これは、その一連の「事件」の中盤で、梅雨の最中のある夜、ある部屋で、ある二頭が交わした会話である。

 

「何?写真の確認?」

 風呂から戻った肥満大猪は、湿気が残る頭をグシャグシャとタオルで拭いつつ、レッサーパンダが見つめているノートパソ

コンを後ろから覗き込む。

「去年の「事件」の時のね。これらが撮られてた時は、オオシロ君がそのまま不登校になる事まで予想してなかったし、その

まま犯行が止まって調査も打ち切りになるなんて思ってもみなかった。半端に切り上げられちゃったから、ボクが確認してな

い写真もあるんだよね。その中に何か新しい情報が混じってれば…」

 ノートパソコンは画像フォルダーを開いており、レッサーパンダはそこに格納された写真を一枚一枚、拡大や反転、明度の

調整をこまめに行ないながら確認していた。

「…ナル。こういうデータって学校の外に持ち出していいの?」

「勿論ダメだよ」

 涼しい顔で応じるレッサーパンダは、「でも確認されなければ無断コピーの事実はない訳で…」と、USBメモリーを指差

して見せる。

「…今回もかなりグレーゾーンだ…」

「いや実際クロだけどね」

「………」

 呆れ顔で言葉を失った猪は、気を取り直したように「それにしても、ナルが予想できなかったなんてねぇ…」としみじみ述

べる。

「神や悪魔じゃあるまいし、何だってお見通しって訳には行かないよ」

「いや、そうじゃなくてさぁ」

 大猪は、だってそうだろう?と言いたげに両手を広げた。

「ナルはオオシロ君が不登校になるって思ってなかったんだよね?嫌がらせがずっと続いてても学校に来続けるって信用して

たって事でしょ?ナルにそこまで思わせるぐらい気持ちがタフな生徒だったんだね」

「うん。それはまぁそうだね…」

 レッサーパンダは言葉を切った。そして写真をまじまじと見つめて…。

「…最後の写真は机に彫られた中傷メッセージか…。内容はここまでの中傷の手紙と変わらない。彼の気持ちが挫ける一手に

は見えないんだけど…」

 ふぅ、とため息をついてから伸びをしたレッサーパンダは、大猪がゴツイ手には不似合いなほど繊細な力加減で「お疲れ~」

と肩を揉むと、目を細くして縞々の尻尾を震わせる。

「ふふ、ありがとう…。それで、ナナ君の様子はどう?」

「酷いもんだよ…」

 大猪は悲し気に顔を顰める。

「完全無気力症。コマザワ君とふたりがかりで無理矢理お風呂に入れたけど、自発的に動こうとしないよ…」

「熱は?」

「今のところは微熱。ただ喉も傷めてるみたいだし、これから熱が上がるかもだから、今夜はコマザワ君が念のために付きっ

切りで様子を見るって」

「義理堅いね」

「部屋の件で「自分が追い出した」って、済まなく思ってるところもあるみたいだから」

「どうりでナナ君には甘い顔をするわけだ…。それで、ナナ君に外傷は?」

「パッと見無いっぽい。コマザワ君とふたりで確認してみたけど、被毛の下にも内出血とかは無かった。ただ…」

「ただ?」

 大猪は一度口ごもってから、言い難そうに告げる。

「…そのぉ…。乱暴、されたみたいだ…。この乱暴っていうのは、暴力とかそういう意味じゃなく…。前に見た、強姦された

子と同じような格好だったし、痛がって椅子にも座れなかったから…」

「………」

 レッサーパンダは考え込み、マウスを操作していた手を止める。

 その背中を見ながら大猪は思う。今回は「珍しい」と。

 基本的にこのレッサーパンダは損得で動く。生徒会執行部としての仕事に誇りを持っているわけでもなければ、そもそも道

徳も規則も他者の目につかない所でならば関係ない。周辺の治安維持は自分が過ごし易い環境を整えるための物であり、見返

りなしに労力を使うことは殆どない。

 しかし今は、労力と見返りが吊り合わない仕事をしている。

 本人曰く、「不登校の生徒を復帰させる手伝いをしたら先生方からの評価も上がる」との事だが、既に充分過ぎる評価を得

ているレッサーパンダが、そこまでして欲しい物とも思えない。そもそも今のところは表立って動いていないので、先生方へ

のアピールも不足しているように見えた。

(今回は、ナルが動いてる理由は別にあるんじゃ…)




                  栄枯盛衰




 アイツが初めて部屋に来た時、…正直、全然気付いてなかった。

 気が付いたのは、まぁ…、かなり経ってからだったな。勉強見てやるようになった時に、アイツが鞄から出したガキくさい

筆箱見て、記憶が少しつつかれた。

 かなり考えてから、去年学校に行ってた頃に会った、迷子の一年だって思い出した。…仕方ねぇよ、ブチ犬は学校に五人は

居たし…。

 アイツはたぶんおれの事を覚えてたんだろう。こっちが忘れてると察して、わざわざ話題に出さなかったんだな。

 この部屋に来るようになったのは、そんな縁があったから。案外、あんな些細な事でも恩に感じてたのかもしれねぇけど。

 小渕七星(おぶちななほし)。それがアイツの名前。

 クリーム色の地毛に茶色のブチ模様がある和犬のミックスで、柴犬の血が濃いらしい。童顔で身長が低い。骨組み自体がこ

ぢんまりしてて、最初見た時は弟のダチかと思った。…つまり中学生かと。

 毛は立ち気味で、本体は細いがフォルムは丸い。両親も祖父母も色んな雑種、って本人が言ってたし、毛の質なんかにはむ

しろポメラニアンとか日本スピッツの血が出てるんだろう。

 顔には左目と耳を囲んだ茶色い大きなブチ。後から聞いた話だと全部で七個のブチが全身にあるそうだ。それでナナホシっ

て名前をつけられたらしい。ラッキーセブンスター、って。

 最初の日、オブチは担任に言われて手紙を持ってきた。学校行ってねぇから知らなかったが、チビブチ犬はおれの席が置い

てあるクラスの学級委員だった。

 新しい担任は声しか聞いた事がねぇ。家に来た時も会わなかったから。

 てっきり諦めたとばかり思ってたんだが意外としつこかったみてぇで、オブチを通して結構マメに連絡を寄越すようになっ

た。何言われたって学校になんか行く気ねぇけど。…まぁ、少しは感謝した。おかげでオブチって遊び相手ができたから…。

 そう、遊び相手だ。偶然、アイツもおれと同じゲームが好きだったから…。

 大白素晴(おおしろすばる)。

 例えばおれが外に出て、昔の知り合いに会ったとしても、そう名乗らなかったら誰だか判らねぇだろう。

 そのぐらいおれの容姿は変わった。見る影もねぇって言える。

 元々は、顔は普通にしても、背はそこそこ高くてスポーツマンの体つき、自慢じゃねぇがテニスでも勉強でも上の方だった。

それが今は、全身たるみきった白いデブ猫。座ってりゃ鏡餅。不登校の引き篭もり。栄枯盛衰ってヤツだな。

 部屋から殆ど出ねぇでゲームしながら菓子食って、鍛えた体が運動してた頃と同じカロリーを求めて、筋肉がたるんで…、

その複合した要因が重なったのが今の姿だ。

 ただ、おれに似せてメイクしたゲームのキャラだけは、今も昔の姿のままでいる。

 アイツもおれと同じで、自分に似せたキャラにデザインしてた。

 名前は「NANA」。女っぽい名前だと思ったが、ナナホシって名前だから渾名が「ナナ」で、それをそのままつけてるん

だと。

 おれのキャラも名前の読みが同じで漢字が違う「昴」。容姿を似せたり名前をもじったり、似たような真似をしてるから、

由来を聞いた時は思わずガッツポーズで応えてた。ゲームの中で。

 アイツは一年半ぶりの復帰プレイヤーで、スタートしたばかり。結構面白いプレイングだったから少し気に入って、色々手

伝ってやってる内に毎晩一緒にプレイするのが日課になった。

 アイツはおれの何が気に入ったんだか、オンラインゲームで遊ぶ以外に頻繁におれの部屋に来るようになった。友達少ねぇ

のかもな。他のヤツの話とか全然しねぇし…。

 アイツは本当に単純で、ちょっと褒めてやったら尻尾を振って喜ぶ。そして次はもっと、ってやる気を出す。最初は相手を

するのも億劫で、正直言うとしょっちゅう部屋に来られるのがウザかったんだけど、アイツがあんまり懐いてくるから、先輩

先輩って慕ってくるから、その内に少し情が湧いてきた。

 おれがダブってるから同級生でクラスメートなんだが、アイツはそれでもおれの事を「先輩」って呼ぶ。別に名前呼びでい

いけど、って言ってもきかなかった。だから、アイツの渾名を聞いた後も、ナナって呼んでやらなかった。だから、おれとア

イツの会話じゃ、お互いの名前がちっとも出なかった。

 「お前」。「先輩」。そういう風に呼び合うだけで事足りたんだ。おれの世界は狭いから。

 …ただ、おれも少しばかり注意不足で、ゲームにのめりこんだアイツは年度初めの学力チェック試験で散々な点数になっち

まって…。

 アイツの成績下降には流石におれにも少し責任があるわけで、仕方ねぇから勉強教えてやる事にした。元々は真面目にやっ

てただけあって、ゲームもそうだが勉強も飲み込みが早かった。これでまぁ及第点は行けるだろうってトコまで教えて、念の

ために模擬テストしてやって、中間テストに備えさせた。そうしたら…。




「大したもんだ!あはははは!」

 向き合って座った後輩の肩を掴んで引っ張り込んだおれは、バランスを崩したソイツの首に腕を回して抱え込んだ。

「うわっぷ!」

 ヘッドロックを決めたおれは、声を漏らしたブチ犬の頭をペシペシ叩く。

 放り出されたテストの答案が舞い散って、おれの脚の上にも乗っかった。平均点数80オーバー。正直ここまでやれるとは

思わなかった。

「あはははは!平均60超えれば許してやろうって思ってたのに!やれば出来る子じゃねぇかお前!」

 愉快で堪らなくて笑いが我慢できないおれの鼻を、オブチの匂いがくすぐる。

 コイツは何となく赤ん坊みたいな匂いがする。甘いミルクの匂いって言うか何て言うか…。好物がコンデンスミルクかけた

果物とかミルクセーキとか甘い乳製品ばかりだからなのか、それとも使ってるボディソープの匂いなのか、はたまたそういう

フレグランス製品を使ってるのか、理由は判らねぇがとにかくいい匂いで、…時々、抱き締めて思い切り匂いを嗅いでみたく

なる。

 子犬みたいに素直で小さいコイツを、おれは、少し可愛いと思うようになってきた。

 そう。可愛いんだ。

 おれはオブチの事をすっかり気に入ってた。

 おかしいよな。おれはダブりで、「先輩」って呼ばれちゃいるがオブチとは同級生…クラスメートだ。しかも不登校の問題

児。そんなおれが学級委員やってるコイツを可愛がるとか…。

 迷惑かけてんなぁって、時々思う。コイツは何も言わねぇけど、担任からは、登校するように俺に促してこい、とか言われ

てるはずだ。
…おれのトコに最初に来た動機については別にいい。確かに担任のお使いがきっかけだったろうが、ソイツが縁

になったわけだし、今はアイツ自身がおれに懐いて自分の意思で遊びに来てる。
思うのは、おれに関わる事で時間を無駄遣い

してるんじゃねぇかって事だった。だってそうだろう?アイツはおれと違って普通の真面目な生徒だ。遊び相手なんていくら

でも作れるし、学校生活を自由に楽しめる立場にあった。

 そんな事を考えてたのもあって、まぁ、学力テストでオブチが派手にズッコケやがった時には、正直責任も感じた。そりゃ

あ全力で教えるだろ、本気でリカバリーしに行くさ。だが、まさかこの成果がここまでになるとは…。
いや、見直した!マジ

で大したもんだぜお前!

