虎狐恋花 〜ハザクラ〜

春の日が沈み、既に深い濃紺に染まった空の下、

「春盛り、年に一度の、艶姿…」

駅前の植え込みに凛と聳える、それほど大きくない桜を見上げ、細身の狐獣人は呟く。

「あと二、三日で散り始めちゃうかな?」

少し寂しげに、そして不満げに漏らす狐の上で、薄桃色のヴェールを纏う桜の木は、ゆるやかな風にさわさわと揺れていた。

駅前のシンボルとなっている一本桜は、毎年この時期、花が咲く季節にだけライトアップされている。

「まぁ、散り際は散り際で、あのタイミングでしか見られない儚い美しさがある…んだけれど…、やっぱり私は咲き始めから

満開までの方が好きだなぁ。散る桜の綺麗さを認めない訳じゃないけどね」

ライトアップされた桜を見上げながらブツブツと独り言を呟いている狐は、散り始めの桜に負けず劣らず絵になる外見をし

ていた。

中背で細身の身体にすらりとした手足。キツネ色の被毛はフサフサで毛並みが良い。

スタイルが良いだけでなく、やや中性的ながらも鼻筋の通った、なかなかに整った顔立ちのハンサムである。

表情豊かなその顔は、時に思索に耽る詩人のように理知的に、時にふとした弾みで快活な子供のようにも見え、ひとを惹き

付ける不思議な魅力に溢れていた。

すらりとした長い足に色の薄いタイトなジーンズを穿き、細い上半身にはやや大きめの上着…黄色い薄手のパーカーを着込

んでいる。

狐特有のフサフサの尻尾が左右へゆっくり、一定のリズムで揺れており、手持ち無沙汰である事を雄弁に物語る。

その尻尾が不意にピンと立ち、背中にくっつく形で白い先端を真っ直ぐ天へ向けたのは、駅に向かってくる電車を認めた直

後の事であった。

笑みを浮かべた狐は、豊かな被毛に覆われた尻尾を、フッサフッサと先程よりも早いペースで振り始める。

列車が駅に停まり、そして再出発し、やがて駅からぱらぱらと乗客が出て来る。

その中に一際目を引く大柄な男の姿を認め、狐は笑みを深くした。

黒いジャージの上下を身に付けているその大柄な男は、黄の地に黒い縞模様が映える虎獣人である。

背が高いだけでなく幅も厚みも人一倍あり、体格が良い…というよりは肥満と断じられる程でっぷりと肥えた体型であった。

腕も脚も太く、太ももなどは一般成人男性のウエスト程もある。

広い盛り上がった肩と顎下にもたっぷりとついた肉のせいで、首などは無いように見えてしまう。

ぼってりと大きな尻のすぐ上から伸びる縞々の尾もまた、太くて長い。

どこもかしこも太い虎は、当然ながら胴体のボリュームも相当なものである。

ジャージの前は締めると窮屈なのか、ジッパーを上げずに大きく開けており、その下に着込んでいる黄色の薄いトレーナー

が見える。

トレーナーは垂れ気味の分厚い胸と、ぼよんと突き出た腹で生地が引き伸ばされ、丸く張っていた。

その顔は、肉で頬が張っている上に無表情なので膨れっ面にも見えるが、同居人の弁によれば、この大虎は「ナチュラルな

仏頂面がデフォルトフェイス」となる。

実際には機嫌が悪い訳ではなく普段からこの顔つきなのだが、この虎が大柄である事も手伝い、見慣れていない者は何とな

く近寄り難さを感じてしまう。

そんな大虎の不機嫌そうな顔が僅かに緩んだのは、桜の下のベンチ前に立ち、万歳するように両手を上げている狐の姿を見

つけた直後であった。

「おかえり」

「ただいま」

軽やかで快活な狐の声に、歩み寄った虎の太い声が続く。

太った大虎の名はヒロ。

細身の狐の名はカズ。

二人は大学時代からの親友であり、昨年春から同じ部屋で暮らしている。

何事か言い交わしながら連れ立って歩き出した二人の後ろ姿を、桜の花がさわさわと風に揺れながら見送った。



「先にお風呂入って来て。夕飯の支度済ませるから」

カズのそんな言葉で背中を押され、先に入浴する事になったヒロは、太った体を湯船に押し込んで天井を見上げていた。

その表情は、寄った眉根が印象的な困り顔。

しばらく前からある事について考え続けているのだが、なかなか纏まらずに困っているのである。

「もうじき一年か…」

ヒロにとってもカズにとっても特別なものとなった日から、丸々一年が経とうとしている。

記念日という事で何かするべきか?するとしたらどんな事が良いか?

