犬猿の仲
セントバーナードが笑ってる。
線香の煙が昇って行く先、天井近くの高さで壁にかけられた白黒の笑顔を見上げながら、ぼくはなんとなく思った。
いつかぼくが死んだ時も、遺影はやっぱり笑顔が良い。
「…行ってきます…」
遺影を見つめながら呟いて、ぼくはそっと、仏壇の前を離れた。
昨年の今頃の事を思い出しながら…。
雲のない真っ青な空に輝き、ぎらぎらと照りつける太陽。
まだ五月上旬だっていうのに、今日は夏の暑さだね…。
響き渡る太鼓の音と応援団のエール。加えて吹奏楽部の演奏する応援曲と、スタンドから雪崩落ちて来る歓声が、グラウン
ドの熱気をかき混ぜる。
今日、ぼくら硬式野球部は、川向こうの学校との定期戦をおこなっている。
…現在七回裏、こっちの攻撃。
この回の守備では、相手校クリーンナップトリオに捕まって二点を奪われ、二人目のピッチャーが沈んだ上に、途中からマ
ウンドに上がった二年生の先輩が初球をライトスタンドに送り込まれて出鼻をくじかれ、調子を乱した。
その後のヒットもあり、結果四点奪われた後、当たり損ねのキャッチャーフライで何とかスリーアウト、相手の攻撃はよう
やく終わった。
既に14対2。さすがは甲子園を狙う県内屈指の強豪校、全く歯が立たない…。
もっとも、先輩方も監督も、最初から勝てるとは思っていない。
我等が陽明硬式野球部は、強過ぎるお隣さんのおかげで、毎年毎年予選で消えてる…。
だって、あっちは甲子園出場を何度も果たしている、全国的に有名な学校なんだもん…。
そもそも、近辺の優秀な選手は大概あっちに入学しちゃう。そのおかげで、こっちには良い選手がなかなか来ない。
つまり、こっちの部員はいわゆる「そこまでじゃない」選手の集まりだ。…ぼくも含めて…。
「…チド、アカギ、アップしておけ」
この回最初のバッターが打席に向かうと、すっかり意気消沈してる監督が、ため息混じりにぼくらに声を掛けた。
…もう諦めちゃったっぽい…。
一番奥のベンチから立ち上がったぼくに続いて、隣に座っていた大柄な幼馴染みがのそっと腰を上げる。
「さぁ、出番だよハナ」
「あいよぉ」
いつも眠そうな顔をしているセントバーナードは、常の半眼をさらに細めて、口元を微かに緩めて頷いた。
三者凡退。追加点が無いまま七回裏が終わり、軽くアップを済ませたぼくとハナは、八回表、こちらの守備から試合に出さ
れる事になった。
まず試合を経験させておこうという監督の意向で、選手の多くが入れ替わり、半数以上が一年生になっている。
ハナの大きな手が差し出したキャッチャーマスクを受け取り、ぼくは笑みを浮かべて頷く。
それじゃあ行こうかハナ。ぼくらのデビュー戦だ!
ぼくは赤木眞代(あかぎましろ)。高校一年。
中肉中背の猿獣人。…いや、背はちょっとだけ低い?でもほら、伸び盛りだからまだ…。
外見的な特徴と言えばポサッとした短い尻尾と、まるで染めているように鮮やかなモサモサの赤い毛。そして、体格に比し
て少し長い手かな?
「締まってこーぜぇーっ!」
ぼくが腹の底から声を出すと、皆が「おーっ!」と声を上げ返した。
監督は諦めてるし、確かに逆転は無理だろうけど、ぼくらの試合はここからだ!
審判の宣言に次いで、ぼくは「決断」して一球目のサインを出す。さぁハナ!思いっきり投げて度肝を抜いちゃえっ!
マウンドに立つ、ぽっちゃりしたセントバーナードは、眠そうな顔で首を縦に振る。
次いで片足を大きく上げて、骨太で太り気味の体を、背番号が完全にこっちへ向く程に捻った。
限界近くまで捻られた体がぐわっと旋回して、周囲の大気を吹き飛ばす程の勢いで戻る。
霞んで見える程のスピードで振り抜かれた左腕から、白いボールが弾丸のように飛んできた。
初球はスライダー。バットはボールの軌道のやや上で、ブンッと振り抜かれた。
ボールがミットに飛び込んだズパーンという音と同時に、ビリビリした衝撃が手から腕、肩へと抜けて行く。
バッターは驚いた顔で一度こっちを振り返り、次いでマウンドのハナを見遣った。
予想外の剛速球だったんだろう。スイングが合ってない。完全に振り遅れてる。
驚いてるのはバッターや相手校だけじゃない。こっちの選手も数名を除いてビックリしてる。監督も含めて。
それも無理はない。だって秘密兵器のトルネードを堂々とお披露目するのは、今日が初めてだし…。
太り気味で鈍重そうなハナが、見た目によらず柔軟なフォームから弾き出すボールは、のんびりとしたセントバーナードの
イメージを覆すだけの球威を持ってる。
ぼくが放ったボールを右手にはめたグローブでキャッチし、ハナは「どうだい?」とばかりに小さく首を傾げる。緩んだ表
情のまま。
一投目から球は走ってる。もちろん文句なしっ!
頷く事で「問題無し」と伝えたぼくは、「決断」して次のサインを送った。
さぁ、県内屈指の強豪相手に何処まで通用するか、力一杯試してみようじゃないっ!
三者三振。三人目に一本チップを貰ったのみで、この回を九球で抑えたハナは、相変わらず眠そうに見える顔に緩んだ笑み
を浮かべて、駆け足でベンチに向かった。
同じくベンチに駆け戻りながら並んだぼくは、「文句なし!上出来だよっ!」と声をかけながら肉付きの良い背中をバシッ
と叩く。
「へへへっ!そう?」
歯を剥いてニカッと笑ったハナに、ぼくは笑顔で頷いた。
ハナは続く九回も三者三振に仕留めたものの、こっち側の追加点も無く、試合は14対2のままあっちに軍配が上がった。
それでも監督や先輩方は上機嫌。っていうかだいぶ興奮していた。
そういえば、八回の表の守備、三人目のバッターが打席に立っている間に、スタンドの方で何か騒ぎがあったみたいだけれ
ど…、後で他の部員に聞いたら、吹奏楽部の誰かが倒れたらしい。…暑かったもんなぁ今日…。
試合後に詰め寄られてあれこれ詰問されたハナは、今はげんなりした表情でぼくの横を歩いてる。
定期戦終了後、球場で制服のズボンとワイシャツに着替えてから解散した後、ぼくらは一緒に帰路についていた。
「試合より、その後皆に色々訊かれた方で疲れたな…」
帰り道の途中にある、太い二車線道路に細い道がぶつかる丁字路。細い道の突き当たりにあたる位置に建つコンビニでスポ
ーツ新聞を買った後、自動ドアを潜りながらハナが呟いた。
「仕方ないよ。でも、ちゃんと実戦でも使える事は確認できたでしょ?」
「まぁなぁ」
ハナは高校一年にして180センチ近くあるから、顔を見て話をする時は、154センチのぼくは見上げる格好になる。
ハナの本名は千戸花人(ちどはなひと)。
セントバーナードらしく大柄で骨太。でもってやや太り気味。
体は大きいけれどおっとりした性格で、怒る事や苛立つ事なんてめったにない。
ぼくとは家が隣同士の幼馴染みで、物心がつく前からずっと一緒に居る。家に帰る時もこんな感じでいつでも一緒だ。
しばらく今日の試合の内容、特に相手校の気になった選手について話しながら歩き、家まであと五分程度という距離になっ
た頃、ハナは目の上に手でひさしを作ってきょろきょろと周囲を見回した。
「なぁマーちゃん。帰ったら行っても良いかな?それとも、何か用事ある?またスクラップブック見せて欲しいんだけど…」
会話が聞こえる距離にひとが居ないことを確かめたハナは、昔ながらの呼び方でぼくに訊ねて来た。
中学に入ると、学校なんかではさすがに「チド」「アカギ」って呼び合うようになったけれど、二人きりの時やお互いの家族の前ではこの呼び方に戻る。
「良いよ。別に何も無いし、おいで」
「んじゃ、荷物置いて着替えたら行くな」
ぼくは緩んだ笑みを浮かべたハナに頷く。…確かに、かなり熱くて汗もかいた事だし、シャワー浴びて着替えた方が良いな…。
ぼくはシャツの襟元を掴んで引っ張り、首元を少し開けた。
肌着なんかは球場で着替える時に一緒に替えてきたけれど、汗が染みた被毛はまだ湿っている。
風を入れながら横を見れば、汗に濡れていても不快じゃないのか、ハナはいつもどおりのぼーっとした顔。
…まぁ、身なりにも無頓着だし、あんまり気にならないんだろうなぁ…。
「じゃあ、また後でな」
「うん。待ってる」
並んだ自宅の前で、ぼくらは手を上げて一旦別れた。
…さて、ぱぱっとシャワー浴びちゃおう…。
母さんと姉さんにただいまを言うなり脱衣場に直行して、ユニフォームとシャツを洗濯篭に放り込んだぼくは、さっそく浴
室に入った。
今日は本当に暑い…。熱いシャワーを浴びるとかえって体がダルくなりそうだったから、かなりぬるくして椅子に腰掛けな
がら浴びる。
目を瞑って頭から被ったシャワーが赤い被毛に染みて、汗と混じって流れ落ちて行く。…これでだいぶすっきりした…。
鏡に映るのは、顔も被毛も赤いニホンザル。他の種に比べてやや毛が長くて、尻尾が短いのが特徴。
…この国ではオーソドックスな種なんだけれど、海外の種は大概長い尻尾を持っていて、顔は赤くないらしい。
…ぼくも長い尻尾が良かったな…。あと顔にかっこいい模様とか欲しかった…。
さて、ハナも来る事だし、あがったら冷たい飲み物を用意しようっと…。
ハナがさっき見に来るって言っていたのは、ぼくがお気に入りの野球選手達の記事を纏めたスクラップブックだ。
新聞記事や、ネットのニュースなんかを父さんのパソコンからプリントアウトして、切り抜いて集めた物。
今でこそ野球にのめり込んでるぼくらだけど、実は、中学時代は野球をしてなかった。
小学校の頃はスポーツ少年団に参加していたけれど、五年の夏に辞めてる。
ドラマに影響された母さんによって、バイオリンの稽古をさせられるようになったからだ。
まぁ、母さんのバイオリン熱もハシカみたいな物だったし、流行が終わると完全に冷めたから、もうやってないけど…。
ぼくもさっぱり上達しなかったし、夢中にもなれなかったしね。
ちなみに、その頃は度を越して太り過ぎだったハナの方は、ダイエットの為にスイミングスクールに通わされるようになっ
て、ぼくと同時期に辞めてる。
中学に進んだ後、ぼくらは部活には入らないつもりだった。
頭の程度も良く無いから、学校の勉強だけで手一杯だ。習い事と部活を両立させるのは厳しい。
そんな訳で、遊ぶ時間も確保したかったから、二人で帰宅部って決めていたんだけれど…、ひょんな事から予定が狂った…。
それは、体育の授業の時だった。
陸上競技あれこれについての授業で、砲丸投げをやらされた際、ハナがいい記録を出したんだ。
それがきっかけになって陸上部に強制入部させられる事になったハナは、ぼくに泣きついて来た。
「知らないヤツばっかの部に一人で入るのはやだよぉ!マーちゃんも一緒に入ってくれよぉ!」
兄弟同然に育った幼馴染みに縋り付いて懇願されれば、無下に断る訳にも行かない。
イヤイヤながらもハナに付き合って陸上部に入ったぼくは、身軽さを見込まれて棒高跳びをやらされる事になる。
そして、予想外にも陸上部員として三年間を過ごす事になったわけ…。
ん?それが何で高校では野球部にって?
