気高き立姿
「押忍!」
オレ達の正面に立つ、腰の後ろで手を組んだ焦げ茶色の羆が、下っ腹に響く重低音の声を発した。
『おぉぉおおおおおおっす!』
続けて上がったドォンという和太鼓の音に合わせ、オレ達はそれに唱和する。
声出し。
オレ達応援団の基礎鍛錬の一つで、練習開始時と休憩後、練習終了の締めとしての計三回、それぞれ50本繰り返される。
単純な発声練習というだけでなく、常に同じペースで行われる唱和のタイミングを合わせる訓練でもあり、本番で一糸乱れ
ぬ演舞を披露する土台固めにもなっている。
徐々に気温も上がって来た四月後半。来たる川向こうとの定期戦に向け、新団員を迎えて間もない我ら応援団は本格的な練
習に入っていた。
最後の一声が余韻を残して消えると、静まりかえった屋上に、団長の声が響く。
「では、本日の練習はここまで。各員は後片付けの後、用事の無い者は速やかに下校するように。くれぐれも、帰り道には気
を付けてな。以上、解散」
怒鳴っている訳でもないのによく通る重低音の声で解散をかけた団長に、オレ達は声を揃え、腰を折って礼をした。
『したっ!』
オレは蓮木文武(はすきふみたけ)。陽明商業高等学校二年。応援団に所属しているシベリアンハスキーの獣人だ。
…といっても、母方の祖父はマラミュート。つまり正確には純血ではないのだが、見た目はハスキーそのものだ。
顔はあまり良い方ではない。目つきが悪い上に、ハスキー特有の隈取りのおかげでかなりの強面である。
身長は171センチ、骨太で筋肉質の体型。無駄な肉は殆どついていないものの、持ち前のモサモサの毛のせいで、実体積
よりもややボリュームがあるように見える。
運動神経はそこそこ。成績は…、まぁ…、並だな…。
「ハスキ」
練習の場である屋上から、和太鼓を運びだそうとしている一年生に混じっていたオレは、低い声で名を呼ばれて振り向いた。
焦げ茶色の被毛と、長ランにボンタン…つまり団服を纏う大柄な羆がオレを手招きしている。
「押忍!」
返事をするなり足早に歩み寄って姿勢を整えながら前に立つと、見上げる程に大きな団長が口を開いた。
「この後の予定は?」
「いいえ、特にありません」
団長の口ぶりから何か用事がありそうだと察しながら、オレは即座に答える。
例え予定があったとしても、敬愛する団長に用事があると言われたなら、オレにとってはこちらが優先。よほどの事でない
限りはキャンセルである。
「では、悪いが団室まで来てくれんかな?相談したい事がある」
「押忍!」
「時間を取らせて済まんな」
「いいえ!」
オレは直立不動の姿勢で、先に校内へ戻って行く団長を見送った。
団長は、オレの憧れのひとだ。
オレがこの陽明に入学したのも、応援団に入ったのも、全てはあのひとへの憧れがあったからこそ…。
三年前。オレがまだ中学二年だった頃、中体連のサッカーの試合を応援に行った時の事だ。
初めて目にした、当時他の中学で応援団長を務めていたあのひとの演舞があまりにも格好良くて、凛々しくて、オレは目が
離せなくなった。
あの一回…、たった一回の演舞で、それまで応援団に興味もなかったオレは、すっかり魅せられてしまったのだ。
ある意味、一目惚れと言っても良いのだろう…。
あの数日後、部活にも入っていなかったオレは、散々考えた末に、通っていた中学の応援団に入団した。
そして、進学した陽明でも応援団員として過ごす道を選んだ。あのひとの下で、男を磨くために。
…もちろん。団長はそんなオレの事情を知らないし、言うつもりもない。オレが勝手に尊敬しているだけで、団長にとって
はどうでも良い事だから。
敬愛する団長の下で活動し、時々褒めて貰える…。オレにはそれで十分だ。
「先輩?」
「…あ?」
突然かけられた声に、オレは首を巡らせる。
校内の階段へと通じる屋上の出入り口で、丸々と肥えた灰色熊が、ドアに手を掛けながらオレを見つめていた。
「ドア、閉めるっすよ?」
ざっと周りを見回せば、屋上に居るのはオレ一人。
190近い団長よりもさらにデカい幼馴染みの灰色熊と、その後ろの一年達が、不思議そうにオレを眺めている。
「ああ。悪い…」
…考え事に集中して、ぼーっと突っ立っていたのか…。
決まり悪い思いをしながらドアを潜ったオレの後ろで、ガチンと、灰色熊がドアに鍵を掛けた。
ドアの前に立ったオレは、ゆっくりと深呼吸する。
ここは団室…、つまり他の部活でいう所の部室だ。
我等が陽明応援団の団室は、プレハブの離れになっている。
ロッカールーム兼ミーティングルームと備品保管庫、そして団旗や太鼓、表彰状や感謝状、トロフィー等が並ぶ団長室の三
部屋に別れていて、冷暖房完備。他の部活と比べても破格の好待遇で建造されている。
実は、年度初めにはシャワールームまで増設する計画が持ち上がっていたそうだが、団長がそれを断った。
「他の多くの部活が利用できる状況にない物を、裏方たる応援団が先んじて利用する訳には参りません」
というのが、気を回してくれた校長に礼を言いながらも、謹んで辞退を申し出た団長の意見だった。
冷暖房については団長が入学する前からあるので使用は黙認しているらしいが、常々心苦しく思っているようだ。
事実、他の団員が使っても注意こそしないが、団長自身は一切冷暖房のスイッチに触れようとしない。なので、団長室は冬
も夏もキツい環境にある。
そっと手を上げたオレは、控え目にドアをノックする。そして、間を置かず「どうぞ」との声が聞こえてから、「失礼致し
ます」と断わりを入れてノブを引いた。
「練習後に時間を取らせてしまい、済まんな」
部屋の中央に据えられた折りたたみ式の長机につき、広げたプリントを眺めていた羆が、顔を上げてこちらに視線を向ける。
団長は鼻の上に眼鏡を乗せていた。団長の話では遠視だそうで、何かを読む時は時折眼鏡をかけている。
机の上の用紙類をざっと見たところ、どうやら団長は定期戦での団員配置についてまとめている最中だったようだ。
「いいえ。特に用事もありませんので」
団長に尻を向けないよう横向きになってドアを閉めたオレは、足を肩幅に広げ、手を腰の後ろで組みながら応じる。
頷いた団長は、眼鏡を外して机の上のケースにしまいつつ、「そう堅くならず、楽にして座れ」と、オレを手招きした。
一礼したオレは、机を挟む形で、団長の斜め右前の椅子を引いた。
団長室の奥側には、先生方が使うようなスチールデスクの団長席が用意してあるが、団長は滅多にそこを使わない。
腰を下ろしたオレに、団長は厳つい顔の中で光る、理知的な目を向けて来る。
「ハスキ。今日時間を取って貰ったのは、お前に頼みたい事があったからだ」
「押忍。何なりと」
即座に応じたオレに顎を引いて頷いた団長は、一拍おいてから口を開いた。
「今年の夏…。どれだけ長くとも二学期開始前には、儂ら三年は引退となる」
神妙に頷いたオレに、団長は目を閉じて続けた。
「それで、儂らの引退後の事なのだが…」
短い沈黙に次いで団長が口にした内容は、衝撃的な物だった…。
二つに折った座布団を枕にして、畳の上に寝転がったオレは、ぼーっと天井を眺めていた。
この、足が畳める丸座卓と小さな本棚、制服と団服と私服が収まったクローゼットしかない殺風景な部屋は、オレの自室。
帰って来て部屋着に着替えたオレは、団長の言葉を反芻しながら、こうしてずっと寝転がっている。
ため息をいくら吐き出しても、重苦しい気分は少しも軽くならない。
視線を巡らせると、窓から網戸越しに見る空は薄紫に染まっている。
太陽その物は見えなくとも、あと一分と経たずに沈もうとしているのは判った。
何度目か、何十度目か判らないため息をつき、オレは身を起こした。
そろそろ風呂を沸かして夕飯にしよう。何かすればいくらかでも気が紛れるかもしれない。
ぐっと伸びをしてから身を起こしたオレは、立ち上がったところで呼び鈴の軽やかな音を耳にする。
オレが開けたままのドアから出るのと、玄関の扉が開閉する音が響いたのは、ほぼ同時だった。
「こんばんは。兄ちゃん、居るか?」
「ああ」
答えながらエル字型の廊下を進んで、角を曲がって玄関正面に立ったオレは、見慣れた顔と巨体を確認する。
玄関に立っているのは、隣に住む幼馴染み。さっきまで一緒に団の練習に参加していたデカいグリズリーだ。
小豆色の短パンに水色の半袖ティーシャツを着たこの灰色熊、名前は灰島岳(かいじまがく)。
一年生でありながら、校内最大の体重と身長を有する一つ下の後輩だ。
そのデカさは、羆特有の立派な体格をしている団長以上。もっとも、ガクの場合は脂肪が占める割合が異常に大きいが…。
そう。ガクは上にデカいだけでなく、横にも縦にもデカい極端な肥満だ。
膨れた頬のまん丸顔。たっぷり肉が付いた顎と首周り。特大の樽のような胴。前にせり出した上に脂肪が付きすぎて垂れた
胸。中に小学生でも入っているような太鼓腹。ぶっとい手足に野球グローブでもはめているようなサイズの手。
食べる事が好きなガクは、小さい頃から飯も菓子もガフガフバカ食いし、デカい上に極度に肥えた今の体を作り上げた。
顔は厳ついし体もデカいが、実はこう見えて結構気が小さい。そして見た目に反し成績が良い。
性格は…、まぁ、単純一途でやや気弱。ひとはいいが少々根性無し。
なので少しは男らしい強引さや覇気を身につけられればと、半ば強引に応援団に入らせたのだが…、今のところ改善してい
る様子は見えない。
買い物帰りなのか、ティーシャツの胸元に汗染みを作ったガクは、右手にスーパーの袋を提げている。
「飯、まだ食ってないか?」
「ああ」
同じ返事を繰り返したオレに、ガクは図体に比べるとやけに小さく感じられる目を細めた。
「ウチ、今夜も遅いんだ。これから作るけど、一緒にどうだ?」
学校や部活じゃオレに気を遣って敬語で話すが、今は昔ながらのため口だ。
これはオレの要望でもある。外ならともかく家に居る時ぐらいは、兄弟同様に育ったコイツに敬語なんて使って欲しくない。
「おお、有り難い。冷蔵庫に入っている物を適当に食おうと思っていたが…」
オレが手招きし、冗談のようなサイズのサンダルを脱いだガクが「おじゃまします」と、のっそり玄関に上がる。
台所へ向かうオレの後ろを、床板にミシミシ抗議されながらついて来つつ、ガクが声を掛けてきた。
「また冷凍の味噌おにぎりにするつもりだったのかい?」
「別に良いだろう?好きなんだよ」
「あとインスタントのシジミ汁とか…」
「何で判るんだ?」
「そういう質素な食生活で、どうしてそんなに筋肉つくんだよ…?」
後ろを歩くでかい幼馴染は、呆れたように呟いた。
オレは別に質素な物が好みという訳じゃない。ガクが作る手の込んだ洋食や、ピリッと辛くて脂っこい中華料理も大好きだ。
ただ、自分一人で食べる時は、手の込んだ事をせずにシンプルに済ませたいというだけなんだが。…面倒臭いから。
オレに続いてキッチンに入ったガクは、買い物袋をテーブルに置くと、冷蔵庫を開けて中を確認し始める。
冷蔵庫からバターを引っ張り出したガクは、続けて冷凍庫を開け、凍らせた米を取り出す。
「解凍して」
「ああ」
ガクからラップにくるまれたご飯を受け取ったオレは、レンジに入れて解凍を始める。
その間にも、ガクはウチのキッチンに常備されている自分用のエプロンを身につけて働き出す。
袋から取り出したジャガイモを皮むき器と一緒にオレに預けると、フライパンを火に掛ける。
レンジが鳴ったらご飯を取りだし、ラップを開いて湯気を出させる。
オレがジャガイモを二つ裸にしている間に、ガクは大根を薄く、扇形に切って行く。
その包丁捌きは正確にして迅速。普段ののっそりした鈍重な動きからは想像も付かないほどテキパキしている。
本当に料理が好きなんだろう。トトトトトッとスピーディーにまな板の上で包丁を踊らせるグリズリーは、機嫌良さげに鼻
歌交じりだ。
「ふ〜んふ〜んふふっふ〜んふ、ふ〜んふ〜んふふっふ〜んふ、ふ〜んふ〜んふふっふ〜ふっふ〜ん…♪」
…どうでも良いが、何故選曲がコンバットマーチなのだろうか…?
