう。

 係が浴場の利用の注意事項や館内案内を終えて退室すると、そわそわしていたスピッツはすぐに立ち上がり、「浴衣着ましょ

う!浴衣!」とクローゼットを開ける。

「あ!係長の浴衣も用意してあるから大丈夫ですよ!」

「ワイの浴衣?」

 普通に置いてあるものだろうに、何故自分の分は「用意してあるから大丈夫」なのだ?と腰を上げたカイグチが、小柄なシロ

キの後ろから頭越しに覗き込むと…。

「係長は体が大きいですから、普通のサイズは着れないかな~?って思って。予約の時にお宿への連絡欄に入力しておいたんで

す!「200キロくらいあるおっきなひとなので大きい浴衣がいいです」って」

 上手に取って来いができた犬のように誇らしげなシロキに、「そら気ぃ使わしたな。おおきに」と応じつつ、

(…流石に200はあらへんて…)

 胸中で異を唱えるカイグチ。計っていないので正確な体重は判らないが。

 ともかく、まだチェックイン時間が来たばかりで大浴場は空いているだろうからと、シロキはいそいそ着替え始め、カイグチ

ものそのそ服を脱ぐ。帯の結び方で少し考え、適当でいいかとやり易い方法で締めて雑に結び…。

「係長!浴衣姿がきまってます!」

「ホンマか…?」

 浴衣姿になったカイグチを、グルグル回って全方向から見ているシロキが興奮気味に声を弾ませた。

「はい!お相撲さんみたいです!」

「…さよか…」

 筋肉質ではないがデップリ肥えて腰回りも太いカイグチは、鏡に映る自分を見ながら、そうかもなと自覚する。特大のさらに

上のサイズだが、裾も丁度いい高さだった。逆に言えばこれ以下のサイズでは、突き出た腹から垂直に下がった裾が、脛の半ば

までしか届かなくなる。

 一方小柄なシロキは、中サイズの浴衣でも袖がやや余り気味。裾は丁度良いが…。

(コイツ、少し太ってきたんとちゃうか?)

 あまり他人に関心を払わないカイグチも、ここに来てようやく気付いた。

 ムクムクした毛の中は小柄で細身だったはずのシロキ。それが、浴衣を身につけて帯を締め、薄布で被毛を抑えられたボディ

ラインになると、昨年に比べて少し増した胴の厚みが判る。

 だが、気付いたのはそこまで。シロキが太り出しているのは自分と一緒に摂る食事の影響だという事までは気付けないカイグ

チである。

(デスクワークのせいで学生時代より動かへんからか。ま、誤差みたいなモンや。ワイが言えるような事やあらへん)

 こうして、シロキが体型変化を指摘される機会は即座に失われた。

「ほな行くで。大浴場も屋内と露天があるんやったか…」

 茶と羊羹を胃に納めてからカイグチが館内案内の冊子を一瞥し、「はい!露天風呂広いし色々あるそうなので!楽しみです!」

とシロキは顔を輝かせ…。

「せやな。楽しみや」

 鍵を持って戸口に向かうロップイヤーの背を、スピッツはキョトンと見つめた。

「どないした?忘れモンか?」

「いえ!行きます!」

 慌ててついてゆきながら、シロキは胸を弾ませた。

(係長、楽しみって言ってくれた!)

 カイグチは気付いていない。自分がこれまで、楽しみにしている素振りを殆ど見せていなかった事にも、シロキがそこを気に

していた事にも…。

 

 貸切風呂の時間予約はしてあるが、それはそれとして着いたらまずは大風呂。そう示し合わせていたふたりは大浴場に一番乗

りした。

 湯気が立ち込める天井が高い大浴場。その壁に並ぶ洗い場でまず体を流して旅の埃を落としたら、内湯には目もくれず脇の壁

から戸を潜って外へ出る。

 と、ふたりの眼前にはこの宿の名物の一つでもある、広々とした露天風呂が姿を現した。

「まるで川やないか」

「ふわー!凄いですね!」

 事前に画像で見ていたふたりも、実物を見て驚いた。蛇行する帯状の露天風呂は幅が10メートルほどあり、長さは50メー

トルにも及ぶ。宿の説明では渓谷沿いの狭い土地に設えたため、この形状にならざるを得なかったとの事だが…。

「柵の下はすぐ渓流や。それに…」

「係長凄いですよ!打たせ湯高い!あっちには洞窟蒸し風呂!」

 その長くスペースを取った露天風呂には、途中に人口の屋根をかけた洞窟風呂や、落差3メートルの打たせ湯、そして浅くし

た所に寝湯など、様々な工夫を凝らしてある。奇しくもそれは、長方形の浴場にコーナー分けしてあるスパリゾートの間取りの

ような、利便性も兼ねた設計になっていた。

「んっ!」

 渓流沿いに駆けて来た風が吹き込んで、冷たさにシロキが身震いする。カイグチは声こそ出さなかったが、玉袋が縮み上がっ

て、下腹部にキュッと睾丸が入ってきた。

 掛け湯してから白濁した硫黄泉に足を踏み入れたシロキは、底に堆積した湯の花でヌルリと滑ってバランスを崩す。

「わっと!」

「おっ」

 すぐ後ろから続こうとしたカイグチが、背中から当たってきたシロキを抱き止めて「気きつけなあかんで」と注意を促す。

「は、はい!済みませんありがとうございます!」

 柔らかな体の感触でドキドキしながら、シロキはゆっくりと硫黄泉に脛まで浸かった。カイグチも縁の岩を跨ぎ越して足をつ

け、「ええ湯加減やな」と呟く。冷たい真冬の空気に晒された足先に、温泉の熱がチリチリ沁みた。

「手前側が浅くなっているそうですから、もっと奥の方行きましょう!」

「それがええ。まずは肩までしっかり浸かりたいわ」

 ザブザブ白い湯を波立てて奥へと進みながら、シロキは頬を火照らせる。

(係長、あのタオル旅行にも持って来てくれたんだ…!)

 ロップイヤーの首には、昨年のクリスマスにシロキがプレゼントした入浴用タオルがかけられていた。一緒にスパへ行く時も

毎回持参していたが、旅先にまで持って来て貰えて喜ぶスピッツ。

 露天風呂は入り口側が浅く、奥が最も深い傾斜となっている。行き止まりの辺りは他よりも幅があり、円形に近い湯溜まり。

長い露天風呂が少し蛇行しているので、途中の岩や洞窟風呂の屋根、打たせ湯の衝立などに隠れ、入り口からは見えなくなる。

「ふ~…」

 腰を下ろしてざっぷりと浸かったカイグチが心地良さそうに息を漏らす。

「はぁ~…、温泉凄い~…」

 シロキも硫黄の匂いと濁り湯、解放感がある空と、ロケーションまで含めて温泉を味わい感動した。

「美肌効果て書いてあったわ」

「そうですね。毛艶よくなるかも!」

 そんな風に言葉を交わすのはいつもの事。なのだが…。

「シロキは綺麗好きやさかい、いつも毛並みええやろ」

「そうですか?えへっ!」

「ああ。撫でたらさぞ、ええ感触やろな」

 褒められた、と喜んだシロキは、カイグチが続けた言葉でトクンと胸を高鳴らせる。

 そしてふたりは縁を囲む岩に背を預け、空を見上げる。日没まではまだ間がある午後三時、薄く煙のように靡いた雲が黄色く

光って見えた。

「おおきに、シロキ。誘われへんかったら、こないなトコには一生来てへんわ」

「そ、そんな事…」

「そんな事あるわ。ワイひとりやったら温泉宿に泊まろうなんて考えへん」

 スピッツの言葉を遮って続けたカイグチは、「スパかてそうや」と、畳んで頭に乗せている入浴タオルの位置を直しながら呟

いた。

「ずっと、籠り切りでやってきた。同期でも浮いとる。ワイはそんな余りモンや。せやからな。お前に誘われて色んなモン見て、

去年からずっと新鮮や」

 シロキは黙っている。何か返そうとするのに、それができない。カイグチの声も口調もいつものぶっきらぼうな物なのに、そ

れでも何処か違って感じられて…。

「ぼ、僕も、ですね…。会社に入って、係長から学ぶ毎日、ずっと新鮮です…!」

「せやったら、少しは上司らしゅうできとるか」

「少しなんかじゃなく、凄く!です!最高の上司です!」

「ワイはだらしないで?」

「仕事スケジュールはむしろ綿密で、しっかりしてます!」

「だらしないんは私生活や」

「お風呂は毎日、とは思います!」

「せやな…」

 会話が途切れて、水面に影を残して飛びさってゆく鳥の声が、軽やかに心地良く耳をくすぐる。

 竹の管から落ちる湯の水音。山の木々が風に唸る声。せせらぎが絶え間なく響き、湯煙が棚引く。白く濁った湯に浸かり、指

先まで温まり、温泉の成分のせいか顔も火照って汗ばんで…。

「あ、あの、係長…」

「ん」

 おずおずと口を開いたシロキに、タオルで顔の汗を拭いながらカイグチが応じる。

「旅行を計画したの、ですけど。やりたい事あったからで…」

「ん」

 スピッツが言葉を選ぶ。考えて、決めて、繰り返してきたはずのセリフは、何処かへ飛んで行ってしまっていた。

(困ったなぁ…。大人っぽく言う練習したのに…)