子供っぽい所が多々ある同居人は、記念日祝いを喜びはしてもきっと反対はしないだろうと思ってはいるものの、しかし自

分から言い出す事自体が何となく恥かしく、相談はできていない。

「…いつも美味い飯を食わせて貰っている礼とか…、適当な理由もつけるか…」

ぼそぼそと呟きながら言い訳を考えつつ、何かプレゼントしてやれば喜ぶかもしれないと、ぼんやり想像する大虎。

端正な顔を崩して子供のように歯を剥いて笑うカズの顔を思い浮かべ、ヒロは両手で湯をすくってばしゃっと顔にかけた。

「…どんな物なら喜ぶ…?」

カズとのそれが初めての交際経験である大虎は、こういった事でちょくちょく悩む。

普段は仏頂面でそっけないが、実は見えない所で一生懸命交際術を学んでいる。

ティーンエイジャー向けの雑誌を参考図書にしている辺りは置いておくとして…。

結局、考えが纏まる前にのぼせてしまいそうなのでさっさと湯船から出て、シャワーのコックを捻りつつ椅子に座ると、ヒ

ロはぬるま湯を頭から被りながら、うーうー唸って考え始めた。



それから十数分後。結局考えも纏まらず、頭をタオルでワシワシ拭いながら居間に戻ったヒロは、

「………………………………………!?」

目を皿のようにし、口をあんぐりと開け、立ち尽くした。

「今日は中華風!一手間かけて頑張ってみた!偉いぞ私!」

エプロンをかけたまま胸を逸らしたカズの前には、エビチリに春巻、小籠包に卵たっぷりの中華風コーンスープ、そしてカ

ニタマに海老チャーハンが所狭しと並んだテーブル。

一手間どころか、かなり手間のかかる夕食が、ヒロの入浴中に仕上げを終えて用意されていた。

 絶句しているヒロに、一言も無いのが不満らしいカズが、ずいっと身を乗り出しつつ「偉いよね?」と念を押す。

「ああ…、偉い…」

「でしょう!?」

上機嫌で座るよう促すカズに従い、ヒロはどすっと腰を下ろす。

豪勢な料理を前にした事で、考えに没頭していたおかげで忘れかけていた空腹感が早速蘇り、たちまち口の中に生唾が湧い

てきた。

ゴクリと唾を飲み込むと、今度は腹の虫がぐぅうううっと鳴き、ヒロは軽く顔を顰めて頭を掻く。

「あははははっ!ヒロのお腹も催促してる事だし、さっそく食べよーっ!」

快活に笑ったカズは、ビール瓶を手にして王冠をきゅぽんっと外す。

それを見て少し嬉しそうに細まったヒロの目は、しかしすぐさま疑問の光を湛えた。

やけに豪勢な夕食。さらにヒロが最も好きな銘柄のビール。おまけに缶ではなく瓶。

何がどうなってこんな豪勢な食卓になったのか?今更ながら大虎は首を捻った。

「今日は…、何か特別な日だったか?」

にこにこしながら瓶を傾けるカズにビールを注いで貰いつつ、ヒロはおそるおそる訊ねた。

いわゆる「何かの記念日」的な物を忘れてしまっていたのではないかと、急に心配になって。

「ん〜、ちょっとねっ!」

笑顔で答えをはぐらかすカズだったが、ひとまず大虎は安心した。

とりあえず、自分も関係するような記念日をうっかり忘れるという失敗をした訳ではない。そう確信して。

本当に何か忘れていたなら、こんな事を訊ねれば狐がぷんすか怒り出すのは目に見えている。そうでない以上失敗した訳で

は無い。

が、それでもやはり豪勢な夕食が用意された理由は、依然として解らないままである。

「何か良いことでもあったのか?」

「まぁねっ!にししししっ!」

手酌で自分のグラスに注ごうとしたカズを制し、ヒロはビール瓶を取り返すと、相方に注いでやる。

あまり飲めないカズは、基本的にヒロが誘いでもしない限りはアルコールに口を付けない。ところが今日は最初から自分の

グラスも用意しており、さらには手酌しようとしていた。

これはよっぽど良い事があったのだろうと考えたヒロは、機嫌が良さそうな恋人の顔をそれとなく見遣りつつ、僅かに口元

を緩める。

「じゃあっ、いただきます!」

「いただきます」

向き合う二人は、あまり大きくないテーブルに所狭しと乗った料理を、あれこれ話をしながらつつき始めた。

美味い料理に舌鼓を打ちつつ、しかしヒロは一旦消していた疑念を再び抱く。

良い事があったらしいカズが、一向にそれについて話さない。

普段の狐からすれば真っ先に報告して良さそうなものなのに、である。

(かといって…、何か悪い事があって自棄になっているという訳でもなさそうだな…)

一年前、失恋したカズが泥酔状態で部屋を訊ねてきた時の事を思い出しながら、ヒロは確信する。何かを誤魔化して明るく

振る舞っているのではないようだ、と。

おそらく、話すタイミングを計っている。普段は缶で三本目を飲もうとするとやや渋い顔をするのに、今日のカズは催促し

た訳でも無いのに率先して二本目のビール瓶を出して来るという気前の良さを見せている。どう見てもすこぶる機嫌が良い。

箸が進み酒も進み、次第に酔ってきたヒロは、カズにおかわりを注いで貰いながら微苦笑して口を開いた。

「どうしたんだ今日は?文句の一つもなく次々ビールを出してきて」

「良い事あったからですよーっ!さ、お客さんグッとグッと!」

妙なテンションで盛り上げようとするカズに、苦笑いを浮かべたままのヒロは乗ってやる事にした。

「俺を酔わせてどうしようっていうんだ?」

「ん〜…。酔いつぶれたらいただいちゃいましょうかね?」

いたずらっぽく笑うカズに、危うく吹き出しそうになったヒロは顰め面を向ける。

まさか本当にその為に豪勢な料理を用意した訳ではないだろうが、いい気分で酔いつぶれた後に何かされるのでは敵わない。

一線を越えた仲である。寝ている間に股間に顔を埋められたりした所で、恥ずかしい事は恥ずかしいがどうという事はない。

しかし、子供じみたいたずらをされては困る。

以前一度、縞模様のない太鼓腹の白い毛に、背中や手足同様に虎縞模様を油性マジックで描き入れられた事があった。

「ん〜…イマイチ」

とは、翌朝、縞模様が書き込まれたヒロの出っ腹を見つめてしきりに首を捻っていた犯人の弁。

悪質極まりない事に、よりによって油性マジックで縞模様を描き入れられたヒロからすれば、イマイチどころでは当然無かっ

た。

出勤時間が迫って洗い落としている暇が無かったヒロは、ほんのりインク臭い腹を色つきのワイシャツでカバーし、一日を

乗り切らねばなかったのである。

「何故油性マジックで描いた!?いやそれ以前に何故描いた!?」

と、着替えながら詰め寄ったヒロに、

「水性だと落ちて布団が汚れるから。あと、お腹にも縞々が入れば新鮮かなぁと」

朝食の後片づけをしながら、カズは涼しい顔でそう応じていた。

…と、そんな事が時折あるので悪戯を警戒したヒロは、突然うさんくさい物でも見るような目つきになってカズを見つめる。

「カズ、本当は何があった?そろそろ話せ」

そして自分を安心させろ。言外にそう漂わせて訊ねた大虎に、細面の狐はニンマリ笑いかける。

「ヒロ、もうすぐ私たちがつきあい始めて一年経つんだよ?気付いてた?」

当然気付いている。それどころか記念に何かしようかとずっと考えていた。…とは言わず、ヒロは動揺を押し隠した仏頂面

で頷く。

「つまり、少し早いがその祝い…と?」

「ん〜、まぁ前哨戦かな?お祝いはねぇ、別の事考えてたりするんだけど…」

「別の事?」

再び訊ねたヒロに、カズはニーッと歯を剥いて笑って見せる。

「そう!んじゃ公表しちゃいましょーっ!」

居住まいを正し、コホンッと咳払いしたカズは、指先を伸ばしてビシッと挙手する。

「付き合い始めて一年経ちました記念!って事で、旅行を計画したいと思います!できれば今月中にっ!賛成のひとっ!」

「…は?」

「賛成のひとーっ!?」

「待て待て待てそう結論を急ぐなカズ」

ぐっと身を乗り出して繰り返すカズを片手を上げて制し、大虎は顔を顰める。

「〆切はどうした?確か今月中の物があったんじゃなかったか?それに五月の連休明けにも雑誌掲載用の短編が…」

「おや?へぇ〜…、私のスケジュール、ちゃんと押さえてくれてるんだ?俺知〜らな〜い、みたいな顔と態度してるくせに」

ぐっ…と言葉に詰まったヒロに、

(ふふ〜ん!ちゃ〜んと気にしてくれてるんじゃない?あとでつつく材料にしよ〜っと)

カズはそんな事を考えながら、ニマ〜っと意地の悪い笑みを向けた。

「ま、そっちの方はご心配なくっ!短編は書き出しで勢いが付いたからもう草稿上がったし、今月〆切の分はほぼ完成してて、

半月余裕を持って出せるから。実は前々から予定詰めて、準備を整えてたんだよねぇ」

ぽかんと口を開けたヒロは、先月からカズの夜更かしが増えていた事に気づく。

自分に都合を訊かず、断り一つ入れなかったとはいえ、その入念な準備から、よほど楽しみにしていたのだろうという事は

覗えた。

(…俺の方は…何とかなるか…。このためにこっそり頑張っていたんだろうし、断るのもちょっと…、なぁ…)