ガクの指示に従って動いていたオレは、途中からは手伝える事もなくなったので、テーブルについて腕組みをしながら出来
上がりを待つ。
オレもこいつも両親は共働きだ。
オレの家は近くで銭湯を経営していて、親の帰りはいつも遅い。ガクの両親もまた、職業上家を空ける事が多い。
昔から鍵っ子だったオレ達は、特にまだ小さかった頃は、親が帰るまでどちらかの家で一緒に過ごすのが常だった。
そんな事情もあって、オレ達は本当の兄弟のように育って来た訳だ。
ガクが中学に入る頃には、お互いさすがに一人でも平気になったせいか、バラバラに過ごす事が増えて来た。
だが、今でもこうして週に数回、わざわざ飯を作りに来てくれる。ガクの両親が留守の時はほぼ確実に。
逆に、ガクの親御さんが家に居る日は食いに来いと誘ってくれるから、食いっぱぐれる事は無く、正直オレも両親も助かっ
ている。
やがて出来上がった夕食は、チャーハンと豚汁、鶏モモの網焼きに塩揉みキャベツ、ウズラの卵を乗せた刻みトロロという
メニュー。
どう見ても量が二人前じゃないが、オレが食わない分は全てガクの胃袋行きだから問題ない。
いつもながら手際良く料理を終えたガクは、テーブルに皿を並べ、椅子を軋ませながらオレの真向かいに座る。
『いただきます』
声を揃えたオレ達は、同時に箸を手に取った。
「なぁガク」
「ん?」
ボリューム満点の食事がすっかり片付いた後、皿を拭きながら話しかけると、手早く丁寧にスポンジで食器を洗っているガ
クは、視線をオレに向けないまま返事をした。
「今日、団長に呼ばれたんだが…」
「ああ、声かけられてたっけな」
「それで…、話をされた…」
頷いたガクに、オレはボソリと、団長に言われた言葉を告げた。
途端にガクは手を止めて、まん丸にした目でオレをマジマジと見つめて来た。
「ビックリしたか?」
「お、おぉ…」
ガクは目を丸くしたまま、コクコクと小刻みに頷いた。
それはビックリするだろう。オレだってビックリだ。
「…後で詳しく話す…」
オレがそう呟くと、頷いたガクは気にしているそぶりを見せながらも、質問はして来なかった。
「…で、兄ちゃんは何て返事したんだ?」
片付け済んでオレの部屋。真向かいにどっかとあぐらをかいたグリズリーは、窺うようにオレの顔をしげしげと眺めて来る。
畳の上に置いた四角い盆から冷えた番茶が入ったグラスを取り上げ、オレはボソボソと応じた。
「少し考えさせて欲しいと、返事を保留に…」
「珍しいな?兄ちゃんが即答しなかったなんて…」
「当然だろう?それは…団長のお望みなら、大概の事は喜んで引き受ける。だが今回は…」
そう、今回ばかりはオレもすぐには返事ができなかった。軽々しく受ける訳には行かない…。
「…応援団長…か…。オレに務まるとは思えない…」
呟いたオレの手の中で、グラスの氷がカランッと音を立てた。
オレの苦悩がどれほどの物か理解してはいないらしい幼馴染の灰色熊は、コーラの1.5リットルボトルを煽ってグビグビ
飲み、「ぶは〜…」と満足気に息をついた。
「けどさ、団長が直々にそう言ったって事は、兄ちゃんに期待してるって事なんじゃないかな?」
「それは…、そうかもしれないが…」
オレは応援団員ではあるが、基本的に大勢でがやがやというのは好きじゃない。
皆が規律だった行動を取れるから応援団は別物だが、クラス単位での校外行動だって嫌いだ。
足並みは簡単に乱れ、行動はてんでバラバラ、集合時間だって守れないヤツらがたんまり居る。あのまとまりの無さにはと
にかくイライラする。
学級委員が学級委員だ。あのマッチ棒のようなヒョロっとした人間男子は、立候補した割に、いかにも仕方なくやっている
という雰囲気が言動の節々に滲んでいる。大方、先生の評価が欲しくての学級委員だろう。
…話が逸れたが…、とにかく、オレは集団行動が苦手だ。率いる方が。
出される指示には従えるが、統率する側に立つなど無理な事…。纏りの無い様子を見ているだけでイライラしてしまうのだ。
そもそもオレは根っからの説明下手で、誰かに何かを指示したりするのは昔から苦手だ。
今の団だって、団長が頭だからこそあれだけ纏っているのだろう。オレが頭をはっても上手く行くとは思えない。
「俺は、兄ちゃんが団長っての、結構似合ってて良いと思うけどな?」
ガクは気楽そうな調子でそう言った。
「いいや、団長には申し訳ないが、辞退させて貰う。オレよりも団長に相応しいヤツは何人も居る」
太い腕を胸の前で組んだガクは、今しがた至った結論を口にしたオレを、目を細めながらじっと見つめてきた。
「けど、応援団を率いるようになったら、憧れの団長に一歩近付けるんじゃないか?」
…む…。
「そもそも、ダメだと思っていたら引継ぎの打診なんてして来ないぞ?団長は、兄ちゃんが後釜に相応しいって認めてくれて
るんだと思うけれどもなぁ」
…むむ…。
ガクはたっぷり肉がついた顎の下に手を入れて、軽く擦りながら続ける。
「団長のひとを見る目は確かだと、俺は思うんだけどなぁ…。それとも兄ちゃんは団長の目が信じられないか?」
「信じられない訳がない!」
身を乗り出して応じたオレは、まるで弁解するように言葉を並べた。
「団長の考えを否定している訳では決して無い!団長が他の誰かを後任に推したというのなら異存は全く無かった!だが今回
は違う!団長がかってくれているのは嬉しいが、オレ自身が未熟もいい所で、期待に応えられるだけの自信がどうにも…!」
「つまり…、団長の考えには従いたいものの、団を上手く引っ張ってく自信が無い…って事か?」
「…そう…なるな…」
オレが少し考えながら頷くと、ガクは「なら…」と、口の端を少しだけ吊り上げた。
「自分に団長が務まるって思えるぐらい、今から頑張ってみればいいんじゃないか?」
「む?」
眉根を寄せたオレに、ガクは先を続ける。
「三年の引退までまだ余裕があるこの時期に、早めに兄ちゃんに話をした…。団長は、兄ちゃんがこうして迷うかもしれないっ
て考えてたんじゃないか?」
…言われてみれば、確かに後任を決める時期としてはかなり早い…。ガクの言うとおりかもしれない。
見た目に寄らず頭の回転が良い灰色熊は、オレの表情から考えている事を察したのか、
「自信無いなら、兄ちゃんが「団長」って立場について理解して、団を率いるにはどんな事をしなきゃならないか考えてみれ
ば良いんじゃないか?まず自分が次期団長に相応しくなれるように頑張ってみて、それでもダメだと思ったら団長に謝って断
わるとか…」
「相応しく…なれるように…」
鈍い頭を急ピッチで働かせながら呟いたオレに、ガクは大きく頷いた。
「…考えてみるか…」
「それが良いと思うぞ?ただ断わっても団長に失礼だろうし」
「それもそうだ…!」
まず試してみよう。オレが皆を率いるに相応しくなれるかどうか。団長には申し訳ないが、少し猶予を頂く事にして…。
「それにしてもガク?辞めたい辞めたいと言ってる割に、オレには小生意気にも意見するんだな?」
「うっ!?そ、それは…!」
耳を倒して俯き加減になり、図体を縮めたガクが口ごもる。
こいつは応援団を辞めたがっている。練習はキツいし、大勢の前に立つのは嫌だというのがその理由だ。
まぁ、オレが認めていないから、しぶしぶながら続けてはいるが…。
ガクは昔から部活などに打ち込んだ事がない。
根性が無いから続かないと言っては、何事も本格的に打ち込む前に諦めをつけてしまう。
だが、料理や勉学にはあれだけ熱心に打ち込めるのだし、決して堪え性が無い訳ではないはず…。
「まぁ良いさ。今のところはちゃんと続いているからな」
口の端を吊り上げながらそう言ってやると、ガクは上目遣いにオレの顔を覗い、曖昧な微苦笑を浮かべながら首の横をモソ
モソと掻いた。
…この時は、ガクの意見で多少なりとも前向きに対処しようと考えを改めたオレだが、後になって思った。
ひょっとしてオレは、ガクに上手く丸め込まれたんじゃあないだろうか?
あのタヌキめ。…熊だが…。
翌日の練習から、オレはさっそく団長の振る舞い方を観察し始めた。
団員への声のかけ方や、どんな所に目を向けているか、細かなところまでじっくりと。
練習開始前に事情を話し、返答の保留を願い出ていたので、団長も観察されている事は察しているらしい。時々逆にオレに
視線を向けて来る。
まるで、「今見せた所に気を配れ」とか、「きちんと見ていたか?」とか、確認して来るように。
無言の内にも指導して貰っている事を有り難く感じながら、オレは団長の一挙手一投足を、じっくりと注意深く見ながら、
普段よりも集中して練習に打ち込んだ。
…だが、結構疲れるな、これ…。
練習を終え、片付けが済み、帰り支度を整えて昇降口に向かったオレは、下駄箱のところで屈み込んでいる、黄色がかった
薄茶色の地に黒い虎縞模様の猫を目にして口を開いた。
「よう、島津(しまづ)。今帰りなのか?」
「ん?お、おう…」
シマヅは立ち上がってオレの方を見る。
オレよりは少し背が低いものの、がっしりした体付きをしたこの猫は、今年から同じクラスになった生徒だ。
確か部活には入っていなかったと思うが…、こんな時間まで何を?
