おまけ

ヒロは一人、ぼんやりと時計を眺めていた。

線香の香りが漂うアパートの居間は、二人で暮らしていた名残が抜けきらず、肥満虎には広く感じられている。

カズと同棲するようになった直後は狭く感じたにも関わらず、今は落ち着かないほど広い。

先程まで一緒に酒を飲んでいたコリーも帰ってしまうと、その感覚はなおさら強まり、静けさもまた一層深まっていた。

半分瞼が落ちているヒロの瞳に、動いてゆく時計の針が映り込む。

時間は戻らない。

カズと過ごした時間は、もう戻ってこない。

時計を映す目が潤み、ポロリと、涙が零れた。

頬を伝った涙が顎から首に流れ、柔らかな首下の被毛に染み込む。

やがて時計の針は零時を示し、カズの四十九日が静かに終わった。

腕を横に引くようにしてぐいっと顔を拭い、ヒロは立ち上がる。

背筋を伸ばして仏壇の前に正座し、線香をあげたヒロは、細面の狐が笑っている遺影に顔を向け、手を合わせて目を閉じる。

生きている間は言えなかった言葉が、ヒロの胸の中には沢山詰まっていた。

出会ってくれてありがとう。

一緒に居てくれてありがとう。

夢のような時間をありがとう。

好きになってくれてありがとう。

ありがとう。ありがとう。ありがとう…。

言いたかった言葉は、その全てが感謝の言葉。

伝えられる事のなかったそれらの言葉達を、あれからずっと、カズに向かって胸の中から囁いている。

何故言えなかった?何故言わなかった?そんな若干の悔いはあるが、今となってはどうしようもない。

笑ってくれと、カズは言った。

だが、今のヒロには、それは難しい注文であった。

誰かを好きになるという事が、誰かに好いて貰えるという事が、あんなにも素晴らしいとは、以前のヒロは知らなかった。

そして、それを失ってしまう事がこれほど辛いという事もまた、以前のヒロは知らなかった。

得なければ失わなかった。時にそう考える事もあるが、カズと過ごした時間を否定したくはない。

辛くとも、絶対に忘れない。忘れた方がなお辛い。それほどまでに幸福な日々であった。

長々と仏前に座していた大虎は、やがてゆっくりと腰を上げた。

「おやすみ、カズ…」

カズが生きていた頃と同じように挨拶をし、寂しげに微笑んで仏壇から離れたヒロは、

「…ん…?」

チャイムの音が響くと、顔を玄関の方へ向け、耳をぴくりと震わせる。

日付が変わった後の来訪者。普段なら有り得ない訪問時間に鳴ったチャイムは、ヒロに違和感と警戒心を抱かせた。

チャイムを鳴らす以上強盗などではないだろうが、留守確認をしている泥棒の線も捨てきれない。

何を取られても構いはしないが、しかしどうしても護らなければならない物があり、ヒロは机の上に視線を向けた。

カズの遺品となった仕事道具、執筆に利用していたノートパソコンは、泥棒にくれてやる訳には行かない。

カズの指が長く、何度も触れていた、自分にとっては特別なパソコンを手早く寝室に運び、改めて玄関に向かったヒロは、

二度目のチャイムを耳にして警戒心を僅かに緩める。

泥棒か強盗が二度もチャイムを鳴らし不在確認をするとは、少々考え辛かった。

「どちらさんです?」

不機嫌に低い声で訊ねたヒロは、覗き穴に目を寄せ、驚いたように眉を上げた。

そして慌しく鍵を外し、ドアを開けると、大虎は懐かしい顔を前にして、驚き混じりの笑みを浮かべる。

「ミョウジン!」

ドアの前に立っていたのは、ヒロと変わらぬ背丈の、大柄な牛獣人であった。

身につけているのは漆黒の羽織袴。艶やかな被毛は黒みの濃い茶色。反り返った鋭く立派な角。

