虎狐恋花 〜サクラサク〜

整然とソファーとテーブルが並び、週刊誌が収まったラックが並ぶ、消毒液の香りが漂うその部屋で、テレビの前に陣取っ

た丸い影は、食い入るようにして画面に見入っていた。

ローカルニュースから天気予報のコーナーに移ると、男はゴクリと喉を鳴らして予報士の声に耳を傾ける。

そして、しばらくすると落胆したようにため息をついた。

「…遅いんだよ…!」

どうしようもなく哀しげで、堪え難いほどの苛立ちが込められたその呟きは、無人の待合室に重々しく響いた。



「おっはよぉ〜!」

「んがぁ〜…」

「朝だぞぉ〜!?」

「んごぉ〜…」

「おっきろぉ〜!」

「ぐがぁ〜…」

「…朝ご飯抜くよ?」

「ぐご………っ!?」

ベッドを軋ませ、慌てて跳ね起きた大柄な虎を見て、ベッド脇に立っていたエプロン姿の細身の狐がクスクスと笑う。

細身の体にぴったりフィットする青い長袖ティーシャツと、すらりと長い足を強調する細いジーンズ、その上に黄色いエプ

ロンを身につけた狐は、スタイルの良いなかなかの美男子であった。

「おはよ、ヒロ!」

「…おはよう…」

寝起きでぼーっとしている頭を軽く振ると、大きな虎は恰幅の良い体を雨に濡れた犬のようにぶるぶるっと揺すり、大欠伸

をしながら真上に腕を伸ばす。

こちらはタンクトップにトランクスという下着のみの格好。太った大柄な虎は、お世辞にも美男子とは言えないヴィジュア

ル。とにかくだらしない雰囲気が全身からむやみやたらと発散されている。

「朝食出来てるよ。さ!急いだ急いだ!」

「ああ…」

きびきびとそう言った狐は、ふさふさの尻尾を優雅に振りながら踵を返し、居間に戻ってゆく。

大虎はタンクトップの下側から手を突っ込み、むっちりした腹をボリボリ掻きつつ、その後ろをのそのそとついてゆく。

大虎の名はヒロ。

細身の狐はカズ。

二人は大学生時代から付き合いが続いている親友であり、今では恋人でもある。



「行ってくる」

「ほい行ってらっしゃい」

通勤着でもあるジャージ姿で靴を履いたヒロを、カズはいつものように玄関に立って見送る。

「あ、ヒロ?」

「ん?」

ドアノブに手をかけ、押し開けようとした姿勢で振り向いたヒロの頬に、素早く顔を寄せたカズは軽く口付けし、悪戯っぽ

く微笑んだ。

「気を付けてね?」

「…ああ…」

照れ隠しに渋面を作り、頭をガリガリ掻きながら頷いたヒロは、ドアを開けてのっそりと出て行った。

軋みながらドアが閉まると、カズはクスクスと笑う。

「照〜れちゃってぇ〜…、か〜わいいのっ!」



二人が互いの本当の気持ちに気付いたあの春の一夜から、一年半が経った。

元々ヒロが一人で住んでいたこの安アパートは、恋人となったカズが越してきて、今では二人の同棲の場である。

カズが同棲するようになって変わった事といえば、とにかく部屋が綺麗に片付いた事。

さらに崩れ気味だった生活サイクルが規則正しくなった事。

そしてレトルトやインスタント、コンビニ弁当中心だった食事が、恋人手作りの健康的なものになったという事。

が、幸せ太りなのか、それとも大好きなビールのカロリーによるものなのか、食生活が健康的になったにも関わらず、ヒロ

の体型は全く変わっていない。

…もっとも、社会に出て以降、見る間に太ってしまったヒロの体型を、一年半の間それ以上肥え太らせずに維持させている

事を鑑みれば、カズの努力と気遣いは成果が出ていると言えるかもしれない。

洗濯機を回し、全ての部屋に掃除機をかけ、ベッドを整えてシーツを替えたカズは、軽い疲労を覚えて眉間を揉みながら居

間に戻る。

そして、新聞折り込みのチラシを見て買うべき物をチェックしつつ、ビデオのタイマーをセット。

家事を全うしつつも、日々の楽しみであるドラマの視聴は欠かさない。タイムセールを狙う場合は録画で対応。

ヒロと同棲するようになってからというもの、自室で仕事ができるカズは、家事全般を受け持っている。

家事や買い物が済めば自由時間。ドラマやDVDを見るなり、自分のペースで仕事をするなりして過ごす。

チラシから顔を上げ、窓枠の向こうに広がる秋晴れの空を見遣り、カズは軽い、しかし常に付き纏って抜けない気だるさを

感じながら、いつものように考える。

いつ、どういう風に、ヒロに打ち明ければ良いだろうか?と…。



「お〜、今日も手作り弁当か〜」

「ん…、まぁ…」

ごちゃごちゃとしたデスクの上に広げた、カズお手製弁当を覗き込んだ同僚に、ヒロは歯切れ悪く返答した。

「感心な恋人だよなぁ。僕の彼女や、ほら、坂上の恋人もだけど、料理なんてできないんだぜ?羨ましいよホント」

「…そうなのか…」

もしも、この毎日の弁当を作っているのが男だと知ったら、同僚はどんな顔をするだろうか?

ヒロはそんな事を考え、肉で丸く張った頬をポリポリと掻く。

もちろん、男であるカズが恋人であるという事は、同僚達には秘密である。

が、手の込んだ弁当の出所を誤魔化すことはできず、そこだけは正直に「恋人お手製」と告げていた。

「美人か?」

などと良く訊かれるが、その度にヒロは、

「俺好みではある」

と、微妙な言い回しで応じている。まさか正直に「美男子だ」と答える訳にも行かない。

大虎は弁当に手を合わせ、アパートで帰りを待つ恋人に感謝を込め、心の中で「頂きます」と呟く。

海苔弁のおかずは卵焼きにサラダ、プチトマトに鶏のささみ、そしてイチゴ。

大食らいのヒロを満足させるために量は多く、しかし栄養バランスに配慮して作られた弁当は、瞬く間に胃袋に収まる。

満足げに箸を置くと、ヒロはまた無言で手を合わせ、心の中で「ご馳走様」を呟く。

生まれてこの方、おそらく今が最高に幸せで、満ち足りている。ヒロはそう思っている。

まさか自分が男の恋人と同棲する事になるとは、一年半前のあの日までは想像もしていなかったが…。

しかも、その相手が九年もの間身近で過ごしてきた親友だというのだから、人生とはどう転がるか判らないものだ。と、時

折妙な感心もする。

最初は確かに抵抗があった。

親友が同性愛者である事にも嫌悪感はなかったが、自分が当事者になるとすれば不安にもなった。

が、結果として恋人同士になった後では、こういう関係もまんざらでもないかな?などと思うようになり、今となっては他

の誰か…、例えば女性に言い寄られたとしても、カズ以外の誰かと付き合いたいとは思わなくなっている。

(もっとも、俺に言い寄る女性なんて、万に一人も居ないが…)

前を開けたジャージから、シャツを押し上げてせり出している、むっちりと贅肉がついた腹を見下ろし、ヒロは苦笑した。

柔らかくて手触りが良い。そう、カズは言ってくれるが…。

顔もスタイルも良く、服装のセンスも良い、こ洒落たカズ。

太っていて顔は厳めしく、センスも今ひとつな自分。

休日に街中を一緒に歩く時、外食をする時、人目のある所では、

(カズとヨシノリさんは、本当にお似合いのカップルだったのにな…)

そんな風に、少し寂しい気分で考える事もある。

自分の先輩でもあったその恋人とカズが別れなければ、自分達の今の関係は無かった。

そう考えると、大虎はなんとも複雑な気分になる。

ヒロ自身は今の生活に満足している。この上なく幸せだと思っている。

だが、その生活の基には、ヨシノリが下した真心からの決断と、カズの哀しい失恋があった訳であり、思い出す度に、手放

しには喜べないと自分を戒める。

カズ本人はもう引き摺っている様子も見せない。あるいは努めて考えないようにしているのかもしれない。

なのに、自分はそこにいつまでもこだわっている。

(まったく、我ながらめんどくさい性格だ…)

と、この点に関しては、ヒロ自身も苦笑いするしかない。

弁当を片付け、彼好みにだいぶ冷ましてぬるくなった茶を啜りながら、ヒロは卓上カレンダーに目を遣った。

それは、生命保険のセールスレディーが置いていった、可愛い仔犬や仔猫が月替わりで顔を見せるカレンダー。

ヒロは目を細くしてカレンダーを凝視し、明日の予定を確認して小さく頷く。

予定通りの何もない一日…、ゆっくりできる休日だった。

(しばらくごぶさただったしなぁ…。たまにはゆっくり…)