訊いてみようかとも思ったが、少し気まずそうに見えたので、やっぱり止めておく事にした。
シマヅもオレと同じく、成績の方はアレな感じらしい。…つまりその、先生に絞られていた可能性がある…。
わざわざ指摘して、お互いに気まずい思いをする事もないだろう…。
端っこからオレの側に移動し、下駄箱の上から二段目のつまみを掴んで、ピカピカのバッシュを取り出して足を突っ込んだ
シマヅは、「じゃ…」と、短く声を発してオレに背を向けた。
「ああ。また明日」
靴紐を結びながら応じたオレは、しかし練習中に観察していた団長の様子を忘れないよう、頭の中で反芻していたせいで、
この時の事はあまり印象に残らなかった。
団長を見ていて気付いた事を忘れないよう、何かに記しておこう。
そんな風に思ったのは、帰宅途中に本屋と併設する文房具店の前を通りかかった時だった。
元々メモを取る習慣が無いオレだが、今回は授業に打ち込む数倍真剣だ。
専用に使うノートか何かを用意しよう。いや、忘れない内に何処でもすぐに書き込めるよう、ポケットに収まる手帳が良い
だろうか?
ガラス戸を押して店内に入ったオレは、普段から来慣れていない事もあって、まずはきょろきょろ店内を見回した。
ノートの棚に画用紙類の棚。ペンが剣山のように林立している棚に、糊や修正液のボトルが並ぶ棚。
文房具屋なんてめったに来ないせいか、店内の様子はオレにとって新鮮だった。…ところで、手帳は何処だ…?
外から見て想像していたよりもだいぶ広い店内を、手帳を求めてウロウロするオレ。
ノートの棚の近くだろうか?書き記す物繋がりで…。
目当ての品がなかなか見つからずに、店内を奥へ奥へと進んでいったオレは、ルーズリーフやバインダー、ファイル類が並
んだ最奥の棚の前に、見知った相手が立っている事に気付いた。
「よう。鹿妻(かづま)」
呼びかけたオレを振り返ったのは、すらりと背の高い鹿。
鹿妻幹夫(かづまみきお)。オレのクラスメートで、吹奏楽部に所属するニホンジカだ。
毎年生えかわるらしい角は、春から伸び始めたばかりで、まだ半端な長さだ。
おまけに皮を被っていて丸みを帯びているせいで、鹿の角というよりも、キリンのそれを思わせる。
手足がすらりと長く、極端に細身のカヅマだが、身長は角を除いてもオレより少し高い。
「ハスキ…」
「カヅマも今帰りか?」
「ああ」
カヅマは二年から級友になった相手で、特に親しい間柄でもない。一声かけたらもう話すことが無くなった。まぁ、用事も
無いのだが…。
オレは棚をざっと見回して、手帳がここにも無い事を確認する。
「まさか置いて無いなんて事は…」
顎に手を当てて考えてみる。
年末年始は本屋等で大々的に販売されているのを見かけるが…、手帳はそもそも本屋の領分で、文房具屋で取り扱う品物で
は無かったりするのか?
これまで手帳が欲しいと思った事が無いせいで、オレにはどこで取り扱っているかも良く判らない。
「何が置いて無いって?」
バインダーを手に取りながら口を開いたカヅマに、
「手帳だ…。あれは本屋の扱いか?」
オレは顔を顰めながら頭を掻き、少々気恥ずかしい思いをしながら訊いてみた。
カヅマはチラリとオレを横目にすると、肩越しに親指で背後を指し示す。
「入り口ドアのすぐ横」
「は?…あ…」
振り返ったオレは、カヅマの言うとおりの場所にある、手帳が並んだ商品棚を目にする。
棚はオレの膝辺りまでの高さしかない。入った直後に店内をざっと見回したんだが、すぐ手前で気付かなかったのか…。
「有り難い。助かった」
バインダーを二つ手に取って見比べているカヅマは、会釈したオレに「どういたしまして」と、そっけない口調で応じる。
さっそく引き返したオレは、並べられた手帳を品定めし始めた。その数の多さに少しばかり驚きながら。
何故か熱帯魚を連想させるカラフルな手帳の群れは、大きさやカバーの色だけでなく、中身も結構違う。
カレンダーと一緒になっているメモ欄が大きい物や、カレンダーは毎月2ページ分に纏められて、白紙のページが多く取ら
れている物、小型バインダーになっていてページを追加できる少し高い物まである。
目移りする…、というよりも、どんなタイプが使いやすいかが判らない。
まぁ、ポケットに入れて苦にならないサイズという点は譲れない。色は…、そうだな、あまり派手じゃない物が良い。これ
で少し絞れるが…。
「…どうしたんだ?今にも噛み付きそうな顔をして」
両手に手帳を持って見比べていたオレは、横合いからかかった声に首を巡らせる。
どうやら会計を終えたらしいカヅマが、おそらくバインダーが入っているのだろう袋を小脇に抱え、胡乱げな目でオレを見
ていた。
「噛み付きそうだったか?」
「今にも手帳をブリトーのように食い千切りそうに見えた。親の敵でも見るような顔つきだったな」
真顔でそんな事を言ったカヅマに、オレは苦笑いを返す。
あまり皆の輪に入らないし、無口でお堅い取っつきにくいヤツだと思っていたが、どうやらユーモアのセンスは持ち合わせ
ているようだ。
「別に怨恨は無い。どれが使いやすいか迷ってだな…。カヅマは手帳を使ったりするか?」
「いや。予定なら携帯に入れるし、ちょっとした事なら一言録音を使う」
「なるほど…」
…携帯か…。必要性も感じなかったし興味も無かったが、そういう使い方もできるのか…。
ちょっと興味をそそられたオレだったが、即座に考え直す。
…実はオレ、細かい操作が必要な機械類は昔から苦手なのだ…。
中学入学祝いに両親から貰ったアウトドアウォッチの機能ですら、ろくに活用できていない…。
「カヅマなら、どういう手帳を選ぶ?」
尋ねたオレに、カヅマは少し面倒臭そうな顔をした物の、それでも質問に答えてくれた。
「それはどう使うか次第だろう?覚え書きに使うのか、それとも予定を書き記すのに使うのか…」
「…日々の覚え書きだろうか?予定表としてはたぶん使わない」
「それなら…」
カヅマは手帳を手に取っていくつか見比べた後、群青色の手帳を開いて、オレの顔の前にズイッと突き出した。
「例えばこれのように、カレンダーのメモ欄が大きく取ってある物なんかが使いやすいと思う。後から見返すにも便利だし、
簡単かつ雑に覚え書きした物でも、日付や曜日が呼び水になって詳しく思い出せる。…まぁ、あくまでも俺の場合だけれど」
カヅマから手帳を受け取り、パラパラと捲って中を覗いてみる。
勧められたから印象が変わっているのか、さっき一度同じレイアウトの手帳を見た時にはそれほど便利そうにも思えなかっ
たのに、今度はとても使いやすそうに思えた。…不思議な物だ…。
「確かに良さそうだ。有り難う、これにしてみる」
軽く会釈したオレの脇を、「それは何より、それじゃあな」と、そっけなく言いつつカヅマがすり抜けた。
いつもツンとすましていて、今だって態度はそっけなかったが、割と親切だなアイツ…。
ドアから出て行くカヅマを見送り、オレはアイツが勧めてくれた手帳を持ってレジに向かった。
「よう。昨日はどうも」
翌日の朝、教室に入ったオレは、最後列の席に座るカヅマに声を掛けた。
「ああ」
携帯を弄っていたカヅマは、ちらっと視線を向けて来ただけで、すぐ操作に戻る。
携帯の画面は何やらカレンダーのような升目状になっている。…なるほど、こうしてスケジュール表として使えるのか…。
操作中だし、邪魔をしても悪いだろう。オレはカヅマから離れて、窓際の列の中程にある自分の席に着く。
とりあえず慣れる為だと思って、手帳は昨夜試しに使ってみた。団長の行動を見ていて気付いた事を箇条書きにして。
それともう一行、「カヅマに手帳を選んで貰った」とも。
応援団員たるもの紳士たれ。
敬愛する団長の理念に則るなら、堅苦しくなり過ぎない程度にでも礼をしなければ…。
…そうだ。昼飯をご馳走するというにはどうだろうか?
アイツの姿は学食で頻繁に見る。弁当を持ってきている訳じゃないだろうから、これは有効な手段に思える。
オレは初老の担任がしずしずと教室に入ってくる姿を目にして腰を浮かせながら、昼食時にはカヅマに何と声をかけて誘お
うかと、思いを巡らせ始めた。
そしてやって来た昼休み。計算外の事態に、オレは少々慌てた。
授業が終わった直後、カヅマはさっさと教室を出て行ってしまったのだ。
そう言えば、毎日昼休みになると居なくなっているような気がする…。
うかつ…!かける言葉まで考えていたのに、完全に出遅れてしまった…!
慌てて教室を出て、足早に廊下を歩んで食堂に向かったオレだったが、残念ながら間に合わなかったらしい。大急ぎで足を
運んだ食堂の入り口で、紙袋を片手に早々と出てきたカヅマとばったり出くわすはめになってしまった。
カヅマはオレを見て片方の眉を上げたが、何も言わずにそのまま横を通り抜けようとする。
…どうする?せめて、昼飯を一緒に摂る事ぐらい提案して、改めて昨日の礼を言うか?
反射的に会釈をし、瞬間的に頭を巡らせてそんな事を考えたオレは、たまたま下げた視線に驚くべき物が飛び込み、目を見
開いた。
カヅマが履いているスニーカー…、学校指定の上履きが、凄まじい事になっていた。
足の甲の部分には無数の切り傷。踵が縦に切れていて、歩く度に足が抜けそうになっている。
破れたとか、ぶつけて裂けたとか、そんな損傷状態じゃない。
おそらくカッターか何か、鋭い刃物で意図的に、そして入念に刻まれているのは明らかだ。
「おい、カヅマ?どう…したんだ?それ…」
驚きながら尋ねると、足を止めたカヅマは、オレの視線を追うようにして顔を下げ、ズタズタになっている上履きに目を向
ける。
「ああ。虫にでも囓られたようだ」
カヅマは何でもないようにそう言うと、
「虫!?虫がこんな食い方するか!?」
「それじゃあ、俺は用事があるから。そこ、食堂の出入りに邪魔になるぞ?」
言われてから通路の真ん中に突っ立っていた事に気付いたオレは、慌てて「え?」と周囲を見回した。
折り悪く一年生の集団がやって来て通路がごった返し始め、オレとカヅマの間には一瞬にして通行人の壁が出来あがった。
オレが退いている間にもカヅマはスタスタと遠ざかって行き、振り返る事無くさっさと角を曲がって姿を消す。
「あ、おい!カヅマ!?」
呼びながら人波に逆行したオレは、角を曲がった所で大柄な生徒とぶつかり、よろめいた。
「うわわわっ!?す、すんませんっ!」
即座に詫びの声を発した相手は、伸ばした左手でオレの肩を素早く掴み、体勢を崩させないよう捕まえていた。
体格的にはかなりがっしりしているオレとぶつかり、よろめかせながらも、自分はびくともしなかったその生徒は、大柄な
犬獣人…、太り気味のセントバーナードだった。
高さもあるが幅もあるその一年生は、人の良さそうな顔をびっくりして引き攣らせている。
「ほら気を付けなきゃ!済みませんでした先輩!」
おそらく彼の友人なのだろう、隣に居たやや小柄な赤毛の猿は、窘めるような口調でセントバーナードに声をかけると、オ
レに向かって深々と頭を下げた。
「いや、こちらも不注意だった。悪かったな?痛くなかったかね?」
シベリアンハスキーのオレは人相が悪い。
目つきが悪い上に、隈取りのような顔の模様も威圧感を与えてしまうらしい。
怒っていると誤解されないよう、オレは慎重に笑みを作って尋ねる。
「あぁいえ。平気っすよぉ。エアバック常備してるもんで」
照れたような微苦笑を浮かべつつ、もっさりとせり出している腹を撫でて見せ、やや自虐的なジョークを飛ばすセントバー
ナード。
その横で、赤毛の猿が「ぷふっ…!」っと小さく笑う。
失礼ながら思わず小さく吹いてしまったオレは、
「コホン…!失礼した。さぁ、食堂が本格的な戦争になる前に行きなさい」
咳払いしてごまかしながらそう告げて、二人に道を譲る。
揃って会釈した二人とすれ違ったオレは、そこで重要な事を思い出す。
…しまった!紳士的対応を心掛ける事に気を割くあまり、カヅマを完全に見失った!
