なるほど
「なるほど」
独眼の龍が顎を引く。
「なるほど!」
繰り返すイダテ。
「なるほど!!!」
「うるせぇ…」
仙台駅から程近い高級マンションの上層。顔を顰めてキッチンを覗いた褌一丁のイリエワニは、エプロン姿のホルスタイン
と龍が並ぶコンロ前に目を向ける。
「ニンニグの芯は、頭と尻切ったあど、爪楊枝の太い方でこいなぐ押し出して…」
「なるほど」
「匂いが気になっとぎは、一回レンジで蒸したりすっと弱まっから…」
「なるほど!」
「今回みでぐスライスして焼ぐ時は、少し焦げ目が付ぐが付がねぇがの辺りが目安です。香ばしぐなんのは焦げ目アリだげっ
と、火が通り過ぎっと一気に焦げっから注意してけさいん」
「なるほど!!!」
先ほどから「なるほど」しか言っていないイダテだが、ウジミネのレクチャーをしっかりメモに取っている。
「…意外どまどもに勉強してんだな…」
少し感心するイリエ。少しだけなので、半裸の鰐は尻をボリボリ掻いている雑な態度。
「フン!無論、ためになる事はしっかり学ぶ。お前もそっと書き足しておくがいい!心の備考欄にだ!」
スタイリッシュに上体を捻ってビシッと指差すイダテ。差されたイリエは会話を続けるのが面倒なのか、すぐさまリビング
へ引っ込んだ。
今日はイダテがウジミネを招き、料理の指導を受けている。題目はチキンとニンニクたっぷりのペペロンチーノ。なお、そ
れが終わったらイリエが漬け物のコツを教えて貰う予定。
パスタの茹で加減は勿論のこと茹で汁の塩加減まで、ニンニクや鷹の爪の処理の仕方からソースの作り方まで、微に入り細
を穿ちレクチャー中のウジミネ。得意なのは和食だが、乞われればメジャーな洋食も一通りは作れる。今回はイダテの希望で
パスタの扱いについての授業となっており、今後の授業でも芽キャベツたっぷりクリームシチュー、イカとホタテのシーフー
ドグラタン、野菜ゴロゴロ田舎ポトフなど、イダテ好みの洋物が予定されている。
「茹で汁を加えたオリーブオイルか…、なるほど!」
「スライスニンニグは細けぐ微塵切りにしても美味ぐなります。ただ、油とかまがしてる(掻き混ぜている)内に揚げだみで
ぐ狐色んなっけど、微塵切りだど焦げ付き易いがらスライスより短時間で済まします」
「なるほど…!」
「茹でだ後のパスタはもう加熱要らねんです。油がスッスど流れるぐれぇ暖まってれば良いがら、フライパンで具ど絡めっと
ぎは必ず弱火で。ジューって音が鳴るぐれぇだど火ぃ強ぇがら、一回消しても良がす」
「なるほど。パスタを上げた後は基本弱火で通して構わん、と」
「んです」
そんな調子で授業が進む間、イリエは漂って来る良い匂いを嗅ぎながらテレビを眺めている。握力強化グリップをギュッチ
ギュッチと握り込む鰐の体表は、うっすらと汗で湿っていた。
正直、意外だと感じる。イダテの性格、ウジミネの性格、噛み合いそうにない組み合わせなのだが、どういう訳か上手く回っ
ている。
基本的にイダテは上から目線である。大概の事が他人より巧くでき、何でも容易にトップクラスの腕前になる。かつて日々
を空虚に過ごし、世の全てを望洋と眺めていたのも、その万能さ故の事だったのだが。
そしてウジミネは大人しく、気が優しいと同時に気が弱い。イダテ相手には強く出難いだろうし、何か言われれば萎縮して
しまうのではないかと、イリエは感じていた。
(違い過ぎで、逆に擦り合わせが良いのが?)