恋人の喜ぶ顔を思い浮かべ、ヒロは表情を緩ませる。

そんな自分を同僚達が物珍しそうに眺めている事には、全然気付かないまま。

いつも仏頂面を作っている自分が、カズの喜んでいる顔を思い出す時には柔和な笑みを浮かべている事を、ヒロ自身はまっ

たく知らなかった。



「おかえりぃ〜」

「ああ。ただいま」

いつものように駅前まで迎えに来て、桜の木の下のベンチに座っていたカズに歩み寄ると、ヒロは小さく眉を動かした。

ハーフコートを纏ったカズの細い体が、微かに、小刻みに震えている。

まだ十月半ば、冷夏だったせいもあるのか、今年は冷え込むのがやけに早かった。

「冷える日は、無理に迎えに来なくて良いんだぞ?」

「だってぇ〜、少しでも早く「おかえり」を言いたいじゃない?」

「締め切りも近いだろうに…」

「そっちは大丈夫。だいぶ余裕ができてるからっ」

雨の日も、風の日も、雪の日も、カズは欠かさずにヒロを迎えに来る。

その事がヒロには嬉しくもあり、気恥ずかしくもある。

カズが自分を好いてくれているのだと実感する反面、そこまで気を遣わなくともいいのにと、少々申し訳なくも思う。

「今夜は〜、ビーフシチューにエビとタラのフライ!安かったんだぁ食材。フライの為に特製のタルタルソースも用意しまし

たぁ〜、自信作っ!」

「お?珍しくこってりした夕飯だな」

「まぁたまにはね。ちゃんと体力つけて貰わなくちゃ。今日は腕によりをかけたよ」

「ん。それは楽しみだな」

他愛ない会話を楽しむように言葉を投げ合いながら、二人は暗い夜道を、互いに寄り添いながら歩き出した。



「あ〜…。食った食った、美味かった〜…。…う〜…、もう腹パンパン…」

ごろんと仰向けにひっくり返った大虎は、丸い腹をさすりながら満足気にげっぷを漏らす。

味見をしながら作ったせいであまり空腹を覚えていないのだと、少し口をつけただけで箸を置いたカズの分までが、大虎の

膨れた腹に収まっている。

揚げ物をしていたせいで、作っているうちに満腹感を覚えたのもあるのだろう。

ヒロはそう考え、カズがほとんど食べなかった事も、深くは追求しなかった。

「そんなに美味しかった?」

カズは嬉しそうに微笑みながら、大虎の丸く出っ張った腹をつつく。

「当り前だろう。…お前が…作ったんだし…」

照れ臭そうに首を向こうへ巡らせ、ヒロは小声で呟く。

「ふふっ、ありがと!」

カズは嬉しそうに笑うと、覆い被さるようにしてヒロの頬に口付けし、立ち上がった。

「食器片付けて来るから食休みしててよ」

「…ああ」

ヒロは照れ隠しにわざと不機嫌そうに返事をし、全てお見通しのカズはクスッと笑って食器をまとめ始める。

膨れた腹を撫でながら首を動かし、台所と居間を往復するカズの働きぶりを眺めながら、ヒロはどう話を切り出そうかと思

案していた。



「終わったのか?」

「うん」

しばらくして台所の物音が消え、きゅうすと茶葉の缶、ポットと湯飲みを乗せた盆を手にしたカズが戻って来ると、ヒロは、

「どっこいしょ…」

 と呟きながら腹筋の要領で身を起こし…かけて再びごろっと背中側に倒れた。

「…むぅ…?」

「あはは、何してるのヒロ?」

可笑しそうに笑ったカズに、「腹が苦しくて上体が起きなかった」とは、恥かしくて言えず、ヒロは決まり悪そうに渋面を

作り、手を使って起き上がる。

あてがわれた湯飲みを取り、息を吹きかけてほうじ茶を冷ましながら、

(…そろそろ…訊いてみるかな…)

リモコンを操作して面白そうなテレビ番組を探しているカズを、ヒロはそれとなくチラっと見遣った。

「なぁ、カズ」

「なぁに〜?」

チャンネルを切り替えながら、間延びした声で聞き返したカズに、ヒロは少し照れ臭そうに頬を掻いてから告げる。

「明日は…、予定通りの「寝て曜日」だから…。その…、お前がしたいなら…、やるか…?」

「へ?」

カズは驚いたように首を巡らせ、まん丸にした目に、指先で頬を掻いているヒロを映す。

「珍しいねぇ?ヒロの方からそんな事言い出すなんて。どういう風の吹き回し?」

「た、たまには…さ…。俺からも、求めないと…、そっけなく思えるだろ…?」

ぼそぼそと照れ臭そうに言いながら、ヒロはお馴染みの仏頂面を作る。

「そっけなくなんて、思ってないよ?」

カズは悪戯っぽく微笑み、

「だって、エッチの時のヒロ、すんごい必死になってるもん」

(…そ、そうだったのか!?)

ヒロは動揺を押し隠しながら、不機嫌そうな様子を装いつつ、シャワーを浴びるべく立ち上がった。

「ねぇヒロ」

歩き出しかけていた大虎は、首だけ巡らせ、自分を呼び止めた恋人を見遣った。

「今日は、「逆」やってみない?」

「逆?」

軽く首を捻ったヒロは、言葉の意味に気付くと、縞々の尻尾の毛を逆立て、ぼふっと太くした。

「ぎゃ、逆ってそのそれはつまりなんだあれか今日はお前がタチで俺がウケるとかそういうなんだそのそいつかそれなのかそ

ういう事か!?」

「うん、そう。…ちょっと、落ち着きなってば?」

傍目から見ても分かりやすいほど動揺しているヒロを見ながら、カズはふさふさの尻尾で、ぱふぱふと、軽く床を叩いた。

「なななななななななななななんでまた急にそんな!?」

「たまには逆もどうかなぁ〜?って。嫌なら無理にとは言わないけど…」

カズはふとヒロから視線を逸らし、テレビ画面に顔を向けながら呟いた。

「ヒロの処女も、今の内に貰っちゃおうかなぁって思っただけ。…想い出作りに…」

「………」

ヒロはしばらく押し黙った後、

「…ん…、まぁ…、やってみる…か…?」

小さく頷いて、そうぼそぼそと呟いた。普段とは何処かが違う、カズの妙な言い回しにも気付く事がないまま。

「やりぃっ!それじゃあ、ちょっと待っててね?」

カズは嬉しそうに指をパチンと鳴らすと、ヒロを待たせ、寝室に駆け込む。

何やらごそごそと物音が聞こえてきて、大虎は首を傾げて眉根を寄せた。

「お待たせ〜。はい、使って」

「…何だ?これ…」

戻ってきたカズに、親指程の大きさの半透明な容器を手渡されたヒロは、それを蛍光灯の光に翳してみる。

「それ、私がいつも使ってる浣腸」

「へぇ」

液体が入っているそれを灯りに透かして見つめながら、何も考えずに頷いたヒロは、

「…へ?」

首をかくんと降ろし、カズの顔を見た。

「始める前にぃ〜、お腹の中、綺麗にしてね?」

大虎は笑みを浮かべている狐の顔を見ながら、半分納得し、そして半分、

(…やっぱり断れば良かったかも…)

と、後悔する。

「あ、そうだ。やったげようか?」

「え?い、良い!自分でやれる!」

ヒロは大慌てで首を横に振ると、まるで逃げるように、容器を片手に足早にトイレへ向かった。



「足、広げてね?」

「あ、ああ…」

準備が全て終わり、カズの指示通りに仰向けになったヒロは、ビクビクおどおどと足を広げ、無防備な格好で狐に股をさらす。

すでに二人はお互いの服を脱がし終え、全裸になっている。

意思に反してヒロの尻尾は、またぐらから腹に向かって回り、尻の穴を隠す。

が、カズはその尻尾をむんずと掴んで除け、大虎のまたぐらをまじまじと見つめて嘆息を漏らした。

「どうしてこう意外なトコが可愛いかなぁヒロは。綺麗なピンク色しちゃってまぁ…」

「あ、あんまりマジマジ見るなよぉ…」

今にも泣きそうな情けない声で嘆願する、いつもとはまるっきり様子が違うヒロに、カズは小さく吹き出した。

「じゃあ足上げて。くすぐったいかもしれないけど、ちょっとだけ我慢しててねぇ〜?」

カズはそう言いながら、膝を抱えるように足を引き付けたヒロの尻に顔を近付け、

(な〜んて、慣れた様子を装ってはみたものの…、実は私、タチの経験ってほとんど無いんだよねぇ…。でも無駄に不安がら

せても可哀そうだし、ここは黙っとこう…)

と、心の中で呟き、少年のような悪戯っぽい笑みを浮かべる。

緊張から嫌な汗をかき始めたヒロは、尻の穴に吹きかけられたカズの吐息に、太った体をブルッと震わせる。

間を置かずにカズの舌が肛門を舐め上げると、

「んぁっ!」

未体験の湿った感触に、ヒロは思わず高い声を漏らした。

「ちょっとヒロ。声がかわい過ぎっ!」

可笑しそうに笑ったカズの声を尻で聞きながら、ヒロは自分の出した声でなおさら恥ずかしくなり、情けなさそうに眉尻を

下げつつ、口を真一文字に引き結ぶ。

緊張の余りピンと伸び、時折ピクピク震える縞尻尾は、毛が逆立って太くなっている。

ヒロは少しばかり怖がっているかもしれない。カズはそう考えていた。

…が実際の所、大虎は少し怖がるどころか、ハンパなくビビリまくっていた。

ぶっちゃけ毛布を被って丸くなりたいという衝動にすら駆られていたが、それに必死に耐えている。

初めて味わう激しい羞恥と強い恐怖。しかし、いつも自分がカズにやっている事なのだと思えば、「やっぱり恐いから堪忍

して…!」とはちょっと言えなかった。

しばらくの間、ぴちゃぴちゃと音を立てて、濃い桜色の肛門を舐めていたカズは、さらにローションを塗りたくって潤滑を

良くすると、

「そろそろ、指、入れるね?」

と、前置きするなり、

「あ、ちょっと待っ…」

ズブッ。

「ひあぁっ!?」

やっぱり少し怖くなったヒロがストップサインを伝え終えるよりも早く、ピンク色の肛門に中指を突っ込んだ。根本まで。

思わず足を抱えていた腕が緩み、カズの左右に太い足がばたんと落ちる。

「あはは!可愛い声出しちゃってまぁ!」

「いだっ!いだだだだい!いだいぃっ!ちょっと、まっ…!いぎぃぃいいっ!?」

「最初だけ最初だけ。おぉぅ…!凄い締め付け…!」

ヒロは太った体を揺すり、足をばたつかせながら涙目になって訴える。

が、下手に動くとさらに痛む事を知ると、極力体を動かさないようにし、必死になって腸内の異物感と、肛門を拡げられる

痛みに耐える。

(やっばぁ〜…。最初からいきなり突っ込み過ぎた?…考えてもみれば、ヒロは自分で慣らしをした事も無いだろうし…、私

がやられてるのと同じようにやっちゃ可哀そうか…)

