勘違い

 

 自動車道降り口傍に建つ、総合商業施設内。

 ワゴンセール品をアピールしている旗が目立つ薬局で、でっぷりしながらも腕や脚は逞しく太い、体格がいい年増の豚が険

しい顔をしていた。

(安い。が、心付けに割引品というのはどうだろうな?)

 白滝相撲部への支援品としてコールドスプレーやサポーターなどを贈ろうと考えているOBのヒラヤマは、安い物で済ませ

るべきか否か悩んでいた。貰う側としては使えればいいし量が多ければ嬉しいだろうが、贈る側の姿勢としては如何な物かと

考えてしまう。

 とりあえず、安さから目を引いたワゴンから一旦離れ、一般陳列のコーナーへ足を向けたヒラヤマは、並んだ商品の若々し

いデザイン群を眺め回す。

 涼しげなスカイブルーに、白と青のメリハリがついたツートーン。見栄えのいいスプレー缶が何種も置いてあるが…。

(私らの時には、こんなにたくさんの種類は無かったんだがな…)

 一つ手にとって見つめるヒラヤマ。デザインは多少変わったが、それは彼の現役時代からある、大手メーカーのスプレーだっ

た。

(…あの頃はまだ珍しかったが…。そうだ、あの騒ぎは確か…、スプレーがきっかけだった…)

 佇みながらスプレー缶のメーカーロゴを見つめて、ヒラヤマは一時、高校時代に立ち返る。

 思い出すのは、決して愉快ではない、しかし忘れられない出来事…。

 

 

 

「何の騒ぎだ!?」

 目を吊り上げて怒鳴った豚の大声と剣幕に、少年達は身を竦ませ、反射的に背筋を伸ばした。

 熱気漂う夏の稽古場。三年生が引退し、二年生がリード側に立ってからまだ日も浅い、夏休み前のうだるような暑い日の事

だった。

 夏休み中の活動における事故やトラブルへの注意喚起を呼びかける、各部の活動責任者を集めた生徒会議を終えて、気を引

き締めて部活に出たヒラヤマが稽古場で見たのは、うつ伏せに突っ伏して呻いている一年生と、それを取り囲んでいた他の部

員達の姿。

 怒号に驚き固まっている部員達の向こうでは、監督席後ろの壁に掲げられた「不撓不屈」の垂れ幕が、扇風機が回した風で

揺れている。

 クリーム色の薄い被毛を透かし、真っ赤に染まった憤怒の顔で、ヒラヤマは再び怒鳴った。「何をした!?」と。

「いや、何って…」

「………っす…」

 部員達は小声でボソボソ言うばかり。二年部員も居るのだが、ヒラヤマの剣幕にたじろいで要領を得ない。

「おい!どうした!?大丈夫か!?」

 突っ伏している部員の傍に屈み、声をかけたヒラヤマは、白犬の一年生が、切れ長で形の良い目いっぱいに涙を溜めている

事に気付いた。

 顎を地につけ、両手は体の下に入り、尻を上げて股間を押さえている。鼻の奥が冷えるようなハッカの匂いが漂っている事

に少し遅れて気付いた。

 稽古中に股間を打ったのか?と一度考えたヒラヤマは、しかし違和感を抱いて思い直す。

 マワシは派手に緩んでいる。しかしその解け方は、稽古で乱れる見慣れた解け方とは違う。

「…何をした!?」

 一年生の傍に跪き、その背中に手を当ててやりながら部員達を睨み上げて、ヒラヤマはまた怒鳴った。

 その白犬は、都会っ子のように発音も綺麗で、毛並みも良く、毛色も雪のように美しくて、やや高めの背に締まった体つき

もあってシュッとスマートな印象の後輩だった。

 少し早口気味な所をたまにからかわれていたが、皆から嫌われていた訳でもない。暴行を加えられるような後輩でもないし、

虐めるような部員も居ない。…はずだったのだが…。

 ヒラヤマは立っている部員達に何があったのか話させようとして、ひとりが手にしているスプレー缶に気付いた。

 鼻の奥が冷えるような香りと、その缶が結びついた。

 何が起きたのか問い詰めると、その部員はようやく白状した。

 悪ふざけして、ソイツのキンタマにコールドスプレーかけたんです。と…。

「お前っ…!」

 また怒鳴りかけたヒラヤマは、判らなかった、知らなかった、と弁解する部員達を前に、ギリリと歯を噛み鳴らした。加害

側は本当に知らなかったのだが、コールドスプレーを秘所に吹きかけられた一年生は、灼熱感とヒリつく痛みで言葉も出ず、

嗚咽を漏らす有様。

 何故そんな事を?どうしてそんな真似を?