…それは、ぼくとハナは野球が嫌いじゃなかった事と、海外で活躍中のある日本人選手の存在が影響してる。
ぼくはシャワーを止めてヘッドを壁のフックにかけ、シャンプーを手に取りながら、その日の事を思い出した。
陸上部の大会を終えて引退した後、中学三年の夏休み…。
ぼくとハナは、活躍中のメジャーリーガーが近くの大学へ講演に来る事を聞きつけた。
国内で活躍していた頃から割と好きだった選手だし、何よりハナがどうしても行きたいって熱心に主張したから、ぼくも付
き合う事にしたんだ。
そしてぼくらは夏休み中のある日、予想通りに混み合う大学の講演会場で、それまでテレビでしか見たことの無かった野球
選手を、この目で直に見た。
その選手は鹿で、ひょろっと背が高い。
貧弱に見えるほど細身で、胴も手足も枯れ枝のように細く、体格の良いあっちの選手の中では、それがより際だって見える。
一見ひ弱そうなその選手は、それでもメジャーにおいて、外野手としても打者としても活躍している。
ぼくらは後ろの方の席をなんとか確保して、壇上に上がったその選手の姿に目を懲らした。
いつもユニフォーム姿で見ているせいか、スーツを着てぱりっとした格好には違和感があったっけ…。
『上達の秘訣とは何かとか、よく聞かれますが…。僕の場合はまぁ、守備にも出ているような諦めの悪さが秘訣ですかね?』
細身の鹿はシニカルな笑みを浮かべて、そんな事を言った。
『今では皆さんご存じでしょうが、僕は高校時代は無名でした。そのままだったなら勿論無名だったという事すら有名にはな
りませんでしたがね。…ん?何かおかしな日本語になったかな…?失礼、スピーチに慣れていないもので』
選手が苦笑いすると、会場から控えめな笑声が上がる。
『諦めが悪いという事は、ともすれば「根性がある」などと美化されがちですが、実際にはそうでもないです。早々と見切り
をつけて別の事をした方が良い事も多々あるでしょう。いつまでも拘って、結局それで失敗する事もあります。端的に言えば、
拘り続けたソレで成功するとは限らないので。僕の場合はたまたまこうしてそれなりのプレイヤーになれましたが…、もしも
入団テストなど受けずに諦めていたら、今頃はどこかの大会社のご令嬢と親密な関係になっていたかもしれません。ね?どっ
ちが得か判らないでしょう?』
本気とも冗談ともつかない選手の言葉に、会場からクスクスと笑いが漏れる。
どうやら堅苦しい真面目な講演にするつもりはないらしい。
そんな事をぼくらが感じ始めたその時だった。選手がシニカルな笑みから優しげな笑みに切り替えたのは。
『「諦める」という事は、イコール「投げ出す」という事じゃあありません。諦める事を選ぶのもまた勇気が要る事です。僕
の諦めが悪いのは、単に自分には無理だと認める勇気が持てないからでしょう。僕の事を不屈のチャレンジャーだと評してく
れる記者さんも居ますが、それは過大評価です。できない事を認めるのが怖くて、足掻いて、それで今の自分になった。それ
だけなんですから。諦めずに続けて成功するか、それとも失敗するか。早々と別の事に挑戦して成功するか、それともやはり
失敗するか。前の事を続けていた方が良かったか?今の方がマシか?別の事に手を出したら、そっちの方が上手く行くだろう
か?…これらの事は、後から見直してみなければ判りません。手を出すその時にある程度の見通しを立てられても、結果が伴
うかどうかは博打です』
その選手の話は、ぼくらが思っていたような「諦めなければ夢は必ず叶う」とか、「努力は必ず報われる」とか、響きの良
い言葉を連呼して励ます物とは違っていた。
本音で喋っていたんだろう選手の言葉は、けれどこれまでに聞いてきたどんな「それらしい話」なんかより、よっぽど強く
ぼくらの心を揺らした。
話には時々難しい比喩なんかも出てきて、当時中学生だった上にあまり頭も良くないぼくらには難しくなった事もあったけ
ど、冗談混じりになったり、脱線しかけたりもしたその話はとても面白くて、ぼくらは最後まで夢中になって聞いた。
『少し時間をオーバーしてしまいましたが、たどたどしいスピーチを最後まで温かくお聴き下さって、ありがとうございました』
そう話を締めくくって一礼した選手に、盛大な拍手が贈られた。
「…想像してたより、ずっと面白かった…」
「うん…。なんか良かったな…」
呟いたぼくに、ハナも頷いた。
テレビの向こうでは生真面目な印象しか無かった選手が、「夢と希望が持てるゴリッパな言葉」を連ねないで、独自の理念
から決断力について語った。
その言葉の数々が、お飾りじゃない本音だって感じたぼくは、それまで以上にその選手が大好きになってしまった。
講演会が終わって選手が出発するのを見計らい、サインを貰おうと殺到した人々に混じって、ぼくらもティーシャツにサイ
ンを貰った。
そしてその日の帰り、電車の中でハナが言ったんだ。
「なんだか…、野球、またやってみたくなったな…」
シャワーを出して、頭全体を覆うシャンプーの泡を洗い落とす。
…あの日の夜、一晩考えてぼくらが決めた、もう一度野球をやってみようという選択が間違っているかどうかはまだ判らない。
でも、他に挑んでみたい事もなかったし、とりあえずは野球に取り組んでみようと頷き合って、ぼくらは今野球部に居る。
ブランクはもちろんある。あるどころか、プロ野球の放送で覚えたルールや知識なんかはともかく、実際の技術は小学五年
で基礎を学んだレベルだ。
二人とも陸上部で体を動かして来たとは言っても、もちろん野球のソレとは鍛えられ方が異なる。
高校で野球部に入った時、全く動けないんじゃ話にならない。
ボールに慣れる為にまずはキャッチボールから始めて、それからお小遣いが許す限りバッティングセンターに通った。
ハナは苦手な走り込みで体を絞り、ぼくもそれに付き合った。
…え?何で名門であるあっちの学校に行かなかったのかって?
…いやその…、実はぼくもハナも成績はあまり良くなくて…、あっちは望み薄いって先生や親に止められちゃったんだよね…。
まぁ、野球部入部に向けての体力作りなんかを受験勉強そっちのけでやっていたから、例え受験しても不合格になったと思
うけど…。陽明も実は結構ギリギリのラインだったし…。
そんなこんなで、二人きりの秘密特訓を始めてからしばらくたったある日、ハナが突然「テレビで見たヤツ真似てみる」と
言い出した。
ハナが垂れ耳をピクピクさせながらやってみたいと訴えたのは、説明を聞いてみると、ある有名な投手が得意とする独特な
フォームからの投球方法…、トルネードの事らしかった。
太っているハナがあの投手の真似をするのはどこか奇妙だったけれど、うろ覚えの形だけレクチャーしてフォームを真似さ
せてみたぼくは、驚きで目を丸くした。
太っているハナの体は、驚くほど柔らかかった。…いや、お肉の方じゃなくて、体の柔軟性の話ね…。
おまけに、砲丸投げで鍛えられていたせいか、いやに肩が強い。
試しに本当にボールを投げさせてみたら、力み過ぎて投球後にすってんころりんと転げたものの、投げたボールはそれまで
よりずっと走ってた。
ちょっと真似てみたかっただけのハナは、最初こそ剛速球を投げた自覚がなくて、ぼくが驚きながら褒めちぎってもキョト
ンとしていたっけ…。
何回か投げさせて見て確信した。投げるボールは大概大きく狙いを逸れて、コントロールの改善が急務だったけれど、それ
を差し引いても魅力的な剛速球…。ハナはピッチャーをやるべきだって。
全身を使うトルネードはそう簡単に真似できるものじゃなかったけれど、来る日も来る日も練習したハナは、やがてフォー
ムを完全に身に付け、コントロールも徐々に正確さを増して行った。
ハナから聞いた所によると、砲丸投げは足から手先まで、全身を連動させて球を押し飛ばすように投げるらしい。
もしかしたら、全身を連動させるっていう点で通じる物があったのかな?
足も遅いし、少々鈍いからバッティングもいまいちなハナだけど、この投球方法に関してだけは驚異的なスピードで上達した。
ぼくらの乏しい知識だけじゃ限界があったから、中学の野球部顧問の先生に頼み込んで、ちょくちょく指導を仰いだんだけ
ど、あれが良かったんだろう。
ハナのピッチングを見たら、先生悔しがってたっけ…。こんなに良いピッチングができるようになるなら、野球部に入って
くれていれば良かったのに!って。
…そうだった。先生に教えてもらうようになってからだったな、ぼくらがバッテリーを組む事を意識し始めたのは…。
ぼくの方は、足の速さは並の上、柔軟性と身軽さはそこそこ、バッティングに関しては、選球眼はなかなかだって褒められ
たものの、非力で当たり負けする。
これといって取り柄の無いぼくだったけれど、先生に面白い所を褒められた。
動きながら、あるいは屈んだままの返球のスピードとコントロールが、きちんとした体勢から投げた時と比べてもあまり落
ちていないって。
自覚はなかったけれど、ぼくもそこそこ肩が強いらしい。あと、姿勢の制御がしっかりしてるんだって。…棒高跳びに打ち
込んでたせい?