カズは一人で納得し、うんうんと頷くと、

ズポンッ

「んがっ!?」

とりあえずは一旦指を抜いた。

(他のトコを弄って気を紛らわせながら、ちょっとずつ慣らそうか…)

カズはずっと前に、自分が初めて行為に及んだ時の記憶を引っ張り起こす。

「足を立てて股を開いててくれる?」

「…う…?」

首を起こし、涙目で不安げに自分を見たヒロに、カズは苦笑いする。

「大丈夫。ちゃんと優しくしてあげるからっ!緊張し過ぎてるとね、括約筋が締りきっちゃって、気持ち良いどころか痛いん

だこれが。まずは気持ち良くリラ〜ックス。ね?」

言葉をかけたカズのしなやかな指が乳首を摘み、大虎は太った体をビクッと震わせる。

その反応に気を良くしたのか、カズは楽しげな笑みを浮かべながら、痛みですっかり縮こまってしまったヒロの太い男根を

咥え込んだ。

左手で乳首を、口で股間を刺激しつつ、カズはそっと、ローションで入念にぬめらせた右手の指をヒロの肛門に再び滑り込

ませた。

「どう?痛む?」

「…んぅっ…!…さっきよりは、へい…き…、かも…!」

咥え込んでいた逸物から口を離し、カズが尋ねると、ヒロはふぅふぅと喘ぎながら応じた。

強がりではない。二度目だからなのか、それとも注意が快感の方に向いているせいか、先程よりは苦しくなかった。

ヒロの逸物を覆う余った皮を剥き、露出させた亀頭を舌先で刺激し、両方の乳首を代わる代わる弄り、巧みに快感を与えな

がら、カズは指の抜き差しを続け、肛門をほぐし続ける。

だいぶ慣れたと判断したカズが、入れる指を二本に増やしても、ヒロは何とか耐える事ができた。

「ちょっと、待ってくれ、カズ…!そんなしゃぶられたら…やばい…!」

が、亀頭責めの方にはこれ以上耐えられそうになく、ヒロは泣きそうな声で訴える。

カズは太い逸物から口を離すと、「ニシシ!」と笑い、大虎の柔らかな腹に顔を乗せて頬ずりした。

「むにむに〜…、ふかふか〜…」

カズの声を聞きながら、ヒロは細めた目で天井を眺め続けている。

(…痛みが薄れて、少し、気持ち良くなって来た…かな…?)

ヒロの胸の内の呟きが聞こえたわけではないが、尻も十分にこなれたと判断したカズは、だぶついた腹から顔を離し、トロ

ンと弛緩した大虎の顔を覗き込んだ。

「そろそろいってみる?」

「…ん…」

頷いたヒロの顔は、この期に及んでもやはり、やや引き攣っていた。



両肘と両膝をついて四つん這いになると、ヒロは恐る恐る首を巡らし、カズを振り返った。

「お…、お手柔らかに…」

「任せといて!」

元気な笑みで応じると、カズはヒロのたるんだ尻たぶを両手で左右に押し広げた。

肛門が無防備になるその感覚に、軽い恐怖を覚えたヒロがゴクリと唾を飲み込む。

「入れるよ?」

「は、はい…。なるべく優しく…お願いします…」

大虎は何故か、いやに改まった丁寧な口調でカズに応じる。かなり余裕がないご様子である。

肛門に、指よりも太い何かの先端があてがわれるのを感じ、ヒロは歯を食い縛る。

「ん…、ぐ、ぅ…っ!?」

指よりもずっと太い、熱を持ったソレが、ローションでぬめった肛門を押し拡げながら侵入を始める。

ゆっくりと突き込まれた逸物の、かりの部分までが完全に入り、

(あ、心配したほど痛くも…)

と、少しほっとした次の瞬間、

「いっ!?いいい、いぎゃぁぁぁああああああああああああああああああああああっ!」

やや遅れてやって来た痛みに、ヒロは絶叫を上げた。

「い、いぎぃっ!?いだっ!いだぁああああっ!か、カズ!ちょ、待っ…!ひっ!さ、裂ける!裂けるぅっ!んぐぅうっ!」

「…ごめんデス…」

ぼそっと謝った、何故か硬いカズの声に、涙目になったヒロが首を巡らす。

「我慢できないデス。ごめんデスヒロ。ごめんなさいデス」

慣れないポジションでの興奮のためか、カズの方もなにやら平静ではなくなっている。

怯えた表情で自分を見るヒロから視線を逸らしつつ、カズはぐぐっと腰を出し…、

ズッ、ズププッ、プッ、ミチィッ。

「んあっ!?ぁ、ぁんっ、ぁ、あっ!はぎゃぁぁあああああああああああああ!!!」

ノンストップで奥まで突き込んだ。

肛門が裂けるかと思うような激痛と、腹中に侵入した熱い肉棒による圧迫感に、ヒロは堪らずに悲鳴を上げていた。

「いだ!いだいいだいいだいカズぅ!きついっ!きつい抜いて!抜いてってカズ!ひっ!いぎゃああああああっ!」

いつもの仏頂面とだるそうな声はどこへやら、大虎は肥えた体を震わせ、半泣きになって懇願する。

(こ、こんなにも苦しいものとは思わなかった…!カズはいつもこんなのを我慢しているのか!?)

カズはヒロの体深くに男根を埋めたまま、大きな尻に体重を預けて感触を吟味する。

(あ〜、あったか〜い…。でもって、すごく締まるぅ〜…!でも、こんなに力が入ってたらかえって痛いんじゃ…?)

「ヒロ。慣れるまでもう少しこのままでいるから、力抜いて?でないと痛いよ?」

「え?…ん、んんっ…」

涙目のまま頷いたヒロは、深呼吸して脱力を心掛ける。が、圧迫感と痛み、異物感があるせいで、勝手に力が入ってしまう。

最初こそなかなか上手く行かなかったが、やがて尻の穴が拡げられるのに慣れてきたのか、痛みが薄らぎ始めたのをきっか

けに、少しずつヒロの尻から力が抜け始める。

カズに言われたとおり、力が抜けるとだいぶ楽になり、ヒロは安堵したように、「ふぅ…」と息を漏らした。

大虎の尻と背に覆いかぶさるように身を預けたカズは、両腕を大虎の太った胴に回し、自重で下に垂れ下がった腹をポンポ

ンと叩く。

タプンタプンと揺れる、重量感のある柔らかい腹は、今ではカズのお気に入りでもある。曰く、水入りビニール袋の好感触。

以前は太めの体型が好きではなかったカズだが、ヒロと恋人としての付き合いを始めて以後は「こういった重量感や感触も

良いものだなぁ」などと思うようになっていた。

柔らかい、だぶついた腹の感触を楽しみながら、カズはヒロの背中を顎でトントンと叩く。

「どう?ドッキングされる側の感触は?」

「すっごく…痛かった…!…今は…だいぶマシになったが…」

「あはは!私も最初はそうだったよ。じゃあ、マシになって来た所で…」

カズは体を起こし、少し腰を引く。肉棒が僅かに抜けた瞬間、「あっ」と、ヒロの口から高い声が漏れた。

ズブッ

「いぎっ!…あ、でも、ちょっと気持ち良…あ、いだ!いだだだだ!や、やっぱ痛!んひぃっ!ひあぁぁああっ!」

肉棒が抜き差しされる度に、ヒロは快楽と苦痛の挟間で悲鳴を上げる。

(あ〜あ〜、すんごい雌声出しちゃってまぁ…。もしかしてヒロ、ウケも結構いけるんじゃないの?)