筋肉が発達した骨太の体躯は、ヒロとは正反対の意味で重厚である。

思慮深げな眼差しをヒロに向け、大学で一つ下の後輩だった大男、明神要(みょうじんかなめ)は、神妙な顔で深々と一礼

した。

「ご無沙汰しております。ヒロ先輩…」

深夜という時間を鑑みて、常よりさらに低い声音で挨拶したカナメは、「どうしたんだ?」と問うヒロに顎を引いて頷いた。

「カズ先輩の事、遅ればせながらお聞きしまして…」

カズは本人の希望で本葬無しの密葬となり、親しい友人達にも案内は出さなかった。

どこからか聞きつけた後輩の牛は、居ても立ってもいられなくなって、こんな夜遅くに大慌てで駆けつけたのだろう…。

そう考えたヒロは、顔を緩めて「上がってくれ」と少し身を引く。

しかしカナメは哀しげな沈んだ表情に、困っているような微妙な変化を添え、首を横に振った。

「先輩…。実は小生、今宵は一人ではありません…」

「ん?」

訝しげに目を細めたヒロの前で、カナメは横に一歩、かなり大きくずれた。

その空いたスペースへ、横合いの死角からのっそりと身を入れて来た者を見て、ヒロは目を丸くする。

それもそのはず、ドアを完全に塞いでしまう程のその巨体は、彼が生まれて初めて目にするサイズであった。

文字通り小山のような赤銅色の巨体を見上げ、ヒロはカクンと顎を落とす。

それは、馬鹿馬鹿しい程の大男であった。大柄なヒロやカナメがだいぶ小柄に見えてしまうほどの。

ただただ呆れるばかりに大きく、太く、分厚い体躯のその巨漢は、赤銅色の被毛と、カナメと同じく漆黒の羽織袴に身を包

んでいる。

身の丈2メートル半を超えるであろうその巨熊は、高さがあるだけでなく、異常な肥え方をしていた。

肥満を自覚しているヒロに鏡餅を連想させるフォルム。大きく突き出た腹はつつけば弾けそうで、羽織袴がいかにも窮屈そ

うであった。

まん丸に膨れた顔は頬肉が異様に盛り上がっており、肉に押された目が細くなっている。

ボーリングの球に太く短い手足が生えたような肥満の巨漢を眺めて困惑しているヒロに、横に退いていたカナメが説明する。

「小生の家とは、代々家ぐるみで付き合いのある家の男で、幼少の頃よりの馴染みです」

「お初にお目にかかる。某、神代勇羆(くましろゆうひ)と申します」

ヒロから見ても明らかに倍以上のボリューム。300キロを大きく超えているであろう異常に肥った巨漢は、やや窮屈そう

に、それでも深く頭を下げた。

「あ…、ああ、寅大(とらひろし)です。どうも…」

会釈を返したヒロは、ユウヒと名乗った巨熊の来訪目的も、彼を連れて来たカナメの思惑も判らず、相変わらず困惑したま

まである。

とりあえず上がって貰おうかと、再び促すべく口を開きかけたヒロに先んじて、カナメが口を開いた。

「それと、もう一人…。ユウヒと同じく小生の古馴染みなのですが…」

黒牛が全て言い終える前に、ユウヒが巨体を揺すってのそっと大儀そうに後ろへ下がり、大きく開いたスペースには、ほっ

そりとしたシルエットが静々と進み出る。

「…か…!?」

ヒロの目が皿のようになり、俯き加減で壁の陰から現れた青年を映した。

黒い羽織袴。柔らかそうで温かみのある茶色の被毛。すらりとした細身の中背。

何よりも、その中性的な整った顔立ちに、食い入るような視線を向けたまま目を離せなくなったヒロは、

「カズ…!?」

そこに逝ってしまった恋人の面影を見て取り、我知らずその名を口にしていた。

細面の狐は顔を上げ、穏やかな、そしてどこか居心地悪そうな表情をヒロに向けた。

(…いや、違う…。カズじゃない…)