慌てて階段を登り、一番上まで駆けて屋上まで覗いてみたが、カヅマの姿は見えなかった。
仕方なく食堂へと引き返しながら、オレはカヅマの上履きの有様を思い出す。
…あれは…、誰かの嫌がらせ…だな?間違いなく…。
だが、カヅマのあの態度は何だ?眉一つ動かさず、まるで何でもないように…。
ひょっとして、犯人は判っている…という事なのか?それでいて大事にはしたくないと?
…部活の仲間からの嫌がらせなのか?それともクラスメート?…どちらにしろ、このまま放ってはおけない…。
学食でおにぎりを買って昼食を済ませたオレは、どこかで昼飯を終えたカヅマが教室に戻って来ても、上履きの事を問い質
すのは止めておいた。
今日は団の練習が休みだ。放課後にでも、他人に聞かれない状況で尋ねてみよう。
昼休み後の授業は怠い…。腹が膨れている上に、天気も良いとなれば尚更だ。
ちんぷんかんぷんな英語の授業を、欠伸を噛み殺しながら受けていたオレは、先生の「では次の文を誰かに訳して貰いましょ
う」との言葉で体を緊張させた。
…まずい。直前の話を聞いていなかった…。この文か?いや、そもそもこのページであっているのか?…来るなよ…。来る
なよ…!
「…では、カヅマ君。訳してください」
当てられなかった事でホッとしたオレは、少しだけ首を巡らせて、チラリとカヅマの様子を窺う。
カヅマは勉強ができる。あてられて答えられなかったのは見た事がない。今回も見事に回答する事だろう。
ところが、カヅマの口から出たのは、オレが考えていたような完璧な和訳ではなかった。
「済みません先生。教科書を忘れてしまった為、訳せません」
「おや?忘れたなら先に言いなさい。ここまでは大丈夫か?」
顔を顰めた先生に、カヅマは「済みません。大丈夫です」と、再び頭を下げる。
珍しい…。几帳面そうに見えるカヅマだが、人並みに忘れ物もするんだな。
カヅマが着席すると、教室内でクスクスと小さく声が上がった。
彼の忘れ物は珍しいからだろう。何人かがカヅマを見遣っては小さな笑いを漏らしていた。
そんな中の一人、たまたまオレと目をあわせたシマヅは、慌てて目を逸らす。
…いや、別にこれぐらいの事で咎めたり怒ったりはしないのだが…。
計算外続きのオレは、管楽器の音色に耳を傾けながら、図書室の窓際で時間を潰していた。
吹奏楽部の練習が始まる前にカヅマを捕まえ、話を聞くつもりだったのだが…、あいつは昼休み同様にさっさと教室を出て
行ってしまい、捕まえ損ねたのだ。
昼もそうだったが居なくなるのが早い。…歩くのが早いのか?足が長いから?
慌てて追いかけたオレだったが、しかし間に合わず、吹奏楽部はすぐに音あわせを始めてしまった。
タイミングが悪いのは重なるものらしく、今日の練習は特別なメニューだったらしい。
まるで演奏本番のように、曲を何度も、何種類も、通しで演奏している。…どうりでビシッと集合した訳だ…。
ドアの窓からこっそり中を覗いつつ、どうした物かと悩んだオレだったが、結局図書室で時間を潰し、練習の終了を待つ事
にした。
団の練習が無い今日を除けば、オレもそうそう時間を作れない。今日が良い機会なんだ。
何より、あの悪質な悪戯には、早めに対処しないといけないだろう。
一時間半も経っただろうか?リーダーシップについて書かれている本を読み耽っていたオレは、演奏が終わって少ししてか
ら、ハッとなって顔を上げた。
…演奏が再開されない…。練習が終わったのか?
慌ただしく本を元の位置に戻し、図書室を出たオレは音楽室へと急ぐ。
辿り着いたオレは、開いたドアからどやどやと出てくる部員達を目にした。
どうやら思った通り、練習は終わったらしい。
少し離れて壁に寄り掛かり、カヅマが出てくるのを待つオレを、数名の部員達が訝しげに見ながら通り過ぎる。
次々出てくる部員達の中にカヅマの姿を探すが、いつまで経っても出てこない。
先を争うように出てきた部員達は、やがて途切れ途切れになり、そして途絶え…って、あれ?
見ている限りでは出てこなかった。まさか…、先に帰ってしまったのか?
不安になって開いたままのドアから中を覗くと…、…居た。
カヅマは他の数名と一緒に、片付けと戸締まり、忘れ物の確認などをしているようだ。
もう少し待たなければならないだろうと考えたオレが、開いたドアから室内を窺っていると、小柄な犬が部屋の隅を履き掃
除しながらこっちに近付いて来る。
下を向いて一心不乱にサカサカと箒を動かし、ちりとりにゴミを掃き込んでいる犬は、コーギーカーディガンだ。
コーギーはドアの手前まで来ると、視界にオレの足が入ったらしく、ぴょこっと耳と尻尾を立てつつ顔を上げた。
「わ!?」
大げさに驚いて箒を手放すコーギー。顔が怖いのは自覚しているが、こうあからさまに驚かれると少しばかりショックだ…。
オレは慎重に表情を緩め、紳士的な態度でコーギーに話しかける。
「気にしないでくれ。ひとを待っているだけだ」
まだ幼さが濃く残っている、愛らしい顔立ちのコーギーは、ドギマギしながら頷き、箒を拾う。
「あ、あの…。誰を待ってるんですか?呼んで来ましょうか?」
「いや、それには及ばない。少しぐらい待つさ」
応じつつコーギーの向こうに目をやると、今のやり取りに気付いたのか、譜面台を片付けていたカヅマがこっちを見ていた。
何となく片手を上げたオレから視線を逸らし、カヅマはパンパンと手を叩く。
「皆ご苦労様、今日はもう良いよ。戸締りは俺がチェックして行くから、忘れ物のないように帰ってくれ」
そう言ったカヅマを、オレは目をまん丸にして見つめた。
いつもツンとしているあのカヅマが、にこやかに話している…。
「明るいからといって油断しないように、帰り道はくれぐれも気をつけるんだぞ?」
…何だあの凄く良い笑顔?教育番組のお兄さんか?
どうやらカヅマ以外は皆一年生だったらしく、素直に返事をして、てきぱきと清掃用具を片付け始めた。
ふむ…。なかなか統率の取れた団体行動…。やはり皆の呼吸が揃わなければ上手く演奏できないからだろうか?応援団のオ
レから見ても一年生達はキビキビしていて気持ちが良い。
「お先に失礼します」
「先輩、また明日です〜!」
「はいはい、また明日。手が空いたときのイメージトレーニングは忘れないように!」
にこやかに手を振るカヅマに見送られ、一年生達はドアを潜り、オレの目の前を横切って行く。
しかも、それぞれペコっと会釈して「失礼します」「先輩さようなら」などと、部外者のオレに一声かけていく。
こういう場合、ウチの後輩達からは「したっ!」とか「押忍!お先します!」とか、そんなドラ声が上がるのが常だが、随
分違うな。
文科系ともなると言葉遣いも少しハイソだ。かつ身振りなどのおっとりした感じも微笑ましい。
…どういう訳だ?同じ一年生なのに、応援団の後輩達よりずっと可愛いじゃないか…?
全員が人間か小柄な獣人で、大きいのが混じっていないからか?
…いや、食堂付近でぶつかったでかいセントバーナードも、それなりにかわいい感じだった。応援団の一年生は一名を除け
ば彼より小さい。たぶん大きさが原因じゃないだろう。
団の後輩達は、皆むさくるしくて男臭いからか?まるっきり別の生き物に思える…。それともこれは、隣の花は赤いという
アレか?
「…で、俺に用事じゃなかったのかい?何を悩んでいるんだ?」
腕組みをして団と吹奏楽部の一年生の違いについて考察していたオレは、カヅマの言葉で我に返る。
にこやかな笑みはもう消えて、いつもの顔だ。…さっきのスマイルは営業用か?
「ああ、いや…。話したい事があって…」
オレは軽く咳払いして気を取り直し、音楽室に足を踏み入れる。
「何だい?」
カヅマは壁際に置いてある自分の鞄に歩み寄りながら、こちらに目を向けないまま口を開いた。
「上履きの事だ」
ドアを閉めながら応じるオレの目は、自然とカヅマの足に向いた。
昼までは確かに上履きだったが、今は足の甲に「陽明」と金色のペイントが施されたスリッパをつっかけている。
それは昇降口に置いてある、来客用にあてがわれている茶色のスリッパだ。あの後履き替えて来たんだろう。
「ああ。寮に帰れば替えがある。問題はないよ」
鞄を取って振り向いたカヅマは、何だか少しずれた返答を寄越した。
「そ、そうか…。…あ、いや違う。オレが言いたいのは予備の事ではなく、何故あんな事になったかで…」
「虫に囓られでもしたんだろう」
さらりと昼にしたような答えを返すカヅマ。…これはこいつなりのユーモアなのだろうか?