呼吸を乱して腰を振り続けつつ、カズはほくそ笑む。なかなか聞く機会の無いヒロの高い声に聞き惚れながら。

カズの肉棒が出入りする度に前後に揺すられ、ヒロの締まりのない腹がたぷたぷ揺れる。

肉壁を擦られ、前立腺を刺激され、腹の中を掻き回される初めての体験で、ヒロは頭がおかしくなるような、強烈な刺激に

囚われる。

 同時にカズも、締まりが異常に良い肛門と、異物の侵入に反応して腸液が分泌され始めた柔らかい内壁の感触に、普段味わ

うものとは別種の快感を覚えていた。

「あっ!んあぁっ!か、カズぅっ!ちょ、ちょ待っ…!すとっ、ぷぅ…!い、い…」

「あ、イきそう?」

「じゃ、なく、てっ…!」

歯を食い縛り、身を震わせているヒロに気付き、カズは動きを止めた。

そして繋がったまま、後ろから背中に覆い被さるようにして、ヒロの脇腹の辺りから下を覗き込む。

へそめがけて硬く反り返った、重度の仮性包茎の太い逸物が、覗いた先端からとうとうと精液を垂らしている。

「あ…。もうイってたの…?」

「う…、ご、ごめん…」

宣告する余裕もなく、堪えきれずに射精に至ってしまったヒロは、涙目のまま震えながら、小さくこくんと頷いた。

「悪いけど、もう少しだけ我慢していてね?私も、そろそろだから…」

余裕が無いのはカズも一緒である。常ならばヒロがイきそうになれば気付くのだが、今回は全く気付けなかった。

ズッ、ズプッ、ズッ…

カズは、初めはゆっくりと、そして徐々に腰を振る速度を上げていく。

「んっ、うっ、うっ、うぅっ…!」

肉棒が深く突き込まれる度に、ヒロは絞り出されるように呻き声を上げる。

前立腺を繰り返し刺激され、たった今イったばかりだというのに、太い逸物がビンビンに固くなる。

「ひ、ろ…!い、いく…よぉ…!」

「ん!ん、んんっ…!」

腹の中でカズの逸物が一際怒張するのを感じ、ヒロは固く目を瞑って痛みと快感を貪る。

「あぁっ!」

「うっ…!」

二人の口が、同時に声を漏らす。

ビクンビクンと脈打つ肉棒から、大虎の中に精を注ぎ込み、カズは全身を震わせて快感を噛み締める。

腹の中に放たれて溢れる、熱い何かの感覚に、ヒロは強烈な圧迫感と快楽を覚える。

身を震わせて何度も、何度も射精した後、カズはヒロの背中にもたれかかった。

耐えるのも限界に達したのか、ヒロも尻を上げたまま、顔からぼふっと倒れ込む。

重なってベッドに突っ伏しながらも、まだ二人は連結されていた。

「はぁ…、はぁ…、ど、どう、だった?ヒロぉ…」

「ふぅ…、はぁ…、い、痛かった…。けど…、き、気持ち、良かった…かもな…」

ヒロは少し恥ずかしそうに、言葉の後半はやけに小声で応じた。

太った虎の背中に体を預けたまま、細身の狐はクスクスと笑う。

「あ〜…。満足満足…。ヒロの処女、貰っちゃった…!」

「…むぅ…。ところでそろそろ…そのぉ…、チンポ…抜いてくれない…か…?」

「あ!ご、めんごめん!ヒロの中の具合があんまりにも良くて…、ニシシッ!」

ベッドの上で折り重なったまま、二人は余韻を噛みしめつつ、可笑しそうに笑いあった。

片や、この幸せな生活が、いつまでも続いてゆく事を信じて疑わないまま。

片や、この掛け替えのない時間が、もうじき終わってしまう事を言い出せないまま…。



それはその町に、この冬初めての雪が舞い降りた夜の事だった。

駅を出たヒロは、カズの姿がない事に気付いて首を傾げる。

(珍しいな?…ま、今日は寒いからな…、俺としても部屋に居て貰った方が良いんだが…)

大虎は寒々しい姿をさらす冬桜の下、いつも恋人が座って自分を待っているベンチの前へと、ゆっくり足を運んだ。

ここしばらくの間、カズの体調があまり良くない事を、ヒロはなんとなく察していた。

本人は隠そうとしているようだったが、尋ねても、妙に明るい笑顔で「何でもないよぉ?」と応じるので、問い詰めるまで

には至っていない。

気を遣われたくないのだろうと判断し、それとなく皿洗いを手伝ったり、外食や出前を提案したりするに留めている。

(風邪気味なのかな…。だるそうなのがしばらく続いてるが、病院嫌いだしなぁあいつ…。あまり長引くようなら、嫌がって

も、無理矢理病院に連れて行くか…)

しばしベンチを見つめた後、ヒロは丸い顔を上げ、細かい雪が舞い降りてくる夜空を見上げる。

積もるような降り方ではなく、チラチラとまばらに落ちて来る雪は、歩道の石畳に触れた途端に溶けて消える。

「もう十二月も後半だもんなぁ…。雪も降るか…」

桜の枝の間からヒラリ、ヒラリと舞い降りた雪が、夜空を見上げるヒロの頬に触れ、溶けて滴になる。

まるで、季節はずれの桜の花びらが舞い降りて来るような錯覚を覚えつつ、ヒロは視線を下げ、恋人が待っているはずのア

パートに向けて歩み始めた。



部屋の前に立ったヒロは、玄関脇の台所の小窓から灯りが漏れていない事に気付き、首を傾げた。

(出かけているのか?)

とは思ったが、迎えに来ていなかった事も希ならば、ヒロが帰る時間に何の連絡もなく部屋を空けている事も珍しい。

軽く首を振って妙な不安を追い払うと、ヒロは色褪せたジャンバーのポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込み、回す。

「…ん?」

鍵が開いている事に気付いた大虎は、訝しげに眉根を寄せた。

「ただいま。カズ、居るのか?」

ドアを開けて玄関に入り、声をかけてみたが、返事はなかった。

真っ暗な部屋はやけに静かで、説明のつかない胸騒ぎを覚えた大虎は、玄関の灯りをつけつつ、スニーカーを蹴るように脱

ぎ捨てて、ドスドスと足音を立てて居間に入る。

「カズ?」

恋人の名を呼びながら壁のスイッチを押して灯りをつけ、明るくなった居間を見回したヒロは、少し離れた床の上にに転がっ

ているものに気付く。

台所と繋がる、開け放たれたままの引き戸の傍に転がっていたのは、ストラップでゴテゴテとデコレーションされたカズの

携帯。

上になった裏面を飾っているのは、以前強引に撮らされたツーショットのプリクラ。

満面の笑みを浮かべている細身の狐と、仏頂面の大虎とが、横長の小さなシールの中で窮屈そうに身を寄せている。

(鍵をかけ忘れて出かけたのか?それにしても、携帯を忘れて行くなんてあいつらしくもない…)

眉根を寄せながら歩み寄り、屈んで携帯を拾い上げようとしたカズは、視界の隅に何かを捉え、首を巡らせた。

一瞬、目の前の光景が何を意味しているのか、どういう状況なのか、大虎には判らなかった。

「…か…」

声を発しかけ、口を開けたまま、ヒロは硬直した。

灯りが消えたままの狭い台所の床には、俯せに倒れている細身の狐の姿があった。

顔が横向きになり、固く目を閉じているカズの口からは、浅くて速い、せわしない呼吸が漏れている。

途中で力尽きたように投げ出された手は、携帯に向かって真っ直ぐに伸びていた。

まるで、取り落としてしまったそれに、救いを求めているかのように。

「カズっ!?」

数秒間、頭が真っ白になっていたヒロは、我に返るなり悲鳴に近い声を上げた。

他人の子らを預かるという職業上、ヒロは救命措置や応急手当について、研修でみっちり指導を受けている。

慌ててはいるものの、努めて慎重な対応を心がけ、意識を失っているカズの傍らに跪く。

ヒロは素早くカズの首に指を当て、呼吸と脈を確認した。呼吸も鼓動も乱れ、かなり速い。

倒れた際に鼻を打ったのか、鼻の左側に乾いた鼻血がこびりついていたが、こちらは大した出血量ではなかった。

とりあえず、頭を強く打っている事だけはなさそうだと判断したヒロは、負担をかけないようにゆっくりとカズを抱き起こ

して仰向けにする。

気道の確保を終えるなり、ヒロはカズの頬を軽く叩き、意識が戻るように呼びかけ始めた。

「おいカズ!しっかりしろ!おい!」

何度も名を呼ばれながら、頬を軽く、撫でるように叩かれると、やがて、カズは小さく呻き、薄く目を開けた。

「…あ…。ヒ…ロ…?」

目を開けたカズが弱々しく声を発すると、大虎はほっとしたようにため息をついた。

「どうした?具合、悪いのか?何処か痛む箇所や、苦しい所は?」

心配そうな顔で尋ねるヒロに、徐々に意識がはっきりしてきたカズは、

(あぁ…、これはもう…、誤魔化せないなぁ…)

と、心の中で諦め混じりに呟いた。

「ヒロ…、ごめんね?話しておかなきゃ、いけない事が…」

「後で良い。まずは病院に行こう。…済まなかった…。体調が悪そうなのには、気付いていたのに…」

気遣って声をかけながら自分を抱き起こすヒロに、カズは強い罪悪感を覚えた。

「ねぇヒロ聞いて…。今すぐ話しておきたいんだ…。私…、私ね?両親と…」

抱き起こしたヒロの腕の中で、言葉を切ったカズの体が、ビクンと、弓なりに反った。

「かっ、はっ…!」

手足を突っ張らせたカズは、目を大きく見開き、肺腑から無理矢理絞り出されたような息を吐く。

「カズ!?カズどうした!?おい!?っくそっ!電話…!救急車っ!」

細い体を捻り、反らし、突っ張らせ、苦悶の表情を浮かべて声もなく悶えるカズを抱きながら、ヒロは泣き出しそうに顔を

歪め、慌ただしく携帯を取り出した。



「黙ってて…ごめんねぇ…ヒロ…」

サイレンを鳴らして走り続ける救急車の中、天井を見上げているカズは、苦しげな息の間から声を絞り出した。

「無理に喋るな、安静にしてろ…!」

心配そうに自分の顔を覗き込むヒロに、カズはぼんやりとした視線を向け、困ったように、力なく微笑んだ。

「…両親と、同じ病気…。私も…かかっちゃったんだぁ…」



BLVD症候群。それが、カズの口から語られた、彼の体を蝕む病の名。

この国では獣因子限定発症型栄素枯渇症候群の名で知られるその病は、文字通りに獣人にのみ発症する。

遺伝的な要因によって発症するこの病には、感染性は無い。

だが、一度発症してしまったなら、その致死率は100%となる。

獣人特有の因子が引き起こすこの病は、肉体から栄養を吸収する能力を奪う。

一年ほどかけてゆっくりと進行し、患者の体は徐々に栄養吸収能力が落ち始め、疲労が抜けなくなり、倦怠感が付き纏うよ

うになる。

食事の摂取、点滴、いかなる手段でも栄養素吸収が出来なくなった肉体は、次第に自らを構成する部位を分解し、エネルギ

ーに変え始める。

最優先で機能を維持すべき部位を護るため、最初に脂肪が、次いで筋肉が分解されてゆき、最終的には脳の機能を維持する

ため、循環器や呼吸器の機能すらも犠牲にする。

発症者はやがて、臓器の機能不全による激しい苦痛を伴う発作を繰り返し引き起こすようになり、その発作の都度、残り少

ない体力を消耗し、やがては枯死に至る。

生きながら、枯れてゆく。BLVD症候群とは、そんな不治の病であった。



「なんでだ!?」

乳白色のリノリウムの床を歩いていた若い看護師は、突然聞こえた大声に驚いて足を止めた。

動かした視線の先には、「桜居和成(さくらいかずなり)様」と記名されたプレートがかけられた病室。

(確か…、昨夜急患で運び込まれた方だったわね?何でもBLVD症候群だとか…。まだお若いのに…)