ヒロは口元をほんの少し歪めて微苦笑すると、期待を込めてじっと見つめて来る恋人に尋ねる。

「行き先は、もう決めてあるのか?」

「やったーっ!」

承諾の意を込めたヒロの質問を受けて、カズは拳を握った両腕を天へ突き上げ、喜びを全身で表現した。



快晴であった。

春の空は雲一つ無く、太陽はカッと照り付ける。

ドライブスルーの若い女性は、こぢんまりとして可愛い黄色の軽自動車の運転席を見て、若干腰が引け気味になっている。

それもそのはず、運転席に巨体を押し込めているサングラスをかけた仏頂面の太った虎は…やたらとでかい上に人相が悪い。

ドライバー役のヒロは、日差し避け兼目元隠しのサングラスを太い鼻梁に乗せており、口をへの字にしている。

ゆるむ目元をサングラスで隠し、ゆるむ口元を意図的に引き締める事で、その仏頂面は普段にも増して不機嫌そうに見えた。

ヒロがそんな努力をしなければならないほど、カズは旅行を喜び、すこぶる機嫌が良かったのである。

「お昼はさ、鰻食べようね!おいしいって評判のお店があるんだぁ!」

助手席の狐は財布から小銭を抜き出して代金を用意しつつ、にこにことヒロに話しかけた。

遅めの朝食を今から食べるというのに、早くも昼飯の話をし始めた恋人に、ヒロはつられて機嫌が良くなるのをぐっと堪え、

「ああ」と短く返事をする。

嬉しそうなカズを見ているだけで幸せな気分になる。これは重症だと自覚しながらも、ヒロは努めて仏頂面を作り続けた。

ヒロはハンドルの角度を大きく上へずらし、シートを後ろに引いて座っている。

そうしなければ並外れて太い腿がハンドルの下部を擦るだけでなく、大きく突き出た腹が腕の動きの邪魔になって、操作に

支障を来たすのである。

事実、カズならば抵抗無く乗れる標準スペースの設定では、半身だけ乗り入れるのもやっとの有様。幅も厚みもある大虎は、

横で吹き出されてやや屈辱を感じたものである。

なお、ヒロには不釣り合いに小さいこの黄色い軽、実はカズの所有物。

アパートには駐車場があったのだが、ヒロは車を所持しておらず、カズも同様であった。

丁度良いのでこの旅行と今後の外出の為にと、一目惚れした中古車を購入したカズだったが、

「私ペーパードライバーだから、運転はよろしくヒロ」

と、今回は運転役を恋人に丸投げしている。

売れっ子作家で大金持ちのくせに、何故中古車を?と首を傾げたヒロだったが、カズ曰く「安いに超した事はないじゃない」

との事。

考えても見ればカズはほとんど贅沢をしない。ヒロの為にやや高い食材を買う程度で、膨大な印税収入などは大半を貯金し

ている。

「ぱーっと使えば良いだろうに。宝の持ち腐れだろう?それだと」

と、かつてヒロは言ったものだが、

「ぱーっと、何に使えばいいの?」

と問われて返答に窮した。

良くも悪くも、ヒロもカズ本人も定規が世間様一般のレベルなので、年に数千万単位で入って来る金の使い道が思い浮かば

ないのである。

安アパートの暮らしで満足できてしまうあたり、根っからセレブにほど遠い二人は、この時点では予想もしていない。

数年後、カズの作品が再評価されてブームを巻き起こし、漫画化や映画化、アニメ化されて知名度をさらに上げ、収入が倍

増する事など。

走り出した車の中、ハンバーガーを片手にハンドルを繰りながら、ヒロは思いを馳せた。

この旅行の目的地、カズの故郷である星陵ヶ丘という街について。



カズの故郷に着いた二人は、見物に先駆けてまず地元の老舗で鰻重を食い、精を付けた。

河馬の夫婦と舅が営む店の特上鰻重は、味もボリュームも極上で、ヒロも大いに満足する。

「両親が元気だった頃はね、最低でも年に一度、土用の丑の日には必ずここに来てたんだぁ」

店主達もカズの事を覚えていたらしく、狐と河馬は親しげに笑いあい、思い出話に花を咲かせた。

デザートのお汁粉を楽しみながら、会話の終わりを静かに待ったヒロは、厨房の横手側にあるドアから、河馬の男の子が顔

を覗かせている事に気付いた。

男の子もヒロの視線に気が付いたのか、ペコッと会釈する。

丸い子供であった。顔立ちを見るにおそらく十歳にもなっていないのだろうが、歳の割に大柄で、実に河馬らしい太くて丸

いボリュームのある体躯をしている。

男の子はどうやら店の子で、親か祖父に用事があるようなのだが、カズとの話に夢中になっていて誰も気付いていない。

ヒロが目配せし、目で示された男の子にカズが気付くと、連鎖的に河馬店主達も男の子に視線を向けた。

「ああ、ごめんねぇジュウタロウ。母さんったらお昼あてがっていなかったねぇ」

河馬婦人が慌てて奥へ引っ込んでいき、男の子はヒロとカズにぺこりと会釈してドアの奥に消える。

「それにしてもでっかい子だねぇ。おっきくなったらヒロみたいになるのかなぁ?」

感心すらしているような狐の呟きを、大虎はさらりと無視した。



「でかい建物がずいぶんと多いな。アパートやマンションか?」

市街地を二分する川、その河口にかかった大きな橋の歩道に上ったヒロは、街の景色を見てそう感想を漏らす。

街並みを見遣る二人の背後には、春の陽光で煌めく日本海が広がっていた。

「う〜ん…、元々はホテルとして建てられた物が殆どかな?観光客目当てで、高級ホテルからビジネスホテルまで沢山建てら

れたんだけれどねぇ…」

カズは橋の上から街を眺め、点在する高層建築物を、「あれもこれもそれも」と次々指さして行く。

「昔、当時の市長が提唱した大開発計画が持ち上がった時、熱烈なラブコールも実を結ばずに、折悪くバブルが弾けて大手レ

ジャー企業の誘致に悉く失敗してね。県内最高峰観光地化政策は大失敗。競艇場を作る計画まであったそうだけど、これは住

民が派手に反対運動を展開して立ち消えになったんだ。兵共が夢の傷跡…とでも言うべきかな?こぞってホテルやら旅館やら

建てた地元の大金持ち達は、元を取るどころかそれらの建物の処分に困った。維持するだけで負担になるからねぇ。で、結局

は地元の業者やちょっとしたお金持ちに安値で売り払ったりしてダメージ軽減を計って、今じゃあその殆どがマンションやア

パートになってるよ」

「さすが地元。詳しいな」

「ん〜…、当時はそう詳しくも無かったんだけれどねぇ実は。引っ越してから改めて、描く題材として調べたんだ」

「小説の題材に?」

題材としてはいかにも地味ではあるまいか?ヒロのそんな疑問は、頷いたカズが続けた説明で氷解した。

「期待がかけられた開発計画の失敗と、結果的には古い街の有り様を止める事に落ち着いた住民感情。…街の在り方としては

リアルだよ。騒ぐだけ騒いでみたけれど、結局どうにも変われなかった…っていうのはね」

「リアル、か」

「うん。リアルで重厚。例えば、地味な人間関係に重点を置いた長編を一本こしらえるなら、これぐらい地味な地方都市はキャ

ンパスとして申し分ないね」

ヒロは感心して「ほぉ」と声を漏らすが、

「ま、タカミ先生の受け売りなんだけどね〜。びっくりするほど役立ってる」

と、カズは耳を倒して苦笑いした。

「元気だろうか?タカミさん」

「うん。この間電話で話したけど、すこぶる元気。ただ、担当編集さんが変わってから仕事が増えて、部屋にこもって書いて