 シロキは少し悩んだ末に、いいや、と腹を括った。

「係長。僕実は、係長の事が…」

 そこでスピッツの言葉が切れた。露天風呂入り口辺りから、「うわぁ…!おいで、とても広いお風呂だよ。でも滑るから足元

には気を付けるんだぜ?」、本当にすごく贅沢な広さですね、などと感嘆混じりの声が聞こえて来たので。

「貸切状態でついとったが、他の客も入って来よったか」

「そうですね…」

 残念そうに耳を倒したシロキの横で、カイグチがザブンと立ち上がる。大きな体が抜けた分を埋めるように湯が動き、小柄な

スピッツはそれだけで体を揺られた。

「だいぶ温まったさかい、打たせ湯でも行ってみよか」

 機会を逃してしまったなと残念がりながらも、シロキは「はい!良いですね!」と笑顔で頷いて、腰を上げた。

 

「係長、もしかして体流しませんでした?」

 部屋に戻り、冷たいビールを冷蔵庫から取り出しているカイグチに、シロキがスンスン鼻を鳴らしながら訊ねる。

「雑やさかい、硫黄の匂いが残ってもうたか」

「貸切風呂の時はちゃんと流さなきゃですね!」

「せやな」

 ロップイヤーは畳を軽く軋ませながら窓に面した広縁に向かい、瓶ビールを置き、内側に指を入れて挟む格好で掴んだグラス

二つを置く。グラスの持ち方まで雑である。

 チェアセットの一方に腰を下ろしたカイグチは、チョイチョイとシロキを手招きする。「せっかくや。風呂上がりの一杯と洒

落込むで」と。

「はい!」

 スピッツが早歩きで広縁に入り、ロップイヤーの向かいに腰を下ろすと、「ほれ」とビール瓶が差し向けられた。

「あ。係長から…」

「手配から何から全部やらしたんや。少しぐらいワイにも何かさせぇ」

 しぶしぶグラスを取ったシロキにビールを注いでやって、交代でビールを注がれて、

「ほな、乾杯」

「乾杯!」

 カイグチはグラスを合わせるなり、グッ、グッと喉を上下させて一気に飲み干し、プハーッと息をつく。シロキは半分ほどあ

けて、ロップイヤーと目が合って笑う。

「温泉上りは格別やな」

「はい!」

「で…」

 手酌で二杯目を注ぎながら、カイグチはシロキに訊ねた。

「さっき、何か言いかけとったやろ。あれ何やった?」

「え」

 目を丸くするシロキ。注いだビールの泡の様子を確認しながら、カイグチは黙っている。

「あの…。それは、ですね…」

 仕切り直す準備ができていなかったシロキは、急いで気持ちを固めようとして、目を彷徨わせてからグラスを掴み、残り半分

のビールを飲み干してテーブルに戻し…。

「僕、係長の事が…」

「ん」

 カイグチがビール瓶を掴む。

「ずっと、好きでした!」

 顔を上げたスピッツに、ロップイヤーが酒瓶の口を向けた。

「ワイも、そうかもしれへん」

「…へ?」

 意思を固めて真面目な顔をしたばかりのスピッツが、真ん丸な目になってキョトンとする。

「ほれ」

 ロップイヤーが急かすようにビール瓶を上下に揺すって、スピッツは「は、はい」と両手で包んだグラスを差し出した。

「ワイもな、温泉旅行やて話聞いて、それから三週間考えたわ」

 トクトクと、泡が多くなる雑な注ぎ方でビールをついでやりながら、カイグチは呟く。

「「そら無いわ」。「自惚れや」。…そないに考えたりも、まぁ、したんやけどな…」

 声は少しずつ小さくなり、珍しく端切れが悪かった。

「職場の付き合い、同僚の付き合い、先輩後輩の付き合い、…スパに誘われるのも、一緒に飯するのも、そういうモンやと思う

とった」

 ビール瓶の口を上げて、しかし引っ込めるのも忘れたようにその姿勢のまま、カイグチは半眼をシロキから大きく逸らし、室

内に向ける。窓の外に向ければまだ景色を眺める体裁が繕えるのに、胡麻化し方まで下手だった。

「ワイは、自慢やないけど人付き合いがド下手糞や。ダチもろくにおらへんかったし、同期ともろくにつるんでへん。同僚かて

一緒に飲みに行ったりせぇへん。…せやから…、せやから判らへんかった…」

 どの辺りまでが「それなりの付き合い」で、どの辺りからが「親しい付き合い」なのかが、カイグチは判らないのだと言う。

だからシロキが自分に構うのも、向けられている厚意についても、どの程度なのかが判らなかったのだと。

「せやけど、一緒に旅行て聞いて、改めて考えたんや。「気がある」て事なんやろか?て…」

 カイグチの声は消え入りそうに小さくなった。瓶を持つ手は体に引きつけられ、視線を伏せた顔は、目の周りなど被毛が薄い

位置から紅潮した肌が透けて見える。

「思い返したらな。ワイ、お前と風呂行ったり飯食ったりすると…、その…、楽しいて言うか…、嬉しいて言うか…。けど、そ

れはワイが知っとる嬉し楽しと、どっかが違うとった。キノシマと飲みに出たりするんとは違う気がしたんや。それで…やな…。

ワイはシロキに…、他と違う気持ちとか、向けとるんやないかて…」

 言葉を切ったカイグチは、深くため息をついた。

「それでもワイは判らへん…。ワイは…」

 そろそろと視線を上げて、黙っているシロキを窺ったカイグチは、

「何でわろとんねん」

 ニパーッと満面の笑みになっているスピッツを見て、ブスッと膨れっ面になった。

「いえ!済みません!係長ウブで可愛いなって!」

(ウブ?)