看護師は心の中で呟き、気の毒そうに眉根を寄せ、足早に部屋の前を離れて行った。



「なんでもっと早くに言わなかった!?なんでもっと早く入院を…!」

清潔な真っ白い壁に囲まれた病院の個室に、全てを知ったヒロの怒声が響き渡る。

リクライニングベッドの背を起こし、背を預けて座っているカズを、大虎は眉を吊り上げ、厳しい表情で見つめていた。

「どのみち手の施しようが無いんだよ。だったら体が保つギリギリまで普通に生活したいじゃない?」

あっけらかんとそう言ったカズの顔には、死への恐怖も、悲哀すらも、ほんの少しも浮かんではいない。

「そもそもぉ、早くに言ったら、力ずくでも私を入院させていたでしょう?」

「当たり前だ!」

「入院したところで、治る見込みなんて無いのに?」

「!?…そ、そんな…、事は…!」

世間話でもするような軽さで己の病状について話すカズを前に、ヒロは上手く言葉を繋げる事ができなくなる。

「…少なくとも、体への、負担は…」

「体に負担をかけないように、病院のベッドでじっとして、体力の消耗を抑えて、やりたい事も我慢して過ごすべきだったっ

て?私はまっぴらだな、そんなの」

カズは頬を膨らませ、ヒロの顔を挑むような目で見つめた。

「私はね、ヒロ。あとちょっとの命だからこそ、ヒロと一緒に居たかった。少しでも長く普通の生活をしたかった。病気だっ

て気遣われて、病院に入れられて、後はお迎えが来るまでベッドの上…。そんなの、私には耐えられないよ。…じっとしたま

ま死と向き合い続けられるほど、私は強くないよ…」

カズが発症に気付いたのは、今年の梅雨が明ける少し前の事だった。

体から抜けないだるさを、軽い、だがしつこい風邪だと認識し、近くの病院へ足を運んだ時の事だ。

ヒロにうつしてしまうかもしれないと考えれば、病院が嫌いだとも言っていられない。

その程度の軽い気持ちで診察を受けたカズだったが、そこで彼は知ってしまった。

自分が両親と同じ病に蝕まれている事を。

そして、自分に残された時間が、一年にも満たないという事を。

自分の余命を知ったカズは、医師からの入院の勧めを断った。

己の死期を知ったカズの望みは、たったの一つ。

少しでも長い時間、これまでのように、ヒロの傍に寄り添い続ける事…。

それが自分のわがままだと、絆が深まれば深まるほどに、別れの時にはヒロに辛い思いをさせる事になると知りながらも、

その願いだけは、どうしても捨てる事ができなかった。

カズの言葉を聞いて何も言えなくなり、ヒロは無言のまま歯を食い縛る。

そんな辛そうな恋人の顔を見ながら、カズは哀しげに眉尻を下げた。

「…悪いとは、思ってるよ…。身勝手な真似をしちゃったって思ってる…。傍に居たから…、くっついていたから…、ヒロに

は、かえって辛い思いをさせちゃう事になる…。本当は私が我慢して、発症が判った時に別れられれば良かっ…」

「言うな!」

再びヒロの怒声が病室に響き渡り、カズはビクッと身を震わせて口を閉ざす。

ヒロは震える腕を伸ばし、がっしりと、カズの顔を両手で挟んで固定した。

「別れが辛くなるから、哀しくなるから、もっと早くにわかれるべきだったって?そんな馬鹿な事、言うな…!」

顔を逸らす事を許さず、じっとカズの目を見つめながら、ヒロは続ける。

「謝るな!気遣うな!遠慮するな!遠ざかるな!…良いんだよ…!俺にだったら、いくらでもわがまま言って良いんだよ…!