さらに、体格に比して手が長い事が、上半身だけで投げる際にも非常に有利に働いているそうだ。
ハナは先生にピッチャーとしての技術や考え方、そして変化球の投げ方を教わり、ぼくはキャッチャーとしての指導を受けた。
そうして高校に進学し、野球部に入部したぼくらは、ついに今日、ハナの秘密兵器を皆に公開したんだ。
結果は上々。休み明けにはきっとまた色々言われるんだろうなぁ。
ぼくもハナの相方で居られるよう、頑張らなくちゃ…。
シャワーを浴びながらそんな事を考えていたぼくは、背後でガラッと浴室の戸が開いて、ビックリして振り返る。
目にシャワーが入って顔を顰めながら見遣った先には、薄茶色と白のツートンカラーの巨体。しかも全裸。
「どうしたのハナ?」
大きな体を縮めて、前屈みになってタオルで股間を隠したハナは、恥ずかしげにへら〜っと笑う。
「「汗臭いからシャワーして来なさい」って、ミヨ姉ちゃんに言われた…。マーちゃんも浴びてるからってさ」
姉さんのしかめ面を思い浮かべながら、ぼくは苦笑いした。
「着替えては来たんでしょ?シャワーはして来なかったんだ?」
「ん。急いで来たし」
「ぼくもスクラップブックも逃げないから、のんびり来れば良いのに…」
「あ。あと夕飯も食べて行けってさ。家に電話して来たから、今日はこのまま夜まで居るな」
のそっと浴室に入って来たハナは、そんな事を言いながら戸を閉めて、ぼくの横で床にあぐらをかいた。
尻尾をフッサフッサと振っているセントバーナードに、湯加減を調節してシャワーヘッドを向ける。
頭からお湯をかけられ、首を竦めて目をギュッと瞑ったハナは、しかしじっとしながら尻尾をさらに激しく振った。
ぼくは横から身を乗り出すようにして、ワシワシと頭をシャンプーしてあげる。
小さな頃からの習慣で、ぼくらは今でも良く一緒にお風呂に入るし、そんな時には頭や背中を洗いっこする。
あぐらをかいた股に揃えた両手をつき、首を竦めるようにして大人しくシャンプーされていたハナは、ぬるま湯で泡を洗い
流してあげると、ブルルルッと体を揺すった。
「わっぷ!は、ハナぁ!またやったぁ!」
「へへへへぇ〜!ありがとなマーちゃん!」
飛沫を浴びて顔を顰めて声を上げるぼくと、上機嫌で尻尾をバタバタさせるハナ。
「このぉ…!お返しっ!」
「ぷひゃっ!」
顔面にシャワーを浴びせてやったら、ハナは妙な声を上げて仰け反り、鼻に入ったらしく噎せ返る。
「けふけふっ!やったなぁ〜!?うりゃ!」
「うわっ!?」
シャワーへの反撃に、ハナは大きな体でガバッと抱き付いて来た。
押される形になったぼくは、椅子からずり落ちて尻餅をつく。
ハナはそのままぼくの体を腕ごとギュッと抱き締め、ベアハッグの状態に持ち込んだ。
だいぶ絞れたとはいっても、まだかなりぽっちゃりしているハナの体が密着して、水が落ちかけていたぼくの体に再び水気
を移す。
「ギブアップ!ギブギブ!ギブだってば降参降参っ!」
腕も胴体に添った形で一緒くたに締め上げられたぼくは、肘を曲げてハナの両脇腹を叩いてタップした。
ぼくの敗北宣言で満足したのか、ハナは締め付けを少し緩めて、ぼくの頭の上に顎をトンと乗せた。
顔は見えないけど、たぶん得意げに笑ってるんだろう。
よく「犬猿の仲」なんて言うけれど、物心つく前から兄弟のように育ったぼくらは、昔からずっとこんな感じだ。
家族ぐるみの付き合いだから、お互いの家の食事に呼ばれたり、泊まりにいくなんてしょっちゅうの事。そんな日はできる
だけお風呂も一緒に入る。
体はハナの方がだいぶ大きいけれど、生まれはぼくの方が半年早い。
ぼーっとしてて抜けてる所が多いハナとぼくでは、どっちかって言うとぼくの方がややお兄ちゃんかも…。
「なぁ、マーちゃん…」
「うん?」
ハナは少し身を離して、ぼくの目を見下ろした。
…困っているような、恥ずかしそうなこの表情…。これは…。
「ごめん…、抱き付いたら勃っちゃった…」
ハナの股間を見下ろすと、そこでは臨戦態勢に入った立派な息子さんが、偉そうにふんぞり返っていた…。
「…こ、ここじゃちょっと…。部屋に行ってからね?」
「ん…」
顔を伏せて俯いたハナのお尻の後ろで、濡れた尻尾がピタンピタンと、嬉しそうに床を叩いた。
浴室から出て手早く体を乾かしたぼくらは、いそいそと部屋に向かう。
いつものろのろスローモーなハナが、もどかしそうに大急ぎでキュッキュと体を拭いている様子は、なんだか微笑ましい。
お盆に乗せた菓子類を姉さんから受け取ったハナは、ティーシャツにトランクス姿で階段をドタドタ駆け上がって行く。
ぼくの方は飲み物を持ってその後から登り、ハナを自室に通して鍵をかけた。
南側に窓がある、畳敷きの六畳間。それがぼくの部屋だ。
畳の上に置いたお盆。その上に乗る二つのコップ。ぼくはサイダーと牛乳をそれぞれになみなみ注いだ。
マイフェイバリットドリンク…つまり牛乳の方を取り、腰に手を当てて一気飲みして、「ぷはーっ!」と息を吐き出す。
お風呂上がりはまた格別!…牛乳大好きなのに、身長の伸びがちょっと物足りないのは何でなんだろう…?
そして、昔から牛乳があまり好きじゃないハナは、何故にこうまで大きく育ったのか…?
畳の上にあぐらをかいてサイダーをチビチビやっていたセントバーナードは、勉強机の椅子に腰掛けたぼくの視線を受けて
「ん?」と首を傾げる。
…いやいや、まだ伸び盛りだ…!来年の今頃は、上手く行けばもう160とか…、もしかしたら165とか…!再来年辺り
には憧れの170に達しているかもしれないじゃないか!もっとたくさん牛乳飲むぞっ!
コップに二杯目を注ごうとしたぼくは、その音に気付いて動きを止めた。
たふたふたふたふたふたふたふたふ…。
規則正しく聞こえてくるその音は、母さんか姉さんが階段を登って来ている足音かとも思ったけれど、違う。
妙なたふたふ音の出所は、ハナのお尻の辺りだ。
フサフサの尻尾がワイパーみたいに左右に揺れて、催促するように床を叩いてる。
いつの間にかサイダーを飲み干し、空にしたコップを両手で包むように持っている、何とも物欲しげなハナの目…。
「あはは〜っ!判ったってば!」
ぼくは笑みを浮かべてコップを机に置くと、腰を上げて部屋の隅に向かう。
目だけでぼくの動きを追うハナの尻尾が、一層激しく振られた。
隅に三段折りにして畳んでいた布団を引っ張り、掛け布団を除けて敷く。
そこへすとんと腰を下ろして手招きすると、ハナは尻尾を振りながら、四つん這いでのそのそと寄ってきた。
正面から近付いたセントバーナードは、あぐらをかいたぼくの真ん前で正座して、肩に腕を回し、頭を抱え込むように抱く。
応じるように腕を回し返して、背中側に伸ばした手で、トランクスの尻から出ている尻尾を掴む。
フサフサの毛に覆われた尻尾の根本を人差し指と親指で少し強めに摘むと、ハナはぼくの耳元で「はふ…」と吐息を漏らした。
ぼくの指はハナの尻尾をクックッと強めに摘みながら、先っぽの方へ移動して行く。
ハナは尻尾を弄られると喜ぶ。ぼくの短い尻尾はそれほど敏感じゃないせいか、掴まれても特に何も感じない。だから、ハ
ナが喜ぶ感覚はいまいち理解できないんだけど…。
ぼくの頭に顎を乗せて、グリグリと頬ずりならぬ顎ずりをしていたハナは、マッサージが尻尾の先まで行くと、少しだけ身
を離した。
見下ろす目は何かを求めるように潤んでて、熱っぽい。
トランクスに手を掛け、もどかしげにずりおろし、ハナは股間を外気にさらした。
硬く屹立したチンチンは、少し出てるお腹の臍に向かって反り返ってる。
ハナのチンチンはかなり大きい。ぼくと比較してっていうだけじゃなく。おそらく一般と比べて大きい部類に入ると思う。
プールの授業なんかで着替える時に、クラスメートのを目にする事もあったけれど、ハナのはどうやら一つ抜けて大きいみ
たいだ。
おまけに、勃起すれば皮が勝手にクルンっと剥けて、ちゃんと亀頭が出る。
…ちなみに、ぼくのはちょっと物足りないサイズ。たぶん平均よりちょっと小さい?
おまけに皮余りが余分過ぎて、勃起しても自動で剥けないどころか、手で剥いてもすぐ戻っちゃう。
悔しいから時々ハナのチンチンの皮を引っ張って伸ばして完全包茎に逆戻りさせようとしてるけど、…そんな事よりどうす
れば自分の皮に剥き癖がつくか考えた方が建設的かもしれない…。
「マーちゃんも…」
ハナはいそいそとぼくのハーフパンツに手を掛け、ブリーフと一緒に掴んでグイーッと強引に下ろす。
ちょっと恥ずい…。こんな時ばかりやけに積極的になるハナは、腰を浮かせたぼくからハーパンと下着をはぎ取った。
少し息を弾ませているハナの前で、ティーシャツには自分で手をかけ、モゾモゾと脱ぐ。
ハナも自分のシャツに手を掛け、ぐばっと一気に脱ぐ。丁寧に脱ぐのももどかしいのか、裏返しになるのもお構いなしだ。
一糸纏わぬ姿になった途端、ハナはまたもや抱き付いて来る。
今度は体を預けるようにして来たから、ぼくは布団の上にゆっくりと押し倒された。
仰向けになったぼくの両脇に手と膝をついて身を起こすハナ。
だいぶ絞ったにも関わらず、相変わらずぽちゃっと脂肪がついてるお腹と胸は、それ自体の重みで下がって、いつもよりせ
り出して見える。
四つん這いになったその姿勢で、ぼくの顔を間近で見つめたハナは、おもむろに顔を寄せて鼻へ軽くキスして来た。
鼻先に触れて来る唇の、湿った感触と微かな刺激…。
弱い刺激は、しかし鼻先から眉間を通って脳の中央までしっかり射し込んで来る。
興奮し始めたぼくの左横に、ハナはのそっと横になった。
ぼくも左側を下にして横向きになり、体の右側を下にしているハナと向き合う格好になる。
ずりっと身を寄せて首筋に鼻先を射し込んで来たハナは、ぼくの股間に大きな手を被せて来た。
「マーちゃん…、おれ…もぉ…、我慢できない…」
首筋に熱を持った吐息と言葉が吹き込まれ、ぼくはぞくぞくしながら背中の毛を逆立てた。
頷いたぼくはおずおずとハナの股間に手を伸ばして、ちょっと羨ましいサイズのチンチンを握る。
…すごく熱くて…硬い…。ピクン、ピクンって…、脈打ってる…。
ハナの顔頬に自分の頬を擦り合わせ、顎を引くようにして顔を下に向けると、ポコンと出たお腹の向こうに、皮が剥けて丸
出しになったピンク色の亀頭が見えた。
ぼくが握ったチンチンの先からは、おしっことも違う透明な液体が垂れてる。
先走りっていうらしいけれど、ぼくはこの液体の事をヨダレみたいだって感じてる。
美味しそうな食べ物を前にした時、口の中にヨダレがジワって湧くように、気持ちいい事を前にした時、チンチンもヨダレ
を垂らすんだきっと。
かくいうぼくのチンチンも、ハナに握られてヨダレを零してる。
ぼくは右手で、ハナは左手で、それぞれお互いのチンチンを擦り、息を荒らげる。
ハナの首下に頭をねじ込み、フカフカの毛に覆われた首元に顔を埋めながら、ぼくはチンチンから下腹部、背中へと抜けて
来る刺激で身を震わせた。
背中ゾクゾクして、チンチン痺れて、快感と恥ずかしさで体中が熱くなる…!
クッチュクッチュと湿った音が、弾む息の途切れ目に耳に忍び込む。
ハナの反り返ったチンチンが、ぼくの手にしごかれてヒクヒク脈動する…。
ハナの体温が移って、手の平が火照って熱くなって、じわりと汗ばむ…。
股間ではセントバーナードの大きな手が、ぼくのチンチンをしごき立ててる。
最初は遠慮するように軽く握って、ゆっくりだったピストン運動は、ハナの興奮に比例するようにだんだん速くなって来て
いた。
今では握る力も強くなって、かなり速く動いてる。
チンチンが熱くてムズムズして…!痺れてるみたいにジンジンする…!ぼく、そろそろ我慢できなくなっちゃうかも…!