 顔をカッカと火照らせるカイグチに、「それで、判らないっていうのは…」とシロキが先を促す。

「わ、判らへんのはやな…。ワイの何処がええのかてトコや…」

 いつの間にか立場がすっかり変わって、告白された側の自分が告白した側のシロキに本音の暴露を求められている流れの変化

に、全く気付かないカイグチ。ずぶの恋愛素人が豊富な経験者にリードされる格好になってしまっている。

「ワイは不細工で…」

「魅力的ですよ!」

「そ、そないな事あらへんがな…!それにデブで…」

「ふくよかで素敵ですよ!」

「んなわけあるかい…!格好もだらしないで?」

「係長はずっとそうだからあまり気になりません!」

「そ…、そうなんか…?あと、あと…、風呂あんま入らへんさかい、小汚いし、臭うとるんやないか…?」

「係長の体臭は好きです!でもお風呂は毎日ですよ?」

「せやな…。そ、それにや、それにワイは…」

 懸念事項を口にしては受け入れられ、そして風呂の件だけはやはり釘を刺され、カイグチは一瞬鼻白んだ。

「人付き合いも悪ぅて偏屈で、三十路も半ば…そろそろオッサンて歳まで余りモンや」

「五十歳になるまではまだまだ若造だって、狸小路(たぬきこうじ)営業部長も言ってたじゃないですか?気持ち次第で六十ま

では若者で通せるって」

「営業の狸親父がのたまう事を真に受けたらあかんで?それにワイは…。…あ」

 最初に言うべき事を忘れていたのに、今気づくロップイヤー。平静を装ってはいるが、カイグチも自身が把握できない気持ち

がオーバーフロー気味で、一杯一杯なのである。

「判っとるとは思うけどな、男やで?ワイ。ええんか男で?」

「僕、これまで付き合った子みんな男ですし」

「そ、そうなん………………なんやて!?」

 ギョッと目を剥くロップイヤー。いつもの半眼が縦長楕円形になるほど見開かれている。

 交際経験がある。それも複数回。しかも相手は男。

 しれっと返されたシロキの言葉が情報過多で混乱しそうになるカイグチ。

「でも、今まで付き合った子の誰ともタイプが違ってて…。だから僕も最初の内は、尊敬してるとか憧れてるとか、そういう気

持ちかも?って考えてて、よく判らなかったんです。好きになっちゃってた事…」

 少し恥じらいを見せて目を伏せるスピッツ。あくまでも「少し」である。体温が急上昇して頭から湯気を吹きそうなロップイ

ヤーよりも遥かに落ち着いている。

「全然違うんです係長は、今まで付き合った子の誰より体が大きくて、ふくよかで、年上で、チンチン大きいです!」

 半開きの口から言葉も出ないカイグチは、時々距離の詰め方がおかしいと感じていたシロキの振る舞いについて、場数を踏ん

で経験豊富であるが故だという事を悟った。それを加味してもコミュニケーションが若干変な気はしたがそれはそれである。

「本当は、何処が良いのかって訊かれると、僕も困っちゃうんです…」

 スピッツは尖った耳を寝せて、視線を上に向けて悩むような顔になった。

「性格も、声も、匂いも、体型も、年齢も、種族も、たぶん全部好きなんです。今までの好みと一致しないのに好きになったの

は、係長だからだったんじゃないかなって…」

 筋肉質なマッチョアスリートでもなければ、引き締まったスプリンター体型でもなく、スラリとしたバスケットボーラーやム

チッと肉が詰まったレスリング部員とも違う体型。獅子でもなければ狼でもないし、豹でもないし熊でもない。でっぷりした兎

に恋をするというのは、数年前であれば自身にも想像できない事だっただろう。

 そんな風に伝えたシロキに対し、

「そ…、そか…!」

 カイグチは掠れ声。喉がカラカラに乾いてしまい、ずっと握ったままだったビール瓶に気付くと、体温が移って温くなった残

りをそのままラッパ飲みする。

「それで…」

 シロキは手元のグラスに目を向け、大量にあった泡が減って半分くらいになったビールを見つめた。

「お付き合いして、貰えないでしょうか?」

 カイグチは空になった瓶をテーブルに戻して、コホンと咳払いしつつ、少し俯いているシロキの頭でこちらに向いている耳を

見つめ…。

「ええで」

 精一杯の落ち着きを装った返事は、しかし声が裏返ってしまい、ロップイヤーは一層顔を熱くした。

「やった!」

 顔を起こしたシロキは輝くような笑み。素敵なおもちゃをプレゼントされた子供のようなその笑顔を見て、カイグチは気付く。

 この笑い顔は、好きな所の一つだな、と。

「ところで係長」

「んっ」

 喉が痙攣して変な声で返事をしたカイグチは、

「係長、お風呂一緒に行った時とか、気持ち良いって言いますよね?嫌いじゃないんですよね?なのに何で入らないんですか?」

 そんなシロキの問いで、それは今聞く事なのか、やはりコイツの事はまだ良く分からないな、などと軽く考え込む。

 目の前にいるのに時々遠い生き物になる部下へ、「面倒やさかい」と、カイグチは面倒くさそうに応じた。

「でも気持ち良いんですよね?お風呂」

「家で風呂入っても別に気持ち良くあらへんし。狭苦しいんや、うちの風呂」

 首を傾げるシロキはまだ見た事が無いが、カイグチが暮らすアパートの風呂場は狭く、浴槽も小さい。体が大きい上に肉も分

厚くついているロップイヤーには、湯船がきつ過ぎてリラックスもできない。なので、体が痒くなった時にシャワーを浴びる程

度なのである。

 流石に夏場は汗でベタついて不快になる事も多いので、入浴やシャワーの頻度は上がるのだが、それでも毎日とは限らない上

に、汗を冷水で流すだけでろくに体を洗わない。汗をかきにくい冬場などは数日風呂無しが常態化する。

「冷える季節はあんまり汗かかへんから頻繁に流す必要もあらへんし…」

「でも皮脂とか出るじゃないですか?」

「面倒やさかい、痒ぅなったら洗うわ」

「う~ん…」

 難しい顔になるスピッツ。グビリとビールをやるロップイヤー。

「自分で洗うのは面倒でも、洗われるんだったら面倒じゃないです?」

「は?」

 何を言われているのか判らないカイグチに、シロキは耳をピョコンと立てて笑みを見せた。

「じゃあ僕が洗いますね!」

「は?」

 相変わらず何を言われているのか判らないロップイヤーは、立ち上がってテーブルを回り込んだシロキに浴衣の袖を掴まれた。

「係長、硫黄の匂い残ってますし!お部屋にせっかく檜風呂があるんですし!僕が流します!」

「いやええて。流さんでええんやて」

 今まで無頓着だった体臭をちょっと気にしたカイグチは、実は今回あえて硫黄泉を流し切らないよう体の濯ぎを程々にしてい

た。硫黄の匂いで体臭を誤魔化そうと考えたのである。だがそれが仇となり、シロキが「強過ぎる泉質は肌に効き過ぎるって言

いますから!流さないと!」と、一向に退く様子を見せない。

「それに係長の背中とか流してみたいって思ってたんです!お世話になってるお返しに!」

「ええてそんな気ぃ使わんでも…」

「スパの大浴場とかだと人目も気になりますから、こういう所でないとできないんです!」

「そらそうやけど…」

「貸切風呂は露天ですから、洗い場寒いかもしれませんし!」

「いやそれもそうやけど…」

 シロキは目をキラキラさせている。まるで労働に喜びを感じる牧羊犬などがやる気と期待でテンションを上げているような状

態。その、袖を掴んでいるスピッツが至近距離から注ぐ眼差しの輝きと力強さと期待感に…。

「…これ、飲み終わってからでもええか…?」

 カイグチが折れた。

 

「交際第一歩目!背中流し大作戦!やった!」

「これ一歩目なんか…」

 もうこうしてふたりで温泉宿に来ているのに今更一歩目ではないだろう、と眉根を寄せるカイグチは、湯気が立ち昇る浴室に

先立って踏み込んだシロキの背中を眺める。

 フワフワな純白の被毛は見るからに清潔で、手入れが行き届いている事が覗えた。対して、温泉に入る前に軽く流したものの、

清潔にしたとは言い難い自分の体と毛並みの悪さが、今更ながら気にかかる。

 各部屋にある檜風呂は成人二人が同時に浸かれるサイズで、洗い場も畳三畳分ほどもある。ホテルなどのバスルームとは違い、

一部屋分とまでは行かなくとも広くスペースを割いた間取りになっていた。

「洗い場広いですね!お湯は…その内に溜まりますよね?」

 檜風呂には現在進行形で湯が注がれている。各部屋の風呂も温泉で、シャワーのみ水道水。何とも贅沢だとカイグチは改めて

思う。そして、シロキの想いを考えると、こそばゆく、そして有り難い気持ちになる。こんな良い所に自分なんかと一緒に来た

かったのか、と…。

 檜と硫黄の香りを含んだ湯気が立ち込める中、シロキは湯船に溜まってきた温泉をタライで掬い、床を広く流す。一気に湯気

が上がって空気の白さが増し、蒸気に触れた肌が熱を感じた。

「それじゃあ、係長座って下さ…」

 振り向いたシロキが言葉を切り、カイグチがその目を見る。

 スピッツはロップイヤーの裸体を改めて眺めていた。

 平均よりやや高い身長に加え、骨太な骨格で肩幅もある。そこに脂肪過多の肉がどっさりついているので、近距離で向かい合

うと圧すら感じるボリュームである。肉がたっぷりしている胸は自重で垂れ気味、下に出た段差は腋の下まで続いている。でっ

ぷりとせり出した腹は圧巻の重量感で、ヘソの窪みが深くて暗い。

 肩から背中は肉が厚過ぎて凹凸が殆ど無く、埋まったような首の周りからは滑らかな曲面が両腕側と背中側、豊満な胸に続く。

 腹肉の段差の下には、逆三角形にプックリ張り出した股間の肉付きが目立つ。太く肉付きが良い両太腿がそこと合流するポイ

ントには、本人と似通ったシルエットの、ズングリムックリした睾丸と陰茎がぶら下がっている。埋没した根元部分と捲れた皮

が分厚く堆積した肉棒の先には、剥き出しの丸々とした亀頭。カリの部分で引っかかるのか、包皮は先端に被らない。

「だらしない体やろ」

 カイグチの言葉に、ハッと我に返ったシロキはブンブン首を振る。

「いえ!魅力的です、とっても!」

「…さよか…」

 一方でカイグチも、視線を意識した時からシロキの体を眺めていた。

 最近少し太ったかもしれない。一緒にスパに行き始めた頃は、濡れると体型が大きく変わるほど華奢だったが、今は少し太さ

が増している。胸や腹が出っ張ったりはしていないが、全体的に満遍なく肉がついた格好で、かつて濡れた毛並みになった際に

感じた細さはもう無い。

 目を引くのはやはりフワフワした純白の被毛。雪のような、綿のような、空気を孕んで豊かに立つ毛並みは清潔で美しい。陰

茎は体格相応のサイズだが皮が余って半被りで、股間周りにも生えているフワフワした純白の毛に隠れ気味。

 創作の欲求に持って行かれているように性的な欲求は薄かったカイグチだが、今はどういう訳か、シロキの裸体に感じる物が

あった。

 美しいと思う。美しく、そして愛らしい。よくできた設計の玩具の、最終版のモックアップモデルを見た瞬間のようなときめ

きを、目の前の部下に抱いた。

「そっちを向いて椅子に座って下さいね。冷たいといけないから、お湯を流してっと…」

 そろそろとゆっくり湯をかけて温めた椅子をシロキが勧め、カイグチは素直に従って腰を下ろす。それなりに大きな檜の椅子

なのだが、幅がある太ったウサギの尻はそれでもはみ出し気味。窮屈そうに位置を調整する尻と、短く丸い尻尾を見つめて、可

愛らしいなぁとシロキは目を細める。

「それじゃあ早速流しますね!」

「頼むわ」

 普段に輪をかけてぶっきらぼうな返事は照れ隠し。肩のすぐ後ろからシャワーを注がれ、垂れ耳を軽く震わせるカイグチは顔

が熱を持っている。

(部下に背中洗わすて、パワハラにならへんやろか?)

 などと、シロキが進んでやる事なのに、ちょっと気にしてしまう。普段の雑さが引っ込んで、妙にあれこれ考えてしまって落

ち着かない。

(気持ちええ…。まだ擦られとる訳でもあらへんし、湯かけながら軽く撫でられとるだけなのに、何で…)

 丁寧に湯をかけ、撫でて行き渡らせるシロキの手の感触を、やけに意識してしまうカイグチは、

「シャワーの温度、大丈夫ですか?」

「ふぁへ…」

 変な返事をしてから「ええで」と言い直した。気が抜けたような声が出てしまったのは、いつの間にか顎が緩んで口が半開き

になっていたせいである。

(あかんあかん、何やら気が抜けてまう…。まだそんなに飲んでへんのに酒でも回ったんやろか?)

 などと考えているカイグチの背中は、いつの間にか泡まみれ。シロキの手が軽く指を立てて、皮脂や寝ぐせや硫黄で固くなっ

ていた被毛をほぐしつつ洗っていて…。

(いつの間に!?意識飛んどったわ!)