「馬鹿を言え。一体どんな虫に食われたらああなる?」
「悪質な虫」
スパッと短く即答するカヅマ。
…ダメだ。こんな調子ではいつまで経っても本題に入れないぞ…。
「カヅマ…。こんな悪戯…、いいや、悪質な嫌がらせを見過ごす事は出来ないだろう?これがいじめだとしたら、無くなるよ
うオレから働きかけてやる」
申し出たオレだったが、鞄を片手に真っ直ぐ立っているカヅマは、何故か面倒臭そうな表情を浮かべていた。
「あんな真似をした相手に心当たりは無いのか?直接言えないのなら、オレが相手に話をしてやっても良いぞ?どうだ?」
「余計なお世話だ」
「え?」
きょとんとしているオレに、カヅマは面倒臭そうに続ける。
「手出しも口出しもしないでくれ。迷惑だから」
「…は…?」
そっけない、突き放すようなカヅマの言葉に、オレは間抜けな声を漏らした。
「何だ…それ…?…もしかして、相手に脅されているのか?誰にも言うなとか…」
訳が分からず目を丸くしたオレは、身を乗り出して続けた。
「報復を心配しているのか?それなら問題は無い!応援団として風紀維持介入してやるから…」
カヅマは相変わらず面倒臭そうな表情を浮かべたまま、大仰にため息をついてオレの言葉を遮った。
「俺は「でしゃばるな」って言っているんだけれど。理解できなかったかい?」
目を大きく見開き、何度か瞬きをした後、オレは耳から入った言葉の意味を理解し、ムッとした。
…でしゃばるな…だと?オレはお前の為を思って…。
「無くなるよう働きかけると言ったが、俺はそうされる事を望まない。放っておいてくれ」
「放っておけるか!実際に被害を受けているのに!こういうのはきちんと対処しないといけない。我慢しておけば諦める相手
ばかりじゃない!」
オレが言い募っても、カヅマはさして興味を示さない。
「泣き寝入りでもするつもりか?」
イライラしながら言ったオレに、カヅマは下らない物でも見るような目を向けた。
「そのレベルでしか物を考えられないのかい?君はもう少し利口なヤツだと思っていたんだけどね」
「何だと?」
挑発的な物言いにカチンと来たオレは、牙を噛み締めて拳を握り込む。
睨み付けるオレを、いつも通りのツンとすました顔をしながら見返すカヅマ。
「…ふん…!勝手にしろ、腰抜け」
踵を返して罵声を浴びせ、オレはドアに向かう。
カヅマを残して音楽室を出て乱暴にドアを閉め、階段に向かって足早に廊下を歩くオレは、決して振り返るものかと、顔を
前にだけ向けていた。
…オレは…、困っているだろうと思って…。助けてやろうと思って…。それなのに…。
ふん!オレだって団長との件で余裕がある訳じゃあない…!あんなヤツに付き合っていられるかっ!
それから、数日が過ぎた。
オレはあれ以来カヅマに話しかけなくなったし、カヅマもオレに注意を向けている様子はない。
以前通り、接触のない間柄に戻った訳だ。
一時的な物だったのか、嫌がらせを受けている気配は、ちょっと見た限りは無い。
まぁ、オレの協力が無くとも自然に沈静化したという事だ。少々癪だが、協力は無駄な申し出だったか…。
昼休みになり、いつものように学食へ向かおうとしたオレは、教室の後ろのドアへと足を進めながら、主の居ないカヅマの
机に何となく視線を向けた。
「…!?」
オレはカヅマの机に、正確にはその脇にぶら下がっている鞄に視線を向けたまま、立ち止まって全身の毛を逆立てていた。
鞄のチャックが半分開いていて、中に収まった物が少し見えている。
表紙がズタズタに刻まれた、数学の教科書が…。
…甘かった…!上履きどころじゃない…。
この分では被害は数学の教科書だけではないかもしれない。もしかすると他の教科書…、あるいはノートも…。
考えてみれば、先日英語の教科書を忘れたと言っていたあれ…、本当は、教科書を隠されるか何かしたのでは?
いくら何でもこれは酷い!…だが、手を差し伸べようとしても、カヅマはあんな態度だった…。
可哀相だとは思うが、本人から助けを拒否されるならどうすれば良い?
胸の中に重い物を放り込まれたような、すこぶる嫌な気分になりながら、オレはカヅマの机から離れた…。
放課後。練習を終えて帰路についたオレは、重苦しい気分のまま道中のコンビニに入った。
週に二度以上は、ジュース類を買うためにこうしてコンビニに寄る。
オレはさほど飲まないのだが、訪れるガクがジュースをガブ飲みし、来る度にボトル一本は減らすので、定期的に買い足し
ておかなければいけないのだ。
まぁ、飯を作ってくれる礼代わりとしては安い物。これぐらいはもてなしてやらなければ。
カゴを手にとって脇目もふらずに奥のコーナーへ向かい、まずはコーヒー牛乳とカフェオレを確保。次いでオレンジジュー
スやコーラを…、…ん?
足を止めたオレの視線の先、ガラス張りの冷蔵棚の前で屈み込んでいるのは、見慣れた姿…。
横の床に置いたカゴに500ミリペットボトルをせっせと詰め込んでいる、その大柄な羆は…。
「団長?」
「む?」
声をかけたオレを、屈んだ姿勢のまま見上げる団長。
「お疲れ様です。珍しいですね?お帰りはこちらではないのでは?」
団長の自宅はこちら側ではない。帰宅途中にしてはまるっきり方向が違う。訝しく思ったオレに、団長はカゴを手に立ち上
がりながら頷いた。
「流れが変わらんものかと思ってな。滅多に来ないこちらに寄ってみたのだ」
意味が判らず首を傾げたオレに、ボトル満載のカゴを軽々と持ち上げて見せる団長。
「この茶の…オマケのストラップを集めとるのだが…」
団長は一度言葉を切ると、
「一向に出んのだ。シークレットが…」
そう呟きつつ、疲れたような表情で深いため息を吐いた。
なるほど。変えるというのはつまり、目当てのストラップが出ない流れを、という事か…。
詳しくは知らないが、団長はこの手の販売促進グッズ…、キャラクター物のキーホルダーやストラップを集めているそうだ。
収集癖とでも言えばいいのか…、見た目や日頃の振る舞いからすれば少々意外だが、とにかくそういう趣味があるらしい。
「ところでハスキ」
「押忍?」
団長はオレの顔を見下ろし、じっと目を見つめてきた。
あまりにも真っ直ぐで静かなその視線に、心の奥まで見透かされそうな気がして身が萎縮してしまう。
「何やら悩んでおるように見えるが…、儂の後釜はそれほど重荷か?」
「いいえ!あ、いや…、確かに重責ではありますが、ご期待にそえるよう努力し、早い内に返答致します!」
「ふむ…。急かしたようで済まんが、まだ余裕はある。じっくり考えて答えを出して欲しい」
「押忍!」
腰を折って頭を下げたオレは、改めて団長の期待を感じ取った。
他に適任者が居ないとは思えない。だが、団長は早い時期にオレに声をかけてくれた。
おそらく最初に声をかけられたのだろうオレへの期待と配慮に、何としても答えたい。
だが…、いまだ次期団長を務められるという自信は無く、返答は保留させて貰う他無い…。
不甲斐なさと申し訳なさを噛み締めながら、頭を下げているオレは、
「…しかし、ここ数日間練習に身が入っておらんのは、それだけが原因では無さそうだ…」
団長のそんな言葉で顔を上げた。
「オレは…、不真面目でしたか?」
自覚は全く無かった。だが、団長にそう見えているという事自体が問題だ。
オレが動揺しながら聞き返すと、団長は「ふむ…」と、難しい顔になって顎下を撫でた。
「ここで話すのも何だ…。まず互いの買い物を終え、店を出て話そう」
コンビニの駐車場の端、歩道近くのブロック塀に寄りかかりながら、団長は大きな袋に詰まった茶のボトルを取り出した。
「飲め」
「良いのですか?」
「遠慮するな。というよりも手伝ってくれ」
オレが恐縮しながら受け取ると、団長は自分の分を取り出してキャップを捻るなりいきなり煽り、ゴップゴップと一気飲み
する。
呆気に取られているオレの前で、瞬く間に一本飲み干した団長は、
「オマケが付く度にこうして買い漁っとるが、今回はあまりに出なくてな。キャンペーン期間も残すところ一週間なのでラス
トスパートしとるのだが…、茶も過ぎると腹にキくなぁ…。これではこの茶だけで水太りしてしまう…」
と、珍しく困り顔を見せつつ、貫禄ある腹を擦って見せた。
ユーモラスな仕草に顔を弛ませたオレだったが、団長に気付かれないようすぐ表情を戻す。…笑うのは失礼だろう…。
「さて、先程の話だが…」
団長は斜め前に立って向き合うオレを、首を少し捻って見つめて来る。
「ハスキ。念の為に言っておくが、練習態度を不真面目とは思っとらん」
少し安心したオレに、団長は続ける。
「だが時に…、休みを入れた時や位置替えなど、手が空いた際に何か考え事をしとらんか?その考え事が何かは解らんが、練
習再開後もしばし頭から離れていないように思える。数日前からそんな様子に見えていたが、今日は特に気になったものでな」
…あ…?そう…か…。
団長に指摘されてすぐに自覚できた。考え事とはつまり…、カヅマの事だ。
協力を拒否されたあの日から、気にしないように努めていながらも、オレの頭には気付けばふっとカヅマの事が浮かぶよう
になっていた。
押し黙ったオレの顔を見つめながら、団長は大きくゆっくりと頷いた。
「何かあったな?」
黙秘。…という選択肢を取る事は、団長を前にしたオレができるはずもない。
しかし、カヅマから協力を拒まれた経緯もある…。相手が団長とはいえ、何処まで話して良い物か…。
オレはカヅマの名や、クラスメートである事は伏せて、嫌がらせの存在に気付いた事、手助けしようと思って申し出たが断
られた事、そして、嫌がらせはまだ続いている事を団長に打ち明けた。
「…という経緯がありまして…、昨日までは一件目以上の被害が見えなかった物で、嫌がらせも止んだ物と誤認し、介入しな
かったのですが…」
オレは言葉を切り、団長の顔をそっと覗った。
「オレは…、どうすれば良いのでしょうか…?今日、見過ごせないと改めて思ったものの、相手はその通りで…」
団長はしばらくの間目を細め、顎の下に分厚い手を当てながら黙り込んでいた。まるで、思索を巡らす哲学者のように。
「その生徒は、「泣き寝入りをするつもりか?」と訊いたお前に、「そのレベルでしか物を考えられないのか?」と言ったの
だな?」
やがて口を開いた団長は、先にオレが伝えた話の内容を確認して来た。
「まぁ…、訊いたというか…、カチンと来てついそんな言葉を…」
オレが恥じ入りながら首肯すると、団長はさらに尋ねて来る。
「そして、「もう少し利口なヤツだと思っていた」と…。ふむ…」
またしばらく黙った後、団長は口の端を微かに上げた。
「大したものだ。そうそう出来る事ではあるまいよ…」
「は?」
首を捻ったオレに、団長は笑みを浮かべながら言った。
「放っておくべきだろう。…というよりも邪魔すべきではない。おそらくな」
「邪魔?」
ますます訳が判らなくなったオレに、団長は大きく頷いた。
「どういう意味でしょうか?オレにはさっぱり…」
「気になるのであれば、本人に訊いてみる事だ。…このままでは気が済まんのだろう?」
「当然です!あいつに協力してやらなければ…」
「見誤ってはいかんぞハスキ」
団長は身を乗り出したオレの言葉を遮る。
「我等はあくまでも生徒に過ぎん。「協力してやる」という姿勢自体が反発を招く事もある。相手が協力を求めていない状況
で、それでもなお手助けしたいのであれば、「協力させて欲しい」と頭を下げるのが筋という物だ」
「あ…」
オレは団長の言葉で気が付いた。
協力を拒まれた理由が判らず苛立っていたが、考えてみればオレは、カヅマの胸の内にまでは思いを巡らせていなかった。
無自覚だったが、応援団員として手を差し伸べてやり、相手もその手助けを受けるのが当然という気持ちになっていた。
カヅマは、そんなオレの協力を押し付けがましいと感じたのだろうか?