「あ、有り難うございました!」

 いい点数取れて興奮してんだろう、上ずった声のオブチがおれの腹に腕を回して抱きついてくる。

 たっぷり溜まった無駄肉に細腕が軽く埋まる。頼りねぇ腕の力を感じる。体の小ささもそうだが、いちいちおれは、コイツ

大丈夫かな?って心配になる。外の世界でちゃんとやれてんのかな?って…。

 オブチの甘いミルクの匂いが濃くなって、自分の体臭とゴミ溜めみてぇな部屋の臭いに慣れた鼻を、また刺激した。

 フワフワしたオブチの感触が心地いい。頼りねぇくせに温かくて、いい匂いがして…。

 下腹部が、ツクン、ツクン、って…、切なく疼いた…。

「せ、先輩のおかげです…!ホントに、何てお礼を言ったら…!」

 オブチがゴモゴモ小声でそう続けて、ハッと我に返る。

「ん?おれのおかげ?」

 頑張ったのは、お前自身じゃねぇか?結局の所は。

「ああ、まぁそうか?いや、手伝った甲斐があったなおれも!あはははははは!」

 照れ隠しで頭を叩くのをやめられなかった。本当はハグでもしてぇ気分なんだよ。思いっきり抱き締めて、頭をグッシャグ

シャに撫でて、褒めてやりてぇんだ。でもおれはそういうキャラじゃねぇし、そんな事されたらオブチも困っちまうだろうか

ら…、ヘッドロックぐれぇが丁度いい。

「よし!じゃあそこに直れ!」

 あんまり抱えてたらおれの臭ぇ体臭がうつっちまいそうだし、オブチを放して、向き合って座らせた。

「テストの結果も出た。及第点だから、今日からゲームは…」

 右手の人差し指と、左手の指全部を立てて見せる。

「え!?六時間!?」

 驚き顔で尻尾を振るブチ犬。

「バカかお前?これは1.5…、つまり一時間半だ」

「ああ、ビックリしたぁ!なぁんだ一時間は………」

 ホッとしたような顔になったオブチは、すぐさま…、

「え?一時間半!?一時間半だけですか!?」

 不服そうな驚き顔になった。コイツはいつもコロコロ表情を変える。それが面白くて可愛くて、おれはついつい引っかけに

行くんだ。

「そうだ。こういうのは油断するとガッタガタ落ちてくからな。だいたいお前は狩りでも気を抜いた途端に1乙、慌てて2乙、

焦って3乙でハットトリックって流れだろ?」

 ハットトリックってのは…、サッカーであるだろ?ひとりで三点ゲット。あれと真逆に、全員で合計三回ダウンしたら失敗

するゲームで、ひとりで単独三回ダウンを決める事を言う。おれが時々オブチが挑戦するには少し厳しめの高難度クエストに

連れてくからなんだが、結構やらかすんだよなコイツ。

 おれの例えは説得力があったのか、オブチは呻くだけで反論しなかった。

「だから一日一時間半。予習復習を欠かすな。あと、勉強飽きたら寮の仲間と遊んどけ。…ただし!」

 お預け食らったワンコの物寂しい顔をしてるオブチに、おれはウインクしてやった。

「休前日だけは無制限だ。寝落ちするまで付き合ってやる。それで我慢しろ」

 オブチは一瞬ポカンとして、それから「…わは…!」と声を漏らして、背中側で尻尾がヒュンヒュン振れ始めて…。

「やったー!」

「ほぶぉっ!?」

 正座の状態からバネ仕掛けのビックリ箱みてぇに吹っ飛んできたチビ犬が、レスリング部が目を見張るようなタックルで突っ

込んできた。

 体重こそ軽いんだが、勢いがあったオブチタックルでおれは危うくひっくり返りかけ、両手を後ろについて体を支えた。

 よっぽど嬉しかったのか、おれの胴に腕を回してひしっと抱きついたオブチは、凄い勢いで尻尾をブンブン振ってる。

 …股間が、キュッと疼いた…。

「こら!危ねぇだろ!ったく!子供かお前は…!」

 ポカンと軽く頭を小突いて、後ろ襟を掴んで引き剥がしたおれは、あえて説教臭く言って話の軌道修正を図る。

「…まぁとにかくだ。今回良かったからって気は抜くなよ?今言った条件も、テストが近付いたらナシ。ゲームは控え目にし

て全力で勉強に打ち込め」

「はぁい…」

「返事はしっかり返せ」

「はい…!」

「まぁよし…」

 偉そうに腕組みして顎を引いたおれは…。

「…ま、引きこもりが説教したところで、説得力ゼロだけどな…」

 思わず、自嘲が口を突いた。

「………」

 言われても困る事を聞いて、オブチは尻尾を垂らして黙り込んだ。

「先輩?あの…」

「ん?」

 一拍おいて、オブチが言う。

「一緒に学校行きま…」

「イヤだ」

「………」

「………」

 おれの即答に続いて、若干の沈黙。

「…え?え!?即答!?」

「ゼッテーに行かねぇよ」

 鼻を鳴らして吐き捨てたおれに、オブチはそれでも食いついた。

「あの…。でもその、家族も、弟君だって、先輩の事心配してるじゃないですか?ぼくが来るといつもゆっくりしてってって

言ってくれるし、先輩はどんな様子だって訊いてくるし…」

「心配とか、アイツの場合はそんなんじゃねえよ」

 オブチはどうも、弟のことで勘違いしてるらしい。

「自慢じゃねぇけどおれは出来がそこそこ良かったからな。親がおれとアイツをいちいち比較してたんだ。おかげでアイツは

おれを目の敵にするようになったよ」

 自分の顔が不機嫌に歪むのが判る。

「兄弟で競わせるとか考えてたなら、親の目論見はハズレもいいトコだ。おれが引き篭もったおかげで、アイツは怠けてても

おれより上に居られるようになったんだからな。で、親の方は親の方で、おれがダメになったから今度は弟の御機嫌取りで大

変だ。…そんなわけで、アイツはおれの事いい気味だって思ってんだ。おれが誰とも会いたくねぇって知ってるから、嫌がら

せでダチをホイホイ家に上げるんだよ」

 ため息が漏れた。おれと弟はどう転んでも「仲のいい兄弟」にはなれなかったんだろうって確信がある。

「誰にも会いたくない…」

 オブチが目を伏せて呟いて、おれは「ああ」って頷いた。

「………」

 チビのブチが沈黙する。その、何か訊きたそうな、怖がってるような、心細そうな顔でおれは気付いた。

 違う!そうじゃねぇんだ。今のは…、お前と会いたくねぇって言ったつもりは…。

「………」

 言葉を探して、口を開く。

「…ま、お前が来ると、暇潰しにはなるな…」

「………」

 オブチが顔を上げた。

 おれはわざと余所見をした。

 素直なアイツが喜ぶのは判ってた。下手糞な咄嗟の誤魔化しでも失言を帳消しにしてくれて、バカみてぇに喜ぶのは…。

 今のおれに、その顔を真っ直ぐ見ることなんてできやしなかった。



 肌寒い日だった。

 梅雨に入って湿気が増えてんのと、ずっと雨と曇りで晴れ間がちっとも見えねぇせいだろうな。カーテン開けねぇから天気

あんまり関係ねぇけど。

 もっとも、梅雨入り宣言があった時もオブチから聞いてはじめて知ったんだが…。ニュースも見ねぇからそういうのがさっ

ぱり判らねぇんだよな。

 モニターの向こうに浮かび上がるおれの残骸は、オブチのキャラと並んで立ってる。

 似ても似つかねぇおれの分身と、本人そっくりなオブチの分身。その組み合わせは時々、おれに「こうだったかもしれねぇ

未来」を突き付けてるように感じて…。

 …仕方ねぇじゃんか。おれはもう学校には行かねぇ。行っちゃいけねぇ。一見すると「こうだったかもしれねぇ未来」って

感じられる物は、きっと、最初から有り得ねぇから眩しく見えて…。

 そろそろ時間だな…。おれが切り上げを促そうとしたら、オブチが『そろそろ時間ですか?』って言った。

「ああ、そうだな」

 時間に自分で気をつけるようになったのは感心なんだが、若干寂しくもある。

 時間の事だけじゃねぇ。勉強の方も軌道に乗って、ゲームの方でも随分と強くなって、オブチはどんどん手がかからなくなっ

てきた。

 それが嬉しくて、ホッと安心もするのに、助けが要らなくなってきた事は何かつまらねぇし、ちょっと寂しい…。…って、

ガキかおれは?

『それじゃあ、今日もありがとうございました!お休みなさい!』

「おお、お休み」

 オブチの「ナナ」が、一瞬固まってからフッと消える。退室のメッセージを眺めながら、おれはアイツの体の感触を思い出

した。

 ミルクっぽい、甘い匂い…。このくっせぇ部屋とおれとは大違いの良い匂い…。

 フワフワの毛はほど良い弾力があって、その下には見た目より小さな体が埋まってて…。

 コントローラーを放り出して、ヘッドセットのコードを抜き、ずっと敷きっぱなしで寝床代わりにしてるおかげでペッタリ

薄くなったクッションと座布団の上で横になる。

 トランクス越しに手をあてがった股間では、息子がすっかり固くなって…。

 我慢できずに腰を揺すってトランクスをずり下げて、熱いソレをキツく握って締め付ける。

 亀頭は充血して真っ赤に膨れ上がり、陰茎全体に太い血管が浮く。

 おれのナニは、この一年でデブったせいで根元が肉で押し上げられて、皮が余って包茎になっちまった。ゲームに出て来る、

なまっちろくてそれっぽいフォルムのモンスターみてぇに。それでも皮をめくれば亀頭が全部出るし、勃起すればそこそこの

デカさだ。

「オブチ…」

 呟いて、思い出すだけで、おれのナニは疼いて脈打って、鈴口で透明な玉が膨れる。

「オブチ…。オブチ…!」

 ヘッドロックした時の感触を思い出す。

 飛びついてきたアイツの感触を思い出す。

「オブチ…。んっ…、オブチ…」

 きつく閉じた瞼の裏には、おれと向き合う格好で横たわるブチのチビ犬の全裸…。

 声を思い出す。匂いを思い出す。顔を思い出す。精密に、リアルに、アイツの全部を思い出す…。

 おれの息はシコり始めてすぐ上がる。そりゃそうだ。運動してねぇどころか一年間外にも出てねぇ駄デブに体力なんかねぇ。

「オブ…チ…!オブチ…!んっ…!オブチ…」

 先走りでぬめったナニと手が擦れて、クッチュクッチュ音がする。それが鼻息と混じって部屋に篭る。

 想像するのは、オブチの小さな手が、細い指が、おれのナニを握ってしごいてる光景…。顔は…、想像の中でも見れねぇ。

思い浮かべたりできねぇ。アイツを汚したくねぇって思うのに、肉欲はアイツに鎌首をもたげるこのジレンマ…。

 汚ぇ座布団の上で喘いでるおれは、さしずめ無様な白豚だ。溜まりに溜まった贅肉を波打たせて、うるせぇ鼻息上げながら

後輩オカズにオナニー…。こんな姿を見たら流石のオブチも幻滅すんだろうな…。

 想像の中でオブチの手は、先走りでベタベタに汚れたおれのナニを一生懸命しごいてくれて…。下腹部の奥の奥で、疼きと

快感が弾けて…。

 ティッシュは間に合わなかった。ボックスが少し遠くて、伸ばした指先がかすってさらに遠のいた。

「ナナっ…!」

 ビュクッと、尿道の痙攣に続いてこみ上げた精液が飛んだ。パタッ、パタッ、と座布団に白濁した体液が落ちる。

 おれは果てた。肥えた体をブルブル震わせて、汚ぇ座布団に種汁をぶちまけて。

「はぁ…。はぁ…。はぁ…。ナナ…」

 余韻に浸れるのはほんの短時間。

 次いで襲うのは虚無感と罪悪感。

 耐え難いほど嫌な気分を味わうのが判ってんのに、我慢し切れねぇおれは、繰り返しアイツをオカズにする。アイツが訪ね

て来るこの部屋で…。

「…最低だ…」

 自嘲すら出てこねぇ。虚脱感の塊になって横たわるおれの鼻を、ろくに皮の中洗ってねぇせいで嫌にイカ臭ぇ種汁の臭いが

刺激して…。

 …あ!やべぇ!

 慌てて身を起こした。さっきアイツが言ってたんだ、明日は帰りに寄るから、って…!

 座布団は…、最悪だ…!二枚にまたがって汚れた!しかもランニングシャツにまで跳んでやがる!

 大慌てでティッシュを掴み出し、ゴシゴシ擦ったら…悪化した。種汁が糊みてぇに伸びて細かく千切れたティッシュのカス

と合体、ひでぇ惨状の出来上がり。当たり前だ。何してんだおれは。いや、ナニしてたんだが…。

 落ち着け。アイツが来るのは明日の午後だ。間に合う。間に合うぞおれ。マキで行け。

 と、とりあえずは…、ベッタベタな手を洗わねぇと。もしかして、座布団もカバーを外せば…、よし!中まではまだ染みて

ねぇ!洗えばいける!消臭スプレーは洋間だか何処だかに置いてあったはずだ。

 …待てよ?ここだけ綺麗にしたら変か?アイツは単純だから疑いそうもねぇが、念には念をだ。これから湿気も多くなって

来るし、まとめて掃除するか…。

 そんなこんなで、おれは真夜中から大掃除を始めた。片付け始めたらもう出るわ出るわ、ゴミが。っていうかゴミだらけだ。

袋に詰めてくだけで部屋が広くなってく。

 ガビガビになる前に座布団カバーを洗うついでに、他のクッション類のカバーも剥がしてまとめて洗った。ベッドのシーツ

も引っぺがして、荷物を全部除けて、ハンディ掃除機を持ち込んで…。

 

「…くあ…」

 シャワーを頭からかぶりながら欠伸する。…昼挟んで二時間は仮眠したが、寝不足だな…。

 午後も半ばを過ぎて、オブチが来そうな時間が近付いてるが、部屋は完璧に片付いた。

 掃除中は舞い上がった埃のせいで鼻水が止まらなくなった。掃除も一年ぶりか…。

 埃だらけになった体はきっちり洗う。風呂も週に一回湯船に軽く浸かるかどうかだったからな。垢やらなにやら溜まりまく

りだ。

 ボディソープを惜しみなく使って、被毛の間に指を入れて、掻き毟るように全身を洗う。気を付けの姿勢が取れなくなるほ

ど肉が付いた腋の下。くっきり逆三角に肉が盛り上がってるまたぐら。汗が溜まる踝に膝裏、肘の内側にうなじ回り。垂れ乳

の下や段がついた腹肉の下も、肉を持ち上げるようにして丹念に洗って、ナニの皮の中も剥いてしっかり洗い流す。汗や垢が

溜まったくっせぇ場所は山ほどあるわけで、真剣に洗ってたらかなり時間がかかった…。

 一通り洗い終わって俯いて後頭部からシャワーを浴びると、出っ張って段がついた腹の下から集まった湯がジョボジョ落ち

て行くのが見えた。よくもまぁこれだけ肥えたもんだ…。ま、外にも出ねぇし、みてくれがどうなろうと別に構わねぇけど…。

体臭はなぁ…。オブチも本当は嫌だろうし…。

 泡を全部流した後は、綺麗な湯を張った浴槽に体を沈めた。引っかくように洗った全身が湯に触れて軽くヒリついたが、そ

れもちょっと気持ち良い。

 湯の中で立った毛の中に、赤紫の傷跡が見える。胸の谷間の下側から、鳩尾を斜めに走る傷跡が…。

 長さにして十センチ。指の幅ぐれぇの範囲で毛がねぇ。家族にも隠して病院にも行かねぇで部屋に籠ってたら、当たり前だ

が化膿しちまったから。

「…一年…、か…」

 指先で押すようにしてなぞる。去年ついたこの傷は、おれが通学を辞める決心をした原因だ。

 去年おれは、カンニングの疑惑をかけられた。足元にカンペが落ちててな。

 まぁ、やましい事はねぇし、先生達もおれの潔白を信じてたし、「やってません」で片付いた。…はずだった。

 だがそれから、おれは学校で嫌がらせを受けるようになった。

 最初は、机にゴミが入ってたり、ロッカーに落書きされる程度の、まだぬるい嫌がらせだった。

 腹は立ったが、音を上げてたまるかって、平気なふりをした。顔も名前も出さねぇで、物陰から石ころ投げてダッシュで逃

げてるような卑怯者を喜ばせるのは嫌だった。

 先生や生徒会が警告文を貼ったり見回りしたりと牽制に出てる間も、おれは意地になって平気な顔してたんだが、…まぁ、

結論から言うと甘かった。

 予想以上にしつこい相手だった。無視されようがお構いなしに根気よく嫌がらせを続けてきた。その労力を他に回せば良い

だろうに、ご苦労さんなこった。はっ!

 嫌がらせは徐々にエスカレートした。靴に画鋲とか、古典的な手段で怪我を狙ったりしてな。

 何回か指先を切ったり、足裏に画鋲が刺さったりしたが、それでも無視しようとした。生徒会の連中が警告が無駄だと判断

して、いよいよ本格的に犯人探しを始めた時には、これで根気の良い犯人もお縄だろうとタカをくくってた。

 ところが、だ。犯人はおれの予想を越えてきた。あの日、あの一手で…。




 その日、おれは当時の担任から話をされた。

 怪我をするような嫌がらせが続いてるから、用心のために明るいうちに帰ったほうがいい、ってな。

 落ち着くまでは部活も休んだ方がいい。担任はテニス部の顧問にも勝手にそんな話を通してた。犯人が喜びそうだったから

嫌だったんだが、生徒会やらダチやらも犯人探ししてくれてるし、数日の辛抱だと思って渋々了承した。

 もう部活は始まってて、廊下にはのたくた帰る帰宅部連中だけ。ひともまばらな昇降口で、おれは下駄箱のナンバーロック

に手をかけた。この頃は先生が特別に、おれの下駄箱には鍵をつけてくれてた。

 でも、下駄箱の扉には隙間がある。紙なら余裕で入る程度の隙間が。

 扉を引いたおれは、下駄箱の中に、かなりご無沙汰だった物を見つけた。

 手紙だ。ご丁寧に文字を切り貼りした文面のヤツ。嫌がらせの初期は下駄箱を開けるたびに目にしてた。

 また誹謗中傷か、と見もしねぇで破ろうかと思ったが、掴み出した瞬間、おれはハッとした。

 すげぇシンプルな文面だった。文字がでかくて、文が短ぇヤツ。

 こう書いてあった。

『オ前の親ユー ケガする』

 おれは、その手紙を広げたまま、視線を動かした。

 茶端(ちゃばた)。おれとダブルス組んでる馴染みの茶色い猫。テニスじゃ互角のライバルで、一番の親友…。

 今は部活に行ってるはずのソイツの下駄箱で、扉が少しだけ浮いてた。

 最悪だ。そして最高の一手だ。これまでの嫌がらせでおれに最大のダメージを食らわしてくれた。なかなかやるじゃねぇか

チキショーめ…!