 心地良さのあまり、一時だけだが意識が途絶えていた。そもそも、この旅行の予定を空けるために仕事を詰めて片付けてきた

カイグチは、本人が思っている以上に疲労が溜まっている。自分では来る途中の電車内でも少し眠ってしまったと思っているが、

実際には移動中の大半の時間、口を半開きにして鼻の奥を鳴らすような鼾をかきながら熟睡していた。シロキの方はその寝顔を

満足げに見つめていたので不満はないのだが…。

 ワシャワシャと指を立てて現れる背中は心地良く、触れられて初めて痒みを自覚する箇所もあったのだが、そこもシロキの指

が適度な圧をかけながら撫でて行ったあとは落ち着く。普段洗わないし触れもしない背中の血行がよくなり、ムズムズしつつ火

照って来る。

「痒い所ないですか?」

「全体的にムズムズしとるで…。背中なんてそうそう洗わへんし…」

 そうそう洗わないどころか、洗ったのがいつか思い出せない。慢性肩凝りで肩回りが固いので、タオルを使って背中を擦るの

も面倒なのである。

「じゃあ!念入りに洗いますね!」

「ホドホドでええて…ふあ…!」

 指圧するような強さでシロキの指が皮下脂肪に浅く食い込むと、カイグチは息と声の中間の音をくちから零した。肩凝りと繋

がる背中の凝りも慢性的な物。姿勢が悪いせいで肩甲骨近辺がいつも血行が悪い状態の僧帽筋と背筋は、指で軽く押されただけ

で刺激される。

「係長、肩とか背中とか凝ってます?」

「姿勢も、だらしないよって…、あっ!凝りとは長年の、付き合いやさかい…、ふっ!?」

 軽い刺激でも反応してしまうカイグチ。そもそもこうして誰かに触れられる経験すら無かったので、普段から洗っていないし

触れてもいない部位への指圧は、新鮮で刺激的だった。

「敏感なんですね…。痛くないです?」

「平気や、いや、痛いどころか…!気持ちええ…!ふぅ…!」

 ブルルッと身震いしたカイグチの反応で、シロキが気を良くする。

「じゃあ!肩も揉みますね!」

「そこまではええて…ふあ…!」

 先程と似たようなやり取りを繰り返し、肉厚な肩をムギュッと掴まれたロップイヤーが鼻にかかった声を出す。

「わぁ、すごーい!係長の肩、今まで付き合った子の誰より肉厚です!ムニムニしてる!」

「そ、そうなんか…?」

 時々ちらつくシロキの交際経験の影に、強者感を覚えるカイグチ。少なくとも二名以上との交際経験がある事が発言内容から

推測できるスピッツに対し、フレンチロップイヤーは三十五年間交際未経験かつ童貞。勝てる気がしない係長。

 ムギュッ、ムギュッと力を込めて掴まれる肩で、張り気味だった筋肉が解される感触は、まるで癒着していた部分を引き剥が

されるような爽快感を伴っていた。繊維同士が固まったようにくっついて塊になっているような状態なので、揉まれる事で途絶

えがちだった血流が復帰し、むず痒さを伴う心地良さが浸透して来る。

「もしかして係長、色んな所が凝ってたりしますか?」

「姿勢も悪い、おまけに運動もせぇへん、まぁ、そんなやから当たり前に凝っとるわな…、んっ…!ふぅ…!」

 日頃から作業机と向き合ってモデルを造形したり、デザインをチェックしたり、試作品を弄り回したりと、長時間同じ体勢で

いる事が多いので、同じ所にばかり力が入ったり負荷がかかったりする。加えて姿勢も悪く、作業中はずっと背中を丸め、デス

クのモニターを眺めるときには背もたれに頼り切って尻が椅子の中央より前に出る座り方。的確に肩凝りと腰の負荷を固着させ

てゆく姿勢がデフォルトになっている。

 それを湯船で解す事もなければ、ストレッチや運動をするでもないので、凝りっぷりから言えば既に五十代の中年の体。首の

後ろまで繋がる筋肉の束を脂肪層ごとギュギュッと揉まれ、数年越しに解されたカイグチは深く息を漏らす。

「はぁ~…。こんな気持ちええなんて…。これなら毎日風呂入ってもええわ…」

「そうでなくてもお風呂は毎日ですよ係長?」

「せやな…」

 バツが悪そうに応じたカイグチの後ろで、シロキは朗らかに笑う。

「でも、係長が洗い難い所は、これから僕が洗いますね!」

 カイグチの顔がボッと発熱する。

「そ、そないな事…」

 させる訳には行かないという気持ちと、また頼みたいという気持ちが、内でせめぎ合うアンビバレンツフレンチロップイヤー。

「じゃ、首周りも洗いますよ~。顎上げて下さいね!」

「いや首は自分でも届くて。ええて首は…ふぃっ!」

 結局シロキに促されるまま、喉や顎下や首周りなどもワシャワシャと泡立てて洗われ、しまいには腋の下も重点的に集中洗浄

されるカイグチ。

「前も洗ってあげたいけど、それはまだちょっと早いかな…」

 そんなシロキの小さな呟きはシャワーの音でかき消され、

(早いて何やろ?)

 カイグチには後ろの方しか聞こえていなかった。

 

(まさか…、あんな風に気持ちええモンやったなんて…。揉み解しの店にハマる奴の気持ちがやっとわかったわ…)

 血行が良くなった上に温泉の効能で体中ポカポカしているカイグチが、顔をカッカとさせながら廊下をゆく。後ろをついてゆ

くシロキは、館内の調度や一刀彫りの置物に目移りして、造形を楽しんでいた。

 いよいよ夕食時。支度ができたという内線呼び出しを受けたふたりは、食事会場へ移動中である。

「寒ぅないか?」

「大丈夫です!半纏ポカポカですね!」

 浴衣の上に半纏を羽織ったふたりの耳に、お邪魔します…うわぁ~…、「囲炉裏端の会席!これが楽しみだったんだよね。も

うお腹ペコペコ!」と、笑いあいながらどこかの部屋に入って行く他の客の声が聞こえてきた。

「グループごとに別のお部屋って言ってましたね?」

「せやな。部屋もバラけとるさかい、大風呂でかち合わん限り他の客とは会わへんな」

 自分達のような男性だけのペアやグループなども他に居るのだろうか?そんな事を考えながら指定されていた食事会場の前に

着いたふたりは、待っていた係員に部屋名を確認されてから襖の向こうに通される。室内に入るか入らないかの内に、廊下とは

差がある部屋の空気が頬をフワっと撫でた。

「わぁ!一部屋貸切りって、こんなお部屋だったんだ!もっと狭いのを想像していたのに…」

 食事処は個室。既に温まっている部屋が、囲炉裏の熱とともに二人を迎える。一グループにつき一室ずつ小さな個室を食事会

場にするスタイルは、改めて高級宿である事を印象付けた。

「立派やな…」

「はい!」

 中庭が覗ける窓付き個室は、感動し難い性質と自認するカイグチでも感心するロケーション。備え付けのどっしりした四角い

テーブルは中央部分がくり貫かれて囲炉裏になっており、天井から下がった鉤に鉄鍋が引っかけられ、炭火で温められている。

 他にも、串に刺した山女魚、海老、餅、蒲鉾、塩で味付けされた鶏肉にツクネなどが、好きなタイミングで囲炉裏に刺して炙

りながら食べるよう、長方形の皿に並べられていた。

 松の実の揚げ物や牛肉の時雨煮、雲丹豆腐に生麩など、小鉢に盛られた色とりどりな前菜の数々と、雅なグラスに注がれた食

前酒の柚子酒、野趣溢れる豪快な囲炉裏料理は、対比が利いて見栄えが良い。

「鶏の白味噌鍋はもう食べられますので、こちらの御椀に取ってお召し上がりください。炉端焼きは一度過熱してありますが、

お召し上がりの直前に一度炙ると、より一層美味しく召し上がって頂けます。こちら、宿泊プラン得点の地酒飲み比べセットに

なりますので、どうぞゆっくり味わって下さいませ」

 宿の係が丁寧に品書きと食べ方を説明する間、シロキは姿勢よく座ったまま何度も「へ~!」「わ~!」と感嘆の声を漏らし

ていた。むっつりしているロップイヤーはともかく、スピッツの反応が良いので係も顔を綻ばせる。

「あの!もしかしてこの鳥モモって…」

「はい。クリスマスシーズンだけ、サービスでお付けさせて頂いております」

 シロキの問いに係が応じる。クリスマス限定のチキンレッグは宿のオリジナル味付け。甘口醤油に漬けて味を染み込ませた鳥

モモを、炭火で炙り焼きした品である。

「ほー…。得やったな」

「ですね!」

 宿泊プランに記載が無かったサプライズサービスに、二人の頬が緩む。

「お料理は順番にお持ちしますので、どうぞごゆっくりお召し上がりください」

 一度係が退室すると、「凄いです!想像してたよりずっと!」とスピッツは興奮気味に口を開いた。

「せやな。思っとった数倍豪勢や」

 慣れている訳ではないが、カイグチは基本的に感動し難い性質なので態度は普段通り。シロキは好奇心と興味と物珍しさで個

室も料理もキョロキョロジロジロ観察してしまう。

「…あ!お行儀よくしなきゃですね!手はお膝、と」

「いや、ええて。他の客の迷惑にもならへん。滅多に味わえへんし、見る機会もそうそうない、手ぇつける前に写真撮っとこか」

「はい!記念写真ですね!じゃあ…」

 スマートフォンを手にしたシロキはおもむろに後ろを向き、「そうやない」と言うカイグチが入る画角でパシャッと自撮り。

「え?」

「…いや、料理撮ろうて…」

「あ!そうですね!お料理も!」

 恥ずかしそうに笑うシロキを、表情は変えないまま見つめるカイグチは、

(けったいなヤツやでホンマ…)

 内心ではちょっと微笑ましい気持ちになっていた。

 自家製の果実酒を食前酒に頂き、一枚ずつ貰ったお品書きを確認しながら料理を堪能する。

 地酒飲み比べセットを情緒もへったくれも無くパカパカ飲み干したカイグチは、以前キノシマに誘われて飲みに出た際に飲ん

だ事がある銘柄をメニュー表から見つけ、熱燗で追加オーダー。これをチビチビやりながら料理に舌鼓を打ち、物珍しさからテ

ンションが高いシロキの「おいしいですね!」「すごいですね!」に頷きながら、

(ええモンやな、こういうのも…)

 そう、しみじみ感じた。

 手間がかからない、すぐに出て来る食事を好む傾向が強く、何ならカレーや牛丼やラーメンばかりでも構わないカイグチは、

あまり高級な店や洒落た店には行かない。居酒屋もチェーン店ばかり行くし、本格的な会席料理など滅多に口にしない。ガツガ

ツと一気食いできる方が面倒くさくないし食った気もするのだが…。

(シロキも喜んどるし…。………って、何でこんなニコニコしとるんや?)