「マーちゃん…!はぁ、はぁ…!マーちゃ…ん…!はふ…!気持ち、いぃ…よぉ…!も、もぉ、もぉおれ、漏らしちゃいそ…!」
ハナが乱れた息混じりの低い声を漏らす。限界が近いのはハナも同じみたいだ…。
反対に、ハナよりも刺激に弱いぼくは、言葉を漏らす余裕すらない。口を開けば高い声が漏れちゃいそうで、必死になって
歯を食い縛る。
「気持ち…いぃ…!ん…!いぃ…よぉ…!うっ…、ふぅ…!マーちゃ…、あ…!マーちゃ…んぅうううっ…!」
太り気味の体をブルルっと震わせて、ハナは達した。
ググッと強く反ったチンチンの先から、ドピュッと熱くて濃い精液が飛ぶ。
同時にぼくもヒクッと体を突っ張らせ、チンチンをすっぽり包んでいたハナの手の中にソレを吐き出した。
ほとんど同時に達したぼくらは、ヒクヒクと体を震わせながら繰り返し射精する。
射精している最中にも、ハナの大きな手はぼくのソレをずっとクチュクチュ弄っていた。
やがて精液の発射が収まると、ぼくらはくたっと脱力する。
体をぴったりくっつけて、お互いの体温と乱れた息を感じながら、寄り添ったぼくらは余韻に浸る…。
「どうだった?マーちゃん…」
「気持ち…、はぁ…、良かった…よぉ…」
囁いたハナに、ぼくは小さく頷きながら小声で返事をした。
ハナはその返答で満足したように、ぼくの頭の下に太い右腕を入れて、抱え込むようにして腕枕してくれた。
「へへへ…!涙目になって可愛い顔しちゃって…!」
…それは言わないで…。
こういう事をするようになったのは、去年の秋頃、ぼくがハナにオナニーの知識を教授した時からだ。
もっとも、どういう物なのか実技指導してあげたその時は、その一回きりのつもりだったんだけど…。
夢精も未経験で、初めての精通をぼくの手の中で果たしたハナは、ビックリするぐらい大量の精液を出した。
しばらく放心状態だったハナは、それからややあって落ち着くと、「マーちゃんにも、やってあげたい…」と、トロ〜ンと
した目で訴えた。
ぼくは恥ずかしくて遠慮したけれど、ハナが繰り返しやらせてくれと頼んで来たので、結局は折れた。
この関係はそれからだ。どういう訳か、その…、じ、自分一人でやるよりも、お互いのを刺激しあった方が…、き、気持ち
良く感じるようになっちゃって…。一人でやってもなんかこう、物足りなくなっちゃって…。
それからぼくらは、今までもちょくちょく、お互いのチンチンを弄り合うようになった訳…。
妙な事に気付いたのは、それからしばらく経ってからだった。
それまではお互いの体には特に反応しなかったのに、こういう事をするようになってからは、お互いの裸を見たり抱き合っ
たりすると、チンチンが硬くなるようになったんだ。
ぼくらはひょっとすると同性愛者なんだろうか?って、二人して考え込んだ。
けれど、普通にその…、女の人の水着写真なんかを見れば興奮するし、女子のスカートが風でめくれればドキッとする。
それに、ぼくもハナも、お互い以外の男子の着替えなんかを見てても、全く「そういった気分」にならない。
ぼくにとってはハナだけが、ハナにとってはぼくだけが、男なのに「そういった気分」になる対象。
「一人だけ限定の同性愛っていうのも、あるのかなぁ?」
以前ハナは首を傾げながらそう言ったけれど、ぼくは一応それで納得する事にした。
だって、ぼくが考えた理由…。何回もお互いのチンチンを弄りあってるから、条件反射で勃起しちゃうっていう説は、なん
となくロマンチックじゃないし…。
相互オナニーの後はそのままクタッとしちゃって、夕飯が出来たって呼ばれるまで、ぼくらは布団の上で抱き合ってうつら
うつらしながら時間を送った。
スクラップブックを開いたのは、結局は夕飯を食べた後。
「お〜!この写真かっこいいなぁ!」
低い打球をダイビングキャッチする鹿の姿を見つめながら、ハナは顔を綻ばせた。
「今年も大活躍だもんなぁ鹿立(すだち)さん!」
「だね。ぼくらも頑張らなくちゃ」
あの時講演に来た選手は、ぼくはもちろんハナにとっても、一番好きな選手のままで居る。
試合に挑む姿は真面目でストイックなのに、インタビューに応じる時は冗談を飛ばす茶目っ気も見せる線の細い鹿。
野球を再びするきっかけになったあの日から、スダチさんは「結構好きな選手」から、「ヒーロー」へと変わっている。
ぼくらがあの日にサインして貰った宝物のティーシャツには、彼の名前とぼくらそれぞれの名前、そしてある言葉が記され
ている。
その言葉は、「勇気ある決断を」。
最初は困難だと思ったトルネードの習得にハナが挑んだ時も、経験があって好きだった一塁手を諦めて、地味っぽくて嫌だっ
たキャッチャーをぼくがやろうと思った時も、彼があの日説いた「決断」という言葉に支えられてる。
今だってそう。少しでも迷う度、ぼくは事あるごとに「決断」という言葉を意識する。
失敗してしまった場合に後悔する事も覚悟する…、そんな事もぼくの「決断」には含まれる。
勝てばピッチャー、ハナのおかげ…。負ければキャッチャー、ぼくのせい…。
その図式を尻込みせずに受け入れて、重圧を跳ね返す為に、ぼくは胸の内で自分に呟くんだ…。「さぁ!「決断」するんだ
マシロ!」って。
それが効果を発揮しているのか、ぼくは今日の試合中も不思議なほど落ち着いていた。
ハナを信じてるっていうのもあるだろうけど、一回一回、物事を決める事を意識していたら、歓声に飲まれる事もなかった
し、サインもすぐに決まった。
どっちかと言えば優柔不断で気弱な方なのに、おかしな話だよねぇ…。
ぼくらは時間が経つのも忘れて話し込んで、やがて午後九時になった。
玄関まで送ったぼくにハナは言う。
「次の試合も、出して貰えると良いなぁ」
「勿論出番はあるさ。きっと!」
頷いたぼくに、ハナは笑顔で片手を上げた。
「おじゃましました。おやすみマーちゃん」
「うん。おやすみハナ」
声を聞きつけて居間から顔を出した母にも挨拶し、ハナは玄関を出て行った。
定期戦の振替休日があけて登校すると、ぼくらのクラスでは試合の話でもちきりになった。
二回だけとはいえ登板して、強豪校を相手に六連続三振を奪ったハナは、皆に取り囲まれて質問責めにあっている。
ぼくの方はそれほど話しかけられないけど、こうして質問責めに遭う機会がなかったハナは、かなり戸惑ってるみたいだ。
変化はクラスだけじゃなかった。
定期戦の日、球場にはたくさんの生徒が応援に来ていたから、ハナの活躍も観戦されてる。
大きくて目立つハナは廊下を歩いてても注目を浴びて、なんとなく落ち着かなそうに早足で歩いてる。
部活にも変化があった。
ハナは同級生の部員だけじゃなく、先輩方にも誉め千切られ、戸惑っていた。
先生は改めてピッチングさせてみて、大会に向けてレギュラーについて考え直し始めたみたい。
ついこの間までは、ほぼ高校からのデビューって言って差し支えないレベルのぼくらは、どっちかって言えば軽んじられてた。
特に、トルネードはギリギリまで磨いてから出すつもりだったから、いまひとつコントロールが定まらない普通のフォーム
で投球していたハナは、ピッチャー希望だけど投球はイマイチ、おまけにバッティングも良く無いし足も遅いって、散々お荷
物扱いされてた。
なのに今日は、皆が手の平を返したようにハナを称えてる。
誇らしいと思う半面、ちょっと羨ましく感じてるかも。ぼくの方には何も変化がないからかな?
確かに、ぼくは球を受けるだけで、劇的な活躍はしていなかったんだけれど…。
すぐ落ち着くだろうと思っていたハナの人気は、翌日にはさらにヒートアップしていた。
ハナは体こそ大きいけれどあんまり出しゃばるタイプじゃないから、これまでは大して目立たなかった。
けれど、威張った所が無い性格に好感が持たれたのか、皆あれこれとハナに話しかけるようになった。
お昼休みも半ば強引に何処かへ引っ張られて行っちゃったから、いつもハナと一緒に食べていたぼくは、一人で途方にくれる。
そうして、四日が過ぎた今日も、ハナは男子達に囲まれてる。
最初こそ戸惑っていたハナも慣れて来たのか、皆と楽しそうに笑いながら話すようになった。
ハナが他の男子達に囲まれてる間に、ぼくは食堂に行くために席を立った。
…たまには気分を変えて、外で食べようかな…。
学食でパンを買ったぼくは、食堂の一角で他の男子達と笑いあっているハナを遠めに見ながら、そっと外に出る。
なんでぼく、隠れるようにコソコソしてるんだろう?ぼくも皆やハナと一緒に食べて、会話に加わればいいじゃないか?
…いや、ぼくは別に、あの試合で人気が出た訳でもないし…、皆が話したいのはハナだし…、ぼくが加わったって…。
勝てばピッチャーのおかげ。負ければキャッチャーのせい。
…注目を集めるのはピッチャーだって判ってるのに…、なんだかちょっと寂しい…。
パンが入った袋を片手にぶら下げて、ぼくは校舎の裏手に回った。何となくだけど、静かな所で食べたくて。
たぶん、あそこなら静かだし日陰もあるよね…。職員駐車場にしよう。
車が走るよう舗装されたスペースを歩き、校舎裏の駐車場を目指したぼくは、角を曲がったところでビックリして飛び退いた。
不良がたむろっていた…、とかじゃない。
角を曲がったすぐそこに、巨大な何かが居たからビックリしたんだ。
先客は、ぼくと同じワイシャツに制服のズボン、ただしサイズは桁違いなそれらを身につけた灰色の熊。
車止めに腰を下ろしてもなお、ぼくの顎ぐらいの位置に頭がある。
ビックリして後ずさった拍子に袋がガサッと音を立てて、反応した灰色の熊の耳がピクッと動いた。
ゆっくりと首を巡らせた灰色熊は、大きくて厳つい顔の中でやけに小さく見える目をぼくに向ける。
灰島岳(かいじまがく)。
同じクラスの灰色熊で、応援団員だ。
クラスメートなんだけど中学は別で、入学式で初めて顔を合わせた。ちなみに話をした事はない。
…って言うより、彼が口を開いたところ自体あまり見た事ない…。
ハナよりもさらに大きなカイジマ君は、一年生にして195センチもある校内一の巨漢だ。
おまけにとんでもなく太っ…えぇと、恰幅が良くて、身体の厚みといい幅といい、そのボリュームは小山のよう。
顔も厳めしいし、無口だし、何となく近付き辛い。…ってか、ぶっちゃけちょっと怖い…。
クラスの誰も話しかけようとしないし、本人も一人が好きなのか、輪に加わろうとしない。
毎日お昼休みには居なくなってるから、教室外で食べてるんだろうとは何となく思ってたけど、まさかここに居たなんて…。
「ご、ごめん…!邪魔はしないから、ごゆっくり…」
ちょっと引き攣ってるかもしれない笑みを浮べてぼくが下がると、カイジマ君は傍らの袋を掴んでのそっと立ち上がって、
2メートル近い位置からぼくの顔を見下ろして来た。
…え?もしかしてぼく、何か気に障る事言っちゃった…?