まあ、従兄弟は何だかんだで他者の値打ちが判る男ではある。ウジミネの価値を尊重して接している部分もあるのだろう、
と鰐は考える。
何はともあれ…。
(変に弄ぐんねぇで教わった通りに覚えっと良いんだげっとな…)
心配なのは、今日習ったイダテが後日早速得意の自己アレンジ…もとい事故アレンジに手を出して台無しにしてしまう事だっ
た。
そんな心配をされている事などつゆ知らず、イダテはウジミネに教わってペペロンチーノを盛り付けながら、「円谷槿はど
んな料理が好きだ?」と尋ねた。
「え…」
トクンと胸の中で心臓が跳ね、ウジミネは戸惑う。どうして気にするのかは考えるまでも無い。ツブラヤを自分の物にする
と公言しているイダテなのだから、好みを探るのは当然の事だった。
「あまり食が良い方では無いようだが、アレはもう少しサイズアップを考えるべきだ」
軽く顔を顰めてイダテがそう続けると、ウジミネの胸は少し落ち着く。
「無論、体型を変えて相撲を取れとは言わん。ただ、リーチや歩幅などを考えれば、スタイルを変えない範疇で体を大きくす
べきだろう。理論上は、あのバランスのまま数センチ手足が伸びれば…、より手強くなる」
パスタにソースを回しかけながらイダテが語り、その内容に頷きながらも、ウジミネは自分の動揺の正体が判らず戸惑って
いた。
「氏峰牽牛。お前の料理は美味い」
「…へ?」
突然話が変わった気がして、ポカンとしてしまったウジミネは…。
「円谷槿もお前の料理ならば量多く食えるかもしれん。アレの為を思うならば、美味い飯を食わせて食を太くしてやる事だ」
イダテがそう続けて、「あ!は、はいっ!」と大きく頷いた。
ツブラヤの事を考えての発言。それに、なにやら胸のざわつき…あまり心地良くない感覚を覚えてしまった自分が、ひどく
矮小に思えてしまった。
「よし、どうだ?」
良い香りが漂う完成したペペロンチーノを前に、会心の笑みを浮かべるイダテ。
「ん!こんならバッチリです!」
笑い返したウジミネは、早速リビングへ皿を運ぶ。
「ふははははは!待たせたなナルミ!さあ!さあさあ!食え!食って感想を言うがいい!」
得意絶頂自信満々のイダテが、腰に片手をあて、もう片手に乗せた皿をズイッと突き出してイリエの鼻先に突きつける。あ
からさまに面倒臭そうな顔のイリエワニだったが…。
「…!」
スンッと香りを吸い込んだイリエの顔色が変わる。
「フハハハハハ!そうか判るか!この!絶品の!ペペロンチーノの!ペペロンチーノぶりが!」
パスタの絶妙な茹で加減は勿論、火加減にも気を配って熱を通したペペロンチーノから直接立ち昇る香りは、キッチンから
漂っていたそれとは桁が違う。胃袋鷲掴みの魅惑に抗えず、イダテが引いた皿と紐で繋がっているように腰を浮かせ、皿の動
きに合わせてフラフラと操られるように動くイリエ。
「どうやら見直したようだな!この!俺の!料理の!腕を!」
仲が良いなぁと苦笑いするウジミネ。
「では心して食うがいい!この!絶品の!ペペロンチーノをだ!」
かくして皿がテーブルに揃う。と…。
『いただきます』
ウジミネのみならず、意外と礼儀正しくペコッと神妙に頭を下げてから食事に取り掛かる龍と鰐。
「…ガーリックスライス、火の通し方一つでこうも化けるか…!」
唸るイダテ。フォークに巻き付け鶏肉と鷹の爪、ニンニクとソースを絡ませて食すパスタは、味見の段階とは比較できない
美味さ。茹で加減は完璧で、文句のつけようもないアルデンテ。適度な辛味とこんがり香るニンニクが食欲を増進する。
「………!」
一方イリエはパクリと一口かぶりつくなり、動きを止めて目を白黒させている。
口内に満ちた香りが鼻に抜ける。鼻腔の奥が舌同様に味を覚える。歯の間で潰れ易いサイズに小切りされた赤唐辛子が一瞬
