事故から十日が経ったその日、ぼくは屋上に続く階段の踊り場で、焦げ茶色の大きな羆と向き合っていた。

「先日は、有り難うございました」

包帯を巻いている頭を下げたぼくに、団長さんは「ふむ…」と、顎を引いて大きく頷く。

固太りした厳めしい顔の羆は、頷くと顎が二重になって、ちょっとだけ厳しさが薄れた。

「経過は順調か?まだ痛々しいが…」

事故の後、ぼくは体のダメージよりも心のダメージから十日間休養させられた。

やっと登校できるようになった今日、ぼくは団長さんに会いたいってカイジマ君に頼み込んだ。

事情を聞いていたらしいカイジマ君は、ぼくの無理を通してくれて、団長さんはこうして練習の時間を割いてくれた。

練習前だから、団長さんは普通の学ランとは少しデザインが違う制服を着込んでる。

長くて硬い詰め襟。上着も長くて、裾が膝まで届いてる。ズボンは太くて、いわゆる長ランのドカンの格好だ。

応援団の中堅以上が身に付ける、「団服」と呼ばれてる制服…いわゆる応援団のユニフォームを身に付けている団長さんは、

この間会った時よりもさらに大きく、厳めしく見える。

「お陰様で、痛みはもう無いです。あと数日で抜糸できるそうで…」

頭の包帯に軽く触れながら答えたぼくに、団長さんは「それは良かった」と再び頷いた。

「あの…、これ、あの時お借りしたハンカチです」

ぼくはぴしっと畳んだ真っ白なハンカチを、両手で揃えて差し出した。

団長さんは忘れていたのか、少し眉を上げて「ああ…」と声を漏らす。

「気にせんでも良かったのだが…」

ハンカチを受け取り、団服のポケットに入れた団長さんに、「それと、つまらないものですけれど…」と、ぼくは持参した

紙袋を差し出した。

中身は姉さんに付き合って貰って、デパートで選んできたクッキー。ささやかながらお礼のつもり。

団長さんはぼくが差し出している紙袋を見つめ、困ったようにちょっとだけ眉根を寄せた。

「薄々、そうではないかと思ったが…。気を遣う事など無いのだぞ?儂は礼をされるような事は何もしとらん。受け取れん」

「けど、両親も団長さんにお礼を言っていました。持ち帰れませんよ!」

ぼくが手を引っ込めずに居ると、団長さんは少しの間じっと紙袋を見つめて、それから「ふぅ…」と小さくため息をついた。

「あのコーギーといい…、今年の一年は何かと義理堅い…」

「え?」

「いや済まん。こっちの話だ」

団長さんは大きな両手をそっと紙袋に添えて、挟むようにしてぼくの手から持ち上げた。

「親御さんもそうおっしゃられているのであれば、突っ返すのも不調法だな…。有り難く受け取っておこう」

断られずに済んでほっとしながら、ペコッと頭を下げたぼくに、団長さんは少し細めた目を窺うように向けた。

「…元気は、まだ出んか…」

「え?そ、そんな事無いですよ?」

慌てて首を横に振ると、団長さんは顎を引いて「そうか…」と呟いた。

「無理はするな。今はただ、身も心もゆっくり癒せ」

相変わらず重低音の声は、胸の真ん中にポッカリ穴があいてしまったようなぼくの耳に、何故かとても優しく響いた…。


















































次回予告

「…野球部…辞めようと思うんだ…。一人で続けるだけのやる気が…、無くなっちゃった…」

ため息混じりにそう言って、ぼくはストローを咥える。しばらく黙り込んでいたカイジマ君は、パンを口元に持っていきな

がら口を開いた。

「好きにしろ。誰が何言ったって、決めるのはアカギ自身だからな」

ぽつりと囁かれたその言葉は、突き放したようでいて、その実とても優しい。

決めるのはぼく。それに関して、自分は一切の反対をしない。そう、言外に含まれているような気がした。

部員の一人にそう零した時には、「チドはどう思うかな…」と呟かれた。

悪気は無かったんだろうけれどかなり堪えた。

もしかしたら彼もそう思っているのかもしれないけれど、ぼくの意志を尊重すると言ってくれている。

「…カイジマ君は優しいね…」

呟いたぼくの横で、カイジマ君はモゾッと身じろぎしてそっぽを向いた。





「気に病むな。…というのもなかなか難しかろうが…、周りから聞こえる心ない言葉は、全て聞き流せ」

団長さんはそう呟いて、ため息を漏らすように小さく息をついた。

「…はい…」

団長さんの耳にも、入ってたんだ…。ひょっとして、今日はぼくを励ますために…?

…無事なのがぼくじゃなく、ハナだったら良かったのにって、言うひと達もいる。

当然だ。ハナは皆が期待するピッチャーだったのに、庇われて無事だったぼくは役立たずだし…。

逆だったら良かったのにって、皆が思うのは当然だ…。

「…あの…。団長さんは…、皆みたいには思わないんですか?」

思わずしちゃったぼくの質問に眉を動かすと、団長さんは半眼になってぼくを見た。

…何を訊いてるんだぼく…。

「まるで、責められる事を望んでいるような問いだな?」

低い声は静かで淡々としているのに、ぼくは何だか怒られてるような気分になった。

「ならば言わせて貰うが、チドの事は儂も残念でならん。当然な。何せ、ここ数年で川向こうに対抗できた唯一のピッチャー

だ。加えて、あれだけの度胸を持った男…。あんな目に遭った事が残念でないはずがない」

団長さんはそこで一度言葉を切ると、俯き加減のぼくをじっと見た。

「だが…、同時に良かったとも思っている。アカギが無事だった事についてはな」

少し顔を上げたぼくに、団長さんは小さく頷きかけた。

「毒にも薬にもならんような、無責任で下らん雑音になど耳を貸してやる必要も価値も無い。無事だった事をまず喜び、元気

を出せ」

団長さんが発する重低音の力強い声は、ぼくの胸にじんわりと染み入って来た…。


Coming soon…

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