めちゃく~る

 

 ドザァっと土煙を上げ、虎が胸から土俵に突っ伏す。

「はたきこみ」

「いぇーい」

 審判の青い猫が手をサッと上げ、勝った黄色い犬がパチンとハイタッチし、選手交代で東の顔が入れ替わる。

「おっし、もう一丁!」

 打った顎を軽く撫でて土を拭い、身を起こしたアケガタは、休む間も挟まずに位置へ戻った。

 既に体中土まみれ。息は上がって全身汗だくで、疲労の色は傍目にも濃いが、闘志がいささかも萎えていない事は目を見れ

ば明らか。

 ゴトウに代わって仕切り線の向こうについたハラダは、自分よりも遥かに身体が大きい虎をつぶさに観察し、次の休憩まで

の本数を数える。

(あと二本は)

(行けるだろ)

 ゴトウとハラダの見解は一致。一戦ごとに犬猫だけが交代しながらの稽古は続く。

 場所は瑞鳳。イダテが使っていた旧道場。

 旧とはいえ設備は活かされたままで、使用に支障はない。土俵も整備され土も替えられ、鉄砲柱もまだまだ現役。二十人か

らの稽古を想定して建てられた古強者は、造りこそ古いが地元大工入魂の道場。一線を退いてなお若人の稽古を受け止める。

 ウジミネがイダテに料理を教えにゆき、ツブラヤが明方婦人に癖の事を訊きに行ったこの日、アケガタはゴトウとハラダの

二人がかりで、朝から徹底的にしごかれていた。

 稽古内容は、基礎で体を解した後はひたすら実戦形式の立ち合い。犬猫コンビは交代するが、アケガタはぶっ続けで土俵に

立つ。スタミナの面でもキツい稽古だが、それでも向こう傷の虎は、伊達衆二名から合わせて、百二十戦中六本奪っている。

「くあっ!」

 掛けられた足に躓く格好でバランスを崩した虎が、小回りで上を行った猫に側面から当たられた。寄る…というよりは体当

たり。重いとは言えず大きいとも言えないハラダの体は、尋常ではない重心移動と体捌きにより、至近距離からの密着という

動作を「一個の塊となって加える打撃」に変える。

 至近距離から一点集中の衝撃に近い当たられ方をして、押し倒される格好で膝をつくアケガタ。だが…。

(また追いついて)

(来たみたいだな)

 ハラダのマワシが一枚乱れ、大きく垂れ下がって太ももに掛かっていた。

 雷の眷属たる二頭に、アケガタはスピードで大きく劣る。最大速度も加速力も、機敏さでも運動性能でも。有利な要素であ

る体格、体重、筋力は、捕まえなければ活かせない。相手に触れない限り、見た目の上で有利で強そうなアケガタは優位性が

零である。

 ところが、虎の爪は稀にだが、雷にその先端を引っ掛ける。スピードは負けたまま、機敏さで水をあけられたまま、縦横無

尽に閃く雷に触れる。

 それは決まって連戦後半の、アケガタがバテる寸前での事。ゴトウとハラダから勝ちをもぎ取った数番は、その全てが力尽

きて休憩に入る直前付近だった。

 入れ替わりでゴトウがアケガタと向き合う。息が乱れたアケガタの顔を見上げ、血色良く染まった向こう傷を見つめ、黄色

い犬はニヤリと笑った。

(そろそろ)

(頃合い)

 屈み、構え、睨み合う。

 そして土俵に拳が四つ。

 パツッ…と、電流が地表を伝うイメージをアケガタが抱く。派手な音も無く、蹴りつけた土をあまり乱さず、大きいとは言

えない犬の体が急激に動き出し、脇に喰らい付く。

 立ち合いで胸をしっかり合わせず、当たりながら打点をずらし、互いの体表を滑らせるように移動して密着、体ごと側面に

ひっついてマワシを取るゴトウ。当たり勝ったと見えて実際には突進の最中にまとわり付かれる形になったアケガタは、踏み

締めて制動をかけようとしたが…。

 パツッ…。今度は自分の体を這う雷のイメージ。踏ん張ろうとした足へゴトウの片足が素早く巻きついてくる。掛け手を喰

らいつつ、しかしアケガタは…。

(取った!)