 スピッツがずっと満面の笑みでいる事に気付いたカイグチは、「嬉しそうやな。好物でもあったんか?」と訊ねた。それに対

する答えは…。

「いえ!係長とふたりきりでお酒飲むの、初めてだな~って!」

 そんな事で。

 舌の付け根まで出かかった言葉を、カイグチは飲み込む。

 そんな事、と自分は思ったそれをシロキは喜んでいた。楽しんでいた。こんな自分との「そんな事」で、これほど…。

(あかん…。酔いが回ってもうたか?眩暈がするわ…)

 視界が軽く揺れたカイグチは眉間を摘まむようにして押さえる。それが眩暈を起こした訳ではなく、自分でも判らない嬉しさ

に、涙が滲んだせいだとは気付けない。

「好物っていえば、係長はどれが好きです?串焼き!」

「ん?あ~…、一番は決め難いけどな。ヤマメの串焼きやろか?塩がきいとって酒に合うで」

 こう答えながら、ロップイヤーは思う。習慣で発泡酒を飲んでいるが、日本酒もビールもあまり飲む機会が無かった。酒も料

理も美味いのは質の良さもあるのだろうが…。

「囲炉裏、ポカポカしますね!」

 暑くなって来たのか、シロキが半纏を脱いで椅子の背もたれにかける。

「お酒つぎます!」

 浴衣の袖が料理につかないよう押さえながら、シロキが立ち上がって向こう側から徳利を差し向ける。

(ええな、これ…)

 贅沢と無縁の生活を送っているが、たまにはこんな風に誰かと一緒の食事を楽しめばよかったと、カイグチはこれまでを振り

返る。

「おっとっと…」

「ギリギリでした!あぶな…!」

 御猪口の縁まで注いだシロキが笑う。その、身を乗り出しているせいで下がった浴衣の胸元が、少し開いている事にドキリと

するカイグチ。少し手が震えて、御猪口から零れた酒が灰色の指に染みた。

「…シロキはどれが気に入ったんや?」

「僕は…ツクネですかね?どれも美味しくて、美味しそうで、いま順位つけるの難しいんですけど!」

「せやな。難しいわ」

 そう言って御猪口を傾けつつ、ロップイヤーは振り返っていた。

 一緒に食事をする機会も増えて、スパにも行くようになったのに、カイグチはシロキの好みを殆ど知らない。シロキの方から

はあれこれ質問されていたのに、カイグチはこれまで訊ねたりしなかった。

 先程もそう。好物でもあったのか?と訊いたが、カイグチはシロキが何を好むのか、食べ物すらもよく知らないまま一年過ご

していて…。

「なぁ、シロキ…。好きな食いモンって、何や?好物とか…」

 今からでも知ろうと思った。ひとに興味を持ち難い、感動し難く無関心な自分を、少しでも変えてみようと思った。

 顔が熱いのは酒に酔ったせいか、囲炉裏のせいか、それとも…。

 

「はぁ~…。食ったし飲んだわ。満足満足…」

「美味しかったですねー!贅沢料理!ケーキまで出ちゃった!」

 ふたりが部屋に戻れば、寝る支度はもう整えられていた。

 テーブルには冷水が入った新しい水差しが置かれ、小腹が空いたときの為にと、小さなごま塩御握りと稲荷寿司が二つずつと、

ガリと沢庵が入った漆塗りのお洒落な箱まで据えられていた。

「サービスの御夜食だ…。僕もうお腹いっぱいなんですけど…」

 箱の蓋を開けたシロキが耳を伏せる。食べられないのは勿体ない気がした。

「無理に食わんでもええし、食い切れへんかったら残してもええ。残りはワイが食うで」

「………」

「どないした?」

 シロキの後ろから覗き込んだカイグチは、振り返ったスピッツの少し丸くなっている目を見て眉根を寄せた。何に驚いている

のか判らなくて。

「いえ!しめの舞茸のおこわ、あんなに沢山お代わりしたのに、まだ食べられるんだなぁって!係長のお腹、大きいからいっぱ

い入るんですね!」

 そんな事で驚いたのか?とやや呆れ顔のカイグチだったが、シロキの本心には気付かない。

 口にした事も嘘ではないのだが、シロキが驚いている理由は…。

(係長…、残したら食べてくれるって…。嬉しいなぁ…!)

 仕事に関しては時々見られるカイグチのぶっきらぼうな優しさが、こんな事でも見られるとは思っていなかったからである。

「とりあえず、一旦休憩や」

 満腹感に満足しながら襖が開け放たれている寝室側を覗き、敷かれていた布団にゴロリと横になったカイグチは…。

「…はっ!?」

 ゾゴゴ…という自分の鼾で目を覚まし、一瞬で眠りに落ちていた事に後から気付く。

(あかんあかん!気持ち良過ぎて寝てもうた…!)

「寝てて大丈夫ですよ係長?貸切風呂の時間はアラームかけておきましたから」

 首を起こせばバラエティ番組を観ていたシロキの姿。

「そんな訳に行かんわ…」

 鈍感なカイグチでも判る。こんな状況で自分だけ寝てシロキに暇を持て余らせてはいけないと。

 身を起こしたロップイヤーは、眠気覚ましにお冷やを一杯飲み干して、ドッカとテーブル脇に座る。

「係長、疲れてるんじゃ…」

「疲れてへんわ」

 気遣うシロキに、若干顔を赤らめて応じるカイグチ。酔いが回っているせいか、普段は気にしない事にまで意識が向くように

なっており、自分の疲れをシロキに見抜かれていた点がやけに気になった。

「あんなシロキ。気ぃ遣わへんでええ。ホンマに限界やったら寝とるわ。そうなったら簡単には目ぇ醒めへん。まだまだ平気や

さかい気にせんでええ」

「そうですか?…あ、それじゃあ!」

 スピッツは両手を胸の前に上げてワキワキした。

「肩揉みましょう!スッキリするかも!」

「あかん!」

 カイグチは即座に却下。今心地良くマッサージされたら間違いなく熟睡モードに入ってしまう。

「何やオモロイ番組やってへんか?」

「お笑い番組やってるみたいですけど、そっちにします?」

「そらええわ。じゃあそっちで…」

 そして、内輪ネタで出演者が盛り上がっているのを視聴者が眺めるだけの、ファンにしか面白さが判らないお笑いバラエティ

にチャンネルが合わせられた五分後、

「ぐごっ…、ずす~…。ぐごごっ…、ずす~…」

 カイグチは机に突っ伏して眠っていた。

 

(あかん…!何やっとんねん…!)