る事が多くなったから、また腰周りに肉が付いたって嘆いてたけどねぇ。作家ってほら、職業柄、運動不足になりやすいから」

「タカミさんはまぁ行き過ぎの感が否めないが、カズはちっとも太らんな?」

「体質体質。…て言うか、行き過ぎの感が否めないとかヒロが言っちゃうんだぁ?」

意地悪くにやついたカズに脇腹を強めにブニッとつつかれ、ヒロは「うっ!」と呻く。

「さぁて!あんまり待たせてもあれだし、お墓参り行こーっ!」

まるで遊園地にでも行く子供のような笑顔で、カズは拳を天へ突き上げた。

良い思い出ばかりではないだろうに、悲しそうなそぶりも寂しそうな様子も全く見せない狐に、大虎は顎を引いて頷く。

そしてふと思った。早くに逝ってしまったカズの両親は、あの世からどんな気分で自分達を眺めているのだろうか?と。



カズの事は任せて下さい。きっと幸せにします。

そんな事を墓前で誓ったものの、自分が思って良いのだろうか?…と、複雑な心持ちで真剣に考えているヒロは、

「はーやーくーっ!」

坂道のかなり下の方で手を振るカズを、息を切らせながら追いかける。

体重があるヒロは、登りはともかく下りは楽かというと、実はそうでもない。

しっかり踏み締めて降りなければならないため、登りで酷使した足がさらに疲れる上に、ドスッと足を踏み下ろす都度ぽよ

んぽよんと腹が弾み、いささか情けない気分になる。

対照的に身軽なカズは、辺りに人気が無い事を幸いに、わざわざ戻って来てはヒロの手を引いたり、むっちりと肉のついた

背を押したりする。

「こ、これは…、筋肉痛になるなぁ…!」

息を弾ませつつ言う大虎に、細身の狐は呆れたような苦笑いを向けた。

「400メートルも無いんじゃない?」

カズの言葉通り、墓から駐車場までは380メートル程度。ただし舗装されていない砂利道だが。

カズの両親の墓は、小高い山の上の霊園にあった。何区かに分けられた中でも最も高い位置にあり、駐車場から墓までの坂

道もそれなりに長い。

「運動不足ですよ〜?ぷよぷよせんせ〜」

「一体誰が肥育しているんだ?誰が!」

自棄になって突き出た腹をポンポンと叩いて応じたヒロは、笑いを噛み殺すカズを眺めながら首を傾げた。

「そういえば…、カズは結構、フットワークは軽いよな?スポーツは何もしていなかったのに」

「ん?うん。体軽いから?それともスタミナあるのかなぁ?昔からなんだよねぇ」

それを聞いたヒロは、「羨ましい…」と口の中で呟く。

学生時代から文学少年だったカズは、技術的な事はともかく、何故か運動神経もそこそこ良く持久力もある。スポーツに打

ち込んだ事は皆無なのだが。

やがて駐車場までたどり着くと、車に乗り込んだカズは、

「じゃあ、和尚さんに挨拶したら、次は私の母校!」

と、前方を指さした。が、とりあえず前を指さしただけで、実際にはその方向に母校は無い。墓場があるだけである。

「観光名所巡りじゃないのか?」

「先に話したじゃない?観光地化失敗してるんだってばこの街は。観光スポットなんてあんまり無いよ」

なら何故この街へ?そう思ったものの、ヒロは口に出さなかった。

カズの故郷を見て回るのは、ヒロにとっては楽しかったから。



墓参りに続いてカズの家が檀家になっている寺を訪れ、住職に挨拶を済ませた後、二人を乗せた軽自動車は広大な敷地を有

する高校にやって来た。

校門から正面の眺めを満喫した後、軽自動車は高い塀に沿ってゆっくり裏手に向かって走る。敷地をぐるりと回り込みなが

ら、ハンドルを握るヒロは嘆息した。

「つくづくでかい学校だな。驚いた」

「でしょう?」

助手席のカズは自慢げに胸を張る。

カズの母校はとにかく広く、そして校舎のみならず別棟の一つ一つが大きい。

「大学かここは?」

「あ〜、私達の大学、丁度このぐらいの敷地面積だったかもね?」

遠い曲がり角を眺めながらハンドルを握るヒロが呻くと、カズが楽しげにけらけらと笑った。

やがて車は裏門付近に止まり、助手席からいち早く降りたカズは、学校の裏手にそびえる山を指さしながら、登り口に歩み

寄った。

「ここ、シーズンには桜並木が綺麗なんだよ?」

遅れて降りたヒロは、桜並木と山頂へ続く道を見遣りつつ、カズの後をゆっくり追う。

「この両脇の桜は山頂まで続いているのか?開花している間は、さぞ鮮やかだろうな」

「それはもう!ヒロにも見せてあげたいなぁ、あの綺麗な風景!次は咲いている期間内に来られると良いねー」

登り口でヒロが横に並ぶと、カズは懐かしそうに山頂を見上げた。

思い出に浸る恋人の邪魔をしないよう、ヒロはしばし黙って坂道を見上げる。

葉桜に両脇を固められた長い長い登山道は、緩やかに曲がりくねって途中から見えなくなっていた。

「…ところで、ここも登るのか?」

かなり長そうな坂道を目で辿り、げんなりした顔で尋ねたヒロの前で、カズは行く手を遮るように両手を広げ、「駄目駄目!

マズイよそれは!」と慌てた様子で声を上げた。

「ここの山、神様を祭ってるの!」

「神様?…ああ、縁切りの神様とか、そういう神様がか?」

「ううん。朔夜星見姫(さくやのほしみひめ)って女神様で、恋愛成就の神様」

一度納得しかけたヒロは、しかしそう続いたカズの返答で首を捻った。

「恋愛成就?なら何故駄目なんだ?」

「御利益があるのは結ばれるまでで、成立しちゃってるカップルには御利益無いの。それどころか、やきもちやいた神様が別

れさせちゃうって言い伝えが…」

「…極端な神様だな…」

「この辺じゃ結構有名なんだよー。一緒にこの山道を登ったカップルは、数日中に破局を迎えるって…。別れたいカップルの

縁切りにも使われるんだから」

「ほお…」

神も鋏も使いよう。ひとというものは何とも身勝手で逞しいと、ヒロは感心した。

毒を薬に、薬を毒に、人類が品も物事も巧みに利用して繁栄して来た事は、生徒達に化学を教える肥満虎にはよく分かって

いる。

「だ〜か〜ら〜、この辺まで!それならセーフ!」

カズは立ち並ぶ桜の一本に歩み寄り、ごつごつした幹をポンっと叩いた。

「何が基準でこの辺までなんだ?」

「少なくとも、この辺ならたぶん登った内に入らないから」

アバウトな、しかしいかにもカズらしい物言いに思わず苦笑し、ヒロは桜に歩み寄る。そしてすっかり葉桜となったその木

を見上げ、考えた。

一体いつからだっただろうか?と。

毎日のように駅前の桜の下でカズと待ち合わせているせいか、いつの間にか桜が嫌いではなくなっていた。

それどころか、気付かぬ間に好きにすらなりかけている。

(カズの桜好きが伝染したかな…。それとも、同じサクラ繋がりでか?)

繰り返し咲き誇り、その都度儚く散る春の象徴。それを姓に冠する恋人を見遣り、ヒロは思う。

桜の花びらとは違う。はつらつでマイペースが過ぎるカズは、おそらくかなり長生きするだろう、と。

「殺しても死にそうに無いからな…」

「え?なになに?」

思わず口から零れた呟きに食い付いてきたカズに、ヒロはそっけなく「何でもない」と応じる。

(まぁ、客観的に見て俺の方が早死にするだろうな。こんな体だし、糖尿か何かで体調を崩して。…あるいはカズの悪戯でス

トレスを溜めて早死にするかもしれんしなぁ…)