ちょっと怖くなって、良く分からないけどもう一回謝っておこうかと思ったぼくは、
「気を使わなくていいぞ?もう食い終わったから」
カイジマ君のそんな言葉を聞いてちょっとホッとした。
のそっと立ち去ろうとしたカイジマ君が、しかし口を半端に開けた状態のコーヒー牛乳のパックを手にしている事に気付い
て、ぼくは考える前に口を開いていた。
「そっちこそ気を使わなくていいよ。それ、これから飲むところだったんでしょ?」
ぼくの横を通ろうとしていたカイジマ君は、足を止めて再びぼくを見下ろした。
「何処でも飲めるし、場所譲るって」
「え?えぇっと…、でも何か、カイジマ君が先に居たのに、追い出しちゃうみたいで嫌だって言うか…」
自分でも何で引き止めようとしたか判らないぼくは、しどろもどろになってカイジマ君に応じる。
少しの間黙ってぼくを見下ろしていたカイジマ君は、やがてもと居た場所に戻って腰を下ろした。
「…その辺に適当に座ればいいじゃないか。飯なんだろう?」
突っ立ったままのぼくに、カイジマ君は首を巡らせてそう言いつつ、パックの角の横に開いていた部分を摘み、ビリリと口
を開けた。
曖昧に頷いて一つ間をあけた車止めに腰を下ろしたぼくは、カイジマ君の方をちょっと気にしながら、のろのろと食事に取
り掛かる。
会話は無い。自分で引き止めておいてなんだけど、特に話す事無いし…、何話せば良いか判らないし…、落ち着かない…。
「…この間の定期戦、凄かったな」
しばらく経ってから沈黙を破ったのは、巨大なグリズリーの方だった。
パックにストローをさしてコーヒー牛乳を啜っていたカイジマ君が、出し抜けにそう言ったんだ。
「え!?見に来てくれてたんだ?」
「応援団だぞ?俺」
会話の糸口を掴んでホッとしながら口を開いたぼくに、カイジマ君は低い声で短く応じる。
「そ、そうだったね…!ご、ごめん。ありがとう…」
…そうだった。あの日は応援して貰ってたじゃないか…!うっかり失礼な事言っちゃった…。
応援団員の彼は試合中ずっと立ちっ放しで、あの暑い中で学ラン着込んで声を張り上げてくれてたっていうのに…。う〜、
はずい…。
顔を少し俯けてポリポリと頬を掻くぼくに、カイジマ君は続ける。
「ウチがあんな風に星陵を抑えたのは初めて見たって、団長も喜んでた」
ちらりと横顔を見遣ると、表情には乏しいものの、カイジマ君は目を細めてる。
「見応えあったぞ、あの試合。後半は特に」
「…そう?ありがとう…」
ジュルルズゴーッと音を立ててコーヒー牛乳を飲み終えたカイジマ君は、のそっと立ち上がった。
「じゃあ」
「あ、待って!」
短く一声かけて立ち去ろうとしたカイジマ君に、ぼくは反射的に声をかけていた。
見下ろしてきたカイジマ君に、ちょっとだけ気になっていた事を尋ねてみる。
「カイジマ君、いつもここで食べてるの?教室で皆と食べれば良いのに」
「一日中殆ど校内に居るだろ?飯時ぐらい外の空気吸いたいんだ」
「じゃあ、食堂は?」
「食堂は混むし、俺みたいなのが居たらスペース取って邪魔だろ?」
カイジマ君はそう言って、せり出したお腹をポンと叩きながら苦笑いした。
ワイシャツ越しに軽く叩いただけで大きなお腹がたぷんと揺れて、何だかちょっと可笑しくなる。
意外にも、笑顔になるとちょっと幼い感じがするな…。
「ぼくから見たら、大きくて羨ましいけど…」
「身長だけなら良いんだろうけど、俺はデブり過ぎだ」
カイジマ君は軽く片手を上げて、「じゃあ、先戻るぞ?」と言い残し、のっしのっしと歩いて行った。
一人残ったぼくは、しばらくカイジマ君が去って行った方を眺めた後、モソモソとパンを食べ始めた。
「あそこさぁ、サインには頷いたけど、本当は、外角攻めは「アレ?」って思ったんだ。三球目の外角高めは二人続いてたし…」
家への帰り道を歩きながら、ハナはスタンドへの大きなファールを打たれた時の事を振り返ってる。
明らかにそのコースを狙っていたスイングで捉えられたボールは、際どいところでポールの外へ切れたけれど、相手チーム
の今日一番の当たりだった。
日曜日の今日は、申し込んでいた高校との練習試合が行われたんだ。
この試合から、三年生のエースピッチャーに代わってハナが先発ピッチャーに抜擢された。
監督と先輩方は、来たる総体もハナを先発で行かせる事にしたそうだ。
キャッチャーは、三年生の正捕手が務めている。
…そしてぼくは…、控えの捕手。
まぁ、正捕手が先輩なのは当り前なんだけどね…。先輩の方が経験あるし、バッティングも行けるし…。
結局、ハナは六回まで投げて、たったの一人も出塁させなかった。
けど、キャッチャーは交代無しで、最後まで先輩が勤めたから、ぼくの方は出番が無かった…。
試合は3対1でこっちの勝ち。1点は、交代後の先輩が最終回に打ち込まれた分。
「…なぁ?マーちゃんならサインどう出した?」
「え!?あ、うん…!」
途中から上の空で聞いていたぼくは、慌てて頷いた。
「少なくとも、外は避けたかな…。「上手く行ったコースにばかり頼るな。相手はそこを警戒して突いて来る」って、キャッ
チャーの基礎を教えてもらった時に、先生にも言われたし…」
「だよなぁ。先輩、同じ配球繰り返そうとするのってクセなのかなぁ?」
ハナは顎に手を当ててそう言うと、近付いてきた家を見遣った。
「次の試合は、マーちゃんと組めるといいな」
「そう…だね…」
でも、ぼくがハナと組ませられる可能性は薄い…。曖昧に頷いたぼくの顔を、ハナは訝しげに横から覗き込んだ。
「マーちゃん、具合悪いのか?」
「え?そんな事ないよ?」
「…じゃあ、何か怒ってる?」
「へ?何で?怒ってもないし、元気だよ?」
笑顔になって応じたぼくに、ハナは怪訝そうな顔をする。
「なら良いんだけど…、なんか口数少ないしさ…」
「違うよ。今日の試合の事を思い返してただけ」
家の前に至ったぼくはハナに片手を上げ、「じゃあ、また明日ね」と振る。
「ん。また明日、おやすみマーちゃん」
笑みを浮べて自分の家の玄関へ向かうハナから視線を外し、自宅の門を潜る。
具合が悪いのとも違う。けれど、なんだか胸の中に重いものがあるような気がする…。
ハナが先発に選ばれて、練習試合も勝ちだったっていうのに、何となく気分が重い…。
どうしちゃったんだろう?ぼく…。
玄関を潜った途端に、ぼくは違和感に気付いた。
常なら母と姉、ぼくの靴が並ぶたたきにある、黒光りしている男物の革靴…。
「父さん!?」
ちょっとビックリして、「ただいま」よりも先に声を上げたぼくは、靴を脱いで足早に居間に向かった。
「お?ただいまでおかえりマシロ」
茶褐色の被毛の、長身痩躯の猿が、タバコを咥えたままぼくに向けた眼を細めた。
「おかえりでただいま父さん。何で居るの?」
スポーツ新聞を広げて座椅子に座っている父さんは、ぼくの問いに苦笑いを返す。
「おいおい、それじゃあまるで帰ってきて欲しくないみたいじゃあないか?」
「いや、そういう意味じゃなくて…」
つられて苦笑いしたぼくが鞄を放り出してテーブルの横につくと、父さんはタバコを灰皿に押し付けて消しながら口を開いた。
「急遽入った出張で、近くまで来たんだ。ホテル泊まりも勿体ない、せっかくだから我が家で一晩過ごす事にしたのさ」
大手出版社の役員である父さんは隣の県の支社務めで、単身赴任の状況。家にはなかなか帰って来れない。
今は編集長をしているけど、昔、ひらの編集者だった頃に担当した作家さんの何人かは、今では凄く有名になってたりする。
櫻和居成(おうにぎいなり)とか、多嘉見涼(たかみすず)とか…。
そんなんだから、父さんの知り合いにはやたらと堅苦しくて小難しい話をする人がたくさん居る。
編集者仲間だったり、作家さんだったり…。
「どうだ?高校生活と野球部の方は」
「勉強は相変わらず。野球の方は…、まぁ…」
「ハナちゃんピッチャーだってな。母さんに聞いたぞ?お前とハナちゃんでバッテリー組んで、星陵ナインをこてんぱんにし
たんだって?」
何でそんな風に教えちゃってんのあのひとっ!?
「そんなんじゃないってば!出番が来たのは、大差がついて試合が決まった後の二回だけだよ」
「そうなのか?まぁ母さんの言う事だから、多少大袈裟にはなっているとは思ったが…。えらく興奮していたしなぁ、ははは」
愉快そうに笑った父さんは、笑顔のままぼくの顔をまじまじと見つめて来た。
「しかし、ハナちゃんがピッチャーでお前がキャッチャーなぁ…。あの頃は考えもしなかった」
「あの頃?」
「二人がまだ幼稚園に通って居た頃。覚えていないか?あの頃キャッチボールをすると、お前の投げたボールの方が強くて、
遠くまで飛んでなぁ、どうやっても及ばなくて、ハナちゃんは悔しがってベソかいてたもんだ」
「…覚えてない…。全然…」
キョトンとしたぼくに、父さんは笑いながら言う。
「それで、お前がキャッチボールをするのを嫌がるようになったんだ。ハナちゃんがベソかくからって」
「そうなんだ…」
「それが、小学で一度辞めたのに、二人してまた野球を始めて、今じゃあのハナちゃんがピッチャーだ。三つ子の魂…とは言
うが、身体の方には当てはまらないものかもな。…ところで」
父さんはぼくの顔から胸元へと視線を向けた。
「そろそろ着替えて来たらどうだ?」
「あ。そうだった…」
ワイシャツと制服のズボン姿だった事を思い出して、そそくさと立ち上がったぼくに、父さんは思い出したように言う。
「そうそう、土産があるぞ」
「どうせまた小説でしょ?」
げんなりして言ったぼくに、父さんは「いやいや、今度のは凄いぞ?」と得意げな顔になった。
「去年映画化されたエフェクトデリバリー、あれの原作本新装版。なんと主演の武虎(たけとら)氏のサイン入りだ!実は出
張の目的がそれでな。続編も製作が決まったから、今日明日は製作会社との契約関係の打ち合わせをしているんだが、広報活
動絡みの件で彼も顔を出してくれてね。ついつい頼み込んで貰ってしまった。…という訳で貰いたてホヤホヤ産地直送だ。遠
慮無く…、おい、マシロ?」
「そういうのは姉さんにどうぞ…」
呼び止める父さんを残して、ぼくは顔を引き攣らせながら居間を出た。
…いらないってば…。字ばっかりの本なんて、頭痛くなるから読まないもん…。
月曜日も、クラスはハナの試合についての話で盛り上がっていた。
そこそこ強い学校を相手に一人もランナーを出さなかった、練習試合での活躍の事で。
皆に囲まれて照れ笑いしているハナには、最初の頃のようなおどおど戸惑ってる様子は見られない。本当に楽しそうに笑っ
てる…。
昼休みも、ハナはやっぱり他の男子達の輪に加えられていたから、ぼくは一人で教室を出て学食に向かった。
最近は登下校の間ぐらいしか二人で話をする機会が無い。教室や部活では、ハナはいつも友達や先輩達に囲まれてるから…。
学食でパンを買って、たぶんすぐ来るはずのハナ達と会わないよう、そそくさと校舎を出る。
何となく足を向けた裏手の職員駐車場には、やっぱり今日もカイジマ君が居た。
別に彼に会う為にここへ来た訳じゃないんだけど、どういう訳か足がここに向いてる。
カイジマ君は今まさに食事を始めようとしていた所みたいで、車止めに腰掛けて大きな紙袋にガサガサと手を突っ込んでいた。
カイジマ君はぼくに気付くと、片方の眉を少し上げて訝しげな顔をする。
「一緒しても、いい?」
尋ねた僕に、グリズリーは黙って頷いた。
隣の車止めに腰を下ろして袋に手を入れたぼくに、
「チドと喧嘩でもしたのか?」
と、カイジマ君は突然そんな事を尋ねて来た。
「え?そ、そんな事ないよ?何で?」
何故かドキッとしながら応じたぼくから、「いや…」と灰色熊は視線を外した。
「アカギとチド、ずっと一緒に居ただろう?二人で居る事が多かったのに、最近は別々に居るからてっきり…。俺の勘違いか」
紙袋からパンを取り出すカイジマ君を横目で見ながら、ぼくは少し驚いていた。
ほとんど話もしていないのに、カイジマ君、ぼくらの事結構良く見てる…?