お前がしたいようにして、やりたいようにやって、振り回してくれて良いんだよ…!」

上手く整理できないまま、正直な気持ちを吐き出すヒロの目から、大粒の涙が零れた。

「お前は…、どんなわがままを言っても許されるだけの物を、俺にくれたじゃないか…!」

「…ヒ…ロ…」

「お前は悪くなんか無い!ちっとも悪くなんか無い!俺だって…俺だって同じだ…!避けられないなら、せめて少しでも長く、

お前の傍に居たい…!」

思いの丈を言葉に乗せて、不器用に吐き出すヒロ。

今にも泣き出しそうな表情で、真剣に訴える恋人の顔を見つめるカズの瞳から、ポロリと、堪えていた涙が零れた。

「ヒロ…。ごめん、ねぇ…。ありが…とぉ…!」

狐の顔から手を離した大虎は、覆い被さるようにして恋人の頭を抱き締めた。

柔らかい胸に顔を埋めながら、カズはヒロの背に腕を回し返し、ポロポロと涙を零し続ける。

「ほんとは…ねぇ…。私…、死ぬのはやっぱり…恐いよぉ…。哀しいよぉ…。寂しい…よぉ…。ヒロぉ…、赦してねぇ…。私、

ほんとはもっと、もっともっと…!ヒロと一緒に、居たかったよぉ…!」

啜り泣きながら、カズは今まで言えずに抱え込んでいた言葉を、弱々しく口にした。

取り乱した様子を見せれば、ヒロが不安がる。哀しむ。だから自分は今まで通りでいなければならない。

カズが維持して来た、そんないじらしい虚勢と仮面は、ヒロがぶつけた不器用で真っ直ぐな、心の何処かで望んでいた言葉

によって、あえなく崩れ落ちた。

心の底に押し込めていた不安や恐怖、寂しさを吐露するカズを、ヒロは黙ったまま何度も頷きながら、優しく、しっかりと

抱き締め続けた。

医師の見立てでは、三月半ばまで保てば僥倖。

二人に残された共に過ごせる時間は、余りにも短かい…。



「皆には、言うなって…」

湯気の立つ湯飲みを前にして、沈痛な面持ちで呟いたヒロに、コリー犬は目を閉じて頷いた。

アパートの居間で、ヒロはカズの元恋人、ヨシノリに全てを打ち明けた。

「病でやつれた姿を見せたくないんだろう…。あいつはいつだって、周りを明るくする事を優先していた…。そういうキャラ

だと自分でも公言していただろう…?」

事情があって別れたとはいえ、長年恋人として共に過ごし、傍で見守ってきたこのコリーには、友人達には黙っておいてく

れと言ったカズの気持ちが、痛いほどに良く解った。

「…なんで、当たってくれないんだろうな…」

ぼそりと呟き、ヒロは深くため息をついた。

「辛いだろうに…、苦しいだろうに…、恐いだろうに…。あいつは一回涙を見せたっきり、今までと変わらず笑っている…。

俺で良ければ、いくらでも怒って、泣きついて、八つ当たりして…、不安のはけ口にしてくれて構わないのに…」

「そういうヤツだよあいつは…。それに…」

何かに耐えるように、湯飲みを握る手に力を込めていたヨシノリは、ふと表情を緩め、大虎の顔を見つめた。

「案外、不安も怖さも、お前のおかげで、本当に薄れているのかもな」

「…買いかぶりだ。俺は、あいつに何もしてやれていない」

首を横に振ったヒロに、ヨシノリは微笑みかける。

「傍に居てやるだけで良い…。他の誰にも知らせるなと言ったのに、お前には傍に居て欲しいと言う。その意味が判るか?」

ヒロは戸惑ったように何度か瞬きし、ヨシノリは表情と口調を改める。

「…ヒロ。少しばかり、酷な事を言うぞ?」

コリーの穏やかで聡明そうな顔つきが、少し厳しい物に変わった事に気付き、大虎は居住まいを正す。

ヨシノリはヒロの顔をじっと見つめながら、

「お前はこれから先、何があっても、辛そうな顔も素振りも、あいつには見せるな。可能な限り、今まで通りの態度で接して

やれ」

静かに、しかしはっきりと、一言一言を区切りながらそう言った。

「カズはな、他でもないお前に自分の最期を看取って欲しいんだよ。その自分のわがままで、お前に迷惑をかけ、辛い思いを

させる事になると、あいつには判ってる。辛そうな様子を見せれば、あいつはその都度苦しんで、自分を責める…。判るか?」

しばらく黙り込んだ後、ヒロは神妙な顔つきで、ゆっくり、大きく頷く。

それを見たヨシノリは、ほっとしたように息を吐き出した。

「…辛い役目を背負わせて悪いが…、頼む…。俺はもう、あいつには会えないんだ…」

カズへの想いは、まだヨシノリの胸の中で息づいている。

本音を言えば、もちろん会いに行ってやりたい。元気付けてやりたい。顔を見たいし声を聞きたい。

しかし、今更顔を見せに行けばカズを動揺させる。

ましてや、万が一にも本心を見抜かれてしまう事になれば、カズを苦しめる事にもなる。

寂しげに、そして辛そうに言ったヨシノリは、窺うようにヒロの顔を見つめた。

「…恨んでいるか?カズを託した事…。結果として、お前にこんな役目をおわせるはめになった事…」

ヒロは僅かな間黙り込み、苦笑いを浮かべて首を左右に振った。

「…正直なところ、良く判らないなぁ…」

瞑っているように見えるほど目を細め、ヒロが見せたその苦笑いは、ヨシノリの目には、泣き笑いの表情に映った。



「え!?休職した!?」

リクライニングベッドの背を45度以上まで起こし、椅子の背もたれによりかかるような姿勢で本を読んでいたカズは、恋

人の報告で目を丸くした。

「ああ。明日からずっとな」

たどたどしい手つきで番茶を淹れながら、ヒロは何でもない事のように応じる。

「そこまでしてくれなくたって…」

「良いだろ、俺が勝手にそうしたいんだよ」

ヒロは「決めたんだからもう何も言うな」とでも言いたげに鼻を鳴らして言い放つと、カズの前、ベッドテーブルの上に、

淹れたての茶を注いだ湯飲みを置く。

入院から二ヶ月半が経ち、暦は三月の上旬。

度重なる発作で体力を奪われ続けたカズは、もはや自力で立ち上がる事すらできなくなっていた。

そんな彼にとって、何かを飲むという行為は、残された数少ない楽しみである。

さほど量も飲めず、栄養の摂取にもならないが、水分はきちんと吸収されるし、口に物を入れれば、味だけは以前と変わら

ずに楽しめる。

茶を淹れる手つきはおぼつかないものの、ヒロはカズの好みを十分に承知しており、彼が飽きないようにと柄でもなく気を

遣い、紅茶に緑茶にほうじ茶など、種類や品を変え、こまめに違う茶を用意している。

二人で一緒に茶を飲む。ただそれだけの事をとても喜んでくれているのが、良く判っているから。

「それに、俺のクラスは全員無事に、進学も就職も決まった。俺があいつらにしてやらなきゃならない事は、もうほとんど無い」

「ヒロ…、でもせめて卒業式は…」

申し訳なさそうに言ったカズに、ヒロは苦笑いで応じた。

「判っている。俺だって教師の端くれだ。教え子の門出は必ず見送るさ」

「うん。ぜひ、そうしてあげてね」

ほっとしたように笑みを見せたカズに、苦笑いを浮かべたまま頷きながら、

(…まったく…、この期に及んでまだ他人の心配か…)