「何しみじみ桜見上げてるの?」

神妙な顔つきで枝葉を見あげていたヒロは、付きすぎた脂肪に埋没して真ん丸い喉仏を震わせる。

「カズ」

「うん?」

「強く生きろよ」

「…何それ?」

「人生は長く険しく、山あり谷ありだ。負けるなよ」

「…大丈夫ヒロ?もしかして、脳みそもお腹みたいにプニプニになってきた…?」

「違う。俺が死んでも、強く生きろと言っているだけだ」

「え〜?何?お墓参り後でセンチになっちゃってるの?縁起でもないなぁ…」

顔を顰めたカズは、しかし直後に表情を引き締めた。

「ヒロ…。もしかして、何かの検査で良くない結果が出たの?」

「いや。「ふとりすぎ・要治療」の表記以外は上々だ」

その答えを聞いたカズはホッと胸を撫で下ろす。

「焦らせないでよぉ!てっきり肺に影とか何とかヤバそうな物でも見つかったのかと思っちゃったじゃない!」

「済まん済まん。まぁ、悪いといえば、他には若干視力が落ちてきている程度だな」

ヒロが苦笑いしながら詫びると、カズは首を捻った。

「視力が?」

「ああ。ここ三年ほどでずいぶん悪くなった」

少し考えた後、細身の狐はヒロの真正面に立ち、間近から顔を見上げた。

ヒロの太鼓腹にカズの鳩尾が密着する、キスでもせびるような近づき具合である。カーッと顔を熱くさせた肥満虎が「ど、

どうした?」と尋ねると、難しい顔をしていた細身の狐は「そっか…」と呟いた。

「ヒロの目つきと顔つき、どんどん険しくなって来るなぁとは思ってたけど…、そうだったんだ…」

「…ん?何がだ?」

「見え辛いんでしょ?それで睨むような目つきで、渋い顔になってるんだ」

ヒロは一度きょとんとした後、「ああ…」と納得したように頷いた。

「それは、あるかもしれんな…」

「でしょ?前より目が疲れやすくなったりとかしてない?その内眼鏡とか考えなきゃいけないかもねぇ」

「眼鏡か…」

眼鏡を着用した自分の顔を想像し、乗り気でないヒロは渋い顔で呟いた。



学校の教師達に挨拶し、世話になっている担当編集者の実家に土産を届けた後、二人を乗せた黄色い車は帰路に付いた。

帰りに一泊、それからのんびり半日過ごして帰宅というのが、二人の旅行の後半戦である。

「これは…立派だなぁ…!」

運転席で身を乗り出し、徐々に迫ってくる旅館の全貌を丸くした目に映し、ヒロは嘆息する。

岩国屋旅館。

カズが予約を入れていた老舗旅館は、大虎の予想を遥かに上回る、まるで戦国時代の城のような、重厚な建造物であった。

若々しい緑に抱かれながら山道を走っている最中、山間にぬぅっと突如現れるその巨大建造物は、事前に知識を得ていなかっ

たヒロをたいそう驚かせた。

「歴史が古い、由緒正しい温泉旅館なんだよ〜。江戸時代には大名が湯治に来ていたんだって。昔は温泉宿だったんだけど、

今じゃ道も整備されてるからねぇ。こっちへ頻繁に旅行する人は、まず一度は足を運んでいるよ。でも…」

カズは言葉を切り、いかにも楽しくて仕方が無いと言うように満面の笑みを浮べた。

「実は、宿泊は私も初めてっ!暫く前からね、ヒロと一緒に来たいなぁ〜って思ってたんだぁ〜っ!」

「そうか」

ヒロの答えはそっけないが、実はまんざらでもない。

温泉は確かに楽しみなのだが、それ以上にカズの嬉しそうな様子で満足していた。



カズ曰く、「適正な贅沢」という事で、彼が予約していた部屋は眺めが良く間取りの広い、快適な一室であった。

十二畳の部屋には黒塗りのテーブルに大型テレビ、押入れの襖には夕日を浴びて赤々と染まった富士山が勇壮に描かれてお

り、床の間には鷲の掛け軸。

専用小露天風呂と庭がしつらえてあるベランダから望めるのは、緩やかな山並みが幾重にも折り重なった、地上十五階から

の見事な景観。

ベランダを覗ける窓際にはソファーセットがあり、二人が向き合って座れるようになっている。

「世間と日常から切り離されたような気分になる」

玉砂利の敷かれたベランダから外を覗き、ヒロは呟く。

山中の高所を吹き抜ける風は、湿り気が少なく涼やか。肥満虎は清涼感溢れるその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「ヒロぉー。夕飯までちょっと時間あるし、散歩して来ない?」

声を掛けられて振り向けば、ベルトポーチを着用している細身の狐が、部屋からの上り口で耳と尻尾をパタパタさせている。

ヒロは一度眼下に視線を向け、それから振り向いた。

「…いや、止めておく…」

来る時にも思ったが、旅館周辺は坂道だらけで、足が疲れそうな気がした。

「たまには運動しないとブクブクいくよ〜?」

へらへらと笑いながらからかったカズは、ジロリと睨まれて部屋に引っ込む。

「んじゃちょっとだけ見てきま〜す!ヒロ、運転ご苦労さんっ。ゆっくりしててね〜っ!」

元気の良い声が遠ざかり、やがてドアの開閉音が響く。

一人残されたヒロは、のっそりと室内に戻って畳の上にどすんと尻を落とし、

「不慣れな車と坂道で、足がパンパンだ…。明日明後日は来るだろうなぁ、筋肉痛…」

顔を顰めて呟きながら、ふくらはぎを揉み始めた。



その十数分後、細身の狐は、

「こ〜ぶ〜な〜釣〜りし〜、か〜の〜か〜わ〜♪」

坂道の多い、石垣や生垣が並ぶ趣のある小道を、小声で歌いながらのんびりと歩いていた。

古くは山越えの宿場町だったこの一帯は、現在では温泉宿が並ぶ山間の観光地としても知られるようになった。

それでも史跡や石垣の多い入り組んだ路地などは意図的に整備と開発から外され、在りし日に旅人達が足を休めた憩いの風

を留め、当時を偲ばせる風景をそこかしこに残している。

新鮮な空気で創作意欲が刺激されるのか、時折思い出したように足と目を止めては、取り出した手帳にさらさらと何かを書

留めるカズ。

「宿場町かぁ…。そういえば、タカミ先生はマタギ物書いたとき、ひたすら山と温泉地を梯子したって言ってたっけ…」

ぶつぶつと呟きながらいずれ作品の材料となるかもしれない眺めと香り、音を物色しつつ、カズは細い路地を進む。

買い物などを目当てにしている訳ではない狐の足は、次第に、町の空気が静かに溜まる方へと、無意識に歩を刻んでゆく。

他の観光客とも擦れ違わなくなった頃、宿泊する旅館が日を遮り、陰となったそこで、カズは顔を上げて天を見あげた。

周辺では既に店も宿もなくなり、畑などを有する民家がぽつぽつと並んでいる。

(そろそろ戻ろうかな…)