視線を袋に戻してパンを取り出したぼくは、「あ」と声を漏らしていた。
…コロッケパン…。急いで買って来たから、ヤキソバパンと間違えちゃったんだ…。
「どうかしたのか?」
固まっているぼくに、カイジマ君が訝るような視線を向けて来る。
「…いや…その…。ヤキソバパンと間違えちゃったみたい…。コロッケ…、苦手なんだ…」
クリームコロッケなんかは平気なんだけど、中がモソモソしてる普通のコロッケは苦手…。
小さい頃に喉に詰まらせてから、どういう訳かコロッケで噎せそうになる癖がついちゃって…。
苦笑いしたぼくをしばし見つめた後、カイジマ君は自分の袋に手を突っ込んで、ヤキソバが挟まったコッペパンを、ずいっ
と突き出して来た。
「やる。交換しよう」
ちょっと戸惑ったけど、ありがたく取り替えて貰ったぼくは、パンのラップを剥がしながらカイジマ君の様子を窺う。
コロッケパンをがぶりと豪快に噛み千切ってむぐむぐ咀嚼しているグリズリーの様子は、ちょっと前まで抱いていた怖いイ
メージとは違って、どこか牧歌的でのんびりしてる。
口数が少なくて、体が大きくて、顔が厳めしくて、表情も乏しいから勘違いしてたけど、怖い生徒じゃなさそう…。
「食わないのか?」
横顔を見ていたぼくを見返し、カイジマ君が口を開く。
「う、ううん!頂きます!」
ぼくがパンに噛み付くと、カイジマ君もガブリとパンに食いつく。
カイジマ君は寡黙で、あまり会話も無かったけど、今のぼくは、一人じゃないってだけで何となく気が軽くなった。
「…ぁ…。なぁ…?…なぁ、マーちゃん?」
話しかけられた事に気付いて、ぼくは傍らのハナを見遣る。
「…何?」
「だからぁ、投げ込みの量、こんなモンで良いと思う?」
「良いんじゃない?先輩と先生がそう言ってるんでしょ?」
ぼくが視線を前に戻しながら応じると、ハナは「えぇ〜?」と不満げな声を漏らした。
「マーちゃんの意見が訊きたいんだよ」
「ぼくの意見なんか役に立たないよ」
そう言ってから、ぼくはハッとした。
…役に立たない…。今のぼくって、正にそうじゃないか…。
経験豊かな先輩のキャッチャーが居る。相談に乗って指導してくれる先生が居る。
二人で練習していた頃と違って、今のハナにはぼくは必要ない…。
親しい友達だってたくさんできて、ぼくとなんかよりクラスの他の男子達と話してる時の方が楽しそうだ。
「…マーちゃん…?怒ってない?おれ、何か気に障る事した?」
顔を覗き込んで来たハナの、窺うような表情が、何故だか無性に気に入らなかった。
「怒ってなんかないよ。それとも、ぼくが怒るような事をした心当たりでもあるの?」
「え?い、いや…、ないけどさ…」
体は大きいくせに妙におどおどとしたハナの態度が、さらにぼくを苛立たせた。
「変な詮索しないでよね?何も無いのに不快になるから」
「あ…、ご、ごめん…」
怒ってないとか言いながら、ぼくの口調は刺々しい。
ハナはそれきり口をつぐんで、しばらく無言になった。
けれど、耳を時々ピクピクさせて、ぼくの方をチラチラ窺って来る。
「あ、あのさ?後で行っても良い?またスクラップブック見せて欲しいんだけどさ…」
家の前でそう言い出したハナに、ぼくはすげなく応じる。
「駄目。用事あるから」
「そ、そう…。じゃあ、お休みマーちゃん。また明日」
取り繕うような笑みを浮べて手を上げたハナに、ぼくはバイバイも言わずに背を向けて玄関に向かった。
所在なさそうに突っ立ったままのハナが、背中を見つめている事には気付いていたけれど、ぼくは振り返りもせず、一言も
返さず、玄関を潜った…。
その夜は何にも手を付ける気になれなくて、早めに布団に潜り込んだ。
なのに、なんだかイライラしちゃって、なかなか眠れなかった…。
翌朝、ぼくはハナと顔をあわさないよう、いつもより少し早く家を出た。
何だか顔をあわせ辛くて先に登校していたぼくを、後から教室に入って来たハナは何か言いたそうにチラチラ見て来たけれ
ど、その窺うような態度がまたぼくを苛立たせた。
けどハナは、登校してきた他の男子達と挨拶を交わして、そのまま昨日のテレビの話題を切り出されると、ぼくの事なんか
忘れたように笑顔になっていた。
…イライラする…。胸の奥が重苦しくて…、ムカムカ気持ち悪くって…、何だか、不快に熱い…。
昨日の帰りもハナにあんな態度取っちゃったし…、ぼく、どうしちゃったんだろう?
ハナは昼休みも例によって他の男子達に囲まれてた。
ここ最近いつもそうしているように、ぼくはそそくさと教室を出ようとしたんだけど…。
「あ、マー…じゃなくアカギ!昼飯一緒しよう?」
ガタンと席を立ったハナがそう声をかけて来たから、ドアの所で足を止めて振り返った。
ハナはパタパタと尻尾を振りながら笑みを浮かべてる。
嬉しかった…。ハナが久し振りに、教室で声をかけてくれたから…。
頷こうとしたぼくは、続くハナの言葉で動きを止めた。
「皆と一緒に、学食でさ!」
ぼくは少し俯き、首を横に振る。
「…い…」
「え?」
「…いい…」
嬉しかったのに、皆と一緒だって聞いたら、何故かまた気分が悪くなった…。
「な、なんで?一緒に食おうよ?最近、付き合い悪くない?」
戸惑っているようなハナのその言葉で、ぼくはカチンと来た。
…付き合い悪いのは…どっち…!?
「うるさいな!皆と楽しく下らない馬鹿話で盛り上がってれば良いじゃないか!ぼくは静かなのが好きなんだ!ほっといてよ!」
悪態は、自分でもびっくりするくらいすらすらと、大きな声で出た。
ビックリしているように目を丸くしているハナと、静まり返った教室…。
ぼくはムカムカが治まらないまま廊下に出て、乱暴に戸を閉めた。
「何だアレ?」
「妬いてんだろ?チドと違って大して活躍もできねーから」
ドアの外側、廊下でたむろっていた男子達の囁き声が、逃げるように足早に歩くぼくの背中に届いた…。
「何かあったのか?」
今日も学食で買った昼食を手にして、職員駐車場で隣に座ると、カイジマ君は横目でぼくを見ながらそう訊ねてきた。
灰色熊の顔には、胡乱げな表情が浮かんでる。
最初は表情の変化が小さくて判り辛かったけど、最近は彼の表情もだいぶ判るようになって来たと思う。
「別に、何も無いよ?」
ちょっと硬い笑みを浮べてそう返すと、カイジマ君は小さく頷いてパンにかぶりつく。
授業が終わると同時に教室を出て行ったカイジマ君は、さっきぼくがハナに怒鳴った事を知らない。
…何やってるんだろう…?ぼく…。
「カイジマ君、良かったらパン一個食べてくれる?何だか食欲無くて…」
差し出したヤキソバパンをちらりと見たカイジマ君は、「良いのか?」とぼくの顔へ視線を移した。
「うん。一つで十分」
ヤキソバパンを受け取った灰色熊は、「ども」と短く礼を言って、さっそくラップを剥がし始めた。
一つ食べ切るのもおっくうに感じるぐらい、食欲が無い…。
しばらく黙ってモソモソとパンを齧った後、ぼくはカイジマ君に話しかけた。
「…カイジマ君ってさ、今でも仲の良い幼馴染とか、居る?」
灰色熊はちらりとぼくを見た後、顎を引いて頷いた。
「隣に、イッコ上の先輩が住んでる」
「へぇ、どんな人?」
言ってしまってから、そんなに親しくもないのに、図々しく突っ込んだ事訊いちゃったかな?と思ったけど、カイジマ君は
面倒臭がるそぶりも見せずに答えてくれた。
「仲が良い幼馴染っていうより、兄貴みたいな感じかな?俺、両親は仕事で家空ける事が多くて、昔から鍵っ子だったんだ。
それで、小さかった頃から隣の家で飯ご馳走になったり、どっか連れて行って貰ったり、色々面倒見て貰った。応援団に入っ
たのも、その先輩の勧めでさ…」
「お隣さんかぁ…。ぼくとハナ…えぇと、チドもそうなんだよ。ずっと一緒に、兄弟みたいに育って来たんだ」
笑みを浮べてそう返したぼくは、ふと気になった。
…なんでぼく、カイジマ君にこんな事を話してるんだろう…?