 前を行くシロキの軽快な歩みを、ノッソノッソと姿勢が悪い猫背の歩き方で追いかけながら、カイグチは激しく自分を責める。

スピッツを放置して熟睡した事を悔やんでも悔やみきれない。

「あ、ここですね!星空の湯!」

 対してシロキは全く気にしていない。カイグチが寝ている間はその寝顔に、今まで付き合った子の誰よりも寝顔可愛いなぁ、

などと満足げに見入っていた。

 引き戸を空けて脱衣場に入り、内鍵をかけてからそっと覗き見ると、スピッツは「ひろーい!」と感嘆の声を漏らす。

 さっさと浴衣の帯を解いていたカイグチは、声に誘われてシロキの後ろから露天風呂を覗く。

「こら立派やな…」

 直径5メートルほどの岩に囲まれた露天風呂は、半分に和傘風の屋根がかかり、全体に湯煙を纏っている。湯船の縁に手をか

けて温泉を吐く龍の口から、一層熱い蒸気が立ち昇って夜空に消えてゆく様は幻想的。広く取られた周囲のスペースは常緑樹の

垣根に囲まれ、どの建物からも窓が向かない立地になっていた。

「あ、灯り消してみても良いですか!?」

「せやな、暗くしてみよか」

 シロキが戻って浴場側の電灯を消す。

「ええ感じやで。薄明りに湯気が光っとる」

「わ、わ、どんな感じですか!?」

 急いで戻ってきたシロキが「あっ!」と声を上げる。タタンッとスノコを踏む音に反応し、「どないしたんや?」と振り返っ

たカイグチは、

「どぉふっ!」

 胸と腹に重たい物が当たって、それを咄嗟に抱えながらもバランスを崩し、尻もちをつく。

 躓いて突っ込んで来たシロキ諸共床にへたり込んでしまったカイグチは、咄嗟に腕を回して捕まえたスピッツの体温にドキリ

とした。

「す、済みません係長!大丈夫ですか!?」

「そっちこそ大丈夫なんか?」

「はい!そそっかしくて済みません…」

「ええて」

 帯を解いたカイグチの浴衣は前がはだけていて、抱き止められる格好で体を預けるシロキは、その肉付きが良過ぎる胸に頬を

押し付ける格好になっていた。手をつくところを反射的に探した両手は、ロップイヤーの脂肪過多な腹に乗っている。

「………」

「………」

 無言の二人が意識する。鼓動が早い。体温が上がる。

 どちらも立ち上がろうとせず、密着して座り込んだまま。まるで、寒い空気の中で寄り添って温もりを分け合うように…。

 やがて、カイグチがシロキの背中を、回していた手で浴衣越しに撫でた。

「係ちょ…」

「あんな、シロキ…」

 言葉を遮ってカイグチが、やや掠れた声で囁いた。

「ワイは、こんなん初めてやさかい…、どうするのがええか、何したらええか、よう判らへん…。せやから、な…」

 リードしてくれ。そう言いかけた言葉を飲み込んだカイグチは、首を振って弱気を追い出す。

「抜けとったり雑やったりしても、多少は勘弁な」

 ロップイヤーは意地を捨て切らなかった。年上として、上司として、預けっぱなしの頼りっぱなしはならない、と。

「は、はい…!僕の方こそ、突っ走り過ぎたら注意して下さいね!」

 嬉しさで振られたシロキの尾が、背に触れていたカイグチの手をくすぐった。

 ギュッと力を込めてシロキを抱いたカイグチは、その柔らかな弾力がある白い毛並みの感触を噛み締める。温度がある命の塊

を、こうして抱き締めるのは初めての事。こんなにも幸せな、満たされた気持ちになるなど、想像した事も無かった。

 シロキの方も、ムギュッとロップイヤーにもたれかかったまま、その深い懐の柔らかな感触をじっくり味わう。背中は流した

が前はしなかったので、カイグチの体臭と硫黄と炭火の残り香が混じった香りが鼻孔を刺激した。

 身を寄せ合ったままソロソロと動き、暗い中で笑い合って少しだけ身を離す。離れた所がスースー冷える感触が、そのまま触

れ合っていた証拠として残る。

 そしてふたりは脱衣場出口から、露天風呂を見遣った。

「わぁ…」

 目が慣れてきて、冷え切った空に瞬く星々までよく見えたシロキは、暗がりに揺蕩う湯煙の、幻想的な白さにため息をついた。

 夜闇と蒸気のコントラストは鮮やかで、遠くから注がれる僅かな灯りを受ける湯気が、ぼんやり発光しているように見える。

「ええモンやな。生まれて初めてやで、こんな光景」

「僕もです…!」

「何やアイディアが湧きそ…いや、今はそないな場合やあらへんな」

 仕事脳にスイッチしそうだったカイグチの腕が、シロキの肩に回った。

「は…、入ろか…!体、冷えって、まう…やろ…!」

 上ずったり裏返ったり忙しい声で促すそれが、リードを任せないと誓ったばかりの係長の、現時点での精一杯であった。

 

「係長…」

 チャプ…と水音がして、縁の岩にもたれかかって夜空を見上げていたカイグチは、垂れ耳を震わせて視線を下げる。

「隣に行っても良いですか?」

「あ…、ああ、ええで…!」

 シロキのおずおずした声に、自分が来いと促すべきだったと動揺しながら焦りの返事をするロップイヤー。

 白い湯が揺れてシロキが近付き、カイグチの隣に並んで岩に背中を任せる。

「はぁ~…。綺麗ですね…!」

「せ、せやな」

 喉が渇きまくっているカイグチは、先程シロキを抱き止めてから動悸が激しいままである。

 何をするのが正解だ?どうするのがベターだ?あれこれ考えたあげく、ロップイヤーはおもむろに腕を上げてシロキと肩を組

んだ。

「…!」

 上を向いたまま少しだけ震えるシロキ。

(ちゃう!ちゃうわ!よう考えたら肩組むんやない!確かこないな時は手ぇ重ねたりするんやった!)

 アプローチを色々としくじりがちなロップイヤーが、温泉の成分が変わりそうな勢いでドバドバと緊張の汗を流す。

(これまで付き合おうた連中と比べられたら、ワイの大半の部分がダメなんとちゃうか?)

 自慢ではないが、魅力に欠けるという点には自信がある。加えて恋愛素人なので、シロキのかつての交際相手…少なくとも二

人以上と比較されるのは分が悪い。シロキが何気なく口走る過去の男達の存在が、小柄なスピッツの後ろにずらりと並んで圧を

かけて来るような心理。

 何と声をかけるべきかと、脳みそをグルグル回転させるカイグチは…。

「係長の腕、あったかいです!」

 シロキの明るい声で、「そ、そうなんか…?」と掠れ声を漏らした。

「はい!それに太くてボリュームがあって頼りがいがあって、柔らかくて気持ち良いです!」

「そ、そぉ…なんか…」

 回転し過ぎた脳みそが急停止してしまい、返事が固定化されてしまうカイグチ。

「体中どこも柔らかくて手触り良いんですよ?肩を揉んでる時も、感触が癖になりそうでした」

「そぉなん…か…」

「さっき支えて貰った時も、顔が当たった胸の感触、とっても気持ち良くて!」

「そ、そー…なん…」

「もっともっともーっと!たくさんくっついていたいです!」

 鈍化したカイグチの頭でも判った。シロキが口にしているような事を言うには、自分は相当勇気が必要だと。真っ直ぐな好意

と率直な言葉が、カイグチの半眼には眩しく映る。

(何でコイツ、こんなハキハキ言えるんや…)

 好きを、伝え切れない。

 好きに、応じ切れない。

 苦しくて切なくて申し訳なくてもどかしくて幸せで、伝えるための精一杯は…。

「わ。係長?」

 肩に回した腕で、部下を自分に引き寄せて、要望に応じる事。

 太い脚を投げ出して座るカイグチの、太腿の上に引き摺り上げられるように引き込まれて、シロキは半分抱っこされたような

格好になった。

「………」

 ならくっついたろ。その一言も言えなくて、カイグチは無言でシロキの肩を抱く。

「係長…。体、触っても良いです?」

「…ええで…」

 好きにしてええで。と言いたいのに言葉は短く余裕無く、最低限に纏められた。

 スピッツの手が湯から出ている肩に触れ、パシャリと水音を立てながら撫でて、そのまま下に移動する。豊満な胸を軽く、く

すぐるように撫でるシロキの手の平に、擦れた乳首が不慣れな刺激を受けて、カイグチの体がブルッと震えた。

(こ、こそばゆ…!いや、何やこれ?気持ち、ええ…?はんっ!)

 指が簡単に深く沈み込むほど脂肪過多で柔らかな胸を、シロキは「わぁ…!」と声を漏らして揺さぶった。

「係長の胸、今まで付き合って来た子の誰より柔らかいし大きいです!」

 カイグチは無言。胸を優しく揉みしだかれる未知の感覚に意識を全て持って行かれている。

(は、恥ずい…!)

 しかし羞恥だけではない。乳輪に加わる摩擦、埋没している乳首の先端を指の腹で撫でられるこそばゆさ、そしてたわわな胸

を浅く緩やかに揉まれる感触が、初体験となる快感を脳と背骨に送り込んで来る。

「お腹も良いですか?係長のお腹、すっごく大きいなって、ずっと手触り気になってたんです」

「ワイの腹なんて…だらしないだけやさかい、触ったかて気持ちええモンやないで…。んっ!」

 シロキの手が鳩尾に降りると、カイグチはまた身震いする。誰かに触れられると、こんなにもこそばゆく心地良い…。それは

カイグチが人生で初めて経験する幸福感と快感。

「そんな事ないですよ?プニプニでポワポワ!タプタプでモチモチです!気持ち良くてずっと触ってられます!」

 応じるシロキは、マシュマロにも似て、しかし密度がある贅肉の手触りを心地良く感じている。軽く揉んでみると、湯の中で

自在に形を変えて、程よい反発力を持ちながらも掌に吸い付いて来るようだった。

「こ、こそばゆいわ…!あんま揺すらんといて…」

 シロキが両手で丸々した腹を左右から挟んでさすり、カイグチはやや懇願するような声音になって、ゾクゾクと毛を逆立てる。

贅肉の手触りについて感想を聞かされるのは、なかなか羞恥心にクる物があった。

 スピッツの手つきは赤ん坊をあやすかのように、繊細で、気遣うような優しいタッチ。その軽く柔らかなボディタッチが、刺

激に慣れていないカイグチには快感だった。

(係長、今まで付き合って来た子の誰よりも敏感だなぁ!くすぐったがりやさん?)

 スピッツの手が繊細な指使いで胸の丸々とした輪郭をさすり、下の段を掬うようにして撫でる。贅肉をもてあそばれている格

好のカイグチは、生まれて初めて思った。体のだらしなさが恥ずかしいわ、と。なのにやめて欲しくない。もっと触れて、撫で

て欲しい。

(何でワイ、こんなくすぐったいのが、気持ちええて感じとるんや…!?)

「係長?もしかして、お腹敏感なんですか?」

「し、知らへんわ!初めてやさかい、そんなん判らへんて…!」

「今まで付き合った子に胸が気持ち良いっていう子は居たから、結構揉んだりした経験ありますけど…。お腹は…」

 少し思い出すような表情をしてから、シロキはヘラっと微妙な半笑い。

「お腹感じるって言った子は居なかったです。係長が初めてですね!」

 初めて…。

(何でソレを喜ぶんや!?)