だとすれば断られた事にも納得は行く。庇護すべき対象として下に見られていると感じ、不快になったのかもしれない…。
自覚こそ無かったものの、オレは心の何処かでカヅマを下に見ていたのだろう…。協力を断られた事で腹が立ったのが、何
よりの証だ…。
協力を受けるかどうかはカヅマ自身が決めて当然の事なのに…。
「有り難う御座います団長。今の話で目が醒めました」
大事なことを気付かせてくれた団長に、オレは深々と頭を下げた。
「お恥ずかしい限りです…。とんでもない思い違いをしていました」
恥ずかしくて顔が熱くなっているオレに、団長は「ふむ…」と小さく頷いた。
「明日、あいつともう一度話をしてみます」
「お前の気が済むようにすれば良い」
そう言った団長の顔が少し嬉しそうに見えたのは、オレの気のせいだろうか?
「カヅマ。ちょっと良いか?」
翌日の昼休み、オレは教室を出て行こうとするカヅマに歩み寄り、そう声をかけた。
面倒臭そうに振り向いたカヅマに、オレは先を続ける。
「今日の練習後、少し話をしたい。忙しいとは思うが、時間を割いてくれないか?頼む」
そう言って頭を下げると、カヅマは訝しげに片方の眉を上げた。
そして、何も言わないままオレに背を向け、ドアから出て行く。
返答は無かったが、言うべき事は言った。
オレはカヅマが時間を割いてくれる事を信じつつ、あいつが出て行ったドアを潜った。
団の練習が終わり、片付けが始まるその時だった。
「兄…!あ…、ハスキ先輩!」
ガクの声に振り向いたオレは、あいつが何故呼んだのか、聞くまでもなく理解した。
屋上のドアの前に立つ、夕陽で半面赤くなっている灰色熊。そのすぐ後ろの屋内に、スラリとした鹿が立っていたから。
足早に歩み寄ってガクの脇を抜け、カヅマと向き合って頭を下げる。
「そっちから来てくれるとは思わなかった。有り難う」
「良いから片付けに戻れば?」
動き回っている一、二年生に向かって顎をしゃくり、そっけなく言ったカヅマは、
「済むまで待っているからさ」
と、片方の眉を上げながら言った。
「悪い。すぐに終わらせる。少しだけ待っていてくれ」
カヅマの方からわざわざ来てくれたのに、待たせてしまっては申し訳ない。
再び頭を下げたオレは、大急ぎで戻って片付けに加わる。
ふと見れば、一部始終を見ていたらしい団長は、口元を少しだけ緩めて笑みを浮かべていた。
数分後、屋上の鍵を預かって、皆には先に帰って貰い、オレはカヅマと二人きりになった。
「それで、話って?」
斜陽で朱に染まった屋上で、カヅマは手すりにもたれ掛かって校庭を見下ろしながら口を開いた。
そんなカヅマを横から真っ直ぐに見て、オレは話を切り出す。
「覗き見るつもりは無かったんだが…、昨日の昼、半分開いていた鞄から、教科書が見えてしまった」
校庭を見下ろすカヅマは、顔色一つ変えずに「あ〜…」と声を漏らした。
「てっきり悪戯は止んだと思っていた…。…後悔した」
未だにこっちを見てもくれないカヅマに、オレは声を落として続ける。
「嫌がらせは止まったのだと思い込んで勝手に安心していた事と、あの時、本当の意味での「協力」を申し出ていなかった事
を…」
訝しげな顔をこちらに向けたカヅマに、オレは頭を下げた。
「済まなかった!そしてこの通り頼む!どうかオレに協力させてくれ!」
でしゃばり。そう言われればそうなのだろう。
頭の悪いオレは、昨日の団長の言葉でやっと気付くことができた。
当然のような態度で介入しようとしていた自分が、どれほど思い上がっていたかという事に…。
「悪いけど、それでも断わる」
カヅマはそう言い、オレは顔を上げる。
「何故だ!?オレの態度が気に食わないと言うなら改める!無理強いじゃない、決して仕方なくやる訳でもない!オレがそう
したいのだ!」
「本当に…、暑苦しいヤツだなぁ君は…」
カヅマは苦笑混じりにそう言って、肩を竦めた。
「誤解の無い様に言っておくけれど、今日は態度が気に食わないとか、そういう事で突っぱねている訳じゃ無いんだよ。こっ
ちこそ思い上がりかもしれないが、君の事はある程度知ったつもりだ。誠心誠意、俺の事を思っての行動と言葉だと受け止め
ている。それでもなお意地悪を言うほどひねくれてはいないよ。さすがにね」
カヅマの言葉を聞いて、オレは鼻白んだ。
誠意で事に臨んでいると言われて少し照れ臭かったというのもあるが…。予想外の言葉による不意打ちによって…。
「断る理由、今日はきちんと話すよ」
カヅマは口の片側を少し上げて笑みを作る。
「嫌がらせして来る相手は、赦しを乞われる事を期待している。もちろん、思い通りになってやるのなんてまっぴらゴメンだ。
かと言って、止めろと怒鳴ってやるのも嫌だ」
「何故…、嫌なんだ?」
困惑するオレに、カヅマは再び校庭を眺め、微かな笑みを崩さずに続ける。
「嫌だと意思表示する…、つまりリアクションを取る事は、相手を喜ばせるんだよ。反応がある以上は効果がある。…という
事でね」
「それはまぁ…、そうだろうが…」
「赦しを乞うなんて冗談じゃない。思い通りになんてなってやらない。…ならどうするか…」
見当も付かず、横顔を見ながら続きを待つオレに、
「歯牙にもかけないのさ」
カヅマは口の端をさらに上げて、今度ははっきり判る笑みを見せながら言った。
「蝿が寄ってくれば手で追い払う。蚊に刺されれば叩く。相手にはそこまでのリアクションを取ってやる必要も無い。数々の
幼稚な真似に夢中になるような手合いには相応しい、そして屈辱的な反応だろう?対応が虫程度だ」
そう語るカヅマの顔からは普段のツンとすました感じは消えていて、悪さが上手く行った時の悪戯っ子のような笑みが浮か
んでいた。
「…そういえば…、上履きの件も「虫」だと言っていたな…」
カヅマのセリフを思い出したオレは、やっと理解した。
こいつは泣き寝入りしていたんじゃない。こいつなりの方法で連中と戦っていたんだ…。
…いや、戦ってすらいない。構ってやってすらいない。本当に、歯牙にもかけていなかったんだ…。
なるほど。「そのレベルでしか考えられないのか」と言われたのにも納得だ。無視は確かに何か言われる以下の対応だな…。
「お前…、凄いな…」
「何がさ?」
呟いたオレから視線を外したカヅマは、眼を細めて大きな夕陽を見遣る。
夕陽に映えるカヅマの横顔は、とても凛々しく、誇り高く、眩しく見えた…。
「凄く誤解されやすいだろうな。と、そう思った」
オレがからかい混じりにそう言ったら、カヅマは一瞬考えた後、「…かも…ね」と呟きながら微苦笑した。
その微笑みは、コイツにしては珍しく、何だか少し困っているようで、ツンとすました感じは完全に消えていて、とても…
魅力的だった…。
カヅマに感じていたイライラは消えていた。
それは、カヅマの事を少し知る事が出来たからなのか。
それとも、あの微苦笑がとても良い物に思えたからなのか。
あるいは、オレが自分の思い上がりに気付いたからなのか。
…自分でも、良くは分からなかったが…。
「嫌がらせは、何がきっかけだったんだ?心当たりはないか?」
「それはたぶん…、「金を貸してくれ」と声をかけられたのを断ったからだろう」
答えて貰えなくとも構わないつもりで尋ねたが、カヅマは拍子抜けする程あっさり答えてくれた。
そして今の言葉で確信できた。カヅマはやはり、犯人が誰なのか判っていたのだ。
「…カツアゲか?」
「態度はフレンドリーを通り越して馴れ馴れしかったが、実質そういうつもりだったろうね。個人的な意見だが、おそらく彼
に貸しても返って来ないだろうし」
なるほど…。ひょろっとしているカヅマは、金を巻き上げやすそうな相手に見えたのかもしれない。
甘く見てちょっかいを出したところ、おそらくカヅマらしいつっけんどんな態度で断られ、腹が立ったのかもな…。
「実際のところ、俺に金銭的な余裕は無いんだ。ウチはそんなに裕福じゃなくてね。仕送りもそれほど貰う訳にはいかない。
小遣いを切り詰めてもカツカツなのさ」
「そういえば、カヅマは寮生だったな…」
オレは改めてその事を思い出し、そして腹が立ってきた。
寮生だから親に言われる心配もない…。生活費として纏まった金を貰っているはず…。
カツアゲしようとした相手は、そんな事まで考えてカヅマにちょっかいをかけたのか?
そして、嫌がらせがまだ続いているのは、相手がまだ諦めていないからなのか?いずれカヅマが折れると思っているからな
のか?
「そう、俺は寮生だ」
考えを巡らせるオレに、カヅマは肩を竦めて見せた。
「だから寮の食事に遅れると、夕飯代は財布から出さなくちゃいけなくなる。…という訳で今日はそろそろ帰らないか?」
「あ!す、済まん!…何なら、時間を割かせた詫びとして、夕飯ぐらい奢らせて貰うが?」
「冗談。まだ間に合うのにわざわざ奢られる事もない。それに、理由はどうあれ誰かに何かを奢られるのは嫌いなんだ」
オレの申し出をさらりと断ると、カヅマは手すりから離れた。
「さあ、帰ろうか。鍵も返さなくちゃいけないだろう?」
促すカヅマに頷き、オレは後に立って歩き出す。
沈みかけの夕陽に照らされるカヅマの後ろ姿は、細いくせに不思議なほど堂々と見えて、揺ぎ無いものに感じられた…。
職員室に屋上の鍵を返し、昇降口まで歩いて来ると、意外な事に待って居てくれたのか、カヅマが昇降口脇のボード前に立っ
ていた。
張り出されたポスターを眺めていたカヅマは、オレが脇に並ぶと口を開いた。
「定期戦は、もうすぐだな」
「ああ…」
毎年行われている、川向こうの学校との定期戦。
部活毎の対抗試合を一斉に行う我が校の最大イベントの一つで、来たる総体予選の前哨戦でもある。
…もっとも、野球などは県内トップレベルの相手校に敵う訳も無く、毎年コテンパンに叩きのめされているが…。
「俺にとっては、高校初の大舞台だ。…昨年は雑用だったからな」
カヅマはそう言って微笑する。…そうか、カヅマは今年の定期戦が指揮者デビューになるんだったな…。
「応援している」
「応援すべきは競技する選手だろう」
「ついでだから応援する」
「ついでか」
カヅマは小さく笑いながら、「それなら頼もう」と呟いた。
頭を下げた事で許して貰えたのか、カヅマの態度はずいぶん軟化しているような気がする。
昨日までこいつに感じていた苛立ちはすっかり消えて、小気味良くポンポンと出て来る言葉に心地良さすら覚える。
一緒に昇降口まで歩き、オレは中ほどの段からスニーカーを。カヅマは長身を屈めて最下段の下駄箱からシューズを取り出
した。
白地に青が入ったカヅマのシューズは、色が薄くなってくたびれていた。
あちこち擦り切れたその下履きを見て、金銭的にあまり余裕が無いと言っていた事を思い出す。
…それなのに、上履きや教科書を悪戯されて…。
「…ん?」
靴を履いているカヅマの姿を眺めていたオレは、妙な感覚に眉をひそめた。
既視感というやつだろうか?こうしてカヅマと一緒に下校するのは初めてだというのに、前にもこんな光景を見た事がある
ような…。
「どうかしたのか?」
動きを止めたオレに、カヅマは靴紐を結びながら訊ねて来る。
…いや、やはり違う。カヅマではなく別の誰かがこうしていて…。
どうでも良い些細な事ではないかと頭では思うのだが、オレは何故か無性に気になった。
いや、気になるどころではない。まだ思い出せないその何かに、胸騒ぎすら覚えている。
ガクか?いや違う。一年だからあいつの下駄箱はこちら側じゃあない。
誰だ?いつだった?ここで今のカヅマと同じように屈み込んでいた生徒を、確かに見ているはずだ。
通常の下校時刻ではない。他に誰も居ない、今のように二人だけの状況で…。
…そうだ…!思い出した、あいつだ!