 手紙を握り潰したおれは、低い位置にあるチャバタの下駄箱に手をかけた。何が仕込まれてようと、チャバタにそいつを味

わわせる訳にはいかねぇ。どうせまた縁にカッターとか、靴に画鋲とか、そういうのだろ?変な事されてアイツが調子崩した

ら大変だ。チャバタが気付く前に取り除いて…。

 ピシュッ、て、風を切る音が耳に届いた。

 ズボンのポケットに入れてた携帯に、カツンって何かが当たった。

 前屈みになったおれの、胸の下側から鳩尾の辺りに、鋭い痛みがあった。

 携帯に弾かれて、チリンってやたら軽い音を立てて落ちたのは、作業用の幅広カッターの刃。

 下駄箱の中には、竹ひごやら何やらで丁寧に作られた、ボウガンみてぇな構造。扉を開けたらカッターの刃が矢みてぇに飛

んで来る仕組みだった。

 …おい。何だよこれ?

 刃が切って行った腹を押さえて、おれは呆然とソレを見つめた。

 まともじゃねぇ。

 おれを狙うんじゃなく、おれのダチを狙う方向で本気出して来やがった。

 周りに何人か居た生徒がおれを見た。考える前に、反射的に行動した。チャバタの下駄箱から仕掛け一式引っこ抜いてカッ

ターの刃も拾って、手紙と一緒に鞄につっこんだ。

 …チャバタに悟られちゃダメだ。自分が標的にされたなんて、いま好調になってるアイツに知られたら…。

 そうしておれは玄関を後にした。

 それっきり学校へは行かなかった。

 親に何を言われても、先生達が何を言っても、絶対に学校へ行く気はなかった。

 誰にも知られないように隠した傷は、梅雨の湿気で化膿した。

 ヅクヅク染みるように痛んで、痒くて不快で堪らなかったその傷が、おれに決心させたんだ。他の誰かを悪意の巻き添えに

するぐれぇなら、学校なんてゼッテー行かねぇって…。




 ヒチョン…。目の前に落ちた水滴が波紋を立てて鳴く。

 咄嗟にトラップ丸ごと隠しはしたが、あの場に目撃者は何人か居たわけで、下駄箱トラップについては知られたらしい。た

だ、今もちょくちょく顔を見せに来てくれるチャバタ本人が言わねぇから、仕掛けられたのがアイツの下駄箱だって事だけは

バレてねぇようだ。

 それっきり、犯人は静かになったみてぇだ。正直、味をしめて他の生徒にもやるんじゃないかと心配してたんだが、どうや

らおれだけで満足したらしい。

 …さあ、のぼせる前にあがんねぇと…。しっかり風呂に入んの久々だから、入り方ちょっと忘れてるな…。

 さっとぬるいシャワーでもう一回体を流して、しっかり毛を乾かして、汗がひいてから腰にバスタオルを巻く。

 洗面台の姿見に映った鏡餅は、体型は相変わらずだらしねぇが、色艶だけは良くなった。カビ餅から新鮮な餅に、ってか?

 かなり久々にサッパリした気分を味わいながら部屋に戻れば、芳香剤入りの消臭除菌スプレーをしつこく振った甲斐あって、

異臭は完全に消えてた。

 …こんな広かったっけおれの部屋?見た目はまるっきり別の部屋だ。我ながら頑張ったな…。

 箪笥に歩み寄って、真新しい肌着を引っ張り出そうとしたら…。

「…あれ?お風呂上がりですか?」

 馴染みの声が入り口から聞こえた。

 やべぇ!まだ来ねぇと思ってたからドア半開きのままにしてた!

「ノックぐらいしろバカ!」

 慌ててバスタオルで傷を隠し、きょとんとしてるオブチが部屋の外に出て待ってる間に、急いで肌着を身につける。

 もういいぞ、と中に入れたら、オブチは…。

「どうしたんですか?部屋…」

 まぁ当然だ。こんな変貌見たらおれだって訊く。

 さらにオブチはひとしきり部屋を見回した後、おれに視線を固定してまじまじ見つめてくる。

「…何だよ…」

 オブチは戸惑い気味だった。そりゃあ、あの汚部屋と汚くてくっせぇ白豚に馴れてりゃ戸惑うよな。

「どうしたんですか?先輩…」

「何が」

 説明するのも何だかこっ恥かしいから、殊更につっけんどんな声で言い返すと、オブチは「えっとその…」と言い難そうに

口をムニュムニュの波型にして…。

「何でちゃんと綺麗にしてるのかなぁって…」

「………」

 何でちゃんと綺麗にしてるのか?ってか…。お前悪気ねぇんだろうけど時々恐ろしく真っ直ぐな訊き方するよな…。

「別に。ただの気分転換だよ。ジメジメムシムシしてんだろ最近」

「あ、ああ…。そうですね…」

 変な半笑いをしたオブチに、「ああ、そうだろ」と意味のねぇ返事をする。

「………」

 オブチはそれでも、突っ立ったままおれの姿を見てた。

「…何だよジロジロと…」

 座ればいいだろ、と促そうとしたら…。

「あ、あの、先輩…」

「ん?」

「毛、触ってみていいですか?」

「は?」

  一瞬、聞き違いかと思った。が…。

「だ、だって凄くフカフカしてそうで!」

 オブチは両手を胸の前で広げて、横に振りながら早口で言った。

 …いや、考えてみりゃそうか。身奇麗にしたおれなんか珍しいし、フワフワになった長毛の感触が気になるんだろ。レア中

のレアだもんな。何せ一年ぶりだ。

 …一瞬、都合のいい身勝手な勘違いをしそうになっちまった…。

「…別にいいけど…」

 でもやっぱ何か恥かしくて、おれはつっけんどんに腕を突き出した。

 オブチは恐々と手を伸ばして、そっと、静かに、両手でおれの手を包んできた。

 揉むようにおれの手の感触を確かめる小さな手は、少ししっとりしてて、温かかった…。。



 おれは、オブチの事を「好き」になった。

 気になったとか、気に入ったとか、懐かれて可愛く感じるようになったとか、先輩後輩の「好き」とか友達としての「好き」

とか、そういう段階を毎日少しずつ送って、アイツへの感情は「恋」になった。

 はっきりいって訳が判んねぇよ。おれは普通に女の裸でシコてった。水着グラビアとかオカズにしてた。…引きこもる前は

な。部屋からろくに出なくなってからは性欲も減って、「やりたい」ってんじゃなく、ムラムラして落ち着かねぇから「性処

理しとく」って具合。オカズなんか必要ねぇ、曖昧にピンぼけした記憶の中のグラビアで適当に抜くだけだった。

 そんなわけで、前は普通に女が性的欲求の対象だったのに、おれはいつしか想像の中で、アイツに夜伽の相手をさせるよう

になってた。

 ムラムラするのは、決まってアイツと一緒に「違う世界」に居る事を想像した時。

 違う世界って言っても、外国とか異世界とかそういうモンじゃねぇ。今のこの状況…「引き籠ってるおれの世界」じゃなく、

「おれがアイツと何処かへ出かけてる世界」だ。

 そこでおれは、半分は先輩後輩で、もう半分は友達として、アイツと他愛ない話で長々とダベったり、買い食いしたり…。

 そいつが叶わねぇって実感して、現実に立ち返るたびに、どうしようもねぇ寂しさが腹の真ん中に居座って…。

 ぽっかり空いた穴みてぇな寂しさを埋めるように、おれは堪らなくなった時はアイツをオカズに抜く。終わった後に虚しく

なるのは判ってんのにな…。

 そんな事を改めて考えてんのは、オブチが帰った後で俺の部屋に来た、チャバタの一言からだった。

「お前ってどっちかっつぅと気難しい方じゃん?なのにあのチビっこ、ちゃんと気に入られてんだもん。何か好かれるコツで

もあんのかね?そこんトコどう?」

「おれに訊かれても困るぞ?判るかよそんな事…」

 膨れっ面のおれと向き合って茶猫が笑う。「そりゃ本人も判んねーかー!」と。

 チャバタは中学の時から一緒で、ずっとテニスで競い合ってきた。去年の一学期にはダブルスでレギュラー枠内定してて、

おれがあんな事にならなけりゃ一緒に地区大会出てたはずだった。…結局三年の先輩と組んで挑んだコイツは、息が合うほど

練習もできてなかったせいで、お互いにチグハグなプレーを連発して散々だったらしい。本当に済まねぇ事になっちまった…。

 それでもへこたれなかったコイツは、最後の大会を控えた今じゃテニス部のエースだ。おれの代わりにとかのぼせた事を言

うつもりはねぇけど、ペア組んでた相棒として活躍する事を祈ってる。

 …一年前は殆ど互角だったが、今じゃもう勝負になんねぇな…。おれはこんなデブになったし、体力だってもう全然だ。な

し崩しに引退しちまったけど、辞める前に一回、引退試合っぽいガチ勝負してみたかったな…。

「で、最近どうなのよ?後輩君時々元気ない顔で帰ってくけど、八つ当たりでもしたのか?」

「何もしてねぇおれが何を原因に八つ当たりすんだよ?ある意味賢者か仙人だぜ?世俗との関係まるで無し」

 …本当は賢者と程遠い、慕ってくれてる純粋無垢な後輩オカズにシコってるブタ野郎なんだが…。

「ゲームで失敗した分のとか?」

「しねぇって、そんな事で…」

 チャバタは冗談めかして言ったが、オブチが元気無く帰ってくって話には、心当たりがあった。

 アイツは、おれが登校するように促せって、担任から頼まれてる。今日も登校しようって言われたしな。

 そりゃ別にいい。他に目的があっても、もうそれだけが理由じゃねぇって、単にダチとしておれに会いに来てくれて、一緒

に遊びてぇんだって、判ってるから。

 ただ、おれが登校しねぇ事で担任から何か言われてんのかもしれねぇ。

 …けどそれは…。いくらオブチのためでも学校には…。オブチの事を考えれば、むしろ、なおさら、学校には行けねぇ…。

「ん?どした?」

 おれの視線を受けたチャバタが首を捻る。

 …そう。去年コイツが狙われたみてぇに、今おれが学校に行ったらオブチが狙われる可能性がある…。

 犯人が誰だか結局判ってねぇんだ。タメだったとしたら…。いや、あの工作ができんのはタメ以外に考えられねぇ。つまり、

犯人はまだ在学してるって見たほうがいい。

「ところでさ…」

 チャバタは声を潜めて真面目な顔になった。

「正直どうなんだ?お前」

「どうって?」

 茶猫はおれの顔をじっと見て言う。

「あの子は、ぶっちゃけ参ってるっぽいぞ?」

 おれは沈黙した。

 参ってる?って?

「お前と先生の板ばさみだろ?プレッシャーあるんじゃないかね?最近時々話すけど、いつも元気なくてさ、グチばっかりだ」

 グチ?アイツが?

「あんまり言いたくねぇけどさ。あの子、上手く行ったら色々便宜はかって貰えるとかあるんじゃねぇのかな?」

 そりゃあ、ちょっとは担任からそういう話が出てるかもしれねぇけど、アイツはそんな飴玉に尻尾振るようなヤツじゃ…。

 そうだよ。アイツは単純でお人好しで、単におれとウマがあうからつるんでくれてるだけで…。

「ちょっと都合が良すぎる気もするんだよな…。だってそうだろ?学級委員だからって熱心過ぎだし、見返り無かったら殆ど

接点がなかったお前とここまでつるむかね?言っちゃ悪いけど、お前ホントにそんな懐かれ易い?」

「…え…?」

 …いや…、そりゃあおれは、さっきも話に出てたけど、むしろとっつき難い方で…。

「あの子もそんなに気持ちとか強いふうには見えないよなぁ。何だって進んでお前のトコ通う気になったんだろ?動機とか判

んないね」

 …動機…。動機なら去年アイツと初めて話した時の…。いや、そうだよ。去年一回、迷子になってるトコ拾ったからって…、

いくら単純なアイツでも、たったそれだけの事を恩に感じ続けるか?おれは、そんなチッポケな事でアイツが恩を感じてると

か思い上がってたのか?

「なあ…。あの子本当に、善意でお前とつるんでんのかな?仕方なく、だったりして…」

 板ばさみ…。見返り…。プレッシャー…。

 …そうなのか?

 だったら、だとしたら、オブチにとってのおれは…。

「意外と、余裕なくなったら力ずくで来たりしてな!ははははは!」

 力ずく?…まさか。アイツがそんな真似…。だいたい…。

「無理だろ力ずくでも。あのチビじゃ」

 鼻を鳴らしたおれに、「だよな」とチャバタは笑って頷く。

「でも、弱みとか握られたらわかんないだろ?…なんつって!」

 弱み?おれに弱みなんて…。

 あるとすれば、たった二人だけになったダチ…。お前とオブチ、その物だろうな…。



 それからまた、数日が経った。

 思うところがあって、おれは客観的に見ても少しよそよそしくオブチに接するようになった。

 やっぱり担任からつつかれてるのか、学校に行こうって、オブチは毎回必ず言うようになった。

 一緒に学校に通いたい。

 帰りに買い食いとかしてみたい。

 同じ授業を受けた感想を言い合いたい。

 …少し前のおれだったら、心の中でその都度喜んでただろうオブチの言葉。だがそれは、今は何だか、アイツが必死になっ

てエサでおれを釣ろうとしてるようにも見えて…。

 今日も、学校に誘われた。

 今日も、いつも通り断った。

 今日も、アイツはショゲて帰って行った。

 チャバタが勘繰った通りなんだろうか?コントローラーを握ってぶら下げたままの右手に、嫌な汗をかいた。

 アイツがさっきまで座ってたクッションを見る。

 最近、アイツの笑顔は時々硬い。無理に笑ってるように見える事もある。この間も、今日も、思い返してみたらいつからそ

うなのか判らなくなった。

 …いや、それはたぶんおれのせいだ。おれが色々考えて余所余所しくなったから、アイツはそれを感じて…。そもそも先生

とおれの板ばさみで頭を悩ましてんだから、最初から全部おれのせいとも言えるわけで…。

 信じたい。オブチを信じたい。アイツが座ってたクッションに、そっと手を添える。

 温もりはもう消え失せて…。アイツの幻臭が鼻を撫でて…。

 ガチャッとドアノブが回って、おれは慌てて手を引っ込めて肩越しに振り返る。

 弟かと思ったが、そこに居たのはチビのブチ犬…さっき帰ったオブチだった。

「何だ?忘れ物でもしたのか?」

 訊ねるおれに、オブチは答えられなかった。酷く息を切らして苦しそうに喘いでるせいで。…そんな慌てて戻ってくるなん

て、財布か携帯でも忘れたのか?

「先輩…」

「ん?」

 見回してみたが、オブチの私物は見当たらねぇ。

「忘れ物ねぇよな?」

 言いながら向き直ったおれの前で、オブチは正座した。真面目な顔で、おれを真っ直ぐ見つめてくる。

 コキュッと、オブチの喉が小さく鳴った。緊張気味だな?いったい何の用事…。

「お腹、見せてください!」

 口を開こうとした一瞬前に、オブチは言った。

 ………。

 違う。

 この間みてぇに、綺麗になった毛を触ってみたいとか、そういうスキンシップで言ってるんじゃねぇ。

 コイツは、「知ってて」言ってる。おれのシャツの下に何が隠れてるか、知ってて…。

「…お前、誰に何を吹き込まれた?」

 何処から聞いた?誰から聞いた?