 ヒラヤマが追求すると、部員達はポツリポツリと事の顛末を語った。

 その白犬の部員は、見目の良さもあって女子から人気があった。他校の女生徒と付き合っているという噂はヒラヤマも耳に

挟んでいたが、学生としての生活を崩すような事もなく、部活にも真面目に参加していたので、噂が本当でも間違いでも別に

いい、というスタンスだった。

 だが、一年生部員の中には軽く羨ましがっている者も居たらしい。白犬が親から与えられたコールドスプレーを珍しがり、

皆で少し使ってみたついでに、ふざけて白犬の股間に噴射した。

 飛び上がったその反応を面白がって、繰り返した上で、エスカレートしてしまった。手足を押さえつけてマワシをずらし、

陰嚢と男根へ直接噴霧し、声を上げて暴れる白犬の反応を面白がった。

 二年生は軽くしか止めなかった。悪ふざけと受け取っていた。

 だが、悪ふざけでは済まなかった。

 苦しみ出した白犬の声の変化に、最初は誰も気付かなかった。嗚咽混じりの苦鳴に変わって、やっと異常を察した。

「お前ら…、キンタマに湿布とか貼るか…?口にキンカン塗った事あるか…?」

 激怒で真っ赤に染まったヒラヤマの問いに、数名が「あ」と反応した。

 いつの間にか、白犬の呻きはすすり泣きに変わっていた。

 苦痛もあるが、屈辱も、ショックもある。

 ヒラヤマは後輩に肩を貸して、更衣室に連れて行き、股間を綺麗に流すようにとシャワールームへ入れてから、部員全員へ

説教した。

 

 白犬が部活に来なくなったのは、その翌日からだった。

 不思議がる顧問にどうかしたのかと問われ、隠す事もできず正直に報告したが、悪ふざけを軽く咎めるだけで、それ以上の

事はしなかった。

 ヒラヤマは落ち着かなくて、部活が終わってから後輩の家へ足を運んだ。

 曖昧に言葉を濁して、なかなかウンとは言ってくれなかったが、何日も何日も根気強く通って復帰を促した。

「アイツらもそんなに悪いヤツじゃねぇから」

「もう気にすんなよ」

「ヤな奴ばっかじゃねぇし」

「悪ふざけだったんだ。誰もお前を嫌ってなんかねぇから」

 そう言って、戻って来てくれと頼み込んで、一学期の終業式前日に…。

「決めました。…主将には迷惑ばっかりかけちゃいましたけど、やっと決心できました」

「そ、そうか…!」

 ようやくハッキリした声を聞けて、ホッとしたヒラヤマは、玄関まで見送りに出た後輩から礼を言われた。

「ぼく…、主将みたいな先輩と知り合えて良かったです」

「…持ち上げんな、照れっから…」

 照れて頬を赤らめ、ヒラヤマは豚鼻の先をポリッと掻いた。

 後輩の恥かしそうな笑顔は、何故か少し寂しそうに見えて、少し不思議だった。

 

 退部届けは、翌日の終業式前に提出された。

 

 

 