 右脇へひっついたゴトウのマワシを、肩の上から背中に腕を回して掴んでいた。

 立ち合いから大きく踏み込む、たったそれだけの刹那の攻防。余人に反応を許さない地の黄雷に、焔の腕が追いついた。

(やっぱコイツ)

(おもしろい!)

「でぇい!」

 吠えたアケガタが腕一本で上手投げ。荷物のように手挟んだゴトウを背中側から吊り上げる強引な手だが、半ば抱える形に

なっているが故に、その機動力での脱出も阻まれる。

 パチン、と弾ける放電のイメージ。ハッとしたアケガタの右太腿に、ゴトウのもう一本の脚が追加で絡んだ。

(マジか!?)

(マジだ)

(大マジ)

 投げの途中、まるで木にしがみつくように両脚でしっかりと足絡みを決められたアケガタは、上手投げの勢いが踏ん張った

自分の足で減衰させられ、バランスを崩す。しかし…。

「ぬがっ!」

 喉から絞り出す一息。虎の体躯は残りの足一本で重心をコントロールし、崩れゆきながらもゴトウを下へ押し込めて…。

 ドシィン…、と土俵が震え、『グエッ!』と、審判のハラダまで潰れたカエルのような声を漏らす。

 軍配はアケガタ。ギリギリのところで雷を押し潰し、見事勝ち星を一つ増やす。が…。

「ぶはっ!はぁ!はぁっ!ぜはっ!」

 堪えが利かなくなり、倒れこんだまま喘ぎ始める虎。ついにオーバーヒートである。

「では」

「休憩」

 一戦ごとに交代していたとはいえ、ゴトウとハラダも三十分の連続立ち合い。さすがに息が上がっている。

「そら飲め」

「口すすげ」

 よたよたと土俵を降りてきたアケガタに、常温に近くしていた水をヤカンからコップに一杯注ぎ、飲ませてやる。

 冷たくは無いが、レモンの輪切りから溶け出した果汁が清涼感をもたらす。喉を鳴らしてすぐ飲み干したアケガタが物足り

なそうな顔をするが、ゴトウとハラダはそれ以上与えない。喉の渇きは時間差で潤う物なので、飲み過ぎを予防する小分けに

した飲ませ方である。

「まあ座れ」

「勉強の時間だ」

 アケガタを監督席の縁に座らせ、犬猫コンビは左右から言葉を連ねる。

 技術的な事や取り組み中でのポイントにも触れるが、二頭が主題とするのは…。

「実感は」

「できたか?」

「ああ、何となくだがよ…」

 アケガタはポリポリ頬を掻く。「確かに、バテてきた時の方が捕まえ易い気がするぜ」と。

「…「俺の方」がバテた時、な」

 揃って頷く犬と猫。

 スタミナに余裕がなくなり、疲労で身体が重くなる。するとアケガタの動きに変化が生じる事に、ゴトウとハラダは気が付

いた。朝からの稽古を通し、今日初めて知った事である。

 アケガタが疲労すると、本能が乏しい余力と落ちた出力を補おうとするのか、体と動きが状況へ「最適化」される。無駄な

挙動が削られて手足の軌道が理想的になり、伸ばさなくて良いところでは下手に伸びないので、手足が正中線に近いポジショ

ンを維持し易くなり、結果としてバランスも良くなる。

 頭で考えての事ではなく、体の経験則に基いた調整らしく、アケガタは口で説明されても、やってみろと促されても、自発

的にはちっともできないのだが…。

 もしも万全の状態…最大出力でこの「最適化」が為されれば大幅なアップデートとなる。それは技術を高めて筋力を上げる

ような「上積み」ではなく、土台そのものの強化であり、これからの伸びにも、これから学び会得する事柄にも、大きく影響

を及ぼすはずだった。

 体を休めつつ口頭指導で学んだら、また連戦稽古が再開される。