そんな事を考え始めたカズの耳が、風などとは明らかに違う音を捉えてピクッと動いた。

擦れる音。そして打つ音。

気になって音の出所に顔を向け、歩き出したカズは、背伸びして生垣の向こうを覗いてみた。

「おやまぁ…」

その光景を目にした狐は、両目を大きくする。

恐らく十歳にもなっていないだろう、柔道着姿の人間の男の子が、庭木に巻いた帯を掴み、一心不乱に背負い投げの真似事

をしていた。

やがて、覗いている狐に気付いたいがぐり頭の男の子は、あどけない顔をカズに向ける。

「こんにちは。がんばってるねー」

見慣れない大人を目にして訝るような表情をした男の子だったが、カズがにこやかに笑いかけると、警戒心を消して笑い返

した。

「柔道のお稽古?道場とかに通ってるのかな?」

「はい。こうみんかんのじゅうどうきょうしつで、おととしからならってます」

男の子は意外にも大人びた仕草で会釈しつつ答え、カズを驚かせる。

「おどろいた。君、しっかりしてるねぇ」

男の子は小さく笑うと、照れているらしく、ふるふるっと首を横に振る。

「それで、今は自主練…えぇと、一人でお稽古中かな?真面目だねぇ。真面目でしっかりしてる」

「ううん。いっぱいれんしゅうしないと、たりないからです」

「たりない?練習が?」

カズが問うと、男の子は言葉を捜すようにして、考え込んでいるような顔をする。

「えーと…、れんしゅうとか、つよさとかが、たりないんです」

「う〜んと…。強くなるためのお稽古が、足りないってことかな?」

男の子は「はい」と頷く。

「…ぼく、まけてばかりなんです。みんなよりちからもよわいし、あしもおそいし、かてないし…。まけてばっかりだから、

いつもまけてるから、だからいっぱいれんしゅうするんです」

いがぐり頭の男の子は、何か悔しい事でも思い出したのか、体の脇で両手をぎゅっと握った。

「君は強い子だね」

男の子の悔しげな様子を見たカズは、瞑っているように見えるほど目を細くし、ニーッと笑った。

「好きなんだね?柔道。悔しくて、一人で練習して皆に追いつきたいぐらい。…君は強いねぇ」

男の子はちょっとびっくりしたように目を大きくしたが、やがて照れ臭そうな笑みを浮かべると、顔を少し俯けて、いがぐ

り頭をガリガリと掻いた。

「…そんなこといわれたの…、はじめてです…」

「好きな事を一生懸命にやれる。それは結構当り前。…けれど、好きでもなかなか結果が出せない事を、それでも一生懸命に

やれる…、いつまでも好きでいられる…、それって、心が強くなきゃできないよ」

「つよくないです。ぼくは、みんなのなかでいちばんよわいし…」

大人びた苦笑いをした男の子に、カズは柔和な笑みを向けたまま応じた。

「なら、「諦めの悪さが人一倍強い」って事で!」

「…へんなの…。なんですか?それ」

「ん〜、ちょっと難しかったかな?ニシシッ!」

カズはニンマリ顔を緩ませ、男の子は困惑顔で首を捻った。



机の上に並んだ食器は、乗せていた料理を片付けられ、身軽になったその姿を晒している。

「う〜!満足満足!」

畳の上にころっと仰向けになり、カズは満足げな表情で両腕を頭上へ伸ばし、大きく伸びをした。

一方、机を挟んで向かい側に座るヒロは、お猪口に手酌で冷酒を注ぎ、ちびりとやりながら、珍しくダレているカズを眺め

ている。

二人とも食事が運ばれて来る前に旅館の浴衣に着替えており、すっかりくつろいだ格好になっている。

「ニシシッ!ヒロってばお相撲さんみたいだねー!」

などと、着用したとたんに浴衣姿をからかわれて膨れた肥満虎だったが、しかし間を置かずに運ばれてきた、山の幸をふん

だんに活かした豪勢かつ手の込んだ料理で機嫌を治している。

(普段は飯の後、片付けまでさせていたからな…。たまにはこうしてゴロゴロして貰うのも良いだろう)

ほろ酔い気分でそんな事を考えながら徳利を空にし、ヒロはお猪口を置く。

その気配に反応してか、「よっ!」と腹筋の要領で身を起こしたカズは、恋人と向き合って同時に頭を下げた。

『ご馳走様でした』

顔を上げたカズは、「飲み足りないなら頼もうか?」と尋ねるが、ヒロは首を横に振る。

「いや、明日に酒が残っても困るし、温泉にも浸かるんだ。これで止めておく」

常はビール派のヒロである。日本酒でペースを崩して二日酔いにでもなったら困るので、適当な所で切り上げる事にした。

そうでなくとも、少食かつ酒もあまり飲まないカズは、料理を半分は残している上に、序盤だけヒロに付き合ってお猪口で

一杯飲んだだけで、大半の酒と料理を肥満虎に謙譲している。

「カズ」

「うん?」

食後の茶を淹れている狐は、恋人の呼びかけに顔も上げずに応じた。が、ヒロの方はじっとカズの顔を見つめている。

「最近、前にも増して食わなくなったんじゃないか?体調が悪いとか、そういう事は無いか?」

「ん?ん〜…、言われてみればそう?けど、痛いとかだるいとか、そういうのは特に無いかなぁ」

窺うように目を細めているヒロに、湯飲みから視線を外したカズが、「…あ、原因は…、あれかも?」と、思案しているよ

うな顔で訴えた。

「何だ?急ぎのスケジュールが負担で食欲不振とか…」

「ううん。たぶん原因は私のほうじゃなくて、ヒロ」

「俺?」

眉根を寄せたヒロに、真面目腐った顔でカズは頷く。

「目の前で豪快にガフガフ食べられるから、見てるだけでお腹一杯になっちゃうんだよ、きっと」

「ほお…」

ぶすっとふて腐れたような顔になり、心配して損したと言わんばかりに、ごろっと仰向けに体を投げ出す肥満虎。

満腹の心地良さに目を閉じ、たぷんと揺れた出っ腹を撫で、満足げにポンポンと叩いたヒロは、耳をくすぐる衣擦れの音で

薄く目を開けた。

「温泉、少し休んでからにする?」

立ち上がって脇に来たカズが、膝に手を当てて腰を折り、真上から覗き込みながらヒロに尋ねた。

「そうだな。…今はちょっと…」

「ニシシッ!動きたくない気分?」

「まあそんな所だ…。満腹で…」

「それじゃあちょっと休憩ターイム!じゃあ、お手伝いしましょう」

「手伝い?何の?」

訝しげに眉根を寄せたヒロの腹に、カズは「よっと…」と右足を乗せる。

「何をするんだコラコラコラ!」

「お腹が早くこなれるように、消化促進のお手伝いっ!」

涼しい顔で応じた細身の狐は、肥満虎のこんもりと山になった腹を足で揺すり始める。

腹どころか、全身にむっちりと乗った脂肪が、カズの足が与える振動でタプタプと震える。

頬肉や顎まで震わせながら、ヒロはしかめっ面で声を上げた。

「こ、コラっ!くすぐったいだろう!何が消化促進だ!」

「こうやって揺すってやったら、胃が刺激されて、ついでにお腹の中でシャッフルされて、早く消化されるはず!…知らない

けど」

「知らないでそんなに自信満々なのか!?」

「何事も、信じるって大事だよねっ!」

いつもながら回答がおかしい。さらに何か言い募ろうと口を開きかけたヒロだったが、

「ヒロ!」

唐突に足を止めたカズが急に声を上げ、ビクッとする。

細身の狐が浮かべている真剣な表情を目にし、「どうした?」と恐る恐る尋ねると、

「私、今大変な事に気付いちゃった!」

片足立ちで右足を軽く肥満虎の太鼓腹に乗せたままのカズは、器用にバランスを保ったその状態で、やや興奮気味に言う。

「足の裏で味わうと、ヒロのお腹の感触、ものっ…すごく新鮮!」

「………」

ぶすっと膨れたヒロの仏頂面から視線を外し、カズは真剣な顔で足の指を動かした。

「ほら!ほらっ!モニモニのムニムニでプニップニ!すっご〜い!足触り良ぃ〜っ!気持ち良ぃ〜っ!」

「それは良かったな…」

呆れ混じりに吐き捨てたヒロは、しかし直後に「う…?」と妙な声を上げる。

「あれ?ヒロも気持ち良いの?」

「ち、ちがっ…!

むきになって反論しようとしたヒロは、しかし腹に押し当てられた足から波紋のように全身に広がり脂肪を揺さぶる振動で、

こそばゆい心地良さを感じていた。

それは、マッサージ器の振動で全身が揺すられる、くすぐったくも心地良い感覚に似ている。

しかも「足蹴にされる」という普段はそうそう無いシチュエーションで強い羞恥を覚えており、その恥ずかしいながらもど

こか新鮮な感覚が、拒絶すべきかされるがままになって置こうかという微妙な心理状態にヒロを陥らせている。

そんな肥満虎の普段はあまり見られない揺らぎを、カズは足を動かしながら物珍しそうに観察した。

建前上嫌がりたいところだが、しかし実はあまり止めて欲しくない。嫌よ嫌よも好きの内と言うが、

(嫌と言って止められたらどうしよう?それはちょっと惜しい…。かと言って続けてくれと頼むのも…)

肥満虎は今、そんな複雑な気分である。

そんなヒロの微妙な胸の内を敏感に察し、カズはほくそ笑んだ。

(前々から思ってたけど、ヒロって結構ウケ気質かも?態度と見てくれは攻め気質っぽいけど、実はちょっとMっ子?)