ピリリと刺激を振り撒いたかと思えば、溢れた唾液に乗って広がりすぐさま馴染む。
パスタの歯応えは良く、ソースもしっかり絡み、皮つきスライスチキンとの絶妙な味のバランスは、完成形を見越して作る
経験と腕前による物。
「天才が…」
「そうだろうそうだろう!」
数秒前に「火の通し方一つで…」などと驚愕していた自分を棚に上げて得意げな顔のイダテ。「おめぇでねぇ」とそっけな
いイリエ。
とりあえず失敗しなかったと、ホッと安堵したウジミネは、自らもパスタを頬張りながら、ペペロンチーノに夢中になる二
頭をしばし満足げに眺めていた。
一方その頃…。
「なるほど」
隻眼の白犬が顎を引く。
「なるほど…」
畳の上に置いた我が足を見下ろすツブラヤの口元は、僅かに歪んでいる。
微笑み…ではない、忸怩たる想いに、口の端が自嘲で上がっていた。
その、仲間達にも見せた事の無い表情を眺めるのは、肉付きが良い丸い体の虎婦人。糸の様に細い目は、双眸を前髪に隠し
ながらも悔しさを仄かに滲ませるオールドイングリッシュの顔へ、じっと視線を注いでいる。
「適応したつもりが…。全て…慢心と勘違いでした」
ここは明方家の居間。旦那は店に出ており、居るのは明方婦人とツブラヤのふたりだけ。
卓袱台を端に寄せてスペースを取ったそこで、ツブラヤは大会の折に婦人から指摘された「癖」について、確認していた。
その結果判明したのは…。
「こうまで歪になっていたなんて…」
苛立ちと苦渋が滲む白犬の声。
構え、立ち、そして風の動きに入り、凪に至る。
その一連の動作を一度披露したツブラヤは、婦人に言われて二度目はゆっくり、支えの手を入れられながらモーションを再
現した。左右一度ずつ。
そこで婦人から指摘されたのは二箇所。
右の肩が左より僅かに上がっていた。動作の途中、立ち合いであれば相手とすれ違う一瞬、見えない右目側を、肩を上げる
事で無意識に守ろうとしていた。
さらに、相手に右側を晒す格好での風越しに限り、内側の歩幅が僅かに狭くなる。
死角への恐怖は克服した。だが、フォームには無意識の庇い癖がついていた。
視界が減じる前と遜色ないレベルまで持ち直したと考えていたのは、自分の甘さ。
そう認識して疑いを一切差し挟む事もなかったのは、自分の慢心。
全て自身の不明が原因だと悔やむツブラヤに、
「真面目ですね。そして、厳しい」
婦人は微笑んでいるような顔を崩さず語りかける。
「いいえ、単に余裕がないだけです…」
意識して冷静さを取り戻し、ツブラヤは応じる。その言葉は謙遜ではなく、彼自身の本心である。
体格に恵まれている訳でもないツブラヤが土俵で勝負するには、持っているあらゆるモノを自分の強みとして最適化し、武
装する必要があった。
技術と速度に特化したそのスタイルは、強者の目を奪うほどの完成度を持ちながら、しかし見た目の優雅さに反して余裕が
ない。
ひとを惹き付けるのは、無駄を削ぎ落として研ぎ上げたソレが、機能美すら有する域にあるからに他ならない。そう、一振
りの打刀のように…。
刃紋に生じた僅かな曇りを見逃した。そんな己に憤ったのは、ツブラヤが自身のカタチに強い愛着を持っているからこそ。
敬愛する伯父に名付け親となって貰い、これまで共に土俵を駆けたカタチの、不調に気付いてやれなかった自分を悔やんだ。
「そういう性格だから、なんですかねぇ」
ポツリと婦人が漏らした。
「人付き合いが得意でないあの子が、貴方にはすぐ懐いたのは」
「………」
ふぅ、と小さく息を漏らしたツブラヤは、その直後には普段の顔に戻っている。
「済みません。もう一度確認したいのですが…」
「ええ、構いませんよ」
屈み、立ち合いの姿勢を取ったツブラヤの脇に婦人が立つ。