ヒロは心の中でそう呟いた。呆れと感心、そして、それら以上の愛おしさを感じながら

「あ、ヒロ。そろそろ…」

「ん?ああ…」

ヒロは腕時計を確認すると、テレビのリモコンを操作し、チャンネルを天気予報に合わせる。

二人は画面をじっと見つめ、しばらくの間、予報士の声に静かに耳を傾ける。やがて…、

「まだまだ、みたいだねぇ」

「だな…」

天気予報が終わり、番組が変わると、二人は揃って残念そうに呟く。

「ふふ…。焦っても仕方無いんだけれどねぇ…」

苦笑したカズは、再び湯飲みを取ろうと手を伸ばし、ピクン、と、体を震わせた。

その拍子に、指先が当たった湯飲みが転げ、ぬるくなった茶が掛け布団の上に零れる。

「う…くっ…!」

胸を押さえ、顔を蒼白にして呻いたカズを前に、

「カズ!?」

ガタンと椅子をひっくり返し、ヒロは慌てて立ち上がる。

ヒロはナースコールのボタンを押しながら、えづくような、むせ返るような呼吸を繰り返して体を痙攣させるカズの顎を押

さえ、顔を上向きにして気道を確保する。

臓器の機能不全による、耐え難い苦痛を伴う発作…。

徐々に間隔を狭め、日毎繰り返される発作は、残り少ないカズの命を、確実に削り取ってゆく…。



駆け付けた主治医に鎮痛剤を打たれてもなお、カズの苦痛はほとんど和らがず、やがて彼は苦痛の余り気絶した。

意識を失って苦痛から逃れても、カズの呼吸はハカハカと、浅く速く乱れており、眉間には苦悩するような深い皺が刻まれ

ている。

数十分後、意識を取り戻したカズは、また一段と生気を失ってしまった顔をヒロに向け、

「…ごめん…ねぇ…」

と、辛そうな微笑を浮かべて呟いた。

自分が苦しむ姿を見れば、ヒロもまた苦しむ。

その事が判っているのに、自分にはどうしようもない。

カズにとっては発作の苦しみよりもその事の方が、申し訳なくて、辛い。

ヒロは無言のまま、いたわるようにそっと、カズの頭に手を当てた。

ゆっくり、やさしく頭を撫でられたカズは、安心したように目を閉じる。

発作による疲労も手伝い、程なくカズが眠りに落ちると、小康状態に戻ったと判断した主治医は、看護師を一人病室に残し、

ヒロを促して一緒に病室を出た。



「桜居さんの体は、おそらく次の発作には耐えられないでしょう」

向かい合って座る主治医の宣告に、ヒロは太ももの上に置いた手をギュッと握り込んだ。

「…次は…耐えられない…?」

硬い口調で呟いたヒロに、医師は目を伏せながら頷いた。

「体力的な面もそうですが、すでに心機能が弱り切っています。呼吸器系は比較的保っているので、今の所は発声も呼吸も割

としっかりしていますが…、次に発作を起こせば…」

「呼吸器も…やられてしまうので?」

「いいえ、苦痛でショック死してしまう可能性が非常に大きいのです」

さーっと音を立てて、自分の顔から血の気が引いてゆくのを、大虎は確かに感じた。

「ショック…死…!?」

「はい。…これは、本当は申し上げるべき事ではないのかも知れませんが…。この疾病に対し、発作の苦痛から救うと言う意

味での薬物による安楽死を認めている国もあります。それほどに耐え難い苦痛を伴う発作なわけで…」

医師の言葉の後半は、ヒロの頭の中には、もはや入っては来なかった。

次に発作が起きれば、カズはこの世を去る。

目を背けていた訳でもないのに、具体的な形を取って眼前に突き付けられた現実は、覚悟を決めていたはずのヒロをも激し

く動揺させた。

「…を使用するべきかと…」

「は、はい?」

途中から話しを聞いていなかったヒロは、主治医に聞き返した。

「次に発作が起きた際、桜居さんに…」

ヒロは主治医の言葉を聞き、たっぷりと時間をかけてその内容を頭に入れ、やがて、力なく頷いた。

「それで…、あいつが少しでも苦しまないで済むなら…。俺から話します…」

カズの次の発作が起きたその時、苦痛を和らげる為に強力な鎮痛剤を使用する。

末期の患者にしか使う事の許されないその薬は、苦痛の緩和と筋弛緩効果をもたらすが、同時に心臓を始めとした臓器群や

脳にまで影響を及ぼす。

弱り切ったカズにとっては間違いなく死に至る猛毒となるはずのその薬、使用には本人の希望が必要となる。

使用の是非を問えば、カズにも自分の余命を正確に悟られる。

だがしかし、医師に任せる事もできるにも関わらず、ヒロはその問いを投げかける役目を受ける事にした。

それが、必ずや自分がやらなければいけない事なのだと、はっきりと悟って。

「…お前はもう、十分頑張ったもんなぁ…、カズ…」

こぼれ落ちそうな涙を堪えるように、天井を仰いで呟いた大虎を、主治医は痛ましげな表情で見つめていた。



「…だったよねぇ?」

「え?あ、あれ?俺、そんな事をしたか?」

可笑しそうに微笑むカズに、ヒロは頭を掻きながら苦笑いを返す。

ヒロが主治医からカズの余命を知らされ、そして投薬の話をしてから一週間が経った。

カズは何ともあっけなく投薬を受け入れる事を決めた。

「結果は同じなんだから、許可なんて求めなくても良さそうなものなのにねぇ?お医者さんも公務員も、現場以外で決められ

た規則や手順だらけで大変だなぁ」

明確な死期を突き付けられても、カズは穏やかなままだった。

ヒロはそんなカズの姿を、痛ましいとは思わなかった。強がりでも虚勢でもなく、ごくごく自然に受け入れた事が、はっき

りと解ったから。

むしろ「ああ、こいつならそう言っただろうなぁ」と、彼らしいとすら思い、少し誇らしくなった。

「どうだ病よ!俺の恋人はこんなにも堂々としているぞ!お前なんかに白旗は上げないぞ!」

そう、胸を張って叫んでやりたい気分だった。

ヒロが主治医に呼ばれたあの日以来、奇跡のように発作は止んでいた。

二人は残された短い時間を、ある事を心待ちにしながら、それでものんびりと、穏やかに送っている。

ひたひたと迫る刻限を前にしても、外見上、二人に悲壮感は無い。

「恐いことは恐いけどさ。泣いても笑っても避けられないなら、せめて最期まで笑っていたいなぁ、私は」

それが、屈託のない笑みを浮かべ、カズがヒロに伝えた、偽らざる本心。

許される限り手を握りあい、言葉を交わし、二人は楽しかった日々を振り返り、流れ去ってゆく少ない時を大切に過ごす。

時に笑い、時に頬を膨らませ、時に「そんな事あったっけ?」と失敗を誤魔化し、自分達が積み重ねて来た、大切な想い出

を反芻する。

やがて壁時計の針が午後九時直前を示すと、カズはすっかり落ち窪んでしまった目を細め、時計を凝視した。

「あ…、天気…予報…」

すっかり忘れていたヒロは、慌ててベッドサイドのリモコンを掴み、ボタンを押す。

「…ん?あれ?」

電源が入らず、首を傾げるヒロを見たカズは、「あ…」と声を漏らした。

「ごめん…、言い忘れてた…。ヒロが…お風呂行ってた…間に…、カード切らしちゃったんだ…」

「気にするな。すぐに買って…、あ、いや…、戻る前に終わるか?ちょっと待ってろ!待合室のテレビで見てくる!」

「うん…。ごめん…、お願いね…?」

ヒロは大慌てで病室から飛び出すと、太った体を揺すりながら、待合室目指してドタドタと駆けてゆく。

どちらから言い出すともなく、二人が共に抱き締めた、ささやかな最後の望み。

それは、離れ離れになってしまう前に、もう一度、二人で一緒に桜の花を見る事…。



「…遅いんだよ…!」

待合室のテレビで開花予想を確認し、苛立ちを滲ませて呟いたヒロは、次いで広い肩をがっくりと落とした。

開花は早くても一週間後。予報士の話ではそういう事だった。

次の発作に耐えるだけの力が残っていないカズにとって、一週間という時間は、待つにはあまりにも長過ぎる。

(こんなにも…、桜が咲くのを心待ちにするのは、生まれて初めてだ…)

ヒロは項垂れたまま、カズが待つ病室へと引き返した。



「…もう一度…見たかった…なぁ…」

夜闇の侵入を防ぐように、分厚いカーテンで閉ざされた窓。

その清潔に白いヴェールを眺め、ベッドに寝かされたカズはぽつりと呟く。

次に発作が来たその時、自分の命は吹き消されてしまう。

そして、次の発作がごく近い内にやって来る事を、彼は悟っている。

「見られるさ。必ず…」

少し寂しげなカズに、ベッド脇に歩み寄って顔を覗き込んだヒロは、精一杯努力して作り笑いを浮かべて見せた。

「私はね…、幸せだよ…、ヒロ…?」

カズはやつれきった顔に、以前と変わらない笑みを浮かべる。

「ヒロと過ごした…一分一秒…、大切に噛みしめて…、こうして今まで…生きて来られた…」

弱々しく、痩せ細った手を上げたカズは、ヒロの顎をそっと、やさしく撫でた。

「ヒロと一緒に…居られた時間…、私にとっては…、一秒毎に…、一日分以上の…価値があったよ…」

間もなくやって来る死期を感じ、偽りなく、ありったけの感謝と愛情を込めたカズのその言葉に、ヒロの胸の中で、涙を止

めていた堰が崩れる。

肉の付いた丸い頬を伝い、透明な、熱い滴が、ポロポロ、ポロポロと、止め処なく零れ落ちる。

「俺だって…、俺だってそうだ…。カズ…!」

零れ落ちるヒロの涙が、顎を伝い、カズの手を濡らす。

「はは…、なのに…、欲張りだなぁ…私は…。十分に…幸せだったのに…」

そっと閉じられたカズの目から、つぅっと、涙が零れた。

「…もう少しだけ…、生きたかった…なぁ…」



翌朝、床に敷いた毛布の上で、珍しく院内放送よりも早く目覚めたヒロは、まずベッドの上のカズの様子を確認した。

ゆっくりと、だが規則正しい寝息を立てている事を認め、安心してほっと息を吐き出す。

間もなく鳴り響いた七時の院内放送で目覚めたカズは、薄く開けた目で病室を見回し、先に起きていたヒロに気付くと、穏

やかに微笑んだ。

「おはよう…。私より早いなんて…、珍しいねぇ…ヒロ…」

「ああ、おはよう」

笑みを返したヒロは、窓際に歩み寄り、カーテンを引き開ける。そして、眼下に広がる光景に、思わず息を呑んだ。

(俺…、まだ寝ぼけているのか…?)

目を何度もしばたかせ、太い腕でごしごしと擦ってみたが、再び目を開けても、その光景は依然として眼下に広がっていた。

「どうかしたの…ヒロ…?」

訝しげに尋ねたカズに、カーテンを引き開ける途中で手を止めていたヒロは、

「開花予想が…、外れてくれた!」

声を弾ませ、勢い良くカーテンを開け放った。



「どうだ?ちゃんと見えてるか?」

大きな体を窓の脇に退けて尋ねたヒロに、

「うん…!」

電動リクライニングのベッドを起こし、窓の外を眺めたカズは、笑顔で大きく頷いた。

「凄いねぇ…、たった一晩で…こんなに…!」

咲き乱れた、薄桃色の桜の花を眺めるカズの瞳は、微かに潤んでいる。

温度と湿度が管理されている病室内では気付けなかったが、昨晩はこの季節にしては異常な程の高湿、高温を記録していた。

病院の裏手、駐車場との境の垣根となる桜達。

見下ろす地面もほとんど見えないほどに咲き誇ったその光景は、まるで薄桃色の雲の上にいるような錯覚を二人に抱かせる。

蒸し暑い夜を経て、たった一晩で奇跡のように満開となった桜を見下ろし、カズは満足げに微笑んだ。

リクライニングを起こして座った姿勢は、衰弱しきったカズの体にはキツい。

ヒロはその事を重々承知していたが、もはや、早く横になれと急かす事はなかった。

「…満足…。ヒロと一緒に…、また今年も…桜の花が…、見られた…」

屈託のない、純粋な喜びを込めたその言葉を耳にし、満ち足りた穏やかな表情を目にし、ヒロの中で激情が荒れ狂う。

喪失への強烈な恐怖。

憤りを感じる程の無力感。

体が引き裂かれるような哀しみ。

様々な感情が胸の中で暴れ狂う苦痛に、ヒロはぎりりと歯を噛みしめて耐える。

カズの方がずっと辛いのだと、笑って見送ってやらなくてどうするのだと、強く自分に言い聞かせて。

「ヒロ…」

「うん?」

名を呼ばれ、慌ててぎこちない笑みをつくったヒロは、

「ありがとうね」

幸せそうな、満ち足りた笑みを浮かべ、しっかりとした声で感謝を述べたカズの目を見て、

(…あ…)