細身の狐はそんな事を考え、付き合いが長いが故に知り尽くしている肥満虎の性格を鑑みた行動に出た。

「嫌かなぁヒロ?嫌そーな顔してるよねぇ〜…。でもぉ〜、気持ち良いから嫌がっても止めてあげな〜い!」

「な!?こ、こらカズ!」

「たまにはいいでしょ〜?旅行なんだし、特別なんだし、わがまま聞いてよ〜」

「…いつだってわがまま言いたい放題のくせに…」

ヒロは仏頂面を装い、ふて腐れた態度で体から力を抜いた。もうどうにでもなれと、体で表現し、体の横に流した太い尻尾

で畳をたふったふっと叩く。

止めないで欲しいと言うのは癪だが、このようにカズが言うのであれば、「どうしてもと言うから…」と言い訳になる。

身を任せてされるがままになり、しかしそれでも抵抗の形として不機嫌そうな表情を作って目を閉じている素直でない恋人

の顔を見下ろしながら、カズはクスッと小さく笑う。

カズ本人の弁によれば好奇心と探究心がブレンドされた物、ヒロに言わせれば子供染みた性質の悪い悪戯心が、狐の中でむ

くむくと大きくなる。

しばし足で腹を踏んでいたカズは、ちらりと視線を動かし、その先めがけておもむろに足を移動させた。

その唐突なコンタクトに、こそばゆくも心地良い振動に身を任せていた肥満虎は、「うっ!?」と呻いて体を浮かせた。尻

を支点に足と上体を浮かす
V字バランスの格好である。

その体勢になったのには訳があった。身を任せきったヒロの隙を突き、姑息に引っ越したカズの足が、ヒロの股間を踏んで

いたのである。

股間に走った感触に対し、反射的に腰を引こうとして叶わなかった結果がこのV字バランスであった。

「か、カズ…!お前っ…!」

頭を畳にどさっと落とし、ギロリと睨んだヒロは、しかし急に妙な顔つきになる。

カズも同様で、不思議そうな顔で自分の足を見下ろしていた。

足裏に、浴衣越しに感じている股間の硬い感触…。それが何なのか当然すぐさま悟ったカズは、

「勃っちゃってるね…」

と、小声で呟いた。

「………」

顔を思い切り横へ向け、視線を合わさないようにしているヒロは、無言を貫く。

そんな肥満虎の様子を見て取り、細身の狐は「ニシシッ!」と笑った。

「なんだか私もウズウズして来ちゃった。ねぇヒロ、しよっか?」



ベランダの露天風呂、かけ湯で体を濡らしたカズは、足を湯につけて風呂の縁に腰掛け、自分に背を向けているヒロを振り

返る。

むっちりした尻の上、横にまで腹が張り出しているそのフォルムは、虎縞模様の達磨のようでもあった。

クスリと小さく笑ってヒロに歩み寄ったカズは、大きな恋人の肩に腕を回し、背中にぴたりと密着する。

ビクッと身を硬くしたヒロの脚が、パシャっと波飛沫を立て、湯に波紋を広げた。

肩に顎を乗せ、胸の前に出した腕を軽く組んでいるカズに、ヒロは気遣うように尋ねた。

「寒く…ないか…?」

「ううん、平気…。それに、お布団まだだし、やるならここの方が…。ヒロは寒くない?」

「大丈夫だ」

頷いた大虎は、思い出したように付け加え、スパンっと腹を叩いて揺らす。

「脂肪が厚いからな」

「………ヒロ?」

「ん?」

「酔ってる?」

恥を忍んで気の利いた自虐的ジョークを飛ばしたつもりのヒロは、カズに真面目に訊かれて鼻白んだ。

「しらふだ。冗談だ。悪いか。俺が冗談を言ったら」

「いやそこまでは言ってないけどー…。どうしたの急に?冗談そのものも珍しいけど、自虐ネタなんて持ち出して?」

「たまにはな…」

「めっずらしーのっ!ニシシッ!ね、ヒロ?こっち向いて」

照れ隠しのぶすっとした顔で応じたヒロを、そっと身を離したカズはクスクス笑いながら促した。

しぶしぶといった体で尻を浮かせ、湯船から脚を抜いて180度反転し、自分に向き直ったヒロの顔に、カズは少し背を曲

げながら顔を寄せる。

「突発旅行。付き合ってくれてありがとね?ヒロ」

間近で微笑んだカズに、無言で頷いたヒロは、「…実は…」と、言い難そうにゴモゴモ口ごもりつつ告げる。

「本当は…、付き合い始めて一年の記念の事…、俺もずっと考えていた…」

「え…?」

意外そうな声を漏らしたカズに、ヒロは太い指で鼻の頭を掻きながら続ける。

「けれどな…、ずっと考えていたなんて言うのは恥ずかしくて、気にしていないふりをしていた…。それでも、記念に何かす

るべきか…、やるとしたら何をすれば良いか、全く判らなくて、ずっと悩んでいて…。そもそもクリスマスのようなメジャー

なイベントならともかく、こういった記念日などに何かするのもおかしいのかなぁ…などと思ったりも…。そんな心情もあっ

て、相談するのも気恥ずかしいと思っていたそんな時…、お前の方から言い出してくれたから…、内心ホッとした…」

長々ボソボソとこぼし、深いため息をついたヒロは、

「駄目だなぁ俺は…。相談一つまともにできんとは…」

と、眉を八の字にし、自嘲気味に口の端を上げた。

「そんな事無いよ?気にしててくれただけで嬉しい…!」

カズは満面の笑みを浮かべる。いかにも幸せそうな、満ち足りた笑顔を。

「照れ屋さんのヒロっぽいねぇ、気にしててくれたけど、なかなか言い出せなかったってトコは!」

「済まん…」

「謝らなくて良いよ!ヒロは、そういう事に興味ないとばかり思ってたから…、こっそり気にかけてくれていたってだけで、

私はすっごく嬉しいなっ!私はね?逆に、前々から相談なんかしたら反対されるんじゃないかって思ってて…、それであんな

風に、全部決めてから急に切り出したんだぁ…。相談一つまともにできなかったのは、今回はお互い様だね?」

カズは笑みを浮かべたまま、ヒロの唇にマズルの先端を合わせた。

太い首に腕を回し、抱き付いて唇を吸うカズの背に、ヒロの太い腕が回る。

短い口付けを交わした二人は、やがてそっと顔を離すと、鼻先が触れ合うほどの距離で見つめあった。

「…次からは…、恥ずかしがらずになるべく相談する…」

「うん!私も、今度からはちゃんとヒロに相談して計画立てるからっ!」

恥ずかしげな微苦笑を浮べたヒロと、ニッコリ笑ったカズは、再び唇を重ね、今度は長く、濃厚なキスを交わした。



ベランダに造られた庭は玉砂利が敷かれているが、湯船と洗面台周辺だけは足場として石の一枚板が敷かれている。

長い口付けの後、カズはヒロからそっと離れると、そこに跪いて恋人の股間に顔を寄せた。

むっちりと肉がついた肥満虎の股間では、太い逸物が既に硬く屹立している。

すっぽり被った皮の先端からだらしなくよだれすら溢しているソレを、カズが愛おしげに優しく撫で、少し剥いた亀頭を刺

激すると、ヒロは「う…!」と呻き声を漏らした。

縁を掴んで刺激に耐えるヒロの股間で、カズは一心不乱に顔を動かし、いきりたった肉棒に左手を添え、湿らせてゆく。

その間にも空いている右手は背中側から尻に回り、自らの肛門に指を入れ、ほぐし始めていた。

器用に受け入れ態勢を整えるカズの肩に分厚い手を置き、大虎は浅く早い呼吸を繰り返しながら、慈しむように細い華奢な

肩を撫でる。

口で愛撫してくれているカズの鼻先は、ぼよんと突き出た自分の太鼓腹が邪魔になり、ヒロ本人からは見えない。

狐特有のシャープなマズル先端部が、肉棒の付け根にまでむっちり蓄積されている脂肪と柔らかな被毛に埋まっている事は、

感触のみで確認している。

肉棒を根元まで咥え込んだカズの鼻息が、押し付けられたマズル先から股間に吹きつけ、熱くてこそばゆい。

太い逸物を愛しげに咥え込み、入念に愛撫していたカズは、十分に尻がほぐれると、そっと口を離した。