ゆっくりと動き出すツブラヤ。その体を、胸の下に太い腕を入れて婦人が支える。相撲取りとしては軽量とはいえ、少年一
人を片腕で軽々と支えるその膂力は、間違いなくアケガタの製造元である事を如実に物語っていた。
本来なら高速であるが故に保たれる姿勢を、婦人が手を添えて維持する。その途中でツブラヤは正確に把握する。右肩の高
さに12ミリのズレ、それによる正中線の歪み、歩幅の不均衡による重心の意図せぬ移動ブレ…。
「…ここまでとは…」
風越を見つめ直しただけでツブラヤは理解した。他の動作、技術、運動の全てに、これと似た不具合が生じている事を。
「大変参考になりました。有り難うございます」
深々と頭を下げたツブラヤに、「なんの」と応じた婦人は、おもむろに壁時計を見遣って耳を立てた。
「丁度三時です」
直後、ポーン、ポーン、ポーンと時計が鳴る。
婦人はツブラヤに目を向け直すと、にっこりと柔和に微笑んだ。
「つまり、オヤツ時です」
昼食の片付けを終え、昆布と鷹の爪を使ったキュウリの一本漬けのコツをイリエに教えたウジミネは、三時のオヤツにマカ
ロン…イダテに取られないよう隠していた秘蔵の品を振舞われていた。
なお、レシピの鷹の爪がペペロンチーノと一本漬けで被ったせいで、後日の深夜に残り二分の一本の在庫をイダテとイリエ
が奪い合う事になるのだが、この時はまだ誰も想像すらしていない。
「和風パスタなども覚えたいところだが、レパートリーの面から言うならば汁物も良いか」
授業依頼計画を立てるイダテに対し、「ん。オラが作れるモンなら何でも…」と頷きかけるウジミネ。
「クラゲの酢の物どが、作り方知ってっか?」
イリエからの問いかけにウジミネはコクンと頷いた。「知り合いのおばちゃんがら教えで貰ったがら、でぎます」と。
嬉しかったのか、太い尾の先端でヒタンヒタンッと床を打つイリエ。微笑んで、歯触りのいいマカロンのストロベリークリー
ムをじっくり味わうウジミネは…、
「…ムクちゃんもこういう菓子好ぎだべが…?」
ポツリと、我知らず呟いていた。
(ムクちゃん、菓子は好ぎだっちゃね?)
先ほどイダテも指摘したツブラヤの食の細さについて考える。
頑張ってもっともっと美味しい物を作ったら、沢山食べてくれるだろうか?甘い菓子などを作ったら、喜んで食べてくれる
だろうか?
あれこれ想像してみるウジミネの、少し緩んだ顔を、
(…フン…)
イダテは何も言わずに見つめていた。
「ツブラヤ君は」
煎茶を共に最中を食べながら、戻したテーブルを挟んで座る虎婦人が口を開く。
「あまり、食べる方ではないですねぇ」
「ええ。胃の容量もあるんでしょうが、食欲が旺盛な方ではありません。ただ…」
極端に脂肪がつきにくい体質で、常態的に確保しておけるエネルギー量が少ないため、ちょっとしたカロリー補給用に菓子
類を持ち歩く事が多いのだとツブラヤが告げると、婦人は「あら羨ましいですね」と、力瘤を作るように右腕を上げて、左手
で二の腕の皮下脂肪を摘んでみせる。
「私なんて頼まなくてもお肉がついてきますよ」
冗談めかした婦人に微笑を返し、「けれど、ふくよかなご婦人も素敵です」とツブラヤは述べる。
「こう言うのが適切かどうか判りませんが、「お母さん」という感じがします」
「褒め方が上手ですね」
柔和に微笑む明方婦人。
「それなら良かった」
笑みを深くするツブラヤ。
それから数秒会話が途切れて…。
「大変ですね」
「慣れました」
婦人の呟きにツブラヤが応じる。
意識しなくとも贅肉がつきにくく、引き締まる体。それはある種の理想形ではあるが、限度がある。先ほどツブラヤの体に
触れた婦人は、本人の説明とあわせて理解していた。
体脂肪率が、本番直前の調整されたアスリートの体と変わらない少年…。その備蓄を知らない肉体は常時臨戦態勢である一