カズが帰って来た訳ではないと、冷静に考えれば当然解る。

だがそれ以上に、妙に似通った、しかし僅かに違う顔立ちが、感覚としてヒロに理解させた。

それは、実に奇妙な感覚であった。

カズとそっくりな、本人ではない、しかし赤の他人でもない存在…、例えるならば、カズの兄弟でも見ているような感覚に

ヒロは陥っている。

「初めまして。神座狐成(さくらこせい)と申します…」

腿に手を当て、腰を折り、丁寧な深いお辞儀をした狐の声までが、カズの声に良く似ていた。

その姿に見入ってしまって、その声に聞き入ってしまって、挨拶も返せなくなっているヒロ。

コセイと名乗った狐は顔を上げ、そんな大虎を見上げると、

「やっぱり…、私は彼と似ていますか?トラさん…」

少し寂しげに、そして済まなそうに囁いた。



不慣れな手付きで茶を淹れたヒロは、テーブルを囲む顔ぶれをそれとなく見遣る。

大虎が座っている以外の三辺には、招き入れた深夜の来訪者達の姿。ヒロから見て左手側にカナメ、右手側にユウヒ、向か

い側にコセイが座している。

それほど広くない居間は、大柄で太っているヒロに加え、ガタイの良いカナメと、巨大な上に無闇やたらと肥っているユウ

ヒが居るせいで、嫌に手狭に感じられた。

ぼってりと肉がついた超肥満熊が、そこそこ大きな湯飲みを片手ですっぽりと包み、もう片手を下に添え、堂に入った仕草

で茶を啜ると、それが皮切りになったように牛と狐も湯飲みに手を伸ばす。

仏壇の前では、来訪者達があげたばかりの線香がまだ長く残り、ゆるやかに煙を昇らせていた。

カナメはともかく、他の二名は何故線香を手向けに来たのかが解らない。

カズの知り合いだったのだろうかと訝るヒロは、しかしそれ以上に、コセイと名乗った狐の顔立ちが気になっている。

視線に気付いたらしいコセイは、湯飲みをテーブルに戻すと、背筋を伸ばして姿勢を正し、真っ直ぐにヒロを見つめた。

「おそらく気になっておいででしょうから、単刀直入に申します」

コセイはそう前置きすると、僅かに間をあけ、静かに告げた。

「私は、桜居和成(さくらいかずなり)さんの親類です」

ヒロの目に、驚愕の光が瞬く。

まさか?と思った。だが、言われてみれば納得もできた。

コセイと名乗ったこの狐が、どこかカズに似た顔立ちをしている理由に、似た声を発する理由に、納得が行った。

(だが…、だがおかしいぞ?カズは言っていた…。両親供に天涯孤独の身で、今はもう、自分には親類が居ないと…)