 チャバタの言葉が耳元に蘇る。「でも、弱みとか握られたらわかんないだろ?」って…。

 …そうなのか?そうじゃねぇよな?お前は、そんなヤツじゃ…。

「学校に行けない理由、「そこ」にあるんですか!?」

 いつになく大きいオブチの声が、頭の芯を殴るかのようにおれの中へ響いてくる。

「…何言ってんだよ。関係ねぇ。単に学校も飽きたし、独りで居るのも気楽だから、行くの辞めただけだ」

「嘘!」

 オブチは即座に言い返してきた。初めて聞く強い口調に、一瞬たじろいだ。

「先輩は、本当は、独りで居たい訳じゃないでしょ!?」

 違う。そう答えてぇのに胸にグサッと突き刺さった。

「独りで居たいんだよ」

 …嘘だ。ああ、嘘だ。答える傍から自分でも判る。これは、本音じゃねぇって…。今の本音は違うって…。

「嘘言わないで!」

 叫ぶようなオブチの声は裏返ってた。

「だって…!だったら…!何で多人数プレイができるあのゲームをずっとやってるんですか!?鍵だって、何で適当に入れて

も合っちゃうような簡単な物なんですか!?何でそんなに親しくなってなかった頃に、ぼくにサラッとパスワードとID教え

てくれたんですか!?」

「好きでやってるゲームだからだろ?パスワードは…、面倒くさいから数字重ねてんだよ!」

 糾弾するように畳み掛けるオブチに腹が立って、なげやりに言い返すおれも自然と声がでかくなった。

「だったら何で…!」

「何でもヘチマもねぇ!いい加減に…!」

「何で一回も「もう来るな」って言わなかったんですか!?」

 …!!!

 今度は、言い返せなかった。言われたそれは「おれの真実」を射抜いてた。

 おれは、面倒くさがってた最初の頃ですら、「来るな」とは言わなかった。

 コイツに来て欲しかったから。会えるのが楽しみだったから。…だから…。

 なぁ?もう、いいかな?

 おれは、コイツに「本当の事」言ってもいいかな?

 好きなんだ。会えて嬉しいんだ。お前が来てくれるだけで、つるめるだけで、おれは幸せで…。

 不意に、オブチが突進してきた。

 ビックリ箱の中身みてぇに吹っ飛んできた。

 今度は反応し損ねて、おれはオブチのタックルで背中からひっくり返った。

 ランニングシャツがめくれた。ソイツをオブチが掴んだ。

「あ!」

 それは、おれの声だったのか。それとも、オブチの声だったのか。

 おれは首を起こした。

 オブチが何かを凝視して固まってた。

 視線の先は、真っ白な中に赤紫が混じった、おれの腹…。

「…先輩…」

 掠れた声を漏らして、オブチはおれの傷跡に指を這わせた。

 そのまま、オブチは絶句してた。

 …ああ、そうだった。

 これもお前が言ってたな、チャバタ…。「意外と、余裕なくなったら力ずくで来たりしてな」か…。

「せんぱ…!ごめ…」

 顔を上げたオブチの喉に、思い切り右手を突っ込んでやった。

 ゲギュッて変な声出した。アイツはチビで軽いから、それだけでドアまで吹っ飛んでった。

 オブチの頭とドアが耳障りな酷ぇ音を立てた。うるせぇ。

 オブチはゲホゲホ噎せた。うるせぇ。

 気が付いたらおれは、ドアに背中を預けて足を投げ出してるオブチの前に立ってた。

「何が判るんだよ…」

 頭の中は痺れたみてぇになってんのに、おれの声は震えてた。

「お前に何が判るんだよ…!」

 そうか。おれは怒ってんだな…。この腹の中の熱いどろどろしたモンは、怒りってヤツか。憎悪ってヤツか。ああ。心臓の

音がうるせぇ。

「ほら、どうだ?見たかったんだろ?ええ?」

 黙ってるオブチの鼻先に、シャツを捲りあげて晒した傷を突きつける。間抜けな格好だが、構うもんか。格好なんてどうで

もいい。もう何もかもどうでもいい。全部滅茶苦茶になればいい。

「どうだよ?無様か?気色悪いか?満足したか?」

 オブチの頭の毛を掴んで、その顔を腹に押し付けてやった。

「満足かって訊いてんだよ!」

 返事は無かった。ただ、おれの腹に押し付けられて鼻が塞がれてるから、ピヒーって間抜けな音を鳴らしただけ。うるせぇ。

 頭の毛を掴んだまま、無理矢理横に倒してやった。オブチの頭の毛が抜けて千切れてブチブチいった。うるせぇ。

「何なんだよ、お前…!」

 オブチの上に覆いかぶさって、真上から、傍から、声を叩きつける。うるせぇ。

「キャンキャン喚いて懐いて来やがって…!挙句に調子こいて説教か!?何も知らねぇくせに…!何も…!」

 襟を掴んで引っ立てようとしたらボタンが千切れた。うるせぇ。

 オブチの頭が床に当たった。うるせぇ。

 自分の息も、うるせぇ。

「お前は…」

 ワイシャツが半分はだけて、肌着が晒されたオブチを見下ろしたら、腹の下の方が熱くなった。

「お前は…!何で、お前は…!おれの気持ちも知らねぇで…!」

 何喚いてんだおれ。うるせぇ。

 オブチのワイシャツに手を掛けて引き降ろしたらボタンがパチパチ跳んだ。うるせぇ。

 ベルトを外そうとしたらバックルがカチャカチャ擦れた。うるせぇ。

 チャックが、うるせぇ。ズボンを下ろして、うるせぇ。パンツも、うるせぇ。衣擦れも呼吸も心音もみんなみんなうるせぇ。

 …でも…。

「お前が悪いんだ…!全部…お前が…!おれは、平気だったのにっ…!」

 おれの声が一番、うるせぇ。

 オブチの体は、綺麗だった。

 ブチ模様が七個あるって聞いてたが、初めて生で見た。

 毛はフワフワで、体は細くて、毛色は良くて、想像してたよりもずっと綺麗だった。

 その、綺麗な本物の股座を広げさせて、おれは、好きだった後輩を無理矢理犯した。

 前戯なんてしなかった。尻の穴に無理矢理ナニを突っ込んだ。オブチの息が弾んだ。

 オブチは声を出さなかった。抵抗もしなかった。脳震盪ってやつか、考えてみたらずっと動いてねぇ。ただ、息の乱れにだ

け反応があった。

「平気だったのに!お前が、お前が来てくれるから、それでっ、平気だったのに!」

 おれは必死になって腰を振った。鼻が半分つまって、自分の鼻息がやたら耳についた。

「お前にっ、迷惑かかるから、だから学校なんか!ぜってーに、行けねぇのにっ!」

 一年で溜まった贅肉が無様に揺れた。すぐ汗だくになって、オブチの体にポタポタ落ちて染みを作った。

「なのにお前はっ!おれの気持ちも…、知らねぇ…でっ…!」

 汗に、別の滴が混じった。

 喚くおれの顔からボタボタ、オブチに落ちて染み込んだ。

「お前が…!お前が…!お前がっ…!」

 好き、だったのに…。

 おれは、好きだった後輩に乱暴して、初めてセックスした。

 一方的になぶって、その中に種汁をぶちまけて汚した。

 おれの、童貞喪失。

 最悪の、童貞喪失。

 ハァハァ息をつきながら、脱力したおれはオブチの上にボタボタ汗と涙と鼻水を垂らした。

 喪失感とか、満足感とか、虚脱感とか、達成感とか、そんなもんは判らなかった。自分が何をどう感じてるか、頭の芯が痺

れたみてぇになってさっぱりだった。

 ただ、疲れた。喉が渇いた。ひっきりなしにしゃっくりがこみあげる。鼻水が止まらない。

 もう何もかもどうでもいい…。

 おれは項垂れた。

 歪んだ視界に浮かぶオブチの腹は白かった。つながったままだから、あいつの萎えたナニを隠すように出っ張ったおれの腹

と一繋がりに見えた。

 そこに、茶色のワンポイントがあるクリーム色が、不意に伸びて来た。

 そしてソレは、おれの鼻先にそっと触った…。

 手。

 小さくて、温かい、手。

 目を上げたおれは、伸びた手の根元を、手を伸ばしたその主を、揺れる視界に収める。

「先輩…」

 オブチは遥か遠くを眺めるような眼差しだった。

「ごめんね…」

 小刻みに震える口元が、か細い声を発していた。

「痛かったよね…」

 細くて頼りない右手の指が、おれの頬に移った。

「辛かったよね…」

 左頬を撫でながら、親指がおれの涙をぬぐった。

「我慢してたね…」

 その手が下って、顎から離れて、胸元に触れた。

「ぼく、何も知らなかったね…」

 醜い傷跡を、温かい指先がゆっくりとなぞった。

「知らないで、勝手言ってたね…」

 掌が、傷跡を隠すように当てられた。

 少し湿って、暖かい、掌…。

「ごめんね、先輩…」

 繰り返したオブチの顔を、おれは改めて見る。

 表情も、声も、酷く穏やかだった。ただ、涙だけがハラハラと、頬を伝って流れてた。

 いつもアイツが見せてた顔じゃない。何もかも希薄な、何か諦めたような、何も欲しがってねぇような、そんな顔。

「ごめんね…。いっぱい良くして貰ったのに…、ぼくは、先輩のこと何も判ってなかったんだね…」

 いつのまにか、オブチは体を起こしてた。

 やっと、とんでもない事をしたってジワジワ理解できてきて、茫然としてるおれの前で、オブチは膝立ちになって…。

「ごめんね…」

 おれの頭を、その細腕でそっと抱いたんだ。

「痛かったね?辛かったね?苦しかったね?ずっとずっと、我慢してたんだよね?」

 胸に俺を頭を抱いて、オブチは言う。声が、オブチの体から直接聞こえる。

「ぼくだったから、言えなかったんだね?後輩だから、頼りないから、我慢したままでいようって、そう思ったんだね?」

 茫然としたまま、おれはオブチの声を聴く。

 違う。

 今更だけど、違う。

 コイツは、おれを裏切ったりとか…いや、誰かを裏切ったりとか、できるヤツじゃなかった。単純で素直でバカで…、いま

だってコイツは、こうして…、怒りもしねぇで、ただ、ただ、自分が悪かったって…。

「ごめんね、先輩…」

 なのにおれは…。おれは…。

「………おれは…」

 ヒリつく喉から、声が漏れた。

「おれは…、何でお前を、疑ったんだ…?」

 オブチはおれの頭を優しく抱いて、背中を撫でながら、何度も、何回も、何遍も、繰り返した。

「ごめんね…、先輩…」



 ぼんやりと、閉じられたドアを眺める。

 床に、オブチのワイシャツから跳んだボタンが転がってた。

 アイツがいつ帰ったのか、いつからこうしてるのか、どれぐらい経ったのか、判らなかった。

 激しい雨の音が、耳を埋め尽くすノイズになってた。

 落ちてたボタンを拾う。

 一つ真珠色をつまみ上げたら、別のが目に入った。

 それを拾ったら、また次のが目に入った。

 その次を拾ったら、また…。

 いくつ拾ったって仕方ねぇんだ。もう元になんて戻らねぇんだ。

 おれがアイツを強姦した事は、おれがアイツを傷つけた事は、おれがアイツを裏切った事は、もう無かった事になんてなら

ねぇんだ。

 ソイツはもう、取り返しのつかねぇ事で…。









 …二日経った。たぶん、そのぐれぇだと思う。窓の外が二回明るくなったから。

 寝てんだか起きてんだか判んねぇ状態で、ぼーっと、電源入れっぱなしのゲームの画面を眺めてた。ずっと。

 オブチがログインして来るのを期待してたわけじゃなく、単に、何もしなかっただけ。

 ログアウトも、電源を落とすのも、テレビを消すのも、しなかっただけ。

 生きてんだか死んでんだか判んねぇ状態で、ぼーっと、とりとめもなく考える。

 つまるところ、おれと関わったのがアイツの不幸。おれなんかと関わって、時間無駄にして、成績落として、挙句の果てに

何も悪くねぇのに無理やり犯されて…。百害あって一利なし。だろ?

 アイツ、どうしたかな…。

 おれ、ちゃんと謝ってねぇな…。

 でも、もうおれの顔見たくねぇだろ…。

 謝らせてばっかりだったな…。何も悪くねぇのに…。

 もしまた会えたら。…なんて調子のいい事を言う気はねぇけど、詫びはしたかったな…。

 ぶん殴ってくれていいし、蹴とばしてくれていいし、それこそバットか何かで滅多打ちにしてくれていい。ほんのちょっと

でも、アイツの気が済むなら…。ほんのちょっとでも、アイツの痛みと苦しみを返して貰えるなら…。

 小さな電子音が鳴った。

 何だっけ、この音?

 少し考えてから、画面で点滅するアイコンに気が付いた。

 …ゲーム内のショートメール?

 のっそり腰を浮かして、のろのろ画面ににじり寄って、コントローラーを握る。

 送り主は…「NANA」…。

 躊躇した。反応していいのか?って。

 正直言えば謝りてぇけど、それで赦されるような罪じゃねぇ。…それに、このまま距離を置いて、二度と接触しねぇ方がア

イツのためなんじゃ…。

 アイツとは直接チャットでやりとりしてばかりで、メール機能は使ってなかった。事実、アイツのキャラは部屋に入って来

てねぇから、直接話すのは嫌なんだろうとも思ったし…。

 でも…。

 それでも…。

 無視するのは何か違うって、そう感じて…。

―間違っていたら済みません。あなたは大白君ですか?―

 開いたメールの文面で、おれは混乱した。

 …どういう意味だ?オブチ…だよな?間違いなくメールの送り主は「NANA」って表示で…。

 眉を潜めるおれの耳に、また電子音が届いた。

 続きのメール?

―ボクは磐梯。小渕君と同じ寮の寮生です―

 バンダイ?生徒会の、レッサーパンダの?…そういえばアイツも寮生…、オブチと一緒の寮だったか…?でも何で?

 しばらく考えたが、おれは返信メッセージを打ち込んだ。

 NANA名義…つまりオブチのアカウントでバンダイが連絡して来てるってこの状況…。嫌な汗が背中を湿らせた。

―ああ、良かった。ちゃんと届いてた―

 おれの返信に、バンダイを名乗るメールの主はそう反応した。

 …何でオブチのアカウントでお前が連絡して来るんだ?おれのそんな問いに…。

―いけない事だと判ってます。でも事情があって、君の名前とIDらしい物が書いてあったメモを参考に、小渕君のゲーム機

とゲームの連絡機能を拝借しました。君の携帯番号やアドレスは携帯にもメモに残されていなかったので―

 バンダイはそう説明をした。…オブチ、最初におれがメモしたIDの紙、まだ捨ててなかったのか…。

 で?お前が何の用事で連絡して来んだ?