「ふぅ…」

 ため息をついたヒラヤマは、手から体温が移ったスプレーを棚に戻す。

 あの時後輩が決めたのは、部を辞めるという事だった。

 それを勘違いして受け止めたヒヤヤマが、その翌日、顧問から後輩が退部したと聞かされて受けたショックは大きかった。

 夏休みが近い。主将と顧問が居ない。そんな状況での開放感から羽目を外した一部の部員達が悪ふざけに及んだ結果、仲間

がひとり永久に来なくなる、という結末に至った。

 判り易い暴行ではなかったが、それは確かに「虐め」だった。やった部員達は悪ふざけのつもりでも、程度という物がある。

あの後輩にとってあの事件は、限度を越えた仕打ちだったのだと、今のヒラヤマは理解している。

 幾度か、もう一度話し合って部に戻るよう説得しようかとも思ったヒラヤマだったが、本人の気持ちを考えれば、もう稽古

場に戻りたくはないだろうなとも思えてきて、結局卒業するまで二度とその後輩と落ち着いて話をする機会はなかった。

 後から判った事だが、その後輩が他校の女子生徒と交際しているというのは、根も葉もない噂だった。帰宅部になってしば

らく経って年度も変わってから、一つ下の後輩に告白されて付き合い始めたのが初の交際。その交際がその後も続いたのかど

うかは、ヒラヤマは知らない。廊下ですれ違えば会釈されて、「よう」などと声をかけたりもしたが、まともに会話した事は

無かった。

 目立つ戦果こそ無かったが、失敗らしい失敗もなく、安定して部を引っ張ってバトンを渡した…。主将としてのヒラヤマは

そう評価されているが、本人はそう思っていない。あの事件は自分の失敗…、指導力もカリスマも無かったが故に招いた事な

のだと考えている。

 成果を出せなかったのは自分の力不足、その部活動に後悔は無いのだが、後から思い返して悔やむたった一つの事があの事

件だった。

 あの時、部に戻ってくれるよう後輩に話す間、自分はずっと他の部員達の肩を持つような事ばかり言っていたと後で気が付

いた。あの後輩にはきっと、主将までが他の部員の側に立っているように見えていただろうと、自分の言動を悔やんだ。

 あの時、もしもそこに気付いていたら、後輩が自分を味方だと受け止めてくれたら、結末は変わっていたのだろうか?

 あれからそう何度も自問して、未熟だった相撲部主将は、今では工務店の皆から頼られる専務になっている。

「…ふぅ…」

 アイツは今どうしているのだろう?あの日玄関先へ見送りに出てくれた後輩の顔を思い出しながら、ため息を漏らしたヒラ

ヤマは…。

「お疲れですか?」

「ん~…。ん?」

 傍らからかけられた声を店員の物と一瞬誤認し、それからハッと顔を巡らせた。

 三歩ほどの間を空けて立っているのは、オールドイングリッシュの少年だった。

「またお会いしましたね。こんばんは、旦那さん」

 微笑むツブラヤ。そして…。

(だ…)

 ゴクリと唾を飲む豚。

(「旦那さん」…!?オッサンとかオッチャンじゃなく「旦那さん」!?)