少し考えた後、ぼくは思い至った。
何故幼馴染の話をそれほど親しくも無いカイジマ君に振ったのか…。それは、ぼくが寂しかったからだ…。
いつも一人で居るカイジマ君が、まるでハナと離れて一人きりになったぼくみたいだと思えて、それで幼馴染は居るのかっ
て訊いてみたんだ…。
少しの間黙っていたカイジマ君は、ぼくのそんな気持ちを察したのか、
「何でチドと一緒に居ないんだ?皆と一緒に居れば良いだろう?」
と、俯き加減のぼくの顔を窺うように見ながら言った。
さっきの教室での事を言われているように感じて、ぼくはちょっとドキッとする…。
「だって…、皆が話をしたいのはチドだし…。ぼくは活躍して無いし…」
ボソボソと呟いたぼくは、やっと気が付いた。
この前から胸の奥にある、この重いもの…。
これはきっと、寂しさだけじゃない、皆に注目されるハナへのヤキモチでもあるんだ…。
ハナばっかり皆から注目されて、ぼくは今まで通りで、しかもずっと一緒だったハナが取られちゃったような気がして…。
…ハナを独り占めしたかったのかな?ぼく…。
…大人気ない…。二人だけで居た方が良いって、そう感じてるんだ…。
「活躍ならしてただろう?」
顔を上げたぼくが首を巡らせると、カイジマ君はツナサンドを袋から引っ張り出しながら続けた。
「アカギのリードは上手かった。だから打たれなかった。昨日の試合で打たれてたのはキャッチャーのリードミスだ。速いだ
けの球は慣れれば打たれる。球種とコースの選択をきちんとやれる女房が居たから、定期戦時は危なげ無いピッチングだった」
ラップを外したツナサンドを顔の前に持っていったカイジマ君は、少し驚いているぼくの視線に気付くと、微苦笑を浮べる。
「まぁ、今のは団長が言ってた事なんだけどな…。俺も、定期戦の時の方がチドは投げ易そうに見えた」
「…ホント?」
「ん。あくまでも、素人の俺の目で見て、だけどな」
ちょっとだけ気が楽になったぼくは、手元の袋に視線を落とし、牛乳の小パックを掴み出した。
じるるるっと牛乳を啜ったぼくは、ふと気になってカイジマ君に尋ねてみた。
「カイジマ君、牛乳好き?」
グリズリーは、当然何の話だ?というように訝しげな表情を浮かべ、「好きだけど?」と答えた。
「昔から?」
「ん。小さい頃からずっと。コーヒー牛乳もフルーツ牛乳もみんな好きだ」
ふむふむ…。ぼくは何度か頷いて、牛乳を一気に啜り上げた。
今よりもっと牛乳を飲めば、カイジマ君のようにでっかくなれるかもしれない。
しばらくぼくを見つめていたカイジマ君は、また黙り込んでモソモソとパンを食べ始める。
…普通はもっとこう、クラスの皆なんかは、食事中にも会話してると思うんだけど…。カイジマ君、あんまり話さないなぁ…。
「ねぇ?いっつもここで一人で食べてて、寂しくない?」
カイジマ君は手を止めてぼくを横目で見ると、少し考えた後に「あ〜…」と、何かに気付いたような声を漏らす。
「ひょっとしてアカギ、俺が寂しそうに見えて、気を使ってくれてたのか?それで最近いつもここに?」
「え?…えぇと…、たぶん違うと思う…」
きっと、寂しかったのはぼくの方だ…。だから、今日もカイジマ君が居るかもって、ここに来たんだ…。
「なら良いんだけど、俺は別に寂しいとか思っちゃいないぞ?外の風浴びながら一人でぼーっとしてるのも好きなんだ。…さ
すがに雨の日はここじゃ食えないけどな」
カイジマ君がそう答えた事で、ぼくは気が付いた。
言われてみれば、カイジマ君は最初から寂しそうにはしていなかった。
何て言えば良いんだろう?一人きりでくつろいでるっていうか…、とにかく、静けさを歓迎してるような雰囲気があった。
…ひょっとして、ぼく邪魔だったり…?
「ああ、別にアカギの事邪魔だとか思って無いからな?」
見透かしたようにカイジマ君が言ったから、ぼくはドキッとした。
「静かに考え事したいなら、ここは最適だろうしな」
「本当に、ぼく邪魔してない…?居ても平気…?」
おずおずと尋ねたぼくに、カイジマ君は歯を剥いてニカッと笑った。
「別にここ、俺の場所って訳じゃないぞ?好きな時に来て好きなだけ居れば良いさ。アカギの居場所はアカギが決めるもんだ」
カイジマ君は特に何の気もなく言ったんだろうけれど、ぼくは、その言葉で少しだけ気が楽になった。
ぼくの居場所は、ぼくが決める…、か…。
ひょっとしたら、ハナの傍に居場所が無いんじゃなくて、ぼくがハナの傍を選ばないだけなのかもしれない…。
…ハナに、謝らなくちゃ…。
…と、お昼休みには思ったものの…。
「………」
「………」
部活を終えて帰り道を一緒に歩くぼくとハナには会話が無い。…一言も…。
帰りは、一緒に帰ろうって言葉を交わした訳じゃ無かった。
結局練習中も謝る機会を掴めなくて、そそくさと部室を出たぼくに、足早に近付いたハナがそのままくっついて来てくれた
感じ。…なんだけど…。
…き…、気まずいよぉ…。
ハナは遠慮してるみたいに口を開かないし、ぼくも何て話し始めれば良いか判らない。
セントバーナードは遠慮がちに時々ちらっと、ぼくの顔を横目で窺って来る。
昨日と違ってその視線でイライラはしないけど、逆に申し訳ない気持ちで一杯になる…。
おどおどと顔色を伺って、話しかけるのを躊躇うような気遣いをさせちゃうくらい、ぼくはハナに辛く当たっちゃったんだ…。
しばらくの間、胸が苦しくなる沈黙は続いた。
謝ろうって決断したのに、本人を前にしたら何て謝れば良いか判らない…。
「…あの…さ…」
ハナがボソッと口を開いて、ぼくはピクンと身を固くする。
「ごめん…。マーちゃん…」
何故か謝ったハナは、前を向いたままのぼくを横目で窺って来た。
「…ごめん…」
「…何で謝るの?」
繰り返したハナに、ぼくは訊ねていた。本当は、こっちこそゴメンって謝っちゃえば良かったのに…。
「え?え、えぇと…。…「ごめん」の理由も、間違ってたらごめん…」
妙な言い回しで呟いたハナは、顔を俯き加減にしてぼそぼそと呟いた。
「おれ…、ピッチャーさせて貰えるようになって、皆に褒めて貰えて、嬉しかった…。でも、マーちゃんは試合に出られなく
て、それで、皆もマーちゃんにはあんまり…」
言い難そうに口ごもったハナは、少し間をあけてから続けた。
「マーちゃんは、寂しかった?だから、その…」
ハナが口ごもる理由が、判った。
「寂しくて、ヤキモチ妬いて、ハナにあんな態度を取った」
ぼくがそう言うと、ハナはビックリしたように顔を上げ、それから「はは…」と力なく笑った。
「そ、そんな訳無いよな?ヤキモチだなんて…。ごめんな、気分悪くするような事言って…」
項垂れたセントバーナードに、ぼくは「ううん、あってるよ」と応じた。
ハナが口ごもったのは、ぼくが嫉妬している事を感じても、なかなか言えなかったから…。ぼくが気を悪くすると思ったか
らだ…。
再び顔を上げたハナの横で、ぼくは恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じながら続ける。
「…あのね…?…ハナの…言うとおりなんだ…。今日までモヤモヤしたこれが何なのか、今日まで判らなかったんだけど…。
ぼく、ずっとヤキモチ妬いてたみたい…」
認めてしまったら、言葉は不思議と、時々つっかえながらも出てきた。
「ハナは皆から褒められて、楽しそうに輪に加わってるのに、ぼくはそこに加わるのも敬遠しちゃって、勝手に置いてけぼり
にされたような気がして…。ずっと一緒だったハナが、皆に取られて、遠くに行っちゃったような気がして…」
言いながら、ぼくの顔はカッカと熱くなる。
ほんと、自分勝手な嫉妬だ…。おまけにこれじゃあ、恋人が友達と笑いあってるのを見て嫉妬してるみたいじゃないか…。
「ごめんねハナ…。ハナは何も悪いことしてないのに、一生懸命頑張ってたのに…、ぼく、自分の身勝手なヤキモチで、あん
な事言っちゃって…。…ご、ごめん…」
謝りながら、ぼくの声からは張りが無くなって、最後の方は掠れて涙声になっちゃった…。
ハナは慌てたようにブンブンと首を横に振ると、いつも眠たそうな半眼にしている目を大きく見開いて、ぼくの顔を覗き込
んだ。
「お、おれも悪かったんだよ!あ、あんまり気にしないで!な?マーちゃん!」
醜い嫉妬をしてしまった恥ずかしさと、八つ当たりであんな態度をとってしまった後悔から目に涙を溜めているぼくの顔を
見て、ハナはしゅんと体を小さくした。
「お、おれ…、褒められたのが嬉しくて、浮かれてて…。自分一人で皆と楽しく盛り上がって…。マーちゃんのそういう気持
ちにその…、気が回らなくて…。…ごめん…、調子に乗ってた…」
謝ったハナに、ぼくは黙って首を横に振る。
声を漏らしたら泣いちゃいそうだったから…。
「そ、そうだ!おれ、実は臨時収入あったんだ!」
ハナは急に声を大きくすると、
「コンビニ寄ってこう!いつも悪いから、今日はおれがスポーツ新聞買うよ。ついでにお菓子とかジュースも!」
と、務めて明るい調子で言った。
臨時収入があったとか、取って付けたような理由を口にしたけれど、本当は慰める為にそんな事を言ってるのは、ぼくにも
判った。
悪いとは思ったけれど、ここで断っちゃうのもなんだかハナの好意を無下にするようで、ぼくは首を縦に振った。
「じゃあ、せめてジュースはぼく持ち。お菓子と相殺ね。新聞の分は、スクラップブックの閲覧料としてありがたく奢られとく」
ちょっと掠れた声で、それでもなるべく元気に聞こえるように言ったぼくに、ハナは嬉しそうな笑顔で頷いた。
認めちゃって、謝っちゃったらスッキリした。
ハナは頑張ってるんだ。ポジションでの目立つ目立たないを言い訳にして嫉妬してたぼくは、考えを改める。
ハナがピッチャーをやるって決めたとき、キャッチャーをやるって「決断」したように、ぼくはもう一度「決断」する。
ハナに釣り合うキャッチャーになる!他の誰でもなくぼくが、ハナの球をしっかり受けてやるんだ!
どんな強豪を相手にしても、ぼくがハナをしっかりリードして、勝ち投手にしてあげる!
わだかまりが解けて、申し訳ないと思いつつもハナと笑いあいながら、ぼくらはいつもの丁字路のコンビニに向かった。
コンビニに入ったぼくらは、一面にスダチさんの大写真が載ってるスポーツ新聞と、お菓子とジュースをレジに運んだ。
そのまま店を出ようとしたぼくは、ふと気になって視線を横に向けて立ち止まり、後ろから来たハナのお腹にぼよんと背中
を押される。
「おっとっと…!」
「…っと!ごめん!急に立ち止まんないでくれよ」
たたらを踏んだぼくに謝ったハナは、ぼくの視線を追って雑誌コーナーに顔を向ける。
「ちょっと待ってて」
ぼくはラックに歩み寄って、立てかけてある野球の月刊誌を手に取った。
表紙にはスイングするスダチさんの写真。やっぱり、これまだぼくらが読んでない号だ。
発売日のチェックをしてなかったけど、今月は発売が少し早まったんだね。
横に並んだハナにも見えるように巻頭のカラーページを開く。
「お〜…!これこの間の点取り合戦になった試合?スダチさんがサヨナラツーラン決めた時の!?」
「みたい!えーとなになに…」
あの試合を衛星放送で見た時の興奮を思い出したぼくは、「あれ?」というハナの声にも顔を上げず、夢中になって記事を
貪り読む。
もしこの時、どうせ買うんだからと、すぐにレジに向かっていれば…。
あるいは、ぼくが雑誌コーナーに視線を向けずにコンビニを出ていたら…。
…いや、そもそもぼくが自分勝手な嫉妬から辛く当たって、ハナに気を遣わせるような事をしなければ、ぼくらはコンビニ
に寄らずに帰っていたはず…。
「マーちゃん?なんか…」
訝しむようなハナの言葉は途中で途切れたけど、それでもぼくは顔を上げず、「何?」と聞き返した。
きっと、この記事の試合についての何かの話だろうと思って。
「マーちゃん!こっちに来るぞっ!」
珍しく切羽詰まったハナの声で、来るって何が?なんて思いながらやっと顔をあげたぼくの視界に、
「…え?」
大きなトラックの前面が、いっぱいに広がっていた。
コンビニの窓の向こう側にトラックの顔。別に不思議な光景じゃない。それが停まっているなら。
そのトラックは、駐車している訳じゃなかった。
けど、顔を上げた一瞬だけを切り取られてるように認識したぼくには、そのトラックが道路を走るスピードそのままで自分
達の目の前に至っている事は理解できていなかった。
「マーちゃん!」
吠えるような声と同時に、ハナの右手がぼくを突き飛ばした。
ぼくが体の右側を下にするようにして床に倒れ込むその直前に、窓がトラックの顔で突き破られた。
音は無かった。いや、実際にはあったんだと思う。ガラスは割れたし、ラックは下敷きになったし、凄い音がしたはずだ。
けれどその時ぼくは、衝突音が凄まじ過ぎたせいなのか、どんな音がしていたのか判らなかった。
割れたガラスが飛び散る中、横向きに倒れるぼくの視界の隅を、トラックの横腹が通過していった。
荷台の横に書かれた緑色の運送会社名が、何故かスローモーションで、一文字一文字はっきりと見えた。
右肩と右側頭部を床に打って、息を吐き出させられて呻いたぼくの体に、ガラスの破片が降り注ぐ。
そうしてどれぐらい倒れていたんだろう?