自分の亀頭と恋人の口先が唾液と先走りの混じった透明なアーチを描く様を、ヒロは顔を熱くさせながら眺める。

「そろそろ…、おっけぇ…」

いつもどおりに主導権を握り、率先して四つん這いになろうとしたカズは、しかしヒロに手をつかまれて制止される。

「石の板の上に、膝立ちは痛いだろう」

「じゃあ、仰向けになって正常位でする?」

ヒロは少し考え、ややあってから首を横に振った。

「いや、今日は俺が下になる」

硬い石の板にカズを寝かせるのは、少々気が咎めた。

細身の狐は贅肉が殆ど無い。表面は滑らかだが、石の上ではさぞ痛いだろうとヒロは思ったのである。

さらに、背中まで厚く脂肪がついている自分なら、同じく寝転がっても幾分ましだろうとも考えた。

ヒロのそんな気遣いを察し、カズは嬉しそうに尻尾を揺らす。

先にかけ湯をしたせいで湿っている尻尾の先から、払った筆のように飛沫が飛んだ。

のろのろと寝転がり、仰向けになったヒロは、やはり自分が下で正解だったと確信する。

硬い石の板は寝転がるには少々不適切で、頭の下がゴツゴツと落ち着かない上に、やや冷たかった。

「平気?ヒロ」

「ああ。大丈夫…」

すっかり体を火照らせた二人には、布団が敷かれた後に改めて仕切り直すという選択肢は無かった。

場所が少々不便だろうと、気分は既に高ぶっており、もう引っ込めない。

仰向けになったヒロを跨ぎ、カズはゆっくりと腰を落とした。

「んじゃ、行くよ?」

「お、おう。どんと来い…!」

タチとウケの関係に対し、行くと来るがそこはかとなくおかしい二人。

ヒロの太い逸物を手で押さえて垂直に立てたカズは、そこに向かって腰を沈めてゆく。

充血して硬くなった肉棒を押し下げられる形になったヒロは、その先端にカズの肛門が触れるのを感じた。それがヒクッと

痙攣し、ぐっと亀頭を押して来る。

陰茎が根元に向かって押し込まれるような抵抗を感じた直後、息を止めたカズの尻に、ヒロのソレが飲み込まれ始めた。

ゆっくり、ゆっくり、膝を震わせながら腰を沈めたカズは、やがて根元までヒロ自身を飲み込み、大きく息をつく。

「そ、そういえば…、私が上は、久々?」

「ああ、言われて…みれば…。…んっ!」

カズの肛門がきゅっと締まり、ヒロは低く呻く。

ここしばらくご無沙汰だった為、与えられる刺激にすぐ反応してしまう。

と言うのも、旅行の余裕を作る為に、日夜ハイペースでカタカタとパソコンを叩いていたカズに気を遣ったヒロは、邪魔に

ならないよう早々と寝室に引っ込む日々をしばらく続けていたのである。

男盛りの花盛り、教師とはいえ人の子虎の子年頃の雄。

身を重ねたい恋人が隣室でカタカタやっている中、眠くも無いのに寝室に篭って悶々としていれば様々な事を考え、時には

他人に言えない事も思い浮かぶ。

それでも黙々と頑張っているカズの手前、隣の部屋でこっそり自慰に耽るのも躊躇われ、溜めに溜め込み今日に至る。

対して、カズの方はさほど溜まっていない理由については、各々察して頂きたい。

ゆっくりと腰を動かし始めたカズの下、ヒロは固く冷たい床の感触を背負っているせいか、カズの中の温かみを一層強く感

じている。

徐々に動きを早めて行きながら、カズはやや前屈みになり、ヒロの腹に両手をついて体を支えた。

手の平がムニッと沈み込む、タプタプ揺れる腹は、それでも肉量のせいかそこそこ安定した支点になる。

そして、支点になるだけではなく、ヒロを責める格好の部位にもなる。

腹、特に脇腹が敏感なヒロは、カズがついた手をわきわきと動かすと、「ぐむぅっ!?」と呻いて身悶えした。

同時に腹筋に力が入り、腹中に飲み込んだ肉棒がビクンッと反りを強め、カズはますます気を良くする。

「ヒィ〜ロォ〜…!どぉ?…ふぅ…!気持ち…良いっ…!?」

反り返った太い逸物に、より強く前立腺を刺激され、感じながら、腰を揺するカズは尋ねる。

「んっ…!う、うぅっ…!」

肯定とも呻きともつかない声を漏らしたヒロは、自分の腹の上に手をついているカズの、そのほっそりとした手首を掴んだ。

波打つように揺れる腹に軽く沈んだその手が、意地悪く動いてヒロに羞恥を覚えさせている。

「そ〜れタプタプタプタプ!ユサユサユサユサ!ふぅ…!ニシシシッ!どう?ヒロ…!はっ…!お腹も…、感じてるぅ?」

「ふうっ!や、やめっ…!はふっ!ふ…!」

経験の差もあるのだろうが、いつでもウケのカズがアドバンテージを握る。

わざわざ恥ずかしがらせるような事をしたり言ったりして、子供っぽく楽しまれているのは若干癪だが、しかし自分で上手

くリードする自信があまり無いヒロは、これも仕方が無いかとやや諦めてもいた。

「か、カズ…!うぐっ!そろそろ…、そろそろ、出そ…う…!」

「はぁ…!良いよ、ヒロぉ…!来て…!私も…、イキ…そ…!」

ヒロは弛んだ体をブルルッと揺さぶり、その上でカズは身を反らし、弓なりになる。

「んっぐ…!うぅぅぅうっ!」

「あぁあああっ!」

柔らかく、温く、それでいて飲み込んだ肉棒を締め付けてくるカズの内側に、ヒロは誘われるようにして射精した。

注ぎ込まれた熱い精液の感触を腹中で味わいつつ、カズもまた絶頂に達し、亀頭の先からトロトロと、絶え間なく精液を流

し始める。

やがて、長い長い硬直の後に、カズはふらっと前に揺れ、肥満虎の上にぼふっと倒れ込んだ。

脱力していたヒロは、急に腹を圧迫されて「おふっ!」と声を上げたが、跳ね除ける気にはなれなかったらしく、倒れ込ん

できた細い恋人を軽く抱きしめる。

倒れた拍子に肉棒が抜けたカズの肛門から、ヒロが放った大量の精液が滴り、陰嚢を、尻を、尻尾を濡らして流れ落ち、硬

いベッドとして利用した石の板を汚した。

息が荒く、大きく上下しているヒロの腹と胸の上で、余韻を噛みしめるカズはうっとりと目を閉じている。

「ヒロ…」

「…ん…?」

「寒くない…?硬くない…?」

「…平気だ…」

大虎は狐を抱く腕に少し力を込め、耳元に囁いた。

「風呂…、入るか…」



「ふふ〜ん。珍しいねー」

湯船の中、温かい湯に胸まで浸かったカズは、クスクスと笑う。

その下には、自分の腰の上に相手の尻を乗せる格好で細身の狐を抱き、湯に浸かっている肥満虎。

「たまには…な…。一周年記念だ」

恥ずかしがっているのか、そっぽを向いて応じたヒロの上で、抱かれたまま湯に浸かっている狐は「ニシシッ!」と歯を剥

いて笑った。

「毎日が記念日だったらいいのになー!」

そうだったなら、照れ屋な恋人も口実に困るまいと、カズは上機嫌な含み笑いを漏らしながら考える。

「冗談言うな。今日は特別だ、特別!」

殊更不機嫌そうに鼻を鳴らして言ったヒロは、それからボソボソと付け加えた。

「…誕生日と、クリスマス…、それと、記念日だけの特別だ…!」

それを聞いたカズは、少し意外そうに目を丸くした後、

(付き合い始めて一年で、ヒロもちょっとは柔らかくなったかなぁ…?)

などと、胸の内で呟いた。

「ねぇヒロ?」

「うん?」

細身の狐は満面の笑みを浮かべると、恋人の上で空を見上げ、万歳するように腕を伸ばした。

「来年も、一緒に旅行しようねっ!」

「…ああ…」

まんざらでも無さそうな顔で頷き、ヒロもまた天を仰ぐ。

宿の上階に設けられた部屋、そのベランダの露天風呂から見上げる空は、普段よりも幾ばくか近く見えるような気がした。

                                                                                      おまけ