何と言えばいいか、どう反応すればいいか判らないヒロに、コセイは続けた。

「もっとも、カズナリさんもそのお父様達も、私の…引いては私ども神座家の存在をご存じなかったはずです。桜居家は、曾

祖父の代に当家から別れ、縁を切っておりましたので…」

コセイはヒロの目を真っ直ぐに見つめながら、かいつまんで説明した。

分家に伴い縁を切った理由については、込み入った事情を抱える家柄の事まで一般人のヒロに話す訳に行かず、「さる事情

により」と誤魔化して。

だが、コセイはそれ以外の事は全て打ち明けた。自分が…というよりも、自分の家がカズに対して働いていた、大きな声で

は言えない事も…。

「貴方とカズナリさんの事は、実は以前から監視させて頂いておりました」

コセイは静かにその事を告げ始めた。返事もせず話に聞き入っているヒロの顔が、話を聞く内に、次第に驚愕に歪んでゆく。

カズと良く似た青年は淀みなく続ける。

昼となく夜となく、屋外も室内も、自宅も喫茶店も、地元でも旅行先でも、桜居和成は密かに監視され続けて来た。生まれ

落ちたその時から、死亡が確認されたその瞬間まで。

…いや、正確には生まれる前から、その監視は始まっていた。

カズの父も祖父も曾祖父も、死ぬまで同様の監視下にあった事を、コセイは告げる。

彼の曾祖父が実家から出て独立したその時から、厳重な監視は一時も途絶える事無く続けられて来たのである。

桜居の血に連なる最後の一人、カズが死ぬその時まで、延々と…。

ヒロは「何のために?」とは問わなかったものの、例え問われた所でコセイは説明できない。

彼の家は特別なしきたりに縛られた特殊な血筋で、分家筋の存在が基本的に認められない。

それはその特殊な血筋と、その影響力を鑑みての決め事であったが、一般人のヒロには込み入ったその内情を話せないので

ある。

伝えられる事だけ全て伝え終えたコセイは、口を閉ざしてヒロの顔を見つめる。

そこには、いつもの仏頂面も、困惑の顔も、驚きの顔も無かった。

鼻面に深い皺を刻み、唇を捲り上げて歯茎まで剥き出しにし、燃えるような激しい眼差しをした猛々しい虎の顔が、そこに

あった。

これまで誰一人として見た事のない、ヨシノリも、カナメも、カズですらも、そして血を分けた兄ですら目にした事の無い

ヒロの表情が、そこにあった。

憤怒。

いつも不機嫌そうではあってもそうそう本気で怒ることの無かったヒロが、今この時だけは、はらわたが煮えくり返る程の

怒りを覚えていた。

触れた手が焼けてしまいそうな激しい怒気を纏い、ヒロは何も言わずに片膝立ちになると、普段の緩慢さからは想像もつか

ないほど素早く身を乗り出し、右腕を伸ばした。

きつく固めた握り拳を作り、コセイの顔めがけて。

「失礼」

声と同時に横合いから伸びた巨大な手が、ヒロの手首を掴み止めたのは、テーブルの上を越えた拳がコセイの顔まで十セン

チと迫った位置であった。

常人では反応すら難しい刹那の一瞬で、ユウヒはまるで行動を、そして腕の通り道すらも正確に予測していたかのように、

ヒロの動きを阻んでいる。

「ユウヒ殿、お止めしないで下さい」

瞬き一つせずにヒロの拳骨を見つめていたコセイが、咎めるような口調で友人に囁く。

盗撮に盗聴、あらゆる手段を用いてプライベートまで覗き見していた手前、どんな怒りをぶつけられても文句は言えない。

コセイはそう覚悟を決めて詫びに来ていた。

殴られるならば、気が済むまで殴らせようという心積もりまでして。

「貴兄がそう言うてもな、この御仁は少々…」

言葉を切り、ユウヒは表情をより引き締めて手に力を込めた。

無双の怪力とまで称されるユウヒの豪腕が、ヒロにやや押されていた。

「知っていたのか…?あんたは…!知っていたのか…?カズが…!アイツが…!どれだけひとの情に餓えていたのか…!どれ

だけ温もりを欲しがっていたのか…!知っていて…、知っていて傍観していたのか!?」

枯れた声を大きく、荒くしたヒロの、怒りと力の篭った太い腕が、手首を掴んだユウヒの手を押し、コセイに迫る。

襟首を捉えようというのか、今やその手は開かれ、掴みかからんばかりに指を広げていた。

「何で!何でもっと早くに名乗り出てやらなかった!?今更…、今更っ…!あいつが逝ってから現れて!どうして生きている

内に会ってやらなかった!?何故親類が居ると教えてやらなかった!?しきたり…?そんな物の方が…!アイツの孤独より重

かったのか!?」

嚇怒の炎で眼を染めるヒロの、その叩き付けるような言葉を受けて、コセイの顔が僅かに驚きを浮かべる。

コセイは、寅大という監視対象の同居人かつ恋人が、私的な事も含めて覗き見されていた事に対して怒ると思っていた。

目の前でヒロが激高した瞬間ですら、その事で怒っていると思っていた。

だが、違った。

ヒロは今、カズの孤独を想って激怒している。

高校時代に両親を亡くしたカズが、口にはしなかったものの、どれだけ辛い思いをしてきたかは、重々察しがついている。

何故名乗り出てやらなかった?親類だと顔を見せてやらなかった?