実際にはトラックが侵入して来てから数秒しか経っていなかったはずだけれど、身を起こして、ガラスが散乱する床にへた
り込んでるぼくは、ショックのせいか時間の感覚がおかしくなっていた。
何が起こったか理解できてなくて、そのくせ衝撃が大きすぎて足腰が立たなくて、ぼくは正座を横に崩したような格好で床
に座り込んだまま、コンビニの中央を貫き、奥の壁に鼻から突っ込んでいるトラックの左側面を、呆然と眺める。
自分の身体が小刻みに震えている事に気付いたのは、若い女の店員さんの悲鳴が響いた後の事だった。
耳鳴りがして、奥の方が痛い。
倒れたときに打ったのとは反対側の頭がムズムズして、左目の横がこそばゆい。
手をやってみたら、指先がぬるっとした物に触れた。
垂れてきている生暖かいそれを上に辿って行くと、こめかみに触れた所でズキンと痛んだ。
飛んだガラスで切ったのか、左のこめかみの所が切れて、そこから血が出てるらしい。
気が付いた途端にジンジンし始めたけれど、ショックで感覚が鈍ってるのか、痛くて堪らないっていう程でもなかった。
脳震盪でも起こしたのか、頭がクラクラしてる。
他の客達の悲鳴や怒鳴り声が響く中、信じがたい光景を眺めながら、ぼくは漠然と、何かが足りないと感じていた。
ついさっきまでそこにあって、今は無い何か…。
「…あ…」
ぼくの喉から、小さな掠れ声が漏れた。
…居ない…。ハナが…、居ない…!ぼくを突き飛ばしてくれたハナの姿が無い!
「ああぁ…!」
のろのろと身を起こしたぼくの前に横たわるトラックは、間違いなく、ぼくらが立っていたソコを通過している。
跳ね飛ばされた棚が押しやられ、ぶつかりあい、倒れ、商品が散らばった店内。
途中で途切れ目の無かった店内奥側の長い棚を纏めて押し潰し、天井を抉り崩し、奥の壁にまで届いているトラック。
「あ…、あ…!あああああああああああああああああああああああああっ!!!」
押し退けられていた棚を回り込んだぼくは、壁とトラックに挟まれてぐしゃぐしゃになった商品棚とハナの姿を見て絶叫した。
トラックのフロントと潰れた商品棚に、体の左半分を挟まれ、棚と商品に埋もれるようにして、ハナは両脚を投げ出して座っ
ていた。
顔を俯けているハナの、ぼくから見えている右足、その太もものズボンが裂けて、ぼくよりもずっと赤くなってしまった血
塗れの毛が覗いている。
直前にぼくを突き飛ばして危機から救ってくれた右手は、体の横に力なく投げ出されてる。
左足はトラックの左前輪の向こう側。左肩からあっち側の体半分は、どうなっているか見えない。
散らばった商品、投げ出されたハナの足、その下にじわじわ広がってく赤い水たまり…。
その状況を目の当たりにしたぼくは、幼馴染みの傍らに寄り、声を上げた。
「ハナぁっ!ハナっ!ハナぁああああああああああああああっ!」
半狂乱になってハナの回りの商品と天井の破片、棚の一部を除ける。
その間にもぼくの喉は、自分の耳が痛む程の絶叫を上げ続ける。
トラックのフロントに手を掛け、どう考えたって不可能なのに、ハナから引きはがそうと、少しでも隙間を作ってやろうと、
ぼくは力の限り引っ張った。
手がぬめっと滑って、ぼくは無様に後ろ向きにひっくり返る。
ハナの体から天井や棚の残骸なんかを除けた際に、ガラスか何かで手を切っていたらしい。
手の平と指に切り傷ができていて、ぼくの手は自分の血で滑っていた。
跳ね起きて再びトラックに手を掛けたぼくは、
「マー…ちゃん…」
小さな声を耳にして、弾かれたように視線を下に向けていた。
顔を上げたハナが、薄く開けた目をぼくに向けてる。
「ハナっ!?」
涙がボロボロとこぼれ落ち、ぼくは跪いてハナに縋り付いた。
「ハナっ!うそでしょ!?あぁっ!何でこんな…!ハナぁっ!」
体半分をトラックに圧迫されているせいか、ハナの呼吸は浅い。
なのにやけにゆっくりで、弱々しい息遣いを聞いているだけで、ぼくの不安は大きくなって行った。
ハナの目がゆっくり閉じて、かくんと顔が俯いた。
「ハナっ!?ハナっ!目を開けて!ハナぁあああああっ!」
半狂乱になってハナの右腕を掴み、引っ張り出して助けようとしたぼくの肩は、不意に後ろから伸びた手に掴まれた。
「落ち着け、下手に動かすな」
重低音の声が響き、反射的に振り向いたぼくの目に、焦げ茶色の熊の顔が映った。
「で、でもっ!でもハナがっ!放してっ!助けなきゃ!放してぇっ!」
何処かで見た覚えのある焦げ茶色の熊は、半狂乱になって暴れるぼくを、真後ろから両腕で抱え込んでハナから離そうとする。
捕まえている腕に爪を立てて、噛み付いて、暴れるぼくをハナから十分に離すと、焦げ茶色の熊はぼくを自分に向き直らせた。
そして、右手でしっかりぼくの肩を掴んだまま、おもむろに伸ばした左手で鼻を摘む。
鼻で息が出来なくなって、「カフッ!?」と息を詰まらせたぼくの顔を真っ直ぐに見ながら、そのひとは言った。
「大きく口で息をしろ。肺腑に入れた空気で頭を冷やせ。できるだけ深く、ゆっくり呼吸しろ。良いな?」
真っ直ぐに見つめてくるその目は、冷徹に感じる程に厳格で、静かな光を湛えていた。
反論を許さない視線と言葉に、一発で目が醒めたぼくは、鼻を摘まれたまま小さくアウアウと頷く。
トラックが突き破った窓から入ってきたらしい、大柄で固太りの大きな羆は、ぼくの鼻から手を離すと、首を巡らせて辺り
を見回した。
周囲の惨状を一瞥してもなお、厳めしい顔は表情一つ変えない。
「連絡は?救急車でも警察でも、どなたか連絡なさったか?」
叫んだ様子でも無かったのに、発せられたその重低音の声はかなりの音量で、凄まじい状況になっている店内の隅々まで届
き、悲鳴や怒号がかき消されるようにして治まった。
幸いにも巻き込まれずに済んだ他の客達は、しかし学ラン姿の羆の言葉に、半分呆けているような顔を向けるばかりで答え
を返せない。
…無理もない。これだけの事故が目の前で起こったんだから…。
焦げ茶色の羆はしかし返事が無い事に苛立つ様子も見せず、携帯を取り出してぼくを一瞥した。
「深呼吸だアカギ」
「は…?は、はい…!」
促されて深呼吸するぼくの前で、羆は落ち着き払った口調でどこかへ電話していた。
冷静な口調で名乗って、コンビニの位置や状況を簡潔に伝えていたから、たぶん110番とかそういう所…。
この時点で、ぼくは見覚えのあるこのひとが誰なのかをやっと思い出した。
ウチの応援団の、団長さんだ…。
通話を終えた団長さんは、ぼくをちらりと見下ろすと、ポケットからハンカチを取り出してぐっと突きだした。
「じきに救急車が来る。それまでこれで頭の傷を押さえておけ」
キチッと折り畳まれた真っ白なハンカチを前に、受け取るのを躊躇っていると、
「遠慮せず使え」
団長さんはぼくの手を取って強引にハンカチを握らせ、首を巡らせてハナを見遣った。
「…あの状況で…咄嗟にあんな真似を…。何たる胆力…、何たる勇気…」
ゆっくりと近付いた団長さんは、後ろから傍に寄ったぼくや、負傷者に気付いた周りの皆が見守る中、ハナの前で屈み込む。
微かな衣擦れの音に反応したのか、ハナは垂れた耳を小さく動かして、少しだけ顔を上げた。
うつろな目に団長さんの顔を映して、ハナの口元が微かに、弱々しく動く。
「…アカギは無事だ。…胸を張って威張って良い。実に立派な、勇気ある行為だったぞ?」
団長さんが静かに告げると、ハナは口元を微かに綻ばせて、ゆっくりと、ぼくに視線を向けた。
ハナが聞き取れないほど小さく、弱々しく何か囁くと、団長さんは「うむ。ここに居る」と頷いて、こっちを振り返った。
「アカギ…、呼んでいる」
団長さんに促されて、目の前で跪いたぼくの顔に、ハナはのろのろと上げた手を伸ばして来た。
「マー…ちゃん…、怪我…してる…。大丈夫…?」
自分の方が大怪我してるくせに、ハナは弱々しい声を漏らしながら、血で汚れたぼくの顔の左側を、大きな手でそっと覆った。
「平気…!ハナが、助けてっ…、くれたから…!」
あの一瞬、しかも身が竦むようなトラックの突進を前にして、非常事態の中でもハナは、咄嗟にぼくを突き飛ばしてくれた。
ぼくより先に気付いていたんだから、自分だけ逃げる事もできたかもしれないのに…!
何て勇気…!何て決断力…!
大きいくせにちょっと気弱なハナは、「勇気ある決断を」と記されたスダチさんのサインの言葉を、極限の状況下で体現し
ていた…!
「ありがとう…!ありがとね、ハナ…!」
涙声で言ったぼくに、ハナはにま〜っと、緩んだ笑みを向けた。
「良かったぁ」
その言葉だけやけにはっきり言うと、目を閉じたハナの右手が、ぼくの顔から離れて落ちた。
長く吐き出されたため息みたいな音が、ぼくの耳にはいやに大きく響いた。
「…立派だぞ…。誰にでも誇れる行為だ…」
呟いた団長さんの前で、ハナはもう、動かなかった。
遠くから響くサイレンの音を聞きながら、この時のぼくはまだ気付いていなかった。
ハナに釣り合うキャッチャーになって、その球をしっかり受けるという、ついさっき決めたばかりの事が、永久に叶わなく
なってしまった事には…。
「悪いわねぇ、気を遣って貰っちゃって…」
ぼくは玄関まで見送ってくれたおばさんに、「いいえ」と笑顔で応じつつ、靴の紐を締めた。
「頑張ってねマーちゃん…」
おばさんが続けた言葉が尻すぼみになったけれど、余計なプレッシャーを与えるまいとして、口にする事を思い止まった言
葉が何だったのかは、もちろん察した。
…ハナの分も…。
「はい」
おばさんに大きく、力強く頷いて見せたぼくは、靴紐を結び終えて立ち上がった。
…あれから一年…。
二年目の定期戦となる今日、去年ハナが立ったマウンドにぼくが立つ。エースピッチャーとして…。
力いっぱい投げる。ハナだったら抑えられた川向こうの学校相手を、ぼくも抑えてみせる。
ハナができなくなった分まで精一杯頑張るって、あの事故の後に「決断」したから…。