方で、成長に割くためのエネルギーが不足しがちになる。
多くの者がただ「強い」と評価する円谷槿。だが、彼が様々な不足を補った上でその域に在る事を知る者は少ない。
婦人は静かに尋ねる。
「どうして相撲をしようと思ったんですか?」
「………」
ツブラヤは垂れ耳の基部を立て、少し考え、
「気付けば、相撲を取ろうと決めていました。あるいは…」
フッと、口元を緩める。
「そういう血なのかもしれません」
「氏峰牽牛。「こづゆ」という郷土料理は知っているか?」
「んも?アイヅの…すか?」
「そうだ」
キッチンに戻り、洗って乾燥させた食器を一度片付け、二時限目の授業…夕食の支度に取り掛かりながらイダテが言う。
「ナルミにとっては故郷の料理だ。もし作り方が判るなら、奴が居ない時に教えて貰おう」
「そいづは良がすけども…」
ウジミネは耳を伏せて首を傾げた。時折、明方家にお邪魔した際に婦人から振舞われる事があるので、材料も作り方も教え
て貰うのは簡単だが…。
「何でイリエ先輩が居ねぇどぎなのすか?」
「サプライズというヤツだ氏峰牽牛。誕生日にでも驚かせるために、密やかに完璧に仕上げたい」
ウジミネの尾がフサッと揺れる。イダテとイリエの一見すると互いに雑な態度はその親密さ故の物…、自分達兄弟のような
絆なのだろうと考えて。
「何せあの通りの男だ。彼女もおらず、女子にモテるナリでも顔でもない。誕生日の祝いぐらいは喜べる事があっても良いだ
ろう」
「モデねぇのすか」
「モテると思うか?あの顔体で、だ。そもそもアレは色恋に興味を持たない、まだまだお子様な精神年齢だがな。ククク…!」
含み笑いを漏らすイダテ。伊達衆が居れば全員揃ってイダテの精神年齢を糾弾するところである。
「ところで氏峰牽牛。お前はどうだ?」
「へ?」
問われたウジミネは、しかし一瞬何が「どう」だと訊かれたのか判らず、しばし考えて…。
「「想い人」だ。居ないのか?」
問いを重ねられてハッとし、次いで表情を堅くした。
「お、オラにはまだ、そういうの早ぇですから…!」
顔をカッカと火照らせながら俯き、フライパンをクルクルと無意味に回すウジミネ。その様子を眺めたイダテは…、
「フン。そうか」
それ以上、何も言わなかった。
てくてくと、夜道を行く。
婦人から意見を貰い、散見される癖をほぼ全て確認したツブラヤは、虎猫旦那の強い勧めもあって明方家で夕飯までご馳走
になってから、帰路に着いた。
魚介を中心とした夕餉は、もてなしも込めて普段より豪勢になっていたのかもしれないと、ウニとイクラの海鮮丼の味を思
い出す。
自分の息から磯が香を鼻に感じ、ふと立ち止まったツブラヤは夜空を見上げる。
農道の中、灯りの少ない空には星が多い。
いつものように手を伸ばす。指の隙間に星を遊ばせ…、
「……っ!」
瞬間、指の間で瞬く星を握り潰すように、平手は拳に変わる。
「…それでも、僕は手を伸ばす…!」
少年が浮かべたその表情を見る者は居ない。
切迫した、余裕のない、硬く鋭いその貌を、ツブラヤは誰にも見せはしない。
ことことと、電車が揺れる。
仙大から離れるほどに乗客が減って、座るウジミネの向かい側にはもう誰も座っていない。
暗闇の中を滑ってゆく景色に、時折ライトや看板が明るく浮き上がる。
―「想い人」だ。居ないのか?―
イダテの声が耳元に舞い戻り、ウジミネは俯いた。揃えた脚に目を落として思い出す。
あの時、「想い人」と耳にして脳裏を過ぎったのはツブラヤの顔だった。
(何で…)
ドキドキと、胸が鳴る。
違う。そうじゃない。自分は彼にそんな目を向けてはいない。
(感謝どが…、恩どが…、尊敬どが…、そういうモンで…)
困惑しながらも、自分に言い聞かせるように、ウジミネは何度も何度も胸の内で繰り返した。