 伊達衆ふたりを独占し、丸一日付きっ切りで稽古をつけて貰うという破格の待遇。厳しさは半端ではないが、アケガタにし

てみれば願ったり叶ったりの贅沢な猛稽古。

 稽古と休憩を繰り返し、夕暮れ時になると…。

「精が出ますね」

 と、新道場の方で一年生達の自主連に付き合っていた灰色狼が、ジャージに着替え終えた格好で顔を出した。

「一年生は皆帰しましたし、新館の方は施錠しました。そろそろ切り上げては如何でしょうか?」

「わかった」

「そうする」

 ゴトウとハラダが頷き、アケガタを促して神棚に礼をしている間に、クラモチは監督席へスポーツドリンクを三本置いた。

結露した表面が、今しがた冷蔵庫から出したばかりである事を窺わせる。

「ご希望の品が入りましたので、ここへ置いてゆきます」

『サンキュー』

 喉も渇いて疲れているアケガタは、礼が終わるなりさっそくドリンクを飲みにゆき…、

「ん?シャンプーか?」

 クラモチがドリンクと一緒に置いた薬局の袋を覗き、プッシュ式のヘッドを確認する。

「はい。おふたりからお勧めは無いかと訊かれておりまして。我が弟も愛用している銘柄をご用意させて頂きました」

 答えるクラモチは何故かいい笑顔。

「ふぅん」

 取り出してみるアケガタ。ボトル本体はラベルのデザインでペンギンになっており、「めちゃく~る」と、全くクールでは

ない丸みを帯びた太字で商品名が記されている。どちらかというと歯磨きチューブにでも使われそうな、曲面に光沢がデザイ

ンされた円筒文字である。

 虚ろな目がそこはかとなく軽い狂気を感じさせるペンギンボトルと見つめあった向こう傷の虎は、先に退去する失礼を堅苦

しく詫びて挨拶するクラモチを見送ると、ゴトウとハラダから…。

「それ」

「お前用」

 と告げられて「あ?」と顔を顰めた。再び見つめあう虎とペンギンボトル。

「要らねぇって。こんなガキっぽいの」

「デザインは」

「おいとけ」

「性能は」

「一級品だ」

 言いながら歩いて来るゴトウとハラダは…、目が据わっている。

「それを」

「使っている」

「ジュウの弟」

「ヨイチは」

「体臭が常に」

「クールミント」

 ゴトウが更衣室側のドアを開け、ハラダがアケガタの尻尾を掴む。

「さあ」

「いよいよ」

「稽古の」

「仕上げだ」

「ああ?ストレッチとかか?」

 尻尾を引っ張られて更衣室へ向かいながら首を傾げたアケガタに、二頭は声を揃える。

『ストレッチじゃなくウォッシュ』

「うぉっしゅ?」

「これから洗う」

「徹底的にな」

「はっきり言って」

「お前くっさい」

「ぶっちゃけると」

「超くっさい」

 歯に衣着せぬノンオブラート糾弾に、心外だという顔でアケガタが反論。

「ああ?ケンゴもムクもあんま気にしてねぇぞ?」

 気にしている。

「ツブラヤや」

「ベゴっ子は」

「慣れて多少は」

「耐性あるんだろ」

 尻尾を引っ張って更衣室へ連れ込んだハラダの後ろで、ゴトウが戸を閉めて鍵を掛ける。逃がさない構えの双雷。

「アラオ主将だって別に…」

 そう。毎日会っている訳でもない、頻度から言えば慣れるほど馴染んでいないはずのアラオも、別に指摘しない。それでも

アケガタと取っ組み合って体臭を気にしないのは…、

「あっちの体臭も」

「相当だからな」

 そう。実はアケガタほどではないがお世辞にもフローラルとは言えず、土と枯葉が細かく砕かれて混じって巨体の隅々まで

染み込んでいるかのようなおっとこスメルを纏っているからである。流石に虎ほどの刺激臭ではないが、どちらかと言えば加