あいつが、今カヅマが屈んでいるそこで…、そう、同じように屈んで下駄箱に手を…。
…その後、あいつはどうしていた?…そうだ、確か気まずそうな顔で立ち上がって、上から二段目の下駄箱を開けて靴を取
り出していたはず…。
オレは下駄箱の上側にあるネームに目を遣り、そこに記された名を確認して歯噛みする。
…何故あの時に気付かなかったのだオレは!?
あいつが自分の下駄箱に手を入れる前に、離れた位置で屈み込んで何をしていたのか…、何故考えなかった!?
そして、カヅマが英語の教科書を忘れたと言ったあの日、あいつはオレと目があうまで、カヅマを眺めてニヤニヤと笑って
いた…。
「シマヅ…!あいつがやったのか…!?」
「余計な真似はしないでくれよ?」
歯を噛み締めたオレに、カヅマは目を細くして「フン」と鼻を鳴らす。
オレが一連の事件の犯人がシマヅだとようやく思い至った今になっても、カヅマは一貫して介入を拒むつもりのようだ。
「…判っている。オレからはシマヅに何も言わないし、何もしない。…カヅマのやり方を尊重する。約束しよう」
心の一部ではすっきりしないが、オレはカヅマに頷いて見せる。
カヅマは口の端を少し上げて、満足気に頷き返して来た。
…こいつは、見た目はこんなにひょろっとしているのに、強靭な精神を持っている。
すらっとした細い体で、いつだって姿勢良く立っている。
どんな時もすました涼しい顔をしていて、悪質な嫌がらせをされても、誰かに泣き付くどころか、表情一つ変えなくて…。
今なら判る。オレは、協力を突っぱねられた事だけで腹を立てたんじゃない。
何があっても小揺るぎすらしないあいつの立ち姿が、団長の後を継ぐ自信が持てないオレにとって、眩しかったからなんだ。
何故だか無性にオレを苛つかせたあの気持ちの正体は、きっと嫉妬だ。
そして…、それでもオレがこいつに惹き付けられたのは、嫉妬と同時に憧れも抱いてしまったからなんだろう…。
何故ここまで強いのだろう?何故ここまで気高く見えるのだろう?
いつしかカヅマの事は、オレの胸の真ん中から離れなくなってしまっていた…。
「兄ちゃん、今日は随分無口だな?あの先輩と何を話したんだ?」
特大ハンバーグを豪快に切り分け、大きな塊をフォークで刺した灰色熊は、口に運ぶ途中で手を止めると、訝しげに首を捻っ
てオレの顔を見つめてきた。
フォークに刺したハンバーグの切れ目からは、溶けたチーズがトロリと滲み出ている。
「色々とな。クラスの事とか…」
今夜も夕飯を作りに来てくれたガクにそう応じ、オレはフォークでハンバーグに切れ目を入れる。
嫌がらせやいじめをされた時、ひとはどう感じる物なのだろう?
カヅマはああいう風にシャッキリしているが、もちろん嫌な気分に違いない。
幸いにもいじめを受けた経験の無いオレは、ガクにも意見を聞こうと思ったが、やはりやめた。
こいつはあまり友達が居ない。
でかいし、顔はいかついし、おまけに寡黙なせいで、周囲から距離を取られる傾向がある。
ガクとオレのやりとりを見れば判るように、実際には寡黙な訳では決して無い。
気が小さいせいで、親しくない相手に自分から話しかけるのが苦手なだけなのだ。
幼い頃から一緒に過ごして来たオレには、こいつが気の良い熊である事が十分判っているが、いかつい顔立ちも相まって、
ムッツリ不機嫌に黙り込んでいるという誤解を周囲に与えてしまいがちなのだ。
縦横高さが尋常でないサイズのいかつい顔をしたグリズリーがムッツリ黙り込んでいたら、見慣れていない者にはそれだけ
で威圧感があるのだろう。
…そんな訳で、疎外されているとまでは行かないものの、周りに距離を置かれているこいつにいじめがどうのと訊くのは、
少々気が咎めた。
やがて、会話が少ない食事を終えると、ガクは「う〜…、ごちそうさま…」と少し苦しげに呻きながら、それでも満足気に
巨大な腹をさする。今日は考え事をしていたオレの食があまり進まなかった分、少々食べ過ぎたらしい。
「ごちそうさま」
「おそまつでした。…いまいちだったか?」
表情を窺ってきたガクに、オレは目を細めて応じる。
「そんな事は無い。美味かった」
世辞ではない。いつも通りの正直な感想だ。ガクの料理はいつだって、どんな物だって美味い。
「悩み事か?」
口数が少ない事が気になるらしい。ガクはしきりにオレの様子を窺って来る。
「上手く行かん物だと思ってな…。とにかく、ガクが心配するような事じゃあないぞ?まぁ、試練というヤツか…」
「そうか。…大変だろうなぁ、団長になる自信をつけるの」
幼馴染は上手い具合に勘違いしてくれた。好都合なのでもちろん訂正はしない。
オレは考え事を続けながらも、腰を上げたガクに倣い、空になった皿を流しへ運ぶ。
…カヅマなりの意地なんだろう。
あれは、シマヅの嫌がらせをカヅマが無視し切れるかという勝負でもある訳だ。
…いや、勝負とか言うとカヅマに目くじらを立てられそうだから口には出せないが、実質そうだろう?
なお、カヅマが言うには、オレが教室で話しかけたり、接触したりするのもダメだそうだ。
応援団員と親しいと察して嫌がらせを止めたとしても、それは無視によってシマヅが諦めた事にはならないからだそうだ。
カヅマ自身が協力を徹底拒否し、応援団として介入しないと約束してしまった以上、オレがあの勝負に気をもんでも仕方が
無い。
直接的な暴力などに出ようものならさすがに黙ってはいられないが、カヅマの意思を尊重するならば、嫌がらせに関しては
歯噛みしながらも黙って見守るしかない…。
せめて、何かそれとなく励ませるような手は無いだろうか…。
「…兄ちゃん、聞いてるか?」
オレだったらどんな時元気が出るだろうか?
「チーズ入りじゃない方が良かったかな?」
…そうだなぁ、団長に誉められると元気が出るし、美味い物食った時もそうだ。チーズ入りも悪く無かったな…。
そこまで考えた後、オレは頭を掻き毟る。…えぇいっ!ガクに話しかけられた内容が頭に入り込んで…、ん?
美味い…物…?美味い物で、元気が…。
「ガク!」
「どわっ!?」
肩を掴んで振り向かせると、ガクは水を張ったたらいの中にコップを落とし、ビックリしたように大声を上げた。
いやまぁ、普通はビックリするか。が、おれには今そんなリアクションに構う程の余裕が無い。
「料理を教えろ!美味い弁当が作れるぐらいに!」
おれの言葉を聞いたガクは、「え?」と声を漏らすと、怪訝そうに眉根を寄せた。
「どうしたんだよ兄ちゃん?藪から棒に?」
でかい顔を斜めにした灰色熊に、おれは続けて訴える。
「良いから教えろ!頼む!風呂上りにマッサージしてやるから!」
カヅマに…、美味い飯を食わせてやりたい…。
その辺の店よりよっぽど美味いガクの手料理を食ったら、カヅマのつつましい生活の事を思い出して、なんだか自分がとん
でもなく贅沢をしている気分になった。
奢りは断わられるし、朝晩は寮食。なら昼飯をあてがってやるしかチャンスはない。
弁当を作って持って行けば、たぶんあいつも断わらないだろう。
美味い物を食わせてやりたい。パンなんかよりも栄養がある、できれば美味い弁当を…。
ガクはきょとんとした顔でおれの顔を見下ろした後、苦笑いしながら口を開いた。
「兄ちゃん、時々行動が突発的だけどさ…、今回は飛びっきりだな?何があったんだよ?」
灰色熊は流しに向き直ると、コックを捻って水を止める。
「…実は…、ちょっと気になるヤツが…。寮生なんだが、あまり裕福でもないらしくて…、食費に…、いや、出費に気を遣っ
ているクラスメートが居るんだが…」
ガリガリと頭を掻きながら、オレは言葉を切って考えた。
カヅマの事情を、ガクにまで話しても良い物だろうか?
…まぁ、オレ以外とはあまり話さない、カヅマと同じく誤解されがちなコイツだ、吹聴して回る事は無いだろう。
それに何より、駄目だと言えばガクは決して口外しない。
コイツの義理堅さと口の堅さは、幼馴染としての関係を除外しても、一個人として信頼できる。
「…絶対に、誰にも言うなよ?気位が高いヤツなんだ」
オレが真顔になって釘を刺すと、ガクは「おお。判った」と神妙な顔で頷いた。
食器洗いに取り掛かる前に話をすべく、引き換えして椅子にかけたオレは、向かい合って座ったガクに、かいつまんで事情
を話した。
陰湿な嫌がらせの事に話が及ぶと、いかつい顔を顰めて不快げに喉をならし、カヅマの考えと対処を説明すると、感心した
ように目を丸くして大きく頷き、ガクは長い話を熱心に聞いてくれた。
「…それでまぁ、話を戻すとだな…。そいつに美味い物を食わせてやりたいと思う訳だ。だが、奢られるのは嫌いだと言って
いた…。そこで、弁当という手段はどうだろうかと。あらかじめ用意して行けば断わられ難いんじゃあないか?そう思ってだ
な…」
黙って話を聞いていたガクは、「なるほど…」と、たっぷりした顎を二重にして頷いた。
「良いよ、引き受けた。じゃあ…、どうするかな…?」
あっさり了承してくれたガクは、丸太のような腕を組んで首を捻る。
「弁当はオレが作って、それを兄ちゃんが作ったって持っていく手も…」
「却下だ。それではオレ自身の誠意が欠ける」
「だろうなぁ。そう言うと思った」
即答したオレに、ガクは何故か嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。
「じゃあ正攻法、きちんと練習だな。今日から何日か…、できればそう…、一週間ぐらい毎日続けて夕飯作りに来る。で、一
緒に作るの手伝って貰いながら教えてやる。実戦形式ならたぶん覚えも早いだろ?」
「助かる!恩に着るぞ!」
オレは身を乗り出し、ガクの分厚い手を取り、感謝を込めて両手できつく握った。
この日から、オレの料理修行が始まった。
料理と応援団の練習を毎日重ね、定期戦をつつがなく終えた頃には、時間があえば途中まで一緒に下校する程度にカヅマと
の距離が縮んでいた。
なお、しばらく続いていたカヅマへの嫌がらせは程無く止んだ。
シマヅがはたらいていた悪さ…、カヅマへの嫌がらせとは別件になるが…、それが応援団の耳に入ったのがきっかけで。
聞けば、シマヅは川向こうで中学生相手にカツアゲをしていたらしい。
それが、誤って星陵の一年生をターゲットにしてしまった事から、あちらの応援団長の知るところとなり、ウチの団長へ連
絡が入ったのだ。
こうしてシマヅとその舎弟は応援団の監視下となり、大人しくせざるをえない状況となった。
星陵の団長の下へ関係した生徒への謝罪に赴く際には、率先して声を上げたオレが付き添った。
急遽用事が入ったという団長の代理として、ガクを伴って。
まぁ、すっかり勢いを無くした虎猫を川向こうまで引っ張って行ったら、少しは気が晴れた。悪い事はできないものだな?