ヒロは今、その事でコセイを責め、激怒していた。

ユウヒは目を細くし、ぐぐっと押し込まれた腕に力を込めて、ヒロの手がそれ以上進むのを阻む。

(やはりこの御仁…、先天性禁圧障害者か…。それもかなり重度の…)

ユウヒは胸の内で唸る。激昂して我を忘れかけている大虎の腕力は、この巨熊をして驚嘆する程の物であった。

嫌な予感がして咄嗟に手を出したものの、正解だったとユウヒは考える。

いかに神将の血族とはいえ、華奢なコセイが無防備に、そしてまともに殴られたなら、間違いなくただでは済まない。ヒロ

の腕はそれほどまでの剛力を宿していた。

「先輩…。赦してやって下さい…」

それまで口を噤んでいたカナメが、辛そうに呟く。

「知らなかったのです…。小生も、そこのコセイも…。コセイは、親からカズ先輩の事を聞かされていませんでした…。小生

がたまたま話をして…、写真を見たコセイが勘ぐって…、それで調べてみて、ようやく知ったのです…。カズ先輩が、コセイ

の親類だという事を…」

調べた二人がその事実を知った時には、カズは既に他界していた。

亡くなった事を知ったカナメもショックを受けたが、コセイが受けた衝撃もかなりの物であった。

自分より一つ歳上の、これまで存在すら知らなかった親類…。

ようやく関係が明らかになって、会ったら最初に何と声をかければ良いかと、不安と期待とこそばゆさ混じりに様々な想像

を巡らせていたところで、本人が死亡した事を知ったのだから。

若くして両親を喪い、以降身寄りも無くたった一人で生きてきた歳の近い親類の境遇を思えば、コセイの胸は罪悪感で潰れ

そうになった。

「小生がもっと早くに気付いていれば…。先輩の写真をコセイに見せていれば…。間に合っていたのに…」

苦渋を滲ませた後輩の声音が、ヒロの怒りを僅かに冷まし、一握りの冷静さを取り戻させる。

その、いくらか冷えた頭で、胸で、目で、覚悟を固めて身じろぎせず、逃れようともしていない、恋人に似た青年の顔を確

認したヒロは、

「………」

無言のまま静かに、長く息を吐き、腕に込めた力を抜いた。

「望んで…ないよなぁ…。喜ぶわけ…ないよなぁ…」

ぼそぼそと呟いたヒロは、一気に込み上げた怒気があっというまに霧散して、疲労すら覚えながら顔を歪めた。

「せっかく見つかった親戚を殴ったりしたら…、怒るよなぁ…、カズ…?」

泣き笑いの表情を浮かべたヒロの目が、涙で潤んだ。

「…ヒロ先輩…」

痛ましげな表情を浮かべたカナメが、顔を伏せて項垂れる。

無言でヒロの腕を放したユウヒが、腕を組んで目を閉じる。

ヒロの顔をじっと見つめていたコセイが、深く頭を下げる。

「…済みませんでした…。トラさん…。そして、カズナリさん…」

平伏して詫びたコセイの顔の下、テーブルに落ちた透明な滴は、細かな飛沫を散らした。



化粧直しと冗談めかし、洗面所に入ったコセイと、何故か付き添っていったカナメが席を外しているせいで、居間には、肥

満の大男二人だけが残された。

平静を取り戻したヒロは、温くなった茶を啜りながら、ふと先程気になった事を思い出し、ユウヒに視線を向ける。

「カナメやサクラさんはともかくとして…、クマシロさん、貴方は何故わざわざ線香を上げに?カズとお知り合いでしたか?」

「いや、たまたま別の用事でコセイ殿の家にお邪魔しておったのですが、二人から事情を聞き、居ても立ってもいられなくな

り…」

ユウヒはそこでコホンと小さく咳払いすると、やや照れ臭そうに微苦笑を浮かべた。

「実は某…、オウニギ先生の…ふぁん…でして…な…」

異様に肥えたからだをもじもじと揺すり、やや顔を伏せ気味にしてぼそぼそと述べる巨熊を、ヒロは意外そうに見つめる。

「…元々は…、幼馴染みがオウニギ先生に心酔しており…、その影響とでも言うべきか…。勧められてひとつ読んで見れば、

お恥ずかしながらすぐさま虜になってしまい…。同年代の素晴らしい作家という事もあり、深く尊敬しておった…。カナメか

ら知り合いだと聞かされた時には…羨ましくて、少々妬けた…」

照れながら言ったユウヒは、不意に表情を曇らせる。

「…真に…、残念だ…」