 …そう問いながら、おれの中の嫌な予感は膨れ上がる。

 バンダイの返事は…。

―小渕君は今、誰かと話せる状態じゃないんです―

 嫌な予感は、当たった…。



 引っ張り出した服は、どれもこれもキツかった。

 流石に肌着で出る訳にも行かねぇから探してみたら、ランニングで使ってたウインドブレーカーは、元々厚着した上に着れ

るサイズだったから何とか入る。

 幸い梅雨だ。雨合羽の一種と見れねぇ事もねぇ。カビ臭ぇクローゼットの奥から引っ張り出した、肌が痒くなるウインドブ

レーカーの上下を着込んで、階段を駆け下りる。

「…え?あれ?」

 居間から顔を覗かせた弟は、玄関でサンダルをつっかけるおれを信じられねぇ物でも見るような目で見てたが、構ってる暇

はねぇ。

 外は雨だ。適当に傘を掴む。

 バンダイが言うには、アイツはいま自分の部屋で寝てるらしい。バンダイはオブチの部屋のテレビに繋がったままのゲーム

機に気付いて、オブチがおれとゲームで遊んでるって話してた事を思い出して、連絡手段にする事を思いついたそうだ。オブ

チが寝てる、その部屋で…。

 …オブチは…。アイツは今…。

 歯を噛み締めてドアを押し開ける。

 ノイズみてぇな雨音が俺を包んで、傘をバタバタ叩き出した。

 外って、こんな匂いだったか?

 ビチャッと水溜りを踏んで門扉から出たおれは…。

 ………。

 空…。灰色の…。雨が落ちて来る空…。

 雨で霞んだ道…。先が見えない、けぶった景色…。

「うぶっ…!」

 急に、気持ち悪くなった。

 塀にもたれて口元を押さえたおれは、こみ上げてきた胃液で口の中をいっぱいにして、それを水溜りにぶちまける。

 何だこれ…?外って、こんな広かったっけ?

 途切れない雨音。アスファルトの匂い。湿気。果てが判らない景色。境界線が無い世界。

 カタカタと体が震え始めた。

 一年ぶりに見る「外の世界」は、おれにとって恐怖の世界に様変わりしてた。

 四つん這いになってゲェゲェやる。雨音に耳鳴りが混じり始めた。

 こんなだったっけ?外って、こんなに気味が悪ぃ、落ち着かねぇ、おっかねぇ世界だったっけ?

 オブチは、毎日こんな世界を歩いてたのか?そうやって学校に行ってたのか?そうやって、おれの部屋に来て…。

 ………。

 塀に手をついて身を起こす。

 エブッと喉が鳴って、嫌な臭いが鼻を突いた。

 構うもんかよ。何だこんなもん。オブチは、ここを歩いておれに会いに来たんだろ?

 頭痛がする。胃がギュルギュル鳴る。吐き気が酷ぇ。耳鳴りもする。眩暈も。

 だから何だ。何だこんなもん。ここを歩いてった先にオブチが居るんだろ?

 あんなちっさいのが、か細いのが、頼りねぇのが何回も通った道を、一回も歩いて行けねぇなんて情けねぇ話はねぇだろ?

 おれの歩みは、たぶん無茶苦茶鈍かった。まどろっこしいほど遅かった。よろよろふらふら、おれは雨の中を歩く。

 オブチが居るんだ。このけぶった景色の向こうに…。

 会わなきゃいけねぇんだ。会って、それで、アイツに…。



「ナナ君は何も言わないんだ」

 バンダイはおれに首を縮めて見せた。

 何とか寮に辿りついたおれはずぶ濡れで、そのままじゃ部屋に上がれねぇからって、バンダイに浴室の脱衣場に連れて来ら

れた。服と体を乾かすようにって。

 そうしてドライヤーを当ててる間、レッサーパンダはおれに、二日前の夜、オブチがずぶ濡れで帰って来てからの様子を説

明した。

 オブチは、その晩から熱を出して学校を休んでた。今も熱が下がらなくて、ベッドから出られねぇ状態らしい。

 おれにされた事は、一言もしゃべってなかった。

 何を言われても、何を訊かれても、答えなかった。

 ただ、何かあったって事だけはバンダイも察してて…。

「医者に診て貰った方が良いって、何度も言ったんだけれどね。大丈夫だから、の一点張り。…ナナ君にも事情があるみたい

だけど、彼の意思を尊重してあげるのにも限度がある」

 レッサーパンダは脱衣場のベンチに座って、立てた尻尾をゆっくりと左右に揺らしていた。

「もう丸二日だからね…。明日になっても熱が下がらないようなら、無理矢理にでもお医者さんの所へ運ぶつもりだよ」

「………」

 バンダイの問いかけるような視線が痛かった。

 判ってる。アイツは、おれにされた事を隠したくて病院行きを嫌がってるんだ…。おれを庇うために…。熱を出してるのに、

自分の体よりおれの事を…。

「オブチは、眠ってんのか?」

「浅い眠りと寝ぼけた状態を行ったり来たりしてる。縁がある同級生がずっと様子を見てくれてるけど、彼は彼で学校がある

んだ。本人は平気だって言ってくれるけれど、あまり無理をさせるわけにも行かないし…」

 バンダイは小さくため息をついて、おれの目を真っ直ぐに見た。

 かわいいはずのその目が、今のおれには辛い…。

「それでね。メールでキミに連絡したのは…」

「心当たりがねぇか?って言うんだろ?」

「え?違うよ?」

 バンダイは、おれの予想と全然違う返事をした。

「とりあえずキミには、無理をしないようにってナナ君を説得して欲しいんだ」

 説得?おれに?つまり、病院に行けって言えって事か?

 拍子抜けするような話で戸惑ったおれは…、

「たぶん彼が一番懐いてるのは、キミだから」

 バンダイが何の気もなしに言ったその言葉で、胸を突きさされた…。



 オブチは眠ってた。

 ベッドの上で、額にアイシングバッグを乗せられて。

 バンダイが案内した部屋に居たオブチは、いつも見てきた以上に幼顔に見えた。

 こんな顔で眠るなんて、おれは知らなかった…。おれたちはお互いに知らない事だらけだった…。

 ただ、オブチが知らない事は、だいたいおれが隠してたせいで、コイツ自身は全く悪くねぇ。なのにおれは、コイツにあん

な事を言ったんだ…。

 バンダイの話だと寮は二人部屋らしい。オブチは事情があってこの部屋を独りで使ってたそうだ。おれはそんな事も知らな

かった。知ろうとしなかった。こいつの身の周りの事や生活の様子を訊こうともしなかった。

 オブチの部屋には、おれとバンダイが入る前から二人、先客が居た。

 片方は、ウチの学校で一番有名な生徒。「番長」井上大希(いのうえたいき)。小山のような巨体の、肥え太って尋常じゃ

ねぇ厚みがあるゴツい猪で、トレードマークは前をはだけた学ランから覗く「弱肉強食」ってプリントされた真っ赤なトレー

ナー。コイツが壁に背を預けて胡坐をかき、腕組みしたまま身じろぎもしねぇでじっとベッドを見張ってる。

 何で番長が?って思ったが、コイツは堅気の生徒を守る「正義の番長」だもんな。寮のメンツは皆、子分か舎弟みてぇなモ

ンで、面倒見てやる対象になってるのか…。

 もうひとりは、オブチが寝てるベッドの脇に座った、頭の天辺を赤く染めた堅肥りの雑種和犬。確か、おれから見てイッコ

下…オブチと同い歳の生徒だ。

 番長の弟分「番犬」。去年の入学から色々と派手にやってたおかげで、おれも顔と噂は知ってる。…もしかして、バンダイ

が言ってた「オブチの様子を見てくれてる縁がある同級生」って…、コイツの事なのか?アイツみたいなのが何でこんな不良

と交友関係にあるんだ?

「さっき一回うなされて起きました。粥はあんまり食わなかったけど、時間だったから熱さましと咳止めは飲ましときました。

そしたらコロッと…」

 立ち上がった赤頭がバンダイに報告する。オブチを起こさねぇように抑えたボソボソ声だった。小柄なレッサーパンダの目

線に合わせてか、少し腰を折って顔の高さを近くしてる。

「夕べは何回も目を覚ましてたんだよね?流石に疲れたのかも…」

「だったらだったで、このまましばらくグッスリしてくれりゃあいいんですけど…」

 バンダイと話しながら赤頭はおれをチラチラ見て来る。誰だっけ?って思い出そうとしてる様子だった。

「…ああ、彼がオオシロ君。雨の中急いで会いに来てくれたんだ」

「え!?」

 声が上がったのは、赤頭からじゃなかった。振り返ると番長が目を丸くしてる。…流石の番長も声が出るほど、一年前とは

様変わりしてるって事か…。

「じゃあ、ナナが遊びに行ってた…の…。………ん?「格好良い先輩」って…?」

 赤頭は変な顔になって軽く会釈して、おれをじろじろ見て、「…ナナの基準が判んねぇ…」って呟いた。

「けれど困ったな…。オオシロ君に説得して貰おうと思ったんだけど、熟睡かぁ…」

 バンダイはおれの顔を窺った。「せっかく来てくれたけど、今はちょっと…」って。

「…いや、ここで待つ。おれはオブチに謝らなきゃいけねぇし…」

 答えは決まってた。ここでオブチが起きるまで待つ。病院に行けって言うんだ。そして…、謝るんだ…。赦してもらえるな

んて思ってねぇけど、謝らなきゃ…。

「謝るって?」

 バンダイの問いに、おれは口を引き結ぶ。

 …そう、だな…。

 コイツの事を守って貰うなら、おれは、自分がした事を説明しなきゃいけねぇよな…。


 おれが部屋の真ん中でバンダイと向き合って座り、赤頭が傍で尻を据え、番長は壁に背を預けたまま視線だけこっちに向け

る。
そんな位置関係で、おれは自分がオブチに乱暴した事を含めて、洗いざらい話した。

 オブチが来てくれるようになって、本当は嬉しかった。

 そりゃあおれは留年してる引き篭もりだし、アイツはイッコ下で学級委員だし、歳が違うのにクラスメート。正直オブチが

おれをどう思ってるか判らなかったし、どう接して良いかも判らなかった。

 けど、おれも馴れてきて、オブチも懐いてきて、それからは…。

 そっけねぇ態度取ったりしたけど、本当はオブチが来てくれるのを心待ちにしてた。つるんでくれるのが嬉しかった。一緒

に遊ぶのが楽しかった。

 …なのにおれは…。

 あの日、一回帰ったオブチは誰から話を聞いたのか、傷のことを知って、引き返してきて、いきなり腹を見せろって言った。

 見せりゃあ良かったんだ。オブチはただ、おれとの距離を縮めたくて、気持ちを理解したくて、知りたかっただけなんだろ

うから。

 けれどおれは疑心暗鬼になって、オブチがおれを陥れようとしてるんじゃねぇかって…。引き篭もりの被害妄想なんて無縁

だって思ってたけど、篭り切りだといろいろおかしくなってくモンなのかもな…。バカな妄想だよ。ちゃんとオブチを見てれ

ばそんなヤツじゃねぇって判るのに…。判るはずなのに…。

 なのにおれは、にわかに膨れたオブチへの疑心と堪えてた欲求を、最悪の形で爆発させて…。そして…。

 知り合ってからこれまでの事。直前のやりとりから暴力を振るった経緯。おれはこの場で一通り、包み隠さず話して…。

「テメェ…!」

 赤頭がおれの胸倉を掴んで引き起こす。

 即座に左頬へ拳骨が入って横倒しになった。

 勢い余って床を滑って、ベッドの柱に軽く頭をぶつける。

 目の前でチカチカ星が踊った。視界が流れるように揺れた。鼻の奥から喉にかけて、生臭ぇ鼻血の匂いが充満した。

 ドスドスと歩み寄った赤頭が、また胸倉を掴んでおれを引き起こす。堅く握りこまれた拳が大きく引かれて…。

「よせコマザワ」

 赤頭の動きを止めたのは、大猪の低い声だった。

「………っ!」

 おさまらねぇ様子の赤頭は憤怒の表情で歯を食いしばって、番長の声に従って拳を下ろす。

「テメェは…!」

 上体だけ引き起こされて、座る格好で投げ出してるおれの脚を跨いで、間近から睨みつける赤頭が唸った。

「テメェはっ…!ナナがどんな気持ちでテメェんトコ通ってたと思ってんだ!?」

 声を叩きつけるように怒鳴り、喉をグルルと鳴らす赤頭。

「「先輩は親切だ」って、「先輩は頭がいい」って、「先輩は本当によくしてくれる」って…!コイツはいっつもテメェの事

褒めながら、誇るように話してた!他の先輩じゃねぇ!他のダチでもねぇ!地元のヤツでもねぇ!いつだってテメェの事ばっ

か話してたんだ!」

 オブチと仲が良いんだろう赤頭の、真っ直ぐな怒りが痛かった。殴られるより、ずっと痛かった…。

「「一緒に学校行きたい」って!「同じ授業受けたい」って!「同じ知り合いの話をしたい」って!「帰りに買い食いしてみ

たい」って!「先輩が好きそうなチョコパフェ見つけた」って…!いっつも…、いっつもナナは…!」

 オブチは、おれには友達の話なんてしなかった…。友達が少ないのかと思ってた。おれの同類かもな、って…。

 それが違ってたんだって、今は判る。この赤頭は本気で怒ってる。オブチのために。コイツみたいなコワモテの友達が居て、

へそ曲がりのおれにも付き合ってくれてたんだから、だいたいのヤツとは上手くやれる社交性があるんだろう。

 オブチはきっと、引き篭もりのおれに気を遣って、他の付き合いを話題にしなかったんだ…。臆病なほど優しかったオブチ

の気遣いを、おれは勝手に勘違いして…。

「ナナはテメェの事が好きだった!信頼してた!尊敬してた!いつだってナナのやりてぇ事の真ん中にはテメェが居たんだ!

それをっ!テメェはっ!!!」

 胸倉を掴む赤頭の手が、力んで震える。

「コマザワ。もういい」

 静かに、低く、番長の声が床を這った。

「でも兄貴!」

 振り返った赤頭に、大猪は「もういい」と、かぶりを振って繰り返す。

「お前の気持ちは、もう届いてる」

 顔を戻した赤頭の目に、不細工な白猫が映ってた。

 涙と鼻水で、顔はグショグショだった。ガキの泣き顔みてぇな、ひでぇ顔だった。

 えっく、えっく、さっきから鳴ってる音は、おれの喉から…。

 赤頭が舌打ちして、おれの胸から手を引いた。

「そんなツラで泣けんのに、何でテメェはナナを…!」

 ああ、何でだろう…。何でおれ、あんな事しちまったんだろう…。何でオブチを信じられなかったんだろう…。オブチの信

頼に、何故同じだけの信頼を寄せ返してやれなかったんだろう…。

 項垂れて涙を流すおれは…。

「せ…ん…?」

 酷くしゃがれた声を、でも誰のものなのかすぐ判る声を、耳裏で聞いた。

 耳を、首を、目を、すぐさま後ろに向けたおれを、目を開けたオブチが見てた。

「ナナ!起きてたのか!?」

 赤頭がギョッとしたような声を上げ、「ヤベェ、俺が起こしちまったのか…!」と決まり悪そうに唸る。

「先輩…」

 オブチの目は焦点が合ってなかった。ただぼんやりとおれに向けられてる。

 その目が、嬉しそうに細められた。

「また…、会ってくれた…」

 布団の中から出てきた小さな手を、慌てて両手で包んだ。

「嬉しい…」

 少しだけ綻んだ口から漏れたのは、痛々しく掠れた声…。

「先輩…」

 おれは、詰まった鼻の奥で「うん…」って返事をした。

「ごめんね…」

「違う…。おれの方がゴメンだ…。お前は何も悪くねぇんだよ…」

「先輩…」

「うん…」

「赦して、くれるの…?」

「違うって…。赦して貰わなきゃいけないのはおれの方だよ…」

 オブチが、救われたように微笑んだ。何も悪くねぇのにおれのせいで酷い目に遭って、なのにコイツはおれを責めもしねぇ

で、ただ、ただ、赦されたいって…。

「先輩…」

「うん…」

「また、一緒に、遊んでくれる…?」

「うん…。うん…!」

「…よかった…」

「………」

「嬉しい…」

「………………」

 声が出なくなった。オブチの手を包んだ両手に、額を押し当てる。

「先輩…」

「うん…!」

「もう、学校行こうって、言わない…」

「………」

「ごめんね…。言われるだけで、辛かったね…」

「いいよ…。もう謝んなよ…。いいんだよ…。お前は何も間違ってねぇんだよ…!」

 両手で挟むとすっぽり隠れる、オブチの小さくて薄い手は、いやに熱くて蒸れていた。

「学校行くよ…!お前と一緒に、行くよ…!」

「………」

 オブチの目が瞑ってるように見えるぐらい細くなって、にっこり笑って…。

「ああ…。夢でも、嬉しい…」

 すぅって、目を閉じたオブチが息を吐く。体力的にも弱りきってんだろう、呼吸はすぐ規則正しい寝息になった。

 小さな手を包んだまま、おれはオブチに囁きかけた。

「夢じゃねぇよ…。約束する。学校行く。お前の願い事、おれができる物は全部叶えるって約束する…。二度と、お前を裏切

らねぇって…、約束…!」

 言葉の後半は嗚咽になった。

 学校に行く。もしそれでオブチが危ない目に遭っても、必ず守る。犯人見つけてとっちめる。おれは、全力でお前の願いを

叶えるから…!