シマヅよ。
シマヅが根負けして諦めるのを待っていたカヅマは実に不本意そうだったが、これはオレが仕組んだ事じゃあない。シマヅ
が報いを受けたというだけの事だ。
粘り勝ち、あるいはシマヅの自滅という事で良いじゃないか?とは言ってみたが、釈然としない様子だった。
…そして、料理の練習を始めてから二十日後…。
「カヅマ」
昼休みに入った直後。オレは足早に移動してカヅマに声をかけた。
「ちょっと付き合ってくれないか?」
首を巡らせたカヅマに、オレは声を潜めつつ早口で囁く。
「…ここではまずいんだ…。とにかく教室を出よう…」
カヅマは訝しげな表情を浮かべながらも、顎を引いて頷く。そして、ドキドキしながら足早にドアへ向かうオレに続いてく
れた。
「…意外だ…」
「ん?」
他に生徒が居ない体育館裏。首を傾げたオレの顔を、カヅマはまじまじと見つめて来た。
「君みたいなゴッツイヤツがお弁当を作るなんて…、つくづく意外だ…」
薄曇りの空の下で、オレはカヅマと並んで、コンクリートのたたきの段差に腰掛けている。
「まぁ…な…。最近料理の練習を始めたんだ。ウチは親が共働きだからな。もう高二にもなった事だし、そろそろ覚えておく
べきだろうと…。それでまぁ、調子に乗って…」
まさかカヅマに食わせてやりたくて練習したとも言えない…。
料理の練習をしていて量を多く作り過ぎてしまったので一緒に食ってくれとか、味について他者の意見を聞きたいのだとか、
思いつくまま適当に言葉を紡いだのだが、幸いにもカヅマは突っ込んでくる事なく、納得して頷いてくれた。
今日のメニューは、サンドイッチを主役にしたサラダセットだ。
メインとなるのは、ピリリとからしを利かせたヒレカツサンドと、タマゴとツナのダブルサンド。
カツは昨夜、ガクのレクチャーを受けながらからりと揚げた入魂の一品。
タマゴとツナは塩味に気をつけながら入念にほぐした。
サイドメニューには、爪楊枝で刺したキュウリの生ハム巻きと、アスパラのベーコン巻き。
ガク曰く、箸を使わないコーディネートというコンセプトの弁当、…というかバスケットだ。
「へぇ…。立派な物じゃないか?これを自分で?」
カヅマが感心した様子で弁当を覗き込み、オレはドキドキしながら応じる。
「ま、まぁな…。カツはその…、揚げ物初挑戦だったが…、上手く揚げられたと思う…」
「え?このカツも自分で揚げたのか?予想以上に手が込んでる…。凄いなぁハスキ…」
カヅマに誉められた事が、とても嬉しかった。
尻の後ろで尻尾がバタバタと左右に暴れてしまい、慌てて手を回して押さえる。
…自分でもびっくりするほど…嬉しい…。
「え、遠慮しないで食ってくれ。できれば、どんな具合か意見も欲しい」
加えて、できれば好物も教えて欲しい。
「それじゃあ…、いただきます」
長方形にカットしたカツサンドを手に取ると、カヅマはしげしげと眺めてから噛み付いた。
ゆっくりと噛んでいるカヅマの横顔をドキドキしながら覗い、感想を待つと…。
「うっ…!」
カヅマは口元を押さえ、目をギュッと瞑った。
「ど、どどどどどうしたっ!?不味かったか!?それとも何か混じっていたのか!?」
大慌てで尋ねたオレに、カヅマは眉間を指先で押さえながら、涙が滲んだ目を向けてきた。
「違う…。くぅ〜っ!からしが利いててツンと来た…!」
「からしは苦手だったか?無理して食わなくても良いんだからな?」
オレが勝手にやっている事だ。気を遣って苦手な物を無理して食う事はない。
茶を差し出しながら念を押すと、カヅマは礼を言って受け取りながら、可笑しそうに笑った。
「失礼だけど、からしを入れる程凝っていると思わなかったんでね。意表を突かれてビックリしただけで、苦手じゃない」
ボトルからちびっと茶を啜ると、カヅマはオレに顔を向けた。
その顔を見た途端、オレは息をするのも忘れて、完全に固まった。
カヅマが…、あのカヅマが…、
「美味いな。びっくりした!まさかこんなにしっかり作ってあるなんて!」
そう、あのいつもつんとすましているカヅマの顔に、ニカッと笑みが浮かんでいた…。
なんて素敵な笑顔だろうか?
瞳が見えなくなるほどに目が細くなり、口を真横に引いて歯をむいた…、まるで、無邪気な幼子が見せるような、開けっ広
げな笑顔…。
「これ、中のソースも特製かい?」
「あ、ああ…」
コクコクと頷くオレの前で、カヅマはカツサンドを口に押し込み、頬を膨らませてムグムグと咀嚼した。
「ど、どうだ?失敗していないか?」
「全く問題なし。ははっ!料理、練習する必要なんて無いんじゃないか?」
カヅマは笑いながら、そんな風に誉めてくれた。
世辞でも嬉しい…。どういうわけか、胸の奥が疼くような感じがして、鼓動が速くなる…。
「…たまたま上手く行っただけで…、まだまだ練習中だ…。だから…、その…」
オレは柄にも無く照れながら、顔を俯けてツナとタマゴのサンドを手に取る。
「…よ、良ければ…、これからもたまに味見をして、客観的な意見をくれないか…?嫌でなければ…」
何故かドキドキと胸を高鳴らせながら頼んだオレの横顔を、カヅマは首を捻って眺める。
「これからも?」
小さく頷いたオレに、カヅマは、
「それはちょっと悪いなぁ…。ただ飯食わされるのは落ち着きが悪い」
と、首を左右に振って応じた。
「料理の練習に付き合って貰う訳だ。ただ飯でもないだろう?」
「それでもなぁ…」
カヅマはなおも難色を示し、困ったオレは、ふと思いついて口を開いた。
「なら、他にもう一つ頼みたい。それならどうだ?」
カヅマは胡乱げに眉根を寄せ、「内容によるが…、どんな事だ?」と尋ねて来る。
「カヅマは指揮者だろう?なら、皆の前に立つ心構えのような物も、オレより詳しいんじゃあないか?」
小さく首を傾げたカヅマに、オレは身を乗り出して頼んだ。
「知りたいんだ。ひとの前に立つ心構えを。皆を引っ張っていく心の置き方を。どんなささいな事でもいいから」
牡鹿は目を丸くしてオレを見つめると、不思議そうに口を開いた。
「そんな事で良いのか?…弁当と釣合うとは思えないが…」
「良い。オレには必要な事なんだ。どうだ?」
重ねたオレに、カヅマは微苦笑した。
「引き受けよう。俺の独断と偏見に満ちた意見でよければだけれど。美味い弁当の礼としては、甚だ不釣合いだけれどな」
軽くノックすると、「どうぞ」と、いつも通りの低い声が返って来た。
「失礼します」
練習開始前。ドアを潜って一礼したオレは、団服に着替え終えてボタンをしめている団長を真っ直ぐに見つめた。
「ながらく返事を保留させて頂きましたが、心が決まりました」
団長は体をオレに向けると、真っ直ぐに目を見ながら頷く。
一度深呼吸してから足を肩幅に開き、腕を後ろで組んだオレは、直立不動の姿勢で胸を張る。
「不肖、蓮木文武。粉骨砕身の覚悟で、団長のご要望に応えさせて頂きます!」
団長はオレの目を見つめたままゆっくり頷くと、表情を少し柔らかくした。
「礼を言うぞ、ハスキ…」
「いいえ、とんでもない!お返事に時間をかけてしまい、申し訳ございませんでした!」
腰を折って頭を下げたオレに、団長は「いやいや」と微苦笑を浮かべた。
「ときに…、何か心が決まるきっかけでもあったのか?」
団長の問いかけに、オレは少し口ごもった後、頷いて返事をした。
「教えてくれたヤツがおりまして…。その、前に立つ心構えを…」
「ほう…」
団長は顎に手を当て、興味深そうな顔をする。
「オレはそいつに尋ねました。前に立って皆を率いるのに、どれほどの自信が必要だろうか?と…」
黙って頷き、先を促す団長に、オレは思わず込み上げた苦笑いで顔を歪めつつ、指先で頬を掻いて続けた。
「…自信など必要無いと言われました。必要なのは、「皆がついてきてくれると信じる事」だと…」
「はははははははははっ!」
団長が突然声を上げて笑い出し、オレはキョトンとする。
「いや済まん…!だが、驚いただろう?彼の普段の様子からすれば、そんな言葉が出て来る事は」
「ええ、意外でしたが…、…ん?」
オレは団長の言葉に違和感を覚え、眉根を寄せた。今…「彼の普段の様子から」って…?
「団長?オレが助言を貰った相手が誰なのか…」
「カヅマ君だろう?」
そうあっさり答えられ、オレの下あごがカパンと落ちた。
「知らなかったようだが、現吹奏楽部長は儂の幼馴染でな。あいつの紹介でカヅマ君とも昨年中から懇意にしとる」
パッとみて文科部所属とは思えないほどゴツい、吹奏楽部長である猪の笑顔を思い浮かべるオレ。
…団長の人脈の多さは承知していたが…、部長を通してカヅマとも知り合っていたとは…?
「定期戦前の打ち合わせの折、少々楽しげにハスキの事を口にしとった。「こんな自分と進んで関わろうとする、酔狂なクラ
スメートが居る」とな」
「酔狂…ですか?」
「と、感じとるようだ」
団長は面白がっているように耳を倒して笑う。
…カヅマのやつ、そんなそぶりは全く見せなかったぞ!?…鹿のくせになんてタヌキだ…!
「カヅマ君は、ベタベタするような馴れ合いを好まぬ性格のせいで誤解されがちだが、聡明で誇り高く、何より根性がある。
良い友人ができたな?ハスキ」
「は…、はぁ…」
このひとは、一体何処から何処まで知っていたんだろう?
笑みを浮かべている団長へ曖昧に頷いて応じつつ、オレは思う。
…一番のタヌキは、団長かもしれない…。