その呟きに、来訪の理由に納得した意味も込めて小さく頷いたヒロは、おもむろに天井を見上げた。

「神様っていうのは、不公平だ…。不摂生が服を着て歩いているような俺じゃあなく、あんなに健康だったカズを病気で連れ

て行ってしまう…。どうしてカズにばかり不幸を与える…?なんでカズを救ってくれない…?…そう、神社まで行って鈴を睨

んで詰問すらしたが…。ははは!これも、ある意味、神頼みになるのかもな…」

吹っ切れたように笑ったヒロを見遣り、ユウヒは顎を引いて一つ頷き、口を開いた。

「神とは、困難な状況に陥った際に縋り付くべき存在ではない。例えば、思いもかけぬ幸運が転がり込み、誰に礼を言うべき

か分からぬとき、胸の内で拝むべき存在。叶えたい願いがある際に、それを実現する誓いを立てるべき存在…」

言葉を切ったユウヒは、自分を見つめているヒロに、もう一度頷いて見せた。

「神とはそういったものだと、某は思うておる」

その言葉を反芻でもしているように、しばし黙り込んだヒロは、

「その考え方は、なかなか良いかもしれない…。大いに気に入った」

微かな笑みを縁の端に乗せると、大きく一度頷いてから再び天井を…その向こうの天の高みを見上げ、目を細めた。

「もう、恨んでなんかいませんよぉ」



「そうそう、肝心な事を言い忘れていましたが…、監視の記録は、全て抹消させておきました」

去り際の玄関で、コセイはカズにそう告げた。

「もうトラさんは監視されていませんし、このアパートの盗聴器や隠しカメラも、全て撤去済みです」

「それは良かった。おちおちAVも見られないからな…」

冗談めかして肩を竦めたヒロは、ある事が急に気になってコセイに訊ねる。

「あんたの実家がやっていたのは、カズの監視だけなのか?アイツの小説が売れた事や、作家になれた事は、まさか…?」

コセイは深く語らなかったが、彼の家も自分達の後輩であるカナメ同様、何か特殊な事情を持った古い家柄であるらしい事

は、ヒロにも容易く想像できた。

でなければ、先に打ち明けられたほど入念で大規模な監視などできはしないだろうから。

もしやその権力か財力を利用し、カズに便宜を図ったという事はないだろうか?大虎はそこが気になったのである。

「いいえ」

コセイは微苦笑し、首を横に振った。

「幸か不幸か、祖父や父がおこなっていたのは、ただの監視です。ですから、オウニギイナリの人気や名声、得た多くの賞賛

の全ては、彼自身の実力によるものです」

「…それを聞いて、ほっとした…」

ヒロは微笑すると、三名の来訪者の顔を順に見つめた。

「ご焼香、有り難うございました。カズもきっと、喜んでいると思う…」

目で頷いた三名は、口々にヒロに別れを告げた。そして踵を返しかけ、中の一名だけが足を止める。

「あの、トラさん?」

コセイは少し足を戻し、ヒロの前でその顔を見上げた。

「ご迷惑でなければですが…、彼の墓参りなどで星陵に参られた際には、私までご連絡下さい。貴方にとっては不快でしょう

が、私にとっては、これも縁に感じられて…」

「ああ、不快ですねぇ」

言葉を遮られたコセイは口をつぐみ、「そうですよね…」と項垂れる。

その前で、ヒロは目を細め、眠たげにも見える柔らかで柔和そうな微笑を浮かべ、やけに間延びした口調で言った。

「「不快に思ってる」…なんて思われちゃあ、確かにちょっと不快ですなぁ」

顔を上げてきょとんとしたコセイに、ヒロは笑いかけた。

「こう見えても、教え子を持つ身ですからねぇ、私も。あまり頻繁に墓掃除に行けませんから、できればちょくちょく見てやっ

て貰えると、私もカズも嬉しいですなぁ」

コセイは少し黙った後、やがてニカッと歯を見せて笑った。カズとそっくりな、人懐っこい表情で。

「はい!綺麗にしておきます、いつでも…!」

ヒロもそうだったが、コセイもまた、救われたような気分になった。

穏やかに笑い合う二人を眺めていた、頑強な体躯の牛と、異様に太った熊は、顔を見合わせ頷きあう。

巡り会いは少し遅かったものの、コセイもヒロも、四十九日の節目を過ぎ、前に向かって歩き出そうとしていた。

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