「…バンダイ?」

 おれの後方で、番長がずっと黙ってたバンダイに声をかけた。訝るような調子で。

「ん?…ああ、ごめんイノウエ君。ちょっと気になる事があって…」

 考え事に没頭してたらしいバンダイが、「オオシロ君、ちょっと質問があるんだけど」って声をかけてきて、おれはオブチ

の手を握ったまま体をずらし、顔をレッサーパンダに向けた。

「さっき、キミはナナ君がお腹の傷を確かめようとした、って言ってたよね?」

 何の話かと思ったら、バンダイは最初にここでした経緯説明の事を持ち出してきた。

「ナナ君にはキミが話したの?危ない罠が仕掛けられてた、って…」

「え?いや…、そういう話はしてねぇ…」

「そうだね。やっぱりキミから積極的に話すような事じゃないよね。…だから判らないんだ」

 おれもバンダイが何を気にしてんだか、さっぱり判らなかった。が…。

「キミが嫌がらせでお腹に傷を負った時の事、なるべく詳しく聞かせてくれないかな?」

「…なんで今更…」

「ボクらは今日初めて知ったんだ。キミが最後に登校した日、何が起こったのか」

 …?おれが思ってるほど、噂になってなかったのか?


 最後の下校時の話を終えたら、バンダイは「やっぱりおかしい…」って呟いた。

「キミが最後に登校してた日、最後の姿を見た生徒達の証言は全部纏められてるけど、そこでは誰も、キミが言った下駄箱の

罠について話してない。何人かは「何か落として、それを鞄に詰めて、帰った」って様子を説明してたみたいだけど…。仕掛

けられてた罠には、居合わせた生徒達も気付いてなかったと思う」

 …え?

「なのにナナ君は知ってた…。キミが話したんじゃないなら、先生方も生徒会も居合わせた生徒達も知らなかった事を、ナナ

君は一体何処で誰から知ったんだろう?」

 …ちょっと待て。おかしいぞ?それは確かにおかしい…。

「おれ以外知らなかった?あの罠の事を?噂にもなってねぇのか?」

「うん。噂になるどころか、調べていても全く浮上して来なかったよ」

 じゃあ、だったら、何で?

 おれから話した事はねぇ。なのに何で「アイツ」は知ってたんだ…?

 息が止まったおれを、バンダイはじっと見つめる。

「オオシロ君。これは質問じゃなく、糾弾でもなく、キミに改めて考えて欲しくて言うんだけれど…。ナナ君に乱暴したのは、

どうして?」

「………」

「何で感情が爆発しちゃったの?」

「………………」

「キミがそうなってしまった原因は何?」

「………………………」

「ナナ君を疑ってしまったきっかけはある?」

 …そんな…。

 そんなはず…。

 衝撃で声が出ねぇおれを見ながら、バンダイは小さく顎を引いた。

「判ったよ。キミへの「嫌がらせ」は、今もまだ続いてたんだ」



「…あれ…?」

 ブチ犬が薄く目を開けて、おれを見て戸惑うように瞬きする。

「…先輩…だ…」

「ああ」

 頷いて、両手で包んでた小さな手の甲をさする。

 バンダイと番長は居ねぇ。座布団を畳んで枕にしてるコマザワは、高いびきで仮眠中。

 バンダイの話じゃ、コマザワはオブチが体調を崩してから、学校に行ってる間以外は殆どこの部屋に詰めて、ずっと容体を

見守ってたらしい。大した番犬だが、流石に体力も限界だったんだろう…。

「…夢じゃ、なかった…」

 オブチがか細い声で呟いて、おれは「ん?」と聞き返す。

「…さっき…、夢、見てたと思ってました…」

「…そうか…」

 オブチはぼんやりした目を天井に向けた。さっきは熱で朦朧としてたんだな…。

「…先輩…」

「うん?」

 か細い声をちゃんと聞けるように、身を乗り出して顔を近づける。

「本当に、ぼくのこと、赦してくれるんですか…?」

「…バカ…」

 泣きそうになったおれは、オブチの手をギュッと握った。

「赦して欲しいのはおれの方だ…。おれはお前にひでぇ事しちまった…。取り返しのつかねぇ事を…!」

「…じゃあ…」

 オブチは力無く、口元を緩ませた。

「「おあいこ」ですね…?ぼくも、先輩の気持ちを知らないで、ずっとずっと、酷い事してきたんだから…」

「バカ…!お前のは酷い事なんかじゃねぇよ…!何も悪くねぇよ…!おれが一方的に悪いんだよ…!」

「先輩…」

 小さなブチ犬は、布団からもう片方の手を出して、おれの顔に伸ばした。

「泣かないで…」

 この間と同じ。オブチはおれの頬に触れて、こぼれた涙を親指でそっと拭ってくれた…。

「…なぁ、オブチ…」

「はい…?」

「喉とか、渇いてねぇか?水分取らなきゃ、な?」

「はい…」

 細い体を抱き起して、背中を片手で支えてやって、常温にしてたスポーツドリンクのボトルを渡して、ゆっくり、ゆっくり、

ちょっとずつそれを飲むオブチを、おれは傍でじっと見守った。

 体温を計ったら、熱は少しだけ下がってた。

「飯、どうする?粥があるけど、食うか?」

「…少しなら…、食べたい、かな…」

 オブチは、頑張ろうとしてた。良くなろうと、元気になろうと…。きっと、心配かけたくねぇから…。

 健気なコイツの顔を見てたら、何でもやれる気がしてきた。

 バンダイと話した事も、ちゃんとやれる…。

「…オブチ、また寝とけ。な?」

 粥を匙で四つだけ食ったブチ犬に、横になるよう促した。けどオブチは小さく頷いただけで、寝転がろうとしなかった。

「先輩…」

「ん?」

 オブチは顔を伏せて、か細く呼びかける。

「ぼく、先輩の傍に居たいです…」

「………」

 おれは、返事ができなかった。

「ずっと、一緒に居たいです…」

「………」

 おれは、オブチの肩に腕を回して、そっと、慎重に、抱き寄せた。

 怖がる素振りが、嫌がる素振りが、ほんの少しでもあったら辞めようって…。

 けどオブチは、そのままおれに身を任せて…。

 ぽふっと、軽い肩がおれの胸に当たった。

「…先輩…」

 寄りかかるように身を預けて、目を閉じたオブチは、嬉しそうに耳を倒してた。

「…ゴメンな…、オブチ…」

 声が震えた。

「痛い思いさせて、ゴメンな…!酷い事して、ゴメンな…!怖い思いさせて、ゴメンな…!」

 力いっぱい抱き締めたら怪我でもしてしまいそうな、弱って熱い子犬を、おれは両腕でしっかり抱える。

 オブチは嬉しそうに目を閉じたまま、抱えるおれの腕に手を這わせた。

「…先輩…、柔らかい…」

 …コイツの願いを叶えられるように、おれは、何だってやる…。




 これは、その同時刻に、ある部屋で、ある二頭が、雨音も騒がしい中で交わした会話である。

 

「…ねぇ、タイキ」

「うん?何?」

「例えば、キミは虐められたくはないよね?」

「そりゃあそうだよ!?オレMっ気は無いからね!?」

 レッサーパンダは片目を瞑り、スマートフォンのカメラレンズに定規を当てて正確に寸法を測っていた。大猪は隣に座って

その手元を眺めている。サイズが違いすぎるので親子のようにも見える組み合わせだった。

「そう、嫌だよね。例えば、他人が虐められるのはどうかな?」

「それも嫌だよ。見てても気分良くないだろう?虐めなんて…」

「そう。真っ当な精神ならそうだよね。ボクみたいなサイコパスを除けば」

「だからナルゥ…!自分の事を普通にさらっとそんな風に言うのはやめなって、いっつも言って…」

「じゃあ例えば、自分が原因で誰かが虐められるのはどうかな?」

「…えぇ~?それは一番キツいかなぁ…。自分の事なら我慢も考えるし、逃げるとか隠れるとか色々やりようがあるけど、自

分のせいで誰かに迷惑っていうのはちょっと…」

「そう、自分がいくら我慢しても、それは…」

 レッサーパンダは言葉を切って、スッと視線を上げた。

「ありがとうタイキ、参考になるよ。オオシロ君が学校に来なくなった、彼の気持ちが挫ける一手…、やっと理解できた」

「………」

「オオシロ君が学校に行けば、あれだけ執拗だった犯人は何らかのアクションを起こすだろうね」

「それなんだけどさ…」

 大猪は太い眉をグッと寄せて眉間に皺を刻んだ。

「オオシロ君の話を聞いたから思うんだけど、また別の誰かの下駄箱に罠を仕込まれたりしそうじゃない?」

「大いに在り得るね。というか、むしろそれを想定に入れて対策を練ってるから、そう出て貰えると楽に行くんだけど。…タ

イキ、携帯ちょっと貸して」

「はい。…それで、どうにかする作戦は思いつけたの?犯人を捕まえるためって言っても、ナナ君とオオシロ君を危険に晒す

わけでしょ?オレにできる事なら見張でも何でも勿論やるけど…」

「あれ?珍しく積極的だね?」

 珍しいのはどっちかな?と思った猪だったが、口には出さなかった。

「ありがとうタイキ。でもとりあえずは見張りには使わないでおくよ。一年前は生徒会が協力体制を敷いて見張りを立ててい

ても一回も捕捉できなかった相手だからね」

「今回も生徒会総出でやるの?」

「ううん。生徒会が本格的に動くほど事が大きくなるようだと、オオシロ君はともかく今度こそナナ君が参りそうだし、そこ

まで野放しにしておくのも気分がよろしくないし、短期決着を狙いたい」

(やっぱり、今回は意外とナナ君に配慮してるねぇナル…)

 そんな事を考える大猪は、不安げに耳を倒して口を開いた。

「…大丈夫かな?ナナ君とオオシロ君、ちゃんと仲直りできるかな…」

「そっちは気を揉んでも仕方ないよ。ナナ君が強姦された事実も、オオシロ君がどうやって落とし前をつけるかって事も、も

う外からどうこうできる事じゃないしね」

 大猪に携帯を返したレッサーパンダは、軽く肩を竦めた。

「「既にあった事」は「無かった事」には絶対にできない。そして、当事者間でつけるべき決着に外野があれこれ口を出すの

はおこがましい。あとは、あのふたりの問題だよ」

「そういう物…?」

「ボクらの関係についても、外からどうこう言われたくないでしょ?」

「いや、そりゃあそうだけど…」

「これからボクがすべきことは後片付けだけだよ。ボクらの生息域の環境を正常に近付けるために、不要なものは取り除く」

 レッサーパンダの言葉に、しかし大猪は無言のまま、返事も首肯もできなかった。全身の剛毛がブワッと逆立って、ただで

さえ大きな体が一回り膨れている。

「いい「活餌」が手に入った」

 レッサーパンダは薄笑いに口元を染めていた。冷たく、艶やかに。

「パズルのピースは揃ったから、あとはいつも通り「嵌める」だけ…」

 確かに、レッサーパンダ自身が言う通り、彼は神でも悪魔でもないだろう。だが…。

(ナルは…、魔王だもんね…)