 自分の気持ちが判らないロップイヤー。

 曲面に沿って移動するシロキの手が腹の表面で円を描き、こそばゆくも心地良くなったカイグチは、

「あひっ!?」

 一瞬、高い声を漏らして身を固くした。

「あ!ここ、おへそです?」

 撫でている最中に指が臍の穴に入って、スピッツが耳を立てる。

「係長のおへそ、深いですね…」

「誰かて同じようなモンやないか?」

「お肉の厚みの分だけ深いのかも?」

「さよか…。あっ…!?」

 甲高い声を上げて身震いするカイグチ。「あ!済みません痛かったですか!?」とシロキが問うと…。

「痛くはないで?た、ただ何か、妙な…!」

 ツクンッと腹の奥まで走る刺激に、睾丸がキュッと縮む。

(変な感じや…。嫌な感触やあらへんけど…)

 落ち着かなくて背中がゾワゾワする。が、不快ではない。

(気持ちええのか?これ…)

 臍の穴にツプッと入ったシロキの指を改めて意識し、カイグチはゾクゾクと首周りの毛を立てた。

 シロキは目を少し大きくしてカイグチの様子を見ていたが…。

(係長、乳首もそうだったけど、お臍も気持ち良いタイプなんだ?)

 過去の交際相手にも居たのでピンときた。

「ひあんっ!」

 カイグチがブルッと震えた。シロキの指が臍に入ったまま、軽く指先を曲げると、そこからツクーンッと腹の奥の方へ刺激が

伝わる。

「あ、あかん…!やめぇ!ひんっ!」

 自分の口から漏れた高い声に、顔をボッと熱くしたカイグチは、

「い、いや止めへんでもええけど…!」

 背中の真ん中からジワジワと高まる体温と、下腹部がムズムズする快感に動揺する。腹の奥の方、中の中の方、おおよそその

辺りではあるのだが、どうも胃腸とは違う何か、よく判らない辺りに刺激が走る。

「係長おへそ感じるタイプなんですね?今まで付き合った子にも、おへそ弄られると気持ち良いって言う子が居たんですけど…。

お腹を撫でるのは別に何ともなかったから、おへそだけなんですけどね?」

「そ、そうなんか…?は…んっ…!」

 湯の中で臍を軽く、クチュクチュとくすぐるように弄られる。強くは無い力加減と柔らかな指使いが、波を立てるように中へ

刺激を浸透させてきて、カイグチは身震いしながら快感に翻弄された。

(へ、へそやなんて…!そないなトコほじくられて、ワイ、興奮して…!あふっ!恥ずい…!のに、き、気持ちええ…!腹の奥

に、何や判らんモンが、ジンジン来よる…!へそん中で、シロキの指が動いて…!あんっ!潜り込んで腹ん中から撫でられとる

ような…!)

 胸も腹部も生物としては急所、無防備に触れさせるケースなど殆ど無い事もあって、少し緊張してしまう物だが…、実はカイ

グチ、シロキが察した通りここらが一際敏感なポイントであった。そして…。

(あかん…!)

 ロップイヤーの全身から脂汗が滲み出た。

 ヘソを弄られたせいで腹の中に刺激が及んだのか、それとも尿意を錯覚させる刺激の影響か、下腹部の奥にむず痒さを覚えた

かと思えば、股間でムクッと陰茎が持ち上がる。

 焦るロップイヤーに対し、太腿の間の分身はお構いなしに伸び伸びし始め、陰茎が堆積した分厚い皮を広げるように太さを増

し、丸々とした亀頭は血色よく膨れ上がる。

(な、なんやこれ…!?エロ本読んだかてここまでならんで!?)

 鈍感な部類だと自認していたカイグチは動揺する。これまでは女性を被写体にしたその手の本で性処理してきたが、愚息の反

応がここまで良かった事は無い。むしろ今の方が興奮している。

 まさか、と思う。

 そういう人口が一定数居るという知識はあった。好みも体質も人それぞれだろうと思っていたので、特に偏見などもなかった。

だからこそ自分に向けられるシロキの好意が、単なる上司への尊敬や同僚としての親近感、そして友愛ではなく、恋愛感情かも

しれないと思っても、忌避感も抵抗感もなくすんなり受け入れる事ができたのだが…。

(エロ本でセンズリこいても物足りんかったんは…、ワイも…)

 想像した事もなかった自分の真実に気付き、驚きもしたが納得もした。ピンと来る女性が居なかったのも当たり前。いくら異

性に目を向けようと、恋心など覚えられるはずもなかった。

 鈍感過ぎる上にその手の欲求よりも創作欲が優っていたせいで、自分でもずっと気付かなかったのだが…。

(ワイも、前々から同性愛者やったからなんか…)

 人生三十五年目にして悟る新事実。しかしそれはそれとして股間のモノが元気になり過ぎて、焦りまくるカイグチ。

 一方でシロキは、あまり見えない状態で臍を弄り過ぎると痛くなったりするかもしれないと考えて、カイグチの臍からそっと

指を抜く。

「はふっ…」

 名残惜しさすら感じたカイグチが声を漏らす。そしてシロキは上司の動揺にも股間の変化にも気付く事無く、大きな腹の下…

土手肉の段差まで満遍なく撫で始めた。

 ヒヤヒヤするカイグチが、身じろぎして少し腰を引こうとするが、そもそも岩を背にした風呂の端なので数センチも引っ込ま

ない。

「あ」

 何かに気付くシロキの声。

「あっ」

 1オクターブ高くなるカイグチの声。

 へその下側…曲面を帯びた腹の下部に沿って、下から撫でるシロキの手首に、カイグチの愚息が気安く挨拶した。

「係長…」

「………!」

 ダラダラと汗を流すカイグチは、

「僕でおっきくしてくれるんですね…!良かった…!」

 シロキの声で困惑した。

 安堵。スピッツの声に混じっていたのは、確かに、ホッとしたような響きで…。

「本当は嫌だけど、断り難くて応えてくれたのかなぁって、まだ少し疑ってたんです…。気を遣って断らないでくれただけかも、

って…!」

 はにかむような微苦笑と本音で、カイグチは胸が詰まる。

 勢いがあって真っ直ぐでへこたれなくて打たれ強い。シロキにはそんな印象があったが、そうとばかりは言い切れないのだと

知った。

 当たり前に不安もあるし、相手が気遣いで本音を隠しているのではないかと悩む事もある…。改めて、自分は部下の性格を全

く把握していないのだと自覚した。

「そんなん無いわ。ワイは気遣いとかせぇへん」

 もっと言える事はあったはずなのに、言うべき事はあるはずなのに、言いたい事もあったのに、そう応じるのが今のカイグチ

の精一杯。

 言葉にできなかった代わりに、ロップイヤーはもう片腕も伸ばしてスピッツの首に回し、正面に抱き寄せる。シロキは少し驚

いたように深く息を吸ったが、カイグチに身を預けるようにして力を抜いて胸を合わせ、肉付きのいい肩に顎を乗せた。

「僕も、さっきからずっとおっきくなってるんですよ…!」

 耳元をくすぐるシロキの告白に、カイグチは体中の血液が沸騰する思いだった。言われてみればヘソの横辺りに、固い物が当

たっている気がする。

(チンチン押し付けちゃった。まだちょっと早かったかな…!)

 小さく笑うスピッツが、ロップイヤーの太い首に腕を回してギュッと抱き付く。

「係長凄いボチューム!今まで付き合った子の誰よりも肉厚です!首も肩も背中もプヨプヨ…!」

「そ…そぉ…なん…?」

 裸で抱擁し合って、腹に浅くめり込むスピッツの半被り陰茎の感触に意識を持って行かれがちなロップイヤーは、体もナニも

すっかりガチガチだが…。

(本当は係長のチンチンも触らせて貰いたいけど、それはまだちょっと早いね)

 シロキにはそのくらいの事を考える余裕がある。

 体を預けて甘える格好になったシロキの背中を、血流が増し過ぎて耳鳴りまでし始めたカイグチは硬い手つきで撫でた。

「シロキ前の体も、ええ感触や…。毛がスベスベしとる…」

「そうなんですか?毛並みは一応気を使ってるんですけど、嬉しいなっ!えへへ…!」

 湯の中で尻尾を振るスピッツ。薄い脂肪の上にたっぷりと密度の高い被毛を纏ったシロキの体は、他者に触れる事が稀なカイ

グチには、高価な毛織物のような最上級の感触に思える。

 しばらく身を預けたままのシロキの体を撫でて、感触を堪能したカイグチは、

「係長…。キス、良いですか?」

「………」

 心臓をドクドクさせながら、無言で僅かに顎を引く。

 静かに近付く二人のシルエット。湯がチャプンと音を立てたその上で、唇が軽く触れ合った。

 酒の匂いとケーキの味。

 それが二人の最初のキス。いつまで経っても忘れない、告白の夜の味。

 