共に過ごせる時間に終わりが来てしまった事を、直感的に悟った。

「かふっ…!!!」

絞り出されるような息と共に、カズの顔から笑みが消え、苦悶の表情が浮かぶ。

細い体が毛布を跳ね上げ、ビクンと大きく弓なりに反る。

「カズっ!?」

ヒロは椅子を蹴倒してベッドの傍に寄ると、片手でカズの手を握り、もう片手でナースコールのボタンを押した。

最後の発作は、ついに始まった。



駆け付けた主治医の手で、点滴の管に、強力な鎮痛、鎮静薬剤の管が繋げられた。

痛みを抑える、ただし猛毒にも為り得る薬が体内を巡り、カズは楽になったように表情を和らげる。

ぼうっとした、気だるい心地良さの中、カズはおずおずと口を開く。

「ねぇ…ヒロ…」

「何だ?」

ベッドのすぐ脇に立っていたヒロが大きく身を乗り出すと、はにかんだ笑みを浮かべたカズが訴える。

「頭…、撫でて…くれない?」

頷いたヒロは、すっかり毛艶が悪くなり、発作を繰り返す内に白い物が混じってしまったカズの頭に、そっと、大きな手を

乗せる。

「はぁ…。あった…かい、なぁ…。ヒロの…手…」

幸せそうに、心地良さそうに微笑み、カズは目を細める。

「大きくて…、柔らかくて…、やさし…くて…、良い…気持ち…」

泣き叫びたい気持ちを堪え、ヒロはそっと手を動かし、労うようにカズの頭を撫でる。

「ねぇ、ヒロ…」

「うん…?」

主治医と看護師が無言で見守る中、狐は気持ち良さそうに口元を綻ばせながら大虎に話しかけた。

「いい人…見つけたら…、私なんかに、気を遣っちゃ…、だめだよぉ…」

「…そんな事…、今はどうでも…」

「約束…、してよぉ…」

ヒロの言葉を遮り、カズは眉根を寄せて訴えた。

「…ああ…」

そんな事を今考える事はできなかったが、意見を突っぱねてもカズを困らせるだけだと思い、ヒロはしぶしぶ頷いた。

嬉しそうに微笑み、カズはゆっくりと言葉を続ける。

「ヒロぉ…。もう、私は起こして…あげられないんだ…から…寝坊しちゃ…いけないよ…」

「…うん…」

「部屋も…きちんと…、掃除…するんだよぉ…」

「う…ん」

「ちゃ〜んと…、栄養バランス…考えて、食べなきゃ…、ダメだ…よぉ…」

「う…んっ…!」

「いつまでも…、良い先生で、居てねぇ…」

「…んっ、頑張って…みる…!」

「隠さないで…、恥かしがらないで…、私にくれた…優しさを…、皆にも、あげて…」

「…ん…。…うん…」

「私みたいな…、生徒が居たら…、力に、なって…あげて…。きっと、不安な…はず…」

「…ああ、約束する…」

「変わってるって事は…、異端なんじゃない…、その人の…個性なんだから…」

「…うん…」

「ヒロがだらしないのも…、ずぼらなのも…、おデブさんなのも…、みんな、みんなぁ…、私が大好きな…、個性だよぉ…」

「ははは…、有り難うよ…」

無理に笑おうとして失敗し、ヒロは泣き顔になる。

「そんな顔ぉ〜…しないでよぉ〜…。ほら、笑って…、わらっ…てぇ…」

薬の効果で薄れ始めた意識の中、カズは、最高の親友にして最愛の恋人に、少年のような笑みを浮かべてみせた。

「私は…、ヒロのそんな顔…見たく、ない、なぁ…」

ヒロは、泣き出したいのをグッと堪え、

「こ、こう、か…?」

カズに、精一杯の笑顔を向けた。

「う…ん…。そう…!」

カズが大好きだった、目が無くなってしまうほどに細められた、柔和な笑みを…。

「あ〜…。桜も…、ヒロの笑い顔も…見れたなぁ…。満足、満足…」

微笑んだカズは、浅く、遅くなり始めた息の間から、愛しい恋人へ言葉を贈る。

「ヒロぉ…。ありが…とう…ねぇ…」

カズはゆっくり、しかししっかりした動きで、点滴が刺された左手を伸ばし、ヒロのたるんだ顎に下から触れる。

「俺っ…、俺の方、こそ…、有り難うな、カズ…!」

瞑られているように細くなったヒロの目から、堪え切れなくなった涙がポロポロと零れ落ち、顎を伝ってカズの手を濡らす。

「私、頑張った…よねぇ?ヒロ…」

「ああ…」

「もう…、休んでも、許して…くれる…?」

すぅっと、静かに目を閉じて尋ねたカズに、ヒロは衝動的に言いたくなった言葉をグッと堪えた。

「逝くな!俺を置いて逝くな!俺を一人にするな!」

思いの丈を込めて吐き出したいその言葉は、これから眠りにつくカズを苦しませるだけだと理解できていたから。

言葉を無理矢理飲み下し、ヒロは無言で、ゆっくりと頷いた。

大虎が頷いた事を触れていた手で感じ、カズは「はぁ〜っ…」と、長く息を吐き出した。。

弱り切ったこの心臓が最期の一打ちを終えるその時まで、最愛の人が傍に居てくれる。

その事で安心できるのか、不安も、恐怖も、自分でも不思議な程に、まったく感じなかった。

ただ一つだけ気に病んでいる事は、自分が居なくなる事で、ヒロを哀しませてしまう事。

(どうか、私との想い出に囚われる事無く、幸せになってね?ヒロ…)

純粋な祈りと願いを胸に、カズは愛する者に別れの言葉を告げる。

「それ…じゃ…ね…。…おや…す、みぃ…、ヒロぉ…」

穏やかな笑みを浮かべて言った次の瞬間、カズの手はかくんと力を失い、ヒロの顎から離れた。

落ちかけたその手を咄嗟に掴んだヒロは、涙で良く見えない目を細めたまま、大きく、一度頷く。

「ああ、ゆっくりお休み…、カズ…」

ため息のような最期の吐息を漏らし、それっきり動かなくなったカズの胸に、ゆっくり、そっと、優しく、力を失ったか細

い手を乗せてやると、ヒロは大きくしゃくり上げた。

バイタルサインを表示している、弱々しく乱れていた線が穏やかな直線に変化し、主治医がモニターを切る。

確認作業の邪魔にならないよう、そっと後ろ向きに三歩後退した大虎は、穏やかに微笑んでいる、カズの安らかな顔を見つ

める。

「うっ…。ぐっ…うっ…、んぐぅぅううっ…!」

そして、肩を小刻みに震わせ、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、低い嗚咽を漏らし始めた。

涙を零しながらにはなってしまったが、カズが好きだと言ってくれた笑顔で、ヒロは、最愛の恋人の最期を看取ってやる事

ができた…。



広大な敷地に校舎群が立ち並ぶ、とある学校の裏手側。

学校の裏手から山へと続く桜の並木道、その最も手前の桜の下に、丸っこいフォルムの大柄な虎は、一人で佇んでいた。

「また、桜が咲く季節になったよ。今年は少しばかり早めだったなぁ…」

でっぷりと肥えた大虎は、眠たそうにも見える細い目で、頭上で咲き乱れる薄桃色の桜の花を見上げる。

前をだらしなく開けて着た、よれよれの白衣のポケットに両手を突っ込んで。

「…十年かぁ…。私も立派な中年になるわけだなぁ。ははは、この腹を見なよ」

苦笑を浮かべ、白衣のポケットに突っ込んでいた右手を出して、樽でも飲み込んだような腹をポンと叩く。

たぷんと揺れた、ワイシャツのボタンが飛びそうな程に生地を引き伸ばす腹は、以前よりもずっと脂肪がつき、さらに迫り

出してしまっている。

カズが穏やかに眠りについたあの日から、十年の歳月が流れた。

約束があったから、辛くとも踏ん張って来られた。

想い出が支えとなって、哀しくとも優しくなれた。

そうしてヒロは歩み続け、彼が望んだ通りに、温厚な人柄で生徒に慕われる、理解ある教師になった。

いつもむっつり不機嫌そうにしている、しかめっ面の先生というイメージが定着していた以前のヒロを知る者は、その大き

く変わった印象に、まず首を傾げる。

整理整頓にだらしないのも、着る物に無頓着なのも、食生活がずぼらなのも変わってはいない。

印象が大きく変わった理由は二つ。視力が落ちて眼鏡をかけるようになった事。

そして、その優しさを隠さず、誰にでも分け隔て無く向けられるようになった事。

照れて隠さずに、誰にでもその優しさで接して欲しい。それは、カズが強く望んでいた事…。

「花は咲き、そして散っていく…か…」

細めた目で桜を見上げたまま、ヒロはかつて恋人が言っていた言葉を呟く。

人も草木も山々も、変わらないものなど何一つ無い。

散ってしまうからこそ、失われてしまうからこそ、変わっていってしまうからこそ、掛け替えのない、大切な今を慈しもう…。

あの日、一緒に葉桜を見上げながらカズが言った言葉は、十年以上が経った今もなお、ヒロの中で息づいている。

皮肉にも、彼の遺志に応えようとするその「想い」だけは、心に刻んだ言葉とは裏腹に「変わらないもの」だった。

「トラ先生ーっ!」

後ろから響いて来た教え子の声に、ヒロはゆっくりと首を巡らせる。

学生服をビシッと着こなした、生真面目そうな狐の少年が、学校の裏門を抜け、足早にヒロの元へと歩み寄る。

「探しましたよ先生?まさかこんな所でぼーっとしてるなんて思いませんでしたから」

ハキハキと喋る眼鏡をかけた若い狐は、不満そうな表情を浮かべてヒロの顔を見上げた。

「そろそろ新入生のホームルームが終わります。部員の勧誘するんでしょう?」

ヒロの顔を見上げながら急かすように続けた狐は、ふと、何かを不思議がるような表情を浮かべた。

「どうかなさったんですか?先生…」

(鋭いなぁ、この子は…)

物思いに耽っていた事を見抜かれたヒロは、微かに苦笑いする。

そして、ふとある事を思いついて、訝しげに首を捻っている狐の少年に尋ねてみた。

「君は、桜は好きかい?」

唐突に何を聞くんだろうこの先生は?そんな顔でヒロを見つめた狐は、少し考えてから口を開く。

「あまり好きじゃないです。狂ったみたいに一斉に咲いて、一気に散る…。なんだか…」

皆まで言わず、少年は口を閉ざして桜を見上げる。

「何だか寂しい。…かな?」

ヒロの言葉に、少年は少し考えるように間を置いてから、小さく頷いた。

「…たぶん、そうなんだと思います」

ヒロは優しく微笑みながら、大きく二度頷いた。

「昔の私と同じだなぁ」

どこか面白がっているように言ったヒロに、狐は眼鏡の奥の目を少し見開く。

「昔の…先生と…?」

ゆっくり頷く事で応じたヒロは、再び桜を見上げた。

「私もなぁ、以前は桜があまり好きじゃあなかったんだ」

「今は好きなんですか?」

「んん〜…?」

ヒロは瞑っているように見えるほどに目を細め、それからぽつりと言った。

「…正直なところ、良く判らんなぁ…」

「なんですか?それ…」

不思議そうに首を傾げる少年に笑いかけると、ヒロは桜を一瞥し、そのゴツゴツした幹を、手の平でポンと、軽く叩いた。

まるで、親しい友人に「またな」と挨拶でもするような、そんな親しみを込めて。

それに応えるように、一枚の花びらが、ヒロの鼻の上にひらりと舞い降りて止まった。

ヒロが目を寄せて見つめる前で、桜の花びらはふわっと風に舞い、くるりと小さく円を描いた後に、何処へともなく飛び去っ

て行く。

微笑みを浮かべたまま花びらの行方をしばらく見守った後、桜に背を向け、ゆっくりと歩き出したヒロは、

「まぁ、昔より好きになったのは、確かかなぁ」

と、斜め後ろをトコトコとついてくる教え子に、のんびりとした口調で言った。

「桜に何か、特別な思い入れが?」

少し興味を持った様子で、しかしそれを悟られまいとでもするかのように、少年はそっけなく尋ねる。

でっぷり肥えた体を、えっちらおっちら大儀そうに前に進めつつ、ヒロは微笑を浮かべながら、以前、恋人が口にしていた

言葉を語り出す。

「昔なぁ、私が桜は好きじゃないと言ったら、こう言ったヤツが居たんだ…」

穏やかな口調で話しながら、ゆっくり、ゆっくりと遠ざかってゆくヒロと、その斜め後ろを同じペースで歩みながら、師の

言葉に耳を傾けている教え子を、風に花びらを散らせながら、桜の木は、優しく見送っていた。

                                                                                      おまけ