 このレッサーパンダがその気になったらどれだけ恐ろしいか、大猪は知っている。

「さあ、狩りの準備はできたよタイキ」




 久々の登校は金曜日だった。

 誰が驚いたって、家族が一番驚いてたな…。

 相変わらず外の広さで気分が悪くなって、家からすぐの公園でゲェゲェやったが、胃が空っぽになればしばらくは平気だ。

 ワイシャツは前が合わねぇから無理だったが、学ランは何とか着れた。ただ、肩とかはパンパンで、前はやっぱり締まらな

かった。

 ズボンも前ホックが届かなくて、ベルトで何とか止めたものの、チャックが半分空く不恰好さだ。ワイシャツ代わりに薄手

のトレーナーを着たが、これもピチピチで胸とか腹とかラインが浮き出た。
トレーナーが赤いせいで、何だか番長みてぇな格

好になっちまった。流石に「弱肉強食」とは書いてねぇけど…。

 学校行ってすぐ、新しい担任と去年の担任に捕まって相談室に連れ込まれた。ものすげぇ心配そうな顔で、腫れ物に触るみ

てぇな態度。無理するなよ、調子悪かったらすぐ先生に言えよ、そんな事を延々と言われた。…やっぱ、悪ぃ先生じゃねぇん

だよなどっちも…。

 チャバタもすっ飛んできた。大丈夫かよ、って。

「気紛れに来ただけだ。飽きたら帰る」

「そっか。ま、無理すんなよ?」

 教室に入ったらクラスが静かになった。そりゃそうだ。誰?って感じだろ。

 視線は気になるが我慢した。授業の方は、丁度おれが最後に習ってた辺りをやってた。教室の中に居る分には、窓の外を見

ねぇで黒板と手元だけ見てりゃあそれなりに平気で過ごせた。ぶっちゃけ、グラウンドの広さは見てるだけで気分が悪くなる

からな…。

 オブチは今日も休みだ。熱はもう微熱レベルまで下がったってバンダイが教えてくれた。念のため今日だけ休ませたってさ。

 コマザワが時々廊下をうろついたりして視界に入った。たぶん番長に命じられておれを見張ってるんだろう。おれの事は気

に入らなくても、ナナの為だし兄貴分の言いつけだから、熱心だった。

 久々の学校は居心地がいいとは言えねぇもんだった。何とか一日耐えたら…、もうグロッキーになった。

 エラいな皆…。あと一年前のおれ…。こんなの毎日やってたのかよ…。

 用心して下駄箱を開けて、靴を取り出す。流石に何の準備もできてねぇんだろう、今日のところは嫌がらせは無かった。

 帰り道は、…やっぱりコマザワがこそこそ尾行して来た。学校外で危害を加えられる事まで警戒してんだろう、「番犬」の

監視は徹底してる。幸い家に帰るまで何も無かったが、問題は週明けだな…。

 しかし、キツい…。外を歩いてるだけで気持ち悪くなって来る…。慣らして行かなぇとな、コレも…。

 窮屈な制服を脱いで、馴染みの肌着姿になったおれは、まずゲームを立ち上げてオブチのアカウントにメールを送った。

 学校に行ってきた事、何も無かった事、あと、オブチの体調の事…。

 報告と質問を送って、不便さを感じた。

 引き篭もってから携帯は放り出してて、その内に解約された。直接やり取りできる連絡手段はゲームだけ。…これから携帯

は必要になるか…。気は重いが、親に頼んでみるかな…。



―月曜日からは迎えに行きます―

 晩飯の時間あたりに、オブチから返信があった。よし、今日はちゃんと寝てたんだな…。

『一緒に登校できますね!』

 ルームを作ってキャラを顔合わせさせて、音声チャットをオンにしたら、オブチは喜んで言った。

「あんまり傍に寄んねぇ方がいいぞ」

『え?どうして…』

「服キツくて変な格好だからな」

 少し間をあけてから、オブチが小さく吹き出すのが聞こえた。

『でも、シャツとパンツよりはまともでしょう?』

「いや、そりゃあまぁそうだけどな…」

『今度一緒に買い物に行って、服探ししましょうね?』

「ん…」

 本気で、外出に体と心を慣らさねぇと…。

 しかしまずは「犯人」だ。そっちが片付かねぇ事には安心できねぇ。バンダイも備えてくれてるが、なるべく早くケリがつ

いて欲しいトコだな…。

「今日はゲームしねぇからな?微熱も完全に無くなって、バンダイがオッケー出す体調になるまではダメだ」

『我慢します…』

「よろしい」

 偉そうに言って、おれはオブチにおやすみの挨拶をする。

「しっかり休めよ?月曜は絶対、一緒に行こうな」

『…!は、はいっ!』




 そして、月曜日。

 一年ぶりに思い出す憂鬱な月曜日気分。だが、今朝は…。

 少し早めに玄関を出て、門の前で左右の道をキョロキョロ見渡す。

 妙にドキドキしてるのは、緊張と、嬉しさのせいだろう。

 ややあって、オブチが道の角から姿を見せた。そしておれに気付くとパァッと顔を輝かせて、子犬みてぇにパタパタ走って

来る。

「おはようございます!」

「…おはよ」

 オブチは、いい笑顔だった。すっかり元気になって、尻尾がブンブン振られてた。

「何だか番長さんみたいな格好ですね?」

 頭を掻くおれの、前があいた学ランからはみ出る胸と腹、そしてそれにピッチリフィットするキツキツのトレーナーを見て、

オブチは同じ感想を抱いたらしい。

「おれも思った。ワイシャツが入らねぇから、何とか着れるコイツで行くしかねぇんだよな…。まぁ…」

 言葉を切り、オブチの顔を見ながら改めて思う。

 終わったら、だ。服の調達も、コイツへの埋め合わせも、無事に終わったら…。

 

 キツい一日が、また始まった。

 視線が気になるし外は広いし犯人の動向には気を配らなきゃいけねぇし、気疲れする…。今日のコマザワは金曜日ほどウロ

ついてなかった。

 大丈夫だ。…って思った訳じゃねぇ。犯人が動きやすいようにわざとフリーになる時間を作ってるんだ。おれも休み時間ご

とにトイレ行ったりして机から離れた。

 オブチは気遣う視線を向けてくるが、余裕を見せるだけの元気はあんまりねぇ。

 早く終われ学校。早く終われ事件。

 呪うように念じながら何とか一日乗り切って…。

 

「結構、席離れたりもしたんだけどな…」

 結局何も仕掛けられねぇまま放課後になって、おれはオブチと一緒に昇降口に入った。

「どういうタイミングで来るんでしょうね…」

 オブチは小声で応じる。「もしかして諦めたとか?」って期待してるが、…どうかな…。

「犯人のひとって、もう卒業してたりして?去年の三年生だったとか…」

「それはねぇ」

 おれが即答したら、オブチは「え?」と目を丸くした。

「まぁ、何となくそう思うだけなんだけどさ…」

 はぐらかしながら下駄箱に手を伸ばす。

 学年が一緒になったせいで、おれとオブチの下駄箱ロッカーはすぐ近くだ。肉が付き過ぎた腹が窮屈になる、苦手な前傾で

屈んで、気をつけながら扉を開けて…。

「…!」

 そこに、紙があった。

 文字を切り貼りした紙が。

 内容は、…読んでる余裕なんかねぇ!

「ナナっ!」

「え?」

 顔をこっちに向けたブチ犬の手は、もう扉を開きかけて、隙間ができてて…。

 頼む!間に合えっ!

 細い腕を掴む。

 乱暴に引っ張る。

 下駄箱の扉が開いて…。

「っ!」

 オブチはバランスを崩してコケて、おれにぶつかってきた。

 こんな時は肉厚になった体が役に立つ。オブチを胸と腹で受け止めて、抱え込んで、そのままスノコを蹴って後ろ向きに倒

れ込んだ。少しでもソコから離れるように。

「ギャン!」

 痛いってより、ビックリしてだろう、オブチが悲鳴を上げたその後ろで、パリンって、硝子が割れる音がした。耳障りな音

を立てて破片が散らばる。

 オブチの下駄箱から飛び出して来たのは、硝子瓶だった。それも、中に何かの液体が入った…。

 気化してるのか、目と鼻にツンと来る刺激を感じた。首だけ振り向いて驚いて固まってるオブチをしっかり抱き締めたまま、

おれはじりじり尻を擦って後退する。

 …薬品…か?

 まともじゃねぇ…!

 まともじゃねぇ、が…。

 自然と、おれの牙が剥き出しになった。

 この「まともじゃ無さ」…、間違いねぇ…!一年前、下駄箱にカッターを仕込みやがった、ヤツの仕業だ…!

「せ、先輩…?」

 オブチは不安げにおれを見る。ただそいつは「自分が危ない目に遭った不安」じゃねぇ。「おれがまた危ねぇ目に遭う不安」

だ。だから、オブチの目はおれの、服に隠れた傷跡の辺りをチラッと見てた。

「先輩…!」

「大丈夫だ、オブチ」

 居合わせた生徒が周りで騒ぎ出す中、おれはオブチをしっかり抱えて囁く。

「もう、大丈夫だ…」

 オブチと自分に言い聞かせながら、おれは硝子瓶が当たって砕けた側…オブチのとは反対側の下駄箱を見遣る。

 その中の二つ…、丁度おれの下駄箱とオブチの下駄箱の正面にある扉には、本当に小さな、パッと見ただけじゃ木目の節か

模様にしか見えねぇ穴があいてた。




 これは、その翌日の放課後に、ある部屋で、ある二頭が交わした会話から始まったことである。

 

「ゴメンね?練習中に呼び出して…」

 生徒も部活に行ったり帰ったり、校舎内から数が減ったその時刻、利用予定が無かった家庭科実習室では、背が低くて丸っ

こいレッサーパンダが、向き合う相手にスマートフォンを差し出していた。

「動画?」

「うん。それが入ったミニSDカードがボクの机に入れられてたんだけど、中身が中身だから、誰に相談したらいいか迷った

んだ。オオシロ君の事だから、他の誰かに言う前にキミに確認して欲しくて…」

 困惑している様子のレッサーパンダに促され、画面に指が触れて、動画が始まる。

 映っていたのは、昇降口の下駄箱。

 そこに、周囲を窺いながら茶色い猫が現れる。

 そして茶色い猫は下駄箱の扉を開け、透明な液体が入った小瓶と、竹ひごの仕掛けを入れて、別の扉の隙間には紙を差し入

れて…。

 それは、標的になった下駄箱の向かい側に、そこを使っている生徒に話をつけて、カメラで撮影できるギリギリのサイズの

穴をあけて、スマートフォンを仕込んで撮影した物だった。

 画面を凝視したまま、スマートフォンを握る手を震わせている相手へ、

「…映ってるのはキミだね。オオシロ君の「親友」、チャバタ君…」

 レッサーパンダは口調を変え、静かに、涼やかに、囁きかけた。

「…それで?」

 茶猫は口の両端を少しだけ上げて笑顔になる。ただ、目は笑っていない。

「「他の誰かに言う前に」直接話をしに来たのは、強請るつもりだから、か?」

「話が早くて助かるよ。やっぱりキミは賢いね」

 レッサーパンダも笑顔を作る。

「寮生って色々とお金が要り様なんだ。協力してくれたら助かるんだけどな」

 茶猫は「仕方ない、か…」と頭を掻く。

「今年は受験だからな。大会も近いし、処分なんか困るし…、オーケー、従うよ」

「良かった!これからよろしくね!」

 レッサーパンダは「早速だけど、いま欲しいものがあってね」と出入り口に向かい…。

 直後、茶猫が後ろから飛び掛る。

 抑え付けて痛め付けて主導権を取り返す。相手は小さなレッサーパンダ。脅して言う事をきかせるのは簡単。

 …と、茶猫は思っていた。

 肩を掴んで後ろ向きに引き倒す。そのつもりで伸ばした腕が絡め取られたのは、一瞬後の事。

 レッサーパンダは、背後から伸ばされる手が見えていたかのように、絶妙なタイミングで止まり、身を捻っていた。

 振り向き様に茶猫の袖を取り、突っかかってきた相手の懐に潜り、ぐっと低く身を沈め…。

 ポーンと、茶猫が前方宙返りで空中を舞った。

 そのまま背中から床に叩きつけられた茶猫が、息を詰まらせて呻く。

 一本背負いにも似た格好で茶猫を投げたレッサーパンダは、片膝をついて腰を落とし、茶猫に向かって半身になり、五指を

広げた両手を軽く上げた残心の構え。合気道のソレである。

「!?!?!?」

 予想外の迎撃にあわを食った茶猫は、起き上がるなり出入り口に向かって走った。目的は、そこにある清掃用具入りのロッ

カー。凶器になり得る物は学校の何処にでもある。

 が、茶猫がそこへ到達するよりも早く、教室の戸が勢いよく開けられた。

 廊下への出口は、しかし無い。戸が開いたら現れるはずの空間は、小山のような巨体で埋まっていた。

 立ちはだかる大猪を、その胴に記された「弱肉強食」を、茶猫は目を見開いて凝視した。

「システム!「ナナ」!」

 レッサーパンダの鋭い声に反応し、ハッとした大猪は、体が覚えたナンバーシステムに沿う迎撃を実行する。

 驚いている茶猫は制動もかけられずに、一歩踏み込んだ大猪の制空権内に入り…。

 ゴグチャッ!

「!!!!!!!!!!」

 もんどり打って床に叩きつけられる茶猫。叩き伏せたのは大猪の右拳。肩よりやや上の高さから打ち下ろされたハンマーの

ような拳骨が、茶猫の顔面中央を捉えていた。

 ボクシングのナンバーシステム。相手の体の攻撃候補箇所に割り振られた番号の内、良く知られた「1、2」は左右の頬が

該当する。そして「7」とは、顔面の中心線…顎や鼻などを指定するナンバーである。

(やばっ!咄嗟だったから思いっきり体重乗せて殴っちゃった!)