 ガサツな友人や大雑把な同僚に囲まれて生きてきたヒラヤマは、ツブラヤの言葉でいちいち琴線をハードに弾かれる。

「…こんばんは。久しぶり」

 表面上は完璧に体裁を整えつつも、内心では動揺しまくっているヒラヤマ。姿を見かけて声をかけてくれたらしい少年は、

買い物を終えたのか、ドラッグストアの紙袋を手に持っていた。

「また何か探し物ですか?」

「あ、ああうん。スプレーをね。今は随分種類も増えたようで、どれがいいやら…」

 調子を合わせつつ気持ちを落ち着けるヒラヤマ。

「私が学生だった時分は種類もそんなに多くはなくてね。…そう、このメーカーのは当時からあったが」

 先ほどまで手に取っていたスプレーを再び持ったヒラヤマは…、

「ああ、それで懐かしんでいたんですね」

 一瞬、うっ!、と呻きそうになった。いつから見られていたのだろうか?と。

「そんなところだね。…まあ後は、どれが流行りなのか悩んでいたんだが…」

 仕事でコールドスプレーを使わない訳ではないが、スポーツ用となると話は別。香りやら効果やらの関係で色々と増えたの

だろうが、最近のスタンダードが判らないのだとヒラヤマは打ち明ける。

「自分で使うならまぁ、覚えがあるこのメーカーで良いんだが…。君達の間ではどういうのが流行っているんだい?やはり新

しいタイプが良いかな」

 ツブラヤは「どうでしょうね」と首を傾げてから、ヒラヤマが持っているスプレーを指差す。

「僕はソレを使っていますが」

「ほう。…え?コレ?」

 一度は頷き、それから意外に感じて手元に視線を戻したヒラヤマへ、ツブラヤは「新しい物は新しい物で色々とメリットは

あるでしょうが…」と、穏やかな微笑を浮かべたまま意見を口にした。

「新発売から一年二年で見なくなる物も少なくありません。そのスプレーが昔から今までずっと販売されているのは、きっと

使う側が認める信頼性が損なわれていないからでしょうね」

「まあ確かに…」

 納得するヒラヤマ。自分達が仕事で使う測量用スケールや石チョークなども、使い慣れたメーカーの物を愛用しているので、

少年の意見は正しいと感じた。

「有り難う。参考になる」

 礼を言ったヒラヤマに微笑んで、ツブラヤは「いいえ」と返し…。

「旦那さんは、潮釜水産のOBだったんですね?」

「………え?」

 一瞬ドキリとし、それから数秒おいて、ヒラヤマは眉を上げた。

「大会の時、シオガマの応援席から撮影してらっしゃるお姿を見かけました。きっと部員達の応援に駆けつけたのだろうと…」

 凄まじい勘違いをされている事に気付きながら、しかし下手に否定も説明もできないヒラヤマ。

「応援に来て貰えるシオガマの選手達が、少しだけ羨ましいです」

「う、羨ましいとはどういう事かな?」

 サクッと胸に刺さる言葉を聞き、それでも何とか表面の平静を取り繕い、豚は聞き返して…。

「ウチのOBの皆さんは、とてもおくゆかしい方達らしくて、なかなかお会いできないんです」

 グサァッ!と、ヒラヤマの胸を、ツブラヤの声に宿る少し寂しげな響きが抉った。OBは死ぬ。

「けれど…」

 膝から崩れ落ちそうなヒラヤマは…、

「ステキなOBです。あしながおじさんのように、姿を見せずにそっと後援してくれます」

 ドスゥッ!と、誇らしげでありながらも「これは身内自慢になってしまうな」とはにかんだツブラヤの微笑で、抉られたす

ぐ傍を深々と貫かれた。OBは二度死ぬ。

「…あ。お邪魔して済みませんでした。どうぞお買い物を続けてください」

「あ、ああ、うん、どうも」

「では、また」

「ああ、またね…」

 立ち去るツブラヤを見送って、姿が見えなくなってから、クリーム色の豚は天を仰ぐ。

(勘違いされたが…、これは下手に訂正しようとすると薮蛇になりかねない案件では!?甘んじて勘違いされたままでいるべ

きか!?)

 悩ましい問題と直面してしまったヒラヤマであった。

 

 

 

「は?」

 巨漢の熊大工が素っ頓狂な声を漏らし、視線を巡らせる。

 コンクリを流し終わった基礎工事、現場での昼休み中、クリーム色の豚は独り離れてポツンと座っていた。何やら紫色のた

め息をついているが…。

「ため息多いでしょう?何か昨日もツブラヤ君と会えたらしいんですけど、またOBだって事を言い出せなかったとかで…。

それどころか他の学校の相撲部のOBと勘違いされてるっぽいです」

「何だってそんな面倒臭ぇ事になっちまってるんだ?」

 ナガサノから小声で説明されたアブクマは、何やら元気が無いのはそういう事かと納得もする。

「あしながおじさん、とか言われてるから「自分みたいなのは…」とか気にしちゃって…」

「今更見てくれ気にしてんのか?あの容姿とは生まれた時からの付き合いだろうに」

 悪気なく結構辛辣なセリフを吐くアブクマ。

「ツブラヤ君達の夢を壊したくないそうですよ」

「難儀なヤツだなぁ…」

 そんなやりとりには気付かないまま、ポツネンと座っているクリーム色の豚は、

「…いや、だが…」

 少し曇った空をちょっと元気のない微笑を浮かべながら見上げ、ひとりごちる。

「いいか…。誰が損する勘違いでもない訳だからな…。うん…」

 父性を変に拗らせたヒラヤマの、正体不明のOBとしての後援と見守り活動は、現状のまま続行の模様。


戻る