齢臭。少なくとも若人の匂いではない。

「…臭ぇか?アラオ主将」

『判らないのか?』

 流石のゴトウとハラダもこの問いには真ん丸く目を剥いた。

「とにかく」

「いい機会だ」

「きみが」

「ないても」

「あらうのを」

「やめない」

 やると言ったらやる凄みを窺わせる二頭。面倒臭そうな顔で拒否しようとしたアケガタだったが、ハラダが尻尾をきつく掴

んで離さないので、渋々従ってマワシを解き、シャワールームへ足を踏み入れる。

「では開始」

「まず座れ」

 並んだシャワーから二つ取り、アケガタを左右から挟むゴトウとハラダ。大きくない二頭では大柄なアケガタを洗い難いの

で、座らせた上で湯を掛け始める。

 パッパパッパと手際良く、汗と砂粒にまみれた体を洗い流したら、

「揉むぞ」

「覚悟しろ」

「揉む?」

 首を傾げたアケガタの逞しい腕を掴むと、臭いの元である皮膚のケアのため、ゴトウとハラダは揉み洗いに入る。皮脂や汚

れや雑菌を揉み出すように洗う二頭の手は、そのまま筋肉マッサージにもなっており…。

(なんだこりゃ?気持ち良い…)

 渋々従ったはずが、トロンと顔を弛緩させてされるがままになるアケガタ。

 大人しくなった虎を、太い首回り、腕を上げさせて腋の下、肘や膝の裏側、踝など、とにかく汚れがたまりやすいところか

ら優先して狙い撃ちしつつ、向きを変えさせたり寝転ばさせたりしながら、指先尾の先耳の先までしっかり洗った二頭は…。

「バナナが」

「たった」

 ペンギンボトルからギッチョギッチョとボディソープを出し始めていたゴトウも、シャワーを片方止めたハラダも、揃って

手を休めて、座り直させたアケガタの股間を凝視した。

「エッチな事でも」

「考えたのか?」

「ああ…?何も考えてねぇぞ…」

 正確には気持ち良過ぎて何も考えられないアケガタは、

「アラオの事でも」

「考えたのかと」

 二匹の言葉でピクンと、水滴を飛ばす勢いで耳を立てた。

「な、何でアラオ主しょっ!?」

「好きなんだろ」

「知ってるぞ?」

 ニヤリと笑う犬と猫。尻尾をクイッと立てて物凄く正直に興味あります顔…、いうなれば「○○さんちの△△ちゃん、□□

君とつきあってるんですって!」と井戸端会議に花を咲かせる団地のおばちゃん顔である。

「す、す、好きってそりゃ…!」

 ドギマギしながら腰を浮かせかけたアケガタは、『座ってろ』と肩を上から押されて座り直す。

「そこで朗報」

「このソープ」

「洗えば不思議」

「もてもてく~る」

「…そのペンギンがかよ?」

 虚ろな目のペンギンを胡散臭そうに見るアケガタ。

「デザインは」

「おいとけ」

「性能は」

「一級品だ」

 ゴトウは手に取ったボディシャンプーを擦り合わせて泡立てると、アケガタの鼻先に近づけて改めてクールミントの匂いを

確認させた。

「毎日使えば」

「ダンディズムが」

「レベルアップ」

「どんなアラオも」

『一発だ』

 根拠無く言い放つゴトウとハラダ。しかしその態度があまりにも自信満々で、断言も確信に満ち溢れていたので…。

「…一発か…」

 即座に言いくるめられるアケガタ。例によって時々無防備に洗脳される虎である。

「………一発か…」

 虚ろな目のペンギンボトルを難しい顔で見つめ、年頃の若人らしく体臭ケアについて考え始めるアケガタであった。


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