 想定以上にいい手応えがあり、ジンジン痺れる拳を握り固め、内心青ざめる大猪。繰り出された拳はチョッピングライトの

形で鼻に命中し、駆け込んできた茶猫の勢いと、150キロ超の大猪の体重が併せて乗った、鮮烈過ぎるカウンターになって

いた。

 鼻が潰れる強烈な一発である。ひっくり返った茶猫はマズルを両手で押さえ、鼻血で顔面の半分を真っ赤に染め上げ、声も

無く転げ回っていた。

「お見事」

 褒めるレッサーパンダ。

「どうも」

 明らかに顔色が悪い大猪。

 痛みにアウアウ呻いている茶猫に歩み寄って、レッサーパンダはその鼻血塗れの顔を見下ろした。

「チャバタ君。今この部屋でキミがボクに襲い掛かった様子も録画してあるんだ。キミがさっき見た物、今の現場を押さえた

物、どっちの動画も大スクープだ」

 レッサーパンダが茶猫に対して「他の誰かに言う前に」と言った事すらトラップ。そうすれば自分の口を封じるために実力

行使に出るだろうと踏んで、誘いをかけていた。

 教室内のロッカーの中からは二台目のカメラ…、大猪から借りたスマートフォンがこの場を覗いている。先に手を出したの

がどちらか、証拠として押さえるために。

「「本命」がまた登校してきた。しかも「オマケ」つきで。去年と同じ事ができるこの状況と顔ぶれで、犯人が食いつかない

はずがないと思ったよ。上手く行った事をもう一回やろうとするんじゃないか、って」

 白猫は自分自身より、身近な相手を狙われた方が堪える。今回は身近な相手として、懐いているブチ犬が居る。犯人がここ

を狙って仕掛けて来る可能性は高い。

 レッサーパンダは、ふたりが危険に晒される可能性も考えた上で、白猫とブチ犬を「活餌」として利用した。犯人をあぶり

だすために。

「もっとも、キミが去年と同じく自分のロッカーに仕掛ける可能性も無い訳じゃあなかったから、スマホが三台も必要になっ

ちゃったけどね。手間をかけさせてくれるよ本当に。…ただ、キミは少しばかり調子に乗り過ぎた。オオシロ君を間近で見て

優越感に浸りたかったんだろうけど、彼を弄るために喋り過ぎた。ナナ君との仲も壊したかったんだろうけど、欲をかき過ぎ

て蛇足になった」

 すらすらと述べるレッサーパンダは…、

「栄枯盛衰。一年間いい目を見たけど、それもここまでだね。「テニス部のエース君」」

 茶猫を見下ろして、その本性たる表情を見せる。

「ボクらの世界に、キミは要らない」

 路傍の石に向ける以下の、下らないものを仕方なしに眺めるその双眸は、容赦もなく慈悲もなく、冷徹で冷酷で冷淡で…。

「この学校で、キミが心安らげる日は二度と来ない」

 レッサーパンダの冷た過ぎる無表情と、正視すれば底無しの奈落を覗くような感覚に囚われる瞳に、本能的な恐怖を覚えて

後ずさった茶猫は、ドンとどっしりした物に背をぶつけ、慌てて顔を上げる。

 見上げた茶猫の視界上半分は、半円形に出っ張った腹。その向こうには、自分を睥睨する厳しい猪の顔。

 前にも後ろにも逃げられない茶猫に、レッサーパンダは囁き続ける。

「覚えておいて。そんな事はボクが許可しないって」

 カタカタと、茶猫が震え始めた。

 同じ学校に、こんな「生き物」が居るなどと思ってもみなかった。

 可愛らしいはずのレッサーパンダの顔の中から、自分にひたりと据えられたその両目はハイライトを消していて、底なしの

奈落か虚ろな穴のようにも見えて、高所から地面を覗いた時のソレにも似た眩暈すら伴う感覚で、はっきりと理解できた。

 「ソレ」が、人道や道徳や常識や人情からは、酷く離れた歪な存在であるという事を…。

「それじゃあさようなら。自主退学するなり不登校になるなり、選択はキミに任せるよ」

 レッサーパンダが微笑む。

 その、友好性の欠片もない、完全な作り物たる無機質な笑顔は、茶猫の脳裏から生涯消える事は無かった。




 日曜午後の日差しが、梅雨空を裂いて窓を照らす。

「やべぇ…。これっぽっちで脚パンパンだ…。足の裏まで痛ぇとかどんだけ運動不足だよ…」

 一年部屋に篭ったツケだなこりゃ…。床の上に脚を投げ出したおれに、トタトタ小走りに移動して飲み物やコップを用意し

ながら、オブチが「大丈夫ですか?揉みましょうか?」ってオロオロ声をかけてきた。

「いやそこまではいいって!…ちっくしょ~…。買い物行っただけでコレはヤバ過ぎる…!」

 おれは今日、オブチと一緒に買い物に出かけた。着られる服とか用意しねぇといけねぇから。ところが、オブチも喜んで付

き合ってくれたショッピングは、半日で切り上げる結果になった。おれの脚と体力が限界で…。
結局家に帰るのも大変で、今

はこうして寮の一室…オブチの部屋にお邪魔して休憩中。

「はぁ…。頑張って痩せるか…」

 汗を拭って脚を揉み、ボヤいたおれに…。

「え?」

 チョコレートドリンクを持ってきてくれたオブチは、変な声を出して目を丸くした。

「「え?」って何だよ?」

「痩せるんですか?」

「何言ってんだその方がいいだろ?」

 視線を逸らして口を尖らせる。

「こんな見てくれ悪ぃのと一緒に外歩くの嫌だろ?」

「そんな事…」

 オブチは心外だって言いたげな顔になる。

「先輩は鏡餅でも格好いいですよ?」

 …いま鏡餅っつったかこの野郎…。

「正直に言うと、最初の頃は確かに、どうしてこんな風に…って感じたりもしました」

「本当に正直なのなお前…」

「でも、今は…」

 オブチは尻尾を振って、耳を寝かして、恥かしそうに笑う。

「ふとっちょになった先輩も好きです!柔らかいし!可愛いし!中味は同じですし!」

「………」

 鼻先をポリッと掻く。コイツは時々変に正直すぎて、失言っぽい事を口走ったり、こっちがくすぐったくなるような事を漏

らしたりする…。

 あれから三週間…。

 おれは外の広さにも少し慣れて、クラスの連中もおれに馴れてきた。

 一週間程度で早くもクラスに馴染み始めたのは…、やっぱりオブチの存在が大きいな。コイツは何言うか…、そう、世話焼

きなんだ。皆と仲がいいし、そこそこ頼られてもいるっぽい。学級委員に選んだクラスの連中の目は正しかったんだろう。

 コマザワは相変わらずおれが気に入らねぇ様子だが、それでもまぁ、若干マシな接し方になってきた感じもする。

 …オブチは…、おれの事を全く恨んでなかった。それで帳消しになるわけでも、罪悪感が消えるわけでもねぇけど、トラウ

マになって引き篭もったりしなかった事についてはホッとしてる。

 ただ、部屋の外でも会って、おれのリハビリがてら一緒に出かけたりするようになって、初めて気付いた事がある。

 何か、ナチュラルに勘違いされてるっぽい。

 オブチは時々差し入れにチョコクッキー持って来てたんだが、どうやらおれの好物はチョコだと思い込んでるらしい。チョ

コは嫌いじゃねぇけど、特に好きって訳でもなくて、まぁ、普通。家に置いてあったから食ってただけで。おれの体型がこん

なんになった原因もたぶんチョコ菓子のカロリーだろう。

 ところが、オブチはおれと出かける事を楽しみにして、チョコスイーツの美味い店を山のようにチェックしてた。

 …言えなかった…、別に好物じゃねぇんだって事は…。

 だってアイツものすげぇ目ぇキラキラさせて無茶苦茶尻尾振っておれが喜ぶの期待しまくってて…。

 ああそうだよ。超喜んでるふりしたよ。幸せ子犬の顔見ながら誰が言えんだよホントの事。…ちなみに今日はチョコパフェ

とチョコたい焼きとチョコバナナ食わせられた…。胸焼けしたし絶対体にキくカロリー量だ…。

 ただ、この三週間で変化したのは、おれとオブチだけじゃねぇ。

 学校からひとり、生徒が減った。

 ソイツはテニス部のエースで、今年の大会で上位入賞期待されてて、そしておれの…。

 ………。

 何で、こんな事になっちまったんだろうな…。

「先輩。大丈夫ですか?」

 ハッと顔を上げたら、チョコバーを乗せた皿を手に、傍でペタンと正座するオブチの顔。

「脚?ああ、だいぶ楽になった」

「そうじゃなくて…」

 オブチは顔を近づけて目を覗きこんでくる。

「参ってませんか?その…、チャバタ先輩の事で…」

「…ああ…、そっち…」

 正直、犯人がチャバタだって知って無茶苦茶へこんでる。

 アイツとはいいライバルで、親友で、一緒にコートに立つパートナーで…、そう思ってたんだけどな…。

 腹は立つ。けど、もういいや、っても思う。もう悪戯が仕掛けられる心配はねぇし、オブチが狙われる事もねぇ。一年間の

引き篭もりについても、…まぁ、いいや。何やったって今更なかった事にはならねぇし。

 バンダイから聞いた話だと、チャバタはおれに嫉妬してたんだと。

 …バカみてぇだよ…。嫉妬だってさ…。アイツと俺は客観的に見てほぼ五分五分だった。でもアイツは、おれの方が上だっ

て思い込んでたらしい。

 犯行が明るみに出た後、チャバタは「一身上の都合」で自主退学した。アイツの両親がおれの家に謝罪に来た後、住んでた

マンションは引き払われた。今アイツがどうしてるのか、何処に越して行ったのか、そういうのは全然判らねぇ。

 たぶん、おれ達が会うことはもう二度とねぇんだろう。

「平気だって」

 心配してくれるオブチがいじらしくて、おれは無理矢理笑顔を作り、ちっさいブチ犬をヘッドロックで抱え込む。

「一緒に居てくれるヤツは、ほれ、こうしてここに居るんだからな!」

 頭をペシペシ叩いたら、オブチは笑って「ギブギブ!ギブアップです!」っておれの腕をペチペチした。

 こうしてコイツとまたつるめるようになったのを、今でも夢みてぇに感じる。

 おれは赦されるのか?

 そう、何度も自問してる。毎日。毎日。

 オブチはおれが傍に居る事を望んでくれるが、おれは慕われるほど立派なヤツじゃなくて…。

 ただ、オブチが嫌にならない限りは、傍に居続けるって決めたんだ。

 事件後、バンダイと話した時に…。



「チャバタ君はもう居ないし、これ以上何かされる心配もなくなったね。もう伸び伸びと好きなことができるんじゃない?」

 その日の放課後。雨雲がのしかかってくるような屋上で、バンダイはそう言った。

「これからどうするの?またテニス部に復帰する?」

 バンダイは「キミだったら、これからでも充分巻き返せるんじゃないかな?」って言ったが…。

「去年シゴいた後輩共と同じ学年でプレーしろって?冗談キツいぜ」

 おれは肩を竦めて首を振った。

「勿体無いね」

「無くねぇよ」

 柵に寄りかかったおれに、バンダイはポンとコーヒー缶を放ってよこした。

「サンキュー。…一件落着の乾杯、ってか?」

「それでもいいよ。そんな気分にはなれないかもだけど」

 プルタブを起こしたおれは、ホットお汁粉の缶をあけたバンダイと一緒に、軽く缶を上げて乾杯の真似事をする。

「この世界でいちばん「キミ」なのは、「キミ」だよ」

 バンダイが唐突に言って、おれは「はい?」って聞き返した。

「そのひとがそのひとである事にかけて一番なのは、そのひと自身。ボクも、イノウエ君も、コマザワ君も、ナナ君も、みん

なそうだよ」

「…そりゃあ、そうだよな…」

 何を言いたいのか判らなくて、考えながらチビッとコーヒーを啜ったおれに、

「オオシロ君も、世界で一番「オオシロ君」なんだよね」

「…たぶんな」

「ナナ君が傍に居て欲しいって思ってるのは、「キミの代わりの先輩」でも、「キミの代わりの友達」でも、「キミみたいな

誰か」でもなくて、キミそのひとのはず」

「………」

「これは、ただの独り言なんだけれど…」

 バンダイは階段に向かって歩き出しながら言った。

「何もする事が無いなら、卒業までの二十ヶ月、ナナ君にあげちゃえば?」

「!」

「幸いっていうのも変だけど、留年したおかげで卒業のタイミングが一緒になったんだから。ね」

 肩越しに振り返って、悪戯っぽくウインクして、レッサーパンダは居なくなって…。

「残りの二十ヶ月…」

 独り屋上に残されたおれは、バンダイの言葉を反芻した。

 降り出しそうな空は、しかし一滴も雨を落としてこなくて…。



 …そう、あの日におれは決めたんだ。

「あれ?ぼくの顔に何かついてます?」

 おれの視線を不思議がって、オブチは顔を撫で回した。

「ブチがついてるな」

「それは取れません」

「知ってる。ってか無くなったら顔が変わって困る」

「えへ!」

 何故か嬉しそうに笑うオブチ。

「っつぅかさ…。そろそろ、そのぉ…。「先輩」ってのやめねぇか?」

「え?」

 視線をさりげなく逃がしながら、提案してみる。

「厳密にはおれって「年上のクラスメート」だろ?」

「えーと…。そう、ですね…?」

「だからさ、名前呼びでいいじゃねぇか」

「あ、ああ!なるほど!」

 納得した顔になったオブチは「ちょっと照れますね…!」って、はにかんだ笑みを見せた。

「えぇと…、だとこれからは…、お、「オオシロ君」…」

「おお、ナナ!」

 顔を向け直して頷いたおれは…。あれ?

「えへへへ…!「オオシロ君」…!」

「ぉ、ぉふぉ…」

 照れながら繰り返すナナは、幸せ子犬そのまんまな顔で…。だからおれは指摘し損ねて…。

 …コイツ、今度は「名前呼び」をナチュラルに勘違いしやがった…。

 でもまぁ、いいか。今はこれで…。

 おれ達には時間がたっぷりある。ちょっとずつ、ちょっとずつ、埋め合わせながらで…。




 これは、この一連の「事件」の後、梅雨明けが近いある夜、ある部屋で、ある二頭が交わした会話である。

 

「ねぇナル?あのふたり、どうして上手く行かなかったのかなぁ?まさかあんな大事になるなんて…。同じ物を好きになって、

打ち込んで、それでも…、どうしてダメだったのかなぁ?」

 アニメを眺める大猪は、ポテトチップを口元に運ぶ手を止めて言った。

 その胡坐をかいた脚にチョコンと座っているレッサーパンダは、肉厚な猪の巨体を座椅子代わりに、くつろぎながら応じる。

「原因は「嫉妬」だろうね。これははっきりしてるよ。最初は好意もあったかもしれない。友情を感じていた頃もあったかも

しれない。でも、それが絶対に引っくり返らないなんて事はない。物事は簡単に裏返って真逆になる。波の上に浮かんだサー

フボードが、横波一つで裏返しになるようにね。そのサーフボードの上に積み上げた物が高ければ高いほど、引っ繰り返った

時は深くなるよ」

「それ、オレ達もそう…なの?」

「ボクらは何から何まで違い過ぎて、好みに被っている部分がある程度。持ち味も特技も競い合うようなかぶり方をしていな

から、そもそもお互いに嫉妬できないんだよね。でも、彼らの場合は…。…そうだ。嫉妬までは行かないけど、ボクもタイキ

に思う所があった」」

 お汁粉の缶を取りながらレッサーパンダが言うと、猪は「え!?」と焦り顔になった。

「正直に言って身長は羨ましいよ。タイキぐらいとは言わないけど、170センチ以上あったらボクの世界はきっと大きく変

わってたんだろうな。見える景色も違うだろうし、背伸びしなくても人混みの向こうが見えるのは凄く気分良いだろうね」

 猪は少し黙って何事か考えて…。

「今からでも判んないよ?身長の伸びなんて」

「ふふっ…。ありがとう…!」

 レッサーパンダが見上げて微笑むと、逆さまの笑顔を見せられた大猪は少し黙り込み、やがて視線を逸らして「そ、それは

そうとさぁ!」と殊更に声を大きくした。

「本当に嫉妬とかが原因だって思う?だってすごく仲が良かったろ?オオシロ君とチャバタ君…」

「オオシロ君や周りの皆はそう思ってたかもしれないけど、実際の所「アレ」の方ではそうじゃなかったんだよね。ただの芝

居だったんだ」

「…芝居かぁ…」

「「アレ」も役者としてはそれなりの演技力だったんだろうけど、行動が迂闊過ぎたのと、ボクと生息領域が被ってたのが敗

因だね。加えて言うと扇動者としての才能もあったかも。いくら外界と距離をおいて、日光浴びてなくて判断力が落ちてたと

はいえ、「親友」って刷り込みを生かしてナナ君への不審を植え付ける手際は褒めてあげてもいいぐらい。もっとも…」

 レッサーパンダは一度言葉を切り、そっと、静かに付け加える。

「「アレ」が傍で息をする事を許可するほどの価値は、ないね」

「………」

 大猪は黙り込み、ポリッと頬を掻く。

 不登校の白猫が学校に来るようになれば、手伝った自分は先生方の評価を得られる。ついでに取りこぼしていた事件の犯人

を処分できれば、気分も晴れて一石二鳥。

 そう、レッサーパンダは言っていた。

 だが、本当はそれだけでは無いのだろうなぁと、大猪は思っている。

(ナルは気付いてないのかな…?)

 白猫が居ない間、犯人は何もしなかった。普段のレッサーパンダであれば、本質的にはどうあれ害が無くなったと判断して

放置しそうな物である。なのに熱心と言えるほど積極的に動いているのは…。

 確かに、レッサーパンダは自分でそう言うように神でも悪魔でもない。

 魔王。呼称するならそう言うべきかもしれない。

 だが、あざとくて腹黒くて計算高くて利己的で冷酷で容赦がないこのレッサーパンダは、極々稀にほんのちょっぴり慈悲を

見せる。

「ん?ふふ、どうしたのタイキ?」

 ギュッと、両腕を回して抱き締めてきた大猪に、レッサーパンダは鼻息をくすぐったがって笑いかけた。

「ううん。何でもなぁい…」

 少しおどけてそう言って、レッサーパンダの首筋に鼻先を寄せ、甘えるように息でくすぐった大猪は…。

「あ。いけない。そろそろ時間だ」

「ぶっ!」

 腰を浮かせたレッサーパンダの肩で顎を打った。

 レッサーパンダは折りたたみ式座卓にハイスペックノートパソコンを乗せ、起動して真新しいコントローラーを接続し、本

体の脇にゲームのパッケージと説明書を置く。

「あ。今日からパーティープレイデビューだったっけ?」

「うん。あまり興味はなかったんだけれど、これも付き合いだよ」

 白猫とブチ犬に誘われて、レッサーパンダは彼らと同じゲームで一緒に遊ぶ約束をしていた。

 なお、使用するキャラクターは相棒の大猪に似せてデザインされている。

 自分に似せれば良いじゃないか?と、まんざらでもなさそうに言った大猪が、「ゲームの中でも自分と同じ容姿のキャラが

吹っ飛んだり殴られたりする絵は見たくないよ」というレッサーパンダの返答で盛大に顔を引きつらせた事は言うまでもない。

「そういえばナルは、スマホなんかの将棋とかは時々時間潰しでやってたけど、確かこういうのはやった事ないよね?」

「うん。でも問題ないよ。操作やコツは一通りネットで調べたから」

 自信があるとか無いとかではなく、当然、という顔をしていたレッサーパンダだったが…。



「…そんな…!これ、理屈じゃない…!」

 一時間後。予想外にてこずり、食い入るように画面を凝視し、珍しく真顔で唸るレッサーパンダを、

(オレも始めてみようかなぁ…)

 大猪は少し寂しげに、指を咥えて眺めていた。

おまけ