「じゃあ係長!色々な所を揉ませて下さいね!」

「何でそうなるんや?」

 風呂上がりのビールを引っかけながら、テーブルを挟んだスピッツに疑問の眼差しを向けるカイグチ。

「もう眠っちゃっても大丈夫な訳でー、だから肩を揉んでも平気な訳でー」

「酔ってへんかシロキ?」

「もうそろそろ限度オーバーかもかも?しれないですぅ~。えへぇ~」

 シロキはエヘラエヘラと気持ち良さそうな半笑い。普段からあまり量を飲まないのに、今日はカイグチに付き合ってビールに

日本酒とずっとアルコールを摂取している。三度湯に浸かって血の巡りも良くなり、そろそろ酔っぱらってきてしまったらしい。

「係長、お酒強いんですねぇ~」

「普通やで?単に自分のペースでやっとるから潰れへんだけや。…いやさっき寝てもうたけど…。企画のキノシマやら営業の狸

親父やら狐男やらはホンマモンの酒豪やけど」

 グラスのビールを飲み干して腰を上げたカイグチは、「布団行くで」と、シロキを促した。

「もう寝ちゃいます?」

「寝てもええ。起きとってもええ。横になるだけや。で、その、アレ。アレ、何て言うんやったか…」

 顔を火照らせながらカイグチは考え、

「そ…………、添い寝…てヤツ…、したろか…」

 これを聞いたシロキは「えへぇ~。ホントですかぁ~!」と、少しよろけながら立ち上がってカイグチについて行き…。

「…ほな…な…。ホレ」

 肥満体を揺らしゴロリと寝そべったロップイヤーはモゾモゾと身を揺すって位置を調節し、シロキが横に来られるようスペー

スを作る。そして…。

「じゃあ、お邪魔します…」

 目をトロンとさせたシロキが傍らに寝そべると、カイグチは左腕をスピッツの頭の下に入れて枕にしてやり、グイッと抱き寄

せた。

「わ…」

 スピッツが目を細めてトロンと微笑む。

 抱き寄せられたシロキは横向きの体勢にさせられ、カイグチに抱き着く格好。

「楽にしてええんやで?足、窮屈やったらワイの脚の上に乗せてええで。…腋とか臭ってへんか?…そか。寒ぅないか?…そか。

頭預けて楽にせぇや。気ぃ遣わんでええて」

 少しは年上らしい事をと、眠りに落ちそうなシロキに腕枕してやりながら、カイグチは小声でボソボソ話しかける。

「係長…。またお腹撫でて良いですか…?」

「けったいなやっちゃな…。ワイの腹がそんなに気に行ったんか?」

 トロンとした顔のスピッツにそう応じながらも、ロップイヤーはドキドキしていた。せがまれる事が嬉しくて。

「ほな…、好きにしたらええ」

 言いながら右腕を伸ばし、シロキの左手を取ったカイグチは、こんもりと盛り上がって山になった大きな腹に、小さな手を乗

せてやる。

 シロキはカイグチの腹に乗せた手をゆっくり、円を描くように動かして撫でていたが、

(係長…、あったかくて、柔らかくて、気持ち良い…)

 すぐに動きが止まり、薄く開いて頑張っていた目も閉じてしまった。

 眠りに落ちたスピッツの寝息を聞きながら、カイグチは天井を見つめる。

(恋心て…、こういうモンやったか…)

 自分には恋愛など縁が無いと思っていた。だがロップイヤーはスピッツの体温と感触を肌で噛み締め、ドックンドックン心臓

を鳴らしながら、

(なかなかええモンやないか…)

 このときめきと喜びは悪くないなと、ほんの少し口元を緩めて微笑した。

(なかなかええ………。あ、シロキの寝息が…!体温結構高い…!毛ぇポワポワしとる…!)

 ただし、雰囲気やら情緒やらをしんみり噛み締める余裕など全く無い。体は強張りがちで、全身からはダラダラと緊張の汗が

染み出て、背中と布団はじっとり湿っていた。

 

 

 

(まぁ、仕事は上司で先輩やけど、恋愛事情は初心者やさかい、至らんトコは直してかなあかんな…)

 自分でも意外なほど楽しかった温泉旅行を振り返り、腹をボリボリ掻きながら大欠伸して起き出したカイグチは、湯を沸かし

ている電気ポットの前で回想を打ち切った。

 アラームで余裕をもって起きた朝食前、シロキが淹れてくれた緑茶は酒漬けになった胃袋に染みるほど美味かった。

 帰りの電車に乗る前に入った蕎麦屋の、特段変わった所も無いかき揚げ蕎麦は、強く印象に残るほど美味だった。

 土産物を物色するのに慣れていなくて、結局シロキが選んだ湯の花や饅頭を、倣うように買い求めてしまった。

 名残惜しい気分で後にしたあそこにまた行ってみたくもあるが、シロキが提示する違う場所にも興味はある。

(たまの贅沢に二人で旅行するんは、ええ銭の使い道やろ。…せやな、旅行でなくともええんや。たまにはええとこで飯食わし

てやらなあかん。フランスやら中華やらイタリアやら、色々あるはずや。…詳しく知らへんけど…)

 同僚や部下、同期などから聞いた事がある店の名前は、垂れ耳の右から入って左に出て行っていたためうろ覚え。

(年上なんや。デートぐらいワイがリードしたらなあかん…)

 量がある大盛りトンコツにかやくを投入していたカイグチの手が止まる。

「で……………」

 口から出たのは一音。そのまま五秒ほど固まって…。

「デ、デデデデート!?デートやて!?」

 自分が思い浮かべた一語に過剰反応し、挙動不審になったロップイヤーのぼってり肥えた手がわなわなと震え、カップの外に

かやくを零す。

「いや落ち着け。落ち着かなあかん…!飯食いに行くんはデ、デートやないやろ!?…いやちゃう!ちゃうで!」

 そこで急に小声になり、カイグチはボソボソと零す。

「つ、つ、付き合うとるんやさかい、デデ、デートなんて普通やろ…!シロキが付き合うとった連中も、普通に、その…、デッ、

デートしとったんやろ…!?なんや、デ、デデ…デートくらい…。何でもないわ…!」

 人生で初めて口にしたデートという単語をすんなり言えないカイグチは、自覚は全く無いが、シロキがこれまで付き合った者

達を結構意識してしまっていたりする。

 なおカイグチの中でのシロキの元カレ達は、スピッツの後ろに腕組みしているシルエットがずらりと複数名並んでいるような

強者感漂う印象。妙な圧があるそれらが、常に余裕の薄笑いを浮かべている。顔も姿も知らないのだが。

 キノシマに改めて訊いておこうと心に決めつつ、カップにお湯を注いだロップイヤーは、チャイムの音で首を巡らせた。

(ああ。年末到着で頼んどいたプラモ、今日到着やったな)

 大きな声では言えないが、秘かに気に入っている他社製のマニアックなラインナップのプラモデルキットシリーズ。その新作

を年末年始に組み立てようと考えて予約していた。

 カップに蓋をするのも後回しにして台所から離れ、靴やサンダルを脱ぎ散らかしている玄関に出たカイグチは…。

「おはようございます係長!」

 ドアの向こうに立ってペコンとお辞儀した部下の頭と、その後ろで激しく振られている尻尾を見て、なんでや?と眉を上げた。

「…おはよさん。とりあえず中に入り」

「はい!お邪魔します!」

 まだ肌着姿のままだったカイグチが、玄関に入れてドアを閉め…、

「おっ…」

 バフッと抱きつかれて、戸惑ったように両手を宙に彷徨わせる。

「ん~!係長の匂い…!お腹もフカフカでムニムニ、気持ち良いです…!」

 太い腹部に腕を回してムギュッと胸に顔を埋めたシロキが、目を閉じて胸いっぱいに匂いを吸い込む。驚きはしたが、甘える

ようなスキンシップがまんざらでもなくて、カイグチはポリッと鼻先を指で掻く。照れた様子で視線を上に向けながら。

 あの旅行で、旅館を発つまでは何度もこうして体を触れ合わせた。後から思い返せば確実に恥ずかしくて赤面するのだが、シ

ロキは喜んでいるし、その顔を見ると胸の内側がポッと温まる。

「そないにええのか?ワイの腹…」

「はい!」

 シロキが迷わず即答し、話を振ったカイグチの方が赤面してしまう。

「それで、御飯に行きますか?スパに行きますか?すぐに出ます?タオルも支度できてます!」

「………」

 胸の所から見上げて来た部下の輝く笑顔を見下ろし、カイグチは伝えた内容にだいぶ勘違いがある事を悟った。

 会って話そうと言った。年末年始は暇だから飯でもスパでも良いと伝えた。が、突っ走るスピッツはそれを「年末年始は暇。

なのですぐに会おう」と言われたのだと解釈したようである。

「あんな、シロキ…」

「はい!」

 誤りを訂正しようとしたカイグチは、スピッツがブンブン振っている尻尾と、嬉しそうに煌めかせている目を見て思った。こ

れだけ嬉しそうにしているのに、期待を裏切るのは酷だと。

「…ワイはカップ麺に湯を入れとるトコやった」

「はい!お邪魔してすみません!」

「食うまで待ちぃ。飯はまた今度や。…それからスパ行くで」

「はい!」

 結局一緒に出掛ける事にしたカイグチは…。

「わ!これ絶版モデルじゃないですか!新品未開封!?えっ!?こっちの棚のフィギュア、今年の夏フェスで瞬殺になったレジ

ンキット!?うわ、凄い緻密なグラデーション塗装…!」

「ワイが他社の版権モンやら買うて遊んどるて、係の連中にはナイショやで?」

 玩具やプラモデル、フィギュアなどの箱が山積みになり、ショーケースに自作の品々が並んで手狭になっている居間へとシロ

キを通す。

 カイグチが友人も同僚も招いた事が無かった、このマニア垂涎の宝物庫に踏み入る事を許されたのは、シロキが最初の